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オマケ-黒埼と綾人

「おい、佐倉さん」


 底なしの闇に落下していた綾人はその呼び声を頼りに浮上した。

 束の間の悪夢から解放されて、目を開き、自分の顔を覗き込んでいる男をぼんやり見つめた。


「……黒埼さ、ん」

「魘されてたぞ。大丈夫か?」


 たった今自宅に帰ってきたばかりの黒埼からは煙草の匂いがした。

 夜に溶け込みやすい黒の上下から、本人から、香っている。


 毛布から這い出た綾人は寝惚け眼のまま自分を呼んでくれた男に抱きついた。





 黒埼の自宅は事務所から程近い雑居ビル三階の一室だった。

 事務所より部屋数はあるが内装はそう変わらない、なんとも味気ないコンクリートに囲まれた住処。


 事務所お古の革張りソファに綾人と黒埼は並んで座っていた。

 すでに昨日から今日に変わって一時間以上が経過した、夜更け。


 重たい毛布に包まった綾人は淹れてもらったばかりのブラックコーヒーを飲む。


「苦いですね」

「砂糖もミルクも入れてねぇからな」

「丁度いいです」

「眠れなくなるぞ」

「……眠りたくないので」


 今、また眠りに落ちれば悪夢の続きを見てしまいそうな気がした。


 暖房と加湿器の絶え間ない振動音に割りと近くから聞こえてくるサイレンが重なった。

 綾人はカップで掌も温めながら眼鏡越しに天井際の塗装が少し剥げ落ちている壁を見つめる。


 誰だって悪夢に遭遇することはある。

 綾人の場合、遭遇すると、唯一の肉親である兄を連想する癖があった。


 多額の借金を連帯保証人の弟に押しつけて自己破産に導いた、今現在、行方知れずの兄。


 生存は確認していないが、恐らくどこかで別々に生きているはずの父と母は、両親と呼ぶにも違和感のある他人同然の存在で。


「……黒埼さんってご両親は?」


 肘掛と背もたれの狭間に背中を埋めて長い足を伸ばしていた黒埼は小さく笑った。

 革靴で床をこつこつ鳴らして「初めて聞いたな、佐倉さん?」と煙草片手に紫煙を紡ぐ。


「俺には父一人母一人、六華には父一人母二人、だ」

「?」

「結婚と離婚が趣味の親父でな。今は三人目の嫁と暮らしてる」


 黒埼も一重の鋭い双眸を何となく壁に向けた。


「最初の離婚で俺はおふくろについていった」

「六華さんはお父さんに?」

「ああ……」


 正確に言うならば母親が六華を拒絶した。


 浮気癖のある夫を引き留めたいがために腹に身ごもった第二の子供。

 それなのに、産み落としても、夫の浮気は止まらない。

 仕舞いには再婚するための離婚を切り出された。


 それならばもう用はないと大嫌いになった男に六華を押しつけた。


 実家の部屋に引き籠もった彼女を残して、黒埼は、一人で生活することを決めた。

 身勝手な大人との決別を。

 いつか弟の六華と暮らせるよう独り立ちを目指した。


 結果、非合法な世界へ足を突っ込んだわけである。


 黒埼は綺麗に磨かれていた灰皿に吸殻を落とした。

 二本目を吸おうとして、やめ、背もたれに踏ん反り返る。


「六華さん、黒埼さんのこと大好きですよね」

「ガキの頃は俺のバッグになるとか言ってたな」

「私も黒埼さんの弟になりたかったです」


 ぶはっっ


 普段、意外とよく笑う黒埼だが、噎せるのは珍しい。

 彼は勢いよく上体を起き上がらせると、肩から分厚い毛布をだらんと羽織って隣に座る綾人を見やった。


「六華さんを見ていると、たまに思うんです」


 綾人は暖をとっていたコーヒーカップをテーブルに置いた。

 まだ仄かな湯気が頼りなく漂う。


「羨ましいって」

「……俺は御免だぞ、あんたが弟になるなんて」


 綾人は瞬きした。

 白けた蛍光灯の明かりの元、端整な顔がふと強張りを。


「……そうですよね」

「ん?」

「こんな私……六華さんみたいにさばけないし、とろくて……こんな弟、嫌ですよね」

「……おいおい」

「六華さんと比べたら判断力も劣りますし……」

「そういう意味で言ったんじゃねぇよ」


 綾人は強張った顔のまま黒埼をちらりと窺った。


 出会った頃に際立っていた、どこか嗜虐心を煽る厭世的な翳りはすっかり消え失せている。

 一日一日を踏み締める者の生気に満ちている。


「弟だったら抱けねぇだろ」


 黒埼の真っ当な発言に綾人の頬はみるみる紅潮していった。

 目の前の肌色の移ろいに黒埼は思わず視線を奪われる。


 いつの間にかサイレンは鳴り止んでいた。






 綾人はまだ眠っていた。

 用事があるため身支度を済ませた黒埼は念入りに暖めた部屋の中、欠かせない加湿器の水をたっぷり足して、静音になっているかどうか確認すると。

 裸身のまま革張りソファの上で毛布に丸まっている綾人の寝顔も確認した。


 服を着せてやってもいいのだが起こしてしまうのは憚られ、結局、毛布をかけるまでに留めておいた。

 冷蔵庫には今日一日分の食料も詰まっていたし、ミネラルウォーターのストックもあったし、わざわざ寒い外に出る必要はない、ここでゆっくりしていられるだろう。


「おやすみ」


 整った寝顔に向けてそう小さく呟き、サングラスをかけた黒埼は通路に面するドアへ向かう。


「……行ってらっしゃい」


 ドアノブを掴んだまま肩越しに振り返ると綾人と目が合った。




 貴方になら。

 お前になら。

 どこまで落ちようとも構わない。




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