伝わらない。この気持ち(1/2)
九月上旬。ある平日のホームルーム。
教室は冷房がついているからと、半袖の者がいれば長袖やベスト、カーディガン姿の者もいる室内。
チャイムと同時に入ってきた先生はいつも通り、立ち上がっている生徒を席に座らせ、総務に号令をかけるよう言う。
「着席」
号令後もいつも通り、今日のわかっている欠席者(今日はいないらしい)と予定だけを言って教室を去る。そう思っていたが、今日は少し違った。
「そこ知っとけよー。あともう一つ。これは予定っていうかお知らせだ。今日、このクラスに転校生が来る」
その言葉でクラスがヒソヒソと騒ぎ出す。……この時期にか。いや、べつに珍しくはないか。
うるさくなる前に先生は生徒の声を抑えるようにと、両手を上下させて言葉を続ける。
「はずなんだが、はどうやら遅れてくるみたいなんだ。もしかしたらどこかの授業中に来るかもしれないからそのときは……よろしくっ!」
人任せ。それに普通に遅刻じゃないか、その転校生やらよ。第一、可も不可もないような容姿で、「よろしく」なんて言ってウインクをされても反応に困る。それには触れていない生徒が多かったみたいだが。
転校生という言葉で教室は口々に質問し、騒がしくなる。
「せんせーかわいい女の子ですかー?」
「かっこいい男子ですよね!」
まあ、そう生徒に質問攻めにされても先生は「来てからのお楽しみだ」の一点張りなんだが。理想を高めておくのは勝手だが、結果を知ってどん底に突き落とされないようにだけしておくことだな。
……その時はそんなことを考えていた。その時は……。
結局、その転校生は二限目の途中に入ってきた。
扉の開く音でもともと静かだった教室内がさらに静まり返る。きっと開けた奴は視線を集めているだろう。僕はまだこの問題が解けていなかったからそのうちの一人にはならなかったが。
「す、すいません。遅れました……」
誰も反応しない。声的に男。
誰もこいつが例の転校生とは口にしなかった。正直なところ、転校生という言葉より「今日誰かいなかったっけ?」や「クラス間違えてる?」のほうが多かった。が、僕は問題の答えを考えながらも、こいつが例の転校生なんだろうとは予想がついた。
……僕が人の顔や名前を憶えてなくとも、この学年の生徒それぞれの声を憶えている、なんてことはない。今もほとんど憶えていない。
ただ簡単なこと。さっきも誰かが言っていたように、今日このクラスに休みはいない。それに生徒がそう呟くなか、名前らしき言葉を発する者はいなかった。少なくとも二年半はこの高校で過ごしているんだ。誰か一人くらいは認知されているだろう。
こういうことから例の転校生だろうとは思った。だが、確実とは言い切れず、条件を揃えてもなおすり抜けることのできた、べつの存在かもしれないが。
「おぉ、来たか!」
ちょうどこの時間は数学で、僕の担任の先生が担当している。もちろん担任の先生は今日来る奴の顔と名前を知っているだろう。同じく転校生も。
問題を解き終え、その入ってきた奴を見る。
「…………」
高身長で顔立ちが整っており、脇下辺りまで伸ばした赤みがかった茶髪を後ろに結び、前を合わせずにカーディガンを着た男子だ。なにか特徴のあるそいつに、僕は見覚えがあったようななかったような、そんな曖昧な印象を受けた。
入ってきた奴は先生の顔に見覚えがあるのか少し安心したような顔になる。先生がそいつに近づいてなにか話しをしたあと、先生がこちらに体を向けた。
「みんな授業中だけど、転校生来たから紹介してもいいか?」
「さんせー!」
「しようぜしようぜ!」
と、歓迎の声。中には「授業の時間潰れるぞ」と言う声が聞こえたのは黙っておこう。
この時間が担任の授業でよかったな。もし違う先生ならどうなっていたのだか。
しばらく授業が中断されるとわかった僕はシャーペンを置き、頬杖をついて様子を見る。
「ここら辺書けてるよな? まだ書けてない人。……いないな」
黒板の右の一部を消して、チョークで心地のいい音を鳴らし始める。まあ、そいつの名前だろう。転校生はその文字に被らない位置に立ち直し、一度深く息を吸ってから声を出す。
「は、初めまして。遅れてすいません。……家の事情で転校してきました。影│島│敬│助です……。えぇ……っと」
「好きなこととか」
先生が耳打ちする。
「好きなことは……」
教室内が一人の声で響くなか、僕はその名前を聞いて数秒間思考停止していた。影島……敬助……?
「です。よろしくお願いし」
「ケイ!」
そうだ。見覚えのある顔。声変わりしていて声は聞き慣れていないが、聞いたことのある話し方。忘れてはいけない名前。……決して忘れてはいない。思いだせなかっただけだ。
誰だか思いだし、立ち上がって声を上げてしまった。
「お、新藤知り合いか?」
「なんで……」
忘れてはいけない人間だが、よく対立するのであまり良い思い出はない。あったかもしれないが、ほとんど僕の嫌な記憶が絡んで思いだしたくはない。
相手も僕に気づいたようで驚きながらも声を張る。
「……えっ! も、しかして……」
ケイはのこのこと黒板から離れては、僕に近づきそっと腕を回す。僕よりも大きな体に、一瞬の安らぎが僕の体を包む。
「✕✕✕✕✕……会いたかった」
耳元をゾワゾワさせながら、その不快な文字列に嫌悪感を覚える。
「……ケイ……。なにも喋らず一度離れろ」
「喋り方も……あの頃のままだ」
黙らなければ離れもしない。耳付いてるか? 無理やりにその大きな体を離れさせる。
見えるケイの目元は酷く潤んでいるようだった。そして一筋あふれ出す。
「……男なのに……情けない」
袖で目元を拭う。けど口元は緩んでいた。
「でもほんとに懐かしい……。夢でも見てるみたいだ。本当に会いたかった」
「同じく夢だと思いたい。だが、その夢のような出来事で過去の記憶が虫のように湧き出てきた。だから僕の前から去って、今日こうして会ったのはなかったことにしてくれないか」
「……ははっ。酷いなぁ」
それでもケイは微笑む。
「まだまだ話したいけど……そろそろ戻るな」
「勝手にし……待て、一つだけ」
ケイは僕より少し背が高い。軽く背伸びをして耳元で言った。
「ここではその……名前で呼ばないでくれ。事情はあとで言うから、ここでは姓名か蓮と呼んでくれ」
初めは不思議そうな顔をされるが、理解してくれたようで微笑まれる。なんとかわかってくれたようでよかった。
「わかったよ、ゆ、じゃなくてレン」
早々に言ったことを破るのかとヒヤヒヤした。
ケイは一度優しく微笑むと、教卓の横まで戻っていった。あの優しい微笑み方、本当にケイなんだな。……本当に過去を思いだす。嫌な思い出も良い思い出も。
先生がケイの席を指定する。
「あそこに席用意したからあそこに座れ」
指定された席まで移動したケイは机の横に鞄を掛け、机にペンケースやノートを開いて前を見る。
本当にケイだ……。夢でも見てるんじゃないかと思うほど偶然だ。一度軽く手をつねってみたが痛覚は反応する。夢ではないことが証明された。
ケイも僕がいることに驚いているのかこっちに顔を向け、そのときに目が合った。
「…………」
ケイは軽く微笑むなり前を向く。なんとなく、教室に入ったときより肩が下がっている気がする。ケイでも緊張することがあるんだな。
「じゃあ、授業再開するぞー。影島、教科書は次の休憩時間に渡すから、今は板書だけどっかに写しておけ。紙あるか?」
「はい」
なんでケイがまた僕の目の前に現れたか。しかもなんで同じ学校で同じクラスなんだか。ケイに聞いても意味のない疑問しか浮かばない。
もういい。考えても無駄だ。授業に集中しよう。
そして無事、授業が終わってからケイに誰もいない廊下まで連れられるまで、ケイの存在を忘れていた。集中しすぎて、連れ出した相手は誰かとわからなかったくらいだ。
「ここなら二人だな。事情ってのは」
「……あぁ」
そういえば話すんだったな。あまり過去を振り返って語りたくない話なんだが、逸らすことはできないのだろう。
「……確か、口は固かったよな」
念のため確認をしておく。こんなことを誰かに言いふらしてもあまり変わることはないだろうが。
「自分では……そう思ってる」
ケイの目の下は酷く黒くなっている。なんだか体も揺れている。
「ならいい。……僕の両親は中学の頃に……交通事故で死んだんだ。だから」
そう言ってすぐ、まばたきをした次にはケイが倒れてきた。とっさに腕が支えるが、数秒間なにがあったのか理解できなかった。
「け、ケイ……?」
返事はない。
「どうしたケイ」
「…………」
きちんと呼吸はしている。べつにせわしい呼吸などもしていない。落ち着いた呼吸をしている。脈も心臓もきちんと動いている。なにがあったんだ……? 貧血か……?
どうすることもできずケイの体を支えていれば、
「れーくん捜したよー。急にいなくなるんだからー」
タイミングが良すぎる。
「いいところに来た」
状況を少なからず理解したのか目を丸くして問われる。
「え、どうしたの。その……えっとー確か転校生の人だよね?」
「ああ……。僕が両親が死んだことを言うと突然倒れてきて……」
「……それが原因じゃないの?」
「……まあいい。とりあえず保健室に運ぶのを手伝ってくれ」
「わかった」
ギルが手を貸してくれ、足と肩をそれぞれ持って保健室まで運ぶ。ケイに連れられた場所は人通りがなくて、人に見られることはなくおおごとには発展しなかった。
保健室前まで来たら、一度降ろして腕の疲れを癒す。靴を脱いで、脱がせ、半ば引きずりながら保健室に入った。
「あら、新藤くんに英川くんに……」
「影島敬助です。とりあえず、寝かせてやってください」
保健室の先生がベッドまで案内してくれたので、そこへ僕らはケイを寝転ばせた。さすがに脱力状態の人間を運ぶのは力がいる。疲れた。
ケイを寝転ばせたベッドの空いているところにだらしなく腰掛ける。
「どうしたの……影島くん。なんでこんな状態なの? ……なにがあったか話せる? きっと緊急じゃないから救急車も呼んでないんだろうけど、場合によっては呼ばなくちゃいけないから」
「話せますけど……僕も原因がわかってません」
「だかられーくんの……あれじゃないの?」
僕もそれは考えたんだが、ケイは……。
「……そうかもしれないし、そうでないのかもしれない。本人が起きてから聞くしかないようだ。もし僕が原因なら謝らなければならないし」
「……ま、俺はこれで」
ギルが保健室から出ていった。扉が閉まったのを音で確認してから顔を上げる。
「……で、なにがあったの?」
少し疲れも癒えたから立ち上がって先生と向き合う。
「えっと、話を……大事な話をし始めたら急に倒れました」
「……え、それだけ? ……その話ってどんな内容なの?」
「……大事な話です」
「先生にも言えない話?」
言えるが言えない内容だ。学校には親が死んでいることを誤魔化し続けている。どう言えばいいのかもわからず、タイミングもなく言えていない。それに気を遣われそうだ。
「はい。言えません」
なにか事があるまで言わないでおこう。
「そっか。そんなにドえっちな話なんだねー」
微かに廊下から音が聞こえた。が、気にせず答えた。
「……違いますけど」
「……冷静ね。もっと焦ってくれるかと思ったのに」
「話し聞く気ありますか」
本心からそう思う。
「ごめんごめん。で、どんな内容?」
しつこい。
「ドえっちな話じゃない内容です」
「……本当に真剣な話で倒れちゃったの?」
「ずっとそう言ってるんですが」
「……そういえばそうだったわね。うーん。話した瞬間に倒れたの?」
話した瞬間というより、
「……一言目を言い終えたあと。ただ一言目が衝撃だったかもしれませんが」
「うーん。本人に聞くしかないようね。起きるまで待ってみるわ。呼吸も正常だし、顔色も悪くない。睡眠不足とかちょっとした貧血とかなら、少し休めば起きると思うから」
「そうですね。……では、僕も戻ります。ケイをお願いします」
多少は心配がありながらも、軽く礼をして保健室から出て後ろ手に扉を閉めた。
すぐそこにいる人間に話しかける。
「ギル。本当に僕の言葉が衝撃だったのだろうか」
向きを変えず、僕らの話しを聞いていたギルに問いかける。
「あ、やっぱり盗み聴きしてたのバレた?」
「ドえっちという言葉で廊下から音がした」
「ヘンな耳付けて」
ヘンなとか言うな。
「……で、なんでそう思ったの?」
「ケイは僕と同じくミステリー小説や探偵ものに手を付ける奴なんだ。だから殺人用語とかよく出てくるから耐性はあると思うんだ」
「現実のは無理なんじゃない?」
「……そうかもな」
「戻ろ」
ギルが靴を履きだすので僕も履く。酷く静かなまま教室に着くなり席に着いた。
時間を見るともうすぐチャイムが鳴る。次の科目の歴史の先生が室内へ入ってくる。鞄から歴史の教科書とノートを取り出した。
ケイの目の下にクマのようなものがあったような気がする。さっきの授業でケイの様子を見ていればよかった。眠たそうな素振りを見せていたのなら安心できるんだ。ただの寝不足だけならいいんだが……。
次第にチャイムが鳴り、歴史の授業が始まる。
「総務さん号令お願いします」
「起立」
「蒼真くん、椅子借りていい? ……ありがと」
ギルが僕の前の席の奴に許可を得てから、後ろを向いて跨ぐようにして座る。そう言うところは怠らない。……僕以外に。僕の机や椅子は構いなしに使用する。今も机の上にギルの弁当がある。
「ふぅーやっとお昼だー。お腹空いたー」
机に伸びながら言う。ギルの腹からも空腹の声が小さく聞こえた。
「ごはん食べよー」
「……ああ」
「なにか考え事?」
返事が遅かったからかそう問われる。
「……食べ終わったら保健室に行きたいと思ってな」
「珍しく自己申告? どこが具合悪いの?」
なぜそうなる。
「違う、ケイだ」
「あ、えっと敬助くんだっけ? そうだね」
ギルが保冷バッグから弁当と箸を出すので僕も出す。僕の弁当箱はギルのより少し小さい。理由は多々ある。これもその一つだ。
「今日どんなお弁当?」
毎晩、夕食と一緒に弁当の具材を作って翌朝に弁当箱に詰めている。具材の量を多くすれば、晩に作る具材が増え、ただでさえ少ない睡眠時間がさらに減る。さすがにそれは僕の脳や身体的にも避けたいことだ。
ギルの問いに弁当箱の中身を見せた。百聞は一見にしかず。
「あ、珍しくパスタある! ……えへへ、れーくんの作る卵焼きおいしいんだよねー」
と、当然かのように僕のところから二つある卵焼きの一つを奪っていく。ついでかのようにパスタも少しも奪っていく。
いまさらどうこう言わない。もう慣れたことだ。むしろ奪うために椅子を借りて一緒に食べているんじゃないか、なんて最近では思っている。
「いただきまーす! ……このパスタおいしい! どうやって作ったの? もしよかったら俺のお母さんに伝授してよ!」
レシピも奪っていくのか。
「またお邪魔したときにでもな」
「やった! あ、でもれーくんが作ったパスタのほうがおいしいよ」
なんのフォローだ。それにギルは母親がそれでいいのか。
いただきます。
ギルも自分の弁当箱を突き始めたので、僕も食べていく。……いつも通りの出来栄えだ。ただ昨日は時間もあったからいつもより丁寧に出来ている。
「ねえれーくん。敬助くんってどんな人なの?」
ギルが喋らず静かだったなか、いきなりの質問に少し戸惑う。ケイがどんな人なのか? 僕も長くケイといたというわけではないから、すごく知っているということでもない。
間を空けて答える。
「……そのうちわかる」
「……間空いたのにそれ? べつにいけど。俺あの人なんか気になるなー」
ケイを知ってもなにもないと思うんだが。
「……気になるか」
「うん、転校してきたばっかりでどんな人か知らないし。それにれーくんと仲良くしてる人なら余計に……!」
「なんだそれ」
「ほら、敬助くんがれーくんと話してて、俺がその話に入っても気まずくならないようにしたいの!」
本当に相変わらず友人関連になったらチャレンジャーになるものだ。授業中に手は挙げないのに。
「……ギルならすぐに仲良くなれるだろう。あいつは重要な話などでなければ、誰が入ってきても会話が止まることはない……と思う」
そもそもケイが僕以外と話しをしていたところを見たことがない気がする。
「俺、頑張る!」
「頑張れ頑張れ」
「感情込もってなくない?」
「気のせいだ」
「えー?」
僕が視線を弁当に移したことで、自然とその話は終わった。
今でもケイが本当に保健室で寝ているのかも怪しむくらいの偶然な話だ。僕らが住むここはそこそこ大きな市だ。極端に田舎というわけでもなく、高校だっていくつもある。それなのになんで選ばれたのがこの高校なんだか。だが、ケイがこの高校にいるというのは事実。
……会いたかったかもしれないし、会いたくなかったのかもしれない。僕にはわからない。
ただ、昔を思いだしたのは確かだ。あれは……。今でも悪く、だが良い思い出……かもしれない。過去をしみじみと、ときどき胸を痛めさせながら弁当を食べていた。
ふと腹の満腹感を覚えて手を止める。
……少し作る量を間違えたかもしれない。腹がいっぱいになってきた。このあとは体育でシャトルランがあるから食べすぎは勘弁したいのだが……。
手が動かないでいるとギルに問われる。
「お腹いっぱいになっちゃった?」
「……少し」
「珍しいね。れーくんが作る量間違えるの。……あれ、卵焼き残ってる! 食べていい?」
「……ああ」
食べるのはべつにいいんだが、ギルも食べすぎは良くないからな。そう思っていたがギルの弁当箱はもう空だった。食べ終わっているのならいい。
保冷剤や保冷バッグで弁当を包んでいるが、保冷剤がいつまで保つかわからない。帰ってから腐っているなんてことは避けたいから、もう食べてしまおう。
腹の不快感を無視して胃に無理やり詰め込めば、喉の奥から不快感が押し上げて、
「……っ」
すぐ唾を飲み込んで誤魔化す。
少しトイレに行きたい……気持ち悪い……。
「ごちそうさまでした! れーくんの卵焼きおいしかったよ! パスタもね!」
満足そうに口を笑わせる。おいしかったのならなにより。
弁当箱を鞄に入れて、背もたれに体を預けて胃の不快感を癒す。気持ち悪い……。
「次体育だー。しかもシャトルランー」
ギルが空いた机に伸びてやる気のなさそうに言う。僕はギルに現実を突きつけられて、一瞬口からなにか出そうになる。想像しただけでも吐き気が増す。体育だなんて、シャトルランだなんて……。
シャトルランは本当に嫌だ。いつも限界まで走っていないつもりではいるが、走り終えたらしばらく動けなくなる。水筒を取りにいこうにも体が動かなくて補給すらできない。……そもそも水筒を持ってきてないが。
過去の一番酷かったものでは、その日がなんとなく貧血で頭痛やめまいがするなか、走り終えたあと呼吸をするので必死で水分すら飲めなかったとき。しかもそのときの終わり方がつまずくように線を踏んで倒れ込んだから、壁に顔面を打ちつけて口の中を切っていた。そして呼吸に必死になっていたからその流血を飲み込むこともできずに口からあふれ出たことで吐血を疑われるなんてこともあった。
体に負担しかかからないからシャトルランなんて本当はしたくないのだが。
ギルは自分の弁当箱を持って去るなり、今度は体操服を入れた袋を持ってきた。男子の更衣室は教室だ。だから女子生徒が去るまで着替えることはできない。特に騒がしい女子は去るまでが遅いからなかなか着替え始められない。
「蒼真くん、机借りていい? ……えへへ、ありがと」
ギルは前の席の奴に机を借りて体操服の入った袋を置き、教室に女子生徒がいないことを確認する。ネクタイを取り、シャツのボタンを開けながら僕のほうへ振り向いたが、
「…………」
なにも喋ることが思いつかなかったのかまた前を向いて、シャツを置く代わりに体操着を持ってこちらに向く。
僕もカーディガンを脱いで着替えていく。が、やはり食べすぎた。腹が張ってどうも動きたくなくなる。カーディガンを脱いでからなかなか動けない。
「れーくん大丈夫そう? 吐かないでよ?」
「体調が悪いというわけではないから、じっとしていれば吐かずに消化されていく。安心しろ」
「あはは……」
「…………」
安心していなさそうな苦笑い……。確かに今までにもこう言ってきたことはあるが、その三分の一はその安心させられない方向に進んだからな。無理もない。僕もギルの立場ならあんな反応をしていたかもしれない。
着替え終えてから体育館シューズの入った袋を持って体育館に行く……前に保健室へ寄った。ケイの様子見のために。さすがに起きている頃だと思うんだが。
扉をノックして開ける。
「失礼します」
「……新藤くんと英川くん。いらっしゃい」
机でなにかをしていた保健室の先生が立ち上がって僕らに近づく。
「ケイはもう帰りましたか」
「まだよ。ずっと寝てるわ」
まだ寝てたのか。
「起こさないのですか」
「起こしても起きないのよ。……ほら」
ケイが寝ているベッドのカーテンを開けて言う。
「もうぐっすりで何度声をかけても起きないのよ」
ケイはゆっくり呼吸をして寝ていた。気持ちよさそうとも言えず、なんとも言えない表情で寝ている。
「爆睡だね」
「ここをどこだと思っているのだか」
「ねえ、ちょっと起こせそうなら起こしてくれない?」
そんなことを言われても。
それに起こしても起きないのならそれはもう今後起きないと言っているようなもの……いや息はしている。
仕方なく僕はケイの名を呼ぶ。
「ケイ、起きろ」
「…………」
「ケイ」
「…………」
「……殴っても起きないんじゃないか」
右手に拳を作りながら言う。
「れーくん殴っちゃだめだからね?」
「……殴らない」
「……駄目だからね?」
「起きないかぁ」
困り顔になる先生。さすがにこうも起きなければ僕も困る。話しができない。……もうその記憶さえも忘れるほどの熟睡ならば話さなくてもいいかと思ってしまうが。
「友だちでも駄目なのね……」
「ケイとは友人ではありません」
「そうなの?」
「……た、ぶん。少なくとも仲が良いというわけではない……と思います」
「ふーん。大事な話ができるほど仲が良いと思うんだけどねー」
「…………」
確かに。深い話のできる知り合いと言ったほうがいいのかもしれない。
ケイが友人かどうか、か。きっと……。
ギルが口を挟む。
「……ねえれーくん。敬助くんの好きな単語言ったら起きるんじゃない?」
「……なんだそれ」
「ほら、よくあるじゃん。好きな単語とか聞いたら起きるワンちゃん。あとはニオイとかに釣られて起きるワンちゃんとか」
それ犬の話だろ。ケイを犬だと思っているのか? ギルにはケイが犬に見えているらしい。
「やってみてもいいが起きないだろうな」
とりあえずケイが好きであろう単語を探して言う。
「密室殺人」
「…………」
反応はない。
「……なんでそんな物騒な言葉なの」
「……ミステリーが好きな奴はだいたい好きだ」
「……へぇー?」
ミステリーもの、そもそも本を読まないギルにはわからないだろうが。
「ワンちゃん作戦駄目だったかー」
ヘンな名前。そもそも作戦だったのか。名前からして実行する相手が違うと思うんだが。
軽く肩を揺らしてみるが、本当に反応がない。これ本当に起きないぞ。むしろ本当に大丈夫な睡眠か疑うほど起きない。
試しに手の甲をつねってみれば……嫌そうに顔をしかめては手を払う。一応大丈夫な睡眠みたいだが……。
「……先生、これどうするんですか」
「このまま起きないのなら放課後までならいけるんだけど、それ以上になるとちょっと困るわね。親御さんを呼び出すって形になるから」
「……では放課後まで待って、起きていなければまた起こしに来ます。……では」
「ありがとう、よろしくね」
保健室を出て体育館へ向かう。あそこまで起きないとは思っていなかった。
「敬助くん起きてなかったね」
「あそこまで起きないのは相当な寝不足のようだな」
「昨日の夜遅くまでゲームしてたのかな?」
「……ケイが遅くまでゲームをしているイメージはないものだが……ただの寝不足、とは言い切れないのも確かだ。なにかあるのかもしれない」
「ますます敬助くんのこと気になってくる」
やはり友人関連になると好奇心旺盛になる。……いつからこんなにも他人に触れようとしだしたのか。明るくなったな。
「あいつを研究してもなにもない。あいつは僕と同じく、推理小説好きの愛読者なだけだ。あそこまでの眠りの深さは初めてだがな」
「そうなんだ」
と言っても約一年間の間だけだ。あれくらいの深い眠りならその一年間の授業中に寝ていてもおかしくないんだが、そんな様子は見たことがなかった。
あと二限。起きなければ、ケイを引きずって家まで……いや無理だ。ケイの家の場所を憶えてない。そもそも引っ越していて場所も違うだろうし。
体育館に着いた。授業開始まではあと……三分ほど。時間を見るために左腕を出したが腕時計が付いている。外すのを忘れていた。
学校の体育の時間は外すよう言われている。先生に見られるとマズいので外してポケットに入れておいた。もっと安全な場所に置いておくべきだろうが、どうせ壊れても数千円のものだ。気にしない。
背の順で横に二列で並ぶその列に入る。ギルはまだ時間があるからと│傍にいる。
チャイムが鳴る前に情けなくほどけて垂れている靴紐を結ぶ。こういう靴は結ぶのが本当に面倒だ。ほどけるたびに一度立ち止まって結び直さなければならないし、脱ぎ履きがスムーズに行えない。
だから普段は靴紐を結ばなくていい靴を愛用している。通学に使っているローファーもそうだが、普段はスリッポンタイプのものを使っている。僕が使うものは紐があるように見えるが、それはただ装飾としてあるだけで結ぶなんてことはしなくていい靴を使っている。とてつもなく便利だ。
チャイムが鳴り、準備体操後のウォーミングアップとして五分間体育館内を走り、朽ち果てる。休憩後にペアを作り、ついに二〇mシャトルラン開始だ。
初めはペアのギルが走ると言い出すので素直に譲る。僕はギルが脱落したときの数値を見ることになる。
ギルはかなり体力がある。いや、比較対象が僕だから平均辺りかもしれない。
もう十分というくらいスピードが上がって、五十回を過ぎたのにまだ走っている。僕ならこれより少し前で脱落しているだろう。
六十回を過ぎた頃から、だんだんと一部の出場者がペースを落としていっている。その一部にギルも含まれている。
男子高校生のシャトルランの平均は八十四回と、始める前に先生が言っていたが、僕には遙か彼方の数値だ。まだ走っていないがきっと、平均の半分、つまり四十二回もいかないことはやらなくてもわかる。だから測らなくていいか?
ギルはどこまで保つのか。
結果、ギルは七十八回で体力尽きた。最後は崩れるように線を跨ぎ、ぶつかるようにして壁に支えてもらい、崩れた。お疲れ様。
ギルの水筒と一緒に置いてあったギルのタオルを持って、他者の邪魔にならないようにギルの傍まで行った。
肩から息をして苦しそうだ。
「お疲れさま」
「れ……くケホッケホッ……」
「無理して喋るな。先に呼吸を整えろ」
「ん……」
壁に体を預けて何本もの汗を流し、汗で濡れた髪をその白い肌に付けて、服をヒラヒラと動かしている。これを僕も後ほど味わうと思えば寒気がする……。
タオルで不快そうなその汗を拭いてやる。
「ありがと……水飲む……」
水筒を渡せば、蓋を開けてゴクゴクと音を立てて飲んでいく。
「ぷはぁ……生き返るー。……あっち行こ」
どこかはわからないが、ギルが立ち上がってどこかへ向かうのでそのあとを付いていく。
着いた先、あっちとはどうやら扇風機の前らしい。走り終えた者が数人いた。
「涼しー……」
僕はべつに汗をかいていないので、前に立つことはしなかった。
「れーくん、俺何回だった?」
「七十八回」
「んー平均まであと何回? ……六回かー」
七十八回でも僕にとっては羨ましい数値だ。
「先生に報告してくる」
「うん。ありがとー」
最後の走者が脱落したあと、選手交代。今度は僕が走る。……走りたくない。
数分後に開始の合図がし、走り出す。開始の合図からこの一音ずつ上がっていくのですら、体が抵抗している。線を踏むたびにまだ続くのかという嫌気が増す。
スピードアップした。
毎度、初めのほうは意外といけるかもしれない。なんてことを思ってしまうが、二十回を超えた辺りからそんな考えは次第に消えていく。そして徐々に周りとの距離に差が生まれてくる。
二十五回を超えた辺りに一度、胸を張って少し回復した分足を踏ん張る。が、すぐにペースダウン。それを繰り返していれば、もう四十回だ。
まだ脱落者はいない。さすが現役高校生の体力というか。僕も現役高校生なんだがな……。周りと若干遅れ気味のまま走り続ける。
四十七回目。もうかなりキツいが五十回はいきたい。前回は確か、四十三回で終わった。前回の記録を超したからもう終わってもいいんだが、限界がどれほどなのか知りたい。いや、今回だけだ。来年は四十過ぎたら終わってやる。
五十回目。目標の数値だ。あとこの体がどれほど保つのか。もうすぐ終わりそうな気がするが……。
結局、予想通りすぐ終わった。
五十二回目に入ったとき、急に足の力がふわっと抜けて、驚いたり受け身を取ったりする間もなく顔面から床に思いっきりぶつけた。一緒に鼻血も出てくる。
ヒリヒリと顔面というより鼻が痛む。が、鼻血が垂れないようにしながら、先に邪魔にならないようラインの外に出た。
ギルがすぐ来てくれる。
「れーくん大丈夫そ……って鼻血出てるよ! 保健室行ける? 俺も行こうか? 足疲れてるでしょ?」
まあなんとも過保護で困る。
「な……なんとか……行けるだろう……から……心配しなくて……いい」
呼吸が荒れていて、喋りにくい。それに喉が乾燥して痛む。
「……そっか。とにかく鼻押さえて、行けそうなら行ってきて。俺先生に言っておくから」
そう言って去っていく。
呼吸するだけで精一杯だ。壁にもたれて上に向かないよう息を整える。
ギルが先生に伝えてくれたからか、ギルと一緒に先生も近づいてきてティッシュを貰った。
「息整ってからでいいからな」
そして破顔する。体育教師は外見の割には意外と慈悲深い。
呼吸が整って、ギルに無理やり水分補給をさせられたあと保健室に一人で向かう。足が痛いなどであれば誰かの肩を貸してもらっていただろうが、今は鼻のほうが痛い。
ノックしてから保健室に入れば、保健室の先生がいる。そして鼻をティッシュで押さえていることで察したのか、鼻血かと聞いてきたので僕は素直に頷いた。
先生は僕を扉のすぐ横にある長椅子に座らせたら、袋に氷を入れているようだ。ジャラジャラと音が鳴る。
「シャトルランで躓いて顔から」
「うわっ、痛そー……。骨とか折れてない? 大丈夫?」
「たぶん大丈夫です。酷く痛むことはないんで。それに痛みも和らいできてるんで」
「そう? ならいいんだけど」
先生が氷を入れた袋を持ってきた。僕はそれを受け取って鼻をつまみながら周りに当てる。直接だと少し冷たすぎて痛みを感じるが、外の気温はまだ少し暑い。ちょうどいいくらいだ。ただ、視界が遮られるのが鬱陶しい。
「新藤くんっていろんなこと知ってるから、いろいろ言わずとも勝手にやってくれて助かるんだよね」
……ん?
「なんのことですか」
「ほら、今も。鼻血が出たときは上向いちゃ駄目とか、誰かから貰ったティッシュを持ってるのに、鼻に詰めてないとかね。あとその鼻のつまむ場所。そこであってるのよ。たまに鼻骨を押さえる人がいるからね」
鼻骨を……?
「でも新藤くんは正しくないってわかってて、自分からそうしてるんでしょ?」
「そう……ですね」
「普通知ってないことよく知ってるからねー。新藤くんは。さすがだわー」
先生は僕をなんでも知ってる物知りかなにかと勘違いしてはいないか? 僕はなんでも知っている物知りでなければデータベースでもない。
「言わずともいてくれると思うけど、もう少しだけここにいてね」
体育の授業に戻らなくていいのなら戻らない。戻るわけがない。素直に頷けば、先生は机に戻ってパソコンに向かう。
けど、あれ以降なにかする感じはしないがな。ただ走る人間を見るだけ。強いて言うならそれくらいだろう。
体力のある奴がチャイムが鳴るまで走り続ける。もしかしたら鳴っても走り続けてるかもしれない。なんて哀れな。……哀れと言ったら少し可哀想か。
長距離を耐久したとたたえられるべき哀れな存在と言うべきか。
……そういえばここ保健室なんだよな。
「先生、ケイはどうですか」
「ケイ……? あぁ、影島くん? なにも変わんないわよ。ずっと寝てるわ」
まだ寝ているのか。
「あと一時間で起きてくれたらいいんだけどねぇ」
一度立ち上がってケイが寝るベッドのカーテンを開けた。本当にぐっすりなようで姿勢が変わっていない。ずっと仰向けだ。
静かに腹を動かして寝息を立てて眠るケイの寝顔。
僕はケイに寝顔を見られたことがある。昔に。だが逆に、こうしてケイの寝顔を見るのは初めてだ。そんな初めて見るケイの寝顔は、
「…………」
少し悲しそうな顔をしている……ように見える。どんな夢を見ているのか知らないが、とにかく早く起きろ。夢見るケイの脳内に訴えかけたいのはそれだけだ。
ケイが初めてかもしれない寝返りを横に打って僕のほうに向く。
……もしかしてこの眠りは、この高校へ来る前の緊張や不安が限界を達したとかではないか? それで限界のなか、昔に会った僕という知人に会って緊張や不安が一気に和らぎ、体が保たなく爆睡……みたいな。
まあ、こんな憶測を立てても、僕のあの言葉が原因ということは大いにあるんだがな。
氷とティッシュを片手で持ち、右腕を持ち上げる。脱力状態の人間の体は本当に人形のようだ。こんな脱力状態で腕を持つことなんて相当ないから、少し貴重に感じる。
ケイの腕を上げて遊んでいたが、ケイの喉から「んー」と音が聞こえたことを堺に止めた。一瞬起きたかと思った。だが、結局起きていない。また腕で遊んでいてもよかったが飽きた。
もうそろそろティッシュを離していい頃だと思い、疲れるし鼻を押さえるのを止めていいか聞こうとしたとき、先生から切り出してきた。
「もう鼻血止まったんじゃない? 一回離してみて」
言われた通りに離す。鼻からなにか垂れるような感じはしない。きっともう止まったのだろう。
「どう? 止まってる?」
「どうやら」
「ならもう戻ってもいいけど、あんまり動きすぎるとまた出るかもだから、安静にね。新藤くんがはしゃぐってイメージないけど」
「はい、ありがとうございます」
閉め忘れそうになった、ケイが寝るカーテンを閉めて氷を返したとき、チャイムが鳴った。
「……授業サボれたね。体育嫌いなんでしょ?」
「……まあ、そうですね」
全教科のうち、体育が一番苦手であり、嫌いだ。これはよくあるタイプの嫌い方、できなくて苦手になり、苦手だから嫌い、という感じの。きっと唯一、僕が嫌いなもの。……いや、まだ他にもたくさんあるか。
ティッシュも捨てさせてもらい、礼をして保健室を去った。
そのまま教室に戻ろうと思っていた。だが体育館シューズを体育館に置いたままだということに気づき、体育館に向かっている。
途中、数人の体操服を着た奴とすれ違った。同じクラスの奴だろう。僕も早く着替えたい。さすがに汗が服に染みて寒く感じてくる。
男子生徒が群がってるところに行けば、いつの間にかギルが傍にいた。ギルはどこかにセンサーを付けているようだ。僕のみに反応するセンサーを。
「れーくん、大丈夫だった?」
「特に大量出血ではなかった」
「ならよかった」
ギルが差し出してきたのは僕の体育館シューズが入った袋だった。気が利く。
「水筒って持ってきてなかったよね」
「これだけだ」
「じゃあ着替えに行こー」
ギルに手首を│掴まれながら連れられて教室まで行った。が、まだ教室が空いていない。廊下は暑いといううめき声が聞こえてくる。確かに少し蒸し暑い。
「待たせたー」
誰かが遅れて来て、教室の鍵をいじっている。そいつに後ろから誰かが飛びついた。
「おせーよ!」
「ごめんって」
仲がいいのはわかったから早く開けろ。
教室が開けばぞろぞろと入っていく。僕らも入った。……ん。涼しい。
「涼しー」
感じているのは僕だけではないようだ。
「つけっぱなしだったのかな」
「らしいな」
自分の席に行って着替えていく。服を脱いで肌着姿になったとき、より肌に冷たさが伝わる。涼しい……。けど少し寒い。身震いもするので早々にシャツを着た。
カーディガンの前はあわせないでおこう。まだ少し暑い。着替え終えたら席に着いて次の授業の準備をする。ギルも自分の席へと帰っていった。
次は古典だ。
終学活が終わった。
僕とケイの鞄にそれぞれの荷物を入れて、いつもより一つ荷物を増やしながらギルと保健室へ向かう。ケイは起きているのかどうか。
「起きてるかな」
「さあな。……まあ起きていてくれたほうが楽だ」
「そうだね」
保健室の前で靴を脱ぎ、扉をノックする。
「失礼しま……す」
中には誰もいなく、返答は無かった。保健室の先生はすぐどこかに行くな。
「先生いないね」
「まあいい」
目的は保健室の先生ではない。
僕はケイが寝ているであろうベッドのカーテンを少し開けて、いるか確認する。そこにはやはりケイがぐっすり寝息を立てて寝ていた。まだ寝ていたか。
ギルにも確認させるようにカーテンを大きく開く。
「ぐっすりだね」
「……起こすとするか」
肩を軽く叩きながら声をかける。
「ケイ起きろ」
「起きてー」
ギルも加勢してくれる。
「んー……」
反応したかと思えば、寝返りを打って僕らに背を向けた。
「うるさいって」
「…………」
このままほうっておいてやろうか。
鞄をベッドの隅に置いて、肩を揺らす動きを加えて続けて起こす。
「いい加減起きろ」
「起きてー」
「…………」
呼んでいると、ケイの目元からキラリと光るものが流れる。
「あれ、泣いてる?」
「……泣いているな」
「どうしたんだろ。怖い夢でも見てるのかな?」
ケイが小さく呟く。
「ここ……み……」
「ココミ?」
「……確かケイの二歳下の妹だ」
「妹さんいたんだ。その妹さんがどうかしたのかな」
妹の存在は知っているが、どんな容姿なのかは知らない。ただ、優しそうな性格なんだろうと、ケイの話から予測ができる人だ。
「――――!」
叫ぶと同時にケイが飛び起きた。
「起きた」
「おはよー」
「…………」
涙に気づくとなにもなかったかのようにさっと拭う。
「ゆ……レンと……」
「お、同じクラスの英川ギルだよ。よろしく!」
「……よろしく」
ギルの挨拶、初めは弱々しかったが、徐々に自信を持っていったのがわかる。成長したな。
「……泣いていたが大丈夫か」
「ん……ああ、全然平気。ちょっとな……」
「…………」
なにか隠していそうな言い草。ケイに隠し事とは似合わない。小学三年生のときだって僕に隠し事はしていなかったのに。
「敬助くん、俺さ、知ってるんだ」
ギルの唐突な物言いにケイが困惑しているようだ。初対面で二の句がそれだと確かに僕も困惑する。
「さっきさ、というか教室でもれーくんのこと✕✕✕✕✕って言ってたでしょ!」
「そ、そうだっけ」
「俺もれーくんの前の名前知ってるんだ!」
「…………」
前の名前。親に付けられた聞きたくない名前。僕には関係のない話とばかりに席を外そうかと、保健室から出る行動が頭に浮かぶ。
「いい名前なのになんで変えたんだろー?」
顔を覗かれながら言われるが、僕は無言で視線を逸らす。なんだっていいだろ。
「……ところで寝不足か。朝から夕方まで寝ていたぞ」
ケイは時刻を確認しようとあちこちを見渡すが、見つける前にギルがスマホ画面を見せていた。
「……まあ、そんなところ」
「何時に寝ているんだ」
「えっと……十時……くらい?」
「何時に起きている」
「……七時……くらい」
二十二時に寝て七時に起きている? 睡眠時間約九時間。少し寝すぎなくらいで睡眠時間は十分だ。
「……睡眠時間九時間だとすれば十分なくらいだ。それにその睡眠時間寝ていたら、さっきまでの熟睡はなんだ。ちょっと睡眠不足なだけで倒れるまではいかないと思うんだが、なにか病気でもわずら」
「あの! ……さ。え、エイカワさんって」
僕の推量を遮って、ケイが声を上げた。
「ギルでいいよ」
「……ぎ、ギルくんって……レンと仲いいんだよな」
「うん、幼稚園の頃から仲いいよ」
「…………」
ケイは一度考えるように視線を楽な場所に移す。
そのまま少し経ったら、なにかを決心したような顔になって、再びこちらに向く。
僕は一度、目だけでギルを見た。ギルも僕のほうを向いていた。このあとなにを言い出すのやら。
ケイは一度静かに深呼吸したあと口を開ける。
「あのさ……二人にだけ言っておきたいことがあるんだ。……俺の」
「待て」
僕は一度保健室内と廊下を見た。誰もいないことを確認して扉を閉め、戻る。
「続けてくれ」
こういう秘密を言うときは注意しないと、誰かに聞かれている可能性があるからな。それがトラブルの原因になったりもする。
「……俺の妹、レンなら知ってるだろ」
「俺も知ってるよ。ココミさん、だよね?」
「……言った?」
「ケイが自分で口にしていた」
「寝言でね」
ギルがそう付け足す。
ケイはそっかと言って少し声のトーンを下げ、続ける。
「……その心美が俺が小四のときに交通事故で死んだんだ」
「えっ……」
「…………」
一気に空気が重くなるのを感じる。ケイの妹が……。
「俺の目の前で、しかも轢き逃げ。場所的に人通りが少なくて、防犯カメラもなかった。ナンバープレートを見たかったけど、夕方で暗かったし妹が目の前で倒れているのが目に入ってすぐに対応できなかった。
俺はすぐに救急車と警察を呼んだけど、心美は知っての通り間に合わなかった。轢かれたときにはもう無理だったかも知れないけど。
警察が来てからいろいろ言ったけど、情報が暗い色ってのしかなくてなんの証拠にもならなかった。ナンバープレートを一文字でも見ていれば、せめて車の車種さえわかれば、それが証拠になってもう少し対応してくれたかもだけどな。
それで俺は心美が死んだとわかってからなんの情報も言えなかった、そもそも俺が横にいたのに車が来ていることに気づかなかった俺のせいだと思って……その頃から寝れなくなった。いや、寝れるけど、心美が轢かれて、辺りも服も血まみれにして……酷いときは心美が俺のせいだって、言うはずもないことを言ってる夢を見て……」
訳はわかった。……酷い話だ。
「それが今も続いてぐっすり寝れないでいるということか」
「……まさしく。睡眠に対する抵抗とか出来て……三日くらい寝ずに過ごして、やっと意識失ったように強制的に眠らされる。今日あったように。
睡眠薬とかの薬は医者から貰ってるけど……悪夢見るくらいならべつに寝なくていいって思って、飲んでない。飲みたくない。俺は薬なんか……いや……。寝ることで悪夢を見るトリガーになるから親からうるさく言われたとき以外飲んでないし、極力寝ないようにしてる」
「…………」
かけてあげられる言葉が思いつかない。なにを言えば傷を作るのか、なにを言えば傷を癒せるのか、わからない。
ケイも苦労してここまで生きてきたんだ。なにかかけてやれる言葉はないだろうか。
考えているうちにケイが声のトーンを戻して言う。
「……今もその、些細な壁はあるけど、当時とか中学時代よりメンタル回復してるから、気軽に接してくれたほうが助かる。ほんとに酷いときよりは全然マシだから。なによりレンがいてくれるだけで全回復する」
そう僕に顔を向けて微笑む。本当かどうかもわからないことを言う。どこまでが本当なんだか。今も消えない黒色を目の下に付けて。
「……どんな過去を過ごしてきたのか、全てはわからないが、ケイも苦労したことはわかる。よく頑張ったな」
少しケイの目が潤ったと思えば、嬉しそうに口を緩めて「ありがとう」と微笑む。
「……さ、俺は全部吐いた。レンも全部吐いてくれない?」
できればあまりしたくない話ではあるが、あのとき事情はあとで言うなんて言ってしまった。過去には戻れないから、言わなかったことにはできない。
一度部屋を見渡し誰もいないことを再確認する。小さく溜息を吐いて、口を開けた。
「僕の両親、詳しく言えば再婚した母親と知らない再婚相手の男が中学二年のときに交通事故で死んだ。それからは僕の選択で一人で暮らしている。
それで、名前を変えたんだ。役所や家庭裁判を通して。べつにそのままでもよかったのだが、あの名前は……あまり使いたくなかった……。
それから新藤蓮として生活している。だから学校でも新藤蓮となっている。これがケイに呼び方を指定した理由だ。べつにどう呼んでくれたっていい。ただ、旧名は使わないでくれ。思いだしてしまう」
「……そっか。わかった。……なにもできなくてごめんな」
いきなりの謝罪に当惑し、なんの謝罪かと問おうとしたが、先に越された。
「いまさらだけどギルくんはいていいの?」
「……ギルはもう知っている」
「うん、知ってる」
むしろギルが名付け親ですらある。
「……そっか」
さすがに知り合い程度の相手にはこんな重い話はしない。ケイはやはり友人と呼べる存在なのかもしれない。……いや、そうなんだろう。
ケイが一度深呼吸するので、釣られて僕も肩の力を抜いた。肩が軽い。
「なんか、全部吐いてスッキリした」
「僕も少し肩が軽くなった気がする。共有できる者なんて限られてくるからな」
「逆に俺は肩が重くなった気がする……あはは」
知っているものも含まれていたとしても、重いものを同時に二つも脳にぶっ込まれたんだ。疲れるに決まっている。
「申し訳ないな。巻き込んでしまって」
「ううん。たぶん俺が接近しすぎた……。敬助くんのこと知れたからいいんだけど」
出会って間もない。ギルの言う通り近づきすぎたのかもしれないな。
「でも、なんでれーくんは名前変えたの? ✕✕✕✕✕って名前いい名前だったのに」
変えた理由はギルにも言っていない。変えた理由は僕の過去の家庭環境が関わってくる。ギルには僕の家庭環境を話していないから、今から言えば日が暮れる。言うつもりもないが。
ケイは家庭環境を知っているだろうからなんとなく想像はつくだろう。
「俺も気になる」
……わかっていないようだ。
「なんてな」
そうからかうように笑う。……くだらない。
「ギルくん、人には人の事情ってのがあるから、本人が望まない深掘りは良くない」
「えっ、れーくん事情あるの? 俺に黙ってる事情あるの? 教えて教えて! 心配になっちゃう……」
はぁ。ヘンなことを言うから。ケイを少し睨んだが、ケイは気づいていない。……この。
「……いつかな。機会があったらそのとき話そう。今はそんな気分ではない」
「そんな気分って、やっぱりどえっちな事情なの!」
どこから出てきた。それになんだどえっちな事情って。むしろそっちのほうが気になる。
「意味がわからん。……とにかく今は話さない」
「えぇー。じゃあ帰ってから」
「話さない。気が向くまでは話さない」
「もーれーくんのケチー。もう話してくれないんなら話してくれるまで前の名前で呼んじゃうよ? ゆーくんって」
「っ……」
心臓からドクッと音が鳴る。
言葉って、本当に刃先の鋭い凶器だ。……いとも簡単に心臓を貫く。
思いだしたくもない記憶が勝手に脳内で流れ始めて、胃をぐるぐるとさせる。思わず腹をさすった。
「……ギルくん」
「……え?」
ケイに肩に手を置かれる。
「やめてあげて」
「…………」
ギルはなにもわかっていなさそうに首を傾げるが、わかったと不満そうに悲しそうに弱々しく言う。申し訳ないな。
ケイがベッドの隅に自分の鞄があることに気がつくと、口を開いた。
「その鞄、俺の?」
「……放課後なにもないから」
「ありがとう」
ベッドから降りたケイは自分の鞄を持つ。ケイが先導して保健室を出て行くので、あとに付いて靴を履く。
門まで行こうとすれば、ケイが真反対の方向に歩いていくので、思わず呼び止めた。
「ケイ、教科書やファイルとかは入れてある」
「あれ、門ってこっちじゃなかった?」
そうか。来たばかりだから場所が把握できてないのか。
「門はこっちだ」
頭をかくケイが来てから歩きだす。抜けているところがあるのも昔から変わっていない。
シャトルランがあった翌日。
続いて今日は体力測定が行われるそうだ。
「…………」
「おーい、れーくん生きてるー?」
「…………」
「あはは。生きてないね」
まだシャトルランよりはマシだが、なぜそう測ることを二日連続でする? 体力がない奴の気持ちにもなってくれ。いつも周りより数値の小さい結果を出す。さすがにやる気もなくす。
今日もギルはソウマという奴の席を借りて僕の目の前で着替えていく。僕も嫌々体操服に着替えていった。
着替え終えて教室を出ようとしたとき、ポケットに腕時計を入れていたのを思いだして抜き取って鞄に入れた。昨日ポケットに入れたまま制服に着替え、家に着いた頃腕時計はどこだと思いだした。帰る途中どこかに落としたのかと心配してたが、ここに入れていたことをすっかり忘れていた。
教室を見渡してもケイはまだ来ていない。次の体育は二限目に当たるが、果たして来るのだろうか。
体育館に行くまでに何度か愚痴をこぼしていた。
「なんで二日連続で……」
「仕方がないよー。一年のときもしたんだし」
「……来年は受験生だ」
「今も来年も関係ない」
「はぁ……」
体育館に着いてからは列に並んで待っている。時間が止まってくれと願い続けたが、もちろん止まるわけがなく、虚しくチャイムが鳴った。
いつも通りある準備体操後のウォーミングアップで五分間体育館内を走り、朽ち果てる。
休憩がてら今日の測定の手順などの説明を先生から受けた。この時間内に全ての種目の計測を終えるのは少し無理がある。今日と次の体育の時間で終わらせるらしい。
今日するのは握力、上体起こし、長座体前屈。数人の班を作り、ローテーションをしてやる。
班員はいつもながらのメンバー。
初めは握力。
「じゃあ初め俺な! 絶対四十五キロは越えてやる!」
下条が測定器を握り、一息置いてから手を震わせながら握りしめた。おお、数値が上がる、上がる。
結果は、
『44・1㎏』
「……くそー! あと一キロ!」
「惜しー。あとちょっとだったのに。次左だよ。真也くんのあと次俺ね」
「おうよ」
測定器を持ち替えて再び握りしめる。
『46・3㎏』
「うぉっしゃー! 四十五越えた! よっしゃー!」
すごく嬉しそうだ。ガッツポーズまでしている。なぜそこまで嬉しいのか僕には理解できない。
「おめでとう! やっと越せたね」
総務が嬉しそうな下条を見ながら口にする。「やっと」と去年の結果を知っているということは、どうやら去年は同じクラスだったらしい。
「ちょー嬉しい! あーでももっと右手鍛えねぇとなー」
次の目標ができるのが早い。まあ頑張れ。左右それぞれ二回目もしたが、一回目の左の数値を超えることはなかった。
「じゃあ次俺するー」
ギルはどれほどなのだろうか。今年の夏に行った夏祭りでのお化け屋敷の時に掴まれた感覚では、おおよそ五十キログラムは越えていると思うんだが。……冗談だ。
「んー……っと。どれくらいかな……」
自分で数値を見てから僕らに見せびらかす。どれどれ……。
『36・2㎏』
五十キログラムはなかったか。……そうか、残念。
「前より落ちたー」
「前はいくつだったの?」
「えっと、三十八とかそこら辺」
よく憶えているな。
「でもあんまり変わらないよ。元気出して」
「うーん……」
あまり元気を出していなさそうな返事をして左手に持ち替える。利き手のほうがいい結果が出るんじゃないか?
計り終えたあと、自分で一度見てから嬉しそうに見せびらかしてくる。上がったのだろう。
「見てっ! 四十キロいけた!」
「おぉー! さすがギルだな!」
「えへへへ。ありがと」
嬉しそうに照れる。あと十キログラムあれば、五十キログラムなんだがな……。
左右の二回目が終われば今度は総務がやるらしい。測定器が総務に渡される前に、僕に紙を挟んだバインダーとシャーペンを渡された。記録係が各班に一人いて、そいつに当たっているのが総務だ。そのため、バインダーやらを持っていたんだがそれを僕に渡された。
「総務さん、目標は!」
「んー、三十五は越えたいかなー」
そう言う総務の結果、ちょうど三十五キログラム。
「うぉー!」
「すごい! 三十五キロちょうどだよ!」
「ありがとう」
ギルの褒める言葉に素っ気なく返事をし、早々に持ち替えて左手を計測していく。下条とギルの数値でハードルを上げられたからな。意識していなくても低く見えてしまう。
……そうだ、記録を。
のんきに光景を楽しんでいる場合ではなかった。総務の記録用紙を最前列に持ってきて記入する。
「どうだった?」
ギルの問いかけに測定器を見せた。記録しないといけないので僕も覗き込んだ。三十三キログラム、書き込んでいく。
二回目も終わって総務の全体の数値を見たがどれも平均的だった。総務は頭が良くシャーペンを握る時間が長いと予測できるが、だからと言って握力が強いというわけではないようだ。……当たり前か。
「最後れーくんだよー」
はあ、やはりやらないといけないか。総務にバインダー等を渡してギルから測定器を貰う。
「頑張れー」
ただ計測するだけのために応援なんて要らないだろ。
一つ緊張ほぐしがてら溜息を吐き、右手を力強く握った。
結果は明らかだったから、見ずに記録係の総務に見せては次へ移った。ただ一度、ちらりと十の位が二だったのが見えた。……弱すぎる。
「じゃあ次反復横跳びしよ!」
「俺すっげー自信ある!」
確か下条はバスケ部だったな。動くことには有利だろう。僕は言わずとも自信がない。というより、やる気がない。
「じゃあ真也くん、勝負しようよ! どっちが何回いけるか」
「おうよ! じゃあ蓮と豊数えててくれよな!」
必然的に後半になり、ギルを測ることになった。確か線を一回跨ぐ毎に一カウントだったな。
「じゃあ、いくよ。よーい始め」
総務がタイマーを持っているので、総務のかけ声と同時に開始された。
一、二、三、四──
──八、九、五十、一
ここで、タイマーが終わりの合図の音を出し、それぞれ動きが止まった。なかなかやるな。
「れーくん何回?」
「四十九回」
「んー。前とあんまりかわんないや。真也くんは?」
「えっと、五十五回だよ」
「くー! 六回差! 悔しー」
「俺の勝ち! はっはっは!」
下条がわざとらしい笑い声をして、選手交代。……嫌だ。代わりにギルがしてくれたりしないか?
嫌々線をまたぐようにして立った。
「じゃあ、いくよ? よーいドン」
今度は総務に代わってギルが合図を出す。気だるげに体を動かした。
「次は上体起こししよ!」
「悪い、長座体前屈にしないか」
さすがにこうも連続で動くものとなれば体力が保たない。
「僕もちょっと……疲れたな」
「んーじゃあ、長座体前屈しよー」
ちょっと残念そうにする。
長座体前屈は専用の器具を使って測る。壁に尻を付けて座って、どれだけ体を曲げられるかというものだな。ついでに僕は測らずともわかる、ガチガチだ。
「自信あるひとー!」
「…………」
誰も手を挙げない。
「あはは。俺ちょっと自信あるんだ」
「ならギルから」
ギルが尻を壁に付けて座る。壁に背中を付けた状態で腕を伸ばしてもらい、そこまで器具を持ってくる。数値が「0㎝」になっていることを確認する。
「よし。いいぞ」
「んーっと」
かなり柔らかいな。数値は……。
「三十九センチ」
「三十九? 硬くなっちゃった……」
これで硬くなったのか。去年いくつだったんだ。
続いて下条。
「おりゃっ」
数値は……。
「三十四」
「今三十四って言った? 真也くんに勝った! やった!」
「俺こういうのは無理なんだよなー。これは勝ち譲ってやる。次の上体起こしは絶対勝つ!」
「俺も負けないよ!」
ギルと下条が見つめ合う視線の間に、一瞬火花のようなものが散った気がした。気がしただけだ。
「じゃあ次総務さ」
「ぼ、僕は最後でいいよ。新藤くん先にどうぞ」
「…………」
最終的にはやるのだからどの順番だって変わらないだろうに。
下条と場所を代わってもらう。
「れーくんピンって腕伸ばして」
そうだったな。伸ばしたところで器具を調節をしてもらう。
「よし、いいよ」
その声を合図に、一度ふっと息を吐いて体を前に曲げていく。……きつい。
「……あ、れーくん足浮かせちゃ駄目だよ」
そう言ったあと膝を押さえられ、痛みが生じて思わず声が出た。さすがに不意打ちすぎる。器具を今の手の位置まで戻される。体を曲げるのをやめた。
「えーっと二十九ね」
「ギル、さすがに酷い。まだ足が痛む」
「浮かせたれーくんが悪いんだよ」
「…………」
あまりの正論さにギルを睨みつけた。ギルは楽しそうに笑う。
次は総務と場所を代わる。ずいぶんと肩が上がっているようだ。あまり自信がないのかもしれない。
「よし、総務さんいいよ」
数秒後、体をゆっくり曲げていく。
……もしかしたら僕を越していないかもしれない。体を曲げるのをやめたらギルが器具に表示される数値を覗く。
「えーっと二十五センチ」
僕と四センチ差だ。僕が誰かを越すとは思っていなかったな。この体も捨てたものじゃない。
「僕体硬いからな……」
「けど、頭は柔らかいから大丈夫だよ! 真也くんなんか体硬いのに頭も硬いからね」
「んだと!」
「わっ!」
怒ったらしい下条がギルに飛びついた。いや、本当に怒ってはないようだ。本当に怒っているなら止めようと思ったが、必要はないらしい。
「あはははは! や、やめてよー! くすぐったあははは」
「頭硬いとか言った罰だ!」
楽しそうでなにより。
なんだが、
「早く二回目するぞ」
まだする事が残っているんだ。この時間中に終わらせる必要があるんだから、お遊びは時間が余ったときに願いたい。
「よーし、次は上体起こし! 絶対真也くんに勝つ!」
「望むところだ!」
上体起こしは足を支える人間を要する。下条の傍に総務が付いたことにより、必然的にギルのペアとなった。
ギルの半ズボンから出るその白い脚を手と足で抱くようにし、最後にはギルの足を踏んづけるように尻を乗せた。これで動くまい。
「れーくんしっかり押さえててよ」
「任せる相手を間違えている」
「あはは」
「じゃあ、いくよ」
ギルと下条はそれぞれ床に頭を付け、手を頭の下に敷いて待機する。
「……よーいスタート」
合図とともに体が近づいてきた。一回。……二回……。
さすが元運動部。速い速い。下条の様子も見てみたいが、僕はいくつなのか数えなければならない。よそ見は厳禁だ。
「……終わり」
総務の声でギルは後ろに倒れ込んだ。お疲れ様だ。
「もう起き上がれないー。れーくん上げてー」
寝転んだまま視線を向け、手を伸ばしてくる。僕はまだここにいてやるから自分で上がってこい。そんなことを言うわけもなく、素直に伸びた腕を引っ張った。
「ありがとー。俺何回だった?」
「……五、の二乗」
「……え?」
……滑った。
「あ、あぁ。二十五回か。普通に言ってくれてよかったのに。でも面白かったよ」
ギルの満面の笑みで紛らわされる。普通に言えばよかった。昨日のシャトルランの疲れが癒えてなくて、頭がおかしくなってるんだ。……いや、単に遊び心が出た。
「真也くん何回だった?」
「下条くんは二十七回だよ」
足を解放されてもなお、足を曲げながら床に手を広げて寝転んでいる下条。相当疲れたのかもしれない。そんな下条の代わりに総務が回数を言った。
「え、二回差じゃん! 惜しー、悔しいー!」
手に作った拳を上下に動かす。
「俺もっといけると思ってたわ……。なんか悔しい……」
「じゃあさ、もう一回しよ! ね!」
「えー、もう疲れたってー。あとでな。先に蓮たちのしようぜ」
「それもそうだね。あのれーくんがどれくらいいけるのか見ものだよ」
僕は見せものじゃない。
ということで、今度は僕と総務の番だ。やりたくない。正直、片手の指で収まる自信しかない。
それぞれ場所を変わって、床に尻を付ける。付けて脚を立てたあと、俺は準備万端とでも言うようにギルに脚を抱きしめられるが、その冷たい手に恨みを買いそうになる。
「……れ、れーくんなに」
「…………」
軽く目を細めていた。なんでもない。ただ、今すぐその冷水のような冷たい手をどけろ。脚が凍る。
「はぁ」
脳内でそんなことを言っても伝わるわけがない。諦めて睨むのをやめ、床に頭を付けた。
「じゃあいくぞー。よーいドン」
合図とともに腹筋に力を入れて体を起こした。一回。続けて二回。
上体起こしをするたび、シャトルランと同じく「これはもしかして余裕か……?」なんて一瞬くらい考えてしまうのだが、経験上、余裕ではない。証拠として五回目からもうキツくなってきた。
「頑張れ頑張れ」
傍観者があまり思っていなさそうなことを言葉にする。もう無理だ。頑張れない。
八回目に体を起こそうとした。が、「もう無理だ」とでも言うように腹筋に力が入らなくなった。よし、諦めよう。腹筋がもう無理と言っているなら、もう無理だ。
「……れーくんなにしてるの?」
「疲れた」
僕はただ床に寝転んだ。天井を意味もなく見つめている。
「疲れたって、たぶんまだ十秒くらい残ってるよ?」
「……もうしない」
視界の下のほうで見えるギルの顔は、どこか不満そうな顔をしていた。片方の頬に空気を溜めている。
約十秒後にタイマーは鳴る。僕も人間だ。虚無の時間に押し潰されそうだった。被害妄想が過ぎるかもしれないが、周りの目が少しばかり気になっていた。動きたくても動けない現状、仕方のないことだったんだ。
「終わりー」
ギルの腕から解放されたあと、近くの壁まで這ってもたれた。疲れた……。
今度はギルと下条が再戦するようで、総務がタイマーを持っている。
「今回は絶対負けないからね!」
「俺だって二勝する!」
そんな様子を少し離れた壁で見ていた。
「…………」
見ていて僕には欠けているものがあるのだと、再認識した。
なんとなく、僕にはいろいろ欠けているものがあるのは自覚している。ありすぎてきっと、両の手では収まらない。
その中でも一つ、僕には競争心が欠けている。欠けていると言うより、ないに等しい。なぜあそこまで熱心に競えるのか理解ができない。勝とうが負けようが賞金なんぞ貰えるわけでもない。勝敗が決まったところで、なにか意味があるのか?
「……ふっ」
思わず鼻笑いする。僕の欠乏さにもだが、思いだしたことがある。
競争心と言えば、少し違うが、対抗心はとてもじゃないがあったな。よく対立してはあっちから謝りに来ていた。ケイだ。
ケイとは小学三年生のときに出会った。出会い方は……もう思いだしたくはないが。助けてくれたケイを僕は信じられなくて、ずっとケイに刃を向けてしまっていた。けど、なにがきっかけだったか。それ以来なんとなく話すようになって、僕も知らぬ間に笑っていた。
居場所のなかった僕に居場所をくれた。作ってくれた。だからケイは僕にとっては大切な存在で、失ってはいけない存在なんだ。
笑える日々が数日が過ぎて、そういえばあんな言葉を言われたな。一ヶ月過ぎて、数ヶ月が過ぎて……。そのまま一年が過ぎたか過ぎてないかの日に、当時の担任だった先生から、ケイは家の都合で転校した、という知らせが教室の全体に言い渡された。
なんとも思っていなさそうな人間、喜ぶ人間。それぞれに分かれた。僕はどうだったか。少なくとも喜びなんぞしなかった。できなかった。
ケイがいなくなってからの生活は……思いだしたくもない。
それからは最近の記憶になって、高校二年生も後半になってきた頃、ケイが再び僕の前に現れた。
突然の再開に僕も驚いた。故意に出会ったわけではない。本当に偶然だ。現にケイも驚いていた。小学三年生の僕には携帯電話やスマホなんぞ持っているわけもなく、連絡先も交換していない。通っている高校を教えていなければ、親が死んだことも伝えていない。本当に偶然だった。
再開したケイには「眠れない、眠りたくない」という状況に陥っているらしく、良いこととは言えない。それに一人、家族を失っている。失ったと同時にその症状を発症したのであれば、その家族、妹の心美は大切な人間だったのだろう。そうなれば、相当ショックだったはずだ。後遺症を残しても納得できる。
人間は寝ることで脳や体を回復させたり記憶を整理していると言われている。レム睡眠、ノンレム睡眠と、詳しく言えばそんなことも出てくるが、寝ることで一時的に心身を休ませているのは確かだ。
だが、ケイはそれができていない。
一日、二日すれば、睡眠不足で昨日のように意識を失うようにして眠るらしいが、どうも今後が心配だ。故意してなったものではないとわかっている。
だが、心身を休められなければ、意識を失うようにして眠る。体にも負担がかかるだろうし、もしそれが歩道を歩いているときにでもなればどうだ。
「…………」
僕になにかできることはないだろうか……。
「悔しいー」
体育の授業が終わってから、教室に戻る途中。
ギルと下条の上体起こしの再戦は、またしても下条が勝ったらしい。それを話すなり、ずっと「悔しい」と横で言われている。少しうるさい。
「悔しいよーれーくんー」
「わかったから一旦黙れ」
「酷いよーれーくんー」
「…………」
「喋ってよーれーくんー」
「…………」
うるさい。
教室の鍵はいつも通り体育委員が持っており、いつも通り来るのが遅い。
廊下は開いている窓からビュービューと冷たい風が入り込んで少し涼しい。いや寒い。肌着が汗で濡れているから寒く感じる。傍の開いていた窓を閉めて風を防ぐ。……これはこれで暑い。
仕方なくジャージのチャックを開けて、窓も少し開ける。これでちょうどいいくらいだろう。
満足したから、さっきからうるさいギルの言葉に反応してやる。
「悔しいー」
「そうか」
「悔しいんだよー」
「わかった」
「悔しいのー!」
「…………」
本当にうるさい。
「くやし……あれ?」
急に言うのをやめたかと思えば、どこかを見ている。ギルの視線の先は教室の後ろの扉辺りだ。前の扉にしか生徒は集まっていなく、そのあたりは人がいない。と、思えば一人床に座った制服姿の奴がいた。鞄を横に置き、脚を曲げて顔を腕で埋めている。
あの赤みがかった茶髪は、ケイだ。どうやらずっと待ちぼうけをしていたらしい。体育の時間だとわかっているだろう、体育館に来ればよかっただろうに。
近づいて肩を叩く。
「ケイ」
「…………」
寝てるな、これ。
「ケイ、起きろ」
今度は少し強く肩を揺らした。そうすればゆっくりと顔を上げて目をこする。
「……蓮」
「寒かっただろ。もう教室開くぞ」
「べつに寒くはなかったけど」
……そうか。
どうやら教室が開いたらしく、廊下にいたジャージ姿の生徒がどんどん入っていく。
ケイが立ち上がったことを確認して僕らも入った。
入れば、ケイは自分の席に。僕も自分の席に。ギルは僕の前の奴の席に。自分の席で着替えればいいのに。
「敬助くん寝てたね」
「いつからあそこで待っていたんだか。鍵を借りて入ればよかっただろうに」
「確かに。もしかしたら体育したくなかったんじゃない?」
「……僕の知るケイは体育の成績は良かった。それに、ときどきグランドに出て遊ばないかと誘われた。汗をかきたくなかったから誘われても、走って遊ぶなんぞせず、散歩程度に歩くしかしなかった。もちろん夏ではその誘いを全て断って涼しい教室にいた」
「あはは。れーくんらしい」
ギルは前を向く。
たぶんだが、当時のケイは意外と異性から好まれていた。それなのに放課後の女子からの遊びや一緒に帰ろうという誘いは全て断って、僕と一緒に帰っていた。なぜあそこまで僕と行動していたのだか。
着替えが終わろうとしていた頃、そのケイが話しかけてきた。
「蓮、おはよう」
「……おはよう」
時差のある挨拶。
「…………」
「…………」
話すことがない。ケイの遅刻の理由もなんとなくわかっていて、聞くことはしなかった。
なんとなく気まずい空気が過ぎる。
「……蓮、ネクタイおかしくない?」
見て確認する間もなく、ネクタイを細工される。他人にこういうのを任せることなんてないから、少しまんざらでもない気持ちになる。
ふとケイの顔を見れば、少し赤くなっているようだった。熱でもあるのか?
気になってケイの頬に手の甲を当てた。やはり少し熱い気がする。頬に触れれば、ケイは驚いて声を上げる。
「な、なに……して……」
更に顔が赤くなる。……なぜ?
「顔が赤い気がしてな。大丈夫か」
「俺は全然平気……」
ケイの手からネクタイが解放されれば、カーデイガンの前を合わせていく。ネクタイを解放したケイはどこか嬉しそうだった。相変わらず思いが読み取れない。嬉しそうならべつにいいんだが。
「わっ! 敬助くん後ろにいたんだ。全然気づかなかった」
ギルは後ろに振り向いて僕になにか話しをしながら着替えることはせず、静かに着替えていた。周りの声もうるさいから、ケイの声が聞こえなかったのだろう。
「ぎ、ギルくん。おはよう」
「おはよー。さっきの体育の時間ね、体力測定だったんだ。それで真也くんといろいろ戦ったんだけど、ほとんど負けちゃって……。悔しいってずっと思ってる。えへへ」
「それは……残念だったな」
昨日来たばかりのケイに「真也くん」なんて言って誰だかわかるのか?
「あ、それでね、面白いことがあったんだ! 上体起こしのとき、れーくんが疲れたって言って途中でするのやめちゃったんだよ?」
「……それは言わなくていいだろ……」
ギルは楽しそうに笑う。本当に疲れたんだ。仕方のないことだったんだ……。
「ははっ。でも蓮のそんなところも……」
笑ったケイを見れたかと思えば、いきなりだ。少し俯き気味になって去って行った。
「……急にどうしたんだろ」
「…………」
去ったケイは自分の席に戻っていた。頭を押さえて、なにか思うことがあるのだろう。顔がこわばっている。さっきの会話が要因だったとしても、顔をこわばらせるようなこと言ったか? それともなにか思いだしたとか……。
まあ、他人の心の中を覗くことはできない。ほうっておいてやろうか。
「では、さっき言った班で集まってくださーい」
今は英語の時間。体育の次の時間だ。
僕の班にはギルとケイ、総務がいる。下条はべつの班だ。なぜこうなったのかはわからない……。
「今からなにするんだろ。楽しみ」
面倒事ならする気はない。
英語の先生はよくこういった班活動をする。毎度、面倒なことばかりで僕からはあまり好かれているものではない。
さっきの言葉は横にいるギルのものだ。四人で班の形に机をくっ付けている。僕の左にギル。前に総務。斜め左にケイだ。
場所的にケイが邪魔で先生のいる教卓が見えない。と思っていれば、ケイが机に伏せた。いつもの眠気でなんだろう。
「影島くん、起きよ。まだ授業始まったばっかりだよ」
「…………」
総務がそう声をかければ、そっぽを向く。
「敬助くん。この時間、授業っていう授業しないはずだよ。遊びみたいなのするんだ。一緒に遊ぼ!」
「…………」
ギルが覗き込むようにして、正面にいるケイに言う。「授業という授業」でないのならほうっておけばいいだろうに。
「ギル、ほうっておけ。そのうちすぐ寝る」
「でも、遊ぶのは敬助くんも一緒にだよ」
珍しく少し強い口調だ。ところどころ頑固なギルには困らされる。
「……勝手にしろ。ただ、ケイ。他人に迷惑をかけるようなことはするな」
「…………」
そう言えば、のっそり体を起き上がらせた。眠たそうな目をこすっている。どうやらこの遊びに参加する気になったみたいだな。僕は全くないが。
「今日はすごろくで遊びまーす。すごろくのルールは知ってますよね? サイコロを振って、一が出れば一マス進む。そこで、マスに書かれていることをする。今回のだと、その書かれていることが全部英語で書かれているので、読み取って書かれてることをやってくださーい。
では、今からサイコロとすごろくの用紙を各班に一つずつ渡すので、貰った班から始めていってくださーい。駒は各自で置いてくださーい。消しゴムが一番無難だと思いますけど、好きなものを駒にしてくださーい」
長い説明のあと、各班に紙とサイコロが渡された。紙は例のすごろくの用紙で、説明通り全て英語で書かれている。
用紙を見たギルは「げっ」と言いたそうな表情で見つめている。実際声も聞こえたかもしれない。ギルは特に英語だが、勉強諸々苦手だ。
「じゃあ、始めていこ。順番はじゃんけんかな」
この感じ、必然的に総務が司会役になりそうだ。
「うん! じゃあいくよー。じゃーんけーんぽん」
ギルの合図で僕は片手に拳を作った。そしてよく見なくともわかる、出てる手は僕を含めて三つだけ。ケイは手を出していない。少し俯き気味でそっぽを向いて、参加する気が見えない。
こういった態度を取るケイはさっきの休憩時間からずっとだ。なにがそうしたんだか。
ギルも気づいたようで、なにか言いたげだったが、そのまま続けた。
「あーいこでーしょ」
握る手をやめない。
「あーいこでーしょ」
まだやめない。
「あ、れーくん一人勝ち」
手を変えるのが面倒でずっとグーを出していれば、勝ってしまったようだ。べつに何番だろうが変わらない。勝とうが負けようがいつか順番が回ってくるのだから。
「じゃあ新藤くんから時計回り。どうぞ」
サイコロを渡される。よく見る六面体の、少し大きいか否かのサイコロ。それを上から落とした。出た目は三。
駒がないことに気づき、ペンケースから消しゴムを取り出した。最近新しく買ったばかりで自立するもの。三マス駒を動かしてなんとなく自立させた。
「えっとー……。わっと、あにまるず、どぅーゆう、らいくざ、べすと……。なんのアニマル……動物が一番好きか?」
「ああ」
きっと中学生にでも解ける英文をギルが解いた。
好きな動物か……。
「英語で答えるらしいよ」
総務が黒板のほうを見ながら言う。黒板にはいつの間にかルールが書かれていた。そしてその中の一つ。「質問に答えるマスに止まったときは、必ず英語で答えること! ※単語5文字以上で」と書いてある。五文字以上か。
「 I like dogs …… better than pandas」
でいいだろうか。簡単な復習のようなものだな。
「なんて言ったの?」
隣からそんな声が聞こえたが無視しよう。
「ギル、次」
「あ、うん」
サイコロをギルに渡す。渡されたギルはサイコロを軽く投げる。サイコロはケイの近くで止まり、六が出た。
「いちにーさんしーごーろく。えっと……」
「あはは、総務さんかわいー」
「似合っている」
「や、やめてよ……。も、もういいよね」
総務は早々に変顔をやめた。真面目な奴は真面目に変顔をする。いいじゃないか。
「つ、次いくよ。ほら、新藤くんの番」
耳が真っ赤だ。真面目でも人間であることが変わらないところが面白い。
渡されたサイコロを振った。出た目は二。二マス進む。総務と同じところだ。……え?
「やった! れーくんも変顔だよ!」
「からかったバチが当たったんだよ。頑張ってね」
そう言う総務だが、貼り付ける顔は控えめに言っても悪魔のようだった。真面目でも悪魔のような顔はするらしい……。
「本当に、するのか……」
「総務さんちゃーんとやったんだよ? だかられーくんもちゃーんとしないとね!」
体がどんどん熱くなっていくのがわかる。変顔なんてギルに一、二度見せたことがあるくらいなのに、それをケイや総務にもだと……?
しかもギルに見せたのは小学生一、二年のときで、まだ脳に羞恥心を理解していないときにだ。なのに、今その感情を理解しているなかでするのか……? 無理がありすぎる……。
この歳になって変顔だなんて、子供すぎるだろ。
「ほられーくん、しないともっと重い罰ゲームしてもらうよー? 例えば、変顔しながらモノマネとか」
重すぎる。絶対にしたくない。変顔ってどんなことをすればいいんだ……。変顔と言えば、の寄り目はできない。かと思えば他の変顔が思いつかない。
「れーくん、早くしないと変顔しながらモノマネしてもらうよー?」
「や、やり方が……他の変顔の仕方がわからない……」
「え? 寄り目とか……って、そっか。れーくんできないんだっけ?」
ケイが顔を上げ、僕のほうを向いて顎を腕の上に乗せた。さっきの言葉に反応したのかわからないが、傍観者が一人増えたのには変わりない……。
「じゃあー、手で顔挟むとか? あとほっぺをぷって膨らましたり。普段無表情のれーくんがやればなんでも変顔になるよ」
善意の言葉なのか、悪意の言葉なのか定かではない。ただ、ギルのその満面の笑みでなんとなくわかった。
「それか俺が変顔にさせてあげよっか! れーくん相手なら余裕で変顔にしてあげられるよ」
……僕が決めるよりもそっちのほうがありがたい気がする。
いやそもそも、罰ゲームだなんて言うが、そんなことをする義理はないはずだ。ゲームに負けたとか、一位を取れなかったなどではない。これはこのすごろくのゲーム自体が勝手に作った理にかなわない罰ゲームであって、
「れーくんどっちー? 俺しないでいいのー?」
「……でも待って英川くん。これは罰ゲームだから新藤くん自身がやらないと罰ゲームにならない気がする」
「確かに!」
……余計なことを。
「じゃああと十秒ね。じゅーう」
いや待て待て待て。まだ決めていないし、心の準備が……。
とにかく、それっぽいことをすればいいんだろ? ギルは僕がやればなんでも変顔になると言っていた。それを信じるからな。のちの文句は受け付けないからな。
「ごー、よーん」
「す、する……」
「お、じゃあどうぞ!」
ギルの言葉のあと、一息置いてから両の頬を人差し指と親指で引っ張った。ギルの言葉通りならこれでも変顔になるはずだ……。
「……れーくんそれほんとに変顔? むしろかわいくしてない? あざとくない?」
「僕もそれ思った。顔が綺麗だからか、なんかね」
「そんなのではない」
「もう一回違うのしてもらおっかなー。俺の審査が通るまで」
なんだよギルの審査なんて。
「……なんでも変顔になると言ったのはギルだろ」
「あはは! 嘘嘘。うん、やっぱりれーくんがしたら十分変顔だよ。久しぶりにれーくんの変顔見れて俺満足」
えへへと嬉しそうに笑う。小さく溜息を吐く。……もう好きにしろ。
ふと、静かなケイの様子を見る。ケイの目は普段よりも│瞼が開いている気がする。眠たそうな目じゃない。そして、鼻から赤い水のようなものが……ん?
「ケイ、鼻血」
確かあったよな。ポケットにティッシュがあるか確認して立ち上がり、同時に取り出してはケイの傍にしゃがみ込んだ。が、しゃがんでは、背が足りなかったので、立ち上がった。
ティッシュを数枚取ってケイの鼻に押しつける。
「鼻骨、わかるよな。その少し下辺り押さえながら、このティッシュ持て」
言う通りにしてくれる。
なにか言おうとして僕を見ようとしたのか、顔を上げた。が、
「下向け」
血が喉を通るといけないので、無理やり頭を押さえて下を向かせた。
「ありがとう……」
少し顔を赤くさせながら言う。いつも思うんだが、熱があるのか? 見てすぐわかるくらいに顔が赤い。
頬を触れてみれば、ケイはビクリと体を動かして顔を上げる。
「悪かったが、下を向け」
下を向いたケイに口を開ける。
「一度保健室で熱がないか測ってもらったほうがいいんじゃないか。熱い」
「え? 敬助くん熱あるの?」
「喉の痛みとかない? 頭痛とか」
「ち、違う……。ただ……鼻血出して……恥ずかしいだけ……」
……本当か? 鼻血を出して恥ずるものか? いや、そんな人もいるかもしれないか。それか、なにかを想像しては興奮して、体温が上がって鼻血出したとか……。
「まあなんだっていい。しばらく押さえて下向いておけ」
そろそろ立つのも疲れてきた。ティッシュをポケットに入れ、席に戻った。
席に戻っても二人の心配の声がかけられ、さっきからぶっきらぼうだったさすがのケイもまんざらでもなさそうな表情をする。
鼻血、大丈夫だろうか。本当に突然出てきた。もし、体温が上がって血管が拡張して出たとしたら、鼻の粘膜が弱いのかもしれない。ケイと一年間過ごした小学三年のとき、確か数回出ていた気がする、記憶が正しければ。きっと弱いのだろうと思っておこう。
「再開しよう。次は誰だ」
「次れーくんだよ」
「あれ? 英川くんじゃなかったっけ?」
「……れーくん騙してもう一回罰ゲームマス当たれって思ってたのに……」
……くだらん。もしそれでギルの陰謀だと発覚したら、今度こそ卵焼きを食べさせない。
「サイコロは……あった。罰ゲームマス当たりませんように! えいっ」
少し強めに弾かれたサイコロは、ギルの机の隅から落ちていった。
「あ、落ちちゃった」
椅子から尻を滑り落として床の下を覗いている。ギルのことだから頭をぶつけそうだ。机の下で手を添えてやろうか。そう背もたれから体を起き上がらせるが、
「あ、れーくんのところに行ってる。れーくん取ってー」
なんだせっかく頭を打たないようにしてやろうと思っていたのに。面倒なことをさせる。
ギルが机に頭を打つことなく顔を出すのと入れ違いに、机の下にもぐり込んだ。確かに僕の机の真下に落ちていた。出ている目は二だ。
「あ、れーくん。出た目教えてー」
「二」
「ありがとー。えっと、いーちに」
他人にものを拾わせておいて、自分はゲームの続きをするのか。そうかそうか。
呆れて椅子に戻ろうと顔を上げると、
「いっ」
ゴンッと鈍い音を出して頭を机に打ちつけた。机の下にいるということを忘れていた。ギルに心配してたことを自分でやってしまうとは情けなさすぎる……。
「え! れーくん大丈夫!」
「すごい音してたけど……」
「…………」
ぶつけたところをさすり、しかめた顔作っていることを自覚しながら机の下から顔を出した。痛い。
「心配ない……」
「れーくんってたまに抜けてるところあるんだから気をつけてよ? もー」
「蓮……本当に大丈夫か」
久しぶりにいつものケイの声を聞いた。本当に心配しているようで、いつもの素っ気ない表情ではない。
昔にもこんな表情で心配されたことがあったような気がする。あまり憶えていない。
心配しなくていいと言っても不安そうにするケイ。
だが、少し僕を見ると今度はギルに視線を移した。そして少し目を細める。ギルはそれに気づいていないようだった。
「えぇとー、じゃあ続けるよ。次誰から?」
「影島くんじゃない?」
「あ、じゃあ敬助くん」
ギルが渡すサイコロを面倒臭そうに取った。僕はその態度をあまり好まなかったのは確かだ。なんでそんなに機嫌が悪いのだか。
取ったサイコロを適当に放る。出た目は一だ。サイコロを振ると早々に頬杖をついてそっぽを向く。それを気にしていないように、ケイの駒が近いギルが代わりに駒を動かす。
「いーち。えっと……れーくんこれなんて書いてるの?」
ケイの様子を見ていたら聞かれる。椅子の背もたれに預けていた背を上げ、白く細い指が差す英文を読み取った。
「……なにが好きでなぜそれが好きなのか、だな」
「だって敬助くん」
「…………」
ケイは頬杖をついたまま視線だけ僕を見る。なんだろうか。
そしてなんとなく悲しそうな顔になった。なんなんだろうか。
「……パス」
パス? パスなんてあるのか?
いやそもそも人間、一つや二つ好きなことやものくらいあるだろ。確かにケイの好きなものといわれて想像がつくものではないが、それでもだな……。
「……パスかー。敬助くんの好きなの気になってたんだけどなー」
ギルが期待を載せてケイにチラチラとアピールするが、ケイは俯いて気づいていない。
そうか、好きなものが他人に言えないという可能性もあるのか。……ケイに限って代表的な他人に言えないもの、卑猥なことなどを好んでるようには思えないが。
「好きなものとかないの?」
ギルとは違って、心配そうにケイを見る総務が言うが、それでもケイは聞こえていないかのように黙り込む。
……もしかして単に恥ずかしがり屋だから言いたくないのか……? 昔は違ったんだが。ケイは変わってしまったのだろうか。
偶然にもケイと再会したはいいものの、それが僕の知っている本人だと到底思えない。ケイじゃないみたいだ……。
今はもうケイに救いを求めることなんてないだろうが、なんとなくあの頃のケイじゃないとわかれば、少し悲しくなる。会うなら、あの頃の心優しく、僕を救い出そうとしてくれたケイに会いたかった。
それかもう、僕のことを忘れてしまったのだろうか……。
勝手に繰り広げられる考察に、胸を重くさせる。同時にあの頃のケイとの記憶が脳裏に映像として流れ、思いを馳せる。
「えっとー、じゃあ次は総務さん?」
「うん、ありがとう」
ギルたちは何事もなかったように進めていく。
「好きな本のジャンルか……。本はあんまり読まないからな」
「…………」
好きな本のジャンル……。
……あるじゃないか。ケイが好きだと思われるもの。ミステリ、推理ものの小説だ。僕と同じ。
好きだとわかったのは確か……。
ある小学三年生の思い出。学校の図書館。
僕は文字ばかりの小説を読んでそれを日々の楽しみにしていた。特に謎解きが好きで、よくそういった小説を見つけては借りて、公園で読んでいた。
そんなある日、読み終わった本を返すついでに、べつの小説を探していた。もちろん謎解き系の小説を。謎解きと言ってもイラスト付きのなぞなぞを解くなんて子供みたいな謎解きじゃない。言わば推理もの。僕自身が推理して小説の続きの流れを当てるなんてできたことないけど、何度かしたことがある。
小説が並ぶ本棚に沿ってタイトルを見ながらゆっくりと歩いて行く。読んだことがあるものや、読んだことのないものが左から右へ流れていく。並ぶ本のジャンルはそれぞれで僕が探しているのは推理もの。他の歴史小説やSF小説は求めてない。
本の大きさはなんでもいいけど、できれば文庫本がいい。手のひらより少し大きいくらいで読みやすく、持ち運びがしやすい。
ふと目が留まるものがあった。これなんか面白そう。
『探偵の休日』
タイトルからしてきっと探偵ものだ。気になって腕を伸ばした。そのとき、左からも腕が伸びてきた。僕のではない。
「あっ」
「……ケイ」
左から伸びてきた腕の持ち主はケイだった。どうやら同じものを取ろうとしていたらしい。
ケイはこの前転校して来て僕のクラスに入ってきた。そして僕を助けてくれた恩人……みたいな人。べつに助けてほしいなんて言ってない。あっちが勝手に首を突っ込んできた。
でも助けてくれた日以来、僕の周りをうろつかれるから、なんとなく避けてた。教室で椅子に座っていてケイが近づいてきたら、席を立って教室から出る。話しかけられてもすぐに話を終わらせて早く離れるようにしていた。
「……譲る」
それだけ言って今度も立ち去ろうとした。
「待てよ」
けどケイは僕の腕を掴むなり顔を合わせられる。
「読みたいんだろ? 俺こそ譲るよ。ちょっと気になっただけだからさ」
「…………」
確かに読みたいと思った。けどケイが読みたいなら先に読めばいいと思ったし、早くケイから離れたいとも思った。
だから、
「いい」
ケイの手を払って図書室から早足で出た。あまり人の目につかない廊下を通って教室に戻る。
理由は僕自身もわからない。けど、なんとなくケイを避けている。嫌いっていうわけでもない。顔を見たくないっていうわけでもない。なんとなく近くにいたくない。
教室に戻れば、席に座って窓に写る空を見ていた。雲一つない快晴。
快晴はなんの変化もなくあんまり好きじゃない。「空」としては「綺麗」な空なのかもしれないけど、面白みのない空はあんまり好きじゃない。
「…………」
ときどきなにかの鳥が横を通っていくのをつまらなく見ていた。
「なあ」
その言葉と一緒に肩を叩かれ、普段僕を呼ぶ奴なんていないから、突然のことで体がビクリと動く。鼓動を鳴らしてパッと振り向けば、なにかの本を持ったケイがいた。あいつらじゃなかった……。
「…………」
「これ」
目の前に見せてきたのは「探偵の休日」だった。
「……いいって言った」
「だから一緒に読も」
「…………」
なにが「だから」なのかはわからない。でも、本を読めるのかと思えばそんなことはどうでもよく思えた。
「……ケイは好き……か」
「え! な、なにが!」
酷く驚いてくる。ヘンなこと言ってないのに。
「その……探偵とか推理もの」
「あ、あぁ……」
どこか安心したように肩を下ろすと、答えてくれる。
「結構好き。推理するって憧れだよなぁ。探偵とか推理ってすごくかっこいいよな!」
「……うん」
体が少し熱くなる。同じものが好きな人と話すのって楽しい……。こんな感情初めて。
なんとなく、ケイは信じてもいい気がした。ケイは裏切らないって。離れないって。守ってくれるって。そんな気が。
ケイは近くの誰も座ってない椅子を引き出して、僕の隣に並べた。本を僕にも見えるように腕を伸ばして一ページめくる。片面に色の付いたページ、もう片面にタイトルとその作者の名前。
ケイが一ページめくろうとしてるのを、僕は言葉で遮った。
「ケイ……」
「ん、なに?」
「……ケイは、僕を……裏切ったり……捨てる……か」
少しの間声を発さず、経てば笑われる。……笑われた。やっぱりすて――
「裏切るわけないし、捨てるわけもない。俺は約束する。ずっと✕✕✕✕✕のこと守り続けるって。ずっと✕✕✕✕✕の傍にいて、危ないときは助けるって。絶対破らない。神様に誓って」
机に置いていた僕の手を握って言われる。僕の顔に浮かんでそうな不安な表情とは反対に、ケイの顔は安心させるような柔らかい表情。
僕はその表情を見てどう思ったかはわからない。ただ傍にいたい、少しだけでも安心できると思えた。
けどその一年後くらいにケイが転校して、当時は約束を破られたのかと思った。裏切られたのかと。
でも事情を聞けば親の都合だと言う。それは仕方のないことなのだと言い聞かせて、ケイのことを思いださないようにしていた。寂しくなるから。悲しくなるから。
だから再開したときもすぐには思いだせなかったんだ、きっと。
……じゃなくて、ケイはああいう経緯で謎解きや推理ものが好きだと知れたし、少しずつケイに気を許せるようになったんだ。……気を許したあげく、対立が増えたのだが。
ケイがまだそういった推理ものが好きならば、さっきの質問でそう答えたらよかった。べつにやましいものでもないのだから。けどなにも言わなかった。好きなものが変わったのか、恥ずかしがり屋になったのか。
そんな憶測を立てても本当のケイの真意を知ることはできないから、意味のない時間を過ごしたことはわかる。小さく溜息を吐いた。
「次れーくん」
もう僕の番か。そろそろ飽きてきたな。
総務から渡されたサイコロを振る。出た目は五。駒を動かして書かれている文を読み取る。「 Go back one square 」初めて出たな。
「なんて書いてるの?」
「一マス戻れ」
「あはは、よかったね」
なにがだ。けど今となってはゴールしようがしまいがどうだっていい。早く時間が終わってほしい。
気だるげに駒を一マス戻した。
「次俺ー」
ギルにサイコロを渡す。
「えっ」
ん? 誰だ今声出したの。どこか遠くの声ではない。明らかにこの班の中から聞こえた。
左から右へと視線を流していくと、明々白々。ケイがなにかに驚いたような表情でいる。頬杖をつく手から頬を離し、僕に視線をずらす。この一瞬でなにかいけないことをしたか僕。
「ねえれーくん。これなんて読むの?」
ケイの発した声は僕以外に気づいていないらしい。ギルも総務も楽しそうにすごろくに取り組んでいる。
「れーくん?」
「あ、あぁ、これは」
英文を訳そうと文を覗き込んだとき、勢いよく椅子が引かれる音がした。音源はケイの椅子からだ。
ケイはなにか絶望を告げるような顔で立っている。周りもその音に一度しんとしたが、なにも行動を起こさないからか、次第にもとのうるささに戻っていく。
「……どうしたんだケイ」
僕があの一瞬でなにかしたのかと不安を声に乗せながら聞いた。
けど顔を上げるなり悲しそうな顔にさせ、返事をせず振り返ってどこかに歩いていく。
ケイが向かった場所は先生が立つ教卓だ。何度か口を開けたあと教室から出ていった。廊下につながる窓から見える影は、教室の後ろの扉を通り姿を消した。
「……どうしたんだろ影島くん」
「俺なんかしちゃったかな」
「僕もなにかしてたり……」
「心配するな。ギルも総務もなにもしていない」
考えられるのは僕がなにかしたということだ。それに無自覚で。
ケイが勢いよく立ち上がったあと、僕を見た。あれはやはり僕に要因があったのだろう。ケイを悲しませるか怒らせるかした要因が。いや、失望させたと言ったほうがいいだろうか。決して簡単な言葉で表現できる顔をしてはいなかった。
……けどもし僕、一応ギルや総務たちが要因だったとしても、あのときはなにもしていなかった。ギルと総務はすごろくに取り組んで、ケイになにかマイナスの感情を抱かせるようなことはしていなかったし、僕もずっと考えていただけでなにも言葉にはしていない。
なら考えられるのはケイ自身がなにかに気づいて、感情が揺さぶられた、ということだが……。
「…………」
考えたところで答えを知れるわけではない。これこそ、推理してケイの気持ちを察してあげる、なんてことはできない。僕にそんな能力があるわけでなければ、そもそも情報が少なすぎる。
誰であれ、超能力者でなければ他人の心の中を知ることは不可能なんだ。諦めるしかない。
「……影島くん、なんだか元気ないよね。まだクラスに馴染めてないのかな」
「昨日は元気そうだったんだよ? 心配だな……」
「…………」
昔はあんなところ見た憶えはないのだが、ここ数年でなにがあったのだろうか。そもそも数年とかじゃなくて、今さっきケイをああしたのかもしれない。
無意識でケイを傷つけていなければいいが。
九月中旬。ある調理実習が行われる平日。
ケイがクラスに少し馴染めたらしい頃、待っていたのは調理実習だ。
「次調理実習だよ。調理室行こ」
ギルがエプロンと三角巾が入っているだろう袋を片手に、僕の傍まで来た。
「……ああ」
調理実習か。料理するのは慣れたものだ。だが、調理室まで移動するのが面倒だ。棟を移動しなくてはならない。
エプロンと三角巾が入った袋を持ち、気だるげに席を立つ。
教室を出ようとしたとき、目に入ったのが周りをキョロキョロと見回しているケイだった。そうか。家庭科の授業とは時間割に書いているが、調理実習なんてことは知らないんだろう。きっとエプロンも持ってきていない。
「ケイ、次の時間は調理実習なんだ。エプロンと三角巾が必要なんだが……」
ケイのところまで行って話しかけた。教室を出るときに傍を通る。ついでだ。
「ないな」
「……今回は許してくれるだろう。調理室まで一緒に行こうか。場所、まだ把握しきれてないだろ」
「……ありがとう。……蓮がいてくれてすごく安心する」
「……行くぞ」
調理室は特別教室棟にある。渡り廊下を渡って階段で上がり、少し行けば第三理科室の隣にある。
どうやら鍵は開いているようだ。中に入ればクラスの半分ほどの人数の人がいた。
僕が使う机は……後ろの扉から入ってすぐにある机のようだ。黒板に数字が書かれている。この数字は以前決めた班の番号だ。僕は八班にあたる。
そしてこの班の班長は訳があって僕になっている。八班のメンバーの様子を見ながら自分の役目を果たさなければならない。
あの時にギルがヘンなことを言うから……。
「あと一人料理上手な人いませんか?」
調理実習での班長を決めている。先生曰く、班長は料理が完璧とまではいかず、少しくらい知識を持った人が欲しいとのことだ。そしてその班長が一人足りないらしい。
「いないー? べつに女子だけじゃなくても男子でもいいんですよー?」
今のところ、一人だけ男子だ。もちろん僕ではない。誰か知らない奴。
「誰か一人だけでいいんですよ。お手伝いしたことあるって人でもいいから」
という感じでなかなかあと一人が決まらず、無駄のように思える時間を過ごしていた。
「…………」
なぜか知らないが、さっきからギルから見られている。振り返ってこちらを見つめてくる。きっと僕が料理できることを知っているからだろう。手を挙げろと言いたいのだろう。
だが無理だ。周りに目を配りながらなんて僕には向かない。他の者がやるべきだ。
「せ、先生」
弱々しく声を上げたのはギルだった。ギルはべつに料理なんてできないと言っていた。なかなか決まらないから仕方なく、という優しさなのだろうか。
そんなことを思っていたが、全然違った。
「英川くんやってくれますか!」
思わず歓声が上がりそうになった室内だが、ギルは言葉を続けた。
「いや、あの……りょ、料理で、できる人が……い、いる、ですけど……」
緊張でか声が震えて噛み噛みだ。無理して言うから。
「お、推薦ですか。誰です?」
「れー……えっとし、新藤さんなんですけど」
「お」
おい、面倒なことをさせるな。……なんて声に出しそうになったが、食いしばる。さすがに期待してる先生の前でこんなことは言えない。
「とのことですけど新藤くん、やってくれますか?」
周りからの圧がすごい……。早くこの話を終わらせろ、と言われている気がする……。
「……は、はい」
そして圧に負ける僕であった。
……という訳で、僕が八班の班長になった。
まさか、ギルが手を挙げるなんて思いもしなかった。僕もだが、普段から授業で手を挙げることなんてしない。
班のメンバーは僕とギルの他に総務と下条がいる。人数制限をして各生徒が希望の班長を選ぶという形式で、こうなった。
適当に端の席に座れば、隣にギルが座る。
チャイムまで時間がある。机に置かれている、サランラップで包んだトレイの中に入った具材を眺めていた。さすが学校なんて場所だ。形や色が良いものばかりだ。店に売っているものも、これくらい素直ならいいんだがな。
「そういえば敬助くんはどこの班のところに行くのかな」
ギルが小さくそう口にする。確かに本当にそういえば、だな。ケイはずっと僕の後ろで壁にもたれて立っていた。先生が前にいるのだから、聞いてくればいいだろうに。
仕方なく、袋を机の上に置いて立ち上がった。
「ケイ、先生に聞きに行くぞ」
「…………」
まだ学校に馴染めていないのか、知らぬ間に引っ込み思案にでもなったのか。行動は自らする奴だったんだがな。
「先生。彼、この前転校したばかりの……影島敬助と言うんですけど、彼の班は……」
「……あぁ、そうでしたそうでした。あとでどこかに入れようと思ってたんですけど、すっかり忘れてました。どこかの班に……あぁ!」
なにかに気づいたのか、口が開いたままだ。なんだ? ケイがいることで、なにか厄介なことがあるのか? ……そうか、材料か。
「ケイ、ちょっと離れていてくれ」
「ん」
僕は机越しにではなく、先生の傍まで移動した。そして先生にだけ聞こえるように言う。
「ケイ……彼の分の材料ですか」
「……気づきました? そうなんですよ……。だからどうしようかと……」
「なら、僕の班に彼を呼んでいいですか。僕、普段から食べる量少ないですし、切る大きさを調節すれば一人分くらいは作れると思います」
「でも大丈夫ですか? 調節って言っても……」
一人暮らしを甘く見るな。
「大丈夫ですよ。それくらい簡単です」
「そう。ならお願いしましょうか。ちなみに……新藤さんって料理どれくらいできるんですか?」
「一食くらい一人……で」
「え、そうなの! なら早く名乗り出てくれればよかったのに」
……大いに口が滑ってしまった。
「目立つのは遠慮したかっただけです。……あ、あと」
ケイを手招きして呼べば、素直に傍まで来てくれた。僕が「エプロンのことくらい自分で言え」と耳元で言えば、ケイは一歩踏み出して口を開けた。
「あ、の……調理実習を……するという情報が……なくて、エプロンと三角巾を……持ってきてないんです……けど……」
「あぁ、点数を引くなんてことはしませんよ。来たばかりだからそんなこと知らなくて当たり前です。今日は貸し出しますから安心してください。でも次回からの忘れ物は点数を引きますからね。えーっと……はい、これエプロンと三角巾。授業終わりに返してくださいね」
エプロンと三角巾を渡されたあと、礼を言ってギルの隣に座った。ギルは戻ってきたのを嬉しそうに笑顔にして腕を絡ませてくる。
ケイは再びさっきと同じところに突っ立って、渡されたエプロンと三角巾をどこか憎むような鋭い顔で見ていた。……あぁ、そうだ。班の場所を言っていなかったな。
「ケイは僕と同じ班だ。この机の適当な椅子に座れ」
「…………」
返事もせずただ静かに向かいに座った。
なぜか知らないが、ずっと元気がない。転校した翌日からだ。初日はずっと寝ていたものの、起きたあとは元気そうだったのに。
ケイから話しかけられることはなく、休憩時間はずっと席に座って机に伏せている。僕から話しかけてもあまり楽しそうではなく、素っ気ない返事が来る。
僕が嫌なのか、生活にまだ慣れていないのか。
「ケイ。最近元気がないように見えるが、どうした。寝れていないのか」
「それはいつも」
僕の向かいに座ってからもずっと机に伏せている。声を籠もらせながら返ってきた。
「……ならなぜ元気がないんだ」
「…………」
返答なし。なにか聞かれたくない事情でもあるのだろうか。
「もうすぐチャイムが鳴るから起きておけよ」
「…………」
どこか元気がない。機嫌が悪いとは少し違う。
続々と室内の人数は増えていき、ここの班のメンバーも揃った。あとに来た下条と総務は自分たちの班の机にケイが座っている事に少し驚いたようだった。
「敬助と同じ班か! 仲良くしような!」
「…………」
下条はケイが転校してきて早々関わりを作ろうとケイに接近していたものの、相変わらずケイの態度がこうだから、あまり話しかけていないようだった。そしてきっと久しぶりにケイに声をかけた。
「大丈夫? ずっと元気ないみたいだけど。まだクラスに馴染めないよね……。ゆっくりでいいからね。なにか困ったことあれば、いつでも言ってね」
「…………」
総務が優しくそう心配するが、またしてもケイは無視する。本当にどうしたんだか。さすがに僕も心配になってくる。
僕も声をかけようと口を開けたが、チャイムが鳴ったことで阻止された。そして先生が総務に号令をかけるよう言う。
号令後、先生から配られた紙を見る。今回作るのはハンバーグ、ポテトサラダとトマト、白米だ。それぞれの作り方が書かれている。
役割は軽く決められている。下処理をする者、下処理されたものを切ったり焼いたりする者と。僕と総務が後者で残りの者が前者だ。
早速、エプロンと三角巾を着けて手を洗い、始めていく。
「…………」
手を洗い終えるまでなぜかずっとケイに見つめられていた。
ハンバーグと白米は作るのに時間がかかるので、先に作業をしていくようにと紙に書かれている。
ギル、下条、ケイにポテトサラダを作るのに必要なものを洗って皮を剥くことを頼んだ。総務には米を洗って炊くよう言う。
僕は手にビニール手袋をし、ハンバーグのもとになるひき肉に塩を振ってこね始めた。面倒な力作業だとわかっているのに他人に押しつけるなんてことはしない。
米の入った鍋を火にかけ終えた総務に、ハンバーグに入れる玉ねぎを用意するよう頼む。紙に書いてあるから、切り方などは言わなくてもわかるはずだ。
少ししか経っていないのにもう腕が疲れてきた。
「蓮、玉ねぎの皮向けたぞー」
「ちょ」
ちょうどいい……じゃなくて、
「ならこれをこねるのを代わってくれ。粘り気が出て来るまでだ」
「ほーい」
……これは押しつけではない。
下条と場所を代わって玉ねぎを切るが、玉ねぎは切れば目に沁みてくる。にんじんの皮をピーラーで剥くギルと、じゃがいもの皮を剥くケイから少し離れた場所まで移動した。沁みて目を│瞑ってしまい、誤って指を切ってしまうかもしれない。
玉ねぎを薄く縦に切っていく。ほら、目が沁みてきた。ときどき歪む視界の原因である涙をまくってある袖で拭き取りながら切り終え、ざるに入れて流水で流す。これでもう涙目になることはない。
ポテトサラダに必要な玉ねぎは用意できた。あとはギルのにんじんと一緒に加熱しなければならないんだが……。
ギルの様子を見てみれば、慣れないものだからか手が震えているようだった。それに指の先を持っていかれそうな位置に指がある。
「ギル、その持ち方は危ない」
ギルの後ろに立ってギルの両手を包み込むようにして握った。ギルの頭を避けて覗き込む。……そうか、なにか違和感があると思えば、ギルは左利きだからピーラーも左で持っているのか。
「俺ピーラー初めてだから、手震えちゃう。あはは……」
「そうだな。まず、にんじんを爪で持つくらいに、指を曲げて……そうだ。それからゆっくりでいいから、軽く下に引いて、こうだ。……こう。一度自分でやってみろ」
ギルから離れる。
「えっ……と」
やはり手が震えているな。少し声も震え始めている。
「ギル、大丈夫だ。失敗しても毒が入るわけではない。誰も怒りはしないから安心しろ」
あふれ出しそうな涙を拭い取ってやる。
「爪になら当たっても痛むことはない。ピーラーの刃が肌に当たらないことを意識するんだ」
「う、うん。っと、こう……でいいの……?」
「ああ、うまい。上と下のヘタの部分は最終的に切り落とすから、最後まできちんと剥く必要はないからな」
「うん……! ありがとっ」
料理でここまできちんと人に教えたことがない気がする。理解できただろうか。
ずっと静かなケイの様子も見ようとしたとき、ケイを挟んだ奥からジューッと音がした。思わず目を向ければ、眼鏡を曇らせた総務が頼んでおいた玉ねぎを炒めているようだ。作業が早い。
視線を戻してケイの手元を見ようとしたが、その前に下条に呼ばれた。タイミングが悪い。
「どうした」
「こんくらいでいいのか?」
下条から手袋を借りて触ってみる。
「……このくらいでいい。ありがとう。このあと、卵と総務が炒めてくれている玉ねぎとこしょう……。あとパン粉だな。下条、これはこのままでいいから、パン粉を牛乳に浸しておいてくれ」
「おうよ」
手袋を外してやっとケイの様子を見に行った。
じゃがいもを一つ剥き終えている。今は二つ目に入っているが、これはどうも形が悪く手こずっているようだ。かなり危ない動きをしている。
「ケイ、複雑な場所は僕がやろうか」
「……ごめん」
……相変わらず元気がない。
ケイからじゃがいもとピーラーを借り、形が複雑なところと、毒のある芽を取り除いた。ピーラーでも剥けないところは包丁に持ち替えて向く。
あとはケイに任せるつもりだが、少し持ち方が気になったので少し口を出させてもらう。ギルと同じく、指の位置が危ない。
「指を曲げて持つんだ。……そういう感じで。それにじゃがいもの場合、丸くて危ないように感じるかもしれないが、ピーラーは動かさない限り切れることはないんだ。下に下ろしたとき、手のひらに当ててしまうんだ。それなら安全だろ」
「……こ、こうか」
「そうだ。力加減はそのままでいいからな」
「…………」
一度、確認するようにケイの顔を覗き込んだが、少し赤くなっている気がする。まただ。熱があるのかと、ケイの頬に手の甲を当てる。
「なっ、なん……だ……?」
「少し顔が赤いように思えてな」
「そ、そう? 俺はなんともない……から」
少しおどおどしている……。情緒不安定か?
「……ならいいんだが。気分が悪くなってきたらすぐ言うんだぞ」
ケイは鼻で軽く笑ってから嬉しそうに「ああ」と一言。本当に情緒不安定か?
「れーくん、これできたよ」
「こっちも玉ねぎ炒め終わったよ」
ギルは嬉しそうにボコボコにさせたにんじんを見せびらかせ、総務は少し眼鏡を曇らせている。
「よし。なら……玉ねぎは少し粗熱を取ろうか。にんじんは僕が切ろう。粗熱が取れてハンバーグの具材を混ぜてこねれば、共同作業となるだろう形作りだ」
「もしかしてあの両手でポンポンするやつできるの!」
空気を抜くときにする動きのことを言っているのだろうが、あれはポンポンなのか?
「まだ少し時間を要するがな」
「やった!」
僕はあの面倒臭い作業を楽しみとは思わないが、ギルにとっては楽しみなんだろう。ハンバーグは一度作ったことがあって同じ作業をしたが、面倒臭さ故にあれ以来していない。
ギルに場所を代わってもらい、にんじんをいちょう切りしていく。
「手際いいね」
暇をもてあます総務が傍まで来てそう言う。
「やるか」
「僕そこまで上手じゃないから……」
「そうか」
切り終えたにんじんと玉ねぎを同じザルに入れて流水で流し、耐熱皿に移して電子レンジで一分半加熱する。
その間に粗熱を取っていた玉ねぎ、牛乳に浸したパン粉、卵、こしょうをこねたひき肉の容器に入れてこねるよう言った。それには総務が引き受けてくれた。その間に僕はサラダに使うきゅうりを輪切りに切っておく。……きゅうり、初めて切るかもしれない。
ケイもじゃがいもの皮を剥き終えたようなので、鍋に水を張ってそこへじゃがいもをそれぞれ入れて茹でてもらった。
調理実習もそろそろ後半に差しかかる。
電子レンジで加熱し終えた玉ねぎとにんじんは一旦放置だ。ポテトサラダはじゃがいもが茹で終わるまで進めることはできない。
「…………」
いっそのこと無駄な時間を過ごすより、小さく切って茹で時間を短縮しようか。空いているまな板をさっと流水で流し、じゃがいもを菜箸で取り上げてそこへ乗せた。
「……新藤くん、なにしてるの?」
すかさず総務が聞いてくる。時間短縮、と言えば素っ気ない返事で会話は終わった。
まな板に乗せたじゃがいもをそれぞれ四等分に切って、再び同じ鍋に入れた。これで少しは早く茹で終わるだろう。
「新藤くん、混ぜ終わったよ」
ひき肉を混ぜ合わせられたようだ。
「よし、ならそれぞれビニール手袋を着けて自分の分の形を作っていこうか。薄めの小判のような形にするんだ。そのとき、両手で行き来させて空気を抜いていく。最後には真ん中にくぼみを入れてくれ」
こねたものが入る容器を机の真ん中において、机の周囲に移動するよう言った。場所が広いほうが作業しやすいからな。
ケイから手袋を渡されたので、それを着けて少量手に取り、加減を繰り返して形を整えていく。
「ねぇ、れーくんのそれだけでいいの? ちょっと小さくない?」
「……これくらいで十分だ。これにポテトサラダと白米もあるんだ。ちょうどいい量になる予定だ」
「そう? ならいいんだけど……」
実際、ケイの分を増やすためにもこれくらいの大きさにするつもりだった。
ギルは毎度、食事の量が少なければ心配してくる。いつだったかにあまり体調が優れなく、購買で売っていた昆布のおにぎり一つを昼食としたら心配してきたのを憶えている。
「えっ、れーくん今日それだけ? 足りる?」
「……これだけで十分だ」
「体調悪いんじゃない? 大丈夫?」
「……少しだけ。心配するほどではないから」
「いーや、れーくんが体調悪いときは、だいたいどんどん悪くなっていくからもう今日帰ろ」
確かにこう言ってきた中の、三分の一はそうなっているが、今回は寝れば治まるものだきっと。だから、
「帰らない。ただの寝不足程度。心配するな」
「……ほんとに? もし明日体調悪くなってたら、俺学校終わりそのまま看病しに行くからね?」
「……看病はさせない」
そうは言ったものの、翌日には熱が出てきて学校を休んだ。そして夕方頃になってギルが来てずっと傍にいた。そういうオチだ。
今回はケイの分と、ハンバーグ以外の食事の量も考えてこの大きさになった。さすがに一部を説明すれば、ギルも納得して深く掘り下げることはしなかった。
続いて空気を抜いていく作業に移る。が、先にじゃがいもの様子を把握しておく。
竹串で刺して堅さを調べる。今で茹でて五、六分くらい経つだろう。……そうだな、空気を抜き終えた頃くらいにもう一度見よう。ちょうどいいくらいになっているはずだ。
僕は再び手袋をして空気抜きに入った。
「うぉ、蓮早! 上手すぎだろ!」
下条からそう大きな声で驚きながら言われるもので、つい手を止めてしまった。
「……なんで止めたんだ?」
目立つのは嫌だからだ。一度軽く周りを見てみたが、酷く注目されている様子はなかった。
「下条、驚くなら静かにやれ」
「……れーくんそれちょっと難しくない?」
「下条にならできるはずだ」
「ちょっと笑ってるじゃん!」
「俺静かに驚けるぞ! からかうなー!」
……そこか? というか下条にできるのか?
「下条くん。真面目に空気抜かないと下条くんのだけ破裂するよ」
さすが総務。……いや、これくらいなら知っているか?
「え、そうなのか? やべーじゃねーか」
「加熱時に空気が膨張してな。だからできるだけ空気を抜くんだ。ゆっくりでいい。急いでやっても意味がないし、落としては元も子もない」
「おうよ、任せろよ!」
自分の分くらい自分でやれ。
先に僕と総務のが空気を抜いて、くぼますまで終えたので、先に焼かせてもらっている。僕はそのうちにポテトサラダを完成させていくことにした。
じゃがいもを竹串で刺してみれば、スッと通る柔らかさになっている。これくらいでいいだろう。取り出して容器に入れ、木べらで小さく形が残るくらいに崩していく。崩せたら粗熱を取る。
ハンバーグは総務に任せている。しばらくはなにもしなくていいかもしれないが。僕は総務の隣でハンバーグのトマトソースを作ることにした。
トマト水煮缶、ウスターソース、ケチャップ、水を適量、空いているフライパンに入れて軽く混ぜて蓋をする。これで十分ほど煮込む。
「なあ、肉余ってるけど、他誰も要らねーのか?」
余っている肉を欲しそうにする下条が聞く。
「それは余っていても仕方がないから使い切ってほしいんだ。下条以外に要らないか」
「俺ちょっと欲しい」
「ケイは大丈夫か」
「これくらいで」
答えてくれると思ってなくて少し驚く。
「……なら、ギルが欲しい分だけ取って残りを下条が全部貰え」
「おうよ」
ギルが手にした量は本当に少しだけだった。手のひらで小さくすくい取るだけの量だ。下条が再度確認して、残りを全部取り、無事肉は使い終えた。……下条のだけ大きくなった。
少し早いかもしれないが、暇なのでポテトサラダを進めていくことにした。まあ、ほんのりと温かく感じるほど粗熱は取れたんだ。ちょうどいいくらいだろう。
さきほど取り出したじゃがいもを入れた容器にポテトサラダの具材の、玉ねぎ、にんじん、きゅうりを入れていく。それに加えてマヨネーズも入れる。そして全体を和える。
……完成、いやまだだ。少しだけ塩とこしょうを入れようか。それぞれ少し振って再び軽く和えた。今度こそ完成だ。
一応味見をしておこうか。適当に余っているスプーンで少しすくった。それを、
「ケイ、口開けろ」
「ん?」
素直に口を開けてくれたケイに食べさせた。
「どうだ。味のほうは」
「…………」
返答なしに、顔が赤くなっていくだけ。さすがに食べさせるのは恥ずかしいか。
「……う、うまい」
「ならよかった」
どうやらおいしいらしい。
「敬助くんもう食べたの?」
「味見に食べてもらった」
「俺も食べたいー」
「出来上がってからのお楽しみだ。それより空気は抜けたか」
文句を言われる前に話題を逸らした。ギルはこうでもしないと、しつこくねだってくる。
「うん。こんな感じでいいかなーって」
さすがに料理のできる僕でも空気が抜けたかなんてわかるはずがない。ギルのも焼いていった。次第にケイと下条のも準備ができたようで、余っているコンロに新しくフライパンを乗せ、焼いていった。
僕と総務のはもうひっくり返す頃だろう。ハンバーグを任せている総務にひっくり返せたか聞けば、落としそうでできていないとのことだった。
「……やろうか」
「ごめんね、お願い」
ひっくり返せれば再び総務に任せて、トマトを切った。ポテトサラダに入れることを今まで忘れていた。切ったものをザルに移しておく。
暇。
だから不要になった皿や器具を洗うことにする。食後にもまた洗うことになるだろうが、早めにしておけば後片付けも楽だ。
まな板、包丁、木べら、耐熱皿、スプーンをそれぞれ洗っていく。洗剤を出したとき、ほんのりと良い香りがした。こういうのはだいたい無臭だと思っていたから少し驚いた。
「れーくん、もう洗うの?」
「使わないものはな。食後の洗い物を減らすだけだ」
「……いいニオイする」
「この香りは僕も好みだ。……ギル、悪いが人数分の皿を用意してくれ。それでポテトサラダも均等に分けてくれ」
「俺、皿は出せるけど分けるの下手だよ?」
ならば、ケイに頼もうか。昔、なにかを分けるときにケイが自らやってくれた……はずだ。いや、わからない。曖昧だ。聞いてみるか。
「ケイ、ポテトサラダ均等に分けられるか」
「……この菜箸でいい?」
「ああ」
……白米のニオイがしてきた。そういえば炊いていたな。今は下条の手が空いている。
「下条。もう米が炊けていると思うから、茶碗に入れていってくれないか。僕のは少なめで頼む」
「蓮って男なのに小食だよなー」
いいだろ、小食な男でも。
「真也くん。れーくんは小食でれーくんなんだから、それでいいんだよ。大食なれーくんはれーくんじゃないの」
貶されているのか、嘲られているのか。
「あーそっか。蓮は運動神経も体力もなくて、小食でやっと蓮か」
僕の定義を増やすな。
「違うよ。運動神経も体力もなくて、体調崩しやすくて、小食なのがれーくんだよ」
……言われる身にもなれ。
「もうどうだっていいだろ」
「よくないよ」
「よくないって」
……口を揃えて言うな。
「……好きにしろ。それより下条、手を動かせ。白米を分けるよう言ったはずだ」
「蓮は厳しいってのも入るな」
僕の定義にか。はっ、もう勝手に定義を増やしておけ。
「いっ」
よそ見していたら、包丁で左の人差し指を切ってしまった。皿の上に包丁を置くんじゃなかったな。酷く血が│滲み出してきて、痛みも感じてきた……。
「……蓮。今の大丈夫?」
どうやらケイは、さきほどの小さな声を聞き取ったらしい。ケイの耳は鋭い。ポテトサラダを入れる手を止めて、傍まで来た。
「かすっただけだ。心配は要らない」
「水に当たって痛いだろ。俺やるよ」
「……悪い。ポテトサラダは僕がやっておく」
ケイと代わってもらった。大した傷ではないんだがな……。ケイからティッシュも貰って巻いている。
……そういえば、昔もこんなことがあった気がする。確かなにかで鶴を折る授業に、折り紙で指を切ってしまった時、傍にいたケイが僕の指の切り傷を見つけるなり、
「指切ってるじゃん。俺が✕✕✕✕✕の分まで折っとくから、保健室に」
「……必要ない」
「でも、折り紙に血付くぞ」
確かに……。
「……ティッシュで押さえれば大丈夫。……しなくていい」
「……そっか」
小さな切り傷ならティッシュで押さえておけば、数分で止血できる。止血できたあと、普通に折っていた。
「ふっ」
完成したものの、ケイのが鶴ではなく、気球のようなものになったのは面白かったな。きちんと順番通りに教えたはずなんだが。
今、僕の顔には笑みが作られているのがわかる。
「あれ、ポテトサラダ分けるのれーくんに代わってる。それよりなんで笑ってるの?」
「思いだし笑い」
「なんの? 俺わかる?」
「ギルはわからないな。小学三年生のときのものだから」
「小三は俺らクラス違ったからねー。どんなの思いだしたの?」
さきほどの思いだしたことを言えば、ケイも思いだしたのか笑っていた。
「懐かしいなそれ。蓮の折る鶴を真似してたはずなんだけど。ははっ」
久しぶりのケイの笑顔だ。なんとなく、僕も嬉しくなる。
聞いていた下条も笑いだしていた。
「なんで鶴が気球になるんだよ! 面白すぎるだろ! 敬助も意外と面白い奴だな」
「下条には言われたくない」
「なんでだよー」
またいつかも、未来で笑える話として語られるんだろう。大切な思い出として。
「盛り上がってるところ本当にごめんなんだけど、英川くん、お皿こっち持ってきてくれない? ごめんね」
「あ、うん。全然いいよ! 出来たの?」
ギルはポテトサラダの入る食器を持って、コンロの傍に寄った。
「先に新藤くんと僕のね。こっちが新藤くんので、こっちが僕の」
「れーくんのちょっと小さいからわかりやすーい」
僕ら以外のそれぞれのハンバーグも焼き終わり、皿に載せられる。
米の入った茶碗とポテトサラダ、ハンバーグが載った皿を並べ、箸も並べられている。あとは、仕上げにソースを均等に掛けていけば、
「よし、完成だ」
「やったー! やっと食べれる!」
「俺らの班、他の班より早いみたいだぞ」
早く作りすぎてしまったかもしれない。
「早く座って食べよ!」
出来た班から食べていくようになっている。
それぞれ授業始めに座っていた位置に座っていく。目の前の茶碗には僕が希望した量の米が入っている。さすが下条だ。僕の欲しい量をわかっている。
垂れてきてはいけないので、三角巾を取って、膝の上に置いた。
「じゃあ、手を合わせて。いただきます」
総務のその声のあと、それぞれいただきますと言って、箸を持って食べ始めた。
いただきます。
「んー! ハンバーグおいしい!」
「ソースがすごく合う」
「ポテサラもおいしいぞ!」
食べた感想を口々に述べていく。
僕も一通り食べた感想としては、かなりいい出来だ。家で作ったわけでも、一人で作ったわけでもないが、普通においしい。……人と食べるからおいしいというのもあるかもしれない。
調理実習を行うと聞いて少し抵抗したが、これくらいきちんとしているならまた行われてもいいかもしれない。
「蓮」
横で盛り上がるなか、向かいに座るケイから名前を呼ばれた。
どうしたかと聞く前にケイは続けた。
「口開けろ」
さっきの仕返しでもさせようと。
「遠慮しておく。さっきのは」
味見兼毒見だ。
言い切る前に僕の口になにかを運ばれ、喋ることを阻止された。
ケイが向かいの机から身を乗り出して腕を伸ばし、僕の口に箸を突っ込んでいる。口の中はポテトサラダの味がする。
「お返し」
そう言って箸を抜かれる。そして何事もなかったかのように、自分の皿を突いていく。
「…………」
仕返しをされた。ギル以外に食べさせられるとは思っていなかった。誰も見ていなかっただろうとはいえ、少し体が熱い。
黙々と食べていくなか、トマトを食べたときトマトの液で噎せた。情けない……。
「れーくん大丈夫? なにで噎せたの? 噎せそうなのある?」
「……と、トマト……ケホッ」
「トマトで噎せたのか蓮!」
相も変わらず下条に笑われる。笑うのが好きだな。
そう思っていれば、ケイも少し笑っているようだった。口角を上げ、肩を揺らしている。下条から笑われたときの感情とはかなり遠いものだ。
食べ終われば先に僕の分だけ洗っておこうかと思ったが、周りで食べているのに洗うのは少し場違いかと思い、そのままでいた。誠実さも捨てるときもある。今だって、目の前では楽しそうに食べる様子がある。もっと大事にするべきものがあるはずだ。
エプロンだけ取って畳んでおいた。
「れーくん、もう食べ終わったんだね」
「あの量にしてたからな」
「足りた? 俺のあげようか?」
「いや、十分だ。ありがとう」
「そっか」
向かいにいるケイも食べ終わったようだ。だが、食べて体温が上がり眠たいのか、食器を少し避けて机に伏せている。
食器を僕のと重ねて、万一に割れないようにだけした。ケイの睡魔が敗れることがあるのだろうか。
次第にここの班の全員が食べ終えた。次は片付けに入る。といっても、洗う者と水を拭く者の二人で済む。
洗う者は総務が担当し、水気を拭く者はギルが担当している。洗う者に立候補しようかと思ったが、先に総務に取られたので断念。次に拭く者に立候補できたが、ギルが「れーくんいっぱいやってくれたから俺する」と言って、これまた取られた。
僕はそこまでたくさんのことをやったのかと疑問に思いながらも、今は静かにギルたちの様子を眺めている。
「…………」
暇だ。
下条は他の班の人と話しており、ケイは相変わらず伏せている。と思ったが、顔が少し上がっていた。口だけを隠すように腕の関節部分を枕にして目を瞑っている。
目の下を黒くさせて目を瞑るその顔、本当に寝ている気がする。
「ケイ」
「…………」
少し気になって呼びかけてみたが、本当に寝ているようだ。反応がない。
「敬助くん相変わらず爆睡だね」
隣で食器を拭くギルに聞かれていた。
「……こういう場でしか寝れないのかもしれないな」
「……どういうこと?」
聞いてきたのはギルの近くにいる総務だ。
「虐待でも受けてるの?」
「…………」
「虐待? なんで?」
ギルも聞き返す。確かに引っかかる単語だ。
「だってさっき新藤くんが、こういうところでしか寝れてないのかもって言ってたよね」
……なるほど。家では寝られない。つまり寝ることができない環境として虐待という言葉が出てきたのか。
「言ったがそういう意味ではない。ケイは少し事情があって、寝つけないらしくてな。それで、家ではその……ある事を思いだしてしまって落ち着いて寝れない。だから事情のある家ではなく、こういう離れた場所でしか落ち着いて寝れないのではないかと、勝手に思っただけだ。実際は知らない」
「そうなんだ。……事情があるんだ」
「詳細は本人の口から聞け。話してくれるかはわからないがな」
「いやいや、人の事情を聞くわけないよ。ヘンに気遣っちゃっても、影島くんに悪いと思うし」
さすが、わかっている。下条が聞いていなくてよかった。下条なら聞いてきた気がする。完全なる偏見だが。
やることが済んでここの班は暇になった。他の班も続々と食器洗いに入っている。ここだけかなり早く終わってしまったみたいだ。そしてその様子を先生が気づいたようで僕に話しかけてくる。
「ここの班もう終わったのですか?」
「そうですね。早く終わってしまいました」
「作るのも早かったですからねー。さすが新藤くんがいる班ですね」
……つまり、僕が急かしたと。
「はあ」
「始める前に、困ったことがあれば聞くようにって私言ったけど、そんなこともなかったですからね。さすがです。他の班の人は聞いてきたんですよ?」
「……そうですか」
きちんと授業を受けていればわかることだ。褒められるほどではない。
「好きにしててくださいね」
「はい」
なにも持ってきていないからなにもすることがないんだがな。
数分間、暇で目を瞑っていると、なんだか焦げ臭いニオイが一瞬した。とっさに目を開けて辺りを見渡したが、誰かがなにかを燃やして騒いでいる様子はない。
「…………」
「れーくんどうしたの?」
「一瞬……ニオイが」
「ニオイ? ……なんの?」
僕の気のせいか? 確かに再びニオイがしたわけでもない。気のせいだろう。そう思い、再び目を閉じた。
人は目を瞑ると、視覚以外の感覚器官が敏感になる。そして、僕の嗅覚と聴覚も敏感になった。
再び焦げ臭いニオイがし、後ろの廊下側からもなにか騒ぐ声が聞こえる。……廊下?
後ろの廊下につながる調理室以外の部屋は他に、トイレ、視聴覚室、多目的室、美術室、理科室。……確か、これぐ隣は理科室だ。もしかして、この焦げ臭いニオイは……!
慌てて廊下に飛び出してみれば、より特有の臭さがわかる。
「れーくん、どうし……なんか焦げ臭くない?」
後ろに付いてきたギルもニオイがするらしい。これは幻嗅ではない。
ニオイが強まるのはやはり理科室だ。騒ぎ声も大きくなる。少しだけ開く扉を覗いてみれば、廊下とは反対の窓の下にある机に赤い炎が立ち込めていた。
「……火事だ……」
「えっ? 火事?」
ギルに場所を代われば、扉の隙間を覗く。
「……ほ、ほんとだ。早く先生に知らせないと……」
「ギル、一一九番も頼む」
「う、うん」
ギルは教室に駆けていった。
だが、なぜここまで騒いでいるのに、誰もなにもしないんだ? 先生がいるだろ。指示を出してやらないと動けない――
先生の存在を確かめるために再び覗いてみたが、
「っ……」
先生の存在がなかった。なぜいないんだ……。火を使わせるなら一人くらいはいないと危ないだろ……。
けどまだあの火の大きさなら消化器で……。そう思ったが、一人の生徒が着ていたセーターで叩いて消そうとして、逆に燃え移った。
燃え移ったそれを焦ってか床に落としてしまう。そしてバッと一気に炎が広がった。同時に悲鳴が大きくなる。なんでだ……。なぜあそこまですぐ燃え広がった……。アルコールでもこぼれていたのか……?
駄目だ。消化器は少し遠いところにある。初期消火は間に合うか……。理科室にあるであろう消火器もどこにあるか把握していない。
中にいる生徒のわずかが着ける名札で一年とわかる。どうやら火を使ったなにかの実験をしていたらしい。ガスバーナーやマッチ、なにかが入ったビーカーなどがテーブルに置かれている。
僕は扉をガッと開けて、複数の視線を浴びる。
「せんせっ!」
「残念だが先生ではない。とりあえず火から離れろ」
やはり年下でも大勢の前で目立つのには心臓がうるさい。
「全班、ガス栓が閉じられているか見ろ。そしたら廊下に出て、こっちに先生がいるから指示を」
「お、おい、服燃えてるぞ……!」
一人の声で、服が燃え移った男子生徒から人が離れては騒ぎ立てる。言われて暴れだす男子生徒のセーターの背面に確かに火がついていた。
「……お前らは人を殺したいのか」
そう勝手に口が動いていた。
微かな怒りを覚えながら教室に入り込んで、「暴れるな」と少し強い口調で言い放ち、火元から離れて床に転がるよう言った。同時に逆さになってまだ使われていないビーカーに水を溜めては掛ける。
「……他の奴は先に廊下に出て、二年と一緒にグランドへ逃げろ」
指示を受けた生徒は教室から出ていく。やはり、パニックになった人間は指示がなければ、動けないか、動けたとしても周りはなにも見えていないかなんだな。
燃え移った火が消えたあと、男子生徒を立たせて一緒に逃げるよう言った。
「あ、ありがとうございます!」
「礼より先に逃げろ」
「先輩も一緒に逃げましょうよ!」
「僕はガス栓が閉じられているか見る。だから先に行け。あと、火傷を負っているかもしれないから、グランドに出れば服を脱がず背中に向けて水を掛けてもらえ。そのあとは保健室の先生の指示に従うんだ」
「は、はい……!」
まさか、こんなところで先輩と呼ばれるとは思っていなかった。
一通りガス栓が閉じられているかを確認したが、ほとんど閉じられていなくて、それぞれ閉じる。避難を優先するのはいいが、ガス栓を開けっ放しにしたら被害が大きくなることくらいわかるだろうに。人任せにもほどがある。
窓を閉めたが、一箇所だけ閉められなかったところがある。火元近くの窓だ。どう腕を伸ばそうにも閉められそうになかった。
ここが理科室であることを思いだし、実験用のスタンドがあるだろうと、それで閉めようと思ったがあいにく教室内にはなく、きっと準備室にある。鍵も開いていないからどうも窓が閉められない。
炎は大きくなって、煙も黒くなりだしては黒板のすぐ上を通るほどだ。
「…………」
炎は赤色、橙色、名前を付けられない色をしていて、とても綺麗だ。不規則に揺れ動いてメラメラと燃えている。綺麗な色をしている。……つい見とれてしまう。
「…………っ」
外から風が吹いて、目の前まで炎が押し寄せて顔に熱さを感じたとき、ハッとして一歩下がる。
のんきに見ている場合じゃなかった。教室を出て扉も閉める。足早に階段を下りていった。窓の外を見れば他のクラスも避難している様子がわかる。
放送が鳴ったから避難しているのだろうが、騒ぎで全く気づかなかったな……。
僕が学校に通うなかで、実際に火事が起きるとは思っていなかった。きっと誰しもが思っていただろう。だからこそ、避難訓練というのは大切なんだ。
グランドに着いた。どうやら集会のときの並びらしい。列に並ぶ黄色の髪の人間と目が合い、そいつが手招きした。ギルだろう。
足早に近づいた。
「れーくん遅いよ。いなくてほんっとに心配したんだから」
「悪い。一年を避難させていた」
「れーくんが?」
「理科室になぜか先生がいなかったんだ。どうにも動けないようでな」
「そうだったんだ。れーくんヒーローだね」
「なにを言う」
ふと、寝るケイの姿が頭に浮かんだ。なんとなくギルの並ぶ後ろに目を移す。
「…………」
僕の鼓動は早くなっていく。あの赤みがかった茶髪をした奴の姿が見えない。
「ぎ、ギル。ケイは……ケイと一緒にいたか」
「……敬助くん? 一緒にはいなかったよ? なんで?」
ギルもさっき僕が見ていたほうを見る。
「え、もしかして……いないの!」
「……気づかず眠り続けているかもしれない……」
「えっ、嘘!」
「見てくる」
「待って、戻っちゃ駄目だよ!」
駆け出そうとした僕の腕をギルは掴んだ。
「離せ、もしいたら」
「いないことを期待しないと、れーくんが危ないよ! 戻らないで!」
「すぐ見てくるだけだ。必ず戻ってくる」
「駄目!」
「……僕は友人が助けられるのをのんきに待っていられない。ギルが置いていかれていたらそのときも戻るんだ。行かせてくれ」
言ったあと、一瞬手が緩んだ隙に腕を引けば、再び掴まれることなく駆けていけた。ギルには今度ジュースを奢ってやるか。
騒ぎのせいか、逆走していることに誰も気づくことはなかった。
息を切らしながら、焦げ臭いニオイのする階段を駆け上がる。
「…………」
なんで……。
階段を上がれば、廊下は煙であふれていた。出るとき、理科室の扉はきちんと閉めたはずだ。そう思って前と後ろの扉を見比べるが、明らかに前の扉から煙があふれ出ていた。不安を駆るような黒煙が。
馬鹿をした。冷静でいたつもりだが、僕も内心では焦っていたのかもしれない。
駆け上がった体は酸素を欲して呼吸をする。でも実際に体内に入ってくるのは一酸化炭素なんかで、胸の苦しみを覚えたときには咳き込んでいた。
カーディガンで口と鼻を覆って、背を低くさせながら煙の出る扉を閉めては家庭科室へと向かう。
窓から見える理科室は、室内中が真っ赤に染まって、出た時よりも炎を大きくしていた。もしかしたら上の階の床が燃え始めているかもしれない。そんなことを想像させるくらい大きくなっている、いや大きくなったというよりも、理科室を炎がのみ込んでいる。今の理科室はそう表現するのが似合っている。
外とつながる窓の傍で燃えた火は、永遠と酸素を使って炎を大きくしていく。理科室はもう言葉の通り「火の海」だ。
それにしても窓越しに見える炎、本当に綺麗だ。とても綺麗な色をしている。赤、オレンジ、黄色、白……いや、きっと何色なんてものじゃない。自然が作り上げた名のない色。
もう少し近くで見たいと、窓に近づいて、窓に手をかける。けど開かない。ならと、扉なら開くだろう。手をかけたらやはり開いた。
けど、そのとき室内から放たれた熱さにハッとして、すぐに我に返る。
なにを馬鹿なことをしているんだ。すぐに開けた扉を閉めて家庭科室に入った。扉を開けるなんて、ただの自殺行為じゃないか。
煙は家庭科室にまで入り込んできていて視界を悪くさせている。扉が開いたままだったからだろうが、もしかしたらもう家庭科室の壁が燃え始めているのかもしれない。
体勢を変えないまま、ケイが座っていた椅子を探す。本当に視界が悪い。近くまで行かないとそれがなにかわからない。むしろ近くまで行かないとそこになにかがあることすら気づかない。
扉から入ってすぐ近くにある僕らが使っていた机。きっとこれだ。ここの、右側の席の一番後ろ。ケイが座っていたのはそこだ。
それらしき椅子の脚を見つけ、顔を上げる。もしケイがまだ眠っていたらここにいる。けど、座面になにかが載っている、なんてことなかった。手で確認するも、すべすべとした座面があるだけだった。
無事に逃げれているようだ。よかった。なら、僕も早くここから出なければ。そう思って廊下の窓からの漏れる昼の光が薄らと見えるほうへ向いた。
なのに奥のほうからなにか、ものが落ちる音が聞こえてしまう。
今の音はなんだ。もしかして場所が違っていた……? いや、ケイは確かにここで……。それとも、僕が一年を避難させているときに席を移動して、騒ぎでなにかに頭に当たって気絶とかしているんじゃ……。さすがに考えすぎだ……。きっと逃げているはずだ……。
それに、ものが頭に当たっただけで簡単に気絶なんか……。いや、夏祭りのときに殴られて気絶した。ヘンなものを思いだしてしまう。
ケイはきっと逃げれているはずだ……。僕の勝手な考えが邪魔しているだけだ。早くここから出なければ。ギルのもとに戻らなければ。
「…………」
頭ではわかっているがその不安からか、なかなか動けない。正直、いつまでこの体が保つかわからない。走ったあとの呼吸を整えたので、煙をかなり吸ってしまい、体がかなりだるんで一酸化炭素の怖さを実感している。けど、その怖さを実感しているからこそ、ケイがいたらと思ってしまう。
……いっそのこと、息を止めて音のしたほうまで歩こう。そっちの方がきっと早い。
頭をフラつかせながらも立ち上がる。タイムリミットはせいぜい数十秒。それまでになにもなかったと、僕の脳を納得させなければならない。
目の前は煙のせいで見えない。近くまで行かなければ輪郭がわからない。机で今どこにいるか場所を把握しながらゆっくり進んでいく。
確かここら辺から音がしたはずなんだ……。煙のせいで目がずいぶんと痛んでくる。目を開けていられるのも残り数分という感じがしてくる。
しゃがんで音源はなにか、手探りで確認する。が、それらしきものはない。ケイの身長的に、寝転んでいたとすれば、見つけられるはずだ。丸まってでもいない限り。
それでも見つけられないということは、きっとケイはいないんだ。やはり僕の考えすぎだったようだ。ならば早く僕も出ないと、もう息が限界だ。今すぐに新鮮な空気を吸いたい。
もう行こうと、立ち上がろうとしたそのとき、
「……っ!」
ゴンッと鳴って頭になにかが当たった。当たった場所を押さえ込む。なんだ、なにに当たった。高さ的の机か?
けど、それよりも……。
当たったときに驚きと痛みで、我慢していた呼吸をしてしまい、一酸化炭素を酷く吸った脳は一瞬気を失いそうになる。体が言うことを聞かなく、床に腹を付けてしまう。そして呼吸をしてしまったことを機に、肺は酸素を取り込もうと呼吸をやめてはくれない。
体が動かない。酷い動悸と頭痛がする。吐き気がしてきて気持ち悪い。頭が動かない。
幾度と死を覚悟したが、今回は本当に死ぬみたいだ。もう動悸以外なにも聞こえない。
……気が遠くなってきた……。目が潤ってはあふれ出る。
まだ……まだ、死にたくない……。
こんなことで……ギルたちと別れなんてしたくない。
昔は散々におもった……。けど今は、いまは死にたくない、しにたくないんだ……。
……さっきまでの記憶がない。
ぼやけたしかいにケイが見える。僕の口元をふくろで覆っている……? 焦ったような顔をしてなにかをさけんでいる。悪いがもうほんとうになにも聞こえないんだ。
それより、本当にまだいたのか……? やはりきぜつでもしていたのか……?
……でも気がつけたのならよかった。ぼくはもうほうっていいから、はやくにげろ……。
「蓮!」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
「伝わらない。この気持ち(1/2)」に続きます。