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10-佐倉綾人

『堕ちたところで息はできますから』


 見知らぬ男に弄ばれてきた彼はそう言った。

 彼は金のためにその身を差し出し、どぎつい欲望を剥き出しにされたひと時を軽薄なホテルの部屋で過ごしてきたばかりだった。


 厭世的(えんせいてき)な濃い(かげ)りを纏い、どこかストイックな雰囲気。

 性的な飢えをとことん絞り出したくなる彼の名前は佐倉綾人(さくらあやひと)といった。


『妻にそんな真似させられるわけないでしょう』


 かつて綾人には正式な伴侶がいた。

 妻であった女は彼に黙って闇金業者から金を借り、借入を重ね、返済は直ちに(とどこお)った。

 彼女の借金問題を解決しようと、ただでさえ自己破産して切り詰めた日々を過ごしていた綾人は、闇金業者である黒埼凌(くろさきりょう)の元を訪れて宣言した。


『何でもやります。覚悟はできています』


 かつて実兄の連帯保証人となり、肝心の兄はその後行方知れずになっていた。

 唯一の身内だった人間に裏切られ、多額の債務を背負わされて自己破産の道を辿った男は、切れ長な瞳に嗜虐心(しぎゃくしん)(あお)る虚ろな色香を我知らず宿していた。


 黒埼は不憫な人生を歩んできた債務者を最大限に有効に使う道を選んだ。


『ではご主人に体を売っていただきましょうか』


 綾人は従った。

 後に一言の相談もなく妻に去られ、残されていた離婚届にサインして提出し、それでも彼女の負の遺産を片付けるため見知らぬ男達に体を明け渡し、元金および利息をきっちり返済した。


『俺が最後の客だ』


 最後に綾人が体を売った相手は黒埼だった。


『……こうなるのは、本当、初めてで……』


 これまでの客相手では不慣れな行為と痛みに()えていた綾人。

 黒埼に抱かれた夜、初めて絶頂に溺れた。

 黒埼も黒埼で初めての飢えに突き動かされて綾人を求めた。


『明日も明後日も来週も来月も。あんたをイかせてやる』


 黒埼は綾人を自分のそばにおくようにした。

 雇い、しかも住む場所まで提供した。

 事務所から程近い雑居ビル三階の一室。

 事務所より部屋数はあるが味気ない内装は変わらない、コンクリートに囲まれた殺風景な住処。

 黒埼の自宅だった。



 ■ ■ ■



 紫煙で煙る違法貸金業の事務所。

 真昼だというのに深夜のような気だるさが漂っている。


「ごちそうさまでした」


 鬱々(うつうつ)とした気だるさなどどこ吹く風で、手作りのお弁当をデスクで完食した綾人は律儀に一人合掌した。


 事務員として働くようになって、来客応対や顧客データの管理、門外不出で入手困難であるはずの個人情報を日々パソコンに打ち込んでいる。

 真面目な綾人は何ら疑問に思うでもなく正に無心で従事していた。


 綾人の雇用主である黒埼は、現在、革張りのソファで仰向けになって昼寝していた。

 正面のガラステーブルには綾人と色違いのお弁当ケースが空になって置かれている。


 綾人は今、黒埼と一緒に暮らしている。


 二つのお弁当ケースを壁際の流し台でざっと水洗いして立てかけ、綾人は、ソファで眠る黒埼を覗き込んだ。

 本人は寝るつもりなどなかったのか。

 かけたままのサングラスが鼻先にずれ落ちていた。

 目を瞑っていると普段の鋭さが少し和らいで実は睫毛が長いことが判明する。


 綾人の視線の先でおもむろにその瞼が持ち上がった。


「ああ……寝てたのか」


 ダークスーツ姿の黒埼は、まるで黒豹さながらにのっそりと身を起こした。


「お疲れのようですね」

「そうだな、昨日はオヤジの歓楽街巡りに付き合わされちまったから」

「お父様、元気でいらしたんですか?」

「実の親父じゃないんだが。まぁ、(じょう)全員にお触りするくらい元気ではあったな」


 首やら腕やら関節を盛大に鳴らす黒埼に綾人は申し出る。


「黒埼さん、もしよければ肩を揉みましょうか」


 ソファの後ろに回った綾人は頼り甲斐のある広い肩を五分ほど揉んでやった。


「どうも。あんた、なかなかうまいんだな、佐倉さん」

「以前、中華料理店で皿洗いのバイトをしていた時に。料理人さん達の肩揉みを少しばかり」

「へぇ。あんた本当に色んなことやってたんだな」

「清掃会社でバイトをしていた時も古参の方々に」

「おばちゃん連中か」


 綾人は壁の時計を見、午後の業務を開始させるためデスクに戻ろうとした。

 黒埼はその手首をすかさず掴んだ。


「今度は俺がしてやる」

「え? あ……っ」


 黒埼は去りかけた綾人を力任せにソファの上へと引き摺り込んだ。

 やや強引な動作に片方の靴が脱げた綾人は、次の瞬間には、黒埼の腕の中にいた。


「あ、あの……弟さんが戻ってきます」

「スケべなコトするわけじゃねぇ、肩揉みだ。それとも佐倉さんはソッチをご所望か」

「ち、違います」


 真っ赤になった綾人に黒埼は口角を片方持ち上げて笑う。

 薄い黒のサングラスをかけ直し、落ちそうになっていた銀縁眼鏡の位置も正してやると、綾人の向きをぐるりと変えた。


 裸にすればふるいつきたくなる細身の体に、手を伸ばす。

 礼儀正しく身に纏っているスーツ越しにぐっと肩を掴んだ。


「あっ」


 靴が脱げた片足の着地点に迷っていた綾人は力強い掌に思わず声を上げた。


「悪い、痛かったか」

「あ、いえ……大丈夫です」

「やっぱり凝ってるな」

「そうですか?」

「ガチガチだぞ」


 大きな掌がじっくり肩を揉む。

 今まで人に肩揉みしてきた側の綾人は慣れない感覚に辟易(へきえき)した。




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