なにもない(おまけ)
プールに行く前日の昼過ぎ。あるショッピングモールにある水着売り場。
今朝、ギルから水着があるかの確認の電話があった。なければ買ってこいとのことだ。もちろん学校用水着はあるが、さすがに公共の場でそんなものを着るわけにはいかない。
だからこうして買いに来ている……のだが……。
「聞いてんのか蓮」
「なにがだ」
「だから」
「はぁ……」
なぜこうなったのだか。
│遡ること五分前――。
「いらっしゃいませ」
今朝にギルからの電話がなければ当日に急いで水着を買いに行くことになっていた。さすがに迷惑すぎる。それを口実にキャンセルできるのなら買わないが、ギルがそんなこと許してくれるはずがない。だからこうして蒸し暑い外に出て買いに来た。
適当に買って早く帰ろう。こんなシーズンに水着を買う奴なんて山ほどいる。クラスメートにでも会うかもしれない。……会ったところで僕が憶えていないから気づかないかもしれないが。
膝まである黒色の水着と白色のフード付きの長袖ラッシュガードを手に取ってレジに向かった。早く会計を済ませて、残りのものも買いに行こう。
そう思いながらレジに向かう途中、
「……あれ、蓮か?」
聞いたことのある声で僕の名前を呼ぶもので、つい振り向いてしまった。
「やっぱり!」
「…………」
誰だか……。
「……どちら様」
「……は? 俺だよ。下って書いて条約の条に真実の真に」
あぁ、思い出した。下条か。
「他って漢字の左のカタカナのイをなくした也で、下条真也だ!」
相変わらず長いな。
下条兄には夏祭りの時に世話を焼かされた。兄弟としての関係が良好に進んでいればいいんだが。少なくとも下条に傷をつけない程度にはなっていてほしい。
「兄とはどうなった」
「久々に会って初めの話題それかよ。……どーもこーもねーよ。相変わらず無愛想な俺の兄ちゃん。でも、前より俺になにも言ってこなくなった気がする。いつもはあーしろこーしろって言ってくるけど、最近あんまり言ってこねー。逆に俺の口聞いてくるし。
……やっぱりさ、あの時に蓮、なんか言っただろ? ぜんっぜん言うこと聞かない兄ちゃんが、俺の言うこと聞くんだぞ? なに言ったんだよ。あと、ほんとに殴られたりしてない?」
言われて殴られたことを思い出したくらいなのに、下条はよくそんなこと憶えているな。思いだすだけでこめかみがズキズキとしてくる。
「言ったはずだ。なにもされていないから心配しなくていいと」
「……言われてねーけど」
「…………」
短く咳払いをする。
「とにかく、なにもされていない。なにも言われていないし、なにもされていない。下条がなにかを心配する必要はない」
「……なんもされてねーなら、いいけど……」
ずいぶん歯切れが悪いな。
けど、いつまでもあの日の話をするのは気分が優れない。殴られたことを掘り返されてからずっと腹がぐるぐるしている。話を逸らそう。
「そんなことよりも、水着でも買いに来たんだろ」
「あぁ、そうそう。その話もしようと思ってた。あのずっと見学してた蓮がプール行くって言うから嵐でも来るのかと思ったぞ」
正確に言えばギルにもう行くことにされていた、なんだがな。毎度、ギルの自分勝手さには呆れる。
……ずっと見学をしていた、か。脳裏に綺麗な青い空がよぎる。水の音も加えて。……気持ち悪くなってきた。腹を抱える。
「お、おい、ここで吐くなよ? あのときみたいに」
あのときみたいに……? 下条の前で吐いたことがあっただろうか。
「いつの話をしている」
「え? んーっと、泳ぎのテストあった日」
……あの日。記憶が途中で途絶えたときがあったから、そのときにでも吐いてしまったのだろう。過去にも何度かこれに似た、なにをしていたか思いだせない空白の時間を過ごしたこともあったから、いまさら飛んだ記憶がどんなものだったかなんて気にしない。
あのあと水着から着替え終えたときに、ギルからいつも以上に水を飲めと強要してきたのはそのためだったのか。
「蓮って泳げねーの?」
「……あぁ。……もう、この話はやめないか。本当に、下条の服に吐くぞ」
「なんで俺の服なんだよ」
なんとなく。
「それより、水着どんなのにするんだ?」
腕に掛けていた水着を奪い取られ、表裏くるくる回して熟考する。
「駄目駄目だなー。もっと派手なの選べよー」
派手にする意味がわからない。派手なのは嫌なんだが。
奪った水着をもとの位置に戻される。せっかく丈もサイズも良さそうなものだったのに。
「蓮はセンスないから俺が選んでやる!」
――そして今に至る。本当に面倒なことになった。
「いや、やっぱこっちのほうがいい」
「わかった。もうそれでいいから……」
下条が持っていたのは、派手な色と柄を備え付けた水着だった。しかも股関節から下がないもの。
「いや、それにはしない。絶対に」
誰がそんなもの使うか。ただでさえ、水着なんて露出が多くて裸のようなものなのに。
下条の取ったものをもとの位置に戻して、初めに選んだものを取る。早く帰らせてくれ。
「僕はこれでいい」
「面白くねー」
面白くなくていい。
まとわりつく下条を置いてレジに向かおうとするが、仕方なく下条にもどんな水着にしたのか聞いてやった。僕にあんなものを着せようとしたのだから、もっと酷いものを選んでいるかもしれない。
「下条は決まったのか」
「おうよ。ちゃんと決まってる。俺のはこれ」
腕に掛けていた水着を持って広げる。花柄に赤と黒のグラデーションがかったもので、アロハシャツを思わされる。
「……いいんじゃないか」
僕にはあんなものを勧めたくせして、自分のは意外と普通じゃないか。下条に勧められて騙された人間はどれほどいるのやら。
「大きさってこんくらいでいいと思う?」
水着を体に当てる。ちょうど下条が履く短パンと同じくらいの大きさだ。丈は膝上くらいある。
「ゴムがキツくなければそれでいいんじゃないか」
「俺太ってねーし」
「…………」
急にこいつはなにを言っている。話通じてるか?
「蓮って俺と同じくらいの身長だよな。でも蓮の水着ちょっと長くね?」
再び奪い取られて自分のものにしようとする水着と重ね合わせる。確かに、少しだけ僕が取った水着のほうが長い。が、
「それがなんだ。僕はこれくらいの長さでいいんだ。もう選ばせないからな」
「わぁったって」
奪い返した水着を持って会計をする。見たところ、下条はラッシュガードは買わないらしい。日焼けを気にしないのだろうか。
個々で会計を済ませ、店を出た。あとは百円ショップに寄って帰るだけだ。全部あそこで揃うはず。
僕は一言かけて帰ろうとしたが、先に口を開けられる。
「なぁ、あそこのパフェ食べたい。ちょーうまそう」
いきなり言われて、一瞬なにを言っているのか理解できなかった。本当に話が通じない外国の人なのかと思った。
ピンと人差し指で差しているのは、『丸山和風カフェ』と木製看板で記されている店だ。ある程度崩れた行書体のフォントが使われていて、見るからに和風だと思わされる。
下条が見たのは、ショーウィンドウに並べられているサンプルだろう。目がいいことで。
「……買い物に付き合っているわけではないから、好きにしろ。僕は行く」
エレベーターのあるほうへ向きを変えるなり、肩を│掴まれる。
「待て待て待て、蓮も一緒に食べようぜ。ほら、抹茶味あるらしいからさ」
好物で引き留めようと言うのか。僕がそんなことで│留まるわけがない。抹茶味の食べ物なんてそこら中にある。
「また明日」
肩に置かれた手を払い落とすが、またしても掴まれる。
「まっ、アイス以外に団子あるってよ! みたらし団子とか、きなこ餅とか」
和菓子が売っている店に行けばそんなもの、いくらでも売っている。
一歩踏み出す。
「ほ、他に……金太郎飴あるらしいぞ! あ、あと……」
「金太郎飴があるのか……?」
ということで、その店に入って向かいになる二人席に通されるなりメニューを見るが、金太郎飴なんてなかった。なんとなくわかっていた。こんなところで売っているはずがない。深く信頼を得もしていない下条を信じた僕が馬鹿だった。下条を細めた目で見る。
そんな下条は睨みつけられているとも知らないで、メニュー表を立てて見ているが。力強くメニュー表を寝かせて下条と目を合わせる。
「……わ、悪かったって。でもこのモールのどっかにあったのは憶えてるから、あとで買いに行こうぜ」
「……本当にあるんだな」
今度こそ騙されるわけにはいかない。
「なくなってなければある!」
さっきの行いを見たら、あるのか怪しく思うが。
「でも本当に金太郎飴好きなんだな」
「……それよりなんで僕が好きだということを知っているんだ」
「ギルが教えてくれたぞ。確か、『昔れーくんが俺の家に遊びに来たときに金太郎飴あるから食べる? って聞いて一つ食べたんだけど、おいしかったらしくてすごい食べてたんだよね。それで、俺がトイレから戻ってきたとき容器いっぱいに入ってた飴が三分の一なくなってたんだよ』って笑いながら言ってたぞ」
わざわざギルの声を真似るな。気持ちわ……くだらない。
ずっと昔の、小学校を上がったあとの話だな。今考えれば、人の家のものなのにあれほど食べるのは遠慮なかった。だが、当時ギルの父親から遠慮せずに食べていいからと言って差し出された。あんな言葉を子供にかければ容赦しないのがほとんどだ。……つまり仕方のないことだ。
……言い訳ではない……。
「目、泳いでる。でも好きなものを好きなようにするのはいいと思うぞ。したいようにして、やっと楽しいって気持ちになるからさ」
言われなくても、日頃からしているつもりだ。なにより、もう縛られたくはない。
「ところで決まったのか」
「お、おう。そうだった。……どれもうまそー。蓮はどれにするんだ?」
「僕は、抹茶とみたらし団子と抹茶大福……冷やしぜんざい……」
「すげー食うじゃん。昼飯食べてないのか?」
「食べてきたが……どれもおいしそうで……。今日なら最悪金はおろせる」
「口座持ちか! いいなー。んーじゃあー」
呼び鈴で店員を呼んだあと、それぞれ欲しいものを頼んでいった。
「以上でよろしいでしょうか」
「はい」
「では、失礼します」
ここの店は初めてくるが、どれも好印象だ。店の内装も店員の態度もメニューも……。品が僕にとって好評ならときどき食べに行こうか。
「すげー嬉しそうだな。初めて見るわ、そんなワクワクしてる蓮」
「……うるさいな」
僕にも好物はあるんだ。人間なんだから。
下条に愛想を尽かすつもりで頬杖をつく。
「蓮は和食とか和菓子好きだってギルから聞いたぞ。あと海鮮系も好きだって?」
「……まあ。和食は基本好きだ。下条は好きか」
「んー魚はあんまりだなー。だって骨あるじゃん」
ギルも同じ理由で魚を好んでいなかったな。なぜ日本人なのにこうも骨があるという理由で嫌だと言うんだ。
「骨は考えないで、味はどうだった。口に合ったか」
「味はな。骨さえなければいくらでも食べられる」
これまたギルと同じようなことを言う。そして僕も同じことを言う。
「機会があれば、魚の骨を抜いてやるから嫌いになるな」
ギルは適当に返事をしたのに対し、下条は嘲笑か皮肉めいて笑う。
「蓮も面白いこと言うんだな。まあ、そんな機会なさそうだけどな」
それは思った。ギルならまだしも、わざわざ下条を連れて外食に行くかと聞かれたら、行かないと答えるだろう。第一、それほど仲が良いというわけでもない。
注文した品々が来るまでの間、そのものすごく仲が良いわけでもない相手を目の前に、なにを話そうかと考えるうちに、尿意に気づく。下条はそれを感じ取る様子もなくスマホをいじっている。
下条に一声かけたあと、店を出た。モールだからトイレに行くのにも店から出る必要があって少し面倒だ。食い逃げだと思われないためにもわざわざ店の人にトイレに出ると声をかける必要があるのも。今回は下条がいるから大丈夫だとは思うが、一応言った。
案内表示ばかりを見つめてたどり着いたトイレを出たあと、見慣れない景色に戸惑う。案内表示ばかりを見ていたから、どこから来たのかわからなくなってしまった。ただ、トイレに入る直前に男性用の服屋が右側にあったのは憶えているから、左側に沿って歩く。
どちらか一方に沿って歩けば着くとばかりに、左側しか見ていなかったから、気づいたときには一周していた。その不思議さにさっきした行動を振り返えるが、右手前にあるエスカレーターの│傍にこのフロアの案内地図があるのを見つけ、素直に覗き込んだ。どうやら、下条と入った店は壁沿いにあるものではなく、壁に接しない中央に、長方形に位置しているらしい。一方の壁に沿って歩いていたのにたどり着けないわけだ。
今度こそ地図を暗記してまっすぐ進む。きちんと見覚えのある店にたどり着けた。
下条と通された席に向かって机を見てみれば、トイレに行く前とは景色が変わっていた。灰色だったテーブルにパフェやスイーツが置かれて色鮮やかになっていた。
僕の存在に気づいた下条は口に含んでいたなにかを飲み込んだあと、口を開ける。
「やっと来た。遅いぞー。遅すぎて蓮の分まで食べようかと思ってたぞ」
「悪い。少し迷ってしまった」
机の上に三品ほど置かれていた。見れば、どれも僕が頼んだものらしい。抹茶と抹茶大福と抹茶アイスが来ていた。
下条の目の前にはもう空と言っていいほどしか残ってない皿があった。ずいぶんと待たせてしまっていたらしい。
見るからにすごくおいしそうだ。盛り方も丁寧で惹きつけられる。抹茶の容器は和を感じられる黒の湯呑みになっており、触り心地もいい。香りからしておいしいだろう。それを一口。
「っ……!」
おいしい……! 久しぶりにこんなうまい抹茶を飲んだ。甘すぎず、苦すぎずほどよい渋みが出ている。身近にこんなおいしいものが飲めることを知らなかった僕は、かなり損をしているぞ。
「……蓮、すっげー目輝いてる。そんなにうまいのか?」
「この抹茶を甘く見るなよ。ここの抹茶は本当においしい。飲んでみるか」
差し出せば、下条が受け取るので手を離した。下条はそれを一口。
「……確かにうまいな! なんか抹茶って抹茶のアイスとかが甘いから甘いやつかと思ってたけど、これはこれでうまい」
「だろ!」
……つい声が大きく……。一つ咳払いをして、いつの間にか前のめりになっていた体を戻す。
「蓮、本当に嬉しそうだな。ここまで騒ぐ蓮初めて見たわ」
「……抹茶のおいしさが伝わったようでよかった」
下条から返される抹茶を受け取った。いつまでも飲んでいたい。が、そんなことをすれば、すぐになくなってしまうので、数口飲んで一度飲むのをやめた。
他のを食べよう。先に溶けてしまう抹茶アイスに目を移す。
透明な容器に入り、アイスには棒状のクッキーのようなものが刺さってあった。スッキリとした見た目は夏を感じさせられる。
スプーンを手に取り、ずくって口まで運ぶ。冷たいアイスが口の温度で溶けて、一気に抹茶の味が広がる。暑い夏にはぴったりな品だ。
棒状のものにアイスをすくい上げてかじる。これはどうやらクッキーらしい。サクサクとしているが、歯にまとわりつくことのないサクサク感だ。おいしい。
これは溶けてしまうので、名残惜しいが先に食べてしまった。
次は抹茶大福だ。けどその前に抹茶を数口飲んで……あともう一口飲む。
平らな石のような丸い器の中心に抹茶大福が乗っている。薄緑のした大福に濃い緑の粉末が塗されている。その粉末は器を彩るかのように全体に塗されてもいる。
備え付けられている黒文字で切り、大福の一部を刺して器を持って口へ運んだ。
「っ……」
これまたおいしい。もちもちとした食感の抹茶餅の中につぶあんが入っている。そしてその甘さに対する大福の上に塗された少し苦さのある抹茶の粉末が加わっておいしさへと導く……。
「また蓮の目輝いてる。写真撮ろ」
「おい。撮るんじゃないぞ」
台無しにするな。
欲望を抑えきれず、もう一口切って食べる。おいしい。もうなくなってしまう。……おいしさのあまり、食べきってしまった。
ここで、他にも頼んでいたものが届いた。店員が空いた器を下げ、頼んでいた品名を言って机に並べていく。
新しく出されたものは、僕にみたらし団子と冷やしぜんざい。下条によもぎ餅と抹茶パフェだった。
下条の抹茶パフェは酷く目立っている。背の高いグラスに、抹茶アイスや粒あん、白玉などさまざまなものが入っていた。僕が食べた抹茶アイスにあった棒状のクッキーも刺さっている。
下条は記念にか、写真でそれを撮っていた。
届いたものを早速食べよう。少し温かみのある、焼きたてだと思われるみたらし団子に目を付ける。ぜんざいも早く食べたいのだが、暖かいものは冷めないうちに食べるのが一番だ。このあと食べよう。
抹茶大福と同じような柄をした横長の器に乗せてある。四本の団子が刺さったものが二本揃えて置かれ、タレが綺麗なつやを輝かせている。
備えられていた黒文字で一つ抜き取って刺す。それをタレが垂れ落ちないよう左手を添えながら口まで運んだ。
口の中でタレの甘さが広がる。焼きたての団子は表面はパリッとしているが、中はもちもちっとしていて、よくタレの甘さと絡み合う。今回は、一口サイズのものが八つもある。一つ一つ味わいながら食べていった。
「……蓮がこんな笑顔なの始めて見た……。すっげー顔笑ってる。ザ・笑顔って感じしてる」
もう台無しにはしたくないので、食べ終わるまで下条の言葉には反応しないことにする。今決めた。
「写真撮ってギルに送ってやろ」
「送るな。撮るな」
……反応してしまった。
気を取り直して食べていく。やはりおいしい。いつまでも食べていたい。
みたらし団子を食べ終わればやっと手を付ける。ぜんざいを食べよう。容器に少し水滴が付いている。早く食べたい気持ちは山々だったんだ。許してくれ。
深緑色をした茶碗の中に白玉や小豆が入っている。ぜんざいは一度食べたことがあって、見るだけで味を思い起こされる。久しぶりだ。
付けられた葡萄色をした木製のスプーンを持ってすくって一口。
口に含んだ瞬間に冷たさと甘さが舌に伝わり、小豆の香りが鼻にまで伝わってくる。白玉はもちもちとした食感で、よく小豆と合う。この組み合わせを開発した者はとんだ天才なのかもしれないと、今ふと思った。
この店は「おいしい」という言葉で山が出来る。食べているうちにどれほど思ったことか。もちろん提供者たるもの、まずいモノを出すわけはない。だが、最低限度のおいしいを越えている。この店はいつまでも残っていてほしい。
僕も下条も頼んだ分を全て食べ終えた。腹が膨れすぎている。この状態で走るなどの運動をすれば確実に戻してしまうだろう。そう予測できるほどだが、食べたことに後悔はない。
「いやーうまかったなぁ。それに蓮があんなに食べるとは思ってなかったわ」
「食べすぎた。出るのは少し待ってくれないか」
「おうよ。じゃあ俺ちょっとトイレ行ってくる」
「ああ」
下条が席を立って、店から出ていった。
あぁ。本当においしかった。金の余裕があるとき、また行こう。飽きない味だ。抹茶味のものが多いカフェだった。まだ気になるものを食べれていないから、それも食べよう。そのときは一つ前の時間の食事を食べずに行こう。それでまだたくさん食べることができる。
「こちら、お下げしてもよろしいでしょうか」
「はい。ありがとうございます」
店員が空になっている食器を下げてくれた。
「あの……すごくおいしかったです。また来ます」
「……お言葉をいただき光栄に思います。またのご来店をお待ちしております」
店員が去っていく。
このおいしかったという気持ちを伝えれて、僕は満足できた。今回は夏に来たが、冬だとメニューが違ったりするのだろうか。冬半ばに行けば外が寒くて動けないから、冬のなり始めにまた行こう。今から楽しみになってきた。
下条が帰ってくるまでギルのチャット欄に書いてある、以前決められた日程や時間を確認していた。『八月二日の八時二十五分までにギルの家に集合』。今日帰ったら準備物をまとめようか。
少しして下条が帰ってきた。
「待たせた!」
「待たされた。……では、会計に行こうか」
「いや、先に食べた分の計算しようぜ」
「する必要はない。僕が出す。下条が誘ってくれたおかげで、こんなおいしいところを見つけられたんだ。今日だけ奢らせてくれ」
「え、いいのか? ……じゃなくて、それは駄目だろ。蓮の財布ん中なくなんぞ?」
鞄から財布を取り出して中身を確認する。伝票に書かれる金額と、財布に入る金額の差は……余裕があった。もともとこの店の値段が安かったのか、僕が大金を持ち歩いているのかはわからない。
「大丈夫だ。下ろす必要があれば、少し出してもらおうかと思ったが、足りる」
「ギリギリとかじゃないのか?」
「余裕で足りる。だから僕が出す。下条が出そうとしているのは親からもらった貴重な小遣いだろ。大切にしておけ」
「……いいのか……?」
意外と優しい。
「ああ。……なら代わりにだ、金太郎飴を奢ってくれ。それでどうだ」
「そんなのでいいなら、十袋くらい買うぞ」
「それは内容量と値段を見てから決める。さあ、行こうか」
店を出れば、下条に付いてくるよう言われた。金太郎飴の場所案内だろう。
「この店の……。あった。これだぞ」
手が二つ分の大きさのチャック付きの袋に、金太郎飴がかなりの量入っていた。欠けていたりして訳あり商品として出されているみたいだが、欠けていたところで、味は変わらないんだ。値段もあまり高くない。
「なら、これを二袋お願いできるか」
「おうよ、任せろ!」
袋を二つ持ってレジに向かっていく下条。僕はレジの出口で待っておいた。
金太郎飴なんて何年ぶりだろう。ふとしたときに食べたいと思うことはあったが、買いに行くほどの気力は生まれずずっと食べていなかった。
「ありがとうございました。次の」
「はい、蓮」
店特有のビニール袋を渡される。二袋でもある程度の力がいる重さだ。いくつくらい入っているのだろう。
「ありがとう」
店を出れば下条が聞いてきた。
「このあとはもう帰るのか?」
「帰る」
「じゃあ、俺まだ欲しいもんあるから、ここで。また明日な!」
「また。気をつけて帰れよ」
「蓮もなー!」
僕が振り返って歩き始めたからか、後ろからも足音が聞こえる。
下条のせいで余計な出費をしてしまったが、下条のおかげでおいしいものを食べられたし、いいものも手に入れられた。今日ここへ来てよかったみたいだ。
帰ろう。
……そうは思ったものの、僕にも欲しいものがあり、帰り道に通る百円ショップで防水のポーチと水鉄砲、浮き輪を買った。
当日は金を持ち歩く必要がある。わざわざ金を更衣室にあるロッカーまで行くのは面倒だからな。浮き輪と水鉄砲はあれば買おうと思っていて、実際あったから買った。なくてもいいとも思っていた。
「ありがとうございましたー」
もう空の色が変わってきている。時間が過ぎるのは早いものだ。暑いし早く帰ろう。夕焼けを見ながら帰路につく。
それにしても、今日はかなり金を使ったな。ほとんどあのカフェでだが。水着とラッシュガード以外に、百円、正確に言えば一一〇円で買った防水ポーチ。一番にカフェでの飲食が予想外だった。
月に使う金の量を決めている。今月は電気代や水道代、食事代などを節約して調節しなければだ。金にも限りがある。
家に帰れば金太郎飴を少しつまんで、必要なものを準備していった。しばらく手にしていない学校用の防水バッグの中身を抜いて、今日買ったものやその他必要なものを入れていく。
水圧に追いやられながらの行動はかなりの筋力と体力を使うだろう。今日は風呂に入って軽く勉強をして早めに寝よう。
風呂から上がったあと、髪の水を軽く拭き取り、首に掛けた。そういえば夕食を食べていないということを思い出したが、昼過ぎに下条とかなりの量のおやつを食べたのであまり腹が空いていない。
だが、明日はかなり動くはずだ。栄養補給が必要だと思い、いつの間にか冷蔵庫で冷やされていた栄養ゼリーを食べた。賞味期限は切れてはいないから安全だ。
僕の家にはこういった栄養ゼリーや栄養ドリンクを冷蔵庫や収納扉に入れている。なぜなら、僕がよく体調を崩すが故にギルが家に置いていくからだ。「コンビニとか行けないくらいの熱とかだるさだったらこれ食べて」と言って、ギルの家からか持ってくる。
月に三つほど持って来られるので少し溜まってきている。ギルは僕が月に計三日間も過度な体調不良になると考えているらしい。乾燥するような冬場などにはありがたいが、感染症になりにくい夏場にはあまり必要がない。使って三カ月に一つほどだろう。
その栄養ゼリーを飲み干してゴミ箱へ捨てたあと、髪を乾かしに行く。今はなんとなく気分もいい。きちんと乾かそう。ギルが嬉しがる。
そう思っていたものの、ギルが満足する乾き具合になるまでが程遠くて、面倒臭さのあまり乾かすのをやめた。ある程度乾いたんだ。もうそれでいいだろ。タオルだけ乾かすために干しておく。
外出したためか、少し疲れている。部屋に上がって早々ベッドに腰掛け、後ろへ倒れ込めば白い天井が目に映る。
「…………」
今日は楽しかった、気がする。ただおやつに食べたものがおいしかっただけかもしれないが、それでも、もう一度あの時を過ごしたいと思ってしまう。
あぁ、今日は駄目な日だ。ギルに会った日、特に外へ連れ回された日などによく覚えてしまう感情。それが急に襲ってきた。
体を横向きにし、肩まで毛布を被って丸くなる。手は強く毛布を握っている。
……さみしい。
孤独感や寂しさは誰だって覚えるはずだ。静かな夜に、静かな雑音に覆われて。
情けない。独りでいる人なんてこの世にいくらでもいるのに。僕には友人がいるというのに、こんな感情を抱くのは、情けない。
一度こうなったらしばらくというより、ほぼ一日どうしようもなく動けなくなる。なにかをする気力がなくなり、酷いときには息を止めたくなる。やはり人は寂しさで死ねる。
僕がどんな過去を持っていようと、苦しいのはやはりあまり好きではない。今日は、今日だけは復習をせずにもう眠ろう。でないとなにをするかわからない。次の朝日を浴びるためにも。大切な人の笑顔を見るためにも。
リモコンで照明を消す。
月光の物陰。沈黙の雑音。におわないニオイ。体温を奪う毛布。
……孤独感に襲われるのは、面倒臭い。
寝ようと│瞼を閉じて、どのくらいが経っただろうか。寝つけない。ずっと、ただ眠れない時間が過ぎていくだけだった。
……無理もないか。今まで二十四時頃に寝ていたのに、いきなり二十一時台に寝るなんてことできないに決まっている。なにかあっただろうか。……確か入眠剤をいつかに買った気がする。あれの使用期限が大丈夫そうならそれを飲んで、早く眠ろう。
照明をつけて体を起こす。いきなりの目の刺激には思わず目を細める。立ち上がって部屋を出、一階に下りる。もちろん誰もいなくて、ただ真っ暗で僕の気持ちを反映させているようだった。収納扉を開けて薬箱を│漁る。
あった。使用期限もまだいける。それをコップに入れた水と一緒に喉へと流した。効き目が出るのには約十五分ほど。
無意義な時間を過ごすことになるが、することもない。する気力もない。ベッドに入っていよう。
暗い部屋で見るスマホの画面は酷く目を刺激する。なにかを調べようとしていたのか、検索アプリが開かれている。「孤独感 苦しい」「寂しい」と、検索履歴にある。調べた時刻はついさっき。いつの間に調べていたのだろう。
思い出せず、スマホ画面を消して投げ置く。頭がぼーっとしてきた。薬の効き目だろう。なにを調べようとしていたのかはわからないが、それを探って薬の効果を台無しにしたくない。抗えずに瞼を閉じた。
明日が来るか来ないことを願って。
「早咲きの蓮華は地面咲いた」の四作目、「なにもない」のおまけを投稿しました。
本編では語られなかった前日譚。本編とのテンション差のある内容はいかがでしたか? 食レポシーンはうまく書けているのではないかと自画自賛しています。また、蓮の孤独をうまく表現できたのではと思っており、本編での検索履歴はどういう経緯のものだったのかとご理解いただけたかと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。どんな評価でも、ご感想でもお待ちしています。続きが読みたいと思った方はブックマークもよろしければ……!
ありがとうございました!