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憧れの存在(1/2)

 十一月一日にあるキリスト教の「諸聖人の日」の前夜祭とされる日には悪霊の仲間に見せて身を守るための仮装をし、玄関先で「トリック・オア・トリート」と仮装した人間が声を上げる。そしてその言葉を言われた家主は「ハッピーハロウィン」と言ってそいつに菓子をやる。

 そう、今日はハロウィンとやら日……というわけではなく、その前々日の放課後。

 僕は早く帰って一週間の疲れを癒したいというのに、ギルに引き止められて、今も頬杖をついて会話を聞き流している。

 十月下旬。ある平日の放課後。

「よくぞ集まってくれた諸君」

 手を組んで改まったようにしているが、どうせろくなものじゃない。

「……ゴクリ。これからなにが始まるというのだギル!」

「ふっふっふ。これから……ハロウィンパーティーの計画を立てまーす!」

「ふぅー!」

 なお、芝居じみたセリフで盛り上がっているのはギルと下条だけの様子。まだ教室に人もいるのに大きな声を出すな。

 放課後の教室に集められたのは下条の他に僕とケイ、そして総務らしい。わざわざ五つの机を向かい合うように引っ付けて座っている。

 帰ろうとしたら僕の鞄を奪い取られ、それなら暇つぶしに小説を読もうとしたら隠され、僕の機嫌はそこそこ悪い。それを察したのか、それ以上なにもしてこなくなったものの、やはり帰らせてくれることはないみたいだ。

「まず、計画を立てるにあたって、当日はみんな空いてる?」

 空いてるかもわかっていなかったのに立てようとしたのか。下準備がなってなさすぎる。

「れーくんは空いてるとして……」

 おい。

「一番不安なの総務さんなんだけど、どう?」

 どう不安に思っているのだろうか。

「……ちょっと確認してみるね」

 廊下へと移動しながらスマホをポケットから出し、廊下に出たらなぜか教室の前から姿を消す。その場で確認したらいいものの。どこへ言ったのだろう。聞かれてまずい話をするわけでもないだろうに。

 そんな総務をよそに、予定確認は済ませたらしく、どんなことをするか案を出していく。ギルは机の中から紙を取り出し、スラスラとペンを走らせる。

 意外にもケイが少し乗り気だ。こういうものは興味ないと思っていた。

「れーくんはなにか案あ……る……」

 僕の顔を見るなり、あははと笑ってごまかす。こんな顔にさせたのはギル自身だ。後悔でもしておけ。

 机に伏せた。帰りたい。

 ……けど、帰りたくない。

 あれこれと提案する会話をBGMにして眠気に浸っていた頃、総務が帰ってきた。出ていく前とはずいぶん顔を曇らせて。

「あ、総務さんおかえり! どうだった?」

「う、うん。……だ、だい……」

 声が途絶えて不思議に思う。ギルもわかりやすく首をかしげる。

「ご、ごめん。もう一回確認してくる」

 さっき座ったばかりなのに、また教室を出ていってしまった。

 もう一度確認を取るあたり、さっきの確認では予定が空いていなかったみたいだな。もしくは……。

「総務さんいけるかな……」

「……ギルは特に総務のことを不安に思っていたみたいだが、なにか心当たりがあるのか」

「うん。総務さんいつも予定空いてないってイメージあるし、実際放課後に急に俺が遊びに誘ったら予定あるって言って帰っちゃうから。理由聞いてもあんまり答えたくなさそうだし」

 僕の考えていることは図星なのかもしれない。

 次に帰ってきたときには、さっきよりも顔を晴らしていたが、それでもなにか霧のようなモヤがかかったような顔をしていた。

 あまり、こういう表情の人を見るのは好きではない。

「総務さん……どう?」

「うん。行けるようになったよ。ごめんね」

「ううん! こっちこそごめんね、無理に予定入れちゃって」

「べ、べつに予定が入ってたわけじゃないから大丈夫」

 もし予定があったにも関わらず、ギルが無理にハロウィンの予定を入れようとしていたのなら流石に口を挟む。

「総務さんはなにかしたいとかある?」

「僕は……えっと……特にないから、みんなが楽しめるものならなんでもいいかな」

「総務さんらしいね!」

 それにしても、本当に気に食わない。人の顔色をうかがうような態度ばかりを取る総務が。

「うーん。……あ、そうだ! 脱出ゲームとかどう? ハロウィンっぽくない?」

「それならお化け屋敷のほうがハロウィンっぽいだろ! しかも今の時期だから、ホラー感増し増しだと思うぞ!」

「お、お化け屋敷は……ちょっと」

 夏祭りの時にあれほど怖がっていたんだ。怖さが増したお化け屋敷なんかにギルが入れるわけがない。入れたところで次は出られなくなってしまう。腰を抜かして。

「ならホラー映画だな!」

「えっ」

 ギルが明らかに嫌そうな声を出す。ホラー映画は普段見ないから、どんなものか少し気になる。

「ホラー映画もちょっと……。俺怖いの嫌だよ……怖いもん」

 ホラーだからな。怖いのは当然だ。

「真也くん以外にホラー映画見たい人っているの? いなかったら見るのやめよ? ね?」

「……俺気になるかも」

「敬助くん……。そっか。敬助くんは俺を裏切るんだね。そっかそっか、敬助くんはそういう人だったんだね」

 演技染みて言う。べつに裏切ったわけではないだろ。……それに有名な小説のセリフみたいに言うのやめろ。ケイも真に受けて少し落ち込んでいるじゃないか。

 ケイはホラー映画は見れるのだろうか。僕はものによるが基本的には見れるつもりでいる。見たことがないからわからないが。

「やっぱりさ、ホラーはさ、ハロウィンとは違うじゃん?」

 まさしくだと思うが。

「ぼ、僕もあんまり得意じゃないかな……」

「総務さんっ! 仲間いた! よし、二対〇でホラー映画は見ない、はい決定!」

 二人くらいいた気がするが。

 下条は少し残念そうに、ケイは笑っていた。変わらず総務はうわべな笑顔を見せる。……気に食わない。

「他なにがいいかなー」

 僕はもう解散でいいと思うんだが。あくびをしながら思う。

 このあとも計画決めは続けられた。わざわざ学校で決めなくてもいいだろとか思いながら終わるのを待つ。そもそも参加はあまり乗り気ではないんだが。そんな面倒なこと。

 待つ間、ずっと総務のことばかり気にしていた。気にしていたというよりは気になって仕方がなかった。総務と会ってずいぶん経つが、これほど気になったことはなかった。最近酷くなった気がする。顔色をうかがう言動が。けど、原因には目星がついている。どうせどんな原因も同一の立場の人間から発生している。

「…………」

 故意にじっとケイと目を合わせる。もちろん不思議そうにされる。

「……トイレに行ってくる」

「はーい。でも帰っちゃ駄目だからね」

「……あ、なら俺見張りでついていくよ」

「敬助くん気が利くー! ちゃんと見張っててね」

 教室を出ればケイが隣を歩く。なにも話しかけることなく黙ってついてきてくれる。

 けどその沈黙も、屋上への道が一本道になったときに破られた。転校したばかりでも屋上へ入ってはいけないことを知っているらしい。

「この先屋上だぞ?」

「知っている」

「…………」

 きっと、この時間なら綺麗なものが見られる。

 屋上への階段を上って、扉を開ける。ケイは初めてこの扉をくぐるらしく、少し戸惑っている様子だった。それでも僕はケイにその扉をくぐるよう促す。

 やはり、時間ばっちり。綺麗な夕日が見える。ここへ来るのは、文化祭以来だ。文化祭の準備のときやギルが店番のときにここへ来た。僕のような不真面目はやはりこの学校にもいるらしく、何人か見かけた。けど、やはりどんな人も深い心の傷を負った者だけのように思えた。

「綺麗だな」

「……なんで俺はここに連れて来られたんだ?」

 壁にもたれて、しゃがみ込む。ここまで来るのに歩いたから少し疲れた。

「総務について、なにか知ってることはあるか」

「……は? 特にないけど。それに九月からここに来た俺より、四月からいる蓮のほうが知ってるだろ」

「……そうだな」

 僕の勘違いだろうか。

 ケイも足が疲れたのか、隣にしゃがみ込む。いい具合にケイの影になって眩しくなくなる。

「総務を見て、なんとも思わないか」

「……なにも? けど、強いて言うなら最近というより少し前から自己主張しなくなった……気がする。修学旅行の班とか決めるときに班長になったものの、それ以外どれも他人任せだ」

「……それが聞きたかった」

 もう少しだけ時間を潰して戻ろう。なんたってあの計画決めは、あの浮かぶ夕日が落ちる頃までかかりそうだ。特にギルが司会となるのならなおさら。

「……ケイは今回のハロウィン遊びに参加するみたいだな」

「まあ。誘ってくれたし。……友だちって存在に浮かれてるだけかもしれないけど」

「……いいじゃないか。僕以外に話し相手がいるのならそれで。ケイが僕以外に話し相手がいないかわいそうな奴なら、必然的に僕にしか話しかけてこなくなる。結果的に必要以上に僕が口を開けるという面倒なことをしなければなくなる。そんなことがないなら、いいじゃないか」

「どれだけ面倒臭がりなんだよ」

 好きで面倒臭がっているわけではない。

 でも、とケイは続ける。

「そんなかわいそうな奴の役が蓮に回ってこなくてよかった。蓮が笑ってくれる日が来てよかった。昔のままじゃなくてよかった」

 安堵を交えた声で、僕の体に腕を回しながら言う。昔のまま……か。僕も、なんとなくそう思える。あの地獄から抜け出せて、本当に。

 だから、今度はあの地獄から抜け出させる。

 ケイの腕を体から解き、立ち上がる。もうそろそろ戻らなければ、心配してきそうだ。

「ありがとう。戻ろうか」


 今宵は、十一月一日にあるキリスト教の「諸聖人の日」の前夜祭とされる日。

 そして、計画を実行する日。

 今日の大まかな流れはこうだ。十時半頃に初めの計画実行場所、つまり集合場所である映画館へ集合し、映画を見る。鑑賞後、予約している飲食店で昼食を取る。

 外で行う計画はそれだけで、残りは全部ギルの家で行われる。が、一度荷物を整理するために個々の家に帰る。そのあと各家、ケイや総務は近くまで来てもらい、ギルが出向いて引っ張り出し、家まで連れて来る。今日はそんな流れだ。

「よーししゅっぱーつ!」

「いってらっしゃい」

「いってきまーす!」

 ギルの父親に軽く頭を下げ、ギルの隣に付いた。

 僕とギルは家が近いから一緒に行くことになったが、他の下条や総務、ケイは近いというわけでもないから一緒に行くことはない。

 ギルに二人分の切符を買ってもらい、電車に乗る。いつも買わせてしまっている。

 休日な事もあって車内は人が多く、少し頭が痛い。クラクラする。ギルはその綺麗な瞳でそれを見透かしているのか、ずっと僕の腕を│つかんで離さない。

 目的の駅に着くまでずっと人混みは絶えず、息苦しい思いをしていた。駅に着いてホームに出た瞬間に浴びた空気は、緑の近くでもないのに澄んでいた。

 それでも視界が狭くどこに向かっているのかもわからないまま、息苦しい思いをしながらギルに腕を引かれて歩く。息が苦しい……。早く道が開けてくれ……。

 ギルはこういった場所に抵抗はないのだろうか。いつもこんなところを難なく通っているのだろうか。僕は一生通りたくない。

 改札を通ったあとは道が広がっていて、息が苦しくなることはなくなった。それでもまだ頭痛や頭がクラクラし、それに気づかれたからには人の少ないところで休ませてくれた。近くのコンビニまで行ってお茶も買ってくれる。

「……悪い」

「ううん、いいよ。俺が無理やり連れてきたみたいなところあるし。それにしてもれーくんほんとに人多いの無理だよね。ずぅっと昔から。年齢上がるごとに許容範囲は広がってる気がするけど」

「……人が多いところではすごく体力を使う。けど僕もよくわかっていない」

 体に落ち着きを見せたら立ち上がって、行動できる意志を見せる。人を待たせているから長くこうしてはいられない。

 映画館は休ませてもらった場所から数分歩いた場所にあった。集合場所はその映画館の前にある植木の下。着けば一人の影が見える。一番乗りは下条らしい。

「おー! やっときたか。ずっと俺一人だったんだぞ!」

「あははごめんね、遅くなっちゃった」

 そうは言ってもまだ集合時間にもなっていない。あと五分後になる。

 少し肌寒い風を浴びながら残りの二人を待つ。ケイはなんとなく遅刻してきそうだが、総務はもうそろそろ来るだろう。総務は真面目だからな。

 そう思っていたが予想は外れて、ケイが先に来た。そして着くなり、僕の腕を引いてギルと下条から離れる。僕もわけがわからず、ただついていく。

 確実に二人に声が聞こえないだろうと思われる距離まで離れたらケイの口が開く。

「今から見る映画、どんな内容か知ってるか」

「……推理ものと聞いている。なにか問題か」

「……いや、問題じゃないけど……。あんまり見ないほうがいい」

 まるでもう映画を見たような口ぶりだ。

 見ないほうがいいと言うのなら、なんのために僕はここへ来たんだ。そう嘲笑を交えて問うてやりたかったが、あまりにもケイが真剣な顔をするもので、他になにかあるのかと考える。

 もしかしたらこの年齢で見るべきではない内容があるのかもしれない。そしてケイはそれを知らずに見てしまい、今から見ようとしている僕に注意を呼びかけた。……もしそうだとしたらなんで僕だけなんだ。

 この考えはきっと違うな。

「今日三人と二人で分かれて座るだろ。説得して上の段の二人席に座らせるから、途中抜けたほうがいい。……べつに絶対っていうわけじゃないけど、気分悪くなったらすぐ抜けろな」

 気分が悪くなるもの……。いっそうわからない。

 伝えるべきことを言い終えて気が済んだらしいケイは戻ることを促し、構わず戻る。その頃には総務がいる、というわけでもなかった。まだ来ないなんて珍しい。

 もう少し待っていると、総務がやってきた。息を切らせ、ゼーゼーと肩を上下に動かす。走ってきたらしい。お疲れ様だ。

「集合時間十分遅刻! 豊アウトー!」

「……ご、ごめん……ごめんなさい……」

 まだ息を整えられていないのに謝罪をさせる。どうだ下条、今の気持ちは。

「ううんいいよ! 真也くんが遅刻しても大丈夫なように二十分余裕持たせてたから」

 風で分けられた総務の髪を梳かしながら言う。

 ……下条、本当に今どんな気持ちだ。

「ごめんなさい……」

 総務が息を整えられたあと、映画館内に入る。入るなり、チケットの発行なんていう複雑そうな機械の操作をギルと下条に任せる。

 その間に僕らはポップコーンやジュースなどを買った。ポップコーンを一人一つだと多いらしいので二つだけ買う。味はキャラメルと塩だ。ポップコーンは食べたことがないので、どんな味がするのかわからず、隣に座る予定のケイに味は任せ、塩味になる。

 ジュースはそれぞれ好きなものを、ギルと下条の分も買う。僕はホットコーヒーにしようかと思っていたがアイスのものしかなく、仕方なくカフェラテにした。

 ギルたちが帰ってくるまでの間に、ポップコーンをそれぞれつまみ食いし、味を知る。僕的には塩味が好みかもしれない。キャラメルもおいしいが。

 薄い紙を手に持ってギルたちが帰ってくる。頼まれていたジュースもそれぞれ渡す。

「ありがと。はいこれチケット」

 渡されたのは映画名と上映時間、暗号のような文字が書いてある紙だった。ローマ字に数字。どういう意味だろう。

「あ、そうそう。今のうちに座る席決めておこうと思ってて、どう座る?」

 そういえばケイが二人席どうのって言っていたが……。

「それなんだけど、俺と蓮で二人席座ってもいいかなって。背高いし、邪魔になるだろ?」

「悔しいけど確かに……。じゃあ残りの俺と総務さんと真也くんは下だね。どの順番で座る?」

「蓮は俺の右側な」

 面と向き合ってそう言われる。べつにケイのどっち側に座ったっていいんだが、こうも指定されるとわけが聞きたくなる。

 スクリーンが開場したらケイについていって座る。座席の見方は教えてくれなかったが、きっとローマ字と数字の当てはまる席なんだろう。購入した座席でそれぞれで座る位置を決めたのなら、この表示される座席に意味はないだろうが。

 座席はギルの要望通り真ん中あたりの上のほうにある。このスクリーンは真ん中と左右に階段があり、その階段の右側に僕らの席は位置している。階段から一席空いたところに僕が座り、隣にケイが座っている。前にはギル、その左隣に下条、右隣に総務が座った。

 僕の右隣に空席があるが、誰か座るのだろうか。座るのなら、少し気が張るかもしれない。そんなことを思っていたが、なかなか誰かが座る様子はなく、誰も座らないまま室内が少し暗くなる。

 もう始まるのかと思ったが、まだみたいだ。映画を見るにあたっての注意事項、その他広告が流れ始める。スマホの電源は切ったほうがいいらしいので切る。

 始まるまでケイが持つポップコーンをつまんでは口に運ぶ。少し暇になってきた。まだ始まってもいないのに。

 しばらく映画の広告と上映時の注意事項を流し見ていたら、前の三人席に座る一番右側、総務が立ち上がった。立ち上がるなり階段を上っていこうとするが、ギルに止められて思いだしたように戻って口を開ける。流れる広告の音量が大きく、なにを言っているのかは聞こえなかった。

 伝え終えたらしい総務はスマホを握りしめるように持ちながら階段を上がっていった。どうせ親、もしくはその権力を持つ人間からの電話だろう。内容もある程度想像がつく。

 暇なあまり、眠気がしてくる。けどそれをカフェラテで打ち消す。しかし長い。

 まだかまだかと思っていたら、ケイが小さく声を出した。相手は僕らしい。

「さっき言った通り、途中抜けていいからな。もしギルくんたちに気づかれてもごまかしとくから」

 僕はそこまでして気を配る理由が知りたいのだがな。

 総務は会場が暗くなったときに帰ってきた。僕の横を通るときに電源を切り忘れないことだけ言う。上映時にも干渉されるのは鬱陶しい。

 そしてやっと始まる。

 静かにただ一人の青年が街を歩いている。人と肩がぶつかったら謝る姿勢を向けるが、相手は怒鳴る。そんな青年の腕を引く者が現れる。フードで顔は見えない。青年はただ引かれるがままに走る。

 走っていればいずれフードも脱げる。そのフードの下にある顔を見た青年は、なにかを思いだしたように、それが最重要であるかのように瞳が映され、

「っ……」

 いきなり音が大きく鳴るからびっくりした。しかも音というより音楽だ。……少しというよりかなりうるさい……。耳に響く……。

 つい服を握り込んでしまう。それにケイは気づいたらしい。

「どうした?」

 上映の邪魔にならない小さな声。

「……少し音大きくないか」

「そう? けどうるさく感じるならしばらく耳塞いでおいたら?」

「……そうする」

 音楽が止まったら、室内の映像が流れる。そしてさっきの青年はいかにも上層部が座りそうな椅子に座り、フードを被って手を引いていた人、青年と同じくらいの年齢に見える少女は青年の│そばで紙に書かれる羅列を見ている。

『これ、この事務所に送られてきたこの紙、どう思ってるの? フォード』

『……明らかに、犯行声明ですね』

 フォード……。シャーロック・ホームズにかけているんだな。推理ものだからと。仮名であるシェリングフォードに。

『……いいでしょう。この犯行声明、ぼくらの探偵事務所、ホームが解決します』

 犯行声明とやらがアップになる。内容は、

『2月19日 予の事務所

 失われし宝を蘇らせ、真実を奪いに行く

 そしてお前の魂をも』

 というものだ。

 あの事務所でなにか起きるのか?

 しばらく見ていくなか、

『あ……あぁ………………そうだ…………そうだった……』

 過去を思いだすシーンだ。

「…………」

 結局僕は胸を抱えながらケイに連れられてスクリーンから抜けた。

「……大丈夫か」

「…………」

 僕が見るべきでない場面があった。それは僕の過去をほじくり返されることと同じことで、過去の記憶が脳内に映しだされては胸を酷く不快にさせていた。その不快感に息を苦しめられていれば、隣にいたケイに気づかれ、強制退場。

 外の空気を吸わせるためか、外まで連れられた。集合場所になっていた植木を囲っているレンガに腰を下ろされる。

「……もう見るのはやめとけ。きっと蓮に追い打ちをかけてくる」

 本当に、ケイはもう映画の内容を見たようなことを言う。それとも本当に見たのだろうか。

 胸を不快にさせているなか、口になにかを入れるようなことはせず、ただケイに背を撫でられながら外の空気を吸っていた。外の空気以上に効く薬はきっとない。殺されでもしない限り。

 十月の終わりになれば肌寒くなる。実際少し寒い。今日は室内にいることが多いからと、着込むようなことはしてこなかった。こんな外の空気を吸う時間があるとは思わないじゃないか。鼻水が垂れてきそうでズズズと音を立てて吸う。

 けどそうしたとき、いつもケイは自分の着る上着を脱いで、

「寒くない?」

 肩に掛けてくれる。

「ちょうど貸してもらおうかと思っていた」

「ならよかった」

「嘘だ」

「えぇ?」

「ありがとう」

「……どういたしまして」

 しばらくこうしていたら、ケイが持ってきていたポップコーンを食べられるくらいになって、ときどきつまんではケイと世間話をした。僕には映画なんて金のかかるものよりも、こういう時間のほうが好きなんだ。他のどんな金を時間よりも。

 ポップコーンを食べきったら近くのゴミ箱に捨てる。カフェラテも少し冷めてきていたから、そこで飲みきって空になったカップを捨てる。

 ケイはスマホを取り出して時刻を見るので覗き見する。映画が始まって一時間ほど経過している。映画が終わるのにはまだまだ時間があるはずだ。また戻るという選択肢はあるが、もうあそこへは戻りたくない。

「……まだ時間あるけど、どうする?」

「ケイに任せる。このあたりになにがあるのか知らない」

「ここらへんだとショッピングモールとかかな。そのモール内にいろいろあったりする。服屋とか、カフェ、雑貨屋、ゲーセンもある」

「……ケイに任せる」

 そしてケイに任せた結果、ゲームセンターに来た。ごちゃごちゃとしていてうるさい。ケイに任せなければよかったかもしれない。この騒音はあまり好きではない。思わず服を握る。

「……どうかした?」

「……いや。なにも……」

 そう言ったのに、ケイは少し考えるように間を開けて口を開ける。

「もしかして、こういううるさいところ無理?」

「……少し」

「なら、あっちのクレーンゲームのほう行こ。あっちなら静かだから」

 腕を引かれる。ケイはここへ来たことがあるのだろうか。あっちにクレーンゲームがあったなんて気づかなかった。

 クレーンゲームが並ぶ場所はゲームが並ぶ場所より断然静かで、鼓動が落ち着きを見せていく。いつの間にか握っていたケイの服を離す。ついでにケイに貸してもらっていた上着も返した。ここは暖かい。

「蓮はクレーンゲームやったことある?」

 そう言いながら、当然のように財布から抜き取った五千円札を両替機に食わせ、百円玉三十枚と千円札二枚に両替する。千円札は財布に、両替した百円玉は小さいカップに入れていた。

「そんなに百円玉が必要なのか」

「やったことなさそうだな。やり方教えるからちょっとついてきて。……いい台あるかな」

 クレーンゲームという存在自体は知っているが、やったことはない。ギルからもときどきクレーンゲームをやって取れなかったと聞くが、実際どんなものなのかはあまり理解していない。

 ケイの足が止まったのは小さな機械の前だった。ガラスの向こう側には……細く黄色いものが多数に山盛りにされている。なんだこれ。フライドポテトか? 台の左には穴がある。

「こういう山盛りで小さい景品の台はちょっと動かすだけで何個か取れるから達成感があっていいんだ。百円で二回プレイできるみたいだから、一回目俺するからちょっと見てて」

 百円の投入口が下にあってケイはしゃがみ込み、百円を入れる。操作するであろうレバーを握って動かす。そのレバーを右に倒せばガラスの向こう側にある指が三本の手みたいな機械も右に動く。なるほど、連携しているのか。

「下から見たほうがわかりやすいかも」

 そう言われるので僕もしゃがむ。

「このレバーで動かして、このボタンで掴む。押してみ?」

 急に機械の操作のバトンが渡されて鼓動を鳴らす。押すだけで……いいんだよな。

 ピカピカと光るボタンを押す。押せば愉快なBGMとともに手みたいな機械が下がって、下までいけば指が閉じる。その反動でポテトがいくつか穴に落ちた。そのあと、閉じたまま持ち上げられたときにも落ちる。

「これがだいたいの操作方法。たまに全部ボタンの台があったり、こういうアームじゃない、特殊な台があったりするけど、どれも操作順は書いてるからそれ通りにすれば操作ができるさ。

 それでさっきポテトが穴に落ちただろ? そしたらここの取り出し口に落ちた分のポテトがある。これが景品になるんだ。あともう一回できるから、ちょっとやってみて」

 ケイが少しズレてくれるのでレバーの前まで移動する。レバーを操作するあたり、ゲームをしているみたいだ。……いや、クレーン「ゲーム」という名前ならゲームか。

 ケイがやっていたようにしては、景品が落ちる。百円でこれほど取れるのは確かに達成感があって楽しいかもしれない。

「うまく取れたな。じゃあ取り出し口から景品取ってくれる? 腕挟まないようにな」

 透明な板を押して取れるようになるので、手を伸ばして全部取る。七本のポテトが、取れたらしい。

「どう、面白い?」

「なんとなく」

「この台は取れやすいように設定されてるけど、台によっては確率機だったり、アームが弱くて工夫しないと取れない台もあったりするから、台は選んだほうがいい。この近くで一番取れやすい場所がここなんだ。

 ……あの映画見るって決まったときに、あの映画館にしてもらったのはここがあるからだったりする」

 わざわざそんな配慮があったのか。ケイにはここへ来る未来が見えていたみたいな、そんな感じがする。

「そうか。ありがとう。ところで、クレーンゲームで最大何円費やした」

「えっ、えぇっと……。十数万……とか」

 なんとなく額が高いことはわかっていたが、十万円を超えるとは……。

「ほどほどにしておけよ」

「わ、わかってる。今日はこの三千円分だけだから」

 三千円でもかなりの額な気がするのだが。

「なにかしたい台ある? それか欲しい景品とか。ちょっとぐるって回ろ」

 ケイが歩き出すので、僕も後ろを歩く。思うのだが、ケイがしたいだけではないのか?

 歩き回って気づくことがあった。さっきやった台は小さめのサイズの台だったこと。大きいもののほうが多いこと。一回二百円する台があること。アームの爪が三本のものもあれば二本のものもあること。そしておおよそ、三本のものはぬいぐるみやキーホルダーといったクッション系のもの、二本のものはお菓子やフィギュアといったものに多く使われている。その中で「確率機」というものは三本爪がほとんどらしい。むしろそれしかないとかなんとか。

 ときどきケイがしたそうにしていたぬいぐるみやフィギュアがあって、そういうものが好きなのかと問うが、

「べつに好きってわけじゃない。ただこの台のフィギュアはどう動かせばいいとか、このぬいぐるみだとタグが出てて引っかけやすいって思っただけ」

「……景品には興味ないのか」

「あんまり。景品というよりは台の取れやすさかな」

 クレーンゲーム厨みたいなことを言う。いや十数万を費やすくらいだ。もう廃人並みかもしれない。

 見ていくなか、このあとギルたちと分けて食べられそうな菓子はどうかと提案する。その提案はすぐに了承され、三百円で取ってしまう。取れたときのケイは嬉しそうだった。

「…………」

 ケイは│これ《クレーンゲーム》が好きみたいだ。知れて少し嬉しい。

 途中ギルや下条が好きだと言っていたゲームのキャラクターのフィギュアやぬいぐるみがあり、それはどうかと聞けば返事もなく百円玉を入れる。本当に好きなんだな。そして間もなくして取り出し口に景品が落ちてくる。

「他になにか気になるのとか……なにこの機種」

 しばらく機械を操作しては袋の中身をいっぱいにしていたら、ある台を見るなりケイの足が止まる。周りにある台とあまり変わりないように思えるのだが。

「これって……あれとはまたべつなんだよな。明らかに大きさ違う。新機種が出来たのか。しばらくゲーセン行ってなかったからな……」

 一人で呟く。廃人にしかわからないことだ。

「ちょ、ちょっとこの台やっていい? すぐ終わらせるから」

 僕はなにも口にしていないが、迷いもなく百円を入れて始める。

 他の台となにが違うのかわからないが、その微かな差を理解し、一人で楽しんでいるケイには微笑まされる。普段見ない姿だからこそ余計に。僕はケイが楽しいのなら、いくらでも待つ。

 ケイが遊びだした台は他のものより少し大きい気がする。ぬいぐるみは今まで見た中でもあったが、この台のぬいぐるみは一回りも二回りも大きく、上半身ほどの大きさがある。大きさの違いから、ケイは見たことのない機種だとわかったのだろうか。

 最新機種らしいその台で遊び始めたものの、なかなか手こずっているみたいだ。景品が落ちる穴の前にはある程度の高さのある透明な板があって、それがなんとも邪魔をしている。穴に落ちそうになっても、掴んで持ち上げた勢いでバウンドし、穴から離れる。そのたびに僕は心中であぁ……なんて思っているが、ケイは悔しがる様子もなく次々に百円を入れていく。本当に廃人みたいだ。

「……くっそ。あとちょっとだったのに。もうねぇし。ちょっと両替してくる」

「ケイ待て。数百円やるから、それで取れなければやめておけ。ケイの財布の中身が空になる」

「……取れるかな……」

 ケイの財布を心配して止めに入った。僕の財布にあるだけの百円玉をケイにあげる。これだけでは取れないだろうと思ってはいた。が、結局その数百円で取れてしまった。

「これも確率機だな。アームはそこそこ。やっぱプライズゲーム機の最新のほうが楽しめる」

 メモするように口走る。ケイの中で決着できたらしい。

 取り出し口から景品を取れと言うので、しゃがんで取る。なにかのキャラクターっぽいぬいぐるみだ。けど、この景品も狙って取ったわけではないのだろう。少し、かわいそうだ。

「蓮、それあげる。要らなかったらギルくんにでもあげたらいいさ」

「ケイが貰え。ケイの金で取ったものだ。僕は必要ない」

「いや、俺こそ要らないんだ。この台がしたかっただけだから」

「ケイの部屋にでも置いておけ」

「……そこまで言うなら」

 これでケイの部屋も少しは温かくなるだろう。ケイの部屋がどんな部屋なのか知らないが。

 クレーンゲームはもう終わりにし、残りの時間は昼食前で小腹が空いたのでカフェでのんびりした。

 映画が終わる前には戻ったほうがいいと思っていたが、ケイは戻るつもりはないらしく、最後の最後で我慢できずにトイレに行ったとごまかす作戦を立てているらしい。馬鹿らしくて少し笑う。けどこれも全部、僕のためにしてくれているんだ。

 おやつにワッフルを食べたら腹が膨れて眠気に誘われる。そして僕が机に伏せて寝る体勢に入ったからか、突然もうそろそろ戻ろうと言われる。その前にコーヒーを一杯飲んでもいいか……。眠たい。

 テイクアウトでコーヒーを買い、飲みながら映画館に戻った。スクリーン内には戻らず、トイレの前で待つ。本当にケイの作戦通りに進めるらしい。ギルがどう思うかだ。

 どこかの上映が終わったらしい。人があふれかえってきた。その人の波にさらわれないためにかケイに手首を掴まれる。こんな程度でさらわれるわけがないのに。子供でもあるまい。

 一応、僕らが見ていたスクリーン内の人々だったときのことも考え、ギルたちが溺れていないか視線を走らせていた。結果、溺れていたギルと目が合った。

「なんで先出ちゃうの!」

 波から救い出したあとの第一声。その言葉は望んでいない。特になにも望んでいないが。

「悪い。……最後のほう」

 にトイレに立った。ケイの作戦通りに話を進めようと思ったが、ケイが口を挟む。

「そう、早く出ないと最後のほうまでずっと人であふれかえるから、先に出てようと思って。準備もできてたし」

「もー。映画はちゃんと全部見たんだよね。最後の家族と再開した感動のシーン見たんだよね」

 家族……。

「もちろん。それで垣谷がずっと涙拭いてるのはその感動シーンのせいだろ」

 あぁ、そのためか。家族と再会したという感動シーン。……絶対に、見たくなかった。

「豊、弱っちーんだからー」

「そういう真也くんも泣きそうになってたじゃん」

「ぎ、ギルも泣いてただろ!」

 ギルや下条にも確かに泣いた、泣きかけたことを証明するように目元に表れている。ギルに関してはきっと鼻をかんだティッシュが詰まっているであろうポケットがパンパンになっている。

 相当影響を受けた感動シーンだったらしいな。どうりでケイがあの映画から僕を遠ざけたがるわけだ。感謝しないとな。

「ジュース飲んだからちょっとトイレ行きたくなっちゃった。行ってくるね」

「ほーい」

 返事をした下条は総務に視線を移す。いまだに涙は止んでいない。

「豊大丈夫かー? 確かにすっげー感動したけど泣きすぎだぞ」

「ぼ、僕ああいうの……すぐ泣いちゃ、うから……」

 下条は総務の背中をさすっている。そういえば総務のこんな姿初めて見るかもしれない。珍しいものと感じる。

 ギルが帰ってき、総務が落ち着いたら予約しているファミレスに向かう。ステーキやハンバーグが食べれるチェーン店だ。無論、ほとんど外食などしない僕は行ったことのない店だ。

 映画館から徒歩十分ほどのところにある。昼過ぎだったこともあり少し並んでいる程度だったが、今回は予約をしている。すぐテーブル席に通された。待ち時間がないだなんて快適だな。

 向かいになるテーブル席で、一つのソファーで下条、ギル、僕が奥から詰め、向かいに総務とケイが詰めて座った。三人も座ると少し狭い。が、ギルが一番狭い思いをしているだろうから、もう少しだけ端に寄る。

 メニューは二つあるので一つはケイと総務とで見てもらい、もう一つはこちらで見る。

 ステーキやハンバーグが持ち前の店だから当然なのだが、肉しかない。サイドメニューや単品で炒め飯や揚げ物があったりするが、基本肉だ。肉はおいしいがすごいく好きというわけではないんだ。

 メニューを見るのをやめて背もたれに体を預ける。高くなければなんでもいい。

「れーくんなにするか決まった?」

 言われてハッとする。体を起こしてメニューを見た。今日は僕以外にも人がいるんだ。早く決めないと待たせてしまう。

 ステーキやハンバーグがあるページは流し見し、サイドメニューを見る。

「……ああ。決まった」

「真也くんピンポン押して」

 店員を呼び出したあと、それぞれ選んだものを頼む。

「のAセット。れーくんは?」

「……サイドメニューのシーフードグリル……と小の焼き飯で、Cセットでお願いします」

「れーくんCセットにするんだ」

「……ああ。スープ飲み放題がついてくるからな」

「ご注文を確認させていただきます」

 店員が去ったあと、ギルたちはドリンクバーのもとへ消えていった。僕とケイは残っている。

「ケイはいかないのか」

「あとで一緒に行こ。それよりサイドしか頼んでなかったけど足りる?」

「塵も積もれば山となる」

「そっか」

 ケイはおかしそうに笑う。

 ……ん?

 ギルたちが戻ってくるのを待っていると、なにか音がしだす。スマホのバイブ音のような。音が小さい。音源はどこだ。聴覚に神経を集中させた。

「…………」

 あのあたりから音がする。ケイの近く、総務が座っていたところ。

「総務が座っていたところから音がしないか」

「音?」

 ケイが椅子に耳を近づけてその音源を引っ張り出してくる。スマホだ。

「電話」

「相手は」

「『お母さん』」

 そうだろうな。わかっていた。早くに渡したほうがいい……だろうか。それとも気づかずにそのうち切れるのを待つか……。いや、渡そう。

「貸せ」

 いっそのこと出てやろうかと思ったが、勝手なことはできない。立ち上がって、総務がいるはずのドリンクバーに向かった。

 もう入れ終わっているようで、悩み続けるギルを待っていたらしい。

「総務、電話」

「あ……ありがとう。こ、これテーブルに持っていっててくれない?」

 なにかのお茶が入ったコップを差し出してくるので素直に受け取った。受け取ればすぐに出入り口へと向かっていく。

 あの電話の通話相手が本当に例の親ならば、きっと早く帰ってこいだの、勉強しろだの、言われているんだろうな。見せた表情的にも親である可能性は高い。

「早くしろよなー。何回でも飲めるんだから好きなの入れたらいいだろ」

「でもね、俺今炭酸が飲みたい気分なんだけどね、食べる前に炭酸飲んだらお腹が膨れて食べられないかもしれないじゃん? だからさ、なににしようかなーって」

「じゃあ俺が選んでやるからそれでいいだろ?」

 ギルのコップを奪い取って、ボタンを押す。押されているボタンは炭酸水。そして半分もしないうちに置く場所を変えたと思えば、次に押すのはりんごジュース。

「その名もリンゴサイダー! 絶対うまいぞ!」

「そ、そう? 真也くんが言うなら……おいしそう……?」

 珍しくギルが疑っている。

「でもギルの要望通り炭酸半分くらい入れてるんだから炭酸は飲めるだろ! 一石二鳥!」

 使い方間違っていないか?

「れーくんのもついでに入れる?」

「いや、ケイと約束したから」

 一度戻って総務のコップを置いたらケイと一緒に入れに行く。ケイにもさっき言ったことは気にせずに入れたらよかったのにと言われた。

 ケイはなにかのジュースらしい。茶色の炭酸だ。僕は炭酸でない白ぶどうを入れる。

「そういえば、蓮もスープ付けてたよな。いろいろあるみたい」

 白ぶどうを入れたコップを盆に載せられる。ケイの薄黄色をしたドリンクも載っている。

 スープにはコーンポタージュ、わかめスープ、オニオンスープ、コンソメスープがある。どれにしようか。

 ケイはオニオンスープのお玉に手を伸ばし、不器用にカップに入れていく。

「あっつ……」

 手に伝ったらしい。急いでカップを置いたら手の水を切るように払う。

「火傷してないか」

「大丈夫、ありがと」

 ケイはところどころ不器用だ。

 コーンポタージュのお玉を持って、カップに入れる。何度でも飲めるのだから、あとで飲めばいい。そういう思考で、一番左にあるコーンポタージュにした。いいニオイが漂ってくる。

 入れたらそのまま持って戻ろうと思っていたのに、ケイが盆に載せてほしそうにしていたから載せた。べつにそれで運ばなくてもいいだろうに。ときどき子供のような姿を見せる。

 席に戻ったら僕やケイの前にサラダが置かれていた。総務も食べているようだった。白ぶどうとコーンポタージュを盆から降ろして近くに寄せる。

 サラダを食べる前にコーンポタージュを一口。温かい……おいしい……。これ、レジ前などで売っていないだろうか。売っていたら買わせていただくんだが。

 十分に堪能したらサラダも食べる。ドレッシングがあまり口にしない味で、まろやかでおいしい。なにを入れているのだろうか。マヨネーズ……チーズ……あたりは入っているだろうが。

 サラダを食べ終える頃には少しずつ頼んだものが届いていた。僕のシーフードグリルと焼き飯も来ている。

 ケイや下条は贅沢なステーキ。ギルや総務はハンバーグ。服にニオイが染み付くだろうな。帰ったら消臭スプレーを掛けておこう。

 届いた品々を食べるギルたちの顔を見ていたら腹がいっぱいになりそうだ。口を緩ませる。

「そういえばれーくんってそれだけ?」

「肉屋に来たのに肉食べてねーじゃん」

「焼き飯に入っている」

「ちょびーっとだろ? カウントされねーって」

 カウントされる。それにその一つ一つを数えたらきっと十は超える。

「れーくん、はいあーん」

 フォークにはチーズの乗るハンバーグが刺されている。……少しおいしそう……いや、

「要らない」

「あれそう? 食べたそうにしてた気がしたんだけどな」

「気のせいだ」

 食べたいなんてこれっぽっちも思っていない。

「蓮ってすぐ嘘つくよな」

 ニヤニヤしながら向かいに座るケイ。こちらもステーキを差したフォークを差し出していた。

「れーくん嘘吐いてたの! 食べたいなら言ってくれたらあげるのに。はいあーん」

 渋々ハンバーグを口に入れる。が、うまみたっぷりの肉汁が少し熱かった。口元を手で隠す。

「た、確かにおいしい」

「でしょー? まだ欲しいならあげるからね」

「こっちも待ってまーす。蓮が食べてくれないと俺食べれませーん」

 フォークを揺らしながら言われる。僕に構わず食べてしまえばよかったのに。向かいから伸びるステーキも口に入れた。

 正直なことを言えば口の中がとろけそうなくらいおいしい。が、

「……おいしいな」

 ケイは満足そうに笑みを浮かべる。


 昼食を食べ終えたら、もう外での用事は済む。残りはギルの家で行われる。が、一度それぞれ家に帰るらしい。荷物をまとめるなどとギルが言っていた。十六時頃に再び集まるらしく、そのときはギルがわざわざ出迎えると。

 駅から出たら見慣れた町並みで気持ちに余裕ができる。ここが一番だ。

 ギル以外は各最寄り駅で降りたり、乗り換えたり、帰路の途中で別れた。ケイに関しては僕らが降りる駅に着いてもまだ先を行くみたいだった。ケイは徒歩でいつも学校まで来ているらしいが、遠いと感じないのだろうか。

 ギルの家まで送って家に帰ってくる。十六時まであと一時間半ほどある。買い物も済ませてあるし、小説でも読んで時間を潰そう。小説を本棚から取って、ベッドに寝転ぶ。

 新しく読み出す小説はいつも胸が躍る。このページを開いたあとどんな話が待ち受けているのか、胸を躍らせずにはいられない。特にこのミステリー小説は巧妙に企ててあると評判だった。

 表紙を隅々まで観察したあと、表紙をめくる。

 一時間ほどで読み終える気でいた。読み終わらなくても半分ほどは読めると思っていた。だが、不覚にも寝落ちてしまった。幸いなことに折れたり破れたりはしなかった。

 ただ、

「トリックオアトリート!」

 そう叫ぶギルの声で、ビクッとさせて耳鳴りを起こしながら目を開けた。

「っるさい……。耳元で叫ぶなと何度言ったらわかる……」

「耳元じゃなかったもん」

「ならまず叫ぶな」

 時刻は十六時ちょうど。ギルは僕に体を起こすことを促したあと、「あっ」と声を漏らして足早に家から出ていってしまった。

 自分はもう次の人のところに行くから、一人で自分の家に行け、という暗黙の指示を出したのかと不思議に思う。が、もしそんなことならば僕はここに残る。小説を机の上に置いて起こした体をベッドに預ける。じゃあなギル。

 そんなことを思っていたらインターホンが鳴った。せっかく寝転んだのに、と心中で愚痴を漏らしながら玄関の扉を開く。そこにはパーカーのフードを被って、なにか小さなカゴを持っているギルがいた。

「……なんだ」

「トリックオアと」

 いい切る前に扉を閉めて玄関から去る。

 そしたら当然のように扉を開けて玄関に足を踏み入り、怒鳴り込んでくる。

「もー、閉めないでよ! 俺が『トリックオアトリート!』って言って、れーくんが『ハッピーハロウィン!』って言ってやっと、お菓子貰えるんだから」

 その菓子は「ギルが」貰えるんだろ。僕が貰えるというわけではない。

「わかった。取ってくるから待ってろ」

「さすがれーくん、わかってるね。ハロウィンの日のためにお菓子用意してるだなんて」

 食卓テーブルまで行って、置いてあったせんべいをつまんできた。最近せんべいにハマっており、買い物のたびに買っている。

「ほら、お求めの菓子だ」

「やっ……た……? これ……おせんべいじゃん。お菓子じゃないよ」

「菓子だろ。和菓子。おいしいぞ」

「……しょ、しょーがないなー。貰ってあげるよ」

 あげなければよかった。

「よーし、れーくんからお菓子もらったし、次の家に行くよ! あ、スマホと財布と家の鍵だけ持ってきてね」

 スマホと財布と家の鍵だけ持ってついてこいということなので、それらを持ってギルが待つ外へ出た。が、上着を忘れたので取りに戻り、それから外に出た。

「スマホと財布と家の鍵以外なんにも持ってきてないよね?」

「……疑うなら持ち物検査でもすればいいだろ」

 振り向いて家の鍵をかける。そのとき、腹に冷たいなにかが当たり、驚いて声を出してしまった。見れば、ギルが服の下から僕の腹に手を当てていた。

「……なにしてるんだ」

「持ち物検査」

「それで腹を触る必要はないだろ。……その冷たい手を離せ」

「えへへへ。れーくんのお腹暖かい」

 悪そうな顔をしながら言う。憶えておけ。

 冷たい手から解放されたあと、どこかへ向かうギルの隣についていった。

 十月もラストで昼でも少しばかり寒さを感じる。ポケットに手を突っ込みながら歩いていれば、ギルから危ないなどと言ってポケットから手を出された。僕はギルを睨んだ。ギルは楽しそうに笑う。

 ギルが突然、住宅街で歩みを止めたかと思えば、一つの家の前まで足を運んでインターホンを鳴らした。家の名札には「下条」と書かれている。まあ、僕の知る「下条」さんなんだろう。

 扉が開かれて顔を覗かせたのは僕の知る下条さんだった。

「トリックオアトリート!」

 僕にも聞こえる声でギルが言う。

「うぉ! ハッピーハロウィーン! ちょっと待ってろな」

 僕の家以外からも菓子を貰うのか。それに、このことは下条にとっても予想外だったということは、驚いていたことから見当がつく。ギルはサプライズだなんて思っていそうだが。

 戻ってきた下条が渡したのはなにか入ってる袋だった。それをあの小さなカゴに入れた。……よくあのままで持ち歩けるな。

 下条はギルとなにか話したあと、僕に気づいたようで手を振る。冷たい空気があるポケットの外に手を出すのは嫌だったので軽く首を曲げた。

 下条は一度家の中に入り、荷物を増やしてから家から出てきた。分厚いなにかが入った袋を肩に掛け、ギルと一緒に近づいてくる。

「よー蓮」

「……ああ」

「蓮の仮装はなんなんだ?」

 ……仮装?

「あっ! 真也くん」

 ギルが小声でなにかを伝えたあと、なにもないと付け足された。

 今日のハロウィンというイベントで仮装する羽目になっているのはなんとなくわかっていた。避けられないことだろう。なぜならギルが今回のイベントの主催者だからだ。去年はギルの家に招かれた。そこでも仮装させられた。

「じゃあ次のところー」

 まだ回るのか。

 人を一人増やして着いた次の場所は、見たことあるようなないような、そんな公園だった。……いや見たことない。断言する。見たことのない遊具があった。人はいるが、僕の知る人間はいない。いるのは大人と子どもで、公園に遊びに来たと容易に想像がつく。

 ギルはこの状況を不思議に思ったのか首を傾げる。

「ギル、どうしたー?」

「んー、敬助くんとここで待ち合わせしてたんだけど……。すぐ来るかな。あと総務さんのところにも行かないといけないんだけど」

 ケイのことだから昼寝でもしているんじゃないか。時間に余裕があるとばかりに。

 五分ほど公園のベンチに座っていたがケイが来る様子はない。

「……ケイはギルの家の場所を知っているのだろ。ならもう家に呼べばいいんじゃないか」

「それだと『トリックオアトリート』ができないじゃん。それがしたくてみんなを迎えに行くって言ったんだから」

 わざわざそれだけのために。それぞれ菓子だけ持たせて、ギルの家でやればよかっただろうに。ギルが家の外に出て、それ以外は中に入って、ギルが扉をノックして恒例の呪文を言えば、疑似体験ができる。そんなことは思いつかなかったのか?

「うーん、ちょっと時間かかっちゃうかもだけど、敬助くんの家に行くね。ここから二十分くらい」

 二十分? ……僕だけ先に帰っては駄目か?

 その二十分を面倒な顔のまま歩いていればギルの足が止まる。そこはケイの家だった。また豪華そうなお家に住んでいるようで。

 インターホンを鳴らして、少しして出てきたのはケイの母親らしき人。

「トリックオア……あ、えっと敬助くん……いますか?」

「あら。お菓子あげるわね」

「えへへへ。ありがとうございます」

 少し頭を掻いて照れるギルであった。出てきた者が必ずしも求める者ではないということを知るんだな。

 母親が戻ってきてギルに渡す。が、手に持つ菓子はまだある。そして僕らに向かって手招きされた。近づけば、僕と下条のも渡される。それと、もう一つギルに渡していた。

 渡し終えたあとにケイが母親の隣から顔を出した。寝癖が付いている。どうやらさっきまで寝ていたらしいな。やはり僕の考えは当たっていた。僕と目が合えば、ニコッと微笑んで小さく手を振られる。今度も軽く首を曲げた。

 家に戻り際にギルから「早くしてねー!」という指示を受けたケイは、見るからに寝起きで出る準備なんぞしているようではなかった。服も朝に見た服の上から部屋着を着ているようだった。ケイらしい。

「敬助くん寝癖付いてたよね」

「な。ぴょーんってはねてたよな」

 二人の隣で僕はあくびをする。

 髪を結んで身だしなみを整え、準備を終えたらしいケイが家から出てきた。ケイもなにか荷物を増やしている。

 いったいいつまで歩かされるのだろうか。

 面倒臭そうな顔をしながら住宅街を歩いていればなにか聞こえた。

『――――』

 これは……もしや……。

 歩みを止めて耳を澄ます。

「ん? どうした蓮」

 止まった僕に気づいたケイが覗き込んでくる。そして、さっきの音が再び聞こえる。

『いしやーきーもぉー』

「っ……」

 住宅街を徘徊している焼き芋売りの軽トラックじゃないか。姿も今見えた。が、同時にべつの車が道路を渡るそうで端に避ける。通り過ぎれば下条が再びケイと同じ質問をする。知っているらしいギルはものすごくニヤニヤしていた。

「れーくん、言いたいことあるならちゃんと言わないとー」

「…………」

「どこか傷むのか?」

「忘れ物だろ!」

「違う……どちらも違う」

 ギルに顔を向ければトラックを見ていて、目が合う。心配しているみたいだった。

『いしやーきーもぉー』

「れーくん早く言わないと……」

「…………」

 いつまでたっても自分のことで人になにかを頼むのは苦手だ。他人の、緊急を要するときなど仕方がないときはすぐ口に出るんだが、私情となればなぜか喉が閉まる。こういった僕のことを知られることとなればなおさら。

「なんもないなら早く行こーぜ」

「ま……ってほしい……」

 ケイや下条から不思議そうな顔をされる。僕は今どんな顔を貼り付けているのだろうか。鼓動が速くて仕方がない。僕はなぜこういうときに泣きそうになってしまうのだろうか。

 すぐ横の道路でゆっくりと例のトラックが通る。

「……ない。なにもない。引き止めて悪かった……」

 やっぱり言えない。喉が引き締まって声が出しにくくなる。涙を見せないうちに早く先を行くよう言おう。俯いて隠したい顔を隠す。

「なんもねーなら行こーぜ」

「下条待て。……なにもないことないだろ」

 せっかく下条が行こうと促してくれたのに、ケイに引き止められる。

「大丈夫だから言ってみ」

 正面に来て覗き込むように姿勢を低くしてくる。

 一筋の涙が頬を伝う。怖い。けど、服を精一杯に握りしめて喉を開けた。

「や、焼き芋……食べたい……」

「え、それだけ? 普通に言えよなー」

「……頑張ったな」

 下条からは拍子抜けたしたように言われて少し苦しくなるが、ケイには頭に手を置いてくれる。言えた……。

「まあ、買ってこいよ。ここで待ってるから……って、さっき通り過ぎてったぞ!」

 ……そうだ。諦めるつもりだったから、トラックを引き止めることもしてなかった。せっかく言ったのに、意味が……それよりも申し訳なくなる。

 目元を拭ってさっきトラックが通っていった方向に目を向ければ、ギルがいた。僕が焼き芋を食べたいことを知っていたから、止めていてくれた……? 本当にヘンなことをする。

「あ、れーくん。止めといてあげたよー」

 トラックに近づけば焼き芋のいいニオイがする。よだれが垂れそうなくらい。

 ギルの傍に男の人が立っていた。きっと運転手兼販売者だろう。

「ここの焼き芋よくお母さんたちに買うからさ。今日お金持ってこなかったから買えないんだけどね」

「お兄ちゃん、何個お買い求めする?」

「えっと……」

 焼き芋の大きさ的に一人一つでいいだろう。値段も高くない。

「……七個お願いできますか」

「そんなに買ってくれるのかい。嬉しいねー。七個ね」

 男性はくるりと返って焼き芋を袋に詰め込んでくれる。

「そんなに食うのか? ってか食えるのか?」

 僕がこれほど食べるわけないだろ。

「奢りだ」

「えぇ! いいの? 数的にみんなの分あるよね」

「ああ。……日頃の感謝だ」

 なんて便利な言葉だろう。ふと思いついたのがそれだった。

「蓮ふとっぱらー」

「七個で一四七〇円だよ」

 財布からちょうどぴったり出して焼き芋を受け取る。

「まいど、ありがとね」

「ありがとうございます」

 運転席に乗った男性はゆっくりと車を進めていった。そして聞こえるあの声。

「温かいうちに食べたほうがおいしい。歩きながら行こう」

「うん」

 それぞれに焼き芋を配る。

「れーくん、ほんとありがとね。いただきまーす」

「ありがとな!」

「今度なにかおご」

「奢らなくていい」

 ケイの言葉を遮って断る。奢られるのは好きじゃないんだ。

「言っただろ、日頃の感謝だ。受け取れ」

「……ありがとう」

 微笑んだケイの顔はいつか見た優しい微笑みだった。

 焼き芋が入っている紙袋越しでも、その温かさを証明している。暖を取るようにしながらも紙袋から焼き芋を覗かせた。

 僕はこの瞬間が好きだ。焼き芋を両手で持って力を入れて半分に割る。割れば切り口から暖かい湯気で顔を暖められる。そして一緒に、おいしそうなニオイもしてくる。思わず唾を飲んだ。

 いただきます。

 息で少し冷ましたところをかぶりつく。暖かくて、甘くて、口の中がとろけそうだ。久しぶりに食べて、よりうまさを再確認させてくれる。ものすごくおいしい。

「嬉しそうだな、蓮」

 隣を歩くケイに言われる。口の中にあるそれを飲み込んでから声を出す。

「悪かったな。……けど、すごくおいしい」

「そうだな。俺もそんな蓮の顔見れて嬉しい。いつも澄ました顔してるから。こんな顔初めてだ」

「……うるさい」

「ははっ。かわいいな」

 ……そう言われるたび思うが、なぜその言葉なんだ。べつに言われることに対してはいいんだが、少し恥ずかしくなる。そう思うとなんだかケイにからかわれている気がした。ケイに持っている焼き芋を近づけるよう言った。そして小さくかぶりつく。

「なっ……いいけど、なんで?」

「なんとなくだ」

「へぇー。じゃあ俺も」

 そしてケイに僕の持っていた焼き芋を食べられそうになる。が、かぶりつく寸前で、

「なんてな」

 焼き芋から離れていった。

「蓮の悲しむ顔は見たくないから」

 そして口元をなぜか拭われる。拭った手を見てみれば、どうやら今食べている焼き芋らしい。気づかなかった。そして、拭ったそれをケイは自分の口に放り込んだ。

「た、食べるなよ」

「ははっ。これでおあいこ」

 ……なにがだ。

 ケイはなにもなかったように焼き芋を食べていく。僕もおいしさが保っている間に食べる。冷めてはおいしさが軽減する。

 焼き芋は次の場所に着く前に食べてしまった。すごくおいしかった。また食べたい。

 次に足を止めたのは駅の前だった。ギルはあたりを見渡してあることに気づく。僕も気づいた。柱の陰に総務がいる。

「ピーンポーン」

 セルフ音源……。

 ギルの声に反応した総務は柱に体重をかけるのをやめて体を浮かす。が、ギルの意図を理解しきれなかったのか、返事がない。

「ガチャ。トリックオアトリート! お菓子ちょーだい」

 返事がないまま扉を開ける音がしたな。不法侵入。

「……あ、うんお菓子あるよ」

「じゃなくて、ハッピーハロウィン、だよ」

 小さな声で言う。なんだこの茶番。

「え……あ、は、ハッピーハロウィン」

「で、お菓子を……」

「あ、うん。……はいどうぞ」

 腕に下げていた紙袋から菓子の詰まった透明な袋をギルに渡す。渡されたギルは嬉しそうにかごの中へ入れる。なんだったんだあの茶番。

 茶番を終えた総務は僕らに体を向ける。

「みんなの分もある……けど、今渡しちゃ邪魔だよね」

「みんなの分は俺の家に上がってからかな! 荷物ごちゃごちゃになっちゃうかもしれないし」

 また一人の人間を増やして動くようだが、その前に総務に焼き芋を渡した。いつだって焼き芋は温かいうちに食べるのがおいしいんだ。

「貰っていいの? ありがとう」

「日頃の感謝だ。礼はいらん」

 総務が数口食べたら、食べながら行っていいとのことで、またどこかへ向かって歩く。というより、ギル曰くギルの家に戻るらしい。

 思ったのだが、場所的に一番ここが遠い。ケイの家と誤差くらいだ。そんな遠いところまで僕が足を運ぶ必要はあったのか? ギルの家から遠い順、つまり初めに総務やケイを連れ、下条、次に僕を連れ出してくれていたら、僕がこんな遠いところまで足を運ばなくてよかったじゃないか。無駄足すぎる。……さすがギルというか。

 あたりの見慣れない景色を見ていたらいつの間にかギルの家の前にいた。こういう暇な時間は有効活用しないともったいない。

 ギルの家に入らせてもらうなりソファーに腰を掛けさせてもらう。歩き回らせたんだ、これくらいはさせてくれ。

 リビングにはいつも見ない装飾がされていた。オレンジや紫を主としたハロウィンを思わされる飾り。今日だけのためにここまで頑張れるギルの体力に尊敬する。

 疲れた足を休めていると、総務の声が後ろ手に聞こえる。

「これ、つまらないものですが」

「……くれるのかい? ごめんね、わざわざ用意させちゃって。ありがたくちょうだいするよ」

 そういえば、ギルの両親にも焼き芋を渡さなければ。ほんの少し暖かみをなくしていたが、冷め切ってはいない。

 立ち上がって総務と入れ違いになる。

「あの、これ途中で買ってきたんです。もしよければいただいてください。少し冷めてしまったんですが」

「蓮くんまで。ありがとうね。すぐ食べるよ」

 渡したあと、ギルから呼ばれる。

「……では」

 声のしたほうを向けばテレビの前のテーブルになぜか集まっていた。僕もその輪に入る。

「えーっと、はい、敬助と豊と蓮な」

 入って早々下条から菓子を貰う。わざわざ用意してくれていたのか。

「垣谷。これ」

 ケイは総務に菓子の入った袋を渡す。……菓子交換といったところか。僕もなにか用意していればよかったな。

 手の菓子を増やしたものの、入れるものがなく困っていれば、ギルの父親がコンビニの袋を渡してくれた。助かる。その中に貰った菓子を入れて口を縛った。


「じゃあ、着替えてくるね!」

 ギルくんが嬉しそうに荷物を持って部屋から出ていった。

 今から例の持ってきた仮装に着替えていくことになった。ギルくんが先行して着替えに行く。

 みんなはどんな仮装するんだろ。蓮なんて仮装した姿なんて想像も付かない。すごく楽しみ。

 少しの間、ギルくんの着替えを待っていると、ギルくんが扉からひょっこり顔を出した。

「どうした」

 蓮が聞く。よく見たらギルくんの顔が少し赤くなっている。

「着替え終わったんだけど、ちょっと恥ずかしくて……」

「なら、ずっとそこで突っ立ってるんだな」

「えぇ! ……それは嫌、だから……見せるよ?」

 返答の時間を設けられずに、ギルくんは体をすっと出して見せた。

「わ、笑わないでよ?」

 長い黒い丈の服に、目が隠れないように貼られている黄色い札の付いた帽子。襟とフリル状になったカフスは淡い青色になっている。その見た目からはキョンシーだと推測できる。とてもかわいらしい。

 姿を見せたギルくんは恥ずかしそうにする。それでも俺らを楽しませたいのか、腕を前に伸ばして口を開ける。

「え、えぇーっと……。お、お菓子くれなきゃ、いたずらしちゃうぞ!」

 そしてはにかむ。とてもかわいらしい。

「えへへへ……。どうかな……」

「すごく似合ってるよ! キョンシーだよね」

「うん……。ちょっと恥ずかしい……」

 近くに来て床に女の子座りをする。痛くないのか? と思うがきっと柔軟性が高いのだろう。

「……なにかあるのか」

 ギルくんを見て蓮が言う。なんのことを言ってるのかわからない。俺もギルくんを見てみる。

 変わったところと言えば赤面なところと、女の子座りなところと……股を隠すように服を引っ張っているところかな。

「……すーすーするもん」

 すーすー?

「下なにも履いてないのか」

「……うん」

 ……え? 履いてないのか……!

「履いてこい。なにもできないだろ」

「……履いてくる」

 ギルくんが早足で部屋から出ていった。

「ギルなんでパンツ履いてないんだよ」

 俺が思っていたことを下条が代弁してくれる。

「……なにを言ってるんだ」

 え?

「だって下なんにも履いてないんだろ?」

「違うよ。下ってズボンのことだよ。下着履かないなんておかしいでしょ。ただの仮装に」

 どうやらわかってなかったのは俺と下条らしい。ま、そうだよな。下着履かないのはかなりおかしいか。

「……ならさ、蓮と豊はスカート履いたことあるのか?」

「なんでそうなるんだ?」

 俺は質問を質問で返した。本当になんでそうなるんだ。まあ、もし本当に履いてたなら、想像するだけで……ぐっ……。

「だってさ、ギルのすーすーするってので、パンツじゃなくてズボン履いてないってわかったんだよな? 下履いてないってので普通ならパンツ履いてないって思わねーか?」

「……なるほど」

 確かにそう言われたらこの二人がスカートを着用したことが濃厚になる。

「で、あるのか?」

「……ぼ、僕はあるよ……。中学生のときの文化祭で男装女装のカフェかなんかして……。あれ本当に嫌だったな……」

 うじうじとした態度になる。男装女装カフェか……。来年それがいいな。そしたら蓮の女装姿が……って馬鹿馬鹿! なに考えてるんだ俺は。

「蓮は?」

「……あるわけないだろ。考えてみたらわかる話だ。逆になんで下着を履かないで外に出られると思う。温泉とかならまだわかるが」

 ま、普通ないか。

「俺一回履いてみたいなー。どんな感じなんだろ。来年の文化祭男装女装カフェ提案してみよっかな」

「やめろ」

「やめて」

「やめとけ」

 ここまで揃うかと思わなかった。やっぱり女装は嫌だよな。

「……三人揃って言うなよ」

「履きたいなら個人でやれ」

 もっともすぎる。

「お待たせー」

 ギルくんが帰ってくる。もうすーすーしないのか、表情が快晴だ。

「女の子っていつもあれで外に出てると思ったらすごいね……。俺もう絶対履きたくないや。あはは」

「いい経験をしたな」

「してないよ!」

 蓮へのツッコミ後、今度は下条が着替えに行くらしい。荷物を持って部屋から出ていった。

 ギルくんはもう女の子座りなんかせず、堂々とあぐらを掻く。かと思えば、布の張り具合で破れるのを恐れたのか脚を伸ばした。

「ところでギル、僕は仮装なんてしないからな。第一持ってきていない」

「れーくんがそう言うと思って、ちゃんとれーくんの用意してあるよ! 安心して」

 蓮の荷物が手軽だとは思ってたけど、やっぱり持ってきてなかったか。それを見越して用意するギルくんも用意周到だ。

「……ふざけたものじゃないか、一目見たいんだが」

「だーめ。着たときの想像しないで、着替え終わったときに自分の姿見てほしいから目隠しして俺が着替えさせてあげるよ」

「ふざけたものだと破る」

「大丈夫、れーくんには破れないから」

「…………」

 蓮はギルくんを睨み、ギルくんは蓮に楽しそうに笑顔を見せる。

 蓮はなんの仮装させられるんだろ。ギルくんのことだ。蓮の言う、ふざけた仮装をさせそう。それはそれで嬉しいけど。

「な、なー! 誰か来てー」

 部屋の外で下条の声が聞こえる。なんだ?

「あ、俺行ってくるよ」

 ギルくんが部屋を出ていった。

「……下条くんはどんな仮装かな」

「あの脳天気ならなんでも似合いそうだ」

「新藤くん言い方……。うーん、カウボーイとかかな」

「……バンパイア」

 流れ的に俺も言うべきなんだろう。

「えっと、なにかのアニメキャラ……とか」

「あぁ、確かに。アニメキャラとかありそうだね。よくアニメの話してくれるんだけど、僕アニメあんまり知らないから……」

 困ってるが本人には言えないんだな。

 少ししてギルくんと下条の声が廊下から響いてくる。着替えられたみたい。

 ギルくんが先に扉から出てきた。そのあとは誰もついてこない。ギルくんは俺の斜め前に座る。

「じゃあ、仮装見せるぞー」

 答え合わせ。

 壁から腕だけ出てきたかと思えば、部屋の壁を触ってる。なにしてるんだ。

「あれ、スイッチない?」

「どうしたの?」

「電気のスイッチどこ?」

「電気の? 消すの?」

「消したほうが面白いかなーって」

「……じゃあ消すよ」

 ベッドの傍にあったリモコンを操作して電気が消される。完全には消されず、ほんのりと灯ってる。

「なあギル、全部消せねーのか?」

「あ、全部消す? い、いいよ?」

 ギルくんは蓮に近づいては腕にしがみつく。どういうわけなのかわかっているらしく、蓮はなんとも反応しない。もしかしたらギルくんは暗闇が怖いのかもしれない。蓮の腕をがっしり掴んで片手で電気を消す。

 いきなり暗闇になって目が慣れず真っ暗だ。そんななか、扉からは光るなにかが出てきた。それは全体を壁から出す。

 持ってるスマホの画面を付けてなにかしたかと思えば、カツコツと音が鳴り始める。それは骨同士が叩かれるような。そしてその「骨」は両腕を上げて脅かすような動きをする。徐々に俺らに近づいてきて低音で奇声を上げる。

「うっ」

 ギルくんの声かな。声を上げると同時に電気が付けられた。視界が一瞬白くなる。

 俺らの目の前には、スケルトンの仮装をした下条がいた。光の下にいるときは骨が真っ白だ。思えば、あの真っ暗闇で「骨」の形は浮かび上がってたから、仕掛けとしては夜光塗料が塗られている服みたい。

「もーせっかくいいところだったのにー」

「ご、ごめんね。怖くて……あはは」

「じゃーん。スケルトンでーす」

 両腕を広げて見せびらかす。

「似合ってるね」

「外れか」

 褒め言葉を出す垣谷と、賭けへの思いをこぼす蓮。俺も外れたっていう言葉が先に出てきた。

「ギルー。これだけで怖いのかー?」

「く、暗いのが怖かっただけだし!」

「ほんとかー?」

「ほんとだもん!」

 そのくらいに、

「そのくらいにしておけ。人それぞれ嫌いなものや怖いものはある。下条だってあるだろ」

 蓮はよく俺の言葉を代弁してくれる。二の句までは続かなかったけど。

「俺ないぞ」

「嫌いな食べ物は」

「……あ」

 意外。食欲旺盛な下条にも苦手な食べ物があるんだな。

「誰にでも嫌なものがあることを知るんだな」

「ほーい」

 次は垣谷が着替えに行くと思ったけど、先に着替えろと譲られた。仮装姿が恥ずかしいのかもしれない。荷物を持ってギルくんの父親の部屋に入る。

 俺は下条やギルくんのような仮装じゃない。ぱっと見仮装とは思わないものを選んだ。理由はただ一つ。恥ずかしくないから。これくらいならまだ着れるっていうのを選んだ。

 服を脱いで持ってきたYシャツを着る。これは費用節約のためにも普段から学校で使ってる、ごく普通のYシャツ。

 ズボンを脱いで持ってきた黒いズボンを履いてベルトを着ける。ベルトは見えない部分だから学校で使ってるものだけど、ズボンは買ってきた。俺が持ってる黒いズボンはどれも布地が明らかに合わなかった。普段使いできるものを買ってきた。

 シャツをズボンの中に入れて、その上からほんのり青みがかった灰色のベストを着る。これは仮装用として入ってたもの。前を合わせる……前に、忘れてた。黒いネクタイを着ける。これも入ってたもの。ネクタイといえば学校で使ってるものしかなかったから助かった。最悪父さんのところにあったかもしれないけど。

 前を合わせ終えたら、その上からジャケットを着る。これまた黒だ。ポケットにはフラップはなく、後ろに長くした裾には切れ込みが入ってる。

 付属の黒のシルクハットを被り、チェーンのある模型の時計をボタンに付けてポケットに入れる。最後に白い手袋をして……。

「よし」

 これでもう完璧なはず。髪の毛だけくくり直そう。着けた手袋を外して髪の毛を少し解かしてくくり直す。手袋を付け直して今度こそ完璧。

 部屋を出て廊下を歩く。少し心臓が早く動いてる。少し恥ずかしいな。

 部屋ではなにか話してる。なんの話をしてるのか全くわからない。

「四面だよ!」

「いーや絶対三面」

 ギルくんと下条が話してるみたいだ。蓮と垣谷の声は聞こえない。

「き、着替え終わった」

 話を遮るのは少し悪い気がするけど、あの言い合いはなんだか終わりのないように思えた。だからあえて終わらせる。そう思って言ったのに、あの二人には聞こえなかったらしい。垣谷が言ってくれた。

「英川くんと下条くん、影島くん着替え終わったみたいだよ」

「あ、ごめんごめん。気づかなかった」

「絶対さんめ」

「下条くん」

「はい」

 一つ咳払いをしてみんなの前に姿を出した。さっきより鼓動が速い。早すぎて少し気持ち悪い……。

「おぉー! ひつじさん!」

 初めに声を上げてくれたのはギルくんだった。けど間違えてる……。

「ギル。し、つじだ」

 蓮が「し」を強調して言ってくれる。

「え? そうなの? ずっと同じ名前だと思ってた……。恥ずかしい……」

 顔を赤くして手で覆い隠す。

「敬助すっげー似合ってるぞ! ちょーかっこいい!」

「うん、すごく似合ってる。本物みたいだよ」

「そ、それはどうも……」

 恥ずかしくてつい手で顔を隠してしまう……。蓮はどんな顔だろ……。視線を向けてみる。

「…………」

 いつもと変わらなかった。強いて言えば、少し口が緩んでる気がする。

 蓮の近くに座る。

 恥ずかしさで体温が上がって熱いな。手袋を着けたばかりだけど外した。

「えーっとじゃあ、れーくん最後に着替えさせたいから総務さん次いい?」

「……うん。いいよ」

 荷物を持って部屋から出ていく。垣谷の仮装姿も全然想像できない。学校での姿しか見たことないからな。

 垣谷の第一印象は「真面目そう」「根暗で誰も近づかなさそう」だった。服装を正しすぎているのと眼鏡をかけているのがなによりもそう見せた。

 けど、初めて声かけられたときはすごく声が軟らかくて、本当はそうじゃないのかなって思った。

 それから垣谷のことを見てれば、第一印象は否定されていった。思っていたより明るくて、みんなに頼りにされてるみたいだった。真面目だったのは変わらなかったけど。

 例えば授業中、毎時間手を挙げない時間はないし、わからないところは放課後に先生に聞きに行ってるみたいだった。宿題でわからないと嘆いてる生徒にはわかるように説明したり、自分でもわからないところだと放課後一緒に先生に聞きに行こうと提案したり。

 宿題を写させてもらおうとしてる生徒には「自分でやってみよ」と、悪魔みたいな微笑みで言われる。俺も一度だけギルくんに写させてもらおうとしてるときに言われた。タイミングが悪かった。

 本当はその前に垣谷がいないときに、蓮から写させてもらおうとしたけど、そのワークを鞄から出すのが面倒、自分でやれって言われて諦めてギルくんのところに行った。あのとき見せてくれてたらな……。べつにいいけど。

 でも、ちょうどそのワークとかが蓮の机に出てたら素直に写させてくれはする。もちろん垣谷には見つからないように。

 そんなみんなに頼られてる垣谷だけど、休み時間はだいたい一人でいた。誰とでも話せるけど、だからといって仲がいいわけではないらしい。

 常に一人で行動してる。誰かに誘われたりしたときは一緒にしてるけど、それでも俺が見るたびに一人。

 しかも一人でいるときも、誰かから見られてる、監視されてるのを知ってるかのように口を小さく笑わせて笑顔でいる。俺はそんな垣谷になんとなく違和感を覚えてた。まるで猫被ってるみたいな。

 実際蓮は違和感でも抱いてたのか、今日の計画を立てる日に屋上まで行って話を持ち出してきたし。

 それに今日の蓮はなんとなくなにかに警戒してる気がする。垣谷ばかり見てる。

 垣谷はなにを隠してるんだ? いやもとから隠してるわけでもなくて、俺らが勝手に誇張させてるのかもしれないけど。

 近くにいる蓮はどこか考えてるように、床に視線を向けて目を細めてる。……と思ったらいつもの大きさに目を開けた。大して変わらないけど。……やっぱり二重でキリッとしてて綺麗。

 そして蓮が目を開けるとほぼ同じくらいに扉のほうから声が聞こえた。

「……着替え終わったよ。みんな本格的だから、僕の浮いちゃうかもしれない……」

「大丈夫だよ。誰もそんなの気にしないよ。仮装してるかしてないかの違い! 出てきて出てきて」

「う、うん」

 ゆっくりと扉から出てきたのは、床に付くほどの長い丈をした黒いローブに、フードで顔を隠している姿の垣谷だった。中には制服を着てるみたい。模型の杖も持ってる。魔法使い……かな。

「ど、どうかな……」

 フードから少し顔を覗かせて聞く。

「似合ってるよ! 魔法使い……だよね?」

「う、うん。ガッツリめの仮装は恥ずかしくて、こんな感じにしちゃった……」

「本物みたいだな!」

「ちょっと……恥ずかしい」

 そしてフードを深く被る。人前で仮装なんて普段からしないから、下条ほどノリのいい奴以外恥ずかしがって当然。

「じゃあ次れーくんね」

「本当にふざけたものを着せるんじゃないぞ。本当に破るからな」

「だかられーくんには破れないって」

「…………」

 同じことを言って蓮を黙らせる。蓮ってときどき子供っぽいところがあるんだから。……むしろもっとあったっていいのに。

「ほら、行くよ」

 荷物と蓮を連れて部屋から出ていった。どんなのを着せるんだろ。蓮の仮装姿なんて今回を逃したらきっと一生見れない。どこかのタイミングで撮らせてもらう。嫌がったときは記念撮影とごまかそう。

「蓮なに着させられると思う?」

「うーん。やっぱり面白そうなものじゃない? 例えば、パンプキンとか」

「俺もそんな感じする。ギルは絶対面白いの着させる」

 面白い系か……。俺は面白い系より、かわいいのがいいな。かっこいいのでもいい。どんなのであれ、想像しただけでニヤついてしまう……。両頬を叩いて速い鼓動を落ち着かせる。

「わっ! ちょっと大丈夫?」

 突然廊下からギルくんの声が聞こえる。

「どうしたんだろ。見にい」

「俺が行く」

 行ってみれば、ギルくんの父親の部屋の扉は閉められていた。ノックしてみる。

「大丈夫か?」

「う、うん。大丈夫。転けちゃっただけ」

「これ絶対ヘンなものだろ」

 蓮の声だ。ヘンなもの?

「違うよー。ちゃんと最後に着るからー」

 着るんだ。

 とにかく、大したことじゃなかったみたいだから、ギルくんの部屋に戻った。

 ヘンなもの……。

「どうだった?」

「ただ転けただけらしい」

「そっか。ならよかった」

「蓮の仮装見てきたか?」

「いや、扉閉まってて見えてない」

「うわぁー、なんなんだろ」

 でも今から楽しみすぎる。蓮の仮装だなんて、レアよりもウルトラスーパーレアだぞ。

「なんか敬助すっげー嬉しそうだけど、やっぱなんか見たのか?」

 下条に言われて平常心を保とうとする。

「い、いや。なにも……」

「ほんとかぁ? ま、いいけど。どうせ見るんだし。トイレ行ってくる」

 それだけ言って、下条は部屋から出ていった。

 少しして廊下から声が聞こえてくる。

「そのまま真っ直ぐ真っ直ぐー。……はいストップ」

 着替え終わったらしい。どんなのだろう。すごく楽しみだ。

「れーくんのお着替え終わったよー」

 ……いやでも蓮が言ってたようにやっぱりヘンなものなのかな。

「じゃあ、先にみんなに見てもらってかられーくんの目隠し外すね」

「僕は先に見れないのか」

「だめー。じゃあいくよ。さん、にー、いち! じゃじゃーん!」

 隠すための布がどかされて姿が見える。カウボーイだ。かっこいいし、すごく似合ってる。

「って、あれ? 真也くんは?」

「トイレだよ」

「なんだー。せっかくれーくんのかっこいい姿なのに」

 そう言って蓮の目隠しを取る。蓮はすかさず今着ているものがなにか確認するけど、ヘンなものじゃないと理解したのか、落ち着いた。思えばどんな感触だったらヘンなものだと思うんだろ。

 ぱっと見カウボーイとはわからなかった。なにせ、肩から大きな布……マントみたいなのが巻かれているんだからな。それは下腹部あたりまである。腰には革のガンベルトにホルスターが下げられて中には本物のように見える拳銃が収められてる。ベルトがゆるめなのか、少し垂れ下がってる。

 ズボンはよく見る青のジーンズで、少し暗めだ。頭には茶色のカウボーイハットが被られてて、濃い茶色の細いハットバンドがあり、黒と赤の羽が刺さってる。なんともおしゃれだ。

 帽子を見たときに見えた蓮の顔は嫌そうではなかったけど、少しツンとした表情をしてた。恥ずかしがっているのか、まんざらでもないのか。

「このマントみたいなの、一応付いてたやつなんだけど、初めは邪魔になるかなって思って付けなかったんだけど、れーくんが寒いって言うから付けたんだ」

「そうなんだ、すごく似合ってるよ」

「うぉ! 蓮着替えてんじゃん!」

 蓮の後ろから顔を覗かせたのは下条だった。トイレから帰ってきたみたい。

「カウボーイかー! かっこいいな!」

「…………」

 蓮はまんざらでもなさそうな顔をして床に座り込んだ。立っているギルくんと下条も空いてるところに移動して座り込む。

「あ、あとね」

 座ったギルくんは再び立ち上がって、蓮の後ろに膝立ちした。

「ちょっと取るよ」

 例の大きなマントのようなものを取り外した。見えたのは少し変わった黒に近い灰色のYシャツに焦げ茶のベスト。首元にポーラータイだ。中身まできちんとされているんだな。

「中はこんな感じ。このネックレスみたいなの、すごくおしゃれじゃない? これ気に入ってるんだ」

 ギルくんが言うんだな。

 見せ終われば、すぐにマントを着込んだ。そんなに寒いかな。

「じゃあ、みんなで記念写真撮ろ! んーっと、そこを後ろにして撮ろ」

 指差した場所は「 Happy Halloween 」という紙の装飾が弧を描いて飾られるカーテンだった。

「でも場所的に無理そうじゃない? 画角に入らないかも……」

「うーん。確かに椅子持ってきても、高さ足りないしなー」

「なら僕が持ってと」

「撮らないよ。れーくんほんと写真撮られるの嫌いなんだからー。遊びの写真ならまだしも、記念写真は撮らないと」

 写真嫌い……。確かに嫌いそうだ。理由は思いつかないけど。

「ギル、ごはん用意できたよ」

 廊下から声がしたかと思えば、頭に矢が刺さってる、ように見えるカチューシャを付けているギルくんの父親がいた。

「わっ! びっくりした……。本当に矢が刺さってるのかと思った。お父さんも仮装?」

「仮装って言うほどでもないけど、お母さんが付けてってね。こういうイベントは恥ずかしさを捨てて全力で楽しまなきゃって言われてね」

「そうなんだ。見て見て! みんな仮装したんだー。俺キョンシー!」

「うん。すごく似合ってるよ」

「えへへ」

 微笑ましい。俺の親は絶対にこんなこと言わないだろうな。母さんに関しては「気でも狂った?」とでも言われそう。

「今から写真撮ろうと思ってて、ちょうどいいところにお父さん来たから撮って! ここ後ろにして」

「わかったよ」

「みんな並んで並んで!」

 スマホを預けたギルくんは蓮の腕を引いてスマホの前に並ぶ。俺も蓮の後ろに並んだ。

「ギルと蓮くん、ちょっと屈める? 後ろが見えなくて」

 二人は言われた通り前屈みになった。

「じゃあ撮るよ」

「みんな、ハッピーハロウィンって言ってね!」

「はいチーズ」

「は、ハッピーハロウィン」

 ギルくんと下条の声は聞こえた。俺も一応言った。

「れーくん絶対言ってなかったよね! もー」

「……言った」

 蓮は顔を逸らして言う。言ってないんだな。

「まあいっか。じゃあ、下に下りてハロウィンパーティーだよ!」


 一階に下りれば部屋いっぱいにかぼちゃの甘いいいニオイがした。

「いいニオイする……おいしい……」

「……まだ食べてないだろ」

「えへへ。もう食べた気分」

「ならギルの分はなしだな」

「えぇ! まだ食べてないから食べる!」

 かわいらしいやりとり。

 長方形の食卓テーブルにはメインのパンプキンパイが二つ。その他にいろいろ皿に盛られてる。ミイラをしたフランクフルト、かぼちゃやおばけのおにぎり、ドライフルーツ、唐揚げ、ポテトフライ、黄色いなにかのスープなど、それぞれ載ってる。ものすごい量。

 椅子の前には取り皿とスプーンとフォークが並べられてる。

「かき集めた椅子でごめんね。適当に座って」

 もとからあったであろう椅子が四つ。かき集めたであろう椅子が三つ。背もたれがあるものやないもの、座る場所が狭いものもある。バラバラだ。

 蓮は端の椅子に座った。その隣にギルくんが座った。俺も隣に座ろうと思ったけど、蓮の椅子に背もたれがないことに気づいて、

「蓮、椅子交換しようか。こっち背もたれあるから」

「ん、構わない。ありがとう」

「……そうか」

 あっさり断られた。

 俺の右隣には下条がいる。その隣に垣谷。俺の目の前にはギル君の母親。隣に父親。

「……俺一人だから誕生日席みたいだ。あはは、誕生日じゃないのに。まあいいや。あ、飲み物」

「あぁ、そうだった。人数分コップ出してくれる?」

「はーい」

 後ろをギルくんが通っていく。父親も冷蔵庫になにか取りにいった。目の前に座る母親は口笛を吹いて父親に近づく。そして英語で話していく。早すぎてなにを言ってるのかわからない。

「早く食べてぇ。つまみ食いしていいかな」

「駄目だよ。自分の家ならまだしも」

「駄目かー」

 蓮が静かに目の前の食卓を眺めてる。腹が空いてるのかな。そう思ってたけど、少し悲しそうに目を細めた。

 蓮はよく自分の気持ちを押し殺して他人を優先する。他にもなにか悩みとかがあっても絶対に自分からは相談しない。俺やギルくんが異変に気づいて、初めて口に出す時もあれば出さない時もある。

 蓮は昔からずっと無口で無表情で、俗に言う「なにを考えているかわからない」。自分の思ってることを口に出してくれない。蓮はそんなのばっかりだ。なにか思うことがあれば声に出してほしいし、なにか悩みがあればいつでも聞くから言ってほしい。一人で抱え込まずに。

「蓮、もしなにか相談とかあるならいつでも言えよ?」

「……急にどうした」

「なんとなく、悲しそうな顔をしてたから、なにかあるんじゃないかって思って」

「悲しそう……。ただ、この並べられている食事の味の想像や使われている材料はなにか、暇つぶしに考えていただけなんだが」

「……あ、そう。いや、ないならいいんだけど」

「まあ、強いて言うなら……普通に生きたかったな」

「…………」

 それ以来蓮は黙りっぱなしで、けど表情は明るく、また眺め始めた。

 あの言葉に、俺はなにも言えなかった。きっと蓮にとって俺は普通に生きてる、そう思ってるかもしれない。ただ、普通に生きてる俺に言えることはないんだ。

 蓮は苦しくてつらかった過去を持ってる。詳しくは知らないけど、俺はその一部を知ってる。けど、その一部しか知らない。ギルくんは学校でのその過去を知ってるらしいけど、家庭での過去はこれっぽっちも知らないらしい。

 俺も蓮には普通に生きてほしかった。けど、もう過ぎたこと。変えることはできない。

「みんな、飲み物なにがいい? えっと、オレンジジュース、りんごジュース、お茶と、あと炭酸とかあるよ。でも炭酸はお腹いっぱいになっちゃうから、あとでね」

「じゃあ俺オレンジー」

「僕はりんごにしようかな」

「……れーくんと敬助くんは?」

「お茶って何茶だ」

 こだわりがあるみたいだ。

「何茶? お茶だよ?」

「違う。緑茶や麦茶とかあるだろ」

「あぁー。えっとね……わかんない。お父さん、これ何茶?」

 俺は緑茶が好きだ。

「ルイボスティー? だって。家でいつも飲んでるお茶っ葉のやつ」

「……なら、それを願おうか」

「おっけー。敬助くんは?」

「ん、んー……りんごお願い」

「はーい」

 それぞれコップに注いでくれる。

「これがオレンジで、りんご、りんご、お茶ね。お父さんとお母さんは?」

 りんごジュースが入ってるであろう紙コップを近くに持ってきた。ジュースなんていつぶりだろう。一口飲んだ。冷たいりんごの味がしておいしい。

「どっちもお茶でいいよ。お母さんお酒飲もうとしてたからね」

「あはは。まだ早いよ。お母さんお酒大好きなんだからー」

 酒好きなんだな。

 俺の親が飲んでるところなんて、あんまり見ない。いや、深夜散歩に出かけようと思ったときに、顔真っ赤にして手に酒持ってぐーすかテーブルで寝てた父さんを最近見たな。

 それぞれ注ぎ終えたギルくんは両親の座る椅子の前にコップを置いて、椅子に座った。

「ギルはなにを飲むんだ」

「え? 俺はオレンジジュース……って、自分の分入れるの忘れてた。あははは」

 再び立ち上がって入れに行った。抜けてるところがあってかわいらしい。

「みんな、氷はどう?」

 台所から顔を覗かせて父親が聞いてきた。

「俺いる! ギリギリまでな!」

 味薄まるぞ。

「俺もー」

「……他は大丈夫かな」

「……はい、ありがとうございます」

 蓮が俺らに視線で確認を取って答えてくれた。

 ギルくんが椅子に座る。父親も準備ができたようで腰を下ろした。

「よーし。じゃあいただきまーす!」

「いただきます」

 それぞれ声に出して食べ始めた。ただ、隣に座る蓮からは声が聞こえなかった。見れば合掌はしているようだった。

「フランクフルトと近くに置いてるスープは一人ずつあるからね。パンプキンパイも二つずつ。あとは好きにどうぞ。取り合いになるようだったら切り分けるから言ってね」

「よっしゃ! じゃあ初めにパンプキンパイもーらい!」

 どれから手を付けようかな……。いいか、この黄色いスープから飲もう。スプーンですくって一口する。

 ……これはコーンスープか? 普段からスープなんて飲まないから、コーンスープなのかもわからない。けどたぶんコーンスープ。

 もう数口飲んで飲むのをやめる。体が暖まった。

 次はさっきから母親が間もなく口に運び続けているドライフルーツを一粒持ってきた。おいしいのか、これ。黒に近い紫をしたそれを口に運んだ。

「あっ」

 これ、レーズンじゃないか! うぇ……口から取り出したい……。食感が気持ち悪い……。もう噛みたくないから、りんごジュースと一緒に流し込んだ。まだあの食感が残ってる……。違うもの食べて紛らわそう。あの皿にはもう触れないでおこう……。

 ポテトフライを数本口に放り込んだ。お、すごいサクサクしてる。おいしい。レーズンの食感がすぐにかき消された。

 ハンバーガー屋とかのポテトフライはおいしすぎて手が止まらなくて、いつの間にかなくなっていることがほとんどだ。これもそれくらいおいしい。けど、今回は俺一人で食べるわけじゃない。この一本で終わろう。……いやあともう一本だけ……。よし、終わり。

 次は……フランクフルト食べよ。フランクフルトもいつぶりなんだろう。

 コンビニで飯を買って温めてもらってるのを待ってるときにふと食べたくなったときはあったけど、その頃には会計も済ませてるからもう手遅れだと言い聞かせて食べてこなかった。

 チューブ型のケチャップを上から掛けて、瓶に入ってるマスタードをスプーンですくい、ケチャップに付かないよう勢い良く振り下ろして付けていく。

 瓶の蓋を被せて垂れてこないうちにかぶりついた。ん、やっぱりうまいな。噛んだところからあふれ出す肉汁と、それに味を添えるようにケチャップの甘酸っぱさ、そしてマスタードのほんのりツンとしたからさ。いい具合にマッチしておいしい。

 ふと、隣から伸びた腕があの例のドライフルーツの入った皿を目がけているのが映った。蓮はレーズンを食べれるのか? 俺は給食で出たレーズンパンを全部除いてパンだけを食べてた記憶がある。

 持ってきたドライフルーツを口に運んで噛む。なんの反応も見られない。

「蓮、それ口に合ったのか?」

「……おいしいと思うが」

「なんのドライフルーツ食べたんだ?」

「……味的に苺だろうか。ケイもどうだ」

「いや、一つだけレーズン食べたけど……」

「レーズン以外貰えばいいだろ。食わず嫌いは損をする」

 蓮がそう言うなら……。確実にレーズンじゃない色をしたドライフルーツを口に運んだ。

「……俺にドライフルーツが合わないらしい」

「……そうか。それは悪かった」

 ドライフルーツって、干した果物なんだろ? ならそのまま食べたほうがいいと俺は思う。

 蓮は自分のコーンスープを飲んでいく。俺も釣られて飲んだ。

 気づけば半分ほどなくなっていた唐揚げを取り皿に二つほど載せた。おにぎりも一つ持ってきた。今まで取り皿があることを忘れてた。

 唐揚げにかぶりつく。ちょうどいいくらいに冷めてる。外はカリッとしてて中は肉汁たっぷりあふれてきた。市販のものなのかな。それとも一から作って……。どちらにせよ、うまいのには変わりない。

 もう一つもかぶりつこうかと思ったけど、先におにぎりを食べることにした。これは何味なんだろう。海苔(のり)でおばけの顔を形作られているのはわかるけど、味まではわからない。

 中になにか入っているのか、なにも掛かっていないと見せかけて塩が掛かっているのか。まあ、梅が入っていなければ食べれるんだ。

 一口食べた。おばけの顔が半分くらいなくなる。

「…………」

 梅だ……。まだその一口で梅にまではたどり着けなかったけど、そこに見えているのは見るからに梅だ。どうしよう……。

 ――食わず嫌いは損をする――

 さっきの蓮の言葉を思いだした。いや、昔に食べたことあって、そこで食べれないと思ったんだ。食わず嫌いではない。でも、大人になれば味が変わるとかなんとか聞いたことがあるから、もしかしたら食べれるかもしれない。

 思い切って、大きくかぶりつき……はしなかったけど、小さく口に入れた。

「…………」

 しょっぱい……。不味くはないけど、この味は好きじゃない。皿に一旦置いた。そしてりんごジュースでそのしょっぱさを流し込む。

 一度かぶりついたものを誰かにあげるわけにもいかない。自分でどうにかしないといけないのはわかってるけど、どうしようかな……。とにかく最後まで置いておこう。

 この食卓の一番のメインであろうパンプキンパイを一つ、取り皿に載せようと思った。けど、おにぎりと唐揚げが先に載ってて置けなかったから、先に唐揚げを食べてしまった。改めてパンプキンパイを置く。

 パンプキンパイなんて、家で作られたことがないからどんなものか気になる。母さんは基本手間がかかる料理は出してくれないからな。そもそもパイを食べるのが初めてかもしれない。

 先端をかぶりついた。外はパリパリとしていて、中はふわふわとした食感でかぼちゃの味がする。うん、うまい。パリパリとした食感が堪らないな。

 ふとかぼちゃのもとの形を思いだす。あのまんまるとして緑色をして、かったいかぼちゃを。

「……蓮ってさ、かぼちゃ、切れる?」

「……急だな。確かに切れないが」

「だよな」

「…………」

 蓮が俺の顔を見る。一つ肘で突かれた。

「……迷いなく肯定される身にもなれ。わかっていることなのに聞くのはどこの意地悪な子供なのだか」

 俺。

「そう言うケイは切れるんだな」

 お茶を一口飲んで聞かれる。

「さあな。切ったこともない」

「……切ったこともないのに聞かないでいただきたい」

「じゃあ蓮は切ったことある?」

「一応。だが本当に全体重をかけても切れなくてな。本当にたまたまギルとギルの母親が来てくれて、破棄せずに済んだが、もう二度とかぼちゃには触れない」

 まあ俺よりもほっそいその腕でかぼちゃなんて硬いものを切れるとは思ってなかった。とか言ったら今度は腹に直接肘を食い込まれそうだから言わないけど。

 結局おにぎりだけが最後まで残ってしまった。食べずにずっと残ってる。

「……なくなったのか」

 横から小さくそう聞こえた。下条じゃない。蓮だ。なにがなんだろう。どの皿にも多く残っているものはない。残っていると言えば、ドライフルーツや少しの唐揚げ、パンプキンパイくらい。視線的にあの皿かな。あの皿には確かおにぎりだったっけ? ……もしよければ……。

「……蓮」

「……なんだ」

「蓮って……梅食べられる?」

「……ああ。それがどうした」

「ほんとにもしよければなんだけど、俺の食べかけのおにぎり食べないかなって。蓮おにぎり取ろうとしてたよな? 手に取ったのが梅で、俺食べれなくてさ……」

「……貰っていいのなら貰おうか」

 え? 本当に言ってるのか?

「食べかけだけどそれでも」

「構わない。僕も食べたかったし残飯になるよりいい」

 ……案外あっさりと受け取ってくれた……。でもよかった。それに蓮は梅を食べれるんだな。

 梅おにぎりの載る俺の皿を蓮に近づけただ、。蓮は俺の前の皿から食べた跡があるおにぎりを取って口に運んだ。

 俺は好きな相手じゃなければ、誰かの食べかけを食べる気にはならないな。だってそれって間接キスをすることになるんだし。……間接キス……?

「まっ」

「……ん」

 口を膨らませながら蓮が振り向く。飲み込んだ素振りを見せてから聞いてきた。

「なにかまずかったか」

「……いや。そういうことじゃないけど……」

「……ないならいいが」

 蓮はなにもないとわかれば、再び口に運んだ。

 そうだ。間接キスだ。今、蓮と間接キスしたんだ……。今日はやけに鼓動が速くなるなぁ……。


 食後。先にギルの部屋に入った。ギル一家は食事の片付けをしてるらしい。僕も手伝おうか聞いたが、ゆっくりしてろと返ってきた。今はギル以外が部屋の床に座り込んでいる。

 そして僕は私服に着替えた。動きにくい。総務も着替えて、もう今すぐにでも帰られるほど荷物をまとめていた。

「さっきのご飯さ、なに一番おいしかった? 俺ダントツ唐揚げ!」

「どれもおいしかったよ」

「俺はパイだな」

 総務の言うようどれもおいしかった。それにしてもあの量を作るなんて相当時間がかかっただろうに。ギルの両親に負担がかかりすぎてはいないか? たとえ自分が主催だとしても、両親に負担をかけるのはあまり……。

 扉が開いてギルが出てくる。

「おまたせー。今からなにするー?」

「…………」

 誰も答えそうにない。

「んーなにしようかなー」

 僕はもう解散でいいと思うんだが。

「あ、そうだったー」

 妙に演技じみて左手の拳を作って右手をポンと叩く。

「お母さんの部屋にお菓子置いてたの忘れてたー。みんな取りに行こー」

 なんでそんな棒読みなんだ。

「えーギルが取りに行けよー」

 同じことを思っていた。ここは家の主でもあるギルが持ってくるべきだと思うんだが。

 なのにギルは妙にこだわってみんなで取りに行かせようとする。なにがしたいんだ。

 そんなやりとりをしていたら着信音が鳴る。スマホを取り出したのは総務だ。画面を見るなり顔色を変えて「ちょっとごめん……」と部屋を出ていこうとするが、

「……あれ」

 扉は開かなかった。内鍵だが、鍵がかかっているというわけでもない。外からなにかで押さえられているのか?

「え、英川くん扉開かないよ」

「えーそんなことないでしょー」

 ……なるほど。ギルがなにを企んでいるのかわかった。

 ギルのなかで決めたセリフを読んだあと、わざとらしくドアノブをガチャガチャさせて開かないことをアピールする。

「ほんとだー、開かないー! もしかして、俺たち閉じ込められたのー!」

 ほら。そういうことだろうとは思った。

「……さっきからなんで棒読みなのギルくん」

「っていうことで! サプラーイズ! 今からこの部屋から脱出してもらおうと思いまーす! パチパチパチパチー!」

 部屋からの脱出、か。謎もギルが考えたのだろう。少し面白そうだ。

 けど、それよりも焦った顔を隠せない総務がギルになにか言いたげにスマホを握っている。その間もずっと焦らせるように着信音は鳴っていた。

「あ、あの英川くん、ちょっと電話したくて、外出ていい……かな」

「駄目だよ、俺たちは閉じ込められてる設定なんだから」

 ……きっとそのスマホを鳴らしている相手は早く出たほうがいい相手のはずだ。

「ギル、今は例外だ。早く電話に出させてやれ」

「だーめ。それに電話ならどこでもできるし!」

 ……これだから。少しばかりギルにいら立ちを覚えながら、強引に扉を開けようとするが本当に開かない。

「……ギル、いいからここ開けろ」

 少し強い口調で言う。そしたらその重要さに気づいたのか、声を小さくさせる。

「……だって……」

「いいから開けろ」

「……だって謎が解けるまで、扉開かないように……やってもらったもん……。謎、解かないと……」

 ……少し強く言いすぎたかもしれない。泣きそうになっている。

「し、新藤くんいいよ。隅で電話するよ」

 そう広くないギルの部屋の隅に移動してはスマホを耳に当てる。

「……ギル、悪かった。謎解きをしようか」

 そう言葉にするとパァーッと顔が明るくなって大きく頷く。と、同時に

「約束はどうしたの!」

 部屋中にスマホからの声で埋まった。その声にここにいた全員が驚く。

 総務は焦ってか、意味もなく僕らを背にして体を縮め込めた。電話の相手はやはり、母親なんだろう。

「だ、だからちょっと遅くなるかもって」

「――――!」

「ご、ごめんなさい……」

 ……見ていられない。

 総務の肩を叩いてスマホを奪うなり、電話を切った。

「えっ、ちょっと」

「耳障りだ。もう出るな、そんな電話」

「でも」

「言い訳なんて聞くつもりはない。今は出る必要のない電話だ。……ギルがせっかく用意してくれたゲームだ。そんな電話よりも、楽しめるんじゃないか」

 少しでも安心させるようにと、笑みを作る。でもどこか怒りを覚えていて、うまく作れていなかったかもしれない。

 僕らの様子を静かに見ていたギルたち。ケイは心配そうに、ギルや下条はわけがわかっていなさそうに。

「……悪かった。ギル、脱出ゲームの説明を頼む」

 総務のスマホの電源を切って、ポケットに入れた。


 無事に脱出できてリビングでくつろいでいる。

 ギルが用意したリアル脱出ゲームはとても作り込まれていて、たとえ手書きの文だったり、よくある謎解きであっても、十分に楽しめた。邪魔が入らなかったというのもあるだろう。総務は少ししか楽しめなかったみたいだが。

「いやー、にしても敬助解くの早すぎだよなー。問題見た瞬間にわかったってニヤニヤしてさ。全然答え教えてくれなかったし」

「脱出ゲームなんだ。すぐに答えを教えたら面白くないだろ?」

「そりゃそうだけどよー?」

 確かにケイは解くのが早かった。けど、僕も同じくらい解くのが早かった。

 感想をそれぞれで述べていたら総務が僕の腕を引いて、玄関に続く廊下まで連れられた。

「し、新藤くんスマホ……返して」

 酷く怯えた総務の顔。今までに見たことのない顔をしている。不安、恐怖、怒り。そんな交じり合った顔をしている。

 気に食わない。

「……無理だ」

「……ぼくのだよ」

「……返さな」

「返して!」

 大きな、総務の口から聞いたことのないような大きな声が耳に響いてはキーンと耳鳴りを鳴らす。

 服を掴まれ、その必死さを表す顔に、僕は諦めなんて思わなかった。

 ただ、惨めだった。

「……わかった。が、電話をするなら僕はここに留まる」

 スマホをポケットから出すなり、奪い取っては電源を入れる。起動するのを今か今かと、血眼になって待っている。初めて見るようなものばかりだ。

 起動ができたらそうそうに着信音が響く。それには慌てて受け取った。

「――――――――っ!」

 受け取るなり響く、うるさい声。心臓がドクドク鳴ってうるさい。赤の他人なのに。知らない人間なのに。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 特になにを言われたというわけでもないのに謝る。本当に気に食わない。今すぐにでもスマホを奪い取ってやりたい。

 もう総務に相手にされなくなっても、僕は総務の傍にいた。離れたくなかった。心臓が鳴ってうるさい。いつか、今すぐにでも殺されそうな総務から離れられなかった。

 見たことないほど怯えて、泣いている。誰がこんな顔しているクラスメート……友人をほうっておけるか。

「ごめんなさい……でも僕もう高校生だし、だいじょう……でも…………ごめんなさい……。ごめんなさい……」

 総務の肩に手を置いてもう忘れられている僕の存在を気づかせた。体をビクリと動かして勢い良く振り向かれる。

「あ、あのちょっと友だちが……。な、なに……」

 僕らの声を聞こえないようにか、スマホのマイク部分を服で覆っている。

 さっきの言動で少しばかり信頼を失わせてしまったらしい。けどいい。信頼を失うよりも、友人が殺されるほうが嫌に決まっている。殺されかけたあと、いくらでも嫌いたいなら嫌えばいい。

「ちょっと、出なさい。友だちより優先するべきことあるでしょ? 友だちよりお母さんの電話に出ないといけないでしょ? ねえ」

 小さく籠もった女性の声が聞こえる。母親か。

「切れ、その電話」

「……そろそろ新藤くんのこと嫌いになりそうだよ……」

「いくらでも嫌えばいい。その束縛を解くことができたのなら」

「……そくばく……?」

 知らないわけないだろう。クラス一と言っていいほど頭のいい奴が。

「そうだ。お前が母親から受けているのは束縛だ。それに、その感じからするとただああしろこうしろと言われているだけじゃないんだろ。手さえも、上げられているんじゃないか」

 その言葉に総務はハッと顔を上げる。当たってほしくなかった。図星をつきたくなんてなかった。

「で、でも、手を上げるって言っても、僕がきちんと勉強してなかったからで、お母さんはなんにも悪くないから……」

「例えばなにをきちんとしなかった」

「……家に帰ってからの勉強とか、塾の勉強とか。僕がやらないから、僕がきちんと全部できないから……」

 次第に目に涙を添える。いつかの、馬鹿で阿呆だった頃の僕に似ている。

 だからなんだろうか。こんなにも守りたくて嫌悪感を抱き、あわよくば殺したいと思うのは。

「きちんと全部できない、ではなく、できないことさえも親から押しつけられているんだ。……今の総務は」

 ……言葉を間違えた。総務が血相を変えて口を開けたことでそうすぐさま思った。

「……僕にできないこと……なんて」

 けどいい。もう言ってしまった。

「あるんだ。人間なんだから。総務だからこそできないんだ。それは誰にだってある。完璧な人間はいない。総務は完璧じゃないんだ。そんななか母親から完璧を押し付けられている。母親さえも完璧ではないのに。

 おかしいと思わないか。なぜ自分でできていないことを他人に押しつけるのかと。今の総務は世間から見ておかしな状況なんだ」

「おかしい……の……?」

「ああ、とても。きっと今の家や学校外でのことを言ってみろ。もっとおかしなことが出てくる」

 手を上げるよりも異常な光景があるようには思えないが、それでもきっとおかしな光景が広がっている。

 今でもスマホからは籠ってなにを言っているかわからない声が聞こえる。僕だけだろうが、それがすごく胸を不快にさせる。

「おかしくないと思うけど……家に帰ったらずっと勉強しないといけなくて……。ごはん食べるとき以外、ずっと教科書とか問題を解かないといけなくて、少しでも目逸らしたのを見られたら、なにしてるのって怒られるし、机とかも叩かれるよ……。べつにおかしく」

「おかしい。すごく。……酷かもしれない。けどギルや下条の家での様子を聞いてみろ。だいたいの家庭ではああなんだ。総務の家庭のような家が全て悪いというわけではない。それでも子供の自由を奪うような家庭は、ほとんどの場合が悪なんだ」

 ……僕も、そうだった。

「そしてそれを正と教え込まれた子供は、大人になってからおかしかったのかと気づく。さらには気づいたところで同じことをする場合もある」

 もう涙は止まっていた。それでも目を向けられないほど苦しそうな顔をしている。

 言葉でしか解決ができない。行動で解決できるものではない。させてはいけない。

「で……でも『場合もある』でしょ? それに大丈夫だよ。ぼ、僕の家は、僕にとっては普通なんだよ。だから……だいじょう」

「総務の家ではそれが普通なのかもしれない。けど世間では普通ではない。それに」

 なによりもが証明している。

「…………」

「それに、その震えた声、目にある涙はなんだ」

 総務にとっては「普通」であっても、「大丈夫」だと言葉で言えても、心ではきっとわかっているんだ。それが「普通じゃない」ということに。「大丈夫じゃない」ということに。

 指摘したら声を漏らして泣きだす。友人を泣かせることなんてもちろんしたくない。けど、これは今後の人生を左右させることなんだ。知っておいて黙っていずれ壊すようなことはしたくない。

 僕らの姿が見えないからと探していたギルが見つける。けど総務の涙は止まっていない。見つけて、状況を理解するなり、

「れ、れーくんなにしたの! 大丈夫総務さん!」

 誤解だ。

 けど、今総務の心情を明かしていいものかと、誤解を解こうとする前に脳裏によぎる。

 友人思いなギルは総務に駆け寄っては腕を回す。

「れーくんなに言ったの! なんで泣かせてるの!」

「……言いはした。が、なにかとは言えない。総務に関わることだ」

「またそうやってはぐらかす……。大丈夫だよ総務さん」

「……ご、ごめんね、新藤くん」

 こんな状況に置かれながらも他人を優先するなんて、どれだけおひとよしなのだか。

「……泣き止んでからまた話がしたい。少し風に当たってくる」

 二人を置いて外に出た。少しくらいの罪滅ぼしがしたい。罪滅ぼしなんてものでもないだろうが。

 様子を見に来たらしいケイが、顔を覗かせては隣に座り込む。けどなにも口にしない。肌寒い風が僕らを過ぎるだけだった。

「……極力抑えはしたんだ」

「しょうがなかったんじゃない?」

 どうだか。

 なかなか入るタイミングがわからず、体を震え始めさせてもずっと外にいた。なにより、ケイが上着を貸してくれたり、暖を取らせてくれたりしたから、入るほどでもなかった。それでも風が吹いたときは寒かったが。

 もうあたりも暗くなり始めていた頃、突然扉が開いた。聞こえた声は、

「新藤くん。お話、するんでしょ?」

 ケイに席を外してもらって、代わりに総務が座り込む。目の周りを腫らしていて、悪い事をしたとは思っている。

「……その、悪かった」

「ううん。なんともないよ。それにこちらこそありがとう。英川くんとか、下条くんの家のことを聞いたらほんとに違った。僕が思ってた普通とは全然かけ離れてた」

「…………」

 それで総務はどう思ったか。聞きたいのに口は動かない。

「兄弟とかはいないのか」

「大学生のお兄ちゃんがいるよ。でもどうして?」

「……一人暮らしでもしているのか」

「うん。大学生になってから。バイトもしてるみたいだけど、毎月とかにお母さんたちからお金貰ってるみたい。手渡しでね」

 兄弟に一人暮らしをしている。そして生活費は養ってもらっている。条件はそろった。あとは聞くだけだ。

 いつまでも喉元に留まらせているわけにはいかない。誰だって選択する権利がある。

「総務は、ギルたちの家庭を聞いてどう思った」

「……いいなって、思ったかな。それなりに言われることがあっても、勉強を強制されてなくて。時間余ってるときに好きなことしてるところとか」

「総務はあの家、親を苦痛だと思っているか」

「……わかんない。けど……。もっと自分がしたいことをできたらいいなって」

 ふいに聞かれてもわからないか。それが正解だと教えられて育ったんだ。ただ教えられた道を歩いているだけ、だなんていくらでもある。

「もし、本当にその家から、親から解放されたいと願っているのなら、一度兄に相談して、兄の家に住むことができないか、聞いてみたらどうだ」

「……聞いてどうするの?」

「……苦痛を感じる家から解放……いや逃げるんだ」

 解放なんて晴れ晴れとしたものではない。もっと小汚い言葉。

「逃げる……って」

「そう、逃げるんだ。今の総務は自分の親から攻撃を受けている。いずれ心臓を貫きそうなほどに」

「そんなことな」

「ないと思っていても、当の本人は気づけないものなんだ。殺されかけているだなんて。身を守ることで精一杯で」

 これほど過去の経験を語るようなことをした憶えはない。どれだけ過去を思いださせたいのか。

「でも、そうし……逃げたら……」

「……まずいことがあるなら言ってみろ」

「……お母さんは僕が……好きなんだ。お兄ちゃんも。だから僕がいなくなったら……」

 支えがなくなる。そう言いたいのだろう。

 だがな、

「総務は一人の人間だ。自分の意思で考え行動する人間。操られる人形じゃないんだ。誰かのために生きているのではない。……誰かの期待に応えようと『いい子』でいる必要はないんだ」

 そう言葉にしたとき、眼鏡越しに│まぶたが大きく開かれて、音が出ることもなく口が小さく開いた。僕の口は自然と緩んでいた。

 家族を大切にしようという気持ちは僕にはわからない。でも、ギルたちに置き換えたら嫌でもわかる。

 僕がしたかった話はそれだけだ。寒い外にずっともいたくない。家に入ることを促そうとすれば、一つの着信音が響いた。手をポケットに入れたのは総務。

 横目でスマホ画面を覗けば、相手は「お母さん」。

『ちょっと、豊! 早く帰ってきなさい!』

「ちょうどいい。言ってやれ」

 返事もなしにうるさく鳴くスマホを耳元へ持っていくので、僕は頬杖をついてそっぽを向く。 

「お母さん。きょ……ちょっと話を聞いて。僕が好きなら。……今日はもう帰ります。それで、話が家に帰ってからあるの。……送る人? いないけ」

『馬鹿じゃないの!』

「っ!」

 僕にも聞こえるほどの声が聞こえた。総務はとっさに耳を遠のけていた。

「一人で帰るなんて、なんであなたのような賢い子が考えるの? どこで道間違えたの?」

「で、でも……」

 また総務の声が震え始めている。……見ていられない。

 総務の眼中に入るように手を振って気づかせる。僕はスマホを寄こせと言うように右手を差し出した。初めはためらったようだが、いつまでも出し続けるその右手にスマホを置いてくれた。受け取ればスピーカーにして声を出す。

「すいません。変わりました。豊さんの友人です」

「はい? なんで変わったの? ちょっと豊?」

 名前を呼ばれる声が聞こえてか、声を出そうとするが僕は口元に人差し指を立てて黙らせた。

「今豊さんは……トイレに行かれました。それでなんですが、今日は僕が豊さんをお送りします。なので、今日は一切お電話をおかけにならないでください」

『なんで身知らずのあなたに指図されないといけないのです? 警察を呼びますわよ!』

「ええ。どうぞお呼びください」

 そう言う僕に驚いたのか、隣から小さく「え……」と聞こえた。

『今すぐ呼びますわ。覚悟なさい』

「僕もそのときはあなたを訴えます。虐待をしていると」

『……はい?』

「聞いた話によれば、豊さんが勉強をしているとき、いえ、無理にさせているとき暴言を吐いたり、もので机を叩いたりして精神的苦痛を与えているそうじゃないですか」

『そ、それは豊が勉強をサボろうとしてたか』

「サボろうとしたからと言って精神的苦痛を与える必要はないですよね。豊さんは学校の休憩時間にときどき勉強を自らしているんです。ですが、家でそういった苦痛を与えられながら勉強させられたらやる気にはならないでしょう。僕はそう思います」

『それはあなたの意見でしょう? 豊がそう思ってるかはわからないでしょう?』

「お、お母さん」

 黙って待つことができなかったらしい。総務は口を開けた。

『豊! 早く帰ってきなさい』

「お母さん。僕、嫌だ。怒鳴られるなか勉強したくない。僕は僕なりに頑張ってるから黙って見守って……ほしい」

「…………」

 本人からの温かいお言葉だ。これで文句はないだろう。

「……わかったわ。ただし、今日だけよ。明日はきちんと勉強するのよ」

 懲りないな。

「……うん」

 返事を聞いて満足したのか、電話はプツンと切れた。一瞬の静寂が過ぎる。

「し、新藤くん……僕刃向かっちゃった……」

「……遅れた反抗期か。なかっただろ」

「なかったけど、反抗期じゃないでしょ」

「受け止められなかった反抗は遅れて再来する」

「そう……なのかな」

 今日は遅くまでいていいだろう。だが、翌日からはどうだ。

「総務、早めに兄から住所を聞いて移ったほうがいい。事情を知っているなら受け入れは早いはずだ。いつまでもあれはキツいだろ」

「……うん。そうだね。そうだよね。ふふっ」

 笑うところがあっただろうか。総務はさっきの空気とは反対に明るく笑った。

「笑うの可笑しいよね。でも……お母さんに勝てた気がして嬉しいんだ」

 勝てた……か。

 冷たい風がびゅーっと吹いてきて身震いをする。

「寒い……部屋に戻ろう」

「ふふっ。風邪ひかないでね。あ、でもその前に、新藤くん、本当にありがとう。なんだか勇気が出たよ。新しい名言も生み出してくれたしね」

「……あれはもとからある。僕の大切な人の言葉だ」

「そうだったんだ。じゃあその人にありがとうって伝えてほしいな。もちろん新藤くんにもすっごく感謝してるよ。……本当にありがとう」

 いきなり腰を深く曲げられた。この光景はあまり好まない。顔を上げるよう言った。それでも満足するまでは上げてもらえなかった。

 次に見た顔は本当の笑顔だった。


 リビングでくつろいでるなか、ギルくんが突然「そういえば!」と、

「今日はね、れーくん以外には言ったんだけど、お泊まり会も兼ねてるんだ! 総務さんは途中で帰る……んだよね?」

 帰ってきた垣谷に向けて言う。蓮は帰ってきてからずっと毛布に包まってる。

「うん。泊まれなくてごめんね。またいけるようになったら誘って」

「うん! そのときは一週間くらい泊まろ!」

 それはさすがに無理があるんじゃない? それに、それだとお泊まり会じゃなくて居候って言うかも。

「れーくんはもちろん泊まってくよね」

「……断る」

「いーや駄目ですー。絶対に泊まってくださーい。あはは」

 ギルくん、たまに蓮に対してかわいい言い方するんだよな。

「でも英川くん。事前に新藤くんに連絡してないなら、新藤くんのお母さんたちが困るんじゃないかな」

「え、あっ、えっとー。それはー」

「それは心配ない。……今日親は仕事で帰ってこない。だから家に帰っても一人なんだ。ただ帰って寝るだけだからギルの家に泊まることはできる。泊まらないが」

「ならよかった。ふふ、せっかくなんだから泊まってあげてよ」

「そうだよー。俺のために泊まってあげてよー」

 俺がそうねだられたら断れないな。

 蓮が少し考えたあと、口を開ける。が、そのときに着信音が聞こえた。俺のじゃない。

 酷く反応を見せたのは垣谷だった。スマホをポケットから抜き出すと廊下へ駆けていった。蓮も毛布を肩に掛けながらあとをついていく。

「また総務さん電話かぁ。もう帰ってきなさいっていう電話かな?」

 その言葉に自然と時計に目を移した。時間は十時前だ。中学生の頃なら俺も帰ってこいっていう電話がかかってくる時間。

「じゃあさ、先に寝る準備しようぜ」

「え、お風呂入らないの? 入っていいんだよ?」

「……べつにどっちでもいいけど、パンツとか持ってきてないぞ俺。パジャマは持ってきたけど」

 俺はどっちも持ってきてる。念のため。

「俺のでいいのなら全然貸すよ? お風呂入ろ?」

「まーそこまで言うなら入るわ」

「うん。じゃあ、先に入ってくる? 敬助くんいい?」

「べつにいいよ」

「なら先に」

「ギル」

 ギルくんの言葉を遮って蓮が廊下から顔を出した。垣谷が後ろを通っていく。

「ん、なに?」

「総務が帰る。僕が送って」

「あ、それならお父さんに」

「いや、いいんだ。僕だけでいい」

「……そう? じゃあ、先に総務さん玄関まで送ろ」

 垣谷を玄関まで送り終えたあと、少しながらも心配が湧き上がってくる。もう九時を過ぎた。行きは垣谷といるから大丈夫だろうけど、帰りは蓮一人だ。いくら蓮が高校生と言っても、夜が物騒なのは変わりない。ヘンな奴らに絡まれないことを祈ろう。


「いつもああなのか。総務の親は」

「……うん」

「…………」

 もう暗くなった道を二人で歩いている。遅くまでやっている飲食店やコンビニの光が目立つ。静まり返った道を、冷たい空気を感じながら、月明かりに照らされながら、総務の家まで向かう。

 僕はああいう親は嫌いだ、大が付くほど。縛られるのは嫌いだ。だが、総務の親は自分の子供に対して過干渉すぎる。いつまでも親に干渉されながら生きるのか、干渉されない道、つまり死を選ぶかなら、僕は構わず死を選ぶ。それほど嫌いだ。

 そして、僕の友人でありギルと仲がいい奴の親がそうなら、気に食わない。総務の家まで今から約二十分ほど。

 脳内で言葉を巡らせる。総務の親に向けて言う言葉を。

「新藤くん。ここまででいいよ。遠くまでありがとう」

 駅の改札口前に着いたとき、総務が突然立ち止まったかと思うとそんな言葉を言われる。その言葉で今まで巡らせていた言葉たちが一瞬にして消えかかった。

「……最後まで付き合う」

「ううん、ここまででいいよ。電車賃かかるし」

「僕が最後まで送りたいんだ」

 総務の母親に用事もあるし。

「……ごめんね、ありがとう。でも新藤くんの分の切符は買わせて」

 そう言って券売機の前に立つ。僕はいつになったら切符を自分で買えるんだ。

 貰った切符を改札で通して総務の後ろを歩く。電車なんて久しぶりに乗る。……思えば酔い止めを飲んでいない。

 この時間になると電車を使う人間もそう多くはなくなる。普段見る人数よりも少ない駅のホームで電車を待つ。

「……総務は……乗り物酔いするか」

「うん。するよ」

「……酔い止め持ってないか。無理にとは言わないんだが」

 全くの申し訳も立たないように言ったからか、総務はくすっと笑う。

「ふふっ。酔い止め持ってきてないのに家まで送るなんて言ったんだね。新藤くんも抜けてるところあるんだね」

「……悪かったな」

 ガサゴソと鞄をあさっては酔い止めを渡してくれる。何錠か確認してから口に放り込んだ。水が欲しいが、もうすぐ電車が来るみたいだ。アナウスが鳴る。

 感謝を伝えて酔い止めを返す。そして、電車に乗り込んだ。

 この時間帯に電車を使う人は少なく、椅子はがら空き。難なく椅子に座ることができた。

 電車を使うとき、いつも隣にはギルがいたから、それなりに暇を潰せたが、今回は総務だ。今も静かに隣に座っている。向かう先に恐怖が待っていることを受け入れているかのように。

「……総務の父親はどうなんだ」

「……どうって?」

「……母親からそういう、苦痛を受けている間、父親はなにをしているんだ」

「……お父さんは悪くないよ。僕たちのためにずっと夜遅くまで働いてる。帰ってくるのはいつも僕たちが寝ついたあと。休みの日もあんまり家にはいないから、お母さんが怒鳴るところとか知らないと思う。お父さんの中ではいつまでもずっと、好きで結婚した理想像のお母さんのままだよ」

 総務を家に住まわせることができるのなら、いつでも住まわせてやりたい。けど、きっとこんなただのクラスメートなんかよりも、大好きな兄のところに行きたいだろう。

「……憶測だが、総務が中学に上がった頃、兄が高校に上がった頃だろ。母親が変わったのは」

「……なんでわかったの」

 初めて聞く総務の拍子抜けた声。

 わかるに決まっている。家族が社会に殺されないために、父親が自分を犠牲にしてまでやっていたということは、

「……中学や高校、大学に上がるときには……」

「上がるときには?」

 言う前に考える。それをついこぼす。

「……こういう話を子供の前ではしたくない……」

「同い年でしょ?」

「……まあ。……ある程度社会を知るという名目で総務には話すが、新しい場所へ入学するときはいろいろと学費を払う必要が出てくる。もちろん入学だけでなくとも学年が上がるときもそうだが、どうしても入学の時期には授業料といったもの以外にも制服代だとかで高くなってしまう。

 高くなると貯めた金がなくなる。なくなれば今後の生活にも支障が出る。だからより稼ぐ必要が出てくる。

 そして総務の家の大黒柱である父親がこれまで以上に稼ごうと家に帰らなくなる。家に帰らなくなれば、二人である程度補っていたことも一人では補えなくなって、もう一人の親である母親にすべてが任されてしまう。もっと言えば、家族との時間が減り、精神が不安定になる。それに家のすべてのことを母親が担っている状態、つまりそこは誰かが止めに入ることのできない無法地帯になる。

 それがエスカレートして、今の総務の母親になったといったところだ」

「……すごい。言われてみればそんな感じだったかも。でもなんでそこまでわかるの?」

「さあな」

 経験がものを言うんじゃないか?

 ガタゴトと騒音を鳴らしながら揺られる。揺れで眠気に誘われてあくびをする。

「僕も憶測で話すんだけど、新藤くんも僕みたいな親だったの?」

「……憶測で話されても困る」

「そうやって言いくるめるのだけはうまいんだから」

 だけと言うな、だけと。

「もしそうなら話してほしいな。新藤くんの気持ちが軽くなるなら」

「ならない。もう過ぎた話だ。……けどいい……。少しだけなら。むしろ話していないと寝てしまいそうになる」

 一つあくびをして目を│つぶる。ケイ以外にも知っていてほしい、そんな気持ちがあった。

「……正直僕も総務と似たような親だった。勉強を強いては罵声を浴びせられ、手を上げられ、飯を寄越さなければ、家に入らせてくれず、部屋やクローゼットに閉じ込められたりすることもあった。体調を崩したり病にかかってもいつも放置。いやけど、母親は……なんでもない。

 何度この息の根を止めてやりたいと思ったか。……けど思えば親を殺したいとは思ったことがなかった。それが法で裁かれるからか、そもそも思いつかなかったからなのかはわからない。

 ……愛されていないだとか、愛してほしいだとか、そんな言葉は頭に浮かばなかった。……ただこの体を親の目の前で殺して、笑ってやりたかった」

 口を閉じる代わりに目を開ける。

 ふと話している相手は誰だったかと思いだしては血の気が引く。……ケイじゃないんだっだ。

「い、今のは話を少し盛ったところがあって、全てが事実ということでは」

「そうだったんだ……ごめんね。僕よりもつらい思いしてたのに、散々に振り回してごめんね」

 総務の目の色が変わった。いつかに鏡で見た目。

「僕はごはんを作ってくれなかったり、部屋とかクローゼットに閉じ込められることもなかった。死にたいとかも思ったことなかった。僕の話聞いてたらそんな程度かって思ったでしょ」

「そんなことは」

「ごめんね」

「…………」

 話さなければよかった。話さなければよかった。なんで話してしまったんだ。なにが気持ちを知ってほしいだ。知ってほしかったとしても相手を間違えている。僕のこんな気持ちを言わなければ、総務を傷つけなかった。

「総務、本当に今のは」

「ごめんね。僕いくよ」

 目的の駅に着いたらしい総務は荷物を持って降りてしまう。僕もあとを追う。

 目の色の変わった総務を見るのは苦しかった。僕がそんな目にさせてしまったんだ。

 電車を降りては総務についていく。だが、向かう先は向かいのホームだ。話をしていたから気づかずに乗り過ごしてしまったか? そんなのんきなことを考えているうちに電車が来るアナウンスが流れる。

『快走電車がまいり』

 横目で見た総務の顔は変わらない。なんとなく総務の手首を掴んだ。

 電車の光が見えてきた。これは確か快走だ。各駅で止まらずに、何駅かごとに止まる電車。この駅へは止まらない。

 目の前をあと数秒で過ぎようとしたときには強く手に力を入れた。そして少しでも腕が引っ張られたら後ろに引く。

 ガタゴトと音を鳴らしながら快走電車が走っていく。隣では腕を引かれて尻もちをついた総務がいる。なにがあったのかわからずに目を丸くしている。

「……立て」

「……うん」

 もう電車は過ぎていって静かななか、総務が尻をはたいて布が叩かれる音が響く。

 総務にそうさせた僕が悪い。だから強くは言えない。なにも言わない。

「……悪かった」

「……ううん」

「……家に帰って、母親に話がしたいんだろ」

 酷く目を潤わせては目からあふれ、それを拭って口を笑わせる。

「うんっ!」

 もう二度と僕の家庭のことは話さない。これ以上僕の私欲で周りを巻き込んではいけない。誰も得をしない。いつまでも心の中にしまっておけばいいんだ。僕が我慢をすれば。

 駅を出ては外の寒さに身震いをする。

「……ここから家までどれくらいだ」

「十分くらいだよ」

「そうか」

 十分、いや話す時間や往復する時間も考えて三十分。三十分の辛抱だ……。

 なぜだかギルのように総務に袖を掴まれながら隣を歩く。いつも通りの顔。ただ少しだけ今から行く道を嫌がっているようにも見えた。

 なにか話をしようかと口を開けるが、なにを話していいかわからない。さっきのように傷をつけてしまうかもしれない。なにも喋らないほうがいいんだ、僕は。

 もうすっかり暗くなって、明かりが目立つ住宅街を歩く。もうすぐ着くんだろう。母親に言いたいことをもう少しまとめておこう。

 寒さも忘れるくらい頭を集中させていれば歩みが止まって隣から声が聞こえる。

「新藤くん。今度こそ、ここまででいいよ」

「……今度も最後まで付き合う」

「ううん、もうすぐそこだから」

 指を伸ばして一軒家を指す。

「……すぐそこならば余計に最後まで付き合わせろ。母親に迷惑をかけたと、挨拶もしておきたい」

 言い返せば俯いてしまう。

「お願い」

「…………」

 総務は顔を見せようとしない。手は肩に掛けた鞄の紐をぎゅっと握り込んで、どこか震えている。

「お願い……。僕はもう誰も……傷つけたくないから」

 総務はなにを言いたいんだ。そう一瞬口に出そうかと思ったが、出す前にわかる。今から挨拶に行こうとしている相手のことを思えば。

「……僕だけが我慢してればいいから」

 ──自分が我慢すれば誰も傷つけない? ✕✕✕✕✕が我慢したら✕✕✕✕✕が傷ついてるだろ。誰も傷ついてないわけない。✕✕✕✕✕が傷ついてる──

 脳裏にそんなことを言う声が聞こえた。昔に言われた言葉。僕が我慢すればなにもかも丸く収まる。そして誰も傷つくことがない。そう勘違いしていたときに聞いた言葉だ。

 今でも勘違いし続けてしまっているが。そう言った奴が気づいていないのだからいいだろうと高をくくって。

「総務」

 呼べば顔を上げてくれる。さっき以上に怯えた顔だった。

「総務は一人の人間だ。感情を持っていれば傷つきもする」

「違う……違うよ……。僕はもう誰も傷つけたくない。……このまま新藤くんを連れて家まで行けば、僕だけじゃなくて新藤くんにも刃が向いちゃう……。僕は新藤くんに傷ついてほしくないから、お願いだからもう行って……」

「…………」

 怯えた顔。それでも無理に笑おうとする顔。醜い。 

「……頭のいい奴も、馬鹿なときは馬鹿だ」

「……え?」

「傷つくのは僕だけではない。ギルたちも傷つく。総務という人間が他人によって、自分によって傷つくことは、僕もギルたちもきっと許さない」

「……そうじゃ、お母さんが新藤くんに対して傷つけちゃうからっていう」

「そんなことで僕が傷つくと思っているのか。むしろ上等なほどだ」

 過去についた傷が容量を広げてくれている。いまさらそんな程度で傷つく僕ではない。

「面倒だからしないが。……とにかく家行くぞ。遅くなればもっとうるさくなる」

 僕が勝手に足を進めれば「ちょっと……」と言いながら隣を歩いてくれた。総務が指差した家は確かに「垣谷」とネームプレートにあった。確か総務の名前はそんな名前だった。

 僕はインターホンを鳴らした。

「し、新藤くん早く行ってよ!」

「…………」

 腕を引かれて連れて行かれそうになるのを、今回ばかりは耐えた。扉から女性が出てくる。見下すような目つき、化粧の上品さからはいっそう威圧感を覚えさせられる。

「今何時だと思って……豊」

 僕の隣に目を向ける。

「お約束通り、お送りしました。遅くにご迷惑をおかけしております」

「ふんっ。ほんと迷惑。豊、早く家に入りなさい」

「うん……」

 総務の体には糸が張られている。

 操られて扉に向かおうとする総務の腕を掴む。思わぬことだったらしく一歩後ろに転げそうになっていた。

「な、なに新藤くん」

「……行っていいのか」

「え?」

「豊早く入りなさいっ」

 総務を無理やり入れさせようとする。乱暴だ。

 今ここで総務を渡せばきっと、これからも親からの干渉を受けるだろう。

「あなたは自分の子供を殺す気ですか」

 そう一言言えば、ピタリと動きが止まった。だが同時に、総務からなにを言っているんだという顔をされる。僕は至って正気で冷静だ。

「あなた、なにをおしゃってますの? 大切な家族を、自分の子供を殺す? 馬鹿にもほどがありますわ」

「馬鹿なことではありませんよ。それに、いつあなた自身の手で殺すと言いましたか」

「っ……」

 僕はべつに総務の親が自分の手で殺すなんてことは一度も言っていない。総務が自分の手で殺すことだってできるんだ。

 現に総務も気づいたらしく、少し俯いた。

「いつでも自分を殺すことはできます。心を誰かに殺されれば、簡単に」

 いつかの僕がそうであったように。

「あなたは、あなたのせいで自分の子供が幸せではないことを自覚していますか」

「豊が……幸せじゃない……? なにをおっしゃって? 昔も今もずっと変わらず豊を大切に育ててきた。幸せに決まっているじゃない!」

「そういう、本人の返答もなしに自分で『幸せ』だと決めつける。なによりの証拠です、幸せを奪っている」

「あなた、なにをっ……!」

 上げられた手が振り下ろされ、パチンッ! と、静かな夜によく似合う音が鳴る。

「お母さん!」

 体を動かせなかったのか動かなかったのか。頬をジンジンさせながら、動悸は止まない。胃が痛くなってきて、足が震えて、それでも服を精一杯に掴んで平然を装う。

 顔を赤くさせた母親は夜には迷惑になる大きな声で言った。

「いい加減なこと言わないでくださる? だいたい、なんであなたにそんなこと言われないといけないわけ? あなた関係ないでしょう!」

「――ん……」

「家には家の決まりが――」

「――さん」

「守らなかった豊が――――」

 耳鳴りがしだして声が聞こえない。

「聞いてらっしゃ」

「お母さん……!」

 はっきりと聞こえた総務の声。あまりにも涙声で目を向ける。

 確かに涙を流していた。拭わずに、頬に何本もの筋を作っている。

「聞いてよお母さん……! もう、もうぼくの大切な友だちを傷つけないで! そんな、友だちを傷つけるお母さんなんて、大っ嫌いだよ!」

 その言葉に母親の目は大きく開かれ、眉間にしわを寄せる。

「あなたまでなにをっ!」

 振り上げられた手が下ろされる前に総務の前に立ち、

「まだ気づかないんですか」

「な、なにがです……?」

 ちらと総務を見ては、まだ涙を流している。声も漏らして、小さい子供のように泣いている。

「……あなたのお子さん、泣いてますよ」

「っ……」

「……そろそろ自認してはいかがですか。あなた自身があなたの子どもの幸せを奪っていることに」

 一度は僕へ怒りを向けて目をカッと開き、手が振り下ろされることを覚悟した。だがすぐに自分の行いを認めたように上げられていた手は顔を覆って崩れる。

「私だって……私だって……あの子に全部させてあげられなかったから、せめて豊には、豊には全部してあげたいって、良い未来になってほしいと思って……」

「…………」

 あの子……というのは総務の兄のことだろうか。

 全部させてあげたいだなんて、押し付けだということにも今も気づいているのだか。

 崩れた体勢のまま総務を呼ぶ。その頃には涙を流さず、過呼吸になっていた。

 呼んだ総務を胸に抱き寄せて、優しく頭を、体を包み込む。その光景を目にした僕は、胸がチクチクと痛みだして、つい目を逸らす。

「私は豊が幸せになってほしいの……。将来安定した収入を得て幸せに生きてほしいの……。だから今からでも勉強をして、いい大学に入って、いい会社に入って、幸せに生きてほしいだけだったの……。でも、そうだったのね……。私ったら……私が豊を不幸にさせてたのね。私と一緒にいると豊が不幸になるのね」

「…………」

「ならどうしたら……私はどうしたらいいの……」

 涙ながらに自分の子供を手放さまいと強く抱きしめている。……全ての元凶はここにある。

「……僕から一つ、提案があります」

 一か八か。……けど今となっては即決しそうだ。愛する子供の命を守るために。

「豊さんには兄がいると聞いています。あなたが豊さんに幸せになってほしいと心から願うのなら、兄の承諾を得られたのなら、豊さんを兄の家に住まわせる、ということを提案します。

 この提案をどうするかは、あなた方『家族』次第です。僕は介入しません。あなた方家族の意見を聞いてよく考えてお決めください」

 言葉をするたびに胸が痛む。家族なんて……。

「……豊はどうしたい?」

「…………」

 総務らしく悩んでいる。そう思ったが、静かな寝息が聞こえた。

 母親が腕をちょいとどけたら総務の顔が覗かれる。心地よさそうに、久しぶりに味わう温かさに埋もれて、幸せそうに眠っていた。

「…………」

 ……痛い。胸が締めつけられる。

「……豊も寝たみたいだし、明日ゆっくり家族で話しますわ。……ありがとうございます。あなた、お名前は?」

 ずいぶんと人が変わった。

 誰だって幸せがいいものだ。自分の子供の寝顔を見れるんだ。

「……自分でお聞きになってください。……家族に」

「ふふっ、そうしますわ」

 笑い方、同じだ。酷く胸が痛くなってきて、少し抑え込む。

「子供たちが幸せであれば、私はなんだっていいの。怒られようとも嫌われようとも、殺されようとも」

 総務を抱き上げて立ち上がる。重さでかバランスを崩しそうになっていてとっさに手を伸ばすも、そんなもの要らなかったみたいだ。すぐにバランスを取る。

「知らない間にこんなにも大きくなって……。子供の成長は早いものよねぇ。そういえばあなたは豊のお友だちと聞きましたけど、おいくつなんです?」

「……そのお子さんと同い年ですよ」

「……あら、そうでしたか。妙に大人びてましたから二十歳前後かと。失礼しましたわ」

 大人……。

「この子が風邪をひかないうちにベッドに寝かせてきますわ。あなた、帰りはどうされます?」

 僕の帰りを心配するだなんて。自分の子でもないのに。

「……タクシーでも捕まえて、独りで帰ります」

「そう、それならお気をつけて。……本当にありがとうございました」

 総務が落ちない程度にお辞儀し、扉は閉まった。

 胸の痛みに耐えられず、ゆっくりしゃがみ込んで胸を抱える。

 数分が過ぎて、それでもずっと冷たい空気だけが僕を覆って、身震いする。

「…………」

 ……帰ろう。誰もいない家に。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

「憧れの存在(2/2)」に続きます。

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