なにもない
八月上旬。ある日の昼過ぎ。
空腹と闘いながら小説を読んでいた。闘うと言ってもぐーぐーと鳴る雑音とだが。もう少しで章が終わると思うんだ。それまで少し待ってくれ。腹に訴えかける。
この前、課題が全部終わって晴れて開放の身になった。だからこうして昼まで寝たり夜遅くまで起きたりして、ぐーたらした生活をしている。始業式一週間前には体内時計を戻すためにもアラームをかけるが、それまでは昼まで寝る。それでもだいたい昼前に起きるが。
ページをめくる。次のページで章が終わるらしい。半分しか文字がない。そこまで読み終えたらなにか食べよう。
そう思っていた。なのにスマホがずっと振動しだして集中が切れた。電話かと思ったが少し違う。チャットだ。電話と間違えるほど連続で送ってきたのだろう。眉間にシワを寄せながら体を起こして、スマホが置いてある勉強机に手を伸ばしてスマホを手に取った。
僕と連絡先を交換している人間はそう多くはない。そしてその中でもこんないたずらをする奴は一人しかいない。
『ねえねえねえ』
『れーくんれーくんれーくん』
『プールプールプール』
『行こ行こ行こ』
この四つの文章のあとは全部スタンプで画面いっぱいに埋まっている。スライドするのに指が疲れるほど送られてきている。
『スタ連するな』
とにかくそう送って、長蛇の列になっているスタンプを削除して見やすくした。そのあと用件はなんだったかともう一度見る。……というかなんで三つずつ並べてるんだ?
用件はプールに行こう、か。
ギルは僕が泳げないことを知っているのに、なんでプールなんかに誘うんだ……? 胸が締めつけられて、脳内で嫌な記憶が流れだす。
中学二年生の夏頃まで、つまり母親たちが死ぬ前までは体育実技にも水泳にも参加しなかった。それからも体のことで参加しなかったが、中学三年になってやっと参加しようと思い、参加した。でも実際に参加すれば迷惑をかけるし、うまく体を動かせないから、すぐに自ら見学するようになった。ずっと見学してたから、これまでと同じだと思って。
それでもギルと同じクラスだったこともあり、無理やり参加させてくれ、実技ではうまく体を動かせるようになった。でも水泳は駄目だった。全く体が言うことを聞いてくれない。だから中学校卒業までずっと見学を続けるようになっていた。
高校生になったあともできれば見学しようと思っていたものの、高校では水泳授業で見学したら補習があると聞いて、重い腰を上げて初回授業に参加した。
参加すると言っても水中に顔をつけることすらも怖くてできなかったから、それの練習から始まった。初めのうちは中学校で参加していなかったから当たり前だ、頑張ろうと思っていた。
けど、回数を重ねるうちに周りの人との差を感じ始めた。
僕が水中で息を吐いて、一瞬水面から上げて息を吸う練習をしているとき、周りの人はクロールも平泳ぎもすでに習得していて、背泳ぎやバタフライの練習をしていた。
僕がうまく息継ぎできるようになった頃には、周りの半分くらいの人は背泳ぎを、バタフライを習得していた。一度うまく息継ぎができたからと喜んでいる奴なんて誰もいなかった。
その日からなんとなく、水泳の授業がある日は一日中気分が優れなかった。それでギルに何度か保健室に連れられることもあった。
決め手は夏季休暇に入る前にあった実技テストだ。クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライのそれぞれのタイムを測る、そんなテストが。
その頃には難なく泳ぐことができる。なんてことはなく、息継ぎをしながらビート板を使って、これであってるのかと思うほど重たくした足をバタバタさせて、小さく水を立てることしかできなかった。それにビート板があるという安心から、意識しないと水中に顔を入れられない。そんな程度だった。
他人に見せられないほど醜く滑稽で、進んでいる様子もなかった。呼吸ができずに苦しくなって床に足を付いたとき、その進んでいなさに酷く胸が締めつけられたのを憶えている。僕はここでいったい、なにをしているんだと思いもしたくらいだ。
テストは三人ずつ行われて、順番が回ってきた僕はプールサイドに一番近いコースに当たった。プールサイドで座っている傍観者の嘲笑するような視線をずっと感じる。
そんななか笛の音がし、鳴ると同時に二人の泳者がバシャバシャと水を立てながら泳いでいった。もちろん、一回目の笛の音で水にもぐり、二回目の笛の音で泳ぎ始めることはわかっていた。でも体が動かなかった。足も手も動いてくれなかった。
泳げないのにここに立つ意味はない。なんで先生は泳げないとわかっている僕にまでテストをさせるんだ。うまく泳げる人間の前でビート板を使って泳ぎたくない。傍観者に、他者に滑稽な姿を見られたくない。
そんなあふれてくる思いで頭がいっぱいだった。
水中でもないのに鼻に水が入ってきて苦しくなる。
気がついたときには、肩にバスタオルを掛けられて、ベンチに座っていた。隣には「◯◯さんはっやー」と騒いでいるギルがいて、ギルの手は僕の手を握っていた。
でも僕は握ってくれていたことで、心の柔らかいところを、ごっそりと鋭く研がれた爪で食い込ませて両手いっぱいにえぐられる感覚に襲われ、ギルの手を振り払った。
その日以来いつかに座ったベンチで丸くなりながらバシャバシャと水を立てる音を聞くようになった。うまく泳げている人なんて見れないから、空を見上げて。見たら苦しくなるから。胸が締めつけられて、息ができなくなるから。
夏季休暇に入る前に補習の日程が書かれた紙が配られた。どれも七月中に行われる日程だ。でも、どの日の補習も行かなかった。行く気なんてこれっぽっちもなかった。いまさら体育の成績なんてどうでもよかった。
もともと好印象を持っていなかった水泳が、あの日以来「嫌い」に変わった。「触れたくないもの」になった。
「…………」
苦い顔を作る。
何度か感じたことがある感情。何度でも感じたことがあった感情。水泳でも、勉強でも、知識量でも、読書時間でも、体力でも、なにかの能力でも、容姿でも。
日が経って落ち着いたものももちろんあった。それでもこういったことで思いだしたときには苦しくなる。
この感情の正体が「劣等感」だと知っている。思い知らされた。「他人」がいる限り拭えない苦しい感情。僕自信が変わろうとしなければどうしようもない感情。変わろうとしない僕には拭えない感情。
本当に、なんでギルがあんなことを言うんだ? 理解者じゃなかったのか? そんな思いの先にたどり着いたのが「裏切り者」だった。けどすぐに頭を振って否定する。ギルはそんな奴じゃない。きっとなにかの間違いだ。
誰かと送り間違えた。
他に意図があった。
泳がせる気なんてさらさらない。
そんな答えが返ってくることを問う前に期待した。でも答えを聞きたくなかった。送り間違えじゃない、特に考えてない、泳ぐつもり、そんな答えが返ってくることが怖かった。ギルは裏切らないと信じているから。
どう返そうかと迷っていたら、ギルから連絡が来る。
『あはは、早く気づいてほしくて』
「ごめんね」と謝るスタンプも送られる。
『それで、プールどう? 行かない? 真也くんと総務さんもいるんだ。あと俺のお父さんとお母さんも』
すぐに、
『でもれーくんも行くって言ってるから、来てほしいなーなんて。あはは』
また勝手なことを。
所詮誘いだ。行かないと選択しても構わないはずだ。
入力欄に『行かない』と打つものの、この文字を送信することでギルを悲しませることは明白だったから、送信することにためらいを持つ。
なかなか送信ボタンを押せないでいると、再びギルからなにか来た。
『もし行くってなったら遊び道具あるなら持ってきて! 水鉄砲とかうきわとか』
遊び……。
そうだ。この誘いは必ずしも泳ごうというものじゃない。きっとプールで遊ぶために誘ったんだ。泳ぐためではない。……きっと苦しい思いをしなくていいはずだ。
入力欄にあるものを消して打ち直す。
『行く』
すぐにギルからくる。
『ほんと! やった! 夏休み中に行きたくて、いつ空いてる?』
特に予定は入れていない。
『いつでもいい。集合時間などの予定が決まったら連絡をくれ。少し寝るからスタ連はするな』
嫌なことを思いだして食欲が失せた。腹も│唸ってこない。気分も優れないからちょうどいい。
ギルからの返信も見ずにスマホ画面を消し、小説と一緒に勉強机に置いた。起こしていた体を乱暴にベッドに放り投げ、うつ伏せになる。
でも息ができず、苦しくなって顔を上げた。
眠っていたのか否か、曖昧な記憶のなか、腹からぐーっと鳴って目が覚める。お腹空いた……。
掛け時計に目をやれば四時と、なにか食べるのには困る時間だった。空きすぎて少し気持ち悪い。なにか食べよう……。
腹を抱えながら冷凍庫の中を探る。少しだけ食べて、夕食は食べられるようにしたい。そうなれば手のひらサイズのなにかを食べたいところだ。
冷凍庫から弁当に入れる用の枝豆が出てくる。けど、これではあまり腹が満たせない。他になにか……。
諦めてカップ麺を食べようかと思っていたら、棒付きアイスが出てきた。賞味期限切れの。
外袋にも入らずに、個装のものが一つ出てきたということは、ギルが勝手に入れたものかもしれない。けど、どうせ賞味期限が切れてるんだ。いまさらあるぞと言っても、それを食べたギルが腹を壊してしまうかもしれない。なにも言わずになかったことにしよう。そしてなかったことにするものは今食べよう。……一応、同じものを買ってこようか。
冷凍庫を閉めて食卓椅子に座って、余計な氷が張り付いた袋を開ける。棒付きアイスを食べるのは久しぶりかもしれない。まあ、食べたらだいたいいつも体の内側から冷え込んで身震いしてしまうから食べないのだが。ときに腹を壊してしまうし。
表面に氷をつけたアイスをかじる。
「…………」
冷た……。
味は桃味だ。やはりギルが置いていったものだろう。僕なら桃味よりもリンゴ味や抹茶味を買うからな。
食べ終えた頃には腹も満たされたし暑さも紛らわすことができたが、紛らわされすぎて寒くなってきた。一つ身震いをする。よくギルはこんな冷たいものをすぐに食べられるものだ。
残った棒を入っていた袋に入れて体を温めるためにブランケットを肩に掛けた。寒い。……真夏に寒いと思うのもおかしな話だが。
寒さがなくなり、少し暑さを感じ始めた頃に部屋に戻った。部屋は冷房をつけていて、涼しいと思える適温だ。
中途半端なところで読むのをやめた小説でも読もうかと机に置いた小説に目を落とすが、すぐ隣のスマホが一度だけ振動する。チャットだろう。先に見てしまおうとスマホ画面をつけた。ギルからだ。
どうやらこの短時間で予定が決まったらしい。行動の早い奴だ。
『日にち決まったよ! 八月の五日の木曜日、八時二十五分までに俺の家に来て! あと車で行くから酔い止めも飲んで来てね! お昼もあっちで食べるよ』
八月五日の木曜日の八時二十五分までにギルの家か。忘れないようにカレンダーに入れておこう。酔い止めも忘れないように……。
前日に予定を知らせるように設定し、ギルに『わかった』と短くそれだけ送って、画面を閉じた。
今回の誘いは、きっと嫌な思い出にならない。場所が嫌なだけであって、きっと楽しめるはずだ。そう思いたい。
小説を手にとってベッドに寝転び、挟んでいたしおりがあるページを開く。本当に中途半端なところで読むのをやめている。本当にすぐ読み終えたのに。
楽な体勢のまま腰まで掛け布団を掛けて、小説を読み始めた。
アラームの音で目が覚める。
「……ん……」
うるさい……。アラームを消す。
目覚めはあまり良くなく、起きたばかりなのに酷い眠気や頭重感がある。きっと昨晩になかなか寝つけないからと飲んだ入眠剤の副作用だろう。かなり頭がぼーっとする。眠気が酷いというレベルじゃない。
「…………」
そしてあまりの眠気に耐えられず再び眠りに入ってしまった。
「――くん。起きてー、朝だよー」
誰かの声が聞こえる。肩を揺らされている。誰だこんな時間に……。誰かいるのか……?
重い│瞼を開けてみれば人が立っているのが見える。
「あ、起きた。おはよ」
顔が見えるように視線を動かせば、そこにはギルがいた。なぜか室内なのに黒いキャップを被っている。帽子を被るなんて珍しい。
「……なんでこんなところにいるんだ」
「こっちのセリフ! なんで起きてないの」
ギルがスマホの時刻を見せてくる。眩しい。時刻は八時五分……六分を指していた。
「起きてると思って電話かけたんだけど、出なかったから起きてないんじゃないかって思ってれーくんの家まで行けば、案の定、珍しくれーくんが寝てたっていうわけ」
「……来たのなら冷房をつけろ」
汗をかいているようだった。扇風機をギルに向けてすぐ│傍にあるエアコンのリモコンで冷房をつける。
「もーそれもー。俺がいるときに限らず、起きてるときも寝てるときもつけないと熱中症になっちゃうよ。この前お願いしたよね、つけてって」
「昨晩はあまり気温が高くなかったからつけていなかった」
「言い訳無用! それに普通に暑かったし。……もういいから、早く体起こして準備して。みんな待たせちゃうよ」
そうか、今日はプールへ行くのだったな。
一度目を強く│瞑ってから目を開けて目覚ます。体を起こせば立ちくらみが生じ、落ち着くまで少し待つ。
「……なにしてるの?」
「……立ちくらみ」
落ち着けば一度背伸びをし、立ち上がった。
顔を洗って朝食を食べて着替えようか。……昨日白米炊いたか……? いや、炊いていない。……途中コンビニで買ってあっちで食べさせてもらおうか。
「ギルの家に行く途中、コンビニに寄っていく。白米を炊くのを忘れていた」
「うん、わかった。じゃあ、早めに準備して早く家に行って早く食べちゃお。お腹空いちゃうでしょ?」
一階に下りて顔を洗い、部屋着から私服に着替えて腕時計を着ける。ボディバッグに財布とハンカチ、ティッシュと酔い止めを入れる。いつもこれくらいしか入れていない。家を出た時に鍵を新たに入れるくらいだ。
「ゴミを出してくる」
「はーい」
部屋を出て階段を下りていけば徐々に湿気のあるジメジメした空間になっていく。夏は冷房を効かせている場所との温度差が酷くてあまり好めない。冬は最悪布団を被りながら移動できるので、まだ好める。
袋の口を縛る。それを持って玄関まで向かう。
「…………」
夏の外は本当に眩しい。今着ている服はフードがある。それを被って鍵を開け、外に出た。……やはり眩しい。出た一瞬、辺りを真っ白にするが次第に色を付けていく。……セミの声がうるさい。
早々にゴミを定位置において家に戻り、振り向いて鍵をかける。本当に眩しかった。
フードを外して家に入ろうと振り向いて部屋に駆け足で戻る。涼しい……。
部屋ではギルが手のひらサイズの水筒を手に持ってボディバッグに入れようとしていた。
「あ、水筒にお茶入れておいたよ。というか、れーくん水筒あれしかないの? 小さくない?」
また勝手なことを。
「大容量のものを持って行ったところで、飲みきるまでいかない。それで十分だ」
「そう?」
ギルが普段持ち歩いている水筒の内容量すら飲めないに決まってる。
部屋の冷房を切って玄関に並べる。後ろにギルがいると思って声を出したが、
「もう出られる……か」
いなかった。
部屋に戻ればまだベッドに座って涼んでいて、僕が戻ってきたことを当然のような目で見て問うた。
「いつ行くの?」
「……もう行くから下りろ」
確かにずっと冷房の効いた部屋に居座っていたいが。
今度こそギルを連れて、蒸し暑くセミの声がうるさい外に出て玄関の鍵を閉める。十秒もしないうちにギルは「あつーい」と口にしていた。
すでにこめかみに汗筋を作りながらギルの家に向かった。
一刻も早く冷房の効いた涼しい場所に行きたいのに、信号で足止めを食らう。
「あ、そういえば」
突然声を発したかと思えば足元に丸い日陰が出来る。上を見上げると黒いなにかがあった。隣の人間が持つ手には傘がある。今日は雨予報でもないのに、なんで持ってるんだ。
「なんだこれ」
「え? 傘だよ。日傘」
日傘……。どうりでいつもギルが持つ傘とは違うわけだ。ギルはいつも青い柄物の傘を使っている。
「れーくんの家に行って来るって言えば、お母さんがなんか……ベリーホット? アウト……サイド? ……って言って出るときに渡して来たんだ。たぶん使ってみたいな意味だよね」
「間接的にはそのような意味にはなる」
本当に間接的にだが。
「やった。俺英語できるようになるかな」
信号が青に変わる。
「……きちんと聞き取れて、意味もわかっていれば希望は持てた。さあ、早く行こう」
「え? さっきの希望なかった? 絶望的だった? ねえ」
僕が歩き出したことによってギルも隣を付いてきた。そしてその話も自然と終わった。
「その傘持とうか。腕疲れるだろ」
それに、僕に気を遣いすぎてギルのほとんどに陽光を浴びている。
「んーいいよ。俺が勝手に入れてるだけだから」
「…………」
ギルの家に行けば、早速上がらせてもらった。外とは違って涼しい。もうプールなんて行かずここでエアプールに入っては駄目か?
家の中にはギルの両親の他に総務の姿があった。食卓で父親と話している。私服姿、初めて見るな。普段きちんと制服を着ているから、私服姿なのは少し新鮮に感じる。
「いえいえ、こちらこそ。えいか……ギ、ギルくんはいつも楽しそうに話しかけてくれるので、こちらも楽しくなって」
「そ、総務さん。うるさいよ……」
さっきまで外にいたからか、耳が赤い。……いや、照れてるな。
「あ、英川くんに新藤くん。早く着いちゃったから先にお邪魔してたよ。おはよ」
「おはよう! もー総務さんのせいで俺、機嫌悪くしちゃった!」
すごく嬉しそうに見えるのは僕だけか?
「ふふっ。ごめんね英川くん」
総務も楽しそうに謝る。楽しそうでなによりだ。
父親に椅子を勧められて、総務の向かいに座る。ギルは立ち上がった父親が座っていた椅子に座る。
立ち上がった父親は僕の前に氷水を出してくれた。お礼を言おうと口を開けるが、先にギルの手が伸びてきてそれを│掴む。
「…………」
この状況を不思議に思っていれば、状況を理解したらしい父親が口を開ける。
「ギル、少し待って。すぐ出すから」
「……え? あ、俺じゃなかった? すごい喉渇いてたからつい……。あはは」
「飲みたければ先に飲め」
「いやいや、れーくんのほうが飲まないと熱中症になるから先に飲んで」
飲んでほしいという願望があるのなら先に飲もうとするな。そう思いながらも、握らされたコップを持ち上げて、喉に冷えた水を通す。一気に暑さが逃れた気がする。
「はいギル。お待たせ。空きがなくてね」
「ううん、いいよ。ありがと」
父親から受け取ったコップをガブガブ飲んで表面に水滴を残したコップだけが残る。
体が冷えてきたら、途中で寄ったコンビニの袋を開けておにぎり二つを取り出す。
「……それお昼ごはん?」
「いや、朝食べていないから食べさせてもらおうと思ってな。悪いな」
「ううん。ゆっくり食べて。下条くんまだ来てないし」
付いていた手拭きで手を拭いてから、袋を開ける。
「何味?」
「梅ひじきと海老マヨネーズ」
「梅か。僕梅食べれないんだよね」
「俺も! 仲間いたぁ。れーくんが食べるのっていっつも大人っぽいのばっかりなんだよね。性格も大人っぽいし、ほんとまだ子供なんだから子供らしくなってよ」
無理な願いだ。そもそもこれが素なんだ。
海老マヨネーズを一口頬張る。
それに、僕を大人っぽいと言うのなら、ギルは子供すぎるんだ。
「新藤くんは梅と海老が好きなの?」
「……ああ。和食や海鮮などが僕の口の好みだ」
「あ、そっか。だかられーくん梅食べれるのか。納得」
むしろなんで気づかなかったんだ。
コンビニの袋にまだ中に残っているのはギルが欲しいと言って一緒に会計をした桃のアイスだ。それを思いだしたギルはハッとスマホを触っていた手を止めて、袋をガッと掴んで、乱暴に袋を開けて、大きな口を開けて食べる。そして幸せそうな顔をする。
「英川くんのは……桃味?」
「うん! 俺桃大好き! あ、そうだ、れーくんこれって何円だっけ。お金返さないと。レシートある?」
「今でなくていい。それに溶けるだろ。先に食べてしまえ」
貰うつもりはないが。
「やっさしー。れーくんも食べる?」
「要らない。食べてしまえ」
「やさしくなーい」
……今のは優しくないのか?
口が幸せになりながら、おにぎりを食べていく。おいしい……。ギルもおいしそうに桃味のアイスを食べている。……やはりどれだけ口の中が幸せでも他人がおいしそうに食べる姿を見たほうが幸せになるな。
「れ、れーくん。あんまり見ないでよ……」
口を開けてなにかを言うのかと思えば、そんな言葉だ。耳も少し赤くなっている。
初めての言葉だ。僕が見て恥ずかしいなんて言われることはなかった。
「なぜ」
「…………」
口を尖らせて目を逸らす。なにが恥ずかしいのだか。詮索してやろうかと思ったが、いつも脳内が花畑のギルだ。考えても無駄だ。花畑と言っても今は黄色いキルタンサスが咲いているらしいが。
「あれ、英川くんちょっと変わった?」
「へっ!」
図星らしい。声にも表情にも出ている。
「い、いや、そんなことないよー。総務さんの見間違いだよー」
そんな棒読みで言われて、「確かに見間違いだハハハ」なんて思うわけがない。
さっきギルを見た時に恥ずかしがっていたから、なにか見られて恥ずかしいものなんだろう。ギルが容姿で恥ずかしがるなんてことあまりないから、なにに対して言っているのかわからない。
例えば太ったとか。……いや、見る限りそんなことはない。なら、新たにピアスを開けたとか。……いやギルがそんなことをするはずがない。髪を染めた。……それもないな。
……ん。
「前髪」
「うっ……」
前髪を手で覆い隠す。
「総務さんならバレないと思ったのに、そういえばれーくんがいるんだった……前髪切りすぎちゃったの……」
その切りすぎてしまった前髪を気にするように触る。
軽く総務の観察力がないと言っているな。
よく見てみたら前髪が短い気がする。けど、パッと見てわからないほどだ。
「確かにちょっと短い……ね」
「そこまで気にするか」
「気にするよ……。だから今日、帽子被って来たんだよ……」
被っていた帽子を深々と頭に食い込ませる。だからか。普段帽子なんて被らないギルが今日珍しく被っていたのは。
黒い帽子だと、その白い肌に染めた赤色はよく目立つ。
「さっぱりしてていいんじゃない? もちろん前のもいいと思うよ」
「そ、そうかなぁ……。でも真也くんほど短くしたくないし、目が全部掛かるほど長くしたくないの。前のがちょうどよかったの」
面倒な奴だな。いつもあのほんの少し目に掛かる長さにするのは無理な話だ。髪は伸びるのだから。
「髪は例外を除いていつまでも伸びるんだ。諦めろ」
「れーくんひど! 諦めろって……」
事実だ。そのうち伸びれば、いつか切らなければ邪魔になる。僕は切るのが面倒だからある程度伸びたら切るが。
「食べないと溶けるぞ」
アイスがアンバランスになって、器用に持っていたアイスの棒に伝う水滴が今にでもギルの指に付きそうだ。……付いた。
「あ! それ早く言ってよ!」
はぁ……?
指に付いた水滴を舐めて、アイスをガブガブと食べる。見てるだけで寒くなる。身震いをした。
ギルが食べ終わる頃に、僕もおにぎりを食べ終えた。ギルのほうが少し早かったからか、片方のおにぎりのゴミを取られてアイスの袋に詰められた。そして空になったもう一方のおにぎりのゴミも無理やり奪われて詰められる。ギルはそれをなんとも思っていなさそうな表情のまま立ち上がってゴミ箱に捨てた。
「下条くん遅いね」
「ほんとだよ。もう集合時間……」
なぜかギルが僕の左腕に着ける腕時計で時間を確認する。
「五分前だよ?」
わざわざ僕のコップを持った手を引っ張って。
「二十分前行動しないと」
二十分は少し早すぎやしないか。
「ギル。今飲もうとしていたのは見えたか」
「あはは、ごめんなさーい」
反省しているのやら。前にも似たようなことがあって、そのときもこんな感じだったからきっと反省していない。
集合時間になっても下条は来ず、五分ほど経った。
「来ないね」
「ね。なにしてるんだろ。もしかして約束忘れちゃったとか? それか日にち間違えてるとか」
「僕連絡してみるね」
「うん、ありがと」
机の下から総務のスマホが出てきて画面をいじる。スマホカバーにはストラップがついている。
学校でも普段から能天気な下条だ。仕方がないようにも思える。学校での遅刻はあまりしていなかったが、こういった校外の約束などには無頓着なのかもしれない。
コップを持ち上げて口に付けるが、入っていない。
「…………」
虚しさを覚えながら、コップを机の上に置いた。
「ギル、課題は進んでいるか」
気を紛らわせるために口を動かす。
「ぜんぜんー。一個も手つけてないよ。お水入れるね」
が、見られていたらしい。
空になったコップを持っていかれる。
「新藤くんは?」
「僕は七月中に終わらせた」
「え! もう終わったの!」
「…………」
リビング中にギルの声が響く。
「……早いね。僕もあと少し」
「総務さんまでー」
きちんと会話しながら水で表面張力が出来ているコップを目の前に置かれる。よくこぼさずここまで持ってきたものだ。けどわざわざこんなことしなくても……。ギルをチラリと見る。ただ楽しそうな笑顔だった。
少し見た目が醜いが、口をコップまで近づけて飲む。
「あはは。れーくん持って飲みなよ」
ここまで入れたのは誰だったか答えてみろ。ここまで必要じゃなかったんだがな。腹が酷く膨れそうだ。
「ていうか宿題終わらせるの早くない? せっかくの休みなんだからそういうのあとにしよーよ」
「せっかくの休みだからこそ、やることは先にやってあとは楽にするほうがいいだろ」
「僕も同じ考えだよ」
「そうだよ? 俺もそうなんだけど、俺がそうやれば、なぜか終わるのが最終日とかになるんだよねー」
見苦しい。親にスマホやゲーム機器を預けたらそのうちできそうだがな。それか僕が預かってやろう一週間ほど。
「でも提出のときに終わってればいいんだから。副教科とか初めの授業の日でしょ?」
「家庭科は始業式に提出だ」
「うっ。で、でも体育と音楽は宿題ないでしょ?」
「ないが、授業初日にテストがある」
「え! そうなの!」
きちんと憶えておけ。
体育はもう点数が入らなくてもいいと諦めているから、なにをするのかなんて覚えていないが、音楽は打楽器の実技テストだ。ピアノならいくらでも弾けるのに、打楽器となれば少し違う。鍵盤の位置がピアノと同じであっても、指を置くのとスティックで叩くのとではなかなかに違うもので、あまり自信がない。
「とにかく! 提出日に宿題終わらせて、テストも前の日に頑張ればできるんだから。任せてよね」
似たようなことを長期休暇中に聞く。そして課題に関しては毎回始業式前日になって、なにかが終わってないと聞く。さらに始業式当日には課題を一つくらい家に忘れてきたと言っている。その日にギルの家にお邪魔してその課題の解答欄を見たら空欄。
大丈夫だろうか。今年くらいは何度かギルの家に行ってやってもいいかもしれない。というより単位が心配だ。
もうしばらく待っていたらインターホンの音がリビングに響いた。同時にキッチンの傍にあるモニターの画面が付いて、人間が映る。父親が立ち上がってボタンを押した。
「はい」
「あ、下条真也です」
モニター越しに聞こえた下条の折り目正しさに小さく笑みを浮かべる。普段能天気で上の者に対しての言葉遣いも知らなさそうな下条が、敬語を使うとは。……少し馬鹿にしすぎか。
「あ! 真也くん来た!」
ギルは勢いよく立ち上がるが、その反動で椅子が倒れそうになる。それを隣に座って見えていた僕は焦るものの椅子は倒れず、当の本人は玄関へ走っていった。子供らしさに微笑みを帯びた溜息をもらす。
顔や服を汗だくにした下条がギルと一緒にリビングに入ってくる。視界に入るだけでこうも臭いニオイが漂っている感じがするのだな。リビングが汚染された気がする。
「すっずっしー」
「あはは。外暑かったでしょ。お水出すから椅子座ってて」
「おうよ」
総務の隣の椅子に腰掛けて、パタパタと服を揺らす。……目を瞑ろう。臭っているようにしか思えない。見るだけで幻嗅がする。
ギルがコップを下条の前に出したら、僕の隣に座って、口を開ける。
「真也くん十分遅刻だよー」
「ごめんって。準備してたら遅くなった」
事前にしておけ。これだから能天気は。
目の前に置かれたコップをガブガブと飲んで、ドンッとテーブルに置いて振動が伝わる。
「てか遅れてきたの俺だけかよ。蓮とか遅れてくると思ったのに」
下条と違って時間は守る人間だが。
「れーくんはいつも時間きっちりしてるから、なかなか遅刻することはないよ。今日は遅れそうだったけどね。俺が起こしに行ってなければ今頃ぐーすか寝てたよ」
今日のは、入眠剤を飲んだ副作用がだな……。
「蓮起こしに行ったんなら俺も起こしてくれよ!」
「だって真也くんの家ちょっと遠いもん。自転車で行かないと三十分くらいはかかるよ」
「爆速で走ったら二十分!」
「俺真也くんほど体力ないから途中でポッキリ折れちゃうよ、あはは。れーくんなんてもっと早くに折れて、萎れちゃうよ」
なぜわざわざ僕を例えたか聞こうじゃないか。
父親は先に車を冷やしておいてくれ、十分に冷えた数分後玄関から顔を覗かせ、僕らを外に招いた。外は一瞬でも汗が少し│滲むほど暑かったものの、車内はガンガンに冷房がきいていて、少し寒く思えた。
「すずしー」
「外がいつもこれくらいだったらいいのにな」
「ねー。涼しくて俺溶けちゃう」
運転席のドアがバタンと閉じて、シートベルトが引かれる音がする。
運転席と助手席にはギルの両親、後部座席は僕とギル、その後ろに総務と下条が乗り込んだ。僕は酔いやすいから運転席の後ろにしてもらった。
「シートベルト付けた?」
ギルの父親がルームミラーで車内の様子を見ている。そのとき一瞬目が合って、つい目を逸らしてしまう。
「俺とれーくん完璧だよ」
「僕たちのところもです」
「よし、じゃあ出発しようか」
間もなくして車が動き始め、次第に見慣れた景色から徐々に見たことのない景色へと変わっていく。
普段車に乗ることはないから、やはり慣れない。母親たちが死ぬ前も車でどこかに出かけるということはなく、こうしてギル家の車に乗ることが多くなってもやはり頻度はそう多くなく、いつ車に乗っても初めの数時間は「初めて乗る」ような感覚に駆られる。動き始めてしばらくするまで鼓動が速いままだ。
……それにしても、寒い。腕を軽く摩っているとギルのほうから視線を感じ始める。心配でもするのかと思えば違うようだった。
「……お父さん、冷房の温度ちょっと上げて。寒くなってきちゃった」
「寒かった? ごめんね」
続けて鳴る機械音。
運転席に覗かせていたギルの顔が戻ってきて、僕と目が合えばにっと笑う。わざわざ……。そう思うが、口元を緩ませる。それで、にっと笑っていた顔がもっと笑顔になった。
着くまでしばらく寝させてもらうことにした。もし酔ったときように吐かないために。
ときどきギル家の車に乗せてもらうことがあるが、長時間の乗車では酔い止めを飲んでも気持ち悪くなることもあって、一度吐いてしまったこともあったから、それ以降袋を持って乗車するようになった。調べたところ、寝ると気持ち悪くなりにくいようなので寝るようにもしている。
後ろに座る総務に声をかけて背もたれの角度を少し変え、目を瞑る。
車で目を瞑った時に感じるこの揺れ。いつかに、この揺れについて目にしたことがあった。確か、安定した低周波数の振動が眠気を誘うらしい。よく睡眠を取ったはずのときでも眠気に襲われるのはこのためらしい。
そんなくだらないことを思い出していればいつの間にか眠りについていた。
「起きろれーん!」
「っ!」
いきなり大きな声が聞こえて飛び起きる。バクバクと鳴る心臓と荒い呼吸で辺りを確認する。車は止まっているようだ。
「あ、起きた。さすが真也くん」
「バスケ部なめんなよ!」
さっきの声は下条だったか。本当にびっくりした。もう少し優しく起こしてくれたっていいじゃないか。
「着いたよ」
窓には知らない景色が映る。そうか。今日はプールに遊びに来たのだったな。ぐっすり眠っていたからすっかり忘れていた……。ずっと寝ていたかったな。
背もたれの位置を戻して荷物を持ち、車から降りる。ここからでも塩素のニオイがしてくる。鼻を塞ぎたい。
室内に入ったら涼しい空気が肌に伝わり、もういっそのことここでコーヒーを飲んで過ごしては駄目なのかと思いもした。けど手続きが終わったあと、ギルに腕を引かれて男子更衣室に入らされる。
時間が早いからか、酷く人がいるということはなかった。それでもどこかに目を移せば人がいて、少し鼓動が速まる。
ギルが適当に空きのロッカーを見つけてくれ、そこの扉を開け、荷物を置いた。ロッカーはあまり大きいものではない。学校で生徒それぞれに貸し出されているロッカーくらいの大きさだ。
今から着替えるのか……。どうしても学校での水泳授業の嫌な記憶が脳裏によぎる。気持ちの悪い細い体を他人に見せたくない……。なにより、僕が見たくない。靴下と薄い上着を脱いでは、動けなくなる。
「豊女子かよ、上着着るとか」
「べ、べつにいいでしょ? それにこれはラッシュガードだよ」
「俺はこの鍛え上げた腹筋を見せびらかすために着ねーけどな!」
服の上から腹を触る。ただまっすぐ手が滑るだけだ。むしろ少し反ってるまである。溜息が出る。
「れーくん? お腹痛い?」
隣から声が聞こえる。
「……そういうわけではない」
いつまでも待たせるわけにはいかない。早く着てラッシュガードで閉ざしてしまえばいい。……着替えよう。
ただ誰にも体を見られないよう、手早く着替えては、あとラッシュガードに腕を通して前を閉めるだけだ。
「ほら、蓮も俺の腹筋見ろって」
肩を後ろに引かれて、倒れそうになった。代わりに、ずいぶんと磨かれた下条の体が映る。
「……離せ。いつも水泳の時に見ているだろ」
やつ当たるように、肩に置かれた手を払いのける。
「……ギルーなんか蓮機嫌悪いんだけどー」
「あはは。れーくんプールが嫌だからかも」
「せっかく来たのに。てか、蓮っていつもは制服で見えねーけど、体ほっそー。すぐおれそ」
「黙れ」
「……ギルー蓮怒ったー」
「……たぶん、れーくんあんまり自分の」
好きでこんな体をしているわけじゃないんだ。捨てられるなら今すぐにでも捨てたい。そんな体を持つ下条にはわからないだろうが。
ラッシュガードの前を閉めて一息吐く。これでしばらくは安心できる。が、やはり着たら少し暑いな。
財布から数千円と小銭を出し、防水ポーチに移す。百均で買ったからきちんと防水できるのか少し不安だが、きっと大丈夫だろう。濡れてしまったときはそのときだ。長さを調節して首から提げる。
あとは今日の日のために買って防水バッグにまとめた水鉄砲と浮き輪。けど、水鉄砲なんて要らないだろう。こんな子供らしいの。どうせ浮き輪も……。僕はただギルたちが遊ぶ様子を見るだけ。それだけをするんだ。冷水になんか入りたくない。入らない。嫌気の差す二つを防水バッグから取り出してロッカーに置く。だからこれはいら――。
「あ! それ水鉄砲と浮き輪じゃん! 家にあったの? 買ってきてくれたの?」
タイミングが悪い。本当に。
「……買った」
「そうなんだ! ありがと! れーくん用の水鉄砲と浮き輪、持ってこなくてもよかったね。れーくんの家にあるのかなーって今日の朝思いだして一応持ってきたんだけど」
「…………」
持っていくだけ……持っていこう。きっと使わないが。防水バッグに入れ直した。
これで準備は整った。
……やはり、少し暑い。一番上まで上げたラッシュガードのチャックを少し下げて、パタパタと動かす。ここは冷房がきいていないのか?
防水バッグを持ってロッカーの鍵を閉め、防水ポーチに入れる。
下条はもう準備万端そうに準備運動をしている。が、ギルと総務がまだらしい。実際、ギルから「れーくん、俺ラッシュガード着るから水鉄砲と浮き輪出してー」と手伝わされる。
ギルの使うロッカーに入っている防水バッグの中からカラフルな水鉄砲とぐしゃっとしている浮き輪を取り出す。
「これか」
「うん、それそれ。ありがと」
ギルはラッシュガードの前を開けた状態でそれを受け取るなり、空気が入らず情けない姿の浮き輪に体をくぐらせる。浮き輪の柄は……ドーナツ。子供らしい……。
それぞれ準備が終われば、荷物を持ってプールにつながる出入り口をくぐった。屋外の明るさに目が慣れず、しばらく目を開けられなかった。それでもギルたちが「きたー!」とか「でっけー!」とか言って興味を湧かせるので、ゆっくりと瞼を開けた。
「…………」
広い敷地。塩素のニオイ。広がる水色。まだ多くはない人。
この塩素のニオイが、嫌な記憶を脳裏にちらつかせる。
僕らが出ると同時に隣の女子更衣室からギルの母親も出てきて、父親と言葉を交わす。
ギルの母親は美しく水着を着こなしている。白く細い腹を出し、白色の丈の短いスカートが付いた水着の上に、薄らと透ける白いレースを着ている。おしゃれな水着だ。……よく、裸同様の水着姿を晒し上げられるものだ。
髪は綺麗にまとめ上げて、その上からリボンの付いた麦わら帽子を被っている。首からはいつも着けているネックレスが提げられていた。
「な、なあ蓮。ギルの母ちゃん、ちょー美人じゃね? 肌白いし、髪来る前と違って団子にしてるし、なにより白の水着にスケスケの服を上から着て……ヘヘッ」
そそくさと近づいてきた下条が……変態の思考をする下条がそんなくだらないことを言う。友人の母親に興奮するなんて、今どんな気持ちでいるんだ。ギルに聞かれていないようでよかったが。
「下条が少し気持ち悪いと言っておく」
「きれー……」
聞こえてないな。
朝イチだからかまだ人が少なく、荷物を置く場所取りは十分にできそうだ。ギルの両親とは別行動をするらしく、会話に一区切りがついたら僕らに「ギル、なにかあったら連絡してね。それとみんなもこまめな水分補給を忘れずにね」と一言かけ、早々に離れていった。
僕と総務で場所取り、ギルと下条で浮き輪の空気入れに分担した。
総務もギルのような体格だが、健康的な肉の付き方をしている。僕のほうが身長が高いのに、僕のほうが細い。
「新藤くん」
本当に、気持ち悪い体をしている。
「新藤くん?」
「……どうした」
「こ、ここどうかなって」
指差すのは上に天井があって影になっているところだ。
「いいんじゃないか」
「じゃあここにするね。広げるからこっち持ってほしいな」
ギルから預かっていたレジャーシートの端を持って移動する。総務が気が済むまでしわを伸ばしたら完成だ。
早速荷物を置いて座る。あぁ、日陰はやはりいいな。直射日光は頭が焼かれるし、肌に当たったら痛い。
ギルたちが戻って来たと思えば、上から僕の浮き輪を体にくぐらせてくる。
「場所取りありがとー。じゃあ荷物置いて早速入ろ! 絶対冷たくて気持ちいいよ!」
荷物を乱暴に放り投げたら僕らを置いてプールに入ってしまった。放り投げた荷物をレジャーシートの上に置く。
それより、準備体操してからじゃないと――。
「準備体操しないと筋肉痛になるよー!」
総務が代弁してくれる。なのに二人は聞こえていないのか、息が保つ長さを競うことをやめない。水中だと聞こえないだろうな。
「……僕たちだけで先に準備体操しておく?」
「僕はしない。ここでギルたちの楽しむ姿を見るだけでいい」
「……そう」
生真面目な総務はこんな大衆の中にいても人目を気にせず、体を曲げて伸ばしてねじって準備体操をしている。水中からギルたちの頭が出てきたら、総務に気づいてプールサイドに上がり、一緒に運動し始める。下条は堂々と、ギルは少し恥ずかしそうに。僕はそんな様子を見る。
……こんな無意義な時間を過ごすなら家に帰って勉強でもしたほうがマシだ。膝を抱えて頭を埋める。
「れーくんも準備体操……しよーよ。れーくんなんて特に運動しないと、明日動けなくなるよ?」
「僕は今日ここで見ているから」
「だーめ。一緒にしよ! 運動して汗かいたあと冷たいプールに入って遊ぼ!」
手を引かれて立たされる。面倒臭い。気だるげにギルたちの動きに合わせた。
一通り終わった頃には大量の汗をかいて少し息を荒くさせていた。夏季休暇中確かに動いていなかったが、現役高校生が準備体操で息が上がるわけないだろ。ギルになにか盛られたか? 普段より汗をかいて息が上がる毒薬でも盛られたか?
「よし! 準備体操も終わったし入ろー! 俺と真也くん先に入ったけど。あはは」
珍しく僕を置いて入っていくかと思えば、ギルは振り向いて「れーくんは息整ってからでいいからね」と、後頭部に目が付いているかのようなことを言う。もちろんそれに賛同して、息が落ち着くまで待った。
それまでギルたちは水を掛けあったり、浮き輪に浮いていた。ギルはさっき見た通りドーナツの柄。詳しく見ればイチゴ味のチョコレートの上からカラフルな粒状の小さいものがまぶされている。下条はサメのヒレが付くかわいらしい浮き輪。もっと派手なものを選ぶと思っていたんだが。……サメも十分派手か。総務は半透明で夏を感じさせられる絵が描かれている。一番シンプルで見た目がうるさくない。
僕の息を整えるスピードが遅いからか、下条から早く息整えろなどと言われるがもちろん無視する。掛け合いはなぜか飽きないらしく、ずっとしている。盛大に水が飛び上がっては雨のように降ってくる。他人に迷惑のかかることはするな、下条。
下条よりはまだマシだがギルは、息を整えてプールサイドという安全地帯にいる僕に水を掛けてきて、目に入ったことで少し怒った。それに対してはいつもながらの「あはは。ごめんね」と反省しているのか聞いてやりたい謝罪をする。
息を整えたあと、ギルが気づかなければこのままレジャーシートの上でずっと座っててやろうかと思っていたが、体勢を変えたらギルから「あ、もういける? 冷たいから気をつけてね」と声がかかり、レジャーシートに居続けることは不可能だということは酷く理解した。
プールサイドの端に座り、足を浸す。冷たいが、外がこの暑さだと気持ちよく感じる。手でパシャパシャと上半身に掛けていく。体を冷水に慣らすわけではなく、ただ冷たくて気持ちいいからだ。ギルにはああ言われたが、入るつもりはさらさらない。
しばらくギルが笑う様子を見ていたら、泳ぎの競争をしようと言い出して、今スタートを切ってしまった。朝で人が少ないからいいものの、昼間だと無理だろうな。泳ぎ専用のエリアではないのだから。
僕が特に入る必要がないとわかれば、居座り続けた。レジャーシートに戻ってもよかったが、きっとここのほうが冷たい水に安全に当たれて気持ちよく過ごせる。
「…………」
本当、だろうか。ギルたちが泳いで戻ってきている様子を見て思う。
ギルたちが戻ってきたときにギルから「れーくんも入ろ!」と言われるが、この冷たい水が全身に触れるのが怖かった。学校での視線のこともあるが、顔に冷水が付くのが怖い。
「僕は……いい」
「……怖い?」
「…………」
怖い。けど、そんなこと言いたくない。人前で、弱音を吐きたくない。
「怖いならなおさら入ってみようよ! いつまでも逃げたらずっとなにもできないんだから。初めはみんな怖いから、れーくんが怖いと思うのも普通なんだよ。……入れる……?」
「…………」
小さく顔を縦に動かした。
頭にいくらか掛けたあと、ギルに手を引かれてプールへと足をつけさせられる。水深は胸上辺りまである。顔のすぐ近くに冷たくて息ができない冷水があると思えば今すぐにでも上がりたいが、それよりも冷たさに快感を覚えてしまったからか出ようとは思えない。ただここでじっとしていたい。
「大丈夫?」
「……なんとか」
「苦しくなったらすぐ言ってね」
それならもとから入らなければいいじゃないか。そんなことを思うが、きっとギルなりに考えていることがあるのだろう。
ギルが僕をじろじろ見た後に、プールサイドに上がって、僕の持ってきた防水バッグをあさり始めた。なにをしているのだろうか。言ったら僕が出すのに。
そんなことを考えていると、突然僕の名前を誰かが呼んだあと、肩を後ろから引かれて、状況を理解するときには水中にいた。
心臓をバクバクと高鳴らせながら顔を出して怒鳴る。僕の名前を「蓮」と呼んでいた。この中でそう呼ぶのは一人しかいない。
「いきなり沈めるのは本当にやめろ。昨日のことや夏祭りのことである程度は信頼しているとっ」
肩を叩かれる。
「れーくんごめんね。これ、持ってきたから使って」
手に持っていたのはゴーグルと僕の浮き輪だ。ゴーグル……。学校の水泳授業で使っていたことで、気持ち悪いことを思い出す。受け取るが、明らかに嫌な顔をしていたからか、「れーくん……? 顔……」と言い切らずに頭を撫でられた。けど、その撫でる行為がゴーグルに対してのことじゃないとすぐにわかる。
ギルがプールに入ってまず向かった先は、下条だった。僕らに聞こえないようにか少し離れて口を開ける。実際になにを言っているのかはあまり聞き取れなかったが、唯一「顔真っ青」とだけ聞こえた。
「あ、新藤くん、気分どう? 悪くない?」
あの単語は僕に対してのものだったらしい。
「構わない。本人は気づいていない」
ギルはいつも通りの優しい顔、下条は少しだけ顔色を曇らせて帰ってくる。
「よしじゃあ気を取り直していっぱい遊ぼ! 無理せず水分補給もしっかりしてね! れーくんしたいこととかある?」
そんなことを言われたって、学校の水泳授業で「プール=泳ぐもの」と植え付けられたから他になにをする場所なのかわからない。
「……なにもしない」
「んー、じゃあなにもしないかー……ってそれはなしなしっ! なんかしようよ! 総務さんとか真也くんなにかある?」
ギルが向きを変える。見える下条の顔はまだ曇っている。
「プールと言えば息止める遊びとか定番じゃない?」
息を止める……。
「あ、それいいね! さっきやったけど、今回はれーくんもいるからね」
息を止めるって、水中でってこと、だよな。
「ま、待ってく」
「じゃあよーいスタート!」
次々に顔を沈めてしまった。
本当に、この中に顔を……入れるのか……? 怖い。無理だ、そんなこと。けど、逃げてばかりでいいのだろうか。ギルはきっと僕の冷水嫌いを克服させようと今回のプールを誘ったに違いない。けど……。
もぐる気になれないでいると、足を突かれる。頬を膨らませたギルが水中からこちらに顔を向けている。すぐに優しい顔が貼り付けられたが、こんな優しい顔でも思っていることはきっと厳しいことだ。例えば早く入れ、なんて思っている。
もう、ここにいても意味はないからプールサイドに上がってしまおうかと考えていたら、ギルに手を握られる。僕の考えを読み取ったのか、逃げるなと言いたいんだろう。どんなテレパシーを持っている。
握られた手はゆっくり沈んでいき、僕を水中に誘う。目的はそれだったか。振り払おうとしても水中では空中よりも圧力がかかって、動きが遅くなる。手を強く引かれていて、空中に上げることもできない。
もうすぐそこまで冷たい水が迫っている。怖い。こわい。こわい……。
もう息を吸えるのも一回だとわかるほど入れば、一気に吸って目を瞑りながら水中にもぐった。入ったと言っても頭の上に水が触れていないとわかるが。
肩を突かれて目を開ける。いや痛い。ゴーグルをしていなかったからだ。こんなにも痛いのか。それでも薄らと開けて肩を突かれたほうを見れば、ぼやけながらだがギルが嬉しそうに笑っているのがわかる。
その笑顔はなにかと考えるうちに、吸う量が少なかったためか苦しくなって水中から顔を出した。……浮き輪の中に綺麗に入る。
肩から息をして息を整える。頭からポタポタと流れる水が鬱陶しくて髪をかき上げる。
僕……今水中に顔を付けたのか……? ……そうだ。顔を付けたんだ。……すごい……。
いや、こんなこと誰だってできる。なにがすごいんだ。全くすごいことではない。誰だってできる。僕だけができないんだ……。
浮き輪に手をかけて、上がってくるのを待つ。
「…………」
「はっ……。はぁ……はぁ……」
数秒後、総務が上がってきた。ゴーグルを下ろしながら肩を上げ下げして息を整えている。
「なかなか保つな」
僕が保たなさすぎなんだろうが。
「……う、うん。……意外と保ったよ。英川くんと下条くん、どっちのほうが長く保つかな」
「賭けるか。勝っても特になし」
「ふふ、そっちのほうがやりやすいよ。僕はね、下条くんかな」
「……ならギルを」
ギルを選んだわけは特にない。勝つのは現役のバスケ部のほうかもしれない。
少しの間待つと、上がってきた。
「ぷはっ……」
「っ……」
ギルと下条が同時に。
「……引き分けだね」
「……ああ」
勝敗は決まることはなかった。
個々で息を整える途中でギルが聞いてくる。引き分けとはなんのことなのかと。
「新藤くんとね、二人のどっちが長く保つかって賭け勝負を」
「それで引き分けかー。俺がもうちょっと保ったら、れーくん勝ってたのになー」
「……僕がギルに賭けたこと、聞こえていたか」
「ううん、なんとなく。真也くんと俺だったら俺に賭けてくれるかなーって。れーくん俺のこと好きなんだからー」
「勘違いするな」
「えへへへ」
んんっ……と一つ咳払いが聞こえる。総務のだ。
「イチャイチャするのは違うところでしてね」
「い、いちゃいちゃ……」
「僕を巻き込むな」
「んふふ」
そんなことより、水中で僕に向けたギルの笑顔はなんだったのか聞こうとしたとき、もうすでに話が変わって、ウォータースライダーに乗ろうという話になっていた。
ウォータースライダーなんてあったか? とぐるっと一周すると、大きくそびえ立っているスライダーを見つけた。あれのことを言っているのか……。本当に乗るのか……? 乗りたくない……。
「じゃあ早速行こー! ほら、れーくんも」
「いや、僕は」
「聞こえなーい。行くよ」
浮き輪に付く紐をぐいっと引っ張られ、強制的に歩かされる。本当に乗るのか……。 今から胸騒ぎがする。
ウォータースライダーの近くにある階段を上って、浮き輪置き場に並べて置くと数人が並ぶ列の最後尾まで腕を引かれる。
「……総務さんとれーくん。もしかして怖い?」
「……ぼ、僕は怖くないよ? ただ、あ、暑いなーって」
「へぇー総務さんは平気なんだー。れーくんは?」
「……言う必要ないだろ。乗らなくていいのであれば乗らない」
「あはは。れーくんっていつもそんな感じに言ってわざわざ俺のしてほしいことやってくれるよね」
わざわざ、を強調して言う。
「…………」
なにも言わずに静かに列から離れようとすれば、焦った顔のギルに腕を掴まれる。そう言ったギルが悪いんだ。僕がやらなくていいのであればやらないことくらい、ギルならわかっているだろ。特に僕が苦手とするものならばなおさら。
「じょ、冗談だよっ! 乗ろ? 絶対楽しいから」
「…………」
あの高く反り立つ斜面を見て乗りたいと思わないのだが。心臓が浮くような感覚を覚えてなにが楽しいのか教えてほしいほどだ。
並んでいるときに、ふと下条の腹筋が見えた。ものすごくというわけではないが筋肉の輪郭が浮き上がっているのがわかる。なにをしたらあんな筋肉ができるのだろうか。部活でだろうか。それともプライベートで腹筋を鍛えているのか。
どちらにせよ、僕と違って下条は努力をしているんだ。努力のしない僕が羨むものでも妬むものでもない。
「なんだ、蓮。俺の腹筋羨ましいのか?」
その下条の言葉ですっと視線を逸らす。
「……一瞬も思っていない。……ただ、なにかやっているのか気になっただけだ」
「俺バスケ部入ってるから、普段からの体力作りで学校終わってからも、部屋で腹筋とかスクワットとかしてるぞ。五十回だけだけどな。あと、休みの日とかは近くの公園で走り込みしてるぞ」
五十回「だけ」。一度でもいいから言ってみたい言葉だ。僕がすれば十もいかずに腹を抱えるに決まっている。
休日の時間を使って体力づくりをするなんて、相当バスケが好きなんだろう。僕も読書のためにならわからない語彙を調べる時間を取ることがあるから、それと同じ感覚なんだろう。
「大変だねー。俺も体力作りになにかやろうかな。特になにもしてないけどムキムキになるためにっ!」
腕を上げて曲げ、拳を作る。ギルの左腕は相変わらず白くて健康的な細さをしている。
順番がきて乗っていく。二人用らしく、ギルと僕、下条と総務で分かれ、じゃんけんで下条たちが先に乗ることに。下条は変わらず楽しそうな顔をするが、総務はどこか怖がっている。こういうのが苦手なんだろう。一種のいじめのような気がしてきた。
「押しまーす」
「おねしゃす!」
「うっ……」
下条たちが乗る浮き輪が押され、水流に乗って滑っていく。そして数秒後、楽しそうに笑う声と悲鳴のような叫び声が響いて聞こえた。一つは下条の声、一つは総務の声。
「……ギル、一人で行くか」
「行かないよ! れーくんも行くんだから。……なに? れーくん俺置いて逃げるの! 酷い」
「……針と糸を持っていないか。少しギルという奴の唇同士を縫いたいと思ったんだが」
「こ、怖いこと言わないでー!」
「次の方」
「あ、ほら次だって」
浮き輪に近づいて、恐る恐る浮き輪に乗り込む。そのとき足が滑って浮き輪にも乗らずに一人で滑っていきそうになって、さすがに焦った。一人では行きたくないし、なにも持たない生身のまま滑りたくもない。
「あはは、れーくん大丈夫?」
「では、こちらの取っ手をしっかり握ってください。途中で立ち上がる、手を離す等の危険行為はおやめください。……では、押しまーす」
「はーい」
「…………」
さすがに心臓が高鳴る。ここ最近で一番緊張しているかもしれない……。
浮き輪がゆっくり押されていくので唾を飲んで覚悟を決める。徐々に傾いていき、いきなり浮き輪の進む速度が上がった。
「っ……」
「ふぅー!」
僕は恐怖のあまり力強く取っ手を握っているというのに、ギルは楽しそうに笑っている。
トンネルを抜ければ、視界が広くなる。そして見えてくるのがこのスライダーのメインとも言える三角形のような形をした斜面。仮に点Cとした頂点が次の場所に行くためのトンネルがあり、そこへ辺ACと辺BCを交互に接しながら近づいていく。その時の浮遊感は酷く植え付けられ、今後忘れることはないだろうと思うほど。
そしてそれ以降、恐怖のあまり目を瞑っていてなにが起きていたのかはわからない。ただ最後にトンネルから出て瞼の外が明るくなって、浮き輪ごと飛び跳ねてスライダー専用に置かれているのだろうプールにドボンと落ちたことだけはわかった。
いつの間にか浮き輪に付く取っ手から手が外れており、僕は浮き輪から体が離れてプールに投げ出される。顔に冷水が当たって恐怖を覚えると同時に、早く呼吸をしたいという思いから投げやりに足を伸ばしたら、水中に顔が上がった。水中に顔を浸ける準備などしておらず、思いっきり鼻に水が入った。痛い。
「よいしょ……。れーくん大丈夫? ……ここ邪魔になっちゃう。あっちあっち」
浮き輪をスタッフに返したギルに腕を引かれて歩いていく。途中、区間を区切っているであろうコースロープをくぐって一度プールサイドに上がった。上がってもなお、ギルにどこかへ連れられるので黙って付いていく。
「…………」
鼻が痛い。こういった時、どうするのが一番なんだ……。
「あ、いたいた」
見上げれば、ウォータースライダーに乗る前に置いていた浮き輪置き場に下条と総務の姿があった。下条はものすごく笑顔で、総務は今でも泣きそうな顔になっていた。
「わわっ、総務さん大丈夫? なにかあったの?」
「ううん。なんともないよ。たださっきのウォータースライダーが怖かったのと……目をつぶり損ねて水が目に入って痛いだけ……。気にしないで……」
「そ、そっか……」
さすがに僕もフォローのしようがない。僕も乗らされて恐怖を植え付けられた身だ。多少の共感くらいしかできない。
「なんかずっと泣きそうな顔だとは思ってたけど、そんな理由だったのかー」
ずっと隣にいたのなら少しの心配をしてやったっていいだろ。友人ならなおさら。
ギルと下条がもう一度乗りたいとのことで二人で乗りに行ってもらった。総務は僕と同じくこういうものがあまり得意ではないらしく、僕と待つことを選ぶ。
個々の浮き輪を持ってレジャーシートのある場所まで歩くが、ずっと総務が目をこすって、前すら見ていないものだから人とぶつかりそうになって、そのたびに僕が肩を持って移動させている。まだ目の違和感が拭えないのだろう。
「このまま目洗い場まで行こうか。それとあまりこするな。僕が前まで連れて行くから目をつぶって少し我慢しろ」
「ご、ごめんね」
プールの入り口付近にあった水道まで総務の腕を引いて連れて行く。その間のずっと目に違和感があるようにこすりたそうにしていた。
上向きに水が出るように蛇口を調節させたら着いたことを言い、手を蛇口を握らせて場所を認識させる。水の位置まで把握させたら総務が気が済むまで洗わせる。
「新藤くん、ありがと」
「もう十分か」
「うん。たぶん充血してるかもしれないけど、痛くはないから」
確かに充血はしている。が、気が済んだのならいい。
レジャーシートに戻ろうと声をかけようと総務と顔を合わせる。
「…………」
「……なに?」
総務に違和感を覚える。なにかが違う……。なにかが足りない感じがする。
……そうか……。
眼鏡だ。普段から眼鏡をかけているから、なにもかけていない総務の顔には少し違和感を覚える。試しに首から下げられているゴーグルを目に当てる。……違和感がない。
「……えっと?」
「総務の眼鏡をかけていない姿に見慣れていなくてな」
「あぁ、さっきまでゴーグル着けてたから違和感なかったのかな」
僕の手からゴーグルを奪い、頭にゴムを通してゴーグルを付ける。
「違和感ない?」
「……ない」
が、今度は別の疑問が頭に浮かんできた。
「……少し気になるんだが、眼鏡をかけていなければ前が見えないのだろ。今も見えないんじゃないか」
「あ、ううん。今は見えるよ。このゴーグルには眼鏡と同じくらいの度数が入ってて、かけてたら新藤くんの顔もバッチリ。かけなかったらボヤケて誰の顔だってわからないけどね」
「そうか」
初めてゴーグルにも眼鏡と同じく度を入れられることを知った。特に目が悪いわけではないが、一つの疑問が解消されてスッキリした。
レジャーシートに戻って座り込む。にしても直射日光が厳しい。太陽の光が暑くてラッシュガードに付くフードを被る。総務は隣で水筒口につけて傾けている。
「新藤くん、きちんと水分摂れてる?」
「……摂れてはいないが必要ない。喉は渇いていない」
「そう。気が向いたときにでも飲まないと、この暑さだと倒れるから、気をつけ……よ。……暑いし、プールに入って待ってる?」
「……ああ」
……気に食わない。馬鹿みたいだ。けどきっと……。
「……顔になにか付いてる?」
「……強いて言えばお前の心情が」
総務は不思議そうに顔を傾けた。
浮き輪に乗って綺麗な青空を見上げる。疲れた。もうずっとこうしていたい。もう動きたくない。
浮き輪で水に揺られながら目を瞑ることが心地良いことに気づき、目を瞑ったままゆらゆら揺れる。人の声も不透明になってきた。
「……ふぁ……」
眠たくなってきたな。もうここで寝過ごそうか。そんなことを考えていたら頭に冷たい液体が掛かる。が、どうせそこら辺にいる人間が上げた水しぶきが掛かったんだろう。気にせず、眠りにつこうと思ったら今度は一寸もズレることなく顔面に直撃して、びっくりして飛び上がった。飛び上がったことで、水面に顔をつけそうになる。
水が掛かってきた方角に目をやれば、
「…………」
明らかに掛けたであろうギルが立っていた。悪そうな顔をしている。
片手には水鉄砲があったので、これで僕に水を掛けたんだろう。悪い奴に悪いのものを渡したのは誰だ。
「せっかく眠ろうとしていたのに」
「いやこんなところで寝ないでよ。危ないでしょ。てか遊ぶんだから寝ないでよ」
左様。
ギルたちが帰ってきたのなら、なにかと遊ぶ方法を探すだろうと思い、まだぐーたらできると思っていたが、もう決まっているらしく、「れーくん起きてー」と僕の腹に水が飛んできた。ギルが手に持つのは僕が買った水鉄砲だ。
なにをするのかとギルに顔を抜けるが顔面に水が飛んでくる。
「っ……おい」
「あはは、まあまあ落ち着いてよ。今からFPSするよ! あっちの広いところで」
ギルが指差すのは障害物があって人も少ない場所。そしてFPSとはファーストパーソン・シューティングゲームのこと。訳すと一人称視点の射撃ゲーム。射撃ゲームをするにはうってつけの場所だ。
射撃ゲーム。面白そうじゃないか。……べつにやりたいなんて思っていない。
「あ、れーくんもう立っちゃって、やる気満々じゃん。ルール説明はあっちに行ってからするから、とにかく行こ。総務さんと真也くんはもう行ってるから」
総務、さっきまで隣にいたのに。いつの間に……。
今度は、エリアが分かれているから立って移動しなければならない。浮き輪をレジャーシートに置いたらギルに付いていく。
朝に比べて人も多くなっているから、通るにも少し足止めを食らうときが来る。歩くのが面倒になってきた。
下条たちのいる場所まで来たらギルからのルール説明がされていく。
曰く、水が体に当たったらアウト。障害物を避けながら、あるいは盾にしながら相手に水を掛けに行く。後頭部、側頭部はありだが、顔面に当てるのは反則負け。そして他の人の迷惑にならないようにすること、だそうだ。
じゃんけんで僕と下条、ギルと総務で戦うことになる。先行はギルと総務だ。
「じゃあ、始めるぞー。レディ……ファイト!」
ギルは普段からゲームをしているからある程度こういったゲームでどう動けばいいのかわかっていそうだが、普段からゲームなんて皆無そうな総務はどうなのだろうか。場合によっては有利不利のある、つまらないゲームになりそうだが……。
案の定ギルが守りに入りすぎてつまらないゲームになっていた。そしてなかなか決着が付かなかったため、制限時間を設けた。結果、
「よしそこ!」
「っ……」
「……あれ」
同時に撃たれ、引き分け。
「総務さんこういうの強いの聞いてない……」
「そんなにだよ。あれは運だよ」
「そうかなー。……じゃあ次れーくんと真也くんね。よーい初め」
まだ立ち位置にも立っていないのにいきなり始まるじゃないか。それには下条も困惑しているようで、初めの合図がかけられたあと少しの間目をパチクリさせ、そのあとキョロキョロしては壁の影へと駆けていった。
その行動に下条もギルと同じように守りに入るかと思われるが、壁から腕だけを覗かせては水を飛ばす。が、僕のほうには一切飛んでこなくて、どれもギルに当たっている。ギルは優しい顔で見守っている。
あれで当たるわけはないだろう。そう思った瞬間にこちらに水が飛んできて、とっさに避ける。ダメ元で当たって終了するのは面白くない。なら、あの覗かせている腕だけを狙えば、少しは面白くなるんじゃないか。
下条の持つ銃口の向きに気をつけながら少し筋肉質な腕に銃口を向ける。この水鉄砲がどれほど飛ぶのか、どれほど精密に飛んでくれるのかわからないが、とにかく一度水を飛ばした。そしたら、
「……は?」
「へっへ。これが俺の作戦」
水を飛ばした瞬間に顔が壁から出てきて、それを顔で受け取った。ギルのルール上顔に当てるのはなしだ。それで不戦敗を狙ったのか……。卑怯だ。
降参の意を示すために銃口を下に向けた。が、すぐにギルから「今のはなしだよ! 真也くんそういうのは駄目だよ、ズルい! ちゃんと正々堂々戦って」と、お叱りを受けてさっきの顔面に当たったのは無効となった。まだ続けられるらしい。
もう早く終わらせてさっきみたいにゴロゴロしたい。そういう願いから下条のいるところまで駆けて、発射された水の弾を僕も撃って相殺し、下条の持つ水鉄砲を払い落とし、足で蹴って遠くへやる。下条がそれにつられて体の向きを変えるので後ろに回って、首に腕を絡ませ、下条のこめかみに銃口を押し付けた。
「悪いな」
引き金を引き、
「え」
下条の頭に水をぶちまけた。
「すごい……」
「れーくんすごい! かっこいい!」
ギルはこれで満足したようだ。
まだ動かない下条の代わりに遠くへやった下条の水鉄砲を取りに行く。僕にやられたことが相当ショックだったのか、こめかみに銃口を押し当てた体勢から姿勢が変わらない。
「どこも痛まないか。少しやりすぎた」
下条の手に無理やり水鉄砲を置いて持たせる。
「……どこも痛くねーけど……蓮すごすぎだろ。普段サバゲでもしてるのか? てかしてないとあんな動きできないだろ。俺が打った水、蓮も打って打ち消すとかチートだろ。なんも言葉出ねー」
これは楽しめたと受け取っていいのだろう。楽しんでくれたのならよかった。
「そのサバゲとやらはしていない。小説で似たような場面を読んだことがあって、それを真似ただけだ」
「そんな場面あんのかよ。ぜってーないだろ」
「あるんだ。探偵ものの小説だ」
ギルがさっきの場所に戻ろうと言うので素直に歩く。そろそろ本当に疲れた。少し休憩したい。
戻ってくるなりギルがなにか言おうと口を開きかけるが、先に休憩したいと言った。それには素直に了承してくれ、なぜかギルに水鉄砲で頭に水を打たれた。
しばらく日陰で体の疲れを癒す。僕がレジャーシートに座ってくつろいでいるのにも関わらず、ギルの他もくつろぐことはせずなにか話をしていた。偶然なのか故意なのか、少し離れた位置で話をしているから、なにを話しているのかはわからない。
ギルたちが戻ってきたら、そろそろ休憩も終わる頃かと覚悟する。
ギルが僕に向いてはなった言葉は、
「よし、れーくん泳いでみよ」
……は。
前々から計画していたような口ぶりだ。
「帰る」
傍にあった荷物を乱暴に掴み上げて、出入り口があるほうへと歩む。と、すぐギルに腕を掴んで引き止められた。
「ま、待ってよ。違うの、れーくんが嫌なら無理はしてほしくないけど、ちょっとだけ練習して、学校のプールで泳げるようにな」
「僕が嫌がることくらいわかるだろ。なんでそんなものを持ってきた。今回誘った理由がその目的なら、どうせ今までの遊びは僕が水に対する恐怖を克服させようというものなんだろ。もう、二度とそんなので僕を誘うな。僕は帰る」
「だから、嫌なら無理にはさせないって」
「『嫌なら』? そもそも僕が水が嫌いなことくらい知ってるだろ。今回も計画するときに僕を無理やりに連れ出した。僕の嫌か嫌じゃないかの意見はどうした。連れ出したことで僕にとっては『無理やり』なんだ」
掴まれた手を離そうとしても、強く絡まされているから離れない。
「ごめんね、俺が悪かったよ。お願い。泳ぐのはしなくていいから、一緒に遊ぼ……? 今日だけでいいから。せっかく来たんだし、いっぱい遊んで嫌な気持ちなくそ? そ、それに車で来る距離だから歩くと疲れるよ」
「帰る。タクシーでも捕まえる。だから離せ」
ギルを引き剥がそうと、ギルの肩を押して、胸を押して、気づく。こんな無防備な奴の体を地面にでも打たせたら、痛みも酷くなる。頭も打ってしまうかもしれない。ギルに傷をつける。
ゆっくり抵抗するのをやめ、視線を下ろす。
「……勝手にしろ」
「…………」
僕はギルの望むような行動をすればいいんだ。僕は、人が望む形をした道具であればいいんだ。そうやって、過去を乗り越えた。今もそう乗り越えたらいいんだ。
「あ、帰ってきた」
「……新藤くん、怒ってる……?」
「あはは、ちょっと機嫌悪くさせちゃったみたい」
「じゃあ泳ぎの練習するかー」
「あ、待って、しないの。れーくん嫌だからって」
「え、そのために蓮呼んだのに?」
やはり、泳がせるために僕を……。久々にギルに不信感を抱く。ずっとなかったのに。
それでも、ギルはいつまでも裏切らない。……そう言い聞かせる。裏切らないと言い聞かせないと、誰も信じられなくなる。なにもかも。
「……うん。……しないよ」
「でも蓮、泳げたほうがいいぞ? クロールくらいできたら溺れそうになったり、波にさらわれそうになったときも抗えるし。なにより、蓮の場合プールの授業が楽になる。一つでも泳げるようになったら吐くくらい嫌いなことを克服できるんだぞ? すっげー楽になると思うぞ」
「…………勝手にしろ」
「決まり。泳ごーぜ」
「…………」
この市民プールにはさっきまで遊んでいたエリアとはべつに、泳ぐ練習ができる場所があるみたいだ。そんな場所があるから、わざわざ車で行かなければならない距離にある市民プールを選んだのだろう。本当に、面倒なことをする。
荷物を持って、ギルの足跡を踏む。が、足は酷く重たい。
同じく屋外にあるらしく、一つ扉をくぐれば、見たことのある長方形のプールが見える。嫌な思い出が蘇ってきて、足を止めてしまう。手も足も震えてきた。
足の止まる僕に気づいたギルは無理をしていないかと聞く。無理をしているに決まっている。この震えが証拠だ。でも、ここで逃げたら、僕はいつになったら逃げない人間になれる? そう言い聞かせて、足を一歩一歩動かした。
泳ぎの練習をするにあたって、まずはどんな動きをしているのか見てもらおうということで、総務と下条が意気揚々とプールに飛び込んで泳ぎ始める。どちらも泳げて、すごい。総務に関してはフォームが綺麗で、どうしたらあんなに綺麗になるのか不思議なくらいだ。感心すると同時に、僕の泳げないというレッテルが際立って、見るに堪えなくなる。
「やっぱり総務さん泳ぐの上手だね。今もずっと習い事で水泳やってるみたいだよ。総務さん基本的な泳ぎはできるんだって。クロールとか平泳ぎとか背泳ぎとかバタフライとか、聞いたことない名前の泳ぎもできるって言ってたな。俺はクロールと背泳ぎしかできないけど。あはは」
……僕は……なにもできない。
ある程度の泳ぐ姿を見たら、まずは頭まで浸かって、息継ぎをするところから練習するように言われた。下条はまだなにか泳いでいるが、総務がコースをまたいで傍に来る。
「こう頭の上に手を置いて、頭の上が出ないように全部浸かってね、息をする時は水中で息を吐ききってから一瞬だけ顔を上げてパッて吸って、また水中にもぐる。見ててね」
頭の上に手を置いた総務は水中にもぐって、水面に空気の泡をぶくぶくと発生させ、一瞬だけ顔を上げたらすぐに水中にもぐった。
「こういう感じ。やってみて」
やってみてと言われても……。自ら水中にもぐれそうにはない。水上から水面を見たとき、いつもあの記憶が蘇ってきて、息ができなくなるんじゃないかと不安になる。殺されるのではないかと。
「…………」
「……れーくんは水と呼吸できなくなるのが怖いんだよね。なら、確か水中でも呼吸できるやつ貸し出しできたはずだから。借りてくるね」
プールサイドへ上がったらそそくさと扉に入っていく。水中でも呼吸ができるものなんてあるはずがない。水中は全て液体でできている。呼吸なんて……。
ギルが戻ってきて手にしていたのはシュノーケルだ。確かにそれなら呼吸ができるかもしれないが。
「これ使って呼吸しながら顔を水に付けてみよ! ゆっくりでいいからね」
ギルに聞いてきたらしい使い方の通りに装着する。本当に呼吸ができるのか……? 少し不安に思いながらギルに言われるがまま顔を水面に浸した。
呼吸ができる……。怖くない……かもしれない。
顔を上げて、結果を示す表情を作る。
「これあったらできそう?」
「……少し」
「じゃあ、息継ぎは一旦置いて、これつけながらまず泳ぎの練習しよ! 初めはクロールからね。総務さん、お願いしまーす」
「ふふ。はーい」
どんな泳ぎでも、まずは足の動きから形作っていくらしく、壁を掴みながら顔を水に付けて、クロールの場合は足をバタつかせることからだ。
総務から、足の形、足の力加減、角度を教わる。ただ、僕の筋力がないからか、すぐにうなだれてしまう。前提から僕には泳げないと言われている。
いくらか練習をして総務から合格が貰えたら次の段階に進む。その前にギルから水分補給はいいかと聞かれたが、要らないと答えた。まだ動ける。
次はビート板を使って浮きながらさっきの動きを水面でする。「ビート板」なんて単語を聞くだけで嫌悪が増すが、せっかく教えてくれているんだ。食いしばる。
進めてはいるが、あまり進まない。水底に描かれる線が少しずつしか動かない。そして足の疲れを覚え、立ってしまう。
「すごいよれーくん! 泳げてる!」
「足が疲れてくるのは、久しぶりに泳ぐからだと思う。形は綺麗だから、そのままの形でいてね」
それでも、こんなにも褒めてくれるのなら、もう少しだけ頑張ってみようと思えるものだ。
次は手の動きを付けていこうと言われたが、その前に下条から見てほしいものがあると訴えて、同じコースに入ってきた。
「いくぞー……これなんでしょーか」
顔を出したまま手を水面で必死に犬のように掻いて泳いでいる。……犬掻きか。
僕がわかると同時にギルが答えた。
「せーかーい。」
「おー。真也くん犬だ」
「誰が犬……あっ、ちょ……」
最後まで言い切らず、下条の頭は沈んで水中に入っていく。なにが起きたのかわからないが、とにかく引きあげようと一歩踏み出そうとしたとき、水面から顔を出した。訳を聞けば、
「痛ぇ……右足つった……」
らしい。水中でもつるのか。僕はつったことがないから、痛みがどのようなものなのかもわからない。
「つっちゃったのかー。痛いよね」
ギルはつったことがあるらしい。
「でもつったことないからわかんないだよね。どんな感じで痛いの?」
……ギルはつったことはないらしい。ただ同情しただけだったようだ。
「なんか……こう……痛い!」
……なにもわからない。
下条の芸が終われば、引き続き泳ぎの練習をしていく。今度は、ビート板を使いながら、手の動きも付けていく。これも総務がやり方を教えてくれた。
足や手の形が慣れてきたら息継ぎの練習に入った。やはり息継ぎとなれば息ができないという恐怖に煽られて、顔を曇らせてしまう。
それでもなんとか息継ぎをさせようと、水面に口まで浸けるところから練習し、顔全体を五秒ほど浸けて、パッと顔を出して息継ぎをするところまでできた。
「うん、上手だよ。じゃあ僕が支えるからビート板なしで息継ぎしながらクロールしてみよ。怖くなったらすぐに立ち上がって呼吸してね」
そう言われて総務に手を引いてもらいながらクロールをするが、
「はっ……はっ……」
次の息継ぎをするときまで息が続かない。息ができなくて怖くなって立ち上がってしまう。けど経験上、無理やり息を続かせようとずれば、呼吸に限界がきて無理に吸おうとして鼻や口に水が入ってきてしまう。口に入ったときは飲んでしまうくらいしか支障はないが、鼻に入ってきたときはものすごく痛くなる。
「うーん。息が続かないんだよね……」
少し困ったように、腕を組みながら確認する。教える側もそれなりに苦労しているようだ。教わる側がこんなので悪かったな。
「えっとー。……じゃあ、初めの一秒か二秒くらい息を吐かないってこと……できたりする? もしいけそうならそれで次の息を吸うタイミングまで保つと思うんだけど」
「……やってみよう」
そう言えば総務が手を差し出すので、総務の手を軽く握って顔を水に浸けずに体を浮かせる。体勢が整えば、顔も浸けて脚をバタつかせる。手の動きも加える。
さっき総務に言われたことを意識して、初めの数秒間息を止めていた。途中から息を吐いていき、腕を上げるタイミングで顔も息を吸うために斜め後ろを見る。その一瞬で得た空気をすぐに使い切らないように数秒間止めて、徐々に吐いていく。これは僕でもうまくいっているほうなのではないかと思えるほどテンポが良く、息も苦しくない。
少しばかり自信を持てた。練習しているのはクロールだけだが、それでも総務の支えありで泳いでいることに、泳ぐことができると錯覚して自信を持った。このままうまくやれば、クロールを習得できるかもしれない。
そんな自信がどこから湧き出たのか、さっきの僕に問うてやりたい。
うまくなってきたからと、下条が競争を申し出てきた。それには総務とギルがあまり乗り気ではなかったが、僕が受け入れたことでそれぞれのコースの位置に着いた。
今の僕なら総務の支えなしで泳げる。そんな自信がどこかから湧いてくる。そのため、始まる前に総務に支えは要らないと言った。そんな総務はプールサイドに上がって審判をすることになる。
ギルと下条は折り返しありの五十メートル。僕は二十五メートル泳ぐ。
「じゃあ……よーい、開始」
どんなタイミング泳ぎだすのかわからず少し出遅れる。それでもなんとか泳ぐフォームは作れた。何位でもいい。ただ最後まで泳ぎたい。そんな思いで手足を動かした。
どこまで進んだのかわからない。ただ、手足に疲れを覚え始める。足に力が入らない……。
ついには息継ぎのときに足も手も動かせず、顔を上げきれなくて口を開けたときに水が入ってきて、立って咳き込んでしまう。息をするために顔を上げて気づく。二十メートルも切っていない。二十メートルも切っていないなんて、今までやってきたことが無駄のように思えてくる。
正確に言えば十五メートル過ぎ。もっと言えば、約五メートルは蹴伸びで稼いでしまっているはずだ。だから十五メートル地点に立っていたところで、実際は十メートルしか泳げていない。
ギルたちはそんな僕を置いて泳ぎ進め、どうにかなって進行方向がこちらに向いて泳ぎだす。
「…………」
なにが最後まで泳ぎ切るだ……。足が動かない。またあの時と同じで体が動かない……。僕が勝負を受けて立ったのにも関わらず、ギルたちに少しくらい手加減してくれたっていいじゃないかなんて思ってしまう。……最低だとはよくわかっている。
僕がここで立つ意味はない。再び泳ぎ出す意味はない。
「新藤くんゆっくりでいいよー。頑張れー」
無理だ。怖い。誰かに、笑われている気がする。うるさい。黙れ。……こわい。
結局僕はいつまでも変われないまま、変わらないまま時を過ごすんだ。なにもできないんだ。逃げるんだ。
「…………」
僕だけができないんだ。
二人がゴールした頃にはプールサイドに上がって、膝に顔を埋めていた。僕はなにもできないんだ。総務が僕の心情を察してくれたのかずっと傍で背中をさすってくれていた。
「あ、れーくん。……どうしたの」
「うまくできなかったみたい」
「そっか。でもれーくん大丈夫だよ。初めはうまくできないものなんだから。どこまで泳げたの?」
「二十メートルくらい」
「二十メートルも泳げたの! やるじゃん! 大きな成長だよ」
過剰評価にすぎない。評価がいいように言われたほうが気分が落ちる。どうせ思ってもいない、ただ言葉で機嫌直しの薬にしようとしているだけに決まっている。うわべの言葉なんて聞きたくない。
ギルの薬を散々に浴びせられていると誰かの腹がぐぅーと鳴った。僕ではない、誰か近くの。
「あははは……。俺でーす。お腹空いちゃった。いい時間だし、ごはん食べよ! れーくんもいい気分転換になるよ」
腕を引かれて立たされる。食欲なんてない。ただ家に帰って寝たい。
足元を見ながらギルに腕を引かれてどこかに連れられる。
日陰に入った。鼻においしそうなニオイが入り込んでくる。ニオイに反応してか、一気に腹が空いてきた。顔を上げて、売店があることを確認する。いろいろ売っているらしい。
うどん、カレー、フランクフルト、ポテト、唐揚げ。うどんやカレーにはきつねうどんやカツカレーなど種類がある。
「あ、俺お父さんからお金貰ってこなくちゃだから、先に頼んでて」
僕の腕を離して、ピチャピチャと鳴らす足音が離れていく。両親のいる場所もわからないだろうから時間がかかりそうだ。先に頼んでおこう。
うどんが出てくる店前の列に並ぶ。
なにうどんにしよう。かけうどん、ざるうどん、きつねうどん、わかめうどん。……やはり、この中でならきつねだろうか。
順番がきたら温かいきつねうどんを頼み、金を払う代わりに手のひらサイズの長方形の機械が渡された。完成するまで少し時間がかかりそうだ。その間に空いている席を探そう。なければ地べたか立ち食いなんてことになるかもしれない。
飲食スペースはどこも日影になるみたいで、直射日光を受けながら食す必要はないらしい。
見渡してわかることが、四席はよく空いていて、二人や一人席は貴重であまり空かない。今も空くことがなさそうだ。仕方なく近くの四人席に陣取る。座ってから気づいたが、机を離して二人席を作ることができるらしい。が、面倒なのでしなかった。
目を瞑って待つ。機械が鳴るのを待っているのか、誰かを待っているのかはわからない。
ここまで約三時間ほど。その三時間だけでもかなり体力が持っていかれた。いつまで遊ぶつもりなのか、僕を泳がせるつもりなのかはわからないが、僕の体は昼食を食べたら帰ることを願っている。
機械が鳴って立ち上がるが、せっかく陣取ったテーブルを誰かに取られてしまうかもしれない。手荷物は大してない。防水ポーチなんてどうかと思うが、ポーチには金と鍵が入っている。どちらも大事なもので、テーブルに置いて誰かに取られるわけにはいかない。紙幣に関しては紙だから濡らしてしまう。中身だけ持っていくというのも無理だ。
ならギルたちが来るのを待とうかと思ったが、それだとうどん屋に迷惑がかかる。他になにか……。
「…………」
ラッシュガードのジッパーに手をかける。
ほんの一瞬だ。その一瞬だけ。誰も気持ち悪い僕の体になんて興味ない。誰も見ない。
歯を食いしばって鼓動を速まらせながら脱ぎ、テーブルに置く。脱いだら体を隠すようにしながら足早にうどん屋に向かった。
「あの人ほっそ」
「あたしより細くない? もっと痩せなきゃなー」
うどんを受け取ったとき、そんな会話がどこからか聞こえてくる。僕のことを言っている……のか……? いや、僕のことを言っているようにしか思えない。……怖い。
歩みを速めて、そそくさと声が聞こえたところから離れた。なんで脱いだ一瞬に限って……。
足早に戻り、ラッシュガードに素早く腕を通した。前も閉める。……この存在だけで安心する。
早速食べようとするが、気づく。箸を持ってくるのを忘れた。それにギルが一緒に食べようとか言っていた。僕の気分が悪いせいでギルを悲しませるようなことはしたくない。
箸だけ取っておこうと立ち上がる。取って戻るときに大きな声を出して口喧嘩しているらしい男性二人がいた。内容はなにが悪いやどうが悪いなど、なにかを非難するような内容だった。聞いていて少し胸が締めつけられる感覚を覚えるが、なんとなく今の気持ちを代弁してくれるような感覚にもなった。
テーブルに戻れば、どこか見たことのある髪色、体型、水着を着て、手に丼を載せた盆を持つ人間がキョロキョロと見渡しているのがわかる。そして、そいつと目が合えば嬉しそうな顔をしながらこっちに向かってくる。
「お待たせ。お父さんたちもちょうどごはんで、一緒に買ってもらっちゃった、あはは。あ、れーくんきつねうどんだ。俺も同じー。きつねうどんのきつね、おいしいよね」
「……そうだな」
「……どこか痛い? 大丈夫?」
「……気にするな」
ここへ着いた時から気分は悪いままなんだ。
「……それならいいけど……。真也くんと総務さんも列に並んでたからもうちょっとだけ時間かかると思うから先に食べよ。いただきまーす」
……いただきます。
僕は盆に乗る箸を持ってうどんを跳ねないように食べ始めた。ギルからも、すする音が聞こえてくる。
すごくおいしいわけでもすごくまずいわけでもない。可もなく不可もなく、だ。所詮公共施設の食事だ。もとから期待はしていなかった。
食べ始めて数分後、総務と下条がやってきた。それぞれカレーうどんとカレーだ。こんな暑いところでよく食べられるものだ。うどんを箸で掴み上げたら湯気が立ち込める。そういえば僕も温かいうどんだったな。
あまり食が進まない。
「……れーくん頑張ってたよ。だからあんまり落ち込まないで」
わざわざ箸を置いて、こちらに視線を向けてそう口にする。
「……べつに僕は落ち込んでいるわけではな」
「ううん。れーくんずっとそんな顔してる。どうせ心の中で『なにもできない』とか『周りはできてるのに、自分だけできない』とか思ってるんでしょ」
……思ってなんか……。
「初めはみんなできないんだから、そんなこと思わなくていいよ。できないからって挑戦するのを諦めちゃう人もいるけど、れーくんは頑張れてるの。だから周りはできてるのにとか思うんじゃなくて、自分だけがまだできないから、できるようになるまでの過程をたどれるって思ったほうがいいでしょ?」
ギルは生きていくうえでマイナスな考えの中からプラスの考えに変えようと努力した。だから今もこうして僕にその考えを伝授しようとしている。けど僕は、生きるうえでプラスの考えなんて頭に浮かべられなかったし、浮かべなかった。だから今もずっとマイナスな考えが常に存在している。プラスの考えもない。
ギルは本当にまぶしい。
「ほら、総務さんも水泳習ってたって言ってたけど、初めはできなかったでしょ?」
「うん、そうだね。僕が望んだ入学じゃなかったから余計に。でも嫌々やっていくうちにだんだんできるようになってきたよ」
「ね。みんな初めはできないの。どんどん練習したらできるようになるんだよ。れーくんは今その『できるようになる』ための練習をしてるの。もちろん総務さんとれーくんの学習能力も違うから、『できるようになる』速さは違うけどね」
……そう、なのか。いや、きっとそうなんだろう。初めは誰も完璧ではない。水やりを続けるから果実が実るのと同じだ。水やりという努力を続けるから成長という結果が得られる。僕は今までそれをやってこなかった。ずっと逃げ続けていた。だから今もできないままなんだ。
今回を機に、逃げないようにしたい。いや、しよう。もう逃げない。
誰だって初めは完璧にでき――。
「俺はすぐにできるようになったけどな。スポーツのことはほとんど」
「…………」
その下条の二言で胸にずっしりとしたなにかが乗りかかって、息がしづらくなる。同時に怒りのような、悔しさのような苦しさが湧き出る。
どこかへいきたい。そんな思いでガッと勢いよく立ち上がったとき、
「いっ」
「っ……」
僕の盆が舞い上がって目を丸くした。いや、その前に誰かの頭部が目の前に飛んできて、テーブルに頭をぶつけた。丼に残っている麺や具がテーブルや床に飛び散って、足に熱い液体が掛かる。
なにがあったか理解するのに数十秒と時間がかかり、理解したときには誰かの謝罪の声が聞こえた。
「さーせん!」
「…………」
声を出したのは頭部を投げた人、いやその頭部の持ち主を突き飛ばした人だ。それに覚え間違いでなければ、箸を取りに行ったときに見かけた喧嘩していた二人だ。一人は突き飛ばした人、一人は今もうずくまりながらテーブルに頭をぶつけて側頭部を押さえている人。
「れ、れーくん火傷してない? 他にどこか打ったり」
「していない。ありがとう。……お大事になさってください。うどんはもういいです。弁償もしなくていいです。……ただ、処理だけお願いします。……すいません」
「いやっ、こちらこそほんとすんません!」
優れない頭で優れない顔を作ったまま、席から離れる。が、当然のようにギルが追いかけて腕を掴んでくる。
「もういいの? 俺出すよ? 食べよ? ちょっとしか食べてなかったでしょ? ね、食べよ」
「要らない。……あれだけで十分だ。もう腹が膨れた」
そう言っても、不安げな顔をするギルは離れる素振りを見せない。心中で溜息を吐き、口を開ける。安心させる顔を貼り付けて。
「先に食べてろ。……なにか適当に買ってくる」
「……わかった。食べてるね」
嘘の言葉を吐いて、ギルを安心させるとともに遠ざけた。
誰かを傷つけてしまう前に。独りになればいい。
あれからどれほど経っただろうか。
あのあと、なにかしでかしてしまいそうな気持ちを落ち着かせるためにトイレにしばらく籠もった。こうするしか自身の抑え方を知らない。数少ない個室トイレにこもるなんていい迷惑だとわかっていたが、誰かに危害を加えるよりマシだとこもり続けた。……エゴでしかない。
感情に落ち着きを見せたら、これ以上迷惑をかけないと個室から、トイレから出れば、相変わらずの炎天下で強い日差しを浴びる。猛暑のせいで気分の落ち込みに加え、苛立ちも覚える。
目に映る景色はどこも楽しそうな笑顔だ。どこか憎く見えてしまう。……最低だな。幸せの象徴である笑顔を憎いと思うなんて。
そんな憎いと感じてしまう景色から目を背け、今こうして人が周りにいない壁を背にして膝に顔を埋めて座っている。ここが現状で最適地だ。他者の邪魔にならないし、心身も癒やせる。なんて素晴らしい。
「……はぁ」
くだらない。いっそのこと帰りたい。けど、ギルの見えないところで帰ったら心配させるだろうし、同時になんで帰ったのかと問い詰められて面倒な時間を過ごすことになるはずだ。僕的にもギル的にも帰らないほうが平和的だ。けど……帰りたい。
ふと真っ暗闇に飽きて顔を上げた。辺りが真っ白になったあと、風景に色を付けていく。トイレから出たあとと同じ風景しか広がっていない。憎めるが、真っ暗闇も飽きる。しばらく憎い光景を眺めることにした。
「ママーあっち行きたいー」
「まだ遊ぶの? もうすぐ始まるよ、あのアニメ……えっと……」
「それは――――っていう名前! いっつも忘れるじゃん!」
……今、会話が途切れたような……。
「ごめんね。どうする? もうか――」
「――――」
いや、気のせいではないようだ。少し籠もって聞こえて、正確に聞き取れない。
親子はどこかへ歩いて行ってしまう。向かう先は出入り口がある。
ここへ座り始めた頃と比べると、ずいぶん太陽の位置が変わって低くなっている。それでも日差しが強いことには変わりなく、直射日光で正直暑いというより痛い。もうとっくに乾いた髪は、真夏のアスファルトのように熱い。
それに眩しい。帽子が欲しい。……そういえばこのラッシュガード、フードが付いているんだった。思いだして被る。少しくらいの遮光ができそうだ。
ギルたちはどうしているだろうか。眠気がある頭を上げて見る。もちろん、そう簡単には見つけられない。知らない人間で埋め尽くされている。
「…………」
そろそろここにいるのも飽きた。本当に早く帰りたい。
それにさっきからなぜだか気持ちが悪い。気分が悪いのとは少し違う。胸の奥になにかがつっかえるようなそんな気持ち悪さだ。頭もいつからか酷く痛む。
なにが原因だろうか。座りっぱなしだからか? もしそうならばと一度立ち上がるが、
「っ……」
頭がフラッとすると同時に気持ち悪さが増し、目の前も暗くなっていく。思わずしゃがみ込んだ。……これ、きっと熱中症だ……。
今やっとわかった。どれも熱中症で起こる症状じゃないか。……けど、水分も栄養も摂らずに直射日光だった。なってもおかしくない条件のまま今までを過ごしていた僕が馬鹿なんだ。
……気持ち悪い。思わず口元を手で覆い隠す。
とにかく今は水分と涼しい場所に移動しよう。水分は……水筒は更衣室に置いてきた。なら、少し高いがすぐのところにある自販機で買おう。
壁に手をつきながら立ち上がり、やはり目の前が暗くなる。それでも壁に伝いながら向かおうとした矢先、伝う壁に人が集まってきた。僕より少し上くらいの騒がしい能天気ども。仕方がないので、壁から手を離して自立し、プール沿いに足を進める。
いつかに酷い貧血起こしたときくらい気持ち悪い。が、今回はまだマシなほうなのかもしれない。あのときはめまいとフラつき、動機のどれもが酷かった。そしてめまい故の吐き気もして収まるまでずっとソファに寝転んでは動けなかった。あれ以来、きちんと一日三食きちんと食べようと心がけたものの、一日二食の場合が多い始末。
自動販売機に向けてフラフラ歩いていく。前を見るのもしんどい。視界が歪んで酔いそうだ。それとも、もう酔ってるのかもしれない。ずっと気持ち悪いのは変わらない。
自販機を見つけた時はすぐ近くにあったように思えたが、実際はそうではないらしい。熱中症故に僕の歩幅が小さくなっているのかもしれないが。
人が前から来るのがわかる。それを避けようと横にズレたとき、なぜだかバランスが一気に崩れ、次に目を開けたときにはなにも見えなかった。いや、正確に言えば、体中に冷たい液体がまとい、耳からはなにも聞こえず、息ができず、視界が遮られていた。
立ちもせず、浮いている。徐々に沈んでは床に背が付く。僕は今、水中にいるらしい。そうわかっても体は動かすことができないし、脳は肺の換気を要する。なにも考えられない僕の頭はその要求に応えるために口を開けて、呼吸をする。が、もちろん入ってくるのは空気ではなく水だ。死んでしまう……。
抵抗しようとする思考とは裏腹に、瞼はゆっくり閉じられる。
腕を掴まれて、引かれている……? 訳もわからず抵抗しようとしても、力が入らずに指すらも動かない。
「――っしょ」
なにも聞こえなかった耳から、声が聞こえるようになった。殺されかけていた冷たかった水中から殺されそうな炎天下に引き上げられたらしい。咳を繰り返して、口からはずっとなにかの液体が出てくる。
「大丈夫ですか! しっかりしてください」
誰かの声。僕を助けてくれた人だろうか。どこかで聞いたことのある声……。誰だ? でもなにもかもどうでもよくなって思考は停止し、声も聞こえなくなる。むしろ籠って聞こえる。
体が浮いた。体側に人の体温が感じられる。温かい……。
「…………」
僕はどこに運ばれるのだろう。
肌全体に冷たい空気が伝う。瞼の外からは太陽の下にいるとは思えない光が差す。耳からは籠ることなく聞こえる、鼻のすする音が。
僕が今どういう状況で、どこにいるのかなんとなく想像できた頃、瞼を開けた。
「れーくん!」
言葉と同時に僕の体にギルが飛び乗って首に腕を巻かれる。この未来も想像していた。
「よかった、よかった!」
「…………」
ある程度の気持ち悪さや動悸がなくなったとはいえ、頭痛はまだしている。まだ起き上がりたくなく、視線だけ動かした。
「新藤くん、熱中症だって」
ギルの頭から顔を覗かせたのは総務だ。熱中症だなんて、とっくにわかっていた。
「ずっとどこ行ってたの!」
パッと顔を上げたギルの目には涙があった。今にでもあふれ出しそうだ。
「……どこ……。どこか」
「答えになってないじゃん! もう……ずっと心配してたんだからね! 案の定こんなことになって……。俺より頭いいのに、俺のためなら使ってくれるのに、なんで自分のために頭使わないの馬鹿!」
「……英川くん、言ったそばから矛盾してるよ」
「え?」
「…………」
そんなもの、僕が知っているものではない。僕はなにもできない無能だから。誰よりも劣っている人間だから。
ギルのあれこれと説教する言葉をそっぽを向いて無視していれば、視界の外から下条が現れる。いつもの能天気な顔ではなくて、なにかしでかしたような顔をしている。下条もこんな顔をするんだな。失敗した屈辱や羞恥心、劣等感も覚えたことのなさそうな下条も。
頭をかきながら僕の前に現れて、ゆっくり頭を下げる。……なんで。
「蓮、ごめん! ……ほんとに、ごめん。たぶんってか絶対蓮のこと傷つけた」
下条に傷つけられた……? いつ?
「謝罪の理由を答えてくれなければ、素直に許すことはできない」
「そ、その……すぐに泳げるようになってない蓮の前で、俺がすぐになんでもできるようになった……とか言って。俺、なんも蓮の気持ち考えてなかった。俺馬鹿だから、人の気持ちとかわかんねー。だから、ほんとごめん」
再び頭を下げる。
言われて思い出した。下条の発言によって頭で弾けそうななにかが弾けたこと。弾けて、誰かを傷つけそうになったこと。……あの僕の昼食をぶちまけた人、その人に助けられたな。事が起きなければ……僕はなにをしていたかわからない。
「反省しているのならそれ以上謝る必要はない。……もとはと言えば、なにもできない僕が悪いんだ」
「蓮はべつに」
「下条が構うことではない。事実だ。……僕もこの体は……」
捨てたいほどに嫌い。壊したいくらいに……なんて、こんな体を大切に思ってくれている奴の前で言えないな。
「笑ってしまうほど呆れている。さっきまで言われたことを忘れていたくらいだ。もうそのことは気にしなくていい。
ただ、僕はともかく、他の人間に向ける言葉は一度考えてから発言することだな。ギルや総務のような穏やかで怒りの感情も知らなさそうな人間でも、踏んでしまっては後戻りできない地雷があるんだ。言葉は簡単に出てくるくせに、その刃先は鋭い。人間は脆く、その刃物は簡単に貫けてしまう。人殺しになりたくなければ、気をつけろ」
ギルを大事に思うのなら、血を被ってほしくはない。
「ねぇお父さん、憶えてる?」
「うん、憶えているよ」
あのあと、泳ぎの練習を強制させられることはなく、水鉄砲やウォータースライダーなどで遊んだ。いまさら泳ぎの練習に抵抗がなかったからこそ、突然やめようというものには驚いたものだ。少なくとも「もう、しないのか」という不安か安堵のどちらを指すかわからない感情も出てきた。
「ギルー、それなんのことー?」
「えへへ、ないしょー。あとちょっと待ってね」
「なんだよー」
下条はもうすっかり元気になっている。あの時に本当に反省したのか疑うくらい明るくなった。謝罪をした時は初めて見る反省の顔色を見せていたが、今ではあんな楽しそうな声をしている。むしろ、あれくらいになってもらわないと僕的にもいづらいというものだ。
最後にギルの家のアルバムにでも納められるであろう、水着姿の夕空をバックにした写真を撮ってから市民プールをあとにし、車に乗って帰っているところだ。
さっきコンビニにも寄った。下条が服の下に水着を着て来たらしく、案の定遊び終えてクタクタのまま私服に着替えるときに気づいたみたいだ。なんとなく、予感はしていたが。
さきほどギルとギルの父親がなにか企んでいるような会話をしていたが、なにを企んでいるのやら。僕はもう帰って寝たいのだが。
「そういえば蓮くん、体調は大丈夫? 蓮くんが倒れたって着替えてるときにギルから聞いたんだけど」
わざわざ言わなくていいものを。窓の外を眺めるギルに視線を向けた。気づく様子もなく、相変わらずの笑顔だ。
「……はい。もうずいぶん良くなりました。ご心配をおかけしました」
「良くなってるなら良かった。もしまだ悪いようなら遠慮なく言ってね。気づかなかった私たちの責任で、良くなるまで面倒を見させてもらうから」
「いえ。お気持ちだけいただきます」
なにより、もしそんな理由でギルの家に上げてもらおうとすればギルが喜んで離れなくなる。
……ほら、こんな話をしただけでギルのほうから視線が絶えない。
「レンクン」
助手席から後ろに顔を覗かせたのはギルの母親だ。だがすぐにその顔は前を向く。酔いやすいのだろうか。代わりに拳が伸びてきた。なにかが握られてるらしい。
「アゲル」
言ってからそれを開いて見せる。これは……なんだ? 手に取って見る。飴玉……? 切るタイプの袋に入って、表面にデカデカと「塩分チャージ! これ一個!」とある。
つまりは熱中症対策に、とでも言いたいのだろう。礼を言ってそれを舐め始めた。今舐めなくてもいいとは思ったが、いい暇つぶしだ。……意外とおいしい。
「あ、そうそう。れーくん、あの部屋にはあの人たちが運んでくれたんだよ。あの頭ぶつけて、れーくんのあのうどん落としちゃった人」
代名詞がやたらと多いな。
「そうか。……けど少し言うのが遅くはないか。礼を言おうにも言えない」
「まあまあ。れーくんのうどん落としちゃったんだし、おあいこだよ」
なにがおあいこなんだか。
飴を舐め終えて、誰かの話し声をBGMに目を瞑って意識を朦朧とさせていれば、いきなり僕の名を呼ばれた。ギルだ。
「れーくん、起きてる? もうすぐ着くよ。スマホ以外持たなくていいからね」
なんとなくその言葉を聞き取った。だが、どういう意図の指示だ?
もう少し乗っていれば、どこかに曲がり動きが止まる。そしてエンジンが切られる音。どこかに着いたみたいだ。駐車場に屋根はないらしく、夕日の光が瞼の外から感じる。……が、今影になった。目を開ければギルが拳一つ分くらいの距離で僕を見ていた。
「……近い」
「えへへ。起こそうと思って圧かけてた」
普通に起こせ。
腕を引かれて車から降りて着いた場所、そこはケーキ屋だった。もちろん知らないケーキ屋。見たこともない場所。
「……あ、ここ知ってるぞ。いつも誕生日ケーキ買いに来てるとこ!」
僕らの次に降りた下条が言う。
「真也くんいつもここで誕生日ケーキ買ってるんだ! ここでケーキを買ってみんなで食べよーって行く前にお父さんに言ってたんだ」
誕生日ケーキなんて久々に聞いた。小学三年生に食べた……口に入ったのが、親からの誕生日ケーキを口にした最後の記憶だ。親、父親から無理やりに食べさせられた記憶。……まずかった。吐き気がして胃をさする。
ギルが僕の腕を引いて店内に入る。
扉をくぐった瞬間、ぶわっと甘いニオイが鼻に入り込み、思わず唾を飲み込む。次に冷房のきいた店内に気がつく。
ショウウィンドウにはホールケーキやカットケーキ、マカロン、クッキーが並べられている。
「ホールケーキかそれぞれ一人一つのこの小さいケーキか。どっちがいい? 俺はみんなに任せるよ!」
僕はなんでもいいな。カットであれホールであれ、大して変わらない。見た目の問題だ。
「えー? んー」
「ホールケーキをみんなで食べたほうが……味の共感とかできて楽しいと思うな……。ぼ、僕はね」
さすが頭のいい奴は、「えー?」とか「んー」とか言っていた下条とは違う。僕も悔しくも納得した。
結局多数決で決めることになり、僕が上げずとも〇対五でホールケーキになった。総務の意見でそうしたのか、もとからそうしようと思っていたのかは定かではない。
「じゃあ、どのケーキにする? いちごケーキ、チョコレートケーキ、フルーツケーキ、フルーツタルト――」
「ここはまず、誰かが食べられないものを除くべきだろう。あればだが。誰かなにかアレルギーや苦手なもので食べられないものはあるか」
ここで言わなければ知らないぞ、と心中で付け足した。が、あいにく誰もなにもないようだ。それならどうぞご勝手に、とギルにバトンを渡そうとしたとき、総務がなんだかソワソワしているのに気づいた。こんな総務を見るのは初めてで、すぐになにを言いたいのかわかった。
「総務。言いたいことがあるなら言え」
「あ……うん」
「総務さんなになに?」
「じ、実は僕グレープフルーツが苦手で……」
その発言で選択肢が消えてしまうから、言うのを拒んだのだろう。
「そうなんだ。んーじゃあ……。これとこれとこれ……これも乗ってないみたいだよ」
ギルはグレープフルーツを肉眼で発見できなかった、ショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブラン、チーズケーキを選択肢に上げる。総務はギルが選択肢を上げている最中、どこか申し訳なさそうにまたもやソワソワしていた。
「……で、でも頑張れば食べれるからべつに乗ってても」
「無理に食べても楽しくないよ。楽しむからこそおいしいんだから」
どこか自慢げに言う。ギルらしい。
「……ありがとう」
これも多数決で決めて結果はショートケーキとなった。ケーキなんて久々に食べるな。……いや、この前のギルの誕生日に食事の誘いを受けて食べたか。……僕の……その日にも、カットケーキを買ってもらってしまって食べたな……。まずくて味なんて覚えていない。
ショートケーキをギルの父親が買って車に戻る。奢ってもらったということになるので金を払おうとすれば、笑顔でギルに止められた。払うなと言いたいのだろう。そしていつの間にか財布を奪われ、帰るまで没収と言われた。お巡りさん、泥棒です。
盗られてはどうしようもないので、家に着くまで目を瞑っていた。
疲労のせいか、寝ていたらしい。今ギルに起こされた。起こされるなり、手を引かれて家に連れられる。もちろんギルの家だ。
ギルに引かれるがまま歩いたから、荷物を車に置いて出てしまったと言えば、ギルが取りに行った。曰く「れーくん目を離すとすーぐどっか行っちゃうんだから。家には帰らせないからね」と、図星を突かれる。荷物を取りに行くついでに帰ろうとしていたことがバレていたらしい。
ギルが帰ってくる前に、僕が座る目の前に皿が置かれる。ギルが帰ってきてないのに、ギルの父親は「どうぞ食べて」と優しく声をかける。下条や総務は一声かけて食べ始めたが、僕はもちろん食べなかった。僕の荷物を取りに行ってくれているのに、そんなギルを置いて食べるわけにはいかなかった。
「あ、そうそう。あのさ蓮。よかったら……連絡先交換しね……?」
いつもの能天気│面ではない下条に違和感を覚える。どこか不安や緊張を覚えている声や顔つきだ。プールであったことをまだ気にしているのだろうか。あれは僕が悪いと言ったのに。
スマホのロックを解除してチャットを開き、下条の前に差し出す。
「自分でやってくれ。僕は機械には疎いんだ」
不安を覚えた顔が一気に和らいでにっと笑う。やはり下条という能天気はこんな顔でないとしっくりこない。
スマホを受け取るなり画面をいじり、自分のスマホも取り出していじる。手際が良い。何度もこうして交換したことがあるのだろう。友人を作らない僕と違って、下条にはたくさんの友人がいるらしいからな。
「よーしできた」
「なになに? なにができたの?」
背後から聞こえたギルの声にビクリと体が動く。びっくりした。全然気づかなかった。
「蓮との連絡先交換」
「あれ、まだしてなかったっけ? でもこれでれーくんの『お友だち』が……俺と真也くんとあの子とあの人で四人になったね!」
「四人? ぼっちかよ」
ぼっちとは友人が一人もいない人間のことを指すと認知している。少なくとも僕はぼっちではない。
「ついでにヘンなアプリとか入ってないか見てやろ」
「好きにしろ。やましいものなんてない」
「腹立つー。その感じ見てもなんも出てこねーだろうから……検索履歴も見てやろ!」
「……ま、待て。そっちは」
「へー? れーくんやましいものがあるんだ?」
下条の手の中にあるスマホを奪おうと手を伸ばすが、ギルの「服にケーキ付いちゃうよ」と言う注意を受けて伸ばすのをやめ、下条の傍に行って奪い返した。危なかった。画面を見たときにちょうど検索履歴が開かれたみたいで、下条には見られていないらしい。
検索履歴には僕が最近調べたものが並んでいる。本のタイトルや作家、読書関連の検索が二割。単語の検索が三割。その他が五割。
『孤独感 苦しい』
『寂しい』
『最新ミステリー小説』
『偕老同穴 意味』
『虚心坦懐 意味』
『◯◯◯◯ 最新作』
『劣等感』
『冷水 怖い』
『プール なにする』
『裏切り』
こんな検索履歴、見られなくてよかった。特にギルなんかに。
「れーくんもやっぱり男の子なんだねー。うんうん。俺はむしろ嬉しいよ」
「……勝手に思えばいいが、ギルや下条が想像しているようなものは調べていない。個人的な調べものだ」
「じゃあ見せてくれてもいいじゃん」
「プライバシーの侵害」
ギルも帰ってきたことだし、ケーキを食べよう。遠くでギルや下条の文句を言うような声が聞こえるが聞こえないフリをした。相手にするだけ無駄だ。
淡々とケーキを食べる。ケーキ屋なだけある。クリームがおいしい。スポンジも弾力がある。いちごは少し酸っぱいが。
「あ、総務さんもれーくんと連絡先交換しない? 確か持ってなかったよね」
なぜギルが交換することを勧めるのかはわからないが、
「もう画面を閉じた。また今度だ」
「それくらいしてあげてよー」
ケーキをおいしそうに頬張るギルが言う。嫌だ、なぜなら面倒だから。そもそも交換の仕方がわからないと言ったはず……ギルはその場にいなかったな。
「んふふ。無理してまで欲しいわけじゃないから、また今度でいいよ」
「総務さん! れーくんを甘やかしちゃ駄目だよー」
甘やかされた憶えはないのだが。
「でも俺と交換したから蓮の連絡先、豊に送れるぞ」
「新藤くんいいの?」
「勝手にしろ」
あって困るものではない。それにこれでいつでも総務に頼める。ギルの勉強を見てもらうことを。ギルに顔を向けるが、後に見る地獄をわかっていなさそうに首をかしげる。
覚悟することだな。とことん頼んでやる。僕はギルに教えなくて済むし、ギルは総務から勉強を教えてもらえる。一石二鳥だ。
ケーキを食べ終えた。いいおやつだった。いや、もう夕食だな。今晩の食事はもう要らないな。
使った皿をシンクに持っていこうとすればギルに止められ、置いておけばいいと。言われた通り置いたままにする。
学校の授業の水泳は夏季休暇をまたいで複数回ある。つまり夏季休暇明けの体育の授業は水泳をすることになる。いつも通り見学しようと思った。更衣室に入ったあたりから胸の奥がぐるぐるとしだしていて逃げようと思った。
けど、もしギルがプールに誘った理由が本当に「授業で少しでも泳げるようにさせるため」だとすれば、プールでの出来事が無駄になってしまう気がして、学校指定の水着とラッシュガードを着て、プールサイドに出た。ギルはここまですることを望んでいるはずだ。
準備体操をする間も、先生からの指示を受ける間も胸の不快感は絶えず、気を抜いたら口からなにか出してしまいそうだった。けど深呼吸をして出さないように耐え続けた。
相変わらず周りは先を行き、僕はクロールの練習からだった。けどクロールはプールに行った時に練習したからか、体がまだ覚えていて数回立ってしまったが二十五メートル泳ぐことができた。それをたまたま見ていたらしいギルがプールサイドから声を掛けてくる。
「れーくんすごいよ! うまく泳げてたね!」
息を整えていて言葉は出ない。むしろなにを言えばいいのかわからない。ただ、やはり上を行く者からの言葉を受け取っても素直に喜べない。
ギルが悪い奴だなんて思ってなんかいない。心から優しい奴だ。けど、そんな奴の言葉さえも疑心を抱き、半信半疑で言葉を受け取ってしまう。どうせ、「すごい」「うまい」となんてこれっぽっちも思っていない。本当はそんなこと思っていない。そんな気がしてならない。胸の奥からその言葉を弾かれている。外面だけの言葉なのだと、誤認している。
「…………」
気持ち悪い。
「れ、れーくん?」
いくら誰かに褒められようと、本気の言葉ではないと思って仕方がない。特に、無能な僕よりも有能で先を行く人からの言葉なんていっそう。僕を貶しているようにしか、嘲笑しているようにしか思えない。
僕は周りよりも劣っている。その事実がなによりも考えをねじ曲げてはくれない。いつまでもこのままだ。
「――――!」
まただ。
またここにいる。ベンチに座って空を見上げれば、水が立つ音が耳に入ってくる。隣では応援する声。右手は温かい手のひらに包まれている。今度はその手を払いのけることはしなかった。
僕が悪いんだ。なにもできない僕が。無能な僕が。
この手を払い除けていいほど、僕には価値がない。息をする……価値なんて……。
「っ……」
肩に温かいなにかが触れられる。見ればギルの手だ。
「れーくんはなにかができない分、それ以外のなにかが欠けてることはないんだから、そのままでもいいんだよ。完璧な人はいないんだから、失敗することもあればできないことだってある。ね。だからあんまりを落ち込まないで」
完璧な人はいない……。きっとそうだ。きっと、この世に完璧な人間はいない。わかっている。人間は高性能ロボットではないのだから。けど、説得力のあるその言葉を僕の脳は肯定をしてくれない。
……こんな言葉すら肯定できない。
僕はなにもできない。
「早咲きの蓮華は地面咲いた」の四作目、「なにもない」を投稿しました。
初めに今作の「おまけ」もあるのでそちらもご覧いただけたらなと思っています!友人に高評価をいただけた食レポシーンがありますので、飯テロをされたい方はぜひ……!(そんな人いない)
今作は誰もが抱く「劣等感」についてのお話でした。劣等感以外にも、自己肯定感や自信、といった内容にも少し触れさせていただいています。劣等感は「他人」がいる限り拭えない感情です。また、自己肯定感や自信なども深く関わる感情です。
ぼくはある程度の運動音痴ではないにも関わらず、周りの視線が怖くて大きく体を動かす運動は特にできなかった苦い思い出があります。中でも水泳は視線関係なしに泳ぐことができなかったので、水泳の授業は苦痛でしかありませんでした。
ぼくのような経験がある方がこのお話を通して、少しでも共感を得ることができたらなと思っています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。どんな評価でも、ご感想でもお待ちしています。続きが読みたいと思った方はブックマークもよろしければ……!
ありがとうございました!