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早咲きの蓮華は地面に咲いた  作者: 雨夜玲
同じ人間の同じ花 以降↓(設定中)
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過ぎた優しさに希望はなくても

※本作、暴力やいじめの描写がございます。ご注意ください。

 三月中旬。ある平日の朝。

 生活習慣が崩れに崩れていたあの時に比べたらずいぶんと整ってきた。

 そして今日も変わらず学校に行く。今ではもう、外の世界のことを考えて苦しくなることはなくなった。

 迎えの合図、インターホンが鳴って立ち上がる。……行くか。

 玄関先で靴を履いて、扉に手を掛ける。

 が、その前に最近出るようになった言葉を言う。

「いってきます」

「…………」

 もちろん写真に言葉をかけても、返事はない。わかりきっている。

 それでも僕は微笑みかけて、扉の外に向かった。

「おはよ!」

 扉を開けるといつも通り、ギルが笑顔で迎えてくれる。

「おはよう」

 天気は晴れ。気温はまだ少し寒い。僕は防寒具を付けている。

 いつも笑顔だが、今日は特に嬉しそうなギルを隣に付けて学校へ向かう。寒いからもちろんポケットに手を隠しながら。

「えへへへへ」

 本当に元気そうだ。なにかいいことでもあったのだろうか。

 僕がチラチラとギルのことを見ていることがバレたのか、

「聞いてくれないのー?」

 と、ニコニコしながら聞いてきた。

「……どうしてそんなに嬉しそうなんだ」

 少し棒読みになってしまった。

「えへへ、だって最近れーくんの顔色良くなってきてるんだもん! 前よりももっと良くなってる気がするんだもん!」

「……なんだ」

 そんなことか。もっと、道中で犬を触らせてもらえた、とかを期待していた。

「面白い話を聞けると思っていた」

「そう? 面白くはないけど、れーくんの顔色が良くなってるのはすっごく大事なことだよ! その……『あの事』があった直後とか、終わったあともれーくん……ずっとしんどそうな顔してたから。でも、ピアノとかバイオリン弾いてくれたときとかにはちょっと良くなってて。それで今はもっと良くなってる!」

 自覚できるものではないが、無意識で人を喜ばせられるというのは、気分が悪いものでもない。

「あ、でもね、今日は特に楽しみで!」

 楽しみ? なにか行事があっただろうか。

「ほら、明日ホワイトデーでしょ?」

 そう、なのか……?

「れーくんがバレンタインのお返し作ってきてくれるからもっと楽しみなの!」

 ……あ。

 そういえばいつかにそんなことを言っていた。すっかり忘れていた。そうか、明日なのか。

「……その顔、もしかしてっていうか絶対忘れてたでしょー」

「憶えていられるはずがない」

 土曜日のこともあって、だ。無理に決まっている。

「俺言ってて正解だったね! ちゃんと返してもらうんだから。って言っても、間に合わなかったらべつに遅れてもいいからね! れーくんの気持ちのほうが大事だし」

 あのことがあってから、ギルは少し僕の心身に気を遣うようになった。無意識なのか意識してなのか。……あまり望んだものではないが、言っても「そんなことないよ? 俺にとってはれーくんがこの世で一番大切だからしてるんだよ!」と、やめてはくれない。

「……なら、面倒だから作らない」

「え! そ、それはなしー! それしたら俺怒って、れーくんの部屋にずっと居座るもん!」

 地味に嫌だ。

「きちんと作るから居座るな」

「あはは。じゃあ待ってるね!」


 そう朝に会話をしても、帰りも一緒に帰るのが僕らだ。

 帰りにスーパーに寄らせてもらった。

 学校にいる間、なにを作ればいいか悩んでいた。ギルに聞いても「れーくんから貰えるならなんでもいいよ!」と。

 チョコを使った小さいケーキなんてどうだろうか、と思ったがきっと材料費も高くなるし、面倒臭そうだと諦めた。

 ギルの他にケイもいる。他に警部にあげられるのならあげたい。バレンタインチョコなどは貰ってないが、せっかくの機会なんだ。渡したいに決まっている。

 そして選んだ菓子は……。

「なに作るの?」

「内緒」

「えー。あ、俺生チョコ食べたい!」

「……なんでもいいと言ってただろ。もう決めたんだ。欲しいなら自分で買え」

「あはは。そっかーもう決めちゃってたかー」

 そういえば、米がもうそろそろなくなりそうだったか。菓子作りに使わないが、ついでに買っていくか。

 なくなりそうな材料や欲しいものはスマホのメモ帳に書いている。……スーパーだと米と醤油とケチャップ、オリーブオイルもか。荷物が多くなりそうだ。

「ギル、悪いがカート持ってきてくれないか」

「え? うん、いいよ!」

 早速取りに行ってくれた。その間にラッピング用の包み紙をどれにするか選ぶ。

 特にこだわりだとかはないが、少しくらい見栄えを良くする必要もあるだろう。

 ギルがカートを持ってきてくれたら、カゴを置いて、鞄も下に置く。

「ギルも鞄、そこのフックに掛けたらいい」

「あ、うん。ありがと」

 その口ぶり、僕が配慮したことに気づいているな。

 あとは、板チョコと……。

 板チョコは菓子のエリアにあるはずだ。ギルにカートを貰おうとしたが「押すの楽しいからいやー」なんて幼稚なことを言うから、人にぶつからないようにとだけ注意して許した。

「お菓子買うの?」

「板チョコを買う」

 板チョコ……あった。ミルク……で統一したほうがいいか。ミルクの板チョコを取ろうと手を伸ばした。けどそのとき隣からも手が伸びてくる。

「あ!」

 横を見たら総務、その後ろに柊がいた。

「あ、新藤くんと英川くん」

「……買い物?」

 板チョコを数枚取って、立ち上がる。

「そんなところだろうな」

 総務と柊が一緒に帰るところを見るのは、少し新鮮だ。

「総務さんたちもホワイトデーのお菓子作るの?」

「うん、そのためにここにね」

「蓮くんは……誰に返すの」

 誰もなにも……。

「バレンタインの菓子を貰った相手に」

「わかってないなーれーくん。つまり、女の子に返すの? ってことだよ。ね、総務さん」

「うん。そうだね。というか、聞いたよ? バレンタインのとき、女の子からのバレンタインチョコ、断ろうとしてたの。しかも『毒が入ってないかの証明』をさせるためにかじらせたって」

 確かにかじらせるのはまずかったか。

「……どうしたらそんなこと思いつくの? 間接キスなんて……」

 そっちか。したつもりはなかったが。

「それで、その子にきちんと返すんだよね?」

「……返さなければどうなる」

 バレンタインのルールはわからない。

「僕が怒る」

 総務が、怒る……。思わず何度か瞬きをする。

「あはは。れーくん侮っちゃ駄目だよ? 総務さんが恋愛ごとで怒ったらこわーいんだから。ね、実琴くん」

 ギルの問いに柊は目を逸らす。怒らせたことがあるんだな。……総務が怒ったところは見たことないが、それほどまで怖いものか? いいや、きっと僕が知っているもののほうが怖いはずだ。

 僕が勝手に菓子を渡してきた相手に返す義理はない。

 そう伝えたら、

「新藤くんほんとにいいの?」

「…………」

 なんだ……。なんだその、確認は……。

「……わかった。返す。きちんと返す。けど、僕はべつに相手に好意を持っているわけではない。そこは許してくれ」

「うーん、あんまり納得できないけど、新藤くん顔がいいから、好きになっちゃう子も多くなるよね。うん、きちんと返すなら今回はそれでいいよ」

 ……「今回」は。なぜか体がぶるっとした。

 ホワイトデーの菓子の材料は揃えられた。あとは、米とかのなくなりそうなものを……。

 そうしてギルに再びカートを押してもらいながら米が売っているエリアに来た。いつもコシヒカリを買っている。今日もあった。

「米?」

 後ろから声がしたと思うと柊だ。総務もいる。

「まだいたのか」

「せっかくだから見ていこうかなって思って。邪魔だったかな」

「……邪魔ではないが」

「おつかいでも頼まれてんの」

 おつかい? ……そうか。一般的にはそう捉えるのが普通か。

「……そんなところだ」

 五キロの米を手に掛けて、覚悟を決める。

「ギル、きちんとカート押さえててくれ」

「うん」

 背を低くして、胴で支えるようにして持ち上げた。そして腕をプルプルさせながらカゴの中まで運ぶ。

「ふぅ……」

 ……やり遂げた。

 そんな様子を見ていた二人に、

「よく持てたねその腕で」

「折れないかちょっと心配しちゃった」

 悪かったな、細い腕で。

「あははは。だってれーくん。もっと太らないとみんな心配するんだよ」

「次米買うときあれば言って。帰り一緒に寄っていくから」

 そこまでしてもらう必要ないんだが。

 買うものを揃えたらレジで会計した。スーパーに寄るつもりはなかったからエコバッグを持ってきていなかった。透明な袋を片手に下げる。

「総務さんたちって駅までだよね? 途中まで一緒に帰ろ!」

 ギルの家までの間で駅は通らない。どこで別れるつもりなのか……。

 隣にギルを付けて、後ろに付いていった。

「ていうか! 総務さんたちもホワイトデーのお返し作るの!」

 突然ギルが声に出す。

「うん。僕は友だちと、家族にだけどね」

「実琴くんは?」

「…………」

「柊くんは好きな人にだよね」

「は、はぁ? ち、違うし……」

 そうなんだな。

「真也とかから貰ったから返すだけで、べつに好きな人には……あげないし」

「でもでも! 好きな人に渡すことを否定したってことは、好きな人いるんだよね! だれだれ!」

 柊は「あ……」と声を漏らして前を向いた。柊に好きな人間がいるだなんて、少し意外だ。いや、どこかで聞いていたか。

 それ以降、ギルがいくら問えども口を開かなくなった。その様子に総務は微笑んでいた。

 こういうとき、問い詰めそうな総務が問わないということは、総務は柊が好きな奴を知っているんだろうな。だからこんな余裕そうに微笑んでいる。

「そ、そんなこと言う英川は誰に返すの」

「俺? 俺はれーくんとか、総務さんと実琴くんにも返すよ?」

「ふーん。蓮くんは誰に返すの」

「さっきも言った。貰った相手に返す。ホワイトデーというのはそういうものなんだろ」

「……そ」

 返事が少し冷たかったように聞こえたが、なにか気を障るようなことを言ってしまっただろうか。

 結局総務たちを駅まで送って、

「ばいばーい!」

 引き返すことになる。

 ギルの家を通り過ぎる前に曲がっていたらよかったものの、そこへは曲がらず駅まで送った。

 なんで曲がらなかったのか聞けば、総務たちを駅まで送りたかったのもあるが、

「駅からだとれーくんの家のほうが近くなるんだもん。そうしたら、れーくんを家まで送れるでしょ? いつも送ってくれてるんだから、たまには送らせてよ!」

 と。

 狙いがあったのは気づかなかった。

 今日はギルに見送られて家に入った。いくら僕がギルを家まで送っていくと言っても聞かなかった。

 鍵を閉めたあと玄関の電気をつける。そして見える写真に顔を向けた。

「ただいま。……今日はギルに顔色が良くなってきてるって言われた。……僕にはわからない。母さんはどう、思う……? このあとはバレンタインのお返しを作る。母さんには作れないけど……見ててほしい」

 死者に声をかけるなんて馬鹿げてる。わかっりきってる。けど、少しくらい……こうさせてほしい。

 母さんにもあげたかった。

「…………」

 今のこんな気分でも、ギルは顔色が良くなってる、なんて言うのだろうか。

 けど、こんな気持ちのままで菓子を作ってもおいしくならない。あげるために作るんだ。気持ちを切り替えよう。

 手を洗ったあと、提げて帰った袋を持ってキッチンに立つ。一度道具と材料を並べよう。

 料理をする前にはこんなことしないが、今回は菓子だ。道具があるかの確認くらいはしたほうがいい。

 家にあると思って、スーパーで買ってきていなかったんだが、もしかしてふるい、なかったか? もしなければ買ってこなければならない。少し、いやとても面倒臭い。もう一度探そう。

 そうして探していたら見つかった。引き出しの奥にあった。無駄な外出をする必要がなくなってよかった。

 道具と材料を並べられた。早速バレンタインのお返し、マカロンを作ろう。


「……よし」

 混ぜ終れたか……。混ぜるのに少し時間がかかってしまった。リビングにある時計を見るが、作り始めたのがいつかわからないから、意味がなかった。感覚としてここまで三十分。

 あとはこの生地をクッキングシートの上に絞って焼く、か。手順が書いてあるスマホ画面を確認した。……画面に付いている粉が気になる……。

 絞り袋は買ってこなかった。けど、ポリ袋で代用できるはず。一枚取り出してなかに生地を入れ込んだ。口を結んで、袋の端を切る。ほらできた。

 これをクッキングシートの上に絞る。ここで注意なのは、これはマカロンの上と下の部分になるもの。だから奇数個にしてしまったらマカロンのなりそこないができてしまうということ。

 綺麗な丸になるように偶数個絞っていく。が、すぐにクッキングシートの右端まで埋まってしまった。袋にはまだ残っている。

 この生地二つで一つのマカロンができるとするなら、予定より少し多く出来上がってしまうみたいだ。

 渡す予定なのはギルとケイ、警部だけ……あとあのバレンタインのときに菓子を渡してきた女の分で四人分だったが、下条たちの分も作れそうだ。作るついでだ。

 あとはこの絞ったものをオーブンで焼く、と。温度と時間を設定してスタートボタンを押す。

 三分ほど。なにをするにしても短い時間。でも確か、これが焼き終わったあと、もう一度温度を下げて焼くはずだ。しかも今度は長い。次の作業をし始めよう。

 作るのはマカロンの中の部分。生クリームと溶かしたチョコを混ぜ合わせる、か。……面倒臭そう。

 心中でそう漏らすが、やるしか道はない。

「ふぅ……」

 ムラなく混ぜ合わせられてつい溜息を吐く。

 あとはこれを冷蔵庫で冷やす、か。一度休憩を挟めそうだ。

 夕食は、食べないといけない……か。でもマカロンを作って一食分を作ったと錯覚している。腹も空いていない。食べなくていいか。

 溜息を吐きながら食卓椅子に座り込んだ。混ぜる作業で腕が疲れた。料理をしていて生地を混ぜるなんてこと普段しないから余計に。

 冷蔵庫で冷やすのは一時間程度。勉強に手をつけるか、掃除でもするか、本を読むか。……悩ましい。

 吟味していたら食卓テーブルに置いていたスマホが振動音を出す。見ると電話、ケイからだ。今日体調が優れないからと学校には来ていなかった。

 応答ボタンを押してスピーカーを押す。

「もしもし。体調は大丈夫なのか」

『ん、あぁ。もうだいぶ良くなってる。ありがとな。それより明日は学校行こうと思ってるんだけどさ……その、お返しって、あったりする?』

 ケイでもそういうの気になるんだな。

「今用意している」

『そっか。楽しみにしてる。それと……手紙って読んだ?』

 手紙? ケイからそんなもの……。あぁ……あの日、か。あの日に貰った手紙。

 世間では大切な日とされている「誕生日」なんて言葉、まだ喉が詰まる。どうしても、そんな綺麗な言葉を使いたくない。

「読んだ。思い出を語られていた」

『べ、べつに内容言わなくていいだろ。慣れないことして恥ずかしいんだから』

 声色からスマホの奥で頬を赤くしているケイが浮かんだ。

 読んでいて、嫌な記憶を思いだすのがほとんどだった。けど、忘れてばかりじゃいけない記憶を思いだせた。

『……嫌なの思いだすかもだけど、俺さ、蓮が連絡くれなくなって、ほんとに心配してたんだ。ドアガードまでかけるから、ほんとに……心配で。

 もちろん、そういう感情の波とかがあるのは俺も知ってるから、無理にとは言わないけど、もしまたあんなことしそうになったらさ、俺に話して。なんでも聞くから。直接でも文でも。お願いだから独りで……生きようとしないで。……俺、蓮がいなくなったら、死んでもいいって思ってるから』

「…………」

 僕がいなかったら……。

 引きこもっていたとき、そんなことを脳裏で何度も企てていたこと、ケイにはバレるか。

「勝手に死なれても困る」

『こっちのセリフな?』

 今は昔ほど不安定ではない。でも、だからこそ一度に大きく不安定になることもある。

 僕にだって、誰にだって、人と会いたくなくなる日がある。

 ある程度の人はそれの対処の仕方がわかるんだろう。でも僕は、知らない。

「……極力しないようにはする。声も……かけられそうならかける……と思う」

『うん。言い切らなくていいから、それだけ忘れないで』

 言い切らなくていい……。その言葉に胸が温かくなった。

「電話を寄こした理由はこれだけか」

『まあ。ほんとはお返しあるかだけ聞こうと思ってたけど、電話とかあんまりしないからヘンに話題作ってたかも』

 ケイらしくない。

「明日学校に来れるなら直接渡すが、行けなさそうなら無理してまで来るな。後日回復してからか、ケイの家まで行く」

『俺の家どこにあるのか知ってないだろ? それに、そこまでされると申し訳なさすぎるから逆に来ないで』

 転校当日、無理して行った結果倒れたのに、どの口が言ってるのだか。

『てか、明日には行けるって。さっきも言ったけど』

「……体調を崩したというのは、睡眠の類か」

『え? んー、まあちょっと』

 ケイが休むことは最近だと珍しくなってきていた。睡眠不足で、ということなら授業中構わずに寝るケイだ。そのケイが休むとならば、体のどこかが悪いから休んだ、と考えられる。

『考え事してたらちょっとだけ……気持ち悪くなって、さ』

「…………」

 ケイもそういうところがあるのに、僕の心配ばかりする。

 考え事で体調を崩したのであれば、相当な考え事をしていたんだろうな。それに「ちょっと」と言っていたが、結果的に休んでいる。言葉でごまかせることではない。

 そういうのは経験したことがないからわからない。僕が体調を崩すときは病か、栄養不足か、そんなところだった。

「ケイも少しは自分の体を優先しろ」

『その口が言う?』

「言う」

『……蓮が自分のこと優先してるところなんか見たことないんだけど?』

「……記憶力が落ちたんじゃないか」

 スマホの奥で『そんなことないと思うけどなぁ』と笑う声が聞こえた。

 僕を優先……。する意味がわからない。けど、それでケイたちをまた傷つけたり、心配させるなら……少しくらい目を向けるべきことなのかもしれない。

『そろそろ切るわ。ごめんな、長く話して』

「構わない。明日は無理せずに来い」

『そのつもり。じゃあまた明日。おやすみ』

「…………おやすみ」

 電話越しの夜の挨拶なんてしたことなかったから、少しだけ戸惑った。

 電話が切れたスマホは、操作しなくて勝手に消える。

 ――考え事してたらちょっとだけ……気持ち悪くなって、さ――

 どんな考え事をしていたんだろうな。僕にはわかり得ないこと。僕がわかること。学校のこと。家のこと。人間関係のこと。

 ケイはまたあんな日が来たら話せと言っていた。そのくせに本人はしなかった。少し勝手が過ぎると思うんだ。

 マカロンの中に挟むクリームは一時間ほど寝かさないといけないが、あれから十分と経っていない。

 ケイと話をしてから、胸のあたりにモヤッとするものができた。こんな状態で勉強には手を付けられない。……本を読もう。読んで、気を紛らわせよう。

 食卓椅子に置いていた学校の鞄を持って部屋に上がった。鞄の中から小説を取り出して、手に持ったままベッドに体を落とした。

 うまく枕に乗らなかった頭を、ベッドにこすって部屋を見る。

 うまく息をする方法を探さないといけない。

「…………」

 これ以上頭を動かしたらきっと駄目だ。僕も体調を崩してしまうかもしれない。

 きちんと枕に頭を預けて横向きになる。しおりが挟まってるページを見つけて開く。新しい章からだ。少しだけ気分も上がる。

「ん……」

 ふと目を開けた。さっきまで小説を読んでいた……はず。でもさっきまでの記憶が綺麗に抜けている。

 部屋の掛け時計を見ると、はや一時間と時間が過ぎていた。寝ていたらしい。

 この時間に昼寝とは……いや、昼ではないか。今は夜。ならば夜寝……?

 聞いたことない単語を頭に浮かべて体を起こす。

 こんな時間に寝て起きて、夜きちんと寝れるだろうか。

 小説を読んでいたのは、マカロンを冷蔵庫で冷やしていたからだ。それももう一時間経っている。マカロン作りを再開しよう。

 オーブンに入れっぱなしだったマカロンの上下。取り出して数を見る。きちんと偶数個になっていて、合計で二十七個作れる。

 けど、ギルとケイ、下条、総務、柊、……それとあの女、それと警部と先輩にも渡したい。その八人に均等に分けるとするなら三つ余る。

 ……バレンタインのときに手作りで貰ったのはギルとケイだった。少しサービスをしてもいいだろうか。本当は警部にたくさん上げたいが、そもそも渡せるかもわからない。

 残りの一つは僕が毒見として食べる。そうしよう。

 マカロンの下の部分に、冷蔵庫で冷やしていたクリームを載せて挟む。挟んだら、あとは冷蔵庫で冷やす、と。朝起きたら忘れずに持っていかないとだ。

 使った道具を洗い終わったあと、風呂に入った。そして出たあと気づく。少し腹が空いた。

 けどもう食器も洗ってしまった。今から作るのも面倒臭い。こういうときなにかつまめるものがあればと思うが、あいにくこの家にそんなものはない。

 腹の空腹感を無理やり無視して部屋に上がる。

 さっきまで寝ていたから眠気はあまりない。かと言って今寝転んで読書をしたならば、勉強が疎かになって、未来の僕が苦しむ。

 あの時は勉強や読書をする余裕もなくてずっとサボっていた。けど今となってはサボろうとしたら思いだすようになった。それが少しだけ胸にくる。

 掛け時計で時間を確認する。今から三時間。遅くても二時には寝る。

 始めよう。


 家に帰りたくなかった。

 学校にもいたくなかった。

 家に帰るのが怖い。学校に居続けてもいい思いをしない。

 だから、公園で暇を潰して少しずつ帰る時間を遅くしていた。

 けどあるとき警察に見つかって保護された。それを知った父親が見たこともない笑顔を張り付いて迎えに来たことがあった。

「息子がたいへんご迷惑をかけたようで……。すみませんね」

「いえ。少し元気がないように見えますので、お話があるかもしれません。聞いてあげてくださいね」

「もちろんですよ。ではありがとうございました。帰るよ」

「…………」

 背負っていたランドセルを後ろから押されて、交番を出る。そのまま静かに夜道を歩いていた。

 怒られない……。怒られると思っていたから身構えていた。でもそんなことなく、ただ静かに歩いていた。

 チラと父親の顔を見ようと顔を上げたとき、街頭に照らされた父親の顔は、酷く腹を痛ませた。不敵な笑みを浮かべて、目は誰かを殺しそうな目をしていた。

 家の前に着くと、父親の口から「チッ」と音を鳴らして扉を開けた。けど当然、僕を扉の中に入れようとはしてくれなかった。

 バンッと強く扉を閉めて鍵のかかる音が鳴る。

「…………」

 さほど驚きもしなかった。ほんの少しの間、息の仕方を忘れたくらいで。

 いつものように家の敷地の隅に移動する。誰かに見られたらまたなにか言われる。言われて迷惑をかけたらまた父親に殴られる。

 だからバレないように、ただ時間を過ごすしかなかった。


 ランドセルを隣に置いて、脚を三角にして顔を埋める。まだ外が暖かくてよかった。

 九月にもなれば暑さは抑えられて秋らしくなる。夏の暑さを長袖で耐えなくて済むようになるのは、十分すぎるくらいありがたいことだった。

 脚に顔を埋めていると、どこかから猫の鳴き声が聞こえた。思わず顔を上げる。

「…………」

 目の前に座り込んでいた。僕と目が合ったらまた鳴く。

 真っ黒な猫。

 僕が初めて締め出されたときに会った猫と同じ。

 初めこそその自由さに羨んでいた。けど今は、少しだけ温かくなる。僕に触れてくれるから。

 僕の脚に頭を擦りつけた猫は、手を理解しているように僕の手の中に体をこする。それに応えて僕も撫でた。

 僕に寄り添ってくれるのは、この猫だけ。

 撫でて温かさを感じてたら鼻がムズムズしだす。そしてくしゃみをしたら少し距離を取られた。

「……ごめん」

 まだ触れていたくて手を伸ばしたら戻ってきてくれた。

 猫が離れるまで撫でていたら、風が吹いてきた。寒くてぶるっとする。冬が近づいてきてる風は冷たく僕を撫でる。

 この猫が寒い思いしてないかなと思って、脚を伸ばして腕の中に入れた。これで少しは寒くならない。

 もう、締め出されなければいいのに。

 でも締め出されなくなったら、この猫は……。

「…………」

 死なないでほしい。

 すごく暑い日とか、すごく寒い日、そんなの問わずに締め出されるときは締め出される。

 そんななかで一度だけ、寒い日に倒れたことがあった。こうして外に締め出されたときにはいつも思いだす。

 あの日は、気づいたら病院にいた。


 慣れない消毒液のニオイがする。

 ここが本当に病院なら、帰ったあと殴られる。バレるところだったって、また……。

 来たくなかったのに。

 付き添いでいたのは……いや誰もいなかった。目を覚ましてしばらくしてから、父親と母親が迎えに来た。

「家の前で倒れてたと聞いたんですけど、どうされたのですか?」

 迎えに来たとき看護師がそう聞いていた。

「さあ。いつも部屋に籠るのでてっきり部屋にいると思ってたんですけど、外にいたとは思いませんでした」

「……それと、体の数カ所に打撲痕があったのですが……」

「打撲痕? ……あぁ、学校の階段で滑って転げ落ちたって言ってましたからそれだと思います。すみませんね、ご迷惑をおかけして」

 部屋に籠るというよりは、閉じ込められる。

 階段で転げ落ちて作ったというよりは、その大きな手で作ったもの。

「それならよかったです。もしかして虐待でもされてるのかと思って」

 なんとなく息が詰まる。

 ギャクタイ……。聞いたことない言葉。この痛い思いをするのをギャクタイって……言う?

 今……この人に助けてって言ったら痛い思いをしなくて済むようになる?

「虐待? そんなまさか。自分の子供に手を出すなんて、そんなことするはずがな」

「僕……そのギャクタイ……」

 締まりきっていた喉に力を入れて声を出した。けど、声が震えて続きの言葉が出なかった。

 助けを求めたら殴られる。

「優希、虐待がどうした?」

 声をかけられて思わず父親を見る。口は笑ってる。けど、その目は……笑うことと相当離れていた。

「い、犬がされてるの……見た」

「犬? 飼われてるんですか?」

「いえ? 外かどこかで見たんじゃないですかね? そんなものどこで見た?」

「……動画」

 思ってたことと違う言葉しか出てこない。助けてって、殴られてるって、言えない。

 助けを求めたら殴られる。

 結局言いたいことをなにも言えないまま、車に乗って帰ることになった。

 でも車に乗ると、なんだか気持ち悪くなるから、それを耐えるので必死だった。

「……うっ」

 口を手で抑える。出そう……。

「優希……だいじょ」

「美幸? 後ろなんか向いて、どうかした?」

 当たり前のように母親にそう言って、後ろめたそうに前を向いてしまう。

「……で……そ」

 怖かった。でも、言わないで出したらもっと怒鳴られる。そう思って、振り絞って言った。

「車汚したら、どうなるか、わかるよな」

 母親に向けたときとは違う、どすの利いた声でそう言った。

 そんなこと言われても、この気持ち悪さはなにもしなくても出てくる。でも汚したら……今度こそ殺される。なんとなくわかる。

 汚さないように……どこか、受けるところ……。

 周りを見て出せそうなものを探した。そして見つける。……ランドセル。

 気持ち悪さでうまく動かない体を無理やり動かして、中身を抜いた。そして中身を抜けた達成感で気が緩んでドバッと出た。

「は……は……」

 ギリギリ間に合った……。でもまだ気持ち悪さがある。思わず横になってうずくまる。

 家に着くまで、ここに出そう。

 けど、

「車汚すなっつっただろ!」

 汚れの浮く、冷たくなった浴槽の水に顔を押しつけられて、息ができない。

 汚してないはず。でも父親は怒鳴ってきた。

「よご……て、ない」

 口に水が入りながらも、そう言った。

「あぁ? ニオイがついただろ! 汚したのと一緒なんだよ!」

 ぐいっと、頭をさらに押しつけられて、耳のあたりまで水の冷たさを感じる。息ができない……。

「あ、あなたもう、やめて……死んじゃう……よ」

 籠った声が聞こえる。母親の声。

「チッ」

 体を持ち上げられて浴槽に放られた。呼吸を吸おうと、顔を上げようとした矢先、浴槽の蓋が頭上に飛んできて頭を打つ。

 暗い……怖い……息ができない。

 頭が真っ白になって、もがいていたら、頭で押した蓋が浮いて呼吸できるようになる。頭に載るのがなにかわかるようになれば、冷静になってそれをどけた。

「…………」

 怖い……。目が熱くなってきて、頬に垂れる。

 浴室に電気なんてついてなくて真っ暗。

 窓の外から聞こえる風の音が、人の声に聞こえて、体にまとう冷たさが僕の呼吸までも冷たくさせて、息を震えさせる。

 出ないと……。

 少しだけ目が慣れて周りが見えるようになった。暗い部屋のなかで水の音を鳴らして扉を開けようとした。

「…………」

 けどそう簡単に開くはずもなかった。

 バンッと扉を叩くも、誰かが来ることもない。

 でももうこのままでも、いっか。うるさいと怒鳴られずに泣ける。

 無気力に浴室の床に尻を付けてうずくまった。そして目が熱くなったまま、垂れだす涙に、身を任せた。

 任せた。なのに、声は出なかった。

 気づいたら眠っていた。それに気づいたのは、母親がバスタオルで僕の体を拭いていたから。

 目を開けると洗面所の隅に座らされて、手足の水を拭いてくれてた。服も全部脱がされてる。

 起きたことに気づいてない母親は懸命に僕の体を拭いてくれてた。

 でも、

「……やめ、て」

 重い瞼のまま、バスタオルで身を包んで洗面所から出た。

「あ……優希」

 追いかけて来た母親に足を止められて腕を回される。いつも、泣きながら。

「ごめんね……止められなくてごめんね……」

「…………」

 その言動を無下にして、僕は腕を振り解く。

 いまさら……助けの手なんて差し伸ばされたくない。

 ふらふらと冷え切ってるはずなのに熱い体で階段を上って部屋に入る。扉を閉めて、バスタオルを床に落として、服を着る。

 うまく手が動かない。

 ズボンをはいたとき、扉がコンコンと鳴った。返事をしなくても開けられる。

「優希……」

「……あいつは」

「夜勤でいないよ」

 夜勤……。

「……そ」

 バスタオルを母親に押しつけて無理やり扉を閉めた。

「あっ、優希……。ごはん食べない……? さっき食べたんだけど、優希の分もあるから」

 扉越しに聞こえる籠った声。

 ごはん……。部屋の中の掛け時計に目を移すと九時だった。

 腹なんて空いてない。いや本当は空いてる。今日給食食べれなかったから。……でも食べるのが面倒臭い。

 答えられないでいると、扉が開いた。母親が顔を覗かせてる。

「……余ったら」

「余ったら明日の朝ごはんに……出そうかなって思ってるよ」

 朝に……。でも朝にごはんを食べるのは母親と父親だけ。僕の分は用意されない。父親が用意するなと母親に言って、それでも言うことを聞かなければ母親にまで手を出すから、僕が用意しなくていいって言った。

「……ずっとまともにごはん食べれてないでしょ……? 倒れそうで心配なの。少しだけでいいから食べない……?」

 椅子に掛かってたブランケットを肩に掛けて、もう一度確認する。

「……ほんとにあいつ、いない」

「うん。夜勤だって言ってたから」

「…………」

 ブランケットを強く握って扉に向けて歩いた。

 食卓椅子に座ってぼーっと待ってた。食欲なんてない。でも、昼も食べてないから腹がぐるぐるしてて気持ち悪い。食べないとまた吐く。

 出されたのは、

「……なんで粥」

「……ごめんね、ほんとは一緒のごはん出そうと思ってたんだけど、ずっとごはん食べてないのに急に食べたらお腹痛くなるかなって思って。それに、優希少しだけ体調悪そうだったから」

 体調が悪い……。どうせそう見えるだけ。

 渡されたスプーンを持ったら、母親は向かいの椅子に座る。

「無理に全部食べなくていいから、食べれる分だけ食べてね」

「…………」

 今どれだけお腹が空いてるのかなんて、わからない。喉がなにかを通ろうとしてくれない。

 それでも腹が満足するまで口に入れた。

 腹がいっぱいになった感覚を覚えて、スプーンが止まってたら母親が口を開ける。

「もういらない? いらなかったら無理に食べなくていいんだよ」

「……食べなかったら」

「お母さんがこのあと食べようかなって思ってるよ」

 でもさっき母親は食べたって言ってた。今渡したらきっと無理して食べる……。

 器に入ってる粥は三分の一くらい。無理して吐いてほしくない。

 なにも考えず口に詰める。

「無理して食べなくていいんだよ……?」

「…………」

 吐いたら喉が痛くなる。痛い思いは、してほしくない。

 口に詰め終わったら、立ち上がった。

「……ごちそう……さま」

 ……で、合ってたっけ。

 食器をシンクに置いた。この容器、木製だから割れない。

「ありがとう。このあとはもう寝る?」

「……宿題ある」

「そっか」

 そう言ったら背を低くさせて背中に腕が回る。その優しい温度に少しだけ胸が温かくなった。

「……わからないところあったら教えてね。お母さんは優希のこと大好きだから」

「…………」

 嘘……だったらこんなことしない、か。

 母親の気が済んだら離れた。

「寝る前にはきちんとお水と、歯磨き、忘れないようにね」

「……ん」

「おやすみ」

 また抱かれた。

「…………ん」

 けど今度は短かった。

 宿題が終わったらベッドで寝た。昨日は眠れなかったから、今日はきちんと寝れたらいい。

 そう思って眠ったら、

「ケホッ……」

 この感じ、風邪。朝、体を起こして熱い体を実感する。

 学校……行かないと。

「起きろ」

 扉をバンッと開けられて父親に言われる。その音に体がビクッと跳ね上がった。

「ケホッ……ケホッ」

 頭、痛い。

 重い体で立ち上がって制服に着替える。ボタンがうまく閉まらない……。

 少しニオイのするランドセルに教科書を入れて時間まで部屋で待ってた。

 鼻水が垂れてきてティッシュ箱に手を伸ばす。けど、空だった。

 ズズッと空い続けても頭が痛くなるだけで、いつまでも垂れてくる。

 少しだけ……。

 一階に下りる怖さと、体の重さでぼーっとしながら階段を下りた。……父親はトイレ、か。

 母親がまだ食器を洗ってる。けど僕に気づいて手を止めた。

「……おはよう。お腹……空いてるよね。スープくらいならすぐに」

「いらない」

 カウンターの隅にあるティッシュ箱から一枚取り出して鼻をかむ。頭……痛い。

「鼻水? 寒い?」

 手を拭いて母親が近づいてきた。

「顔赤い……風邪……?」

 おでこに手を当ててきた。ひんやりしてて、少し気持ちいい。

「熱測るね。待ってて」

 そう言われてもティッシュをゴミ箱に捨てて階段を上がった。熱があったところで……。

 部屋に入ってベッドに座ってたら扉が開いた。

「……熱測ろ」

 近づいた母親が服の下に手を入れてきた。でも体が重くて抵抗はしなかった。

 なにより……少しだけ、嬉しかった。

 ピピピと近くで鳴ったら体温計が抜かれる。

「八度もある……。今日は学校お休みかな」

「……行く」

 行かないといけないから。

「でも風邪ひいたまま学校に行ったらみんなに風邪移しちゃうよ。それに学校も三十七・五度以上あったら来ないでって言われてるから」

「…………」

 いつもは母親に気づかれずに学校に無理やり行って、でもやっぱり授業中にぐったりしちゃうから早退をしてた。

「行かなくていい……」

「うん、いいよ。今日はゆっくり休も。学校にも連絡しておくから。お父さんは……いるかもしれないけど、耐えられないくらいだったら遠慮なく救急車に電話してね。この前やり方教えたの、覚えてる?」

 確か一一九って、電話する。小さく頷いた。

「お父さんに怒られるかもしれないけど、しんどくならないほうが優先だから。しんどいまま我慢してたら……死んじゃうかもしれないからお願い、きちんと電話してね」

「…………」

 母親は不安そうな顔を作ったまま立ち上がる。

「氷枕と冷たいタオル持ってくるね。パジャマに着替えられる?」

「……ん」

 ほんとに学校休んでいい……のかな。

 着替えたらベッドに座ったままでいた。……母親が遅い。

 少しだけ見に行こう。

 ゆっくりと階段を下りてリビングに顔を出した。母親と父親の声がする。

「その、優希が風邪ひいちゃったみたいだか」

「だからってそんなものいらないだろ? なんでいると思った? まさかもう学校に連絡なんてしてないよな? あんなの、勝手に野垂れ死なせとけばいいのに」

 母親が持ってたものを奪い取って机に置いた。そして母親を抱きしめる。

「これ以上あいつに目向けるなら、おれ我慢できなくなるよ? いいの? 美幸には傷つけたくないんだから、きちんとおれの言うこと、聞ける?」

「……うん。聞くよ……」

 母親は少しだけ嫌そうな顔のまま、父親の唇と重ねる。

「…………」

 体が重たくて、頭が痛くて、しんどい。

 ゆっくりと階段を上がった。

 やっぱり、学校行かないと。

 服のボタンを外し始める。けど途中、扉が開いた。

「優希」

 ひっそりとした声で母親が僕を呼ぶ。

「……今日は学校お休みね。これ枕の上に敷いて、タオルもおでこに置いて寝ておいてね。さっきも言ったけど耐えられないくらいしんどかったら電話してね」

「みゆきー」

 廊下の奥から聞こえてくる父親の声。

「……お仕事行ってくるね。……ごめんね、看病できなくて。いってきます」

 僕の頭を撫でて、部屋を出ていってしまった。

 看病……。温かい言葉。でも、温かいから、胸が痛くなる。

 途中まで開けたボタンを閉めて、言われた通りに氷枕を枕の上に敷いて、寝転んでおでこにタオルを置いた。

 本当に学校を休んでいいのかわからなくてソワソワする。でも、今の体の重さでそれを消してくれた。

 風邪とかにかかったときは「薬」っていうの飲むらしい。でも僕は飲めない。飲んだら殴られる。

 今日は父親が家にいるから飲めない。どれを飲んでいいのかもわからない。

 布団を胸に寄せて、中で丸くなる。

 そして咳を部屋に響かせた。

 数日後。

 風邪が治ったらもちろん学校に行く。

 久しぶりに行っても様子は変わらない。変わったところがあるとしたら、ギルの元気が少しなくなっていた。

 いつもは席に着いたら少し嬉しそうにして傍に来る。でも今日は口角を下げて僕の傍に来た。

「……ゆーくんおはよ」

 左手首には包帯が巻かれてる。

「左手」

 言えば思いだしたように隠した。

「……体育でひねっちゃった」

 嘘なことくらいわかる。今でもどこかからクスクスと笑う声が聞こえる。

 ギルは周りと容姿が違うからいじめられてる。僕が傍にいたら僕が止めてるけど、ここ数日は風邪で休んでたから、たぶん酷いことされてた。

「誰」

「……ううん。ほんとだよ。……俺が自分で……」

 本当なら「誰ってなにが?」って聞くはず。なのに聞かない。

 教室を見渡して僕らを見てる奴を探す。けどそこら中にいて、溜息をつく。

「……それよりごめんね。全部消えなかった」

 指差すのは机の隅に書かれてる、消えかかった文字。

『きえ』

『ね』

『うさい』

『ばー』

 増えてることくらいわかってた。でもそんなのどうでもいい。今はギルが新しい傷を作ったほうが嫌だった。

 そんないじめも、中学に上がったら自然となくなった。僕の嫌がらせは続いたけど。ギルが痛い思いしなくなってホッとしていた。

 残り続ける嫌がらせは小学校のときよりも痛かった。回りくどいやり方じゃなくて、直接。

 その直接される嫌がらせの中で、特に憶えているのがある。

 ギルに手を上げそうになった。

 家に帰りたくはないから、放課後教室に残って本を読んでた。

 本を読むことだけが今の至福の時間だった。けどそんなときも嫌がらせはされる。

 突然頭が冷たくなった。同時に読んでたページがなにかの液で染み込む。周りで笑う声が聞こえたとき、それが嫌がらせで水を掛けられたって言うことがわかった。

 頭が冷たくなる、服が濡れる、そんなことどうでもよかった。

 本を汚された。

 その事実が今までの我慢を解放したように、ばっと後ろにいた奴の胸元を掴んだ。

 そして怒りに任せて拳をほうった。

 一度殴っただけで相手は叫んで床に尻を付ける。室内にいた奴も騒ぎだす。

 まだ気分は晴れない。

 もう一回。

 今度はさっきよりも手に力を入れて拳を振り上げた。

「…………」

 醜い怯えた顔。それを潰すように拳を振り下ろす。

 そのとき、

「ゆーくん駄目!」

 その声でピタリと手が止まった。もう少しで潰せそうだったのに。

 声はギルのもの。そんなのわかってたから顔を向けることはしなかった。

 顔を潰す直前で止まった拳を包んで、腕を掴む。

「駄目だよ……やり返したらこの人たちと同じだよ……」

「…………」

 顔を上げてギルを見ると、泣きそうな目をしていた。

 ギル以外にも目を移すと円で僕らを囲って、遠くから眺めていた。

 まだ掴んでる胸元。その服を着る奴の顔は今でも憶えてる。期待をするような目。緩めた口元。

 やり返したら……同じ……。

 潰したかった。その顔を。

 だから――

「誰か先生呼んできて!」

 ふと聞こえる声。それを合図に拳を腹に食い込ませた。僕が何度も受けたその場所を。

 腹の中がぐちゃぐちゃになるまで、何度も、何度も、何度も。気が済むまで、何度だって。

 いずれ誰かが呼んだ大人によって止められる。

 止められてから見た胸元を掴んでいた奴は顔を汚して、いまだ横たわってた。そいつが着る白い服は、赤色に変わってた。

 ふと右手を見ると赤くなっていた。手の甲に付いているのはきっと相手の血。なのに右手が熱くて痛い。

 そのあとのことはあんまり憶えていない。どこかに連れられて、「反省文」って書かれた紙が渡されて、泣いてるギルを見て、親が来て、家のニオイがして、殴られて、殴られて、殴られて、吐いて、血を出して、殴られて――

 ただ痛む体だけが残った。

 あの日の記憶が曖昧なまま、次の日の学校に行く。

 体のどこにも痛みが走って、うまく歩けない。半ば足を引きずるように歩く。

 学校で作った傷も一緒に隠したシップ。意味のないニオイに嫌気が差す。

 いつもと変わらないように行った教室。

 入ったら僕を見てコソコソと口を開きだす。

 鞄を置いて中身を机の中に移した。移して空に鳴ったはずの鞄からカサッと音が鳴る。見たらぐしゃっと鳴った紙があった。

『反省文』

 昨日のうちに書けるはずもなくてなにも書いてない。

 出したけど鞄の底に入れて席に座った。

 耳障りのする教室で時間が経つのを待ってたら、今日は一緒に登校しなかったギルが教室に入ってきた。

 僕と目が合うとパッと逸らす。けど懲りずに目を合わせようとする。

 ギルは鞄を置いて傍に来た。どこかぎこちない足取りで隣に立つ。いつもの元気さはなく、どこか後ろめたそうにしている。

「……お、おはよ」

「…………」

「今日出るの遅れちゃって……あはは……」

「…………」

「……っと……昨日、大丈夫だった……?」

 全部もう、うるさい。

 ガッと椅子を引いて立ち上がった。それにギルはビクッとする。

 いまだヒソヒソ声が聞こえる教室から出た。

 それにギルは追いかけて声を出す。

「待ってよ……昨日はごめんね」

「……なんで」

「俺が止めれなくて……ゆーくん、反省文書いてって」

「…………」

 無視して歩き出したら懲りずに声をかけてくる。

「あの時俺が」

「来るな」

「トイレ行ってなかったら」

「どっか行け」

「あんなことなら」

「失せろって言ってるだろ……!」

 出した言葉に驚いて声も止まる。

 でも数秒もすれば、目に水を溜めて、声を震わせながら言った。

「なんで……?」

 なんでかなんて、わからない。

「……ひとりになりたい」

「どうして……? また殴っちゃいそう……?」

「…………」

「それなら、いいよ」

「…………」

「俺になら、殴ってもいいよ。一生の友だちだから」

 そんな言葉信用してない。してないのに、ばっと勝手に体が動いてギルの胸元を掴んだ。いつかと同じように振り上げて――

「…………」

 肩を震わせて、目を瞑る顔が見える。

 その目が、止まったままの腕の行方を確認するように、そっと開いた。変わらず綺麗な瞳が見える。

「ゆ……くん……?」

「……一生の友だちを、そんなのに使うな」

 低い声が出たあと、尻を付かせるほど強くギルを押して歩き出した。

 ここがどこの教室なのかわからない。見たことない場所。椅子も机もなくて、雑多な場所。そこは静かで、暗い。

 なにも考えないでい続けるには十分だった。壁に体を預けて座れば、ぱっと体が重たくなった。

 特に重たい右手を上げて見る。赤黒いそれは、まだ手の甲を伝って広がり続ける。

 ボトッと右手を床に落として天を見上げる。電気がついてないのに、カーテンの隙間から漏れる光だけで、そこにある白色を証明してくる。

 独り、床の硬さに尻を痛くさせていた。

 一つ、呼吸音がそこで響いていた。

 何度目かのチャイム音のあと、

『今日の献立は』

 小さく聞こえる放送を聞いて、腹がぐーっと唸った。思えば昨日給食を食べて以来なにも食べてない。

 唸る腹を抱えるようにしてうずくまる。

 静かな部屋で、いつもより大きな音。心臓の音。

 それがうるさい。

「……止めたい」

 この(鼓動)を。

 顔を上げて道具がないか見る。

 カーテンから漏れる光を頼りに教室を見た。どこかの準備室みたいな部屋。

 止めるものがないかと見てたら簡単に見つかった。いつもなら触りたくないもの。でも今日は体が勝手に動くくらい触れたい。

 見つけた縄跳びに結び目を作って、乗り上げた椅子の上からカーテンレールに引っかける。

「これで……」

 うるさくなくなる。

 その輪に首を――


「――ッ!」

 喉が詰まるような感覚になって咳をしながら飛び起きた。はっはっと音を漏らして肩から息をする。

 心臓が痛むくらいに音を鳴らしてこめかみに汗筋を作る。

 背中にひんやりとした感覚があって、パタパタと服を揺らした。

 今の……夢……?

 体を冷やして、汗を拭って、手が動くことを確認する。

「…………」

 部屋が明るくなっていて、夢から覚めたと教えてくる。

 時刻は五時。

 嫌な夢を見た。いや……記憶を、か。

 落ち着いても鳴り続ける鼓動。静まるようにと願って服を握る。

 でも、やっぱり止まってはくれない。

 顔を上げて、起きたばかりの体の重さを実感する。そのとき目に映ったカーテンレール。

 嘲笑せずにはいられない。


 いつもより早く起きてしまった。けどマカロンを詰めるのにちょうどいい。

 身支度を済ませたあと、それぞれ詰めていった。誰に渡すのかわかるように名前も書いた。

 あの女の名前だけわからないから「女」と書こうと思ったが、それを本人が見たらきっと傷つく。名前は書かなかった。

 ギルとケイ以外、中身は同じなんだが。名前があったほうが愛情がこもっている、と思うんだ。

 警部のは家に置いていく。だからあとは先輩の分。包み紙に「一樹先輩」と書いて思う。

 今日は来てくれるだろうか。

 余った残りの一つを毒見として僕の口の中に入れた。まずければこの包み紙に入ったものは渡せなくなるが……。

「ん」

 おいしい。味としては当たり障りのないものだが、バレンタインのお返しとしたら十分か。

 包み紙に入れたものを丁寧に鞄の中に入れた。が、持っていくうちに潰れてしまったら怖い。紙袋を用意してその中に入れた。

 登校中、手に持つ紙袋をギルがチラチラと、あわよくば中身を見ようとしてきた。ギルがいる反対の手に移せばやめてくれる。

「ねえ、なんのお菓子作ってくれたの?」

「学校に着いたら渡す」

「んー、今俺いるんだから渡してくれてもいいじゃーん」

「……一斉に渡したい」

「ふーん?」

 休憩時間になって三年のいる階に行った。一つの包み紙を持って。

 この階もチョコのニオイが染みついている。

「見てあの人。超イケメンじゃない?」

「でも二年だって。こんなところにどうしたんだろ」

「なんか持ってるしお返しとか?」

「うわー誰なんだろ。現場見たー」

 リボンやネクタイの色で学年がわかるようになっているから、少し目立つ。目立ってもろくなことにならない。早く渡したい。

 けど肝心の先輩のクラスがどこなのかわからない……。誰かに聞くしかない、か。

 身近にいた男子生徒に声をかけた。

「すいません」

「は、はい……」

 眼鏡をかけて暗い印象を持つ男子生徒はぎこちなく返事をしてくれる。小さく「うわ……」と聞こえもした。

「一樹先輩ってわかりますか」

「……知りません」

「ありがとうございます」

 べつの人に聞こうと、離れ際「イケメン死ね」と聞こえた気がした。気分の悪い。好きでこんな顔してない。

 少し気分が悪くなりながら、話しかけやすそうな男子生徒に聞いた。さっきの人よりも明るそう。

「一樹先輩って知ってますか」

「イツキ? 何人かいるからな、同じ名前の。上の名前は?」

 上の名前……なんて言ったか……。

「すいませんわからないです。容姿の特徴は……」

 いや、先輩を容姿で説明するのは少し、申し訳ないか……?

「特徴は?」

 でも苗字も思いだせないなか、来てるかもわからない相手を探し続けるのは無理だ。先輩すいません。

「男の人で背が低くて、声があなたよりも高くて……髪の短い人です」

「なに、そこらへんにいる男説明されてる?」

 確かに、これだといくらでも当てはまる人なんている。先輩にしかないもの……。

「えっと、確か太ももにほくろがあります」

「…………」

「……あっ」

 太ももなんて場所、普通見ない……。ぶわっとあの日のことを思いだして体が熱くなる。

「す、すいません忘れてください。えっと、たぶん……五月あたりは学校に行ってないと思います。九月頃には学校に行ってたと思います」

「五月に休んでて、九月には来てる……それで背低くて声が高い……イツキって名前……」

 男子生徒は廊下をぐるっと見渡す。

「あ、もしかして森泉?」

 森泉……なのか?

「あれだろ、初めはスカートはいてたのに、ズボンはきだした奴。スカートはきながら『俺』とか男っぽい言動するからちょっと関わりづらかったんだよなー」

 胸が少しチクリとして服を握る。先輩はずっと、変な目で見られて、ずっと孤独だった……のか。関わりづらいと思うのが大半……。

「で、その森泉がどうした?」

「今日、来られてますか」

「あぁ来てる来てる。もしかしてそれ、バレンタインのお返しだろ。友チョコいいよなー。絆が深まるって感じがして。本命チョコを貰うか渡すかできたらなおよし」

 頷きながら言われた。その感覚はよくわからないが。

 付いてきてと、言われて後ろを付いていく。今日来てた……よかった。

 案内されたのは、三年A組。男子生徒がドアから覗き込んだ。

 けど、

「あれ、いないな。今日は来てたと思うんだけど。んー、なあ――」

 教室の中にいた一人の女子生徒を呼んだ。友だち……だろうか。僕と目が合ったらさっと逸らして顔を赤くする。

 二人して話したら男子生徒が僕に向いた。

「来てるけど、さっきどっか行ったって。次の休憩時間……っていうか放課後、待つように言ってもらうか?」

「……そうですね、ご迷惑をおかけしますが、一樹先輩に次の休み時間待っててもらうように言ってもらってもいいですか」

「うん、わかった」

 二人にお礼をして、潔く教室に向かった。

 タイミングが悪かったな。

 けどいくら思っても次の授業がある。渡せなかった包み紙を揺らしながら、教室に向かった。

 そして渡せることに胸をソワソワさせて授業に集中できなかったあとの休憩時間。包み紙を持って三年A組にいそいそと脚を走らせた。

 少し息を切らして顔を覗かせる。と、さっきの休憩時間に話してくれた女子生徒がいた。

「森泉さんいるよ。呼んでくるね」

 背を向けた女子生徒を追うように、教室の中を見渡した。二年の教室とは少し違う。少しだけ息苦しい。受験がまだな人がいるからか。

「この子」

 女子生徒が戻ってきて視線を前に戻すと、変わらず元気そうな先輩がいた。

「……おぉ、君かぁ。どしたぁ。あ、もしかしてそれ、バレンタインかぁ!」

 女子生徒はその様子に微笑むと姿を消した。

「今日はホワイトデーなんですけどね。作ったのでよかったらもらってください」

「マジかぁ嬉しぃ。君から貰えるなんてなぁ! ありがとうなぁ」

 相当嬉しいのか、その笑顔で僕も口を緩ませる。

「お返しなどは要らないので。それに、まだ欲しいのなら作りますから」

「君の料理うまいからなぁ。これもうめぇだろうなぁ」

「期待に添えられたら嬉しいです。感想お待ちしてますね」

 先輩に食べてもらえたらそれだけで嬉しいが。

 久しぶりに会えて話し込んでしまった。

 今は何時かと確認しようとしたらチャイムの音が聞こえる。ギルたちに待ってもらってるんだ。

「長く離してしまってすいません。そろそろ行きますね」

「おぉ。また飯食わせろなぁ」

「喜んで」

 名残惜しいがいつまでも待たせられない。お礼をしたあと急いで教室に戻った。

「悪い、待たせた」

 体を熱くさせて息を整える。

「おせーぞ。どこ行ってたんだよ、人待たせておいて」

「真也くん、ちょっとぐらい許さないとれーくん怒って渡してくれなくなるよ?」

「しょ、しょうがねーから許してやる」

 余っても仕方がないから、怒っても渡すんだが。

 紙袋を手に持って、名前を見ながらそれぞれに包み紙を渡していった。

「ギル」

「やったー! れーくんの愛情がこもった手作りー! これマカロンだよね! マカロンって『あなたは特別』って意味があるんだよ! 俺れーくんの特別だってー!」

 意味なんて知らずに作ったが。一人で楽しそうにするギルに思わず笑みをこぼす。

 そんなギルをよそに困惑する総務がいた。

「僕渡してないけど、貰っていいの?」

「作ったついでだ。貰え」

「そうだぞ豊。貰えるもんは貰っとけよ」

「みんな新藤くんにあげたの?」

「そうだよ! 真也くんと実琴くんは学校で、俺と敬助くんは家でね」

「……なんだか申し訳ないな、僕だけ作ってないのに」

「そこは大丈夫だよ総務さん。真也くんのはコンビニで売ってる小さいのだから」

「おうよ、蓮に渡すとき投げやすかったぞ」

 なにが「投げやすかった」だ。やっぱりそれ返してくれないか。

「作ってなくとも構わず貰ってくれ。さっきも言ったが作ったついでだ。世話になっていないかと言えば世話になっている。そのお返しとでも思ってくれ」

 総務はまだ少し納得していなさそうだったが、頷いてくれた。

「れーくん食べていい?」

「そのために作ったんだ」

「やった! えへへ」

 嬉しそうに包み紙を開ける。けどすぐに目が丸くなった。首を傾げさえもする。

「れーくん。これは?」

 包み紙から出したのは「ギルへ」と書いた白い封筒。

「……手紙だ」

「手紙!」

 それには僕のことを書いてた。過去にどんなことがあったのか。今一緒に時を過ごせてどれだけ幸せか。

「えへへ、どんなこと書いてるかな。やっぱり俺が大好きだってことかなー」

「帰ってから読め」

 そう言ってもギルが聞くはずがない。封筒を開けて紙を広げた。

 隣で少し悲しそうにするケイが目に映った。

「ケイも開けてみろ」

「……え?」

 包み紙を空けて中を覗いたら、すぐにこっとする。

「そんな非道なことはしない」

「ありがと」

 優しく微笑んでくれる。手紙、なんて思いださせてくれたのはケイなんだ。返事くらい書く。

「え、じゃあ俺のも入ってる?」

 包み紙を開ける下条だが、入れたのは二人だけだ。残念そうにして顔を上げた。

「悪かったな。全員書く体力はなかった」

「いいけどよー。ていうか手紙なんて古臭いよなー。スマホってのがあるのによ」

「手紙でしか得られない気持ちっていうのもあると思うんだ、下条くん」

「ふーん? ギルーなに書いてる?」

 熱心に読むギルが持つ手紙を覗こうとするが止める。

「やめろ。ギルに書いたんだ」

「えー? んー。あ、あそこに!」

 ぱっと僕の後ろを指差す。後ろになにが?

 そんな子供騙しの引っかけに騙されて、

「隙あり!」

 思わず溜息を吐く。視線を戻したら下条の腕を引っ張ってギルから離れさせた。

 けどその一瞬で読んだものがあったらしい。

「なあ、そこに書いてた『きっと生きていられなかった。でも今こうして生きられている』って、なに?」

 よりによってそこを読まれるか……。

 ケイとギル以外の視線を集めてそっぽを向く。

「……真也デリカシーなさすぎて引く」

「はぁ?」

「悩み事でもあるの? 聞くよ?」

「聞いちゃったなら聞くしかないんじゃない」

 下条を置いて二人で迫ってくる。

 ギルはもう読み終わってもいい頃なのに、目に水を溜めてまだ読んでいる。

 ケイは少し口を緩ませて見てる。なにも言ってくれない。

「好きにしたらいいさ」

 ケイは知っているからそんなことを……。

 好きにと言われても、ギル以外に言うつもりはなかった。

 けどこう迫られたなか、あんなことさらされてなにもない、なんて言えないか。

「……以前に、一週間ほど休んだ理由、憶えているか」

「なんか蓮のとーちゃんが帰ってきてってやつだろ?」

「その父親に……昔、手を上げられていたんだ」

 内容が重くなることの見当はついていた。だから明るく、できる限り明るく……。

「……離婚して離れたものの、あの日にまた帰ってきた。母親とその再婚相手が、事故で死んでいたから、ギルとケイがいなかったら、今頃どうなっていたか」

「蓮のかーちゃんは? 出かけてたのか?」

「違う。……離婚したあと、再婚相手と一緒に死んだ。事故で」

「……つまり蓮くん、今一人で暮らしてるの……?」

「え? え? どういうこと?」

 うまく説明ができない。順番通りに話してるつもりでも、まだ受け入れられていないのかもしれない。

「ちょっと口挟んでもいい?」

 ケイが僕の肩に触れて隣から声を出した。

 僕のことだから、僕の口で言うべきなことくらいわかっている。でも今にでも涙が出そうで喉の奥が痛い。

「あんまり無理すんなよ」

 一言僕に向けて言われたあと、ケイが知っていることをわかりやすく話してくれた。

「蓮の母親は、その……手を上げてくる父親と離婚したんだけど、べつの相手と再婚した。したけど中二だっけ、その頃に……亡くしたんだ。母親も再婚相手も、事故で」

「…………」

 なにかを掴む手に力を入れる。

「手を上げてくる父親のもとで育ったんだから仕方がないんだけど、頼り方を知らないから、ずっと一人でな。まあ、一時期世話になってた人はいたらしいけど。

 俺とギルくんは、一人で暮らしてること知ってた。けど、蓮はそのことには一切触れなかったから、言ってもいいかなんてわからなくてさ」

 どれも僕が知っていることだ。隠していた事実。

 でもそれを話されるだけなのになにかが迫ってくる感覚がして、胸の高鳴りが止まらない。

 無意識で掴んでいたケイの袖を掴み直す。

「そんななか、先週の土曜に離婚した父親、つまり元父親が家に帰ってきた。それで父親に傷つけられたりしたから学校に行けなかった……んだよな」

 僕に向いたケイに視線だけ向けてコクッと頷いた。

 僕からもなにか言おうと口を開けた。けど、

「全部俺が話しちゃったけど。……あぁ、それと……こんなこと明かしても気を遣ったりしてほしくない、って言い忘れてた、かな」

 ただ、今は一人で暮らしていることまで話してくれたらそれでよかった。僕の心中はお見通し、か。

 そんなこと思う余裕なんてないことくらいわかっていた。

 問いに聞こえたそれに小さく頷いて、なにか言おうと思わなくなった。喉の痛さもなくなっていた。胸に溜まっていた言葉を、全部言ってくれた。

 黙っていてもいい。それがどんな言葉よりも胸を軽く、僕を安心させた。

 少し落ち着いたが、まだ目がよく潤ってときどき垂れてくる。けど手紙を読み終わったギルがずっと抱きしめてきて、拭えない。雫が頭に落ちてもずっと、ずっと抱きしめてくる。

 全部明かした。理解してもらいたくて、存在を認めてもらいたくて、愛してもらいたくて。

 ケイが口を閉じたら静けさが僕らを覆った。気を遣っているわけではないんだろうが、少しだけ苦しい。

 けどこんな静けさ、本当に話してもよかったのかわからなくなる。

「れーくん」

 静けさに体が重くなり始めた頃、胸のほうから籠った声が聞こえてくる。

「ずっと、ずっと、俺大好きだから。愛してるから。全部教えてくれてありがと」

 顔を上げたギルの瞳は、涙で濡れて輝いて見えた。濡れた目元のまま、僕の頬にキスをしてまた抱きしめる。

「い、今……ギル、蓮にチューした……?」

「してた」

 また胸のほうから声が聞こえる。

「愛情表現だもん。大好きだから、大好きって伝えたの。いっぱいこれからもあげるから」

 あの手紙を書いたからこうなったのか、もともとなのか。

 そんなギルの頭を撫でる。

 きっと、これでよかった。


 五日後の休日。

 母さんの部屋に入って遺品整理をしていた。

 三年半ほどずっと放置していた。過去を思いだすからと。現実を見たくないと。過去を見たくないと。

 母さんの部屋には僕の知らないものがいくつかあった。楽譜や譜面台はもちろん、ミシンや裁縫などの裁縫セット、未完成のジグソーパズル、漫画もいくつかあった。こんな母さん、知る由もなかった。

 僕は母さんをなにも知らずに亡くした。僕を一番に愛してくれていたはずなのに。あの頃、他になにか方法はなかったのか、過去を悔やんでばかりいる。

 いつだって亡くしてからその大切さに気づくんだ。

 この間、父親からの手紙がポストに投函されていた。見るつもりなんてなかった。でもいまさらどんな文句が書かれているのか気になって、少しだけ覗いた。

 内容はただの言い訳だった。

『仕事がストレスで』

『少しだけと思っていた』

『気づいたら強く』

『きっと優希も大人になればわかる』

 そんなのわからない。自分の子供に手を上げるなんて。何歳になっても。

 ただ、そんな言い訳のなかにこんなものがあった。

『おれは美幸、優希で言う母さんを愛してた。けど優希が生まれたから、美幸はおれに向けてた愛を優希に半分に分けた。優希がおれから美幸を奪ったんだ』

 勝手に産んだくせに。

 そう頭に浮かんだと同時に、母さんに近づいたら仕事終わりなど関係なく手を上げられたことに納得した。

 原因は僕だった。

 理解できない言い訳を鵜呑みにはしなかった。それでも、

『おれは美幸を愛してた』

 本当に愛から生まれた感情ならと、少しだけ目を瞑ることにした。

 けど、母さんが父さんのものだなんて、許していない。母さんは、僕を愛してくれていたんだ。

 そんな父さんは今どこでなにをしているのかわからない。警部に聞けばわかるんだろうが、それをしようとも思わない。

 また『いちから愛したい』なんて言われても今度は断る。僕には合わない愛され方なんだ。

 今はもう過去を受け入れられている。……いや、そう思ってるだけか。本当は受け入れられていなかった。だから今まで遺品整理もしてこなかった。できなかった。

 できなかったのはきっと、ただ、なかったことにしようとしていたから。信じたくない過去を。

 何度も手を上げられた事実も、何度も苦しんで終わらせたいと思った事実も、母さんに愛されていなかったと思い込んでいた事実も。

 でも母さんが「遺書」なんて最期の言葉を聞いて、過去と向き合おうと思えた。母さんが死んだことも、父さんがここに帰ってきたことも、ここにある全てが本当。

 ふと顔を上げて部屋の具合を見る。少し片付いた、というべきか。遺品整理をしているつもりでも、ただ片付けをしているだけのようにも思えてきた。

 どれもが母さんが生きた明かしだから、簡単に捨てようと思えないんだ。許してほしい。

 本棚に並んでいる、恋愛ものと見られる漫画。漫画なんて読まないが、母さんが読んでいたのも事実。少しだけ触れてみたいと思った。母さんが好きだったものを。

 本棚の整理が終わってタンスを整理していると、目に留まるものがあった。一冊の薄い本。文庫本より少し大きいくらい。

 表紙にわかりやすく綺麗な字で目立つもの。

『日記』

 一瞬息が詰まる。知らなかった。母さんが日記を……。本当に僕はなにも知らないまま……。

 こんなものを見つけて、亡き人の言葉を見つけて、覗かないわけがない。吸い込まれるように表紙をめくった。

『今日から日記をつけたいと思います。日記と言っても、これは優希の成長を記録するものです。優希の全部を愛したいから。

 優希の様子はいつもと変わらず、元気がなさそうでした。けど、少し笑った顔も見れました。夫が仕事をしていたから、ソファーで本を読んでいるときでした。聞けばミステリーの本を読んでたそうです。私には少し触れがたいジャンル。でも、優希が好きなら少し触れてみようかなと思いました』

 この日記は、まだ離婚もしてないときか。日付が書かれているけど、年が書かれていないからわからなかった。内容を見るに、まだ母さんに強く当たってないときらしいから。

「…………」

 僕が好きだから、母さんも知ろうとしてくれていた。でも僕は……。

 頭でぐるぐると回る言葉に肩を落とす。いくら後悔してももう、母さんはいないんだ。

 もう、見たくない。

 日記の続きを見たくない。僕の知らない母さんを知って……なにが残るんだ。

 後悔しか残らないんだ。

「でも……」

 向き合いたい。母さんが今はもういない事実を。続きを見てもきっと後悔しかしない。でも遺された言葉を僕が見ないで、他に誰が見るんだ。

 手に少しの力を入れて、視線を日記に戻した。

『今日は学校で大きな怪我をしたみたいだから、病院に行こうと言ったけど、怒らせてしまいました。少しだけ怖く思いました』

 僕が、怖がらせていた……。僕が……。

『でもせめて止血はと思って部屋に入れば、床にうずくまっててすごく心配しました。出ていけ、と言われてもなんとか止血させて、慰めもしました。こういうことをするのがなくなればいいなと思うばかりです』

 ……僕は、過去の僕はなんで母さんに酷いことを言ったんだ。止血も慰めも、簡単にしてくれる人なんてきっとそう多くはない。母さんは僕を愛してくれていたのに……。

 腹がぐるぐるとしだして腹をさする。僕は……。

 きっと、こんな調子で、今全部は見られない。最後にどんな言葉を書いたのか、今はそれだけ見よう。

『突然ですが、優希にビデオレターを撮ろうと思います。本を読んでいたら、人は突拍子もなく死ぬ、という言葉を見つけたからです。私はまだまだ元気ですが、病気や事故でいきなり優希に顔を合わせられなくなるのは嫌なので、撮りたいと思います。

 それと最近、というよりは再婚して以降、優希の声があまり聞けなくなってきたので、心配してます。ビデオレターで気持ちを伝えたら声を聞けるようになるのかなと考えてます。でもビデオ越しで伝えてもきっと伝わらないかな。明日勇気を出して声をかけてみようと思います』

 憶えている。日付を見てもきっとその時期だった。

 母さんが再婚したあと、僕は新しい父親を親と見れなくて、それにすがった母さんも軽蔑してずっと部屋に籠っていた。

 そんなある日に、部屋まで夕食を持ってきてくれていた母さんが、粘り強く食べさせようとしてきた日があった。

 夕食自体、食欲の有無で毎日食べられるわけじゃなかった。食べられる日で食卓を囲っても、僕が口を開くことはしなかった。

 その日は特に学校で殴られでもしたのか腹の具合が悪くて、一階に顔を覗かせずに部屋で腹の調子に唸っていた。

 夕食の時間になって僕が顔を覗かせないからと部屋まで運んできてくれた。部屋に入って机に置かれても、腹が空いてない。布団に包まって顔を出さなかった。

『ごはん……食べられそうなら食べてね』

『…………』

『……優希はお母さんのこと嫌い……?』

『…………』

『お母さんね、優希のこと大事に思ってるから、なにかあったら言ってね。なんでも。お母さんのことでもいいから』

『……じゃあ』

 布団の中で布団を強く握った。

『あいつを追い出してって言ったら追い出す……』

『あいつって、お義父さんのこと……? あの人は優希の味方だか』

『味方じゃない。……血のつながりもない赤の他人』

 僕から母さんを取った人間。

 布団から体を出して母さんを見た。

『前のほうがよかった。母さんだけでよかった。なのにあんなやつ連れ込んできた。僕のことなんか……どうでもいい』

『どうでもいいなんてことないよ』

 立ち上がって腹の痛みに少し唸ってから、ローテーブルに置かれた、食事の載った盆を母さんに押しつけた。

『要らない』

『でも最近ずっと夜ごはん食べてないよ。今日だけでも』

『要らない』

『食べてほしいの。食べやすいうどんにして』

『要らないってっ!』

 盆を押した。軽く押したつもりだった。でも目の前からいくつもの食器の割れる音がして、母さんが床に尻を付けてた。

『……優希』

『…………』

 僕の……せい。

 体が動かないでいると、音を聞いた男が階段を上ってきた。そして部屋の前のありさまを目にして、『優希! なにし――!』

『…………』

『せっかく作って――!』

『……はっ…………はっ』

『これ片付け――!』

『……はっ……はっ……はっ』

 殴られる……殺される……。

 父親だったあいつと重ねてそう思った。怒鳴り声がなによりも呼吸を苦しくさせた。

 苦しくなって、しゃがみ込んで胸を押さえた。動悸が、めまいが、頭が、手が、苦しくさせていた。

『……立てる?』

 でも、

『うん……ありがとう』

 僕に差し伸ばされた手はなかった。

 呼吸が苦しくて服を握った。その感触で、日記を読んでいたことを思いだした。記憶を思いだして胸を苦しくさせていることも。

 はっはっと部屋に静かに漏れる息を聞きながら落ち着くのを待っていた。

 自業自得だとわかっている。僕が招いた結果にすぎない。でもこの胸の苦しさが証明している。

 呼吸が静かになったあと、額にできた汗を袖で拭った。いまさらこの日記を見てよかったのかわからなくなってくる。

 あの出来事の翌日、母さんのほうがつらい思いしていたはずなのに、起きたら母さんが傍で寝ていた。あんなことをしたのに。

 その行動を見て、胸の奥を焼くように嫌悪した記憶がある、僕自身を。今では憎悪さえもする。

 この記録が最後な見当はつかない。でもあの出来事が関係しているのならば、母さんのなかで思ったことがあったんだろうな。

 改めて日記の内容を見て思う。

「ビデオレター……」

 本当に撮った……のか?

 ビデオレターが保存されているならパソコンかビデオ本体。確認するだけしても、いいか。

 日記をお守りのように持って父さんの部屋に向かった。ビデオもパソコンも、確かここにある。あまり入りたい場所じゃないが。

 ビデオカメラはすぐに見つかった。パソコンの周りに機械類が置かれていたことは憶えていたから助かった。けど充電が残っているわけがない。充電コードを挿して、パソコンが置かれる机の端に置いた。

 充電している間にパソコンにないか確認したい。が、

「…………」

 真っ黒な画面を睨みつける。

 これはどうやったらつくんだ……。

 ギルか下条ならわかるか?

 試しに二人に電話をかけてみたが、

『れーくんごめんね、今ちょっと手放せなくて』

「構わない、ありがとう」

 下条は電話に出すらしなかった。

 他の当てはケイくらいか。ケイは機械がわかるというイメージを勝手に持っている。かけてみよう。

『どうした?』

 つながった。

「パソコンのつけ方がわからない」

『パソコン? ボタン押すだけだろ』

「そのボタンがどれかわからない」

『えぇ』

 困惑したケイの声。

「今いそがしかったか」

『そういうわけじゃないんだけど。んー……俺そっち行こうか? ちょうど近くいるし』

 近くにいる? 出かけていたのか。

「……菓子を用意しておく」

 ケイが来てくれることになった。菓子はせんべいくらいしかないが。

 ケイが来る前にもう少し粘ってみようと思ったが、どこのボタンを押してもつかない。

 この画面の周りのボタンを全部押したがなにもならなかった。もしかして他にもボタンがある?

 そうして画面意外のそれっぽいボタン、箱のような直方体の機械にあるボタンを押したが、それでもつかなかった。頭を抱える。

 ケイが来るから、それまで待っていようか。

 結局ビデオカメラの充電が先に終わってビデオレターがないか確認した。けどなかった。

 最後に撮られたのはいつかの僕の運動会の映像や写真があるだけだった。ここにないのであればパソコンにあるか、そもそも撮る前に死んだのか、母さんのスマホにあるのか……。パソコンにあってほしい。

 ケイが来るまで一階でソファーに座って待っていた。日記を読みながら待っていた。

 日記にはやっぱり僕のこと、たまに家のことしか書かれていなかった。

 食事の量。

 家出。警察。

 表情。

 歳。

 僕の態度。

 背。服。

 父親。

 金。

 自殺。

 ……いつも失敗だった。死のうと、首を吊っても、手首を切っても、父さんに殴られても、死ねなかった。そのなかで一度だけ母さんに止められた事があった。

 中学二年になったばかりの頃。学校での嫌がらせが酷くて、あの頃は特になにがあったかも憶えていない。ずっとなにも考えられなくて、たまたま車にひかれて死ぬことばかり考えていた。

 けど「たまたま」だからこそ、そうそう起きない。だから自分の手で。

 何度も部屋で失敗した首吊り。今度こそはと硬くて丈夫なロープを買ってきた。集めた小遣いを使って。ただロープだけをホームセンターで買ってきた。袋に入れて貰う必要もないと思ってそれを手に持って。

 それがきっといけなかった。

 休日だから母さんはいた。なんでロープなんかと聞かれもした。でも僕は操られたようになにも喋らず部屋に上がった。

 覚えた結び方の通りに結んで、カーテンレールに固く結んだ。ベッドがカーテンの傍にあったからそれも重たい思いをしながら移動させて。

 ただ最期に外の景色を見たいと思った。だからカーテンを開けた。

 あの日は綺麗な快晴だった。

 ベッドを台にして、首に輪を通して、一歩。

 あの喉に絞まる感覚、思いだすだけで苦しくなる。

 確かに学校で死のうともしたことがあった。縄跳びかなんかで。けどあの時は輪をかける前に先生に見つかってしまった。

 いよいよ意識が飛びそうになっていた頃、声がした。母さんの声が。

 でもいまさらどこにも足の置き場がない。宙に浮いたままの脚でもがくしかなかった。

 でも扉はノックされて開かれた。

 今でも憶えている。血相を変えて母さんが首に絡まったロープを解いていたのを。ぼんやりとした意識のなかで「優希、返事して! お願い!」そう叫んでいたことを。

 なにも絡まっていない喉を触る。あの時見つからなかったら今ここにいない。

「…………」

 生きたんだ。今日までを。

 誇っていいはずなのに、虚しく感じる。

 だから突然鳴ったインターホンに驚いた。

「っ……!」

 バクバクと鳴らす鼓動のまま状況を理解しようとしていたらもう一度鳴る。応えないと。

 急いで玄関に向かって扉を開けた。

 ケイだと思っていた。けど違った。

「久しぶりだな」

「……お久しぶりです」

 警部がいた。

「どうされたんですか」

「近くに来たからと思って。今大丈夫だったか?」

「ええ、暇していました。上がってください」

 警部を招き入れた。本当はケイが来るとわかっているなら上げないほうがいいんだろうが、少しだけ。

 椅子を進めずとも食卓椅子に座る。警部の前にお茶を出した。

「急に来たのに準備万端だな。せんべいまで置いて」

 そう食卓の隅にあったせんべいの袋を空けてパリッと鳴らした。

「いえ、このあと人が来る予定だっただけです」

「来客? なら俺は早く退散したほうがよさそうだな」

「だ、駄目です」

 立ち上がった警部の肩を押して座らせた。

「けど人が来るんだろ?」

「そうなんですけど、ただパソコンをつけてもらうだけなので」

「パソコン? 壊れたのか?」

「……壊れてないと思うんですが、つかなくて」

「パソコンってあの父親の部屋にあるのだろ?」

 最後の一口を口にほうったあと立ち上がって階段を上り始めた。僕もあとを付いていく。

「ここだったか」

 警部を父さんの部屋で寝かせていたとはいえ、数年前だ。憶えているものなのか……。

 父さんの部屋を当てたあとパソコンの前に立つ。

「これだろ? だいたいパソコン本体の正面とかに……あった。ここ押したら……」

 円形に棒が刺さったような絵があるボタンを押した。けどなにも起きない。

「ん、つかないな。コード抜いたか?」

 しゃがみ込んで、机の下で絡み合うコードを覗き込んだ。

「パソコンのは……これか。やっぱりコードが抜けている。これを刺したらつくはずだ」

 顔を出した警部がまた同じボタンを押した。するとぱっと画面がついた。

「……ついた。ありがとうございます」

 ケイにもう来なくていいと連絡しないと。向かっている途中だったら申し訳ない。

「ところでなんでパソコンなんか触ろうと思ったんだ? 機械とか苦手だっただろ」

「……ビデオレターがあるかなと思いまして」

「ビデオレター?」

「この日記にあったんです。母が残した日記に。だから……もしあるなら見たいと思って」

「……そうか。一緒に探そうか?」

「いいんですか。でもお時間とかは」

「気にするな。今日は存分にある」

 警部と一緒にいれる……。その事実に口を緩ませて「お願いします」と言った。


 久々に蓮の家に行くな。しかも一人で行くのもあんまりなかったかな。誰にも知られずに行けることに胸が高鳴ってた。

 今日出かけててよかったな。嬉しくて近くにいるとか言っちゃったけど。ほんとは近くない。確かに俺の家よりは近いけど。途中でお菓子でも買っていこうかな。

 途中でコンビニに寄って少し荷物を増やして、蓮の家に向かってた。

 思ったより早く蓮の家に着いた。信号の待ち時間が少なかったのか、俺の歩幅が大きくなったのか。どっちにしろ楽しみで仕方がない。

 インターホンを押そうとポケットから手を出すけど、

「……そんなことある?」

 スリッパが玄関の扉に挟まって少し開いてた。

 恐る恐る扉を引けばやっぱり開いてる。

 確かに蓮はところどころ抜けてるけど、さすがに抜けすぎて怖い。泥棒とか入ってないよな。

 靴を見る限り家にいるみたいだけど。見たことない靴もある。新しい靴? でもずいぶん使い込まれてるみたいだから、誰か人上げてる?

「……お邪魔しまーす」

 なんとなく小さな声で入ってきちんと鍵も閉める。リビングに電気はついてるけど誰もいない。食卓に空になったお菓子の袋が置いてて、お茶の入ったコップ一つ。椅子が二つ分引かれてる。

 やっぱり人上げてるっぽいな。ギルくんとか下条の靴ならわかるから、俺の知ってる人じゃない……かな。俺今来てよかったかな。

 一階を見て回ったけどやっぱりいなかった。となれば二階にいるはずだけど……。

 荷物を置かせてもらって階段を一段一段上がっていく。と、音が……聞こえる。人の声と、ノイズになってる……泣き声?

 蓮の部屋は階段を上った奥、右側にある。けど聞こえるのは左側にある部屋。ここは確か父親の部屋。でもなんで?

 一応蓮の部屋に顔を覗かせた。でもやっぱりもぬけの殻で電気すらついてなかった。

 一回この部屋に無断で入って怒られたからちょっと気が引けるけど、少し覗くだけだから。それに蓮が自分の部屋にすらいないとするなら音が聞こえるここにしかいないんだから。

 ゆっくり静かにドアノブに手を掛けて開けた。

『しててお母さんすごく嬉しく思っています。大人になるまで見届けたかったなって、思ったりもしてます』

 パソコン? その画面に一人の女性が映ってる。蓮に似てすごく綺麗な顔してる。なら母親?

 そんなパソコンの前に蓮と、もう一人男がいた。泣きじゃくる蓮の背中をさすって、頭を撫でて……。

『一緒にお酒飲みたかったな。優希はどんな酔い方するかな。お母さんに甘えてくれたら嬉しいけど、逆に説教されちゃうかな』

「……なさい……ごめんなさい…………ごめんなさい」

 画面の中は淡々と優しい言葉が投げかけられてる。でも画面の外は蓮が苦しそうに泣いてる。

「れ……」

 声、かけようと思ったけど、かけないほうがいいかな。

『優希と話したかったこといっぱいあって、長くなっちゃった。とにかくお誕生日おめでとう。いくつになったかな。この動画を見てる頃は……十五歳くらいかな。もしかしてもう大人になってる? どんな姿になってもお母さんは優希のこと愛してるから、優希は優希のままでいてね。

 これは二〇一七年に撮ってます。最後まで聞いてくれてありがとう。……愛してます』

 動画の中の女性が手をこっちに手を伸ばしてきて動画が終わった。

 声が聞こえなくなったら部屋には泣き声だけが響く。

「ごめんな、さい……ごめんなさい……」

「あんまり自分を責めるな。当時の新藤は当時の生き方でしか自分を守れなかったんだ。……きっと母親も謝ってなんかほしくない」

「っ……」

 蓮のこと「新藤」って呼ぶの……もしかしてあの警察? この前の件で家に来てた……。

 警察が蓮の頭を腕に入れたら、それに応えるように警察の服を握った。

 声も漏れ出して大きくなっていく。蓮が……声出して泣いてる。いつもどこか我慢したみたいに声抑えてたのに。

 俺は蓮の苦しみを知ってたつもりでいた。でも、知った気になってただけだったのかもな。

 そんな二人をよそに、そっと扉を閉めた。俺が入らなくてもきっと、大丈夫だから。

 俺はあそこに入るべきじゃない。

 しばらくソファーに座って時間が経つのを待ってた。蓮のことを心配しながら。

 でもあの警察がいるならきっと大丈夫。そう思ってすごく心配はしてなかった。

 ていうか、そもそもなんで俺ここに来たんだっけ。買ってきたポテチを開けるか迷ってたら、ふと思いだす。

 確か出かけてたら蓮から電話がかかってきて、パソコンのつけ方がわからない、とか言ってたっけな。でもさっき見たときはついてたし、俺は必要なかったみたいだな。

 ポテチの袋を開けて、一つつまむ。

 でもせっかく来たなら少しくらい、いいよな。蓮が相手できなさそうなのは確かだけど。

 もうしばらく待ってたけど、二人が一階に下りてくる様子がない。蓮と話せたら、って思ってたけど無理そうかな。無理そうなら帰ってもいいけど、ちょっと残念っていうか。

 様子を見にいこうかなとか考えてたらポテチがなくなってた。……そ。

 肩をすくめて背もたれに体を預ける。

 帰ろっかなー。

 そんなことを思ってたら階段のほうから下りてくる音が聞こえた。でも一つ分だけ。

 階段に目を向けてたら警察が出てきた。

 俺に気づくことなく、キッチンからコップを出して、お茶を注ぐ。それを持ってまた階段を上がった。

 蓮……大丈夫かな。ちょっとだけ覗いてみよ。

 また父親の部屋を覗きに立ち上がった。

 今度は、蓮がベッドに脚を立てて座って、腫らしたまま虚ろな目をして、隣に座る警察に声かけられてた。

「飲めるか」

「…………」

 蓮は差し出されたコップを持つけど、その手が震えてたからか警察は手を離さず一緒に口元に持っていく。

 ほんの数秒だけ口を付けて離した。

 飲んでも黙りっぱなしの蓮に警察が口を開ける。

「新藤の母親は新藤を責めていない。きっと、長く幸せに生きてくれていたらそれでいい。だから、もう自分を責めるようなことはするな。それこそ母親が悲しむ」

「……ぼくが……ころした」

「殺してない。不運な事故だっただろ。事故じゃなければ俺はここにいない」

「…………ぼくが」

「いいから、一回考えるのをやめろ、な」

 警察の大きな腕には小さな蓮はすっぽり入った。

「新藤は悪くない。……酷なことを言うが、人はいつか死ぬんだ。新藤の母親があの時だっただけで。だから新藤は悪くないんだ。

 ……強いて言うなら、あの時に死ぬようにさせた神とか運命とか、そういう抗えないものが悪い」

「…………」

 神……か。

 人の死が、全部神のせいにできるのなら、この世は優しくなれた……のかな。

 静かに閉めた扉にもたれて考える。

 ……あんな結末を寄越しておいてさ……。神、なんて存在しないんだろうな。

 扉にもたれて世の諦めを覚えてたら、ふと扉が後ろに動いて、慌てて体を起こした。

「……影島さん」

 呼ばれたほうを見ると警察が扉を開けてた。

「……こんにちは」

「もしかして、新藤が来ると言っていた来客があなたですか」

「まあそんなところです。もう必要ないみたいですけど」

「新藤は……疲れたみたいで」

 扉の奥を覗くようにと開けてくるから覗いた。

 ベッドに座ってた蓮は、横になって眠ってた。少しだけ柔らかくなった表情で、目を腫らしながら静かに。

 確認したら顔を戻して静かに扉が閉まる。

「今は起こさないほうがいいかと」

「わかってますよ。……けど一つだけいいですか」

 振り返って蓮の部屋に入って、ベッドに転がってる猫のぬいぐるみを掴んでくる。

 それを警察に見せたら微笑んで扉を開けてくれた。

 そっと蓮の傍にぬいぐるみを置いて、優しく頭を撫でた。

 いつか、報われような。


 三月下旬。ある平日の放課後。

「あっ! そういえばれーくんは夏樹くんが第一志望の高校受かったって聞いた?」

 下条の居残りに付き合ってたとき、ギルくんがいきなり声を出した。

「……聞いていない。けどいい報告を聞けてよかった」

「ねー!」

 そのナツキって人のことはわかんないけど、それには垣谷が祝ってた。

「その人のことは知らないけどおめでとうって言っててくれる?」

「もっちろん! 俺の最高の友だちが祝ってたって言ったらきっと喜ぶよ!」

「どこの高校なの」

 柊が机に乗り上げて、飴を舐めながら言う。乗るなよ。

「えぇどこだっけなー。でも確かここよりも偏差値高いところ、六十なんとかくらい」

「確かここって五十八くらいあったよな。すごいなその人」

 俺が前行ってたところが自称進で、ここに転校するのにちょっと本気でしたくらいなのに。その人は相当頭いいんだろうな。まあ、誰だかわかんないけど。

 まあそんな偏差値五十八とか目指した結果ここに居残りする羽目になった奴がここにいるんだけど。

「なー豊これ教えろってー、そんな誰だか知らねー奴のことよりー」

「ごめんね、どこで詰まってるの?」

 垣谷がいてよかったな。

「でも総務さんとかれーくん頭いいからもっと高いところ行けてたと思うんだけど、なんで行かなかったの?」

「僕は……お母さんとかがもっと高いところにって言ってたんだけど、学生寮とか偏差値も七十くらいあって、僕には無理かなって思って。通学時間も考えてね。……それに僕はあんまり勉強好きじゃないから」

「総務さん勉強好きじゃないんだ!」

 いつもテストの点数優秀なくせに「勉強好きじゃない」……? これ煽られてる?

「総務さんの意外なこと知れちゃった。れーくんは?」

「……単にここが近かったからだ。それに高すぎるところに行ってもギルがついていけなかっただろ。ギルがついていくと言って聞かないからギルでも受かりそうな……治安の良さそうなここにしたんだ」

「俺のためだったんだ……。もーほんと優しいんだから」

 ねっとりと蓮に抱きつきに行った。それには微笑んで応える蓮。

 昔とかあんなことしたら即引き剥がしてたのに。でも……幸せそうならそれでいっか。蓮が浮かべた笑顔にそう思う。

 ほんと、あれ以来肩の軽そうな表情してる。相当重たい荷物持ってたんだな。

 ふと開いてる窓から風が揺らめいてきた。まだ冬の肌寒さが残る風。桜の木もまだつぼみが多い。まだ春には少し早い。

 でも、

「春が来たな」

 ポツリと呟いたその言葉に下条が「まだ早くね?」と。

 けど蓮は幸せそうに目を細めて、

「そうだな」

 嬉しかった。

 咲くには早いその花は、それでも、地に美しい花を咲かせてみせた。

「早咲きの蓮華は地面咲いた」の十一作目兼十二作目「過ぎた優しさに希望はなくても」を投稿しました。

 早咲きの蓮華は地面に咲いた、本当のラストのお話です。

 過去を明かした蓮にとって、大きな一歩となった本作、いかがでしたか? 蓮の過去も見られました。

 前作の「早くに咲いた蓮華は春を知る」とともに力を入れています。誰かの心に残るお話に、物語になっていたら幸いです。


 そして、今回で「早咲きの蓮華は地面に咲いた」は終わりを迎えてしまいますが、その続編「早咲きの蓮華は地面に咲く」を連作短編で執筆、投稿予定をしています! 過去を明かした蓮とその仲間たちが、どのような未来を歩むのか、一緒に見ていただけたら嬉しいです!


 「早咲きの蓮華は地面に咲いた」を最後まで読んでくださり、本当に、本当にありがとうございました!

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