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それを望んだわけではない(2/2)

 スマホのアラームがうるさく鳴る。頭が動いていないからか、意味もなくスマホを投げ飛ばした。……なにをしているんだ。

 体を起こしてスマホを取りに行く。幸いフィルムに傷はついていなかった。普段はこんなことしないんだが、どうも病み上がりで頭がどうかしている。

 寝起きの頭によく響くうるさいアラームを消して、一度背伸びをする。起きたときに酷い頭痛も体に熱を帯びた感じもしないなんて、これほども楽なのか。

 今日は体調もいいし、学校に行くことにする。これ以上授業の│おくれを取りたくないのもある。それにもう熱もなく、軽い頭痛がするくらいだ。

 蒸し暑いなか、洗面所で水に当たるのは気持ちいい。だからといって冷水を浴びたいとは思わない。洗顔をして洗面所から出た。

 昨日白米を炊き忘れていたので、インフルエンザにかかる前に買った食パンを食べる。もちろん、パン類はあまり長く保たない。消費期限切れだ。だが僕の経験上、数日なら食べれる。あとになって腹を壊すなんてこともなかった。

 朝食後、部屋に戻って久しぶりの制服に腕を通す。最近暑くなってきたから適度に腕もまくくる。肘以上は出したくなく、半袖は着たくない。

 腕時計まで着けたら、椅子に座って背もたれに体を預ける。

 最近急に暑くなってきて、日中に冷房をつけるか迷うくらいだ。ギルや先輩といった来客がいる時はつけるが、僕一人だとためらってしまう。

 だからといって扇風機に当たり続けていれば血行不良を起こして、だるくなってしまうから夜間つけっぱなしでいるのもあまりよくない。電気代的にも。首振り機能があればよかったのだが、昨日か一昨日だったかに突然首を振ってくれなくなった。

 扇風機を味方に付けて暑さをしのぎながら、時間まで椅子を足で左右に揺らして待っていた。

 昨日ギルに明日から行けるようになるかもしれないと言っていたからか、いつも出る時間より少し早くにギルが家にやってきた。いつも通りインターホンを鳴らして。それを合図に扇風機と照明をきちんと消して玄関から顔を覗かせた。

「れーくんおはよっ!」

 僕がこの姿で出たことが相当嬉しかったのか、いつもより元気な挨拶をされて抱きついてくる。ギルの思いにも同情してやって引き剥がそうとはせず、僕は至って普通に返した。

「やっと一緒に学校行けるね! 俺嬉しい。えへへ」

「ほんとにだ。やっと学校に行ける。もう夏にインフルエンザは勘弁だ」

「それはれーくんがきちんと健康管理に気をつけてたらかからないから。っていうか、学校に行けるって、行きたいの? 俺はまあ、友だちと話せるからいいけど、勉強はしたくないよ。なによりれーくんがいたらそれだけでいいんだけどね」

「歩きながら話そう」

「あ、うん」

 久しぶりにギルと並んで学校へ向かった。

 数日家から出ないうちにずいぶんと暑くなったものだ。まだまだ夏は来なくていいのに。暑くて汗をかくのは嫌だ。

「れーくんべつに勉強が好きってわけじゃないでしょ? なんで行きたいって思うの? れーくんなんて俺以外の友だちいないし」

「べつに作ろうと思わないだけだ。……学校は勉強をしに行く場所であって友人と戯れる場所ではない。勉強が定着せずとも、高卒認定を得て将来に活かすんだ。最終学歴がなにかで給料も変わるからな」

「……なんか、すっごい現実的なこと言われて今異世界にいる感じするんだけど。……れーくんって考えお堅いからなぁ」

 知っている限りの事実を話しただけで異世界に飛ばされてしまったのか。確かにそういった現実的なことに向き合うことを楽しいと思える人間はあまりいないだろうが。

「れーくんってたまに昭和のおじさんみたいに考えお硬い時あるよね」

「昭和生まれのおじさんに失礼だ」

「まあまあ。でもそれくらいれーくんお硬いよ」

 本当に失礼だぞ。

「俺のお父さんと喋る時も()す《・》ま《・》す《・》って言うし」

「敬意という言葉は知ってるか」

「それくらい知ってるよー。警察の『警』に意欲の『意』でしょ? 馬鹿にしすぎね」

「…………」

 ギルのためにも黙っておいてやろう。

「でもさ、昔は俺のお父さんにもタメ口で話してたじゃん。なんで敬語になったの?」

 もう一度言う。敬意という言葉は知っているか。

「昔のれーくんはお父さんと喋るとき俺と同じ感じに喋ってたのに。……でもそう思ったらすごい喋り方変わったよね。昔のれーくんは今と違ってもっと命令口調で尖ってて、短い言「……さあな」葉で話してたイメージある」

「……さあな」

 命令口調……。直したいとは思っているんだ。

 たぶんその頃は喋ることすらも面倒臭く思っていた。もしくは、他人と喋りたくなかった、か。今の僕なら前者がたぶんその頃は喋ることほとんどだろうが。

「それに昔と比べてれーくんいっぱい笑うようになったよね。今はたまーにしか笑わないけど、昔はもっと笑ってなかったよ。でも俺昔のれーくんが笑ってくれた時はほんとに嬉しかったなー」

 憶えがある。ギルの間抜け面に笑った憶えが。その時は確かにおかしな生物を見るような目をしながら嬉しそうに笑っていた。けど、笑ってもすぐ表情をなくすから、それに対してはムッとしていたな。

「今も昔も普通の顔が無表情だけど、今のほうがなんだか楽そう。昔はなにも楽しくないって感じだったけど、今はただぼーっとしてるって感じの顔してる。……あ、れーくん止まって!」

 急なもので言われてから数歩歩いたあと止まる。忘れ物でも気づいたのかと思ったが違うみたいだ。僕の隣に来たらなにやら両の人差し指を立てて、それを僕の口元に当てる。

「なにをしている」

「これで、こうすれば……」

 置いた人差し指は無理やりに口角を上げられる。

「あはは、人の手で笑わせるのはなんかビミョー」

「……行くぞ」

「あはは、はーい」

 無理やり笑わせようとするな。


 いつもより早く着いて、教室はいつもより生徒が少なかった。真面目に勉強をする奴。読書をする奴。スマホをいじる奴。それくらいしかいない。

 ギルが自分の席に鞄を置いたあと僕の隣に立って、教室が静かで話せば目立つことも気にせず、さっきの話の続きをしだす。

「で、いけるでしょ! 絶対暇でしょ!」

「明日は部屋の掃除をすると言っている。あと声もう少し抑えろ」

「えー、れーくんは掃除しないよー」

 確かに面倒臭がりだが掃除する。どこの奴と勘違いをしている。

「どうしてそこまでショッピングモールに行きたがる」

「んー、れーくんの新しい服買いに行こうとおも」

「行かない。買うなら自分で買う」

「だって、れーくんのクローゼット長袖しかないんだもん。これからもっと暑くなるよ?」

 毎年これで過ごしていたのに、なぜ今年は特に気にしてくるんだ。確かに地球温暖化で年々気温が上昇しつつあるがだな。

「もっと袖まくって半袖に……」

 そう言うギル自身もまだ長袖シャツなのになんだ、と思いながら腕を引っ張りだして袖をさらにまくられる。

「あ、新藤くん?」

 ギル以外に名前を呼ばれる相手なんていたか、と思いながら呼ばれたほうに目を向ければ、

「……誰だ」

 さっきまで教室におらず、今教室に入ったらしい奴が僕の席の近くに来た。見覚えはあるんだが。

「もーまた忘れてー。垣谷豊くん。総務さんだよ。なんでそんなに覚えられないの?」

 悪かったな。覚えられなくて。だが、覚えたところでどうせ五年後には忘れている。

「……いたな」

「ひど。憶えてあげてよ。おはよー総務さん」

「おはよ、英川くん。新藤くんも」

「……ああ。それで、なんの用だ」

「うん。ずっと休んでたから心配で」

 心配か。心配されるほど総務と仲を深めた憶えは全くないんだが。クラスメートなら普通するものなのか? 小学校中学校と、ギル以外と関わらないようにしていたから普通がなにかわからない。

「心配ありがとう。だが僕はよく体調を崩すからあまり心配する必要はない」

「……れーくんそれ逆じゃない? よく崩すから心配するんじゃん」

「…………」

 考え方は人それぞれだ。

「新藤くんってよく体調崩すんだね。体調管理には気をつけてね」

「ほんとだよ。俺からも気をつけてよね」

「……気が向いたら」

「もーそうやってー」

「んふふ。あ、僕職員室に用があるんだった。じゃあ僕はこれで」

「うん。またね」

 総務がこちらに顔を向けなくなったらギルの手が下ろされ、教室から出たら話し相手が僕に戻ってくる。

「で、明日! 行こうよ!」

 総務との会話を挟んだからもう忘れているだろうと思っていたのに、まだその話の続きをするのか。

「そもそも明日は学校だろ」

「……足疲れてきたな……。椅子、借りよ」

 誤魔化した。

 僕の前の席の椅子を勝手に借りて引きだす。そういえば、進級したばかりはこんなこともできていなかったな。成長したものだ。

「いっ……」

「…………」

 ギルが座るまでは休憩時間だと思って、口を動かすのを休憩していれば、突然持っていた椅子から手を離す。どうやら椅子を引きだす時、僕の机と椅子に指を挟んだらしい。

「大丈夫か」

「うん……ちょっとヒリヒリするけど大丈夫だよ、あはは」

 ひらひらと揺らす右手の人差し指が赤く染まるのは、色白の肌にはよく目立つ。痛そうだな。

「冷やしておいたほうがいいんじゃないか」

「いや、大丈夫だよ。全然痛くないし……あはは」

 今のこの気持ちがいつもギルが僕に対して心配する気持ちなんだろう。同時にどうにかしたいという思いがある。

「保健室に行こう。時間はまだある」

「え、え、ちょっと」

 返事を聞く前に左腕を引いて無理やり保健室に向かった。それでも引かれるがままに付いてきてくれる。

 僕が保健室に連れ出されるのはよくあることだが、ギルを連れ出すなんてことはあまりない。去年、熱があるのに無理して体育を受けていたときに連れ出したくらいだ。あのときは体育になって動くたびにフラつきを見せていたから気づけたが、体育がなかったら気づけなかった。

 歳が上がってからのギルは隠すのがうまくなってきているからな。僕も気つける能力を上げなければ。

 保健室の扉を二回ノックして開ける。

「先生、ギルが指を挟んだので……」

 保健室をぐるっと一周見渡すが、先生の姿はないみたいだ。代わりに、

「……は?」

「よぉ」

 二度見して存在を認知したのは、堂々とベッドに寝転んでいる先輩の姿だった。微動だにしなかったから背景と化かしていて気づけなかった。

 ギルを背に隠して当然のように先輩がいる理由を問う。

「なんでって、サボり?」

 一限目からサボるなら学校に来なかったらよかっただろうに。

「まあいいです。保健室の先生がどこにいるか知りませんか」

「せんせーはいなかったなぁ。だからこうしてサボれてんだぁ。で、そのギルって子がどうしたって? 俺がやってやらぁ」

 よく憶えているな。あの一回口を滑らせてしまった時に言ってしまっただけで。

「僕がやりますので、大丈夫です」

 入り口の隣にある長椅子にギルを座らせ、袋と氷を探す。適当に引き出しを開けていくと、何枚もの袋が入った箱があったのでその袋を一枚取り、冷蔵庫から氷を袋に入れていく。わかりやすい場所にあってよかった。

「手際いいなぁ。君もしや常連か?」

「常連じゃないです。常連にしないでください」

 と言っても、ギルよりかは来ている。ついこの間も来た。去年もお世話になった。……僕は常連か?

 適当に氷を入れたら袋を縛ってギルのもとに行く。まだ肌は赤く染まっていて、左手で包むようにして置いていた。

 未使用のハンカチを下に敷いたまま袋を差し出すと、両方とも受け取って患部を冷やす。

「とりあえず今日はできるだけ冷やしておけ」

「うん」

「ふっふっふ……」

 いきなり奇妙な笑い方をする奴がいると思ったが、今ここでそんなことをする奴は一人しかいない。声に振り向けば、僕の後ろに立っていて胸の前で腕を組んでいた。初めて見る先輩のスカート姿。

「俺が診てやろうじゃ」

「ギルに触らないでください」

「まだ触ってねぇし? 即答やめろ」

 床にあぐらをかいて座り込んでたから、先輩の女性らしい太ももが目に入り、しかも内腿にホクロがあるのを見つけてしまい視線を逸らした。女は本当に強い。これに心臓がバクバクと高鳴っているのも、視線を戻そうとした僕の思考もどうかしている。

 もう視線を戻そうとしないためにも立ち上がって、ギルを守るように先輩の前に立つ。

「せ、先輩は早くホームルームに行ったらどうですか。もうすぐ始まると思いますけど」

「それは君たちだってそうじゃねぇかよぉ」

「僕らは保健室の先生に用があるので」

 かといってこのまま帰ってくるまで居座るつもりはないが。僕は授業を受けたいんだ。

「俺はバレるまでここにいらぁ」

「勝手にしてください」

 ここでタイミングを図ったように、保健室の先生が扉から出てきて僕らを見つける。

「新藤くんと英川くん。いらっしゃい。どうしたの?」

「ギルが指を挟んでしまって、氷をもらいに来ました。いなかったんで勝手にさせてもらいました」

「そう。英川くん、ちょっと見せてくれる?」

 僕と場所を代わって先生がギルの患部を見る。そういえば先輩はどこ行った。

「……今日のお昼休みにもまた来てくれる? 様子を見たいわ」

「うん。わかった」

「じゃあ、もうホームルーム始まるから。……英川くんって左利きだったわよね。あんまり動かさないようにね」

「うん」

 先生にも見てもらったことだし教室に戻ろうとするが、先生が思いだしたように「もう一人いると思ったんだけど」と呟いた。確かに廊下には僕とギルの靴の他にもう一つあるはずだ。なぜなら先輩がいるから。

 先生とギルは気にせず個々に移動するが、僕は先輩はどこに行ったのかと保健室を見渡してみる。案の定さっきまで開いていたはずのカーテンが閉まっていた。

「れーくん?」

 扉から出ようとするギルに少し待っててくれと手のひらを見せて合図をし、そのカーテンの中を覗いてみた。覗けば布団に身を包めている誰かがいることがわかる。先輩だろう。

「新藤くんどうしたの、カーテンなんか開けて」

「先輩がここにいます」

「先輩?」

 先生が│そばに来るので、大きくカーテンを開ける。僕が勢いよく布団をめくれば、先輩が「げっ」と言葉で書いたような顔で出迎えた。すぐに「なにしてくれてるんだ」とでも言いたげに僕を睨んでくる。

「あ、またこんなところでサボって」

 僕を保健室の常連扱いにしたくせに、先輩のサボりは常連らしいじゃないか。

「こんなところでサボってないで(いずみ)もりさんも行ってきなさい?」

「差別、すんなよ……」

 僕はその一言で、先輩がなにを言いたいのかわかった。先輩の事情を知っているからこそわかるしかなかった。

「差別?」

 一部の先生はよくこう言う。男なら姓名の後ろに「くん」。女なら姓名の後ろに「さん」。これは男女が明確にされている。簡単に言えば先輩は女だが、男になりたいらしい。そんななか女だと言っているように姓名の後ろに「さん」を付けるのは根元から否定されてすごく嫌らしい。

 それで男女を分けて姓名の後ろに「くん」や「さん」を付けるのは男女差別に値するのではないか。そう言いたいのだろう。

「せんせーはさ、知ってんだろ。俺が男じゃないって」

「そうね。発育測定とかで知るし」

「なんで俺って言ってるのかわかんねぇのか。……俺は男がいいんだ。男になりたいんだ。だからこうして一人称を俺にして、口調も髪型も、男のようにして……。なのに、お前も含む教師の呼び方で、俺が男じゃないって完全に否定されてんだ。それがどんだけ苦しいかわかんねぇのか」

 僕はその気持ちはわからない。が、なんとなくはわかる。人それぞれ苦しいことはある。先輩の場合、これだ。

「俺は俺が生きたいように生きる。お前らに縛られたくはねぇんだよ」

「……その気持ち、なんだかわかるな……」

 声を聞いた時、グッと後ろから服を│つかまれる。いつの間にかいたらしい。僕の背中で頭を埋めていることがわかる。

「俺は日本人だって思ってるのに、見た目のせいで全部違うって言われて。みんなそれぞれで中身なんて知らないと思うけど、外見だけでなにもかもを決めるのは違うよね。

 俺は日本人ってこと否定されたくないから他の人のこと否定しないけど、みんな俺を否定する……から……」

 声を出さなくなったかと思えばより強く服を引っ張って、泣く声が聞こえだす。ハッとしてギルに顔を向ければ強く抱きしめてきて、それに応えて僕も頭に腕を回した。

「……私はあなたの気持ちを完全にわかったとは言わないけど、一度先生方と相談してみるわ。気持ちを伝えてくれてありがとう。一応、あなたはどう呼んでほしいの?」

「……『くん』か……呼び捨て」

「うん。わかったわ泉森くん」

 ギル以外の鼻をすする音が聞こえたかと思ったら、それは先輩かららしい。目に涙を添えて、でも口元は笑っている。

「あぁーなんかすっげーすっきりしたぁ。久々に授業出てくらぁ」

 涙を袖で拭いたら立ち上がって扉がある僕らのほうへ近づいてくる。すれ違い際に、小声で話し掛けてきた。

「放下後、屋上な」

 振り向いた時には先輩の姿はなかった。足の速い奴だ。

 ……放課後、屋上か。屋上は入ってはいけないところなんですが。

 けど、僕も悪い奴だから何度か入ったことがある。文化祭の準備をサボるときや、どうしても一人でいたい時などに。

 放課後なにが話されるのかと考えていたが、先生の「英川くんはどうする?」という言葉に今の現状を思いだした。ギルはまだ僕の腕の中で泣いている。

「ギル。授業は受けられそうか」

「…………」

 自分の泣き声で聞こえていないのか、返事はない。けど、こんなに泣いていたら泣き終えた時に鼻声だとか目が腫れているとか、少し目立ってしまうだろう。

「ギル。……ギル、聞こえるか」

 小さく頷いてくれる。

「少し保健室で休もうか。気持ちが落ち着いたら授業に出ればいい」

「……う、うん」

 そう返事してくれてよかった。

 先生に目を向ければ優しく頷いてくれる。

「ベッドに行こうか」

「…………」

 言っても手を離してくれない。仕方なく僕がバックしながらベッドに近づいて、ベッドに足が当たったことを合図にギルと場所を代わった。ゆっくりと座らせるが、座っても手を離してくれずギルの後ろに手を付いた。

「英川くん、新藤くんも授業があるから、ね」

「いえ。……構いませんよ」

 ギルが泣いた時に離してくれないなんてことは過去にも何度かあった。ギルが気が済むまで泣いて服を引っ張って心を落ち着かせたらいい。

「……ぬいぐるみあるけど、使う?」

 先生から言われた言葉には強く反応を示して、パッと顔を上げた。その反応を見た先生が、後ろのぬいぐるみが座っている机から胴くらいの大きさのぬいぐるみを一つ持ってきて、ギルに渡した。渡してからは僕の背中に腕を回す代わりにぬいぐるみの背中に腕を回す。

 ぬいぐるみに顔を埋めているギルの頭を軽く撫でた。

「では、お願いします」

「任せてくださいな」

「ギル、じゃあな」

「うん……」

 ギルが僕のことを見ているというわけでもなかったが、もう一度軽く頭を撫でたあと優しく微笑みを作った。

 保健室の扉の前で先生に向けて一礼し、保健室をあとにする。ちょうど出た時にチャイムが鳴る。これが予鈴なのか本鈴なのか、一限目が始まるチャイムなのかわからないが、急いだほうがよさそうなのは確かだ。

 後ろの扉から教室に入れば、もう一限目が始まっている様子で、教卓には歴史の先生が立って、なにか話していた。扉を開けた音で僕が教室に入ったことに気づかれる。

「新藤さん。どこに行ってたのですか」

「ギル……英川を保健室に」

 先生はギルの机に一度目をやる。

「そうですか。早く座って授業の用意をしてください」

 怒られなくてよかった。保健室に連れて行っていた場合は怒られないみたいだから、今度似たような場面に遭ったらゆっくり歩こう。


 ギルは昼休みに帰ってきた。購買で買った焼きそばパンを開けたとき、ギルがおいしそうと後ろから言ってギルの存在に気づいた。

 一時間程度で昔の傷が癒えるわけがないとわかっていたから、休憩時間に様子を見に行くことはしなかった。ギルの場合、泣き寝入りは当たり前だからぐっすりだったんだろう。

「……ギル。もう大丈夫なのか」

「うん、ありがと。それよりお腹空いちゃった」

「一緒に食べようか」

 ギルは弁当箱を持ってきて前の席の椅子を借り、今度は慎重に椅子を引いて座る。

 そして一緒に手を合わせる。

「いただきまーす」

 いただきます。

 開いている焼きそばパンの袋を持ち直して一口頬張る。いつもは弁当だが、病み上がりに作る気力なんてなかったから作ってこなかった。だから弁当を開けた瞬間にギルにつまみ食いされることもない。

 購買はいつでも開いているから昼食時に競争になることはない。それでも並ぶときは並ぶので先に買っておいた。並ぶのが面倒で昼を食べないのは愚にもつかない。

 購買では焼きそばパンの他にメロンパンとパック状のリンゴジュースを買った。メロンパンはあるときとないときがあり、今日は珍しくあったのでつい買ってしまった。

 焼きそばパンの焼きそばを落とさないように食べていく。久しぶりの焼きそばパンはおいしい。

「朝からずっと寝ちゃってたな……。あとでノート写させて」

「……それか今日、僕の家に来ないか。僕が休んでた時のも写したい」

「うん、俺もれーくんの家行きたいから行く!」

 翌日が休日じゃない日にはギルが泊まりたいと言わないでくれるから、安心して家に招ける。ギルのほうで予定がなければ、いつでも泊まりたいと言うからやすやすと招けない。

 ……そう言えば先輩から放下後、屋上に来てほしいと言っていたな。忘れないうちに言っておこう。

「帰る時、図書室で待っててくれないか。少し約束していることがある」

「うん。全然いいよ。はい、れーくんあーん」

 弁当を皿にしながら箸で掴む唐揚げを口元まで運ばれる。

「…………」

「俺が作ったんだ」

 ギルが作ったのなら……。そう思って口を開けたら中に突っ込んでくれる。甘だれの唐揚げか、初めて食べる。おいしい。

 よく噛んで感想を言おうと口を開けるが、先に「嘘だよ」という声が聞こえた。

「…………」

「あはは、俺が作ったって言ったら食べてくれるかなって思って。あははは。どう? おいしいでしょ? お母さんが奮発して作ってくれたんだー」

「もうギルのことは信用しない」

「あははは。もーそんな怖い顔しないのー」

 箸を握らない手で軽く頬を掴まれる。

「おいしかったとは伝えてくれ」

「あはは。はーい」

 簡単に騙されてしまった。今度からは騙されない。きちんと断ろう。

 掴まれていた頬を離してくれたとき、右人差し指に巻かれる包帯を見つけた。氷は置いて来ているらしい。

「指、まだ痛むのか」

「え? ……あぁ。まだちょっとね。でも全然痛くないから大丈夫だよ」

 今度は箸を持っていた人差し指を伸ばして口角を上げられる。そんなに僕の顔で遊んで楽しいか。

 もしギルが右利きだったり怪我をしたのが逆の手だったら、箸を使えずに弁当を食べられない。となれば利き手ではないほうで食べるか、僕が食べさせるか、そんなことになっていたのだろう。

 そんなことを考えているうちに焼きそばパンを食べ終わった。リンゴジュースを開けて数口飲む。リンゴジュースはいつ飲んでもおいしい。リンゴは僕の口にとてもよく合うらしい。

 今度はメロンパンを半分にちぎって食べ始めた。

 この感じ、ギルは五限の体育の水泳授業は参加できなさそうだな。いや、頑張ればできそうだが、悪化はしてほしくない。

 ……プールや水泳なんて言葉を脳に浮かべるだけで、息苦しくなる。

 水泳は初めの数回は授業に出た。が、あまりにも泳げなくて挫けてしまって、見学を続けるようになった。けど、見学をしているからといっていつまでも他人が泳いでいる様子なんて見られなく、ただ日陰でなんとか暑さをしのいでいるベンチに座って、上で流れる雲をずっと見ている。あの時間はそれくらいしかできない。

「次の体育無理かなー」

「水圧に逆らうのは危険だ。約一トンの水圧を受ける。やめておけ」

「一トン! そんなに? 一トンはちょっと怖いなー。見学かー。あ、でもそれなられーくんと喋れるからいっか」

 ポジティブだな。

「と言っても、見学するのはくそ暑い。目の前に冷たい水が大量にあるのに、浴びることができないだなんてな」

「そうなんだよねー。プールがあるから夏の体育でも生きていけるのに、なかったら干からびちゃうよー」

 半分メロンパンを食べ終えたらリンゴジュースを飲んでいく。ずずずと空気を吸う音が混じったら容器を傾けて最後まで飲む。

 もう吸えなくなったら、置いてあった半分残っているメロンパンに目を向ける。まだ弁当を突ついているギルをちらりと見て、袋に手を置いた。

「ギル、これ要るか」

「……れーくんは食べないの?」

「もういっぱいだ」

「もー。えへへ。じゃあ貰うね」

 さすが僕と長い付き合いの人間だ。ギルにあげようとして残していたことはもうバレているんだろう。

 弁当の蓋を閉じてからおいしそうにメロンパンを食べるギルの姿を見ていれば、いつの間にかメロンパンはギルの胃の中に。

「おいしかったー。ごちそうさま。メロンパンありがとね」

「たまたまだ」

 ギルが弁当箱を鞄に入れに行くようなので、僕はパンとジュースのゴミを捨てに行った。昼になるとゴミ箱はこういった飲食物のゴミで埋まる。パックのジュースはそのまま捨てられることが多いが、かさばるから僕は畳んで捨てている。

 教室内では、まだ弁当を食べている奴の他に、机に向かって塾の宿題やらをやっている奴や、友人らしき人間と駄弁っている奴もいる。ギルが戻ってきてから僕らも駄弁る。

「着替えるのって十五分からだよね」

「確か」

「もうすぐだ。プールって見学するとき体操服だよね」

「ああ」

「学校に先週置き忘れてたんだよね。助かったよ。ちょっと臭うかもしれないけど……あははは。でも大丈夫、他の人が臭く思わないように端っこにいてれーくんの近くにしかいないから」

 つまりはベンチの端にギルが座ってその隣に僕が座れば、他の人が臭い思いをしないというわけだな。僕は嗅覚が鈍感な人間とでも思われているらしい。

 貸せるなら貸したいが、あいにく学校指定の体操服はそれぞれ一枚しかない。……そうか。普通ジャージの中に体操着を着るから、僕が長袖ジャージを着てギルが僕の体操着を着たらいいじゃないか。誰も臭い思いをしなくていい。

 そう提案したが即答で断られた。理由は「れーくんは半袖着るの。着るなら俺がジャージ着るよ」とのこと。でも、僕は夏場でも長袖ジャージを着ているから問題ないと言えば「問題ありありだよ。今日はちゃんと長袖着させないからね」と、余計なことを言ってしまった。

「あ、れーくんって日焼け止めって持ってる?」

 さっきのことをどうにか誤魔化せないかと考えていると、そう声を掛けられる。夏は日焼けをしてしまうから常備している。机の横に掛けてある鞄を探って、日焼け止めを取り出した。

「使うなら使え」

「ありがと。日焼けしたくない系男子のれーくんなら持ってると思ってたよ」

 なんだそれ。

 ギルが嬉しそうに微笑むと同時にチャイムが鳴った。体操服を持って更衣室に向かうとする。


「じゃあ、悪いが少し待っててくれ」

「うん」

 放下後、遅くまで部活動をする運動部の掛け声が窓の外から聞こえるなか、ギルを図書室まで送って屋上に向かう。

 屋上に行くのは少し面倒なことをしなければならない。最上階まではどこの階段で登ってもいいが、屋上に繋がる扉を握れるのはひとけの少ない廊下の奥にある階段を登らないといけない。だからこんな薄暗い廊下を歩いている。

 基本的に立ち入り禁止となっているが、なぜか鍵が空いている。手前に張り紙を貼ったカラーコーンはあるが、空いていることを知っている生徒はよく入っている。

 といってもこの学校にヤンキーのような人間はおらず、僕が憶えているので二人くらいしか立ち入らない。しかもどちらも静かな生徒で、気分を落ち着かせるのに使っているらしい。僕はその二人に親近感を抱いて悪い奴らと呼んでいる。名前は知らない。話したこともない。

 屋上はもちろん最上階のもう一つ上への階段を登る必要があって、教室に入るよりも体力を使う。階段を最後まで登ったあと屋上へ繋がる扉の前で膝に手をついて息を整えていた。なんで先輩は屋上なんてところを選んだんだ。疲れるじゃないか。

 息を十分に整えたあと、なにを言われるのかと鼓動を速まらせながらも屋上へ繋がる扉をひねった。べつに愛の告白なんてものじゃないのは確かだろうが、他になにを言われるのかの見当もつかない。

 扉を開けたとき、ずっと薄暗かったから外の光が明るく感じて目を細めてしまう。細めながらも太陽を背にして腕組みしながら立っている人間がいることがわかる。先輩だ。扉がバンッと閉まったことで、僕の存在に気づいたらしく目が合う。僕はさっと逸らした。

「やっと来たか」

「お待たせしました」

「とにかく、眩しいからこっち来い」

 建物の影となる場所へ向かうので、僕も向かった。夕陽が綺麗ではあったが、眩しいものは眩しい。影で話すとわかれば少し安心した。

 太陽に照らされていたところにいたから、影ではずいぶんと暗く見える。それでも少しずつ目が慣れてくれて先輩の姿がきちんと見えてくる。

 朝の保健室では布団に隠れていたりギルのことを見たりとよく見ていなかったが、改めて先輩の容姿を見る。先輩の制服姿、胸が│あらわになり、スカートを履いているところは私服姿しか見ていなかった僕には新鮮に感じる。スカートは今どきの女子同様に短いみたいだ。下着が見えそうな見えなさそうな、そんな短さ。……先輩は意外に、大きいらしい。僕は特に大小のこだわりはない。そもそも興味がない。

 先輩は不器用なのか、ネクタイが少しおかしいみたいだ。リボンのように、大剣と小剣が重ならずバラバラになっている。

「先輩、ネクタイおかしくないですか」

「あ? 男女どっちもネクタイなのがこの高校の」

「いえ、そうではなくて。結び方というか、形がヘンというか……」

 先輩は眉を寄せて、僕の胸元を見てから自分の胸元に目を移す。

「確かになんかおかしいな。俺、結び方わかんねぇんだ」

 いつもどうやっているんだ、この人は。

「代わりに結んでくれねぇかぁ?」

「……僕がですか」

「君以外に誰がいる」

「…………」

 僕は先輩の胸に当たらないかと不安を抱いてから先輩のネクタイに手を掛けた。

 まず結び方が違うのだろう。一度外したほうがいい。リボンのように結ばれて普通ではあり得ない結び目になっているネクタイを解いて、襟からも外す。まだ当たっていないからセーフ。

 あとはいつも僕が結んでいるように結ぶだけだ。そう思って顔を上げたとき、さっきとは違う光景だった。シャツの中から谷間が見える。第二ボタンが留まっていないらしい。

「せ、先輩……第二ボタンも開けてるんですか……?」

「暑いからなぁ。あとネクタイだとボタン留めてるかなんてわかんねぇから意外と開けれんだよ。ネクタイしときゃあボタン開いてても襟元締めてくれるし」

「馬鹿なんですか」

 呆れて留めようとしたとき、手が止まった。危うく僕が胸を触りたがっているなんて先輩に思われるところだった。決してそんなことはない。触りたくなんか……。

「ネクタイは結ぶので、ボタンは自分で留めてください」

「あ? べつにボタン留めなくてもネクタイ着けれるだろ」

「…………」

 人の気も知らないで……。

 シャツを中心に寄せるがすぐに戻ってしまう。それに引き寄せるとき、妙に重たい。

「あの……すごく失礼なことを聞くことになるかもしれませんが」

「ずいぶんともったいぶるな。なんかあるなら言えよ」

「……ぶ、ブラジャーとかは着けないんですか」

「ブラジャー? んだそれ」

 知らないのか。着けてないのにこの大きさだなんて……成長よすぎないか。こんなものなのか?

「あのせめて肌着は……着てください」

「はあ」

 僕以外の男のためにも着ていただかないと……。

 鼓動が速まりながらもシャツを寄せて第二ボタンを留める。よりシャツが張られた。今度はシャツの襟を立ててネクタイを通して下げる。このあとは僕がいつもしているように締めるだけ。それなのに、不意に手が胸に当たってしまった。

「す、すいません」

 謝ると同時にネクタイを持ちながら身を引いたせいで先輩も一歩前に出る。

「引っ張んなって。べつに何回でも当たりたきゃ当たればいいから早く結べって」

 そんなたやすく女性の胸に当たっていいわけないだろ。

 心臓がずっと速く鳴っていて、ヘンな汗をかいていることを自覚した頃、ネクタイが結び終わる。まさか男女によって長さが違うだなんて。小剣が大剣より長くなって結び直すことになってしまった。

 結び終われば先輩から後ろに一歩、二歩と下がって、屋上には柵がないから落ちそうになってしまい、先輩に腕を掴まれてなんとか落下は防がれる。僕自身、落ちそうになっていたなんてことを理解するのに数十秒と要したものだ。

 そして「なにやってんだ!」と僕の気持ちもわからず注意される。本当に……ただでさえ女の体をして男の距離感で近づいてきてやりづらいというのに。

 一度目を瞑って視界に蓋を閉じた。先輩といるとなんだか息苦しくなる。心臓が速く鳴るせいだ。なんで速くなるんだ。やはり相手の体が女だからだろうか。

「ネクタイ、ありがとな」

 一度深く息を吐いたあと目を開ける。

「ネクタイは基本洗う必要はないので、制服を脱ぐとき小剣を完全には抜かないでください」

「ショウケン? てかどうやってこれ取るんだぁ」

 そこからか。本当にこの人はこれまでの高校生活、どうやって制服を着ていたんだ。

 僕のネクタイを使って説明する。

「この大きいほうが大剣。その後ろに隠れて小さい輪に通されているのが小剣。それで取る時は結び目を左右に揺らしながら下に引っ張っていけば緩んでいきます。あとは持ち上げて取れます」

 一度ネクタイを取った。先輩から「ほぉ」と感心の声を聞いたあと、今度は襟を立ててネクタイを通す。

「こうしたらさっき緩めた時と同じ状態になるので、あとは結び目が崩れないようにして持ちながら小剣を下に引けば……締めれます」

 少し締めすぎた。少し緩める。

「ほぉん。器用だなぁ」

「むしろ先輩はこの二年ちょっと、誰かから教わらなかったんですか。調べても出てきますし」

「いやぁ、調べるほど気にはならなかったし、てか俺に友だちなんていねぇって。せんせーも俺を怖がって誰も話し掛けてくれねぇし。話できんの君と保健室のせんせーくらい。親父はいつも朝早いから俺が起きたときにはいねぇし。

 けど……まあ、一年のときに俺を女だと思って話し掛けてくれた女子はいたなぁ。それで三年でまた同じクラスになって、こんな『俺』とか言ってる女の姿した奴だとわかっても話し掛けてくれてる。いい奴だろ」

「……そうですね」

「本当に男になった時はあいつを恋人にしてもいいくらいだぁ」

「…………」

 恋人……。

 先輩に……できるんですかね。

「なんだぁ、そんな顔して。嫉妬か?」

「べつに、違います。触らないでください」

 頬を人差し指で突かれるので払った。なにが嫉妬だ。馬鹿馬鹿しい。そもそも僕は先輩に恋愛感情なんて……。

 僕はなんで先輩の「嫉妬」という言葉が女子生徒に向けた言葉だと思ったんだ……? いや、病み上がりで脳が正常に働かなかっただけだろう。

「……それで、ここに呼びだしたわけはなんですか」

 よくわからない感情に体を乗っ取られる前に早く用を済ませて帰ろう。

「おう、そうだったなぁ。……なんと言うか礼みたいなの……したいと思ってよぉ」

 先輩の照れ気味な声だ。初めて聞く。この短期間だけでもこれだけたくさんの顔を見れるんだな。

「俺がこんな性格だから味方する奴なんて、学校にも家にもいなくてよ。……さっきの女子はべつだ。あいつは敵にも味方にもならねぇ。だからこうして君から思ってくれてるのがちょっとっていうかすげー嬉しくてよ。あの時、君とあの場所で出会わなかったら俺の心は壊れてただろうぜ。君やギルって子に迷惑掛けたし、空腹な時金貰ってしまったしな」

 先輩が微笑んで見せる。心から笑っているような気がする。いつまでもその笑顔が見たい。

「……ところで先輩、聞きたいことがあります」

「おうよ」

「親とはどうなったんですか」

 金をあげた日以来、先輩が来ることがなかったので気になっていた。

「……せっかくいいムードだったのにそんなの持ち込みやがって。そうだな、親とは……この前よりマシにはなった。俺が家で首吊ってるのを見つけて、親父はこのことについてちょっと考えてくれてるみたいだぁ」

 相当追い詰められていたのだろう、首吊りをするなんて。もしそれで発見が遅れて見つけたときに息をしていなかったら……。

「…………」

 ゾクゾクッと鳥肌が立った。今ここにいるのはそのとき死んでいなかったから。少しでも発見が遅れたら今頃先輩はいない……。

 胃の辺りがぐるぐるとしだして腹を抱える。それでも不快感に負けないよう、懸命に先輩の話を聞いた。

「それに俺も調べたんだ。このことについて。女が男になりたいってやつ。そしたら……なんだっけ、トランプ? ともう一つなんとか障害って」

「……トランスジェンダーと性同一性障害ですか」

「あーそうそう。それが出てきたんだ。違いがわかんねぇけど」

「トランスジェンダーは心の性と体の性……いわば自分のことを男や女と思っている自認と、体の形があっていない状態の人を指しますが、性同一性障害の人はそれに加えて性別を一致させたいと思う人のことを指します。……性同一性障害は改名されて性別違和と、今では言われますね」

 名前にあるように障害と捉えるのはどうかとは思っていたから、改名されてよかった。少しは当事者の気持ちも楽になっていればいいが。

「それで、なんか女が男になれるみたいなの見つけて親父に言ったんだ。親父は医者だけどそういう科じゃないからあんまり詳しくねぇみてぇだけど。

 一応男性ホルモン入れて声とかも低くできるみてぇだからそれしたいって言ったら考えてみるって。どうしても金額が高くなるから、簡単にはできねぇけど、胸切るくらいは絶対にさせてやるってよ。……だから君の質問に答えるならいい感じに進んでらぁ」

 きっと先輩が望む性になるには長い道のりになるだろう。今がその一歩目を踏みだした時。いい方向に進んでいるのならよかった。

「人間ってほんと難しいことばっかだよなぁ」

「……そうですね」

 僕も過去に何度も考えたことがあった。

 そのうちの一つ。

 生きて意味があるのか。何度も思ったことがある。

 いっそ死んでしまったほうが楽なんじゃないか。何度でも思ったことがある。

 先輩はもうずいぶん落ちた夕陽に背を染めて屋上の端にしゃがみ込む。なにをするのかと思えば足を屋上の端から下ろした。僕は相当な信頼を得ているらしい。

「死んだらなにもかもなくなって楽になるかもしれねぇが、楽しかったことまでなくなっちまう。そう考えるとちと抵抗するってもんだ。実際、死を選ばなかったからこうして君にも出会えて、人生もいい方向に進んでると思える。

 でもよくここまで耐えたと思うわ。死にたいって思っても行動に移すとなればそう簡単には上手くいかねぇ。どこかで邪魔される。あの時だってそうだ。君、わかるか」

 ……急に言われても。あの時? どの時かわからない。意外と先輩と時間を過ごしたからな。体育祭の日、病院、病院から帰宅後、保健室、今。

 記憶をめぐっても思い当たる場面は浮かばず、潔く降参した。

「あれだ。君と初めて会ったあの時。この夏の暑さを利用して脱水症状にでもなって、死んでやろうって思ってた」

 体育祭の、僕が早退したあとのことか。

「けど、君がいて邪魔された。必死に生きようとしてる奴が目の前にいるのに、こんなことで簡単に死んでいいのかって思ってよ」

「そう思える先輩は優しいんですよ」

「……褒めてもなにも出ねぇ。……けど」

 そこで言葉を句切ると、足を下ろすのを止めて立ち上がる。スカートの汚れを払い落とせば振り向いて僕と目が合う。

 先輩の目は二重でとても綺麗な目だ。僕の心を見透かしているかのように、澄んで見える。

「今こうして生きているのは君のおかげだ。本当に感謝する」

 そういって深々と頭を下げた。

「え、っと……」

 急に感謝され、僕はどうすればいいのか困惑する。とりあえず頭を上げるよう言うと、数秒後頭を上げてもらえる。

 僕もなんとなく心配と迷惑を掛けたことを謝ろうと口を開けたとき、

「っ……!」

 先輩が力一杯に抱きしめてきた。

「せ、先輩?」

 初めこそなにがあったのか理解しがたかったが、柔らかい先輩の胸が当たっていることを自覚し、急に体が熱くなる。自覚してしまった僕が愚かだ。

「あ、あの……先輩……」

 徐々に小さくなっていく僕の声に、先輩は顔を上げてからかってくる。

「やっぱり、男の子だなぁ。女の胸が当たって顔真っ赤だぁ」

「うるさいです……」

「ははっ!」

 今度はなにをするのかと思えば、僕の首に手を当てる。

「速いなぁ。すっごい速い」

 きっと脈のことを言っているのだろう。そんなのとっくに鼓動の音でわかっている。体は正直だ。

「は……離れてください」

「しょうがない。俺も男同士で抱く趣味はねぇ」

 やっと……離れてくれた。

 鼓動を速くしたままその場へ崩れてしまう。まだあの感触が僕を襲ってくる。柔らかいあの感触が……。

「きっと君みたいなタイプは、一生この感触を味わうことはないだろうから……なんなら直接触っとくかぁ?」

 重力に従って体に引っ付いている胸を持ち上げて言う。

「ばっ、馬鹿なんじゃないですか」

「はっ! ジョーダンだって。けど、抱かれた感触はよかったろぉ。女であるうちに味わわせてあげたぜ」

「余計な……お世話」

「あ、今タメ口使った。ま、いっか。君は特別にタメ口を許してあげようじゃねぇか。年下に許したのは君が初めてだ」

 それは年下に名前を言い合えるほどの仲の人間がいないからだろうな。けど、僕も使う気はない。そもそも勝手に口から出たんだ。

「さ、もう陽が沈みそうだ。もう用はねぇ。下りるぞ」

 先輩がそう言ったあと、風が吹いてきて髪や服を揺らす。男の服を揺らされても支障はないが、女の服を揺らされるともちろんスカートが揺れる。そして、スカートが短ければ見えなかったものも見えてしまう。

 大きな風が吹いたとき先輩が履いていたスカートが揺られ、座っていたものだから先輩の黒い下着が見えてしまう。例のホクロも見える。

「涼しぃ」

 先輩は気づいていないのか、のんきにそう呟く。

「……隠そうとしないのですか……?」

「なにを」

「……下着を」

「べつにいいだろ。君どうせ保健室にいた時俺のパンツ見たんだろ」

「み、見てませんよ!」

 あの時はホクロを見てしまっただけだ。決して、見たりなんか……。

「でも、今も目ぇ逸らさず見てるじゃねぇか。同じだろ」

 言われてパッと逸らす。べつに、見たくなんか……。

 俯いて見れないようにする。鼓動が速まっているのには気づいている。馬鹿馬鹿しい。

 風が収まってきたことを確認してからゆっくりと顔を上げる。先輩はまだいて、やはり今にでも見えそうな長さのスカートを履いている。

「あれだろ、君のことだから女もんの下着が気になったんだろ」

 僕のことだから……? 先輩は僕のことをどう見ているのだろうか。知識のある男? 好奇心旺盛な男? ……先輩は僕のことをどう思っているんですか。

「女ってもんは面倒くせぇことに、女ものの下着が必要になることがあるんだ。君がどんな下着履いてるかは知らねぇが、男ものじゃ合わないっていうかねぇ。今は家にあるのが女ものしかないからこれ履いてるけど、男になった時は男ものを履くつもりだぁ」

「…………」

 的外れな先輩の考察に答えられないでいると、僕の腕を掴んで引っ張られる。

「いつまでもそんなところに座ってないで早く立てって。帰るぞぉ」

 先輩の腕を払って自分で立ち上がる。もう、一人でいい。

 僕が立ち上がったことを確認したあと、先輩は腕で太陽を隠しながら陽に向かう。もう、終わりみたいだ。

 ずいぶんとギルを待たせているかもしれない。先輩を真似て、腕を隠しながら扉があったほうへ向かう。が、先に行ったはずの先輩が立ち止まっており、視界が不十分だったためにぶつかってしまった。

「すいません」

「いいから……そこ立て」

「…………」

 先輩は振り向かずになにもない壁を指差す。顔を覗いたとき、やけに真剣な顔をしていて怒っているのではないかと思うほどだ。

 わけがわからなかったが言われた通り壁にもたれて立った。今度は背を低くしろとのことなので今は先輩より少し目線が低い。足がすぐにつらくなる体制だったから、片足を伸ばして半分空気椅子のようなことをする。

 僕のほうへ向いた先輩からずっと睨まれて少し緊張していれば、いきなり近くに来てバンッと顔のすぐ横の壁が叩かれる。いきなりのことで体がビクリと動いた。

「……な、なんですかこれ」

「……やっとできたぁ! 壁ドン。ずっとやりたかったんだよなぁ」

 ……は?

「そのために姿勢低くさせて」

「壁ドンしたってわけ。あぁやりたいこと一つできたぁ。……君は恋人できたときのための練習台として俺を満足させた。褒美に……一緒にいつか酒飲もうな」

「…………」

 この体制が我慢できず、ゆっくりと地面に尻を落とす。

 やる相手、違うだろ。

「……いい加減、僕を使って遊ぶのやめてください」

 まだなにか話をされるのかと思えば、ただ遊びに付き合わされただけだ。期待を、裏切るな。

 先輩に怒りを覚え始めていることがわかり、本人に当たってしまう前に離れようと立ち上がろうとするが、

「っ!」

「君……」

 ちょうど顔を上げたとき、今度はドンッと顔のすぐ横に足を置かれる。またされるとは思っていなくて、さっき以上に鼓動を速まらせていた。

「言わねぇとわかんねぇだろうから言うけど、君は俺の特別だ」

「…………」

 僕は先輩の、特別……。

「だからそんな顔すんなって。また家に行ってやるから」

 そして優しく微笑む。

 ずっと先輩が家にいる時、早く帰ってくれることを願っていた。なのに今はそんなこと思ってなくて、もっと先輩と話しをしたい。そんな感情さえも生まれている。

 僕は……。

「気が済んだなら下りようぜ」

「……そうですね。すいません、どうかしてました。下りましょうか」

 なんとなく後ろを振り向いたら、もう夜が顔を覗かせているようだった。今日はもう遅いからギルを家に招けないだろう。ギルを家まで送っていこう。

 屋上から出れば、来た時よりしんとしているみたいだった。部活動をしていた生徒もほとんど帰る時間なんだろう。吹奏楽部の音も小さくなって、少人数で練習しているみたいだ。運動部の掛け声も聞こえなくなっている。

 今は静かに先輩の後ろを歩いていて、ただコツッコツッとローファーの音とタンッタンッとスニーカーの音が聞こえるだけだ。どちらもなにも話すことがなく、ただ歩いて時間が過ぎていく。

 僕はずっと先輩の背中を見ていた。こんなにじっくり先輩の後ろ姿を見るのは初めてだ。後ろ姿も……。ドクッと心臓が鳴ったことを感じ、後ろ姿から目を逸らして床を見つめる。

 やっと一般教室が見える階段までたどり着いて、ホッとする。屋上に入る割にはバレなくてよかったと思ってしまう。

 先輩が立ち止まるから僕も立ち止まる。少しして夕陽色に染まった先輩が僕と目を合わせる。僕はそっと目を逸らした。

「今日はありがとな。……それで、今日でお別れだ。今日ここで別れたら必然的に君との縁は切れる。いや、切る。いいな。これからはただの生徒同士。出会ったのはもう忘れろ」

「……奇遇ですね。僕も、そう思っていましたよ」

 わかりやすく微笑んでみせる。

「さすが俺の後輩」

 否定しない。……して、ほしかった。

「……では」

 適当に別れを済まそうと階段を下りようとするが、先輩はそれを止める。

「まだ行くんじゃねぇ」

 もう別れを済まそうとした僕には受け止められないことで、すぐには振り向けなかった。そもそも肩を掴まれていて振り向くなんてことはできなかった。

「君はそんな軽く別れを済ます人間じゃねぇだろ」

「そうかも……しれません」

「……君に渡したいモノあるからぜってぇ逃げんじゃねぇぞ」

 渡したいモノ? 後ろを向いて渡せるモノなんてあるのか? 後ろを向き続けても渡されるような感じはせず、次は目を瞑れと言われる。

「ちゃんと瞑ってるかぁ? ……よし。じゃあ今から渡すこれ、俺がいいと言うまでぜってぇ見るな。わかったか?」

 よくわからないが返事をする。

 突然首周りを触れられてビクッとするが、続けてなにかされていく。妙に耳がゾクゾクとして鼓動が速まる。

 なにかされるのが終わったらしいが、肩を掴まれて振り向かせてはくれない。

「また校外で会った時、そんときだけ相手してやる。校内でもしてやりてぇが、君のためにもな」

 誤魔化すように笑われる。なにが僕のためなんだろうか。僕はべつにどうだって……。話せるものなら校内でも話したい。

「校内でのお話は駄目なんですか……?」

「駄目だっつったろ? また会える。実際体育祭の日に会って、今日にも会えた。またこうして会った時、そんときは相手してやる。けどまあ、恋人がいないときに頼むなぁ。君は男らしくてかっこいいから取られちまう」

「取りませんよ……」

「ははっ、取らねぇか。君もいい女作れよ」

 作りませんよ。女なんて。

「じゃあ最後に」

 「最後」なんて言葉……聞きたくない。

「俺、君のこと気に入ったみたいだわ。初めて会った時から今まで本当にありがとうな。感謝しきれねぇ。もう一回言うけど、君は俺の特別だ」

「っ……!」

 その言葉の最後に背中を軽く押されて、一瞬死の覚悟をする。でも、珍しく反射神経が働いて階段の手すりに掴まって事故は防げた。先輩は僕を殺す気なのか? けど、先輩になら……。いや、馬鹿な考えは捨てろ。今思えばあの日から僕の思考は操られてばかりだ。

 靴が脱げそうになっていたから履き直してから後ろを振り向く。けど、先輩の姿はもうなかった。もう僕と先輩の関係は、縁は切れたんだ。

 しんみりとした気持ちに覆われてしまう前に、一度深呼吸をしてこのあとのことを考える。ギルは図書室で待ってもらっているから迎えに行く。そしてもう夜遅いから家まで送る。ギルの親に遅くなったことを謝る。その帰りにスーパーに寄ろうか。他になにかいいものがなければ板チョコを夕食にでもしよう。今は甘いチョコレートが食べたい気分だ。

 靴音が一つだけになって不思議に寂しさを覚えながら、二階にある図書室まで向かう。もうそろそろ下校時間になる校内ではすれ違う人がいない。強いて言うなら遅くまで仕事をしている先生から早く帰れと、すれ違い際に言われるだけ。

 図書室はここの角を曲がればすぐにある。曲がれば図書室があると同時に、一人の人間が壁にもたれてスマホの画面に顔を照らされている。図書室は閉まっているようで窓からの光は差し込まれない。

「あ、れーくん」

「悪い。長くなってしまった」

「全然いいよ」

 本当に気にしていないとでも言いたげににっと笑う。

 ギルが持っていた鞄に目を落として僕のだと確認して手を差し出せば、素直に渡してくれる。ギルの鞄は陽気な女子生徒ほどではないがジャラジャラとキーホルダーが付けてある。その一部は僕があげたものだ。それと比べて僕の鞄にはなにも付いていない。

「じゃあかえ……あれ」

 ギルが言葉を発さず僕の胸元ばかり見るので、釣られて僕も見れば、円形の指輪のような金属の付いたネックレスがある。僕にネックレスなんて似合わないのに、先輩はこんなものを礼の品として出したのか。

「れーくんってネックレス着けてたっけ?」

「いや、先輩からのものだ」

「へぇー、あの先輩さんから……。似合ってるよ。もしかして愛の告白とか?」

「違う。ただの……僕言ったか。先輩が女だって」

 ギルは体育祭のあとに一回、病院で一回の二回会っただけだ。ギルはその二回だけで女だとわかったのか? ぱっと見ただけでは誰もが男と言うと思っていたんだが。実際僕も男だと思っていた。

「ううん。でもわかるよ。先輩さんの着る服はダボダボでその、お……胸があるかなんてわからないけど、顔立ちとか声とかで女の人だってなったよ」

「……すごいな」

「うん。あの人、もしかしてLGBTの人なのかなって思って」

 ここまで知るのに長々とかかった僕に対して、あの一瞬と言わんばかりの二回の短期間で見抜くとは、さすがに言葉が出ない。

「……なら体育祭の日に、先輩が向かいにいて僕の隣に座るのを拒んだのは」

「うん。あの人が女の人だってわかってたからだよ」

「…………」

 ギルには探偵になる才能があるかもしれない。いや、実際の探偵はあまり面白いものではないから警察……も危ないから安全な職でいい。

「うわーもう外暗くなってきてる。早く帰ろ」

「……ああ」

 さっき散々階段を下りたが、あともう一階下りる。さすがにこう一日に何階も行き来するとは思っていなかった。明日は筋肉痛にでもなっていそうだ。校門をくぐれば夕焼けで赤くなった通学路を歩いていく。

 一台の自転車が前から走ってくる。後ろを向いてよそ見をしているらしく、少しずつこちらに寄ってきていて、さりげなく道路側に移動してギルの壁になる。ギルにこうした理由を問われているうちにその自転車がやっと前を向いて姿勢を整えたあと漕いでいった。

 すぐに後ろから同じ年くらいの青年が走ってきた。息を切らせて「まてって……」と情けない声を出していた。どうやらあの自転車を追っているらしい。

「れーくん。なんで寄ったの」

「……よそ見をした自転車が来ていたから」

「……あ、ありがと。でもそれくらいいいよ。いざとなったら俺だって避けれるしそもそもれーくんこそ避けれないし俺だってれーくんのこと守りたいから次絶対そんなことしないでよね」

 長い一文を一息で言ったその肺活量は認める。

 住宅街に出れば街灯がもうつく時間で、車もヘッドライトをつけて走っている。ギルが珍しく話し掛けてこないことと、この空の暗さから眠気を覚えていた。けど歩きながら寝るなんて高度な技術を身に付けているわけではなく、重たい│まぶたを頑張って開けて視界を確保している。

 スーパーの前の信号を待っていたとき、後ろから差す光でスーパーが後ろにあるということに気づいて、ギルに一言言って入らせてくれた。目をこすって目を覚まし、食品エリアに向かう。

「なに買うの?」

「チョコレート」

「チョコレート? いいな、俺も食べたい!」

 よく見かける有名な会社の板チョコレートを手に取る。ギルも食べたいらしいのでもう一つ取る。

 そしてレジに向かう途中に見つけた、半額シールが貼られている二つ入りのコロッケを手に取る。これも一緒に食べよう。

「夜遅くに一人で歩くのは危険だから酷く勧めないが、この時間なら惣菜が値引きしているから、無駄遣いして財産がないギルでも買えるくらいの値段にはなっている。他に欲しいものあるか。買ってやる」

「え、いいの! じゃあ……今日の夜ご飯にカップ麺食べよ! 俺カップ麺食べたい気分」

 カップ麺か。カップ麺なら後ろの……。

「夕食、家に帰ってもないのか」

「え? れーくんがなにか作ってくれるならあるし、買って帰ってもあるよ」

 僕が作る? ギルの家に行ってか? ギルの親は今日いないのか? ギルはいったいなんの話をしているんだ。

「あ、もしかしてれーくん今日れーくんの家に行ってノート写すの忘れてたの? 今日行くよー」

 あぁ。そうだった。そんなこと言っていたな。けど、

「今日はもう遅いから明日にしようか。言うのを忘れていた。家までは送っていく」

「そう言うと思ってね、とっておきを置いてたんだ。実はね、明日休校日で休みだよ」

「…………」

 休校日?

 脳内の隅々を探しても明日が休校日だと記憶しておらず、スマホのカレンダーを見てやっとそれが本当だということがわかった。予定表が配られたその日に学校での予定をカレンダーに入れているから確実だ。ただ、明日休みだというのを知らせてくれなくて今日の僕が知らず過ごしていたのは、通知してくれるよう設定するのを忘れていたからだ。

 ……そうか。なぜその休校日をギルは「とっておき」と言ったか。僕は明日休みだと知らなかったからギルが泊まりたいなんて口にする可能性はないといって招いたが、実際は休みだ。僕は憶えていなかった。それで本当はこのくらいの時間まで家で過ごすつもりだったんだろう。過ごして僕が帰らそうとしたときにギルの「とっておき」を言われ、僕は泊まらせる羽目になる。

 昼に僕が明日は学校だと言ったのに対して誤魔化したのは、「とっておき」をあとで使えるようにするためだろう。

 僕が今日招くこと、もしくはなんらかの理由で行きたいと言って許可を出すこと。それでギルは泊まる権利を与えられたというわけだ。ギルの計画にまんまとハマってしまった。

 全てを理解してギルに顔を向ければ、自分の企みを見抜かれたことに気づいたそうで嬉しそうに笑った。

 明日が休みなら話が変わって、今晩の食事と明日の食事の分を買う必要がある。今晩はギルがカップラーメンがいいらしいので好きなものを選んで選ばせて、僕のきつねうどんとギルの豚骨ラーメン、なぜか追加で焼きそばもカゴに入れられていて、カップ麺三つをカゴに入れる。

 明日の昼なにがいいと聞けば「れーくんが作るのはなんでもおいしいからなんでもいいよ」と困る回答をされ、冷麺にすることにした。冷麺は作ったことがなく、スマホでレシピを調べて家にない麺、きゅうり、チャーシューをカゴに入れた。

 レジに向かう途中に見つけたパン売りエリアの横を通り、「朝ご飯どうするの?」と明らかにあそこで売っているパンを食べたそうにしていたからレジのあとそこにも寄った。

 僕は明太子パンとベーコンエッグ、ギルはウインナーパンと照り焼きチキン、二人で分けて食べるようとしてベーコンエピも追加で買った。惣菜パンを朝食にするのは久しぶりだ。

 レジを済ませたあと、パンの入った袋を奪うように取られスーパーを出た。そしてずいぶんと暗くなった道を街灯や夜遅くでもやっている店の光に照らされながら歩いていく。

 眠気を覚ますために今朝から今までやってきたことを思いだしていたら、先輩の姿が浮かんできた。同時に貰ったネックレスを思いだす。今もずっと付いていて、手に取ったときに光を反射して目を酷く刺激される。

「れーくん、そのネックレス気に入ってるんじゃない?」

 ネックレスを覗き込んでから今度は僕の顔を覗き込むように聞いてくる。

 べつに気に入っているわけではない。ただ先輩から貰い物をしたという実感がないだけだ。縁を切るということにも。

「欲しいならやるが」

「い、要らないし貰えないよ。これはれーくんが貰ったものだし。それにれーくんが着けてるからかっこいいっていうのもあるんだよ。学校に着けていったら? あはは」

「学校では着けて行けないだろ。それに僕にネックレスは似合わない」

 首の後ろへ手を伸ばしてネックレスを掴んで外そうとするが、なにか凹凸があるのがわかるだけでどうやって取るのかわからない。よくよく考えたらネックレスなんて着けたことがないから外し方もわからない。

「ギル、これ取ってくれないか」

「家に入ってからね」

 ……意地悪だ。

 街灯が少なくなってさっきいた場所よりずいぶんと暗くなった道を歩いていく。この時間になれば扇風機もなしで過ごせるくらいだ。いつもこのくらいの気温でいいのに。

 カレーのいい匂いがする。今右にある家は今日カレーみたいだ。暑くなる前にまた食べたいな。暑くなっては食べているとき汗がダラダラと出てくる。基本甘口を食べるがそれでも熱いものは熱い。

 もうすぐで家に着く。そんななか、ギルのスマホから一本の電話が掛かってきたらしい。

「あ、お父さん? どうしたの? …………え? 俺送ったよ? …………あはは、もーちゃんと見てよね。……うん。だから今れーくんの家にいっ……いるから大丈夫だよ。明日には帰る。…………うん、言っとく。……うん、じゃあね。おやすみ」

「…………」

「今まだ外って言ったら心配するでしょ?」

 なにも言ってない。

「お父さんがまたご飯食べに行こーだって。れーくんなに食べたい?」

「……ギルが食べたいところにでも行け」

「ツンデレさんだねー」

 なにがだ。

 家に着けば手を洗ってもらってさっそく夕食を食べることにする。湯を沸かす必要があって、鍋に表示より少し多めに水を入れて火をつけて待つ。

 コロッケも皿に移して電子レンジで温める。数十秒だけだったので電子レンジの前で待っており、温め終われば食卓の上に置く。

 待っている間ギルは食卓椅子に座ってじっと僕のほうを見てくる。目が合えばにっと笑う。

「暑くないか」

「うん。大丈夫だよ。夜はまだ涼しいからね」

 まだ掛かるだろうと足の疲れを感じてギルの向かいに座る。そのときチャリっとネックレスが鳴り、まだギルに取ってもらっていないことを思いだす。

「ギル。家に入った。これ取ってくれ」

「あはは、ご飯食べたらね」

 さっき家に入ったらと言っていたじゃないか。

 もう一度首の後ろに手を回して取ろうと試みるがやはり取れない。どうやって繋がっているのかもわからないからどうやって取るのかもわからない。

 ……もしかしてどうにか繋がりを解くのではなくて頭をくぐらせるのか? この短さだから無理だろうと思っていたが本当は通せるのか? 試しにくぐらそうとするが、案の定通るわけがなく、ヘンにチェーンが細くて千切れそうで怖がっていた。そもそも人の頭なんて人それぞれなんだから入るわけがない。

 ギルがこのおかしな行動を見てなにをしようとしていたのかわかったのか、くすくすと笑っていた。いつか、ギルからなにかを頼まれた時絶対に応えない。今そう決めた。

 スーパーの袋からまだ出していなかったチョコレートを取り出して、小さく割って口に入れる。ブラックチョコというわけでもないのに、苦い。ホワイトチョコにしたほうがよかったかもしれないな。けどホワイトチョコは、きっと恋が実ったときに食べるものだから、その日までは温存しておこう。

 僕が苦いと思ったものをギルはおいしそうに食べる。わざわざ僕の板チョコで割ったものを。ギルの分も買ったのに。

 湯が湧いたらカップ麺の蓋を半分ほど開け、中からかやくを取り出して振り掛けて湯を線まで入れる。五分ほどしたら完成だ。

 容器の上部を持って熱さをしのぎながら、カウンター越しに食卓テーブルの上にそれぞれ置いた。箸を二膳持って再びギルの向かいに座る。目の前ではカップ麺が目の前にあることが嬉しいのか、目を輝かせて出来上がるのを待っているギルがいる。

 僕は月二くらいはカップ麺で食事を済ませることがあるから食べるのが初めてではない。どうしても料理するのが面倒、でも腹が空きすぎるという時に食べる。何種類ものカップ麺を食べたことあるが、意外においしい。

「俺ね、こういうカップ麺ってなかなか食べる機会ないからちょっと嬉しい。いつもお母さんいないときは下手っぴだけどお父さんが用意してくれるし、どっちもいないときもお母さんが冷蔵庫に入れて用意してくれてるから。最後いつ食べたかな」

 家にいなくとも事前に用意してくれるなんて、本当に良い親だな。本当に羨ましいくらいだ。それなりの自由はあるが怒るときは怒るような、そんな親から産まれたかった。まさしくギルの両親のような。

 五分経ったあと、手を合わせて食べ始めた。

「ほいひー! へーうんほはへふ?」

「飲み込んでからもう一度聞く」

「んふふ。……れーくんも食べる?」

「食べてほしいならいただこうか」

 その言葉に嬉しそうな反応を見せたあと容器を近づけてくれるので、麺を少し掴もうとすれば先にギルの箸が容器を突きだす。その行動を不思議に見ていたらまたべつの笑顔を見せて「はいあーん」と。麺くらい自分で食べさせてくれないか。汁が飛び散るだろ。

 箸を近づけられて麺が容器から出そうになり、汁が机に落ちることを想像してギルの手の位置を戻した。僕が前のめりになってギルに近づき、ギルの手を握って口に入れた。ギルはこれで満足するはずだ。……おいしい。

 一つ礼を言ってきつねうどんの続きを食べようとするが、ギルがまだなにかしてほしそうに見つめてくる。わけがわからずに無視して突こうとすれば強い力で右手を握られ阻止される。

「れーくん俺にあーんは?」

 今度は自分に食べさせろというわけか。キラキラとした眼差しを向けられて少し眩しい。いつもはギルがしてくるからただそれに応えていただけだが、今度は僕がするのか。少し、恥ずかしい気がする。が、まだ学校などの人前じゃないだけマシだ。

 ギルに容器を近づけ、麺を掴んで開けている口にめがけて突っ込む。下に伸びる麺が暴れて汁が飛び散らないようにしながら無事に食べてくれた。今度こそ満足しただろう。

「ん、んんんんん!」

 なにを言っているのかさっぱりわからん。

 そんなギルを無視して続きを食べ始めた。


「ギル、これ取れ」

「やーだ」

 カップ麺の処理をしたあと、ネックレスを取ってもらうことを思いだしてギルに頼むが、やはりこう言って外してくれない。

「食後に取る約束はどうした」

「えへへ、お風呂入る時にね。ノート先に写し」

「それは明日にしよう。先に風呂に入らないと寝る時間が遅くなってしまう。ただでさえ帰るのも遅くなってしまったんだから」

「……んー。だってそれ着けてるのかっこいいのに自覚してくれないんだもん!」

 こんな容姿をかっこいいと思うほうがどうかしている。

「あ、今日俺と一緒にお風呂入ってくれるなら取ってあげ」

「自分で取る」

 何度かこうして一緒に風呂に入ることを引き換えに頼み事を成立させようとしてくる。どうしてそんなに一緒に風呂に入りたがるのだろうか。思春期で他人の裸を見たい年頃か? 女体ならまだしも。

 洗面所になら鏡がある。不快ながらも自分の体を視界に入れてネックレスをいじる。そしてギルに肩を掴まれて阻止されながらもなんとか取ることができた。

「あー! もう取られたー。俺の一緒にお風呂に入ろう作戦がー」

 ギルは年頃の男の子らしいからほうっておいてやろう。

「先に入ってこい。上がる前に着替え置いておくから」

「やっぱり一緒に入らない?」

「入らない」

 両頬を膨らませてものすごく不服そうな顔をする。肩を押されて洗面所から出されたかと思うと扉を閉められる。どれほど僕と入りたかったんだ。

 部屋からギルの着替えと僕の着替えを持って洗面所の隅にある台に置き、僕のはべつで置いておいた。ギルにも一声掛ける。

 そのあとはギルが出てくるまで暇で、ソファーに座ってテレビを見ていた。この時間はバライティー番組が多くて暇を潰せる。テレビで笑みをこぼすことなんて久しぶりだ。

 けどそんな面白かった番組も終わってしまい、時間外れなニュースが流れ始める。チャンネルを替えることも考えたが、テレビを消してソファーに寝転んで目を瞑った。この間にも勉強はできるが、明日に回そう。ギルがいるのに勉強なんてできない。

 しばらく待ちぼうけを食らっていたら意識がなくなっていて、ギルから頬を触られたときにやっと寝ていたことに気づいた。ギルは置いていた服を身にまとって、髪から垂れる水滴が少し服を濡らしているようだった。ギルに限ってきちんと水気を取るように言う必要がない。

「おはよ。お風呂上がったよ」

「……ああ」

「れーくんの寝顔可愛かったよ」

「……どんな目をしている」

「こんな目」

 起き上がろうとした矢先、大きな綺麗な緑の目と目が合う。むしろ近づいてきてそれしか見えない。けど、やっぱりギルの目は本当に綺麗だ。見飽きない。

「そ、そんなに見られたら恥ずかしいじゃん」

 自分からしたことなのはわかっているか。

 今度こそ起き上がってコップ一杯分の水を飲んでから洗面所で服を脱いでいった。入浴前の水分は大事だ。僕のような普段から水を飲まない人間は特に。

 先輩からもらったネックレスの置きっぱなしに気づき、忘れないうちに見える場所に置いておこうと洗面所から出ようとすれば、扉から緑の目が覗かれているのがわかる。

「…………」

「……変態」

 気づいたのがズボンを脱いでいたときだったため、少しシャツを下に引いて言った。それでも目はまばたきをするだけなので諦めて扉を開ける。楽しそうに笑うギルが出迎えた。年頃の男の子なんだから仕方がない。そう言い聞かせて。

 ネックレスをテーブルに置いたら今度こそ脱ごうと思うが、その前に目が覗いていないことを確認した。が、やはりいた。

「ギルには他人の裸を見るという変態趣味があったのか」

「ち、違うもん! 変態なんかじゃ……ないもん! れーくんがちゃんとご飯食べてるかのチェック!」

 それを言えば他人の体を見ていいとでも思っているのだろうか。

「まあ、ギルは思春期らしいから他人の裸も見たくなる時期だろうなー」

 演技じみて言ってみれば効果があったようで、

「だ、だって……人間の造り的に……あるんだもん……」

 思春期という時期が恥ずかしくなってきたのか、頬が赤くなってきている。確かに、ギルの言う通り人間の造り的に思春期は存在する。僕もその時期に入っているのか終わったのか。

「れーくんは逆に……気にならないの」

「ならないな。それに、同性の体なら自分の体を見ればいいだろ」

「自分のは……違うの。……れーくんって……ううん。なんでもない。早くお風呂出てきてね。一緒に寝よ!」

 さっきなにを言いたかったのかはわからないが、素直に扉を閉めてくれたので遠慮なく風呂に入らせてもらった。

 思春期といえば確かに心の変化というものがある。男なんて特に性欲や性的なものに興奮なんてものも現れだしてくる。僕も実際、今日散々味わった。本当に最低だとは思っている。

 シャンプーで洗い終わった髪を上げて視界を良くする。相変わらず醜いものが映る。

 シャンプーのあとはリンスーをつけようとするが、どうやらないらしい。容器を握っても出てこない。そういえば切らしていたんだったか。スーパーに寄ったついでに買えばよかった。特に今日なんてギルがいる。

 親がいなくなってからはしばらくつける意味がわからず、使い切ったあとは買い足しもせずにシャンプーだけで済ませていた。けど、ギルが初めて泊まったときに「トリートメントとかリンスーは?」とあるのが当たり前のように聞いてくるもので、翌日に買わされた。

 結局ギルが来る日や指摘された翌日以外は使っていないが。それでもシャンプーより使用日が少なくていい節約になっている。

 今日はギルが来ているからつけようと思ったが切らしていたらつけることはできない。もしかしたらギルも使えていなかったのかもしれない。替えを準備しているわけでもないから諦めて体を洗おうか。

 タオル掛けから青のボディタオルを引っ張りだして石けんで泡立てていく。もちろんギルのは別であって横に掛かっている。

 先輩と過ごすうちに僕は気づいていなかった感情を抱いていたみたいだ。

 公園で初めて会った時はそんな感情これっぽっちも抱いていなかった。なんとなくそんな感情があるんじゃないかと思い始めたのは先輩と病院で会った時だ。先輩のあの悲しそうな、苦しそうな表情をしているのを見た時、きっと「心配」なんて感情を抱いていた。昨日会ったばかりの人を本気で心配するなんて心を惹かれたとしか思えない。

 その感情にはっきりと気づいたのは屋上で先輩と話した時だ。僕がそのときどう思っていたのかを思い起こせば明確だ。

 待ち合わせの屋上に着いて早々ネクタイを結ぶことを頼まれた時、一番初めに浮かんだのが「先輩の胸」だった。最低だとは重々把握している……。僕はその胸にきっと興奮していた。他の胸では感じなかった気持ちが、先輩のだけに感じた時は正直わけがわからなかった。でも、明らかに他の女体と違って鼓動が速まっていたのは事実だ。

 先輩が恋人を作るなんて言った時も初めての感情が芽生えた。見知らぬ女子生徒への嫉妬、ヤキモチなんていった感情だろう。聞いていてモヤモヤと苦しく感じるようなことは勉学等以外で初めてだった。実際、聞いていて耳を塞ぎたくなったのは事実で、少し投げやりにもなっていた。

 突然先輩から抱きしめられた時は本当に驚いたが、心臓が速く鳴って恥ずかしさの他に興奮もしていたことにも驚いた。ギルから抱きしめられる時にはそんな感覚はなかったのに、先輩の時に初めてその感覚を味わった。

 先輩の下着を目を逸らさずに見ていたあとに言われたことには少しの罪悪感を覚えるとともに幻滅した。僕はただ先輩の履いている下着を目的に見てしまっていたのに、先輩は僕を好奇心で見ていたなんて言った。純粋な僕の下心に気づいてなかったのは、それほどキャラが成っていたのか、あるいは先輩には僕の下心があったなんてこれっぽっちも思っていなかったか、だ。

 ――君は俺の特別だ――

 そんなことを言われた時には、先輩に抱いていた感情がなになのかはっきりとわかった。きっとその前の恋人の練習台にされた時にはもうとっくにわかっていたはずだ。けど怒りが勝って、そんなこと思えなかっただけだ。

 僕は先輩に恋をしていた。

 けどその恋も今日気づいて、今日終わった。

 理由なんて言わずとも、先輩とは今日縁を切った。それに、僕は先輩の女の姿に恋をしていた。だから男の姿を望む先輩に女の姿で惚れた僕の恋はもとから叶うはずがなかったんだ。

 性別関係なく恋ができたら、さぞかし明るい世界になったことだろう。

 きっと、公園で出会ったあの時からこういう結果が用意されていたのかもしれない。出会って恋をして縁を切る。そんな結果が。

 恋なんて、初めてだ。

 淡く切ない思いを乗せて小さな溜息を吐いた。


 人間は何にでもなれるが、逆に何にでもなれてしまうのだ。自分の望んだものになれるときもあるし、望んでないものになる時だってある。

 ガンなどになって一生を苦しんで過ごす者もいれば、早死する者もいる。望んでない者にでもなってしまうのも人間だ。生きることを望まない人がいるように。

 僕の親についても先輩の性別についても、今回の恋もそうであったように。

 誰も自分の障壁があること、それを望んだわけではない。

 それは今も当てはまることだ。

「お水飲んだ? ならあーもう動かないの!」

 先輩に恋をしていたことに気づいたのなら、それなりの妄想をしていいなどと適当なことを言ってヘンな妄想をしようとするが、それはもし今後顔を合わせるような機会があった時に目を合わせられなくなるので、屋上で明らかに鼓動が速まった出来事を思いだしていれば、血圧が上がるのは確かであって風呂に入っている途中なら体温が上がり放題というのも事実で、風呂から上がるときにはフラフラだった。洗面所でドンッと壁に当たったことでギルに心配させると同時に発見され、水滴をタオルで拭って着替えさせられたあと、ソファーでぐったりとする有り様だ。

 のぼせた時は毎度同じ症状が出て今回も同じで酷いフラつきと動悸、吐き気がする。いつもは洗うのが面倒臭くて長々と熱い風呂場に居座ったり、冬場の風呂で寒くて温度を上げて長時間シャワーを浴びたりで気をつけようと言えるものだが、今回ばかりは恋を言い訳に自ら体温を上げた僕が愚かだった。

 けど、思春期の男が好きな人を想像することなんてあり得る話で、風呂でなくとも体温が上がってしまうのは仕方がない。そんな言い訳を脳内で意味もなく言う。

「ほんとれーくんよくのぼせるんだから気をつけてよね。無理かもって思ったら言ってって言ったよね? 俺いなかったらどうしてたの」

「のぼせた相手の頭を揺さぶりながら言わないでくれ……。正直いつでも吐けそうだ」

「だってタオルドライしないと髪傷んじゃうもん」

 もうとっくに傷んでいるからほうっておいてくれ。

 適度に揺らされる程度に抑えてくれたらもう一度同じ質問をしてくる。

「家には僕しかいないんだから、静かに治まるのを待つしかないだろ。こんな程度で助けを呼ぶ必要もない」

「ないことないよ。さっきも壁にぶつかってたけど、それが後ろに倒れてたら頭打ってたかもなんだよ? 後頭部って一番ぶつけちゃ駄目なの知ってるでしょ? とにかく、次からはぜーったいに気分悪いなってなったら動かないこと。いいね? ……俺のいないところで絶対に死なないで」

 僕はそれほどか弱くないとだけ言っておく。そんな程度で死ねるか。

 フラつきが治まった頃、タオルドライも気が済むまで終えたらしく今度はドライヤーをするとのことで、適当に引きだした椅子を洗面所まで運んで僕を座らせて髪を乾かしてくれている。楽だ……。

「ねえれーくん。……俺ね、ずっと考えてたんだ。なんでれーくん傷つけちゃったのかなって」

 傷つけた……。病院から帰っていた時のことか。

「あれは……僕の思い込みと言っただろ」

「ううん」

 いやそうなんだ。否定するな。

 あの時僕はギルの家庭を羨ましく思ったと同時に、僕の無力さや必要のなさを実感してギルから離れたんだ。思い込みと言うより事実と言うほうがしっくりくるが、ここではそう言わせてもらおう。ギルが納得すればいいんだ。

「それでなんでだろって思ってわかったのが、俺れーくんが行っちゃう前にお父さんたちの話してたんだ。それでれーくんはお父さんたちいないのに、そんな話したら嫌だよねって、考えてわかったんだ。あと、俺が大好きで優しいれーくんのことだから俺が泣いちゃって、それで罪滅ぼしみたいなので行っちゃったのかなって。……違う?」

「…………」

 ここまで的確に当てられるとは思っていなかった。罪滅ぼし……。あの行動はそんな名前なのかもしれない。

「もしそうなら、二度とそんなことしないで。……れーくんが優しいのは知ってるし全部俺のためだってわかってるから、れーくんがかっこつけて『ふっ、じゃあな』とか言っても俺はれーくんのかっこつけなんて無視して全力で追いかけるからね」

 どんな場面を想像している。それに、関係あるのか?

「これからはあんまりお父さんたちの話はしないようにするけど……お父さんたちとお話しはしてくれる……?」

 僕は楽しそうに家のことを話すギルの家庭を羨ましく憧れを抱いていただけで、当人と言葉を交わしたくないなんて思ったことがない。

「むしろ歓迎する」

「あはは、ありがと。じゃあもう一緒に住も! あははは」

 なにが「じゃあ」なのかは知りたいが、ギルの家なら……。

「れーくんが俺の家に住むことになったら俺がお兄ちゃんね! れーくんのほうが……ううん。俺のほうが背高いから、あはは」

 ふっ、なにが背が高いだ。ギルが言いたかったことはわかるが、僕を思ってか言わないでくれたみたいだ。

「それでれーくんと俺は同じ部屋で勉強机も隣でー」

「同じ部屋は勘弁だ」

「えー、なんで! ベッドもおっきいの一つで一緒に寝るつもりだったのにー。今日だって俺れーくんと同じベッドで寝るもん!」

 ギルは昔から僕のことを好きだと言って、それは今も全く変わらない。むしろ強くなったまでもあって、週に一回は必ず好きだと言ってくれる。けどその「好き」は恋愛云々ではなく、言葉の前に「友だちとして」が入るらしい。

 一時期本当に離れてほしいなんてことはあったが、今はこれっぽっちも思っていない。むしろ、あの笑顔に支えてもらっている。ひまわりのような眩しくて輝いた笑顔に。

 髪の毛を乾かしてくれたあとは「れーくんのベッド温めてくる!」なんて、豊臣秀吉が言ってそうなことを言い残してドタドタと二階に上がって行った。

 椅子をもとの位置に戻してネックレスを片手に、一階の照明とエアコンを消して二階に上がれば、僕の部屋の扉が無造作に開きっぱなしだ。

 部屋に入って勉強机に目を移すと、昨晩に復習をしていた跡が残っている。毎晩するが今日くらいは、ギルがいる今日はやめよう。

「れーくん」

 ギルはベッドに寝転んでいて、ぽんぽんとベッドを叩いて僕を招く。ギルに貸している服が大きいからかギルがよりいっそう小さく見える。こんな小動物に僕は飼われている。いや、飼ってもらっているのほうが正しいか。

 ネックレスを勉強机に置いてベッドに座り込んだ。すかさずギルは僕を囲うようにして後ろから腕を回してくる。

「久しぶりにれーくんと寝るから楽しみ。俺いっぱいぎゅーってするもんね」

「この時期はまだ涼しいからいいが、夏は本当に勘弁してくれないか。暑いんだ」

「冷房つけたら済む話ですー。あはは。夏に冷房つけて寝るようにする俺の作戦だったりしてね。れーくん寝よ! 俺全然眠たくないけど。あはは」

 もしかしてまた夜遅くにゲームをしているんじゃないだろうな。勉強に時間を使うならまだしも……。けど、そんなところがあってギルだ。

 僕も眠気がなくて寝転びもしなかったからか、気づけば太腿にギルの頭があった。目が合えば楽しそうに笑う。

「膝枕だよ。……でもここ膝じゃないよね。膝ってもう少しこっち……」

 ベッドに腰掛けている奴を膝枕にして、膝に向けて頭を移動させるともちろん頭が落ちる。それを想定して膝下に手を添えていれば案の定ギルの頭が落ちてきた。一瞬の驚きさえ見せていたがすぐ嬉しそうに笑った。知ってるか、人の頭って意外と重たいんだ。

 再び太腿に乗せれば僕のほうへ顔を向けて腹に近づけてきて、次第には腹に顔が埋まる。

「れーくんって、恋人作る?」

 ギルの声が籠もって聞こえる。恋人か。

「予定はない」

「……うん。知ってる」

「…………」

「だって、れーくんは……」

 言葉の続きがないまま腹に埋めた顔がこちらに向けられる。再び楽しそうな笑顔を見せたあと体を起き上がらせて、今度は僕の太腿に尻を乗せる。

「れーくんは俺のなんだもん!」

 横に体重を掛けられ、一緒に倒れ込む。そのときギルの頭が枕の上に乗るように体を少し引き寄せた。ギルは気づいていないようで、酒を飲んだようにヘラヘラと笑っている。

「酒、飲んだか」

「飲んでないよ! 飲んじゃ駄目だし」

 先輩とは違うか。

「ギル、場所を代わろうか」

「なんで?」

 答えを出す前にギルを僕の体に乗せて半回転し、場所を入れ代わった。ギルと壁との距離が近すぎるので僕がギルと距離を取れば、当たり前のようにギルは僕に近づく。

 もう一度同じ質問をされたあと、答えた。

「ギルは寝相悪いからな」

「悪くないもん! 俺自分のベッドで落ちたことないし、れーくんと一緒に寝た時も……。あれ、俺ずっと壁側だ。……知っててやってたの?」

「さあな」

 良い子はもう寝る時間だ。ギルに背を向けて、照明のリモコンに手を伸ばして部屋を真っ暗にする。

「わっ……。急に消さないでよ。あと……ちょっとだけ明るくして」

 僕が調節する前にリモコンを奪って好みの明るさにする。僕は真っ暗で寝たい人間だから、いつもギルが寝ついた時に暗くしている。

「ていうかなんでそっち向くの? こっち向いてよ」

「…………」

 軽く肩を揺らされる。それでも動くのが面倒で向きはしなかった。

「もー。いっつもそうじゃん……。今日はぎゅってしたい日だったのに」

 一緒に寝ればいつもしてくるだろ。寝ずとも事あるごとに抱きついてくる。それとなにが違う。

 寝転ぶ向きを変えた音がした。これは完全に拗ねている。明日、コンビニでギルが好きなおやつでも買いに行こう、なんて提案すれば機嫌を直すか?

「あ、れーくんも枕使って」

 頭を持ち上げられて枕の上に乗せられる。それでも自分で端まで移動させた。ギルのことだから枕のど真ん中に乗せたことだろう。

 目を瞑っても眠気はやはりなく、寝れそうにない。ギルはもう寝たのか静かだ。そっと僕の背に自分の背中を付けさえもする。……起きているな。けど、背中に触れられるのは温かくて心地いいんだ。

「……れーくんって、俺のことどう思ってるの?」

 再び向きが変えられる音がしたあと、脇下と腕の隙間から腕をぬるっと入れ込んできて、ギルの手が腹に触れる。

「……どうとは」

「友だちだと思ってるとか」

「…………」

 考えたことがなかったな。ギルをか。

 しばらくの猶予が許され、時間も気にせず黙り込む。一分ほどそうして、自分なりの答えが頭に浮かんだら口を開けた。

「そうだな。さっきギルが言った通り友人、かけがえのない存在……とかで満足か」

「俺のこと……好き?」

「……恋愛対象が同性というわけではないが、べつに好きになる相手もいないから、消去法でそうなるかもな。必ずどこかに好きの感情があるのなら」

「あはは。そう言ってくれて嬉しい。俺もれーくんのこと好きだよ。だーい好き。れーくんのかっこいいところも優しいところもたまに可愛いところも、俺のこと思って行動してくれるところも、全然見せてくれないけどれーくんの弱いところも。ぜーんぶ大好き。よく病気しちゃうけど、その分お世話できるからそんなところも大好きだよ。あはは」

 世話ができるからって……。僕をおもちゃの人形だと思ってはいないか?

「最後のは除くとして、ありがたい言葉をいただいた。……突然だが、好きと愛してるの違いを知ってるか」

「ほんとに急じゃん」

 僕もこの前たまたま知った。それまでは同じ意味もしくは「愛している」のほうが重いなんて思っていたが、そんな単純ではなかった。

「好きは……大切にしたい、で愛してるは愛情……みたいな?」

「『好き』は相手が自分の好みという感情で、ただ表面上しか見ていない。『愛している』は表面上だけでなく、裏面上のことも知って受け入れ、自分を犠牲にしてまで大切にしたいと思う気持ち。……言いたいことわかるか」

「え、全然わかんない。好きと愛してるの違いはわかったけど」

「……それならべつに構わない。無理に考える必要もない」

「ヘンなのー」

 足元にあった毛布を足で引き寄せて、ギルに掛からないように腹まで掛ける。

 本人がわからないのならいいんだ。本気の言葉ではなかったからわからないんだ。しかもこれは無理に言わせて片が付く言葉でもない。


 ギルの言葉を最後に、なにか言葉を交わされることはなかった。ずいぶん時間が経って、今は何時か、何分かわからない。薄らと照明がついて寝れそうにもない。

 視界には見えないがギルもずっと静かで、ギルの腕はずっと脇下と腕の間に挟まれている。唯一見えるギルの手が動いたということもなく、もう寝たんじゃないかと思うほどだ。

 寝ているのなら照明を消してもいいだろうと思ってリモコンに手を伸ばすが、挟まる腕がピクリと動いて僕のリモコンを掴もうとする手も止まる。

 まだ起きているかもしれないから、一時間経ったあと自動的に消える設定にして腕を戻した。そのときになんとなくギルの手を握る。

 静かで薄らと照明がついていても寝れそうだったとき、小さく声が聞こえた。

「れーくん……寝ちゃった……?」

 半分寝たような感覚で、目も開かず声もでなかった。ギルは起きていたらしい。

「あのね、わかったの」

 もう意識がなくなりそうなところで、ギルから今日最後の言葉を聞いた。

 それはこんな僕でもいいと受け入れてくれたも同前で、一生涯心に残るものだった。

「愛してる」

 僕は誰からも愛されないことを望んだわけではないんだ。

 「早咲きの蓮華は地面咲いた」の二作目、「それを望んだわけではない」です。

 前作「大切な本」に比べてテーマを定めて書くことができているなと思っているので、前作よりいいなと思っていただけたなら嬉しいです!


 前作より遅い投稿になりましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

 どんな評価、ご感想でもお待ちしています。お気軽に評価やご感想を書いていってください!

 ありがとうございました。

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