早くに咲いた蓮華は春を知る(1/2)
※本作、暴力描写がございます。ご注意ください。
二月中旬。ある平日の放課後。
どこかに行っていたギルが教室に帰ってきた。
返ってくるなり僕が暇つぶしに読んでいた小説を、息をするかのように奪って閉じられ、なんだとばかりにギルを見た。が、なにかしたと逆に質問してきそうなほど平然に、べつの質問をする。
「ねえれーくん。今日なんの日か知ってる?」
今日か。ギルの誕生日……は確か五月だから違う。ならケイの誕生日……は修学旅行に行った月だから違う。となれば、
「下条か総務か柊の誕生日」
「はい全部ぶー。それになんで誕生日だと思ったの? 誕生日ならその人のこともっと祝ってるよ」
「そうか」
「そうそう。……で、なんの日か当ててよ」
仕方ない。少しだけ考えてやる。
誕生日の線はないらしい。なら、国かどこかが定めている日、例えば建国記念日とか、もしくはハロウィンといった国が定めてはいないが行事としてある日、そんな日とかだろう。
二月のそういった日……。
「チョコの日」
「……チョコの日? あはは、なにそれ! 確かに惜しいかもしれないけど」
違うのか。今日やたら教室がチョコ臭かったし、僕の机や鞄に誰かのチョコの置き忘れがあったからそうなのかと思っていたんだが。
……いや、鞄内にあるのは誰かの置き忘れであってはいけない。勝手に鞄を覗いたことになる。だから誰かべつの人の鞄の入れ間違えだ。
「今日は、ば」
「バレンタイン、だろ」
ケイが鞄と防寒具を持って席にやってきた。そしてなぜか手に持っていたニット帽を僕の頭に被らされる。けど温かいからいい。
「俺言おうと思ってたのにー」
「はは。つい」
ギルがケイに向けて頬を膨らませて見せるが、すぐに笑い飛ばした。
今日はバレンタインなんて日だったか。だから教室がチョコ臭くて、チョコの置き忘れや入れ間違いなんてのもあったのか。納得。
そういえば、教室内でチョコを配っていた奴もいたな。小さいチョコを。誰かも知らないし、なにを入れられているのかわからなかったから貰わなかったが。
『新藤さん、チョコどうぞ』
『……要らない』
『チョコ嫌いだった?』
『……そういうわけではないが』
『なら、はい! 貰って』
どうやって断ろうか迷ってるときにトイレからギルが帰ってきて、
『チョコ? ――さん朝から配ってたよね! 欲しいなってずっと見てた。あはは。貰っていい?』
『うん。いいよ』
ギルは箱から一つチョコを取る。
『れーくんは貰った?』
『要らないと言った』
『えー? でもおいしそうだよ?』
『要らない』
『……なられーくんの分も食べちゃうんだからねー。れーくんの分貰うね』
ギルは返事をする前に僕の分を箱から取った。
『あ……うん』
女子生徒は少し悲しそうな顔をして僕の前を去っていった。
けど一度席を外したあと、僕の席に配っていたチョコの置き忘れがあったから、配っていた箱の中に入れておいた。
その箱に入れたチョコに毒が入っていたら、また配りだしたとき学校内で殺人が……なんて妄想をしたが、恥ずかしくなってすぐにやめた。ミステリを好んでいるのだから、仕方がないじゃないか。
「それで、そのバレンタインがどうした。貰った数なら断ったと答えるが」
「えっ、貰ったのか」
「断ったと言った。耳付いているか。断った数は憶えていない」
「……そっか」
ケイはなぜか微笑んでいるようだった。
「れーくんほんともったいないことしたんだから。敬助くん貰った?」
「まあ、数人から。けど、なに入ってるかわかんないからそこらへんにいた欲しがってそうな男子にあげた」
「えー! 敬助くんももったいなーい」
ミステリー小説を読んでいると、貰ったものに毒が仕込まれていたなんてことあるから、やはりそういう警戒心を持ってしまうんだ。同じくミステリー小説を読むケイも食べなかったのならそういうことだギル。
「もったいない二人は置いといて、俺何人かから貰ったんだ。真也くんからもコンビニで売ってる四角い小さいチョコ貰ったんだよね。れーくんも貰ってなかった?」
「それなら貰って食べた」
ついさっきのことだ。
放課後になって、人もまだいるのに遠くの席から僕を呼んだかと思えば、「あげるー」とその小さなチョコを投げてきた憶えが。それに対しては投げるなと、言い返した。
「俺もスマホでゲームしてたとき、画面の上から滑らせてきてそのせいで負けて軽く怒ったな。自分でやったくせにそれ食べて落ち着けって言って逃げてったさ」
下条らしい。
「あはは。その現場見てたかも。面白いことするんだから。……ってまた話逸れちゃった! れーくんが断ったとか言うからー。それでね、今日れーくんの家に行きたいの。敬助くんと一緒に」
ケイもか。一度ケイの顔も見る。
「今日バレンタインだかられーくんに作ってきたの。それを敬助くんにも言ったら敬助くんも作ってるって言って。なら一緒にれーくんの家に行ってバレンタインチョコ食べてもらおって思って」
「そういうことなら構わない」
「やった。チョコは持ってるからそのまま直行でれーくんの家ね」
話が終わったならとばかりに、ギルから奪われた小説を奪い返して続きを読み始めた。ギルは嬉しそうに帰る準備をしに行った。
「……ギルくんの前だと……甘えたりなんかしないよな」
小説を読んでいるのにも関わらずケイは話しかけてきた。
「なんの話だ」
「く……冬休み入ったあたりから……蓮が素直に甘えてくれるようになってさ」
静かに小説を閉じる。
「……悪いとは思っているんだ。本当は誰にも迷惑をかけたくない。だから、ケイにもほどほどにしているつもりなんだ。けど……」
向かいに座っているケイの服の袖を握る。いや、強く握り直した。
「蓮が俺を頼ってくれるのはすごく嬉しい。迷惑なんて思ってないから、これからも満足するまで甘えたらいいさ。ずっと甘えられなくて、蓮自身は感じてなくても体ではもうとっくに限界を越してたんだ。蓮は頑張り屋なんだから、少しくらいサボってもいいんだ」
ケイは袖を掴む僕の手と手を重ねた。僕が小さく頷けば、肩を撫でてくれる。
「俺が蓮のくそ親に代わって、必要以上に甘やかしてやるさ」
その早々にその言葉に甘えたくなったくなった。
けどここは学校で、まだ教室にもちらほら生徒がいる。こんなところでできるはずもない。
それでも手を握ったり、後ろに立ってさりげなく腕を回してくれたりして、その温もりを静かに感じていた。
ギルが帰る準備をして戻ってきたときに、その温もりがなくなった。
「かーえろ」
「……ああ」
暖房がついていた教室から出ることになるから、コートの前を合わせて、サンタからの贈り物、マフラーと手袋を身に付ける。
ケイにニット帽を返そうと思ったが、「持ってきたけどちょっと熱かったから付けてていいよ」と素直に受け取ってくれなかったから付けている。
一階まで下りたあと校門に向かおうとするが、ギルが「真也くんの声聞こえる」なんて言うから、ギルに付き合って校門とは逆方向へ歩いている。
たぶんギルの幻聴だ。僕にはなにも聞こえなかった。強いて言うなら誰かが「これ受け取ってください」と、言った声くらい。
ギルの足は校舎裏手前で止まった。ギルが校舎裏を覗くから僕も覗いてみる。
「これ手作り?」
「ま、まあ……。その、まずくない……?」
「うん。おいしい!」
そこにはチョコを片手に持つ女子生徒と顔を赤くした下条がいた。いつの間に恋人なんていたんだ。
最後まで見送って女子生徒が去ったあと、ギルが応援しに行こうなんて言い残して行ってしまった。
ケイも付いていっていたが、どうも色恋事に興味はない。壁にもたれて待っていた。
「真也くん! いい感じだね!」
「うぉっ、お、お前らいつから……」
「あそこで見てたんだ。告白したの?」
「へ、返事待ち」
「え! 告白したの!」
「ばっ、声でかいって」
意外と積極的なんだな。けど、女からしたら告白待ちがほとんどだったりして、いつまで待たせるなんて急に怒りだして逆の展開にいってしまった現場なんてときどき見かけるから、男なら積極的なほうがいいんだろう。
稀に女から告白してくることはあるらしいが。
ギルの気が済むのを目を瞑って待っていたとき目の前で足音がした。妙に甘い香りがし、ドキッとして目を開けたら、女子生徒が立っていた。手にはチョコカップケーキを透明な袋に入れて持っていた。鮮やかに装飾もされている。
「あ、あの……ちょっと前にお話したとき、楽しくて……よければ受け取ってください」
なるほど。これは稀なパターンか。
「悪いが」
誰だ。
口から出る前に口を閉じた。
言ってしまえば傷つけるのは確かだ。言葉を変えよう。
「精いっぱい作ったんです」
「…………」
「と、遠回しなんて卑怯……ですよね。本当のことを言います……す、好きです。付き合ってください」
「…………」
駄目だ。どんどん勝手に話が進んでいく。
どうやったら傷つけずに事を済ませられるか。
「……相手は僕で合ってるのか」
「は、はい。合ってます。受け取ってくれませんか……?」
「……僕は恋なんてもの興味はないんだ。それに、いつ話をした……かを思いだす必要があるくらい、おま……あ、なたと話をしていない。僕は仲が深くない人間に時間を割く気はない」
女子生徒はどんどん俯いてしまう。さすがに泣かすなんてことはしたくない。
「付き合うことはできない。が、絶対にヘンなものを入れてないと証明できるならその菓子だけもらってやる。が、特別だとは思うな。僕はお前を特別だとは思っていない」
傷つけないように言葉を選んで、予想外の言葉「ヘンなものが入っていない証明」なんて言ったから、少しぽかんとしていた。それでもなぜか袋を開けてカップケーキを取り出す。
「わたしが一口食べたら、なにも入っていないこと、証明できますよね!」
勢いよくかぶりついて、カップケーキの欠片を頬に付ける。
これでどうだと言わんばかりの眩しい眼差しに目を逸らす。
「……あとで食べるから、袋に入れておいてくれ」
「はい!」
なんとか傷つけないで済んだ。いつ泣き出すかとヒヤヒヤした。
カップケーキを受け取ったあと、女子生徒は嬉しそうに去っていった。
僕が証明しろなんて言ったが、食べかけのカップケーキを人にあげる度胸は認める。
「もー、ほんとれーくんったらー。ちゃんとはい、お願いしますって言わないとー」
校舎裏で盗み聞きしていた三人がぞろぞろと顔を出してきた。場所的に聞こえるだろうなとは思っていたから気には留めなかった。
「誰かも知らない相手と付き合うなんて馬鹿のすることだ」
「せっかく今日初めて対面で受け取ってほしいって言ってくれたのに。対面を選んだあの子、絶対に本気の本命だよ。これは総務さんに報告だなー。れーくんに叱ってもらわないと」
面倒臭いことをする。
総務はギル以上に色恋事に関心があって、恋愛もののドラマはよく見ているらしく、教室で起きている恋愛はほとんど把握しているらしい。そんな総務に今のことを言われたらどれほどグチグチ言われることか。
下条も帰るところだったらしく、校門に戻って一緒に帰ることになった。
貰ったカップケーキを手に提げてブラブラと揺らす。
「真也くんちゅーした?」
「し、してねーよ。てかまだ付き合ってねーって!」
「したら教えてね。一番に。俺ほんとに応援してるから!」
「……っそ」
相当恥ずかしいのか口数が少なく、まだ顔を赤くしている。恋はこんなに人を動かすものなんだな。
けど、僕も先輩といたときはずいぶんと動かされていた。もし……先輩にチョコ、渡したら食べてくれるだろうか。
僕は二人に気づかれないようにケイのコートを掴みながら歩いている。ケイによく似合うコートを二本指で掴んでいる。それにケイはなにも言わないで、優しく応えてくれている。
「蓮はなんでさっき断ったんだよ」
下条がギルからのからかいを免れようとするように、話を投げかけてきた。
「さっきも言ったが、好きでもない相手に時間を割きたくない。それだけだ」
「じゃあ俺たちとこうやって喋るための時間割いてくれてるのは好きってことでいいの?」
「勝手に思えばいいが、恋愛対象でなければ、そもそも友人にすら時間を割けない人間なんて学校にすらも来ていないだろうとは言っておく」
「ツンデレさんなんだからー」
なにがだ。
下条とは途中で別れ、家の前に着いたらもともと突っ込んでいたポケットから鍵を取り出して開ける。
昼におしるこを自販機で買って、おつりを財布に入れるのが面倒でポケットに入れたままだったから少し取りにくかった。
家に入るなり暖房をつけて、温まるまでソファーで待つ。帰ってきてからいつもそうしている。もちろん防寒具も着たままで、手も洗わない。ギルやケイはなにも言わなくとも洗っているのに。ここの家の主は誰だったか。
温まってからやっとコートを脱いで、マフラーや手袋も外して手を洗いに行く。家に帰ってからここまで約十五分ほど。
ギルたちに何度かチョコを食べないのかと言われたが、部屋が温まってからと一点張りでいた。
ギルたちは向かい合って食卓椅子に座って、なにか話をしていた。僕がチョコを食べようかと言えば話が終わって、ギルが冷蔵庫からいくつかの菓子を持ってきて、そのうち二つをケイに渡す。
「やっと食べてくれる。ずっと待ってたんだからね。れーくんの寒がりさんには呆れるよ」
呆れ顔で手を広げて頭を降る。悪かったな寒がりで。
ギルの隣に座って、背もたれに掛けていたブランケットを膝に掛けた。
「じゃあ俺からね!」
紙袋を僕とケイの前に置いて開けてみてと言うから、中身を見てみた。中にはチョコカップケーキが三つ入っている。そのうちの一つを取り出した。
手のひらサイズのカップケーキの上に、淡い色のソフトクリームのように巻かれた……なんだこれ、生クリームのようなものが載って、綺麗に飾り付けされている。彩りも綺麗でおいしそうだ。
「カップケーキ作ったんだー! 俺一人で作ろうと思ってたんだけど、苦戦してるの見てお母さんが手伝ってくれたんだ。えへへ。どうぞ食べて!」
「……いただきます」
周りの薄い紙を剥がして一口食べる。
おいしい。この生クリームのようなものは生クリームではないようだ。ふんわりとして柔らかい。カップケーキは弾力があっておいしい。
「ギルくん、すごいおいしいよ」
「ほんとに! 口に合ってよかった。れーくんは?」
「同じく」
「食レポして」
また無茶振りを。
「……チョコレート生地は弾力性で食べごたえがあって、上に載っているふんわりとした食感のなにかと味がよく合う」
「あはは、ありがと。上のはね、バタークリームっていうやつ。真也くんと総務さんにも渡したんだけど、真也くんはゲームしてて、総務さんはいそがしくてすぐに食べてくれなかったんだよねー。おいしく出来てたなら安心!」
食べ終えたら薄い紙を折りたたんで、ホコリが入らないように紙袋も閉じる。
「次敬助くんね」
「そんなに量はないんだけど……」
そんな言葉と同時に二つの箱を開けて、僕らの前に出した。一つはチョコがまんべんなく掛かり、その上からカラースプレーや斜線にホワイトチョコレートなどが掛かっているドーナツ。二つ目は五種類ほどあるクッキー。
しかもさっきあんなことを言っていた割に、ドーナツは六つ、クッキーは箱の半分より少し上くらいあった。
「ドーナツとクッキーも作れるなんて敬助くんお菓子作るの得意でしょ!」
「今回が初めてさ」
「えー、絶対嘘だー」
「本当だって。口に合ったらいいけど」
近くに置かれたドーナツから食べよう。
ホワイトチョコが掛かっているドーナツを手に取った。
「いただきます」
一口。
生地からほんのりコーヒーのニオイがする。それがホワイトチョコの甘さと混ざり合って、すごくおいしい。
「よくこの組み合わせを考えたな。おいしい」
「コーヒー風味以外はネットのを借りたさ。けど、そう言ってもらえるのは嬉しい」
続いてクッキーもいただこうかと思ったが、ギルが食べたそうにソワソワしているのを見つけた。
「ギルは食べないのか」
「だって、これは敬助くんがれーくんのために作ったお菓子だから……駄目かなって」
「べつに食べてくれたらいいよ」
「えっ、いいの!」
「蓮の分ちゃんと残してくれたらそれで」
ギルは目を輝かせて感謝をし、早速クッキーを手にしていた。僕も一つ取ろうとするが、止まる。
種類があるらしいのを思いだして聞いた。ケイが身を乗り出して一つに指差す。
「これがココア、こっちはホワイトチョコ、抹茶といちご、で、紅茶」
五種類も作るなんて本当に菓子作りの才能があるんじゃないか? 材料費はいくらしたのだろう。
「じゃあこれ紅茶だ。れーくんこれサクサク感すごいよ!」
僕は抹茶を一枚手に取って食べた。ギルの言っていた通り、すごくサクサクだ。ほんのりと抹茶の味がして甘みもする。
「おいしい」
「でしょ! 俺作ったわけじゃないけど、他の人に勧めたくなる味でしょ!」
「ああ」
微笑する。ギルが作ったわけでもないのにな。
残りは明日も食べられるようにと、残させてもらった。せっかくだから日を分けて味わって食べたい。
「口の中がおいしさであふれて、もう夕食はいらないな」
「食べろ」
「食べてよ?」
二人の声が重なる。……二人して。
「れーくんが食べてくれるように、今日の夜ごはんなに作ったか写真撮って送ってもらうからね」
「勝手にしろ」
「いや、送るのはれーくんなんだから。ちゃんと送ってよね」
……仕方ない。ギルたちを玄関まで送ったら作ろうか。
日中でも寒いのに夜になるともっと寒くなる冬に、二人の家まで送っていきたくはない。だから早めに帰ることを促し、玄関までしか送らなかった。
「あ、お返し俺待ってるよ」
「……出来次第渡す」
「えー、せっかくならホワイトデーにしてよ。三月十四日。覚えた?」
「今は」
バレンタインのお返しをする日がホワイトデーというのも今知った。
「今日はありがとう。おいしかった」
「うん、じゃあね」
「また明日」
「ああ」
扉が閉まるまで見送り、扉が完全に閉まったら家の静けさに寂しさを覚える。
「…………」
拭いきれない孤独感を背負いながら扉に鍵をかけた。
少しの間、二人がなにかの拍子に帰ってこないかと扉の前に立っていたがそんなことはなく、馬鹿馬鹿しく感じてリビングに戻った。
さっきの菓子で腹はあまり空いていないし栄養ゼリーで済ましたい。けど、ギルが写真を送れとかなんとか言っていた気がする。
あまり作れる気分ではない。最近ずっとだ。家に帰ってから独りになると、なにもする気力がなくなる。なんとかカップ麺か栄養ゼリーを胃の中に入れられるくらいだ。冬であまり汗もかかないから風呂も毎日は入っていない。
なにを作ろうかと、作るかどうかもわからないのに考えながらソファーに気だるく座り込む。
コートやマフラーは背もたれに無造作に掛けられ、ローテーブルにはテレビのリモコンの他に、手袋やケイのニット帽があった。
「…………」
結局返し忘れてしまった。今から追いかけたら追いつくだろうか。それか電話をかけたら戻ってきてくれるか?
後者によって孤独感を埋めてくれることを願いながら、電話をかけた。
……一コール。……ニコール。……出た。
『どうした?』
「家に……ケイのニット帽があって」
『……あぁ、忘れてた。んー、悪いけど明日持って来てもらえる? 今から戻るのはちょっと面倒臭い。まだギルくんとも別れてないし』
「……わかった。明日返す」
『ごめんな。ありがと』
家には戻ってきてはくれないらしい。孤独感を埋めてはくれないらしい。
放課後、あんなことを言っていたのに……。
けど、ケイも人間で面倒臭いなんてことも思うんだ。それに明日会える。それでいいじゃないか。……それでいいんだ。
電話を切ったあと、しばらく画面に映る『ケイ』という文字を見ていた。
今晩はなにを食べようか。
警部に、バレンタインチョコを貰ったこと、今度警部にも作って食べてもらいたいことをチャットに送れば、すぐに返信が来て少し気分も落ち着いた。気分が落ち着いた今のうちに作ってしまおうと、キッチンに立った。
冷蔵庫はしばらく開けていなくて、材料もあまりない。そんななか見つけたのが消費期限切れの鶏肉と消費期限切れ数日前の卵、期限に余裕がある無事な玉ねぎ。保存していた冷凍ごはんがあるし親子丼でも作ろう。
卵の消費期限を切らすことは何度かあったが肉を切らしたことは意外と初めてかもしれない。
数日なら消費期限が切れていても十分に加熱して食べれば問題ないと思って今回も使う。
ある程度鶏肉に火が通って玉ねぎもしんなりしたら、調味料を入れて煮込む。そのあと卵を注いで半熟くらいになったら完全に火を止める。
丼に解凍していた白米を入れて、作ったものを上から被せたら完成だ。ギルに送ろうか。
写真を撮って送る。が、間違えてグループのほうに送ってしまった。……まあいいか。
なんとなく警部にも写真を送った。すぐに返信は来ない。が、ギルではないから仕方がない。
食べよう。
スプーンを持ってきて食べ始める。
「…………」
が、すぐに手が止まった。
なんだかヘンな味がする。初めは調味料を間違えたかなんて疑ったが、そんな憶えはない。きっと肉が少し傷んでいたのだろう。消費期限切れだからそう考えるのが普通だ。
ヘンな味がしたのならもう食べるべきではないのはわかっているが、どうしても殺された鳥のことを考えたら捨てられるわけがなく、上からめんつゆを掛けてごまかして全部食べきった。ギルたちからの菓子もあったから少し腹が膨れすぎた。
食べ終えたあと、少しの間ソファーでのんびりして、腹がしぼむのを待っていた。
数日後の朝。
ケイのニット帽を鞄に入っていることを確かめて家を出た。あの日以来ずっと忘れていた。
いつも通りギルと並んで学校へ向かう。朝から体に若干の熱を帯び、腹をさすりながら向かう。
「……れーくんさっきからずっとお腹さすってるけど、どうしたの? 痛いの?」
「いや……少しな」
「無理しちゃ駄目だからね。れーくんのちょっと頭痛いーちょっとお腹痛いーは病気になる予兆なんだから」
「……左様。けどきっとすぐ治まる。酷く痛いわけではないんだ」
「フラグ立てないでよ?」
朝は本当に軽く腹痛がある程度だった。けど時間が経つに連れ痛みは増して、次第に吐き気もしてきた。すごく面倒な方向に進んでいるのはわかっていた。
ついには三時間目の授業中、一度抜けてトイレに吐きに行った。そして戻りが遅いのが心配でか、ギルがトイレまで見に来て、吐いたのがバレて早退することになった。微熱もあったからそれも考慮してらしい。
帰宅したあと動きにくいコートやブレザーを脱いで、手も洗わずソファーで横になっている。
自分の部屋に行く気力はなく、トイレにすぐ駆け込めるようにここを選んだ。
ギルからはいつでも助けを呼べるようにスマホを、電話をかける画面にしろと言われている。が、していない。
何度かトイレに引きこもって昼食も食べれないまま、昼過ぎになった。
体温を増す熱、酷い腹痛と吐き気で魘されるなか、なぜ今こうなったのか考えた。
吐くなんてこと、インフルエンザなどにかかったり胃がやられなければめったにない。それでもさっき吐いてしまった。
要因には見当がついている。数日前に食べた消費期限切れの鶏肉だろう。あれくらいしか考えられない。加熱不足か、生肉を触れた箸を使ったか。きちんと火を通したのかと問われたら、半分くらい通ってから調味料を加えたと答えるし、生肉を触れた箸を替えたかと問われたら、無意識の行動で憶えていないと答える。失敗したな。
食中毒なんてあの時以来だ。初めてなにかを作った、あの時。
少なくともギルは家まで来て心配しにくるだろうから、その時間になるまで安静にしていよう。
インフルエンザはB型にならなければ高熱にうなされるだけで済むが、食中毒は必ずと言っていいほど嘔吐する。三本指で足りるくらい嘔吐が嫌いな僕にとって食中毒は悪魔のような貰いものだ。
部屋に行って部屋着に着替えたあと、毛布とぬいぐるみを持ってソファーに戻った。寝転んで時間が経つのを待つ。
痛みに余裕があれば寝ようともした。トイレにも何度か籠もった。そうしていたら玄関から鍵の開ける音が聞こえた。
「れーくん部屋かな」
「いや、朝から腹の調子悪そうだったなら、すぐにトイレに行けるように一階のソファーで寝転がってる。……ほらな」
二人分の足音は近づいて、一つは僕の目の前で止まる。目を開ければギルがいた。
「れーくんお腹もう大丈夫? 痛くない? また吐いたりしてない?」
「全部ハズレだ」
「インフルエンザかな……」
「いや、きっと肉にあたった。食中毒だ。いつかに写真を送っただろ。ギルがなんとか言って。そのときに使った肉が消費期限切れのものだったんだ。それ以外だとすれば知らない。……暖房、つけようか」
ローテーブルにあるエアコンのリモコンに手を伸ばして、ピッと音を立てて暖房をつける。
調子の悪さを慰めるように、ギルが毛布の上から僕の肩を撫でた。
「……ねえ、俺の家に今から行けない? 食中毒なんて……れーくん一人でいるの怖い。俺の家ならずっとお母さんいるし、行かない……?」
「心配するな。食中毒は自然治癒されるものだ。それにこれが原因で死ぬなんてこともないんだ。インフルエンザとは違ってな」
「……そうは言っても、家事もろくにできないだろ? 料理も洗濯も」
「こうなったなら食事は栄養ゼリーで済ませる。どうせ出ていくものだ。なんだっていい。洗濯も、出る予定がなくなるから着替えを用意する必要もないから……悪い」
腹が痛くなってきた。気だるげに起き上がってトイレに籠もりに行く。
寒いなかトイレ内で籠もって、消えない腹の違和感に腹をさすって出た。早く治ってほしい。
ソファーに戻れば、ギルが場所を変えてソファーに座っていた。ギルがいて寝転べないから仕方なく隣に座ったとき、ギルが僕を呼んで自分の腿をぽんぽんと叩いた。
「ここに頭乗せて。膝枕してあげる」
寝転びたい欲と誰かに触れたい欲で、素直に頭を乗せた。けど、ギルのほうには向かない。急な嘔吐をしてしまったとき、ギルの服を汚すわけにはいかない。
乗せるなり早々頭を撫でてくれる。心地よさで体が熱くなるが、腹痛を感じると一瞬にして血の気が引いて、むしろ寒くなる。けど、やっぱり撫でられるのは心地良い。
「ねえ、やっぱり家来ない?」
小さく、丸い声で言われる。
「行かない」
「……そっか」
第一、迷惑をかけられない。
「なら、俺が蓮の家に泊まって看病するのは?」
ケイの声がどこかから聞こえる。場所声的にソファーの後ろにいたから。
「一人でどうにかできる」
「できない。できなかったから昼もギルくんがトイレまで見に行って見つけられたんだろ。それに食中毒なら余計に水分が抜ける。帰ってから一度でも水飲んだか」
「……いや」
「その二つのことで、蓮が一人でどうにかできない証明がついた。俺は今日泊まるからな」
ケイらしく論理的に泊まることを迫ってきたか。ギルのお願い一点張りとは違う。
「じゃ、じゃあ俺も泊まる」
ついでかのように。わかりやすく小さく溜息を吐く。
「……わかった。泊まっていけ。けど、買い物は行けないから食べたいもの買ってきてくれないと作れないからな」
「えっ、俺が作るって。病人に家事やらせる馬鹿がどこにいるんだよ。蓮は寝てたらいいから」
「俺はれーくんの看病するもん」
「…………」
本当にいい友人を持ったものだ。
食事はケイに作ってもらうことになった。ケイとは違って、要らないと言っているのにギルは僕の看病といって聞かないが。
「水飲んでないんだよな。持ってくる」
ケイは頼りになるな。自称看護師のギルはケイと違って僕の頭を撫でてばかりいる。本当に看病する気があるのだろうか。
「なあ蓮。コップどこにある?」
やはりさっきの言葉は取り消す。仕方なく重たい体を起こせば、
「あ、あったあった」
なんて言う。重たい頭をドンッとギルの太腿に置いた。
「れーくん今の頭痛くなかった? ねえ、大丈夫?」
ケイがコップに水を入れて現れたら、体を起き上がらせてちびちびと飲んでいく。
ケイに食事作りは任せたものの、今日の夕食の材料はあるだろうか。明日の分はきっとないだろうから買い物に行ってもらう必要があるが。
「二人は日曜まで泊まるのか」
「うん。俺日曜の夕方くらいに帰るつもり。連絡はしてるから大丈夫だよ」
「俺は蓮の回復次第だな。ほら、俺なら気軽に学校休めるし」
「気軽に休むものじゃない。僕の看病をするくらいなら学校に行け」
「ははっ」
笑いでごまかされた。
まあいい。ギルが明後日の夕方までいるのなら、明後日の分の材料も買ってもらわなければならない。
「ケイ。今日は二人分でいいから食事を頼む。僕のは要らない。
明日の分の材料は確実にないだろうから買いに行ってほしい。もちろんケイが作れる範囲のものでいい。財布を渡すからケイのところから出すな。野菜の傷んでいるかどうかの見分け方は叩き込んでやる」
「俺もある程度は持ってる。わざわざ蓮の財布から出す必要ないさ」
また意地を張って……。けどこれ以上続けたら言い合いになりそうだからもう引こう。
それに、いくら言っても僕が直接付き合うわけではないからどちらの金を使ったかなんてわからない。
「今日の分は冷蔵庫の中を見て適当に作れそうか見てくれ。無理そうなら今日の夕食はコンビニだ」
ケイは僕が中身を飲みきったコップを持ってキッチンに入っていく。僕は相変わらずギルに頭を撫でられていた。
「れーくん嫌がらないね。ずっと撫でてるけど」
「…………」
ギルに今孤独感を抱えていることは言わないでいる。きっと心配して毎日自分の家に泊まらせようとでもするから。さすがに迷惑だ。
「……まあなんとなく作れそう」
「ならそれで頼む」
「蓮はおかゆでいいよな」
なにも聞いていないな。
「要らないと言った。ケイ本当に最近耳付いているか」
「付いてるけど?」
本当になにもわかっていないように聞き返さないでくれ。本当に頭がどうかしてると思ってしまう。
昨日も購買にメロンパンがあったからいるかとケイが聞いて、パンを食べたあとだったから要らないと答えたのに、当然かのように僕の机に置いて買ってきたなんて言っていたし。耳が聞こえないにしては話が通じるし。なんなんだ。
「敬助くんお腹空いたー」
「今から作るからちょっとの辛抱。ギルくんはなにか食べられないものってあったっけ」
「ピーマンきらーい」
「ん、了解」
さっそくなにか作り始めるようだ。包丁が抜かれる音がした。お手並み拝見。と言ってもここからだと視覚は機能しないから聴覚でしかわからないが。
まあ熱のせいか眠気がある。僕は仮眠をしたいところ。そうキッチンから開け閉めする音を聞きながら思う。
「……ケイ、場所わかるか」
「わかる」
そうは言ってもまだ音は止まらない。
「……本当に大丈夫か」
「……たぶん」
まだ止む気配がなく、仕方なく重い体を起こした。ギルがそれを支えるように付いてくる。
「なに作るんだ」
台所には、まな板の上に輪切りにされたウインナー、他に切られていないにんじん、玉ねぎがあった。本当になに作るんだ。
「オムライス作ろうかなって。具だけの」
それはオムレツと言うんじゃないか?
「それならブロッコリーもあっただろ。入れるといい。それと冷凍ごはんでいいなら白米もある。オムライスにしたければ使え。
……それと切る順番を考えるんだな。生もののウインナーを先に切ったら洗う必要が出てきてしまう。で、さっきはざるを探していたんだな。ざるはコンロの下にあるのを使え。けど、触る前にまず手を洗え。僕みたいになってしまう」
「れーくんさっすが」
「……あと肉もなにか残っていた気がするんだ」
しゃがんで冷凍庫を覗き込む。
「牛肉が……少しだけあるからこれも使ってしまえ。ただ、絶対にきちんと火が通ったこと確認してから次を入れろ。僕みたいになる」
半ば火が通った確認だけで次を入れた僕が言うんだ。説得力しかない。
「またなにかあれば構わず言ってくれ」
再びギルに引っ付かれながらソファーに寝転んだ。今度は先に僕が寝転んだからギルの座る場所がなければ膝枕もされない。
それでも膝立ちして頭を撫でてくる。よくもまあ飽きないものだ。
軽く目を瞑る。腹は変わらず不調を訴えてきて体も熱い。……こう見えてしんどい。寝れるになら寝てしまいたい。
傍で立ち上がった音がする。そしてキッチンのあるほうへ足音は消える。頭を撫でることに飽きて、ケイの手際を見に行ったか。
そんなことを思っていたが足音は戻ってきて、音が聞こえ始めた場所で音が止む。
「れーくんちょっと冷たいよ」
前髪を上げられたかと思うと、当てられたそれがあまりにも冷たくてびっくりして目を開けた。
「あはは、冷たすぎてびっくりしちゃった?」
前髪を上げられて貼られたのは冷却ジェルシートらしい。付け始めの冷たさが嫌いなシート。
僕はなんでこう寒い時期に冷たいものを体に貼る必要があるんだ。そう声に出そうかと思ったが、ギルから「暑い日でも貼るじゃん」なんて当たり前のように言ってきそうだからやめた。
シートを押し当てるように腕で額を被せる。思いだしてぬいぐるみを胸に引き寄せて毛布も腹まで掛ける。
「……えへへ。やっぱりいつ見ても俺があげたぬいぐるみ使ってくれてるの嬉しいな」
「いい貰い物をした」
「そう言ってもらえて俺すっごく嬉しい」
「ギル。クッション、見当たらなければ椅子に掛かっているブランケットでも床に敷け。床硬いだろ」
「れーくんはそんな心配しなくていいの。足痛くなったられーくんの上に乗るから」
病人の上に乗ろうとするな。
キッチンから音がしなくなって順調に進んでいるのか不安になっていた頃、
「って……」
そんな声を聞く。
「ケイ。……どうした」
「いや、なんでもない。ありがと」
そして流水の音。もしかして……。
重い体を起き上がらせてふらふらとケイの横に立ち、流水で流す左手を引き出した。
……やっぱりだ。左親指の側面を縦一文字に切ったらしく、血があふれ出す。
「血が付いたまま料理はできないんだから、素直に言え」
振り返って薬箱の中から絆創膏を取り出す。
「これうまく貼れ。包丁は僕が洗っておくから」
絆創膏を渡せば素直に場所を代わってくれて、包丁を洗う。
けど、どうしてケイはあんなところ切ったんだ。まな板にはにんじんとその皮が散っている。皮を剥くピーラーは出ていない。
なら包丁で皮を剥こうとして失敗し、親指を切った。そんなところだろう。
包丁を洗って、キッチンペーパーで拭いたあとピーラーを出した。
「ケイ。ピーラーは出しておいたから、もう指を切るようなことするな。包丁も洗ってあるから使えばいい」
「わざわざごめんな。ありがとう」
ソファーに戻ろうとしたとき、後ろにいたギルに気づかずぶつかって、
「わっ」
「……悪い」
ソファーに寝転んだ。
「真っ赤な血だったね」
「ギルも出さないようにな」
「俺、血見たときいっつもあれ思いだすな。幼稚園の頃、れーくんと公園行ってて、迷子になって、れーくんが俺をかばって車にひかれたの。あの時に見た大量の真っ赤な血がいつもすぐに頭に出てくる。……あの時はほんとにごめんね」
「いつのことかもわからないのに謝れても困る」
この前そんな出来事を思いだしていた気がするが。憶えていない。
ギルは風呂に入るだろうから着替えを用意しないといけない。ケイは……入らなくとも置いておけばいいか。
だるむ体を起こしてふらふらと部屋に上がった。ギルももちろん付いてきていた。わざわざ僕がつけなかった階段の照明も二階の廊下の照明もつけながら。
「風呂、入るだろ」
「あ、うん。ありがと」
一セットできたらギルに渡して、一階のローテーブルにでも置いてくれと言う。もう一セットできたら、ギルがつけた照明を消しながら一階に下りた。
ギルは言われた通りローテーブルに置いたらしく、僕も隣に置く。
そしてソファーに寝転んだ。階段を上り下りしたから少し息が切れている。
「れーくん。今日の体育の時間れーくんはもう早退してたけど、持久走だったんだよ」
もうそんな時期か。食中毒が治っても仮病を使って休もうか。そんな考えが頭によぎるほどやりたくない。
「もうすぐ暖かくなってくるけどやっぱりまだ寒いじゃん? それで長袖持ってきてたのに、持久走って知って、えーって思ったもん。持久走ってわかってたなら俺半袖持ってきてたのに。それですっごく汗かいて。ほんと疲れたなー」
「お疲れさまだ」
持久走はもちろんしたくないが、それだけのために他の授業を出ないのは少し気が引ける。だから体育のときだけ休むようにしなければならないんだ。
どうすれば持久走をサボれるか。そんな思考を巡らせる。が、やはり一番早いのは仮病だな。保健室の先生は僕が体調をすぐ崩すことも知っているから、盛大に演技していれば簡単にサボれそうだ。
あまり気は向かないが。
「あ、あとね」
……眠たい。
「悪いが……少し休むから静かにしていてくれないか」
この時間から寝るのは夜寝れなくなるかもしれない。けど、いつ悪化するかわからない。寝れるうちに寝たほうがい。
「え? ……うん! もちろん。ゆっくり休んで。俺こそごめんね。れーくんしんどいのに聞いてくれて」
「着替え、ケイにも言ってくれ。風呂に入るならこの着替えを使えばいいと。タオルも洗面所にあるものを使えばいい」
「任せてよ」
目の上に腕を覆い被せて、照明の光を遮る。アイマスクが欲しい。が、あいにく部屋まで取りに行く必要がある。そんな気力なんてない。
ギルに顔や体をベタベタ触られていることを覚えながら、眠りについた。なんとなく居心地は悪くなかった。
驚いて目が覚めたのは、リビングいっぱいに響く、ガシャンッと皿が割れるような音が聞こえたから。すぐにすすり泣く音も聞こえ始めた。
不快感に腹を抱えながら音のしたキッチンに向かえば、ギルがしゃがみ込んで床に散乱した白い尖った破片を素手で拾い集めていた。皿を落として割ってしまったのだろう。
「ギル。拾うのをやめろ。危ない」
「ご、ごめんねれーくん」
謝るも、拾うことはやめない。細かな破片を拾おうと動く左手首を掴んで止めた。
「危ない。聞こえたか。べつに割ったことには怒っていないから。拾うのをやめろ。袋を持ってくるからそこを動くな」
ギルが頬を伝う涙を左手で拭おうとするから、それも止める。目に見えない破片が綺麗な瞳を傷つけるかもしれない。代わりに僕が袖で拭う。
玄関でスリッパを持ってきてギルに履かせたあと、袋を持ってきた。両手で抱えられていた皿の破片を袋にドサッと入れてもらえば、一気に重たくなる。
洗面所で手を洗うよう言えば素直に立ち上がって洗面所に入っていく。
その様子を見送ったら再び玄関に行って小さいほうきと塵取りを持ってきた。それで破片を集めては袋に入れることを繰り返す。
目に見える破片がなくなれば、目に見えない破片を取るために、濡らした雑巾で床を拭く。拭いたあと雑巾も袋に入れて縛り、上からガムテープで包めた。
それを端に置いたら一息吐く。
そういえばケイはどこいったんだ。
ギルが洗面所から出てこないから様子を見てみれば、ケイに慰められていた。
「あ、ほら蓮も怒ってないから」
扉を開けてケイの筋肉質な上半身が目に入るなり、僕をあやすのに使われる。
ずいぶん腹筋が発達している。胸筋は首から掛けられるタオルで見えない。僕の腹を服越しに触った。ケイのような凹凸はない。
「ケイ、代わる。服着ろ」
「ごめんな」
ギルを連れて狭い洗面所から出て、ソファーに座らせる。
「れーくんごめんね」
「気にしていない。それに皿は割れるものだ。絶対に壊れないモノじゃないんだ」
泣き止む素振りすら見せない。
「……ケイの料理はおいしかったか」
気を紛らわせようと、なんとなく聞いた。
「う、うん。……ちょっと焦げてたけど」
ワンテンポ遅れた言葉に思わず失笑する。
「料理を作れると言っても焦がしもする。僕だってときどきする。ギルが皿を割ってしまったことは人間なら仕方のないことなんだ。失敗のしない人間はいない。だから酷く自分を責めるな」
「うん……」
腹は痛くなってきた。
「ケイがもう食べ終わったのか」
「うん。先に食べ終わってて、ずっと俺待ってたのかじっとしてたから、入ってきていいよって」
「そうか。ならギルも入ってこい。湯が暖かいうちにな」
小さく「うん」と頷いて、ローテーブルにあった着替えを胸に引き寄せた。
「入ってくるね」
ギルが洗面所に入って、入れ違いにケイが出てくるのを見たあと、トイレに入った。
トイレから出たのは、洗面所で風呂の扉が閉まった音がするのと同時だった。ギルが風呂から出るまでの時間トイレに籠もっていたらしい。
そして食卓椅子に座っていた見慣れない眼鏡姿のケイに心配される。一緒に水が入ってるコップも渡された。
幸い、吐いてはいなかったから、ケイの向かいに気だるげに腰掛けてちびちびと飲んでいく。
飲んでいたら腹からぐーと情けない声が出た。
「……やっぱり夕飯作ったほうがよかったんじゃないか?」
「あまり空いていないんだ」
「胃が空いてるって言ってるけど」
「……言葉を変えよう。食欲がない。食欲不振というものだ」
「けどその鳴り具合、昼も食べてないだろ。さすがになにか食べたほうがいいって。今から作るからさ」
椅子から立ち上がってキッチンに向かおうとするから、服の裾を掴んで阻止した。
「本当に食欲がないんだ。だから、収納扉にある栄養ゼリー、なければ冷蔵庫に入っているのでいいから新しく作らないでくれ」
「……なにか食べてくれるならそれでいいさ」
わかってくれたようで服から手を離した。キッチンに入れば収納扉を開けているのを見てホッとする。
ギルが洗面所から出てきて、僕を意味もなく呼べばこちらまで駆けてきて隣に座る。まだ髪が濡れているようで、首にタオルが掛けられている。僕の家のシャンプーを使っているからいつものいいニオイはしない。
タオルで水気を取って、空のコップに気がつけば一言聞いてから水を注いで飲んだ。
「れーくんもいる?」
「さっき飲んだ」
「蓮。冷たいりんご味と常温のバナナ味、どっちがいい」
「りん、いやバナナ」
冬に冷たいものは食べたくない。
ケイが戻ってきたら常温のバナナ味の栄養ゼリーが渡され、開けてちびちびと飲んでいった。
「冬は特にれーくんいっぱい病気するから、ゼリーもっと持ってこないとね」
「わざわざ持ってこなくていい。あまりに溜まるものだから今持ってこないよう頼んでいるんだろ。要るなら自分で買う」
「買えないときに要るようになるんだから、買いに行けないでしょ?」
一瞬なにを言っているのかわからなかった。要は僕が買いに行くとき、つまり欲するときそれはもうなにか病気になっていて買いに行けない。そういうことだろう。もう少し日本語を話してくれ。
「買いに行けないとわかればれーくん諦めてぐーぐーお腹鳴らしたままでいるでしょ? それを見越して持ってきてたんだよ? それで今も必要あって、ずっと持ってきてなかったからあと二つしかない。ね、やっぱり持ってくるべきでしょ」
「……勝手にしろ」
残っていたゼリーを飲み干して、ギルに渡した。立ち上がって椅子を机の中に入れる。
「もう寝る。腹が落ち着いているときに寝ないと寝られなくなる。僕はソファーで寝るから、二人は僕のベッド、狭いなら……起こしてくれ。場所を代わる」
ギルののんきな「はーい」という返事を背中で受け止め、ソファーに寝転んだ。ぬいぐるみを胸に引き寄せて、頭から毛布を被った。
「れーくんおやすみー」
聞き慣れない夜の挨拶に一瞬当惑するも、平然を装って力なく言い返した。
「ふわぁ……」
ギルくんが隣で大きなあくびをする。
時刻は十二時を回ってもう一時前。
「ギルくん、蓮は俺がみてるから寝てきていいよ」
「でも、れーくん心配」
「大丈夫。俺が一晩起きてみてるから」
一度考えるように目を瞑って、開けたら蓮の頭を撫でる。
「……俺寝てくる。でも敬助くんも無理しないようにね。おやすみー」
「おやすみ」
立ち上がったときもう一度大きなあくびをして階段に姿を消した。
蓮が寝たのは九時半くらい。それから三時間半くらい経ってる。ときどき唸り声を上げながら今もぐっすり寝てる。
リビングの照明はもちろんつけてない。頭から毛布を被ってたから照明が眩しかったんだろうなと思って。蓮の傍に付いたときから消してた。
けどそれだと真っ暗になるからキッチンの明かりだけつけてる。ここからだと離れてて睡眠の妨害にもならないと思う。
一応、突然の嘔吐に備えた洗面器と水を入れたコップもテーブルに置いてる。コップにはホコリが入らないように上からラップもして。
寝てる間に体温を測ったら、三十八・五度って表示されたから、蓮が枕にしてるクッションの上に氷枕もタオルに包めて敷いた。
やっぱり冬の夜は冷え込む。俺が脱いだカーディガンを探して肩に掛けた。ブレザーのほうが温かいかもしれないけど、動きにくいからべつにいい。
ときどき蓮の様子を見ながらスマホで文字と写真が発信されてるSNSを眺める。
特定の界隈を見るわけでもなく、「あなたにおすすめ」でスクロールして、出てきたものに目を通してはときどき笑みをこぼしてる。でも遅い時間だからあんまり更新されない。
蓮がいきなり起きて口から胃液を吐き出したのは、眠たくなって腕で顔を隠しながらローテーブルに伏せてたとき。
もともと蓮が横向きに寝てたし、起き上がったら除けてたから毛布にもぬいぐるみにも掛からなかったけど、洗面器は用意できなかったから床とローテーブルの脚に無造作に広がった。
吐き出す声で起きた俺は洗面器を蓮の口元に持っていって、背中をさすった。
「びっくりしたな。ここに出していいから」
「け、い……」
落ち着いたら蓮がラップを被せてたコップを手にとって、口の中をゆすいで洗面器に出す。確かに、吐いたあとは口の中が気持ち悪いからな。
「ずっと起きてたのか」
蓮の掃除を手伝うっていう意思に敗北を味わってもらったあと、ソファーに寝転んで俺の様子を見る蓮が聞いた。
「いや、少しだけ寝てたかも。けど、昔数日寝ずに過ごしてた俺にとっては朝飯前さ」
「朝飯前なんて言うな。僕のことはいいから寝てこい。いくら朝飯前でも、泊まらせる身としては睡眠をとってもらわないとケイの両親になにか言われるかもしれない」
「大丈夫だって。もし言ってきても逆に言い返すから。蓮こそ、腹が痛まないうちに寝たほうがいいんじゃないか?」
「……ケイが寝たあと寝る。確認するまでは寝ない」
熱出してしんどそうな顔してるのになに言ってんだか。
そして俺が袋を変えて新しい洗面器にして戻ったときには、必死に目を開けてた。その行動が子供らしくて微笑したあと、瞼を閉じさせる。と、素直に瞼を閉じて寝てくれた。
時刻は三時前と、一番眠たくなる時間だった。寝そうになっていたから妙に頭もふらつく。ここからせめてギルくんが起きてくるまで蓮の様子をみておかないと。
最近遅くまで寝ないなんてことしてなかったからこの時間まで起きるの、少しつらい。けど、耐えないと。
蓮が寝ついて楽そうな寝息を立てている間に、近くの自販機でコーヒー缶を二缶買ってきて、朝まで眠気に耐えた。その間蓮はときどき唸るくらいで起きも吐きもしなかった。
ふと、カーテンの隙間から光が差し込んできて朝になったことに気づく。ギルくんはまだ起きてこない。
時間は六時半頃。休みだから起きてくるのも遅いんだろう。俺も休みだと昼まで寝てる。
無意識に蓮の頭を撫でた。あくびなんかしてないのに目が潤う。それを拭おうにも、腕が重くて拭えないでいると、階段から足音が聞こえてきた。
目を向ければ大きなあくびをしながらギルくんが出てきた。俺に気づいて「ずっと起きてたの!」と朝には響く声で驚かれる。その声に蓮も起きた。
「あ、れーくんごめんね起こしちゃって。おはよ」
「…………」
ギルくんの声が相当頭に響いたのか体を起こすなりギルくんのほうばかり見つめる。
「あはは、ごめんってー。敬助くんもおはよ」
「おはよ」
寝てないのにしゃがれた声が出る。
「れーくん具合どう? よくなった?」
「起こされて悪くなった」
もう氷もほとんど溶けた氷枕に乱暴に頭を置いてギルくんを背にする。
「ほんとに怒ってるやつじゃん。ごめんじゃん」
「…………」
そんな二人を今晩の疲れの癒しのように見て微笑んだ。
二人が起きたなら朝飯を準備しよ。
さっきぶりに立ち上がった感覚がして、でも足と腰に痛みが走る。声を出さずに痛がった。
ずいぶんと足元をよろけながらキッチンに向かう。
「け、敬助くん、ふらふらだよ?」
歩くのを止めるようにギルくんにしがみつかれた。耐えれずその場にしゃがみ込む。
「……ケイ、本当に一晩寝なかったんだな。コーヒーまで買ってきて」
怒声気味だ。それでも蓮が吐く前に少しだけ寝たと反論しようと口を開ける。
「でも」
「さっさと寝ろ。朝食の準備は僕がしておくから、僕のベッドで寝ろ。ふらふらになるまで起きるな」
怒られたな。
めまいがしだして動けずにいると、蓮が俺の腕を引っ張って、二階の蓮の部屋まで連れられた。ベッドに優しく叩きつけられて掛け布団まで被せられる。
本当に怒っているみたい。今までこんなことなかった。
「昼も僕が用意するから、起こすまで起きるな」
バンッと少し荒く扉が閉められた。
蓮を朝までみてられたから、ギルくんが起きたから、もういっか。
任務を果たせたような気がして、気絶するように眠りに入った。
馬鹿なことをする。僕をみるために一晩を寝ずに明かすなんて、馬鹿のすることだ。
ケイの行動に呆れと怒りを覚えるが、ギルにそんな様子を見せないよう平然を装って卵焼きを作っている。
朝食用の白米を予約炊飯してもらうよう言うのを忘れて、案の定炊飯されていなかった。
けど、ギルの分だけあればいい。冷凍のものでいいか聞けば「卵焼きも付いてくるならなんでもいいよ」と、電子レンジで白米を温めながら卵焼きを作っている。もちろん消費期限前のものでよく火を通して。僕の二の舞いにならないように。
白米と卵焼きの他に湯を入れて作れるコーンスープも用意した。食卓に並べたらギルが食べ始める。僕は向かいに座って気だるげにその様子を見ていた。
ときどき僕に食べさせようとしてきたが、食欲はなかったから食べなかった。そのたびにギルが少し悲しそうな顔をしていた。
「昼食はなにがいい」
「んー、俺れーくんが作るカレー食べたことないかも」
「煮込むのに時間がかかって面倒だからな」
そして、言ってきたということは食べたいということだろうから、昼食はカレーにしようと提案する。
「うん! 俺れーくんが作るカレー食べたい!」
「ただ、買い物だけ行ってくれるか。この体だといつ腹痛しだすかわからない」
「もちろん行ってくるよ! いつも食べさせてもらってるんだし、それくらいしないとバチあたっちゃう」
「そうか。買い物は……十時半頃でいい。買ってほしいものはあとで書いて渡す」
ギルが食べ終えたら何度でも作ってあげたくなるような元気な声で「ごちそうさま! 卵焼きすっごくおいしかったよ」と、特に変わったものを入れたわけでもないのに。
まだ腹痛が軽いうちに、冷蔵庫のカレーを作る材料があるか見る。昨日ケイがいろいろと使っていたから、野菜室はほぼゼロに等しい。ほぼ使われていないパックに入ったミニトマトが目立つくらいだ。あといつかに買ったりんご。ちょうど食中毒になる前とかに買ったものだ。早く食べてしまわないと。
冷蔵室も野菜室も冷凍室も、使えそうなものはなく、一から買ってもらう必要がありそうだ。
スマホ画面に向かうギルの向かいにメモ帳とシャーペンを持って座ったとき、スマホに向かってあははと笑う。動画でも観ているのだろう。
カレーに必要なもの。カレーのルーと具材。にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、肉……今ならブロッコリーを入れてもいいかもしれない。肉は硬くないほうが食べやすい。切り落としでいいか。
メモ帳にペンを走らせる。
・カレーのルー✕1箱 できれば甘口(からいものがいいなら、カレーの上から掛けられる小瓶の調味料も。からさをよく見ること)
・にんじん✕四、五本 表面に変色や傷がなく(細い横の線は気にしなくていい)、色の濃いもの
・じゃがいも✕三、四個 触っても硬くて変色していないもの
・玉ねぎ✕3個 形が綺麗で傷がなく、皮が乾燥しているもの
・ブロッコリー✕1 上のつぼみが引き締まっていて色がいいもの(新緑に近い色)
・切り落とし肉 200g 肉売り場でそのまま言えばいい。
・その他 ギルが食べたい菓子など(買いすぎ注意)
「ギル。買い物リストだ。傷んでいないものの選び方も書いているからそれ通りにしてくれたらいい」
「わかった。たまに小さいお使いは頼まれるけど、こんなしっかりしたお使い頼まれるの初めてかも。……ちょっと不安だな。あはは」
「困ることがあれば店の人でも、僕にでも電話をかけたらいい。出られるかは腹の状況次第だが」
「大変だね」
あとは金だ。ずっと一階に置きっぱなしの学校の鞄から財布を取り出し、中を覗く。買い物ができそうなくらいの金はある。
「……え! お菓子も買っていいの!」
「ああ。買いに行ってくれるご褒美だ」
「えへへ、れーくんと敬助くんのも買ってくるね」
「僕のは要らない。それとこれ財布、とエコバッグも持っていけ。カード類は全部ないと答えてくれていい」
ギルの前にそれぞれ置いたら、トイレに籠もりに行った。
ギルが出る時間まで不安を和らげようと、トイレを出たあともギルの向かいに座ってなにか話しをしようと思った。
それでもしんどそうに見えたのか、「ソファーに寝転ばない?」と移動させられた。足元にあったぬいぐるみも近くに持ってきてくれたから抱える。
「やっぱりかわいい」
「……なにが」
「れーくんのぬいぐるみぎゅってするところ」
腕の中にいるぬいぐるみとギルを見比べ、胸に引き寄せ直す。
「あれ、遠くにやらないんだ。いつもこんなこと言ったら離しちゃうのに」
「ギルから貰ったものだ。それに、ぬいぐるみが腕の中にいるとずいぶんと落ち着く」
「れーくんも落ち着くとかあるんだ。そうだよね、ぬいぐるみぎゅーってしたら落ち着くし、不安も少なくなるよね。……ねえ俺今買い物に一人で行くの不安なんだ」
さっきギルがぬいぐるみを抱くと落ち着いて安心できると言った。だから胸にいたぬいぐるみを差し出した。
なのに、
「ううん。大丈夫だよ」
断られる。
そして、
「俺はこっちがあるから」
ぬいぐるみと一緒に優しく抱かれる。ギルの胸が肩に当たればギルの心音がし、それは少し早い。ギルは昔と比べて表情には出さなくなった。
ギルの背に腕を回す。
「おとなになったな」
「……なにが?」
「ギルが、だ」
「あはは、なってないよ。俺はずっとれーくんの隣にいるだけで、なんにも変わってないよ」
成長というものは案外自分では気づけないのだろう。僕も気づいていないだけで成長しているのかもしれないが、それでもきっとなにも変わってない。
本当になにも。
十時半頃になってギルを玄関まで送ったあと、ソファーにだらしなく寝転ぶ。
少し心配になってくる。下条ほどではないが、ギルも抜けているところはある。じゃがいもとさつまいもを間違えて買ってきそうだ。まだ許容範囲ではあるが。
朝食を食べていなかったからか、腹が空いてきた。夜寝ていたときに胃のもの、強いて言うなら未消化のゼリーを出したから余計に空いているのかもしれない。
なにか食べたいと思って、鍋に水を入れて火をつける。それとコーンスープを作れる粉末を茶碗に入れた。
茶碗に沸騰した湯を入れたら食卓まで運んで、スプーンも持ってくる。スープから立つ温かい湯気を暖炉のように手をかざす。温かい。
容器から暖を取るようにして持って冷めるのを待つ。猫舌ではないが、沸騰したての湯を飲めるほど僕の舌は丈夫ではないんだ。
コーンスープを飲んだら体が温まってぽかぽかするから、それに応えてじっとぽかぽかする体でいた。より持続時間を長くするためにも肩にブランケットを掛ける。
なんとなくコーヒーを飲みたくなって、買いに行こうかどうか考えた末に、僕の財布は今ギルが持っているということを思いだして、諦めを覚えざるを得ない。そんなとき、上から物音が聞こえた。なにかが落ちる音。
ケイが起きたのだろう。初めはそう思った。けど聞こえた場所の真上は、父親の部屋だ。
「…………」
ギルですら僕以外の部屋に入ったことがないのに。
少しケイに不信感を抱きながら立ち上がって、階段を上る。父親の扉を開く前に僕の部屋を覗いたがやはり誰もいない。振り向いて父親の部屋の扉に手をかけた。
扉の開く音に気づいたケイは視線をこちらに向けて一歩あとずさりする。ケイのすぐ横には造作に開かれたクローゼットがある。
そのクローゼットの床にあるものを見てドキッとし、すぐに目を逸らした。頭と腹がズキズキとしだす。気持ち悪い。
「こ、これは……あの」
「あれほど入るなと言った。なんでこんなことをした。信頼をなくしてもいいのか」
「いや……その……」
続きの言葉を発さずに黙り込んでしまう。
「……ケイの勝手な正義感で動いたのなら、もうそんなことするな。ケイが気にすることはない。いくら思考を巡らせようとも、戻りもしない過去の話だ。僕の前から姿を消してくれた。僕はそれだけで……十分だ」
そうは言ったものの僕の口から出そうな言葉は、口から出ず、飲み込みもできない。喉にとどまってモヤモヤする。
「とにかく、早く出ていってくれないか。僕もここに長くはいたくない」
床に飛び散って乾いた血痕があるクローゼットを閉め、ケイの腕を引いて部屋から出た。扉も閉める。
「もう、絶対に入るな。また入ったら今度こそ信頼をなくす。なくしたければ勝手にしたらいいが」
「……勝手に入ってごめん」
ケイが謝ったあとすぐ、ケイの腹からぐーと音が鳴る。
「卵焼き、作ろうか」
一階に下りて、ケイは食卓椅子に座る。
コンロには朝、ギルに作った卵焼き器がある。まだ洗っていなくてよかった。卵が解けたら調味料を入れて、油を引いたフライパンに流して作っていく。
その途中、いきなり後ろから腹に手を回されてビクッとしてしまった。その様子にケイが笑う。食卓椅子に座っていたのに、いつの間に後ろに……。
「ギルくんは?」
「買い出しに行ってもらっている。昼食はカレーだ」
「カレーか。いいな」
「ただ、僕は甘口しか食べないから、ギルがからくできる調味料を買ってこなければ甘口になる」
巻き終えて、火を消して皿を出す。
「……食べられるのか? 食欲ないとか言ってたけど」
「治ってきているのか、少し食欲が湧いてな」
「ならよかった」
皿に移せたら箸と皿を持って食卓椅子に座る。ケイが向かいに座れば、二つとも近づける。
「いただきます」
もう一時間もすれば昼食になるが、卵焼きにカレーは少し多いだろうか。僕ほど少食ではないのは確かだが。
ケイに箸を貸してもらって、一口サイズを分けて口に箸を付けないように食べる。箸は返した。毒にかかっても作るものに毒は入っていないみたいだ。
「思えば蓮って、ずっと甘口しか食べてないよな。昔に甘口食べてたときは子供だからって思ってたけど、普通にからいの無理なのか?」
ちょちょいと卵焼きを食べたケイが言う。
「ああ。普通にからいのが無理だ」
「ギルくんがたまに、蓮はところどころかわいいところがあるって言ってるけど、カレーを甘口で食べるところとかかわ」
「卵焼きはおいしかったか」
あからさまに話を逸らしたことで、ケイは笑う。
べつにいいじゃないか。カレーを甘口で食べたって。からいのだから。
「でも、あの時からずっと甘口食べてたんだな。蓮の給食以外でカレー食べるの見たあの時。給食のカレーは全部甘口だったけど、店で食べるカレーはからさが選べるからさ。あそこのカレー屋はおいしかった」
「……なんの話をしている」
「……憶えてない? んー……俺が蓮の秘密を知った年、なんて言えばわかる?」
ケイが秘密を知った年。ケイにバレた年。そう言われたら、バレた当時のことが思いだされる。苦い思い出が。
「わかるが、そのカレー屋はわからない」
「まだわかんない? ……秘密を知ったすぐの日、蓮を無理やり連れ出したうちの一日。……タダでカレー食べた店」
ケイの言う「タダで」、その言葉でピンときた。心温まる記憶だ。
「その顔は思いだしたな」
「しっかり。あそこは確かにおいしかった。……あの人にまた会いたい」
「まだあの人やってるかな。今度一緒に行ってみる?」
「ああ」
今度こそ、金を払って食べる。もうタダで食べる必要はないと、伝えたい。
「けど、俺らが憶えてても、あの人が憶えてないかもしれないか……」
「そのときは……少し寂しいな。恩を返そうにも返せない」
そんなことがないことを願う。
いつ行くかなんて話をしていれば、リビングに置かれるスマホが振動しだした。
そこには僕とケイのスマホがあるが、鳴っているのは僕のスマホだ。相手はギル。渡した紙をなくしたなんて言いそうだ。
「もしもし」
『もしもしあのね、ハンバーグ食べたいの』
「…………」
予想外かつ、いきなりのことで言葉を失う。意味もなくケイに目線をやった。
「カレーではなくか」
『ううん。カレーも食べたい。さっきね、冷凍食品っていっぱいあるんだなーって見てたんだけど、その中にすっごくおいしそうなハンバーグあって、食べたくなっちゃったの』
「…………」
きっとそのハンバーグを追加で買えるほどの金が財布の中に入ってはいる。が、保冷バッグを持たせているわけでもないから、途中で溶かしてしまうかもしれない。冬だからある程度持つかもしれないが。
「頼んでいた肉は買ったか」
『ううん、まだ。今から行くところ』
「それなら僕がハンバーグを作るものでいいか。保冷バッグがないから帰っている途中に溶かしてしまうかもしれない」
『え! れーくんが作ってくれるの! 全然それでいいよ』
「なら頼んでいる肉を買うとき、一緒に合いびき肉を三〇〇グラム頼んでくれ。合いびき肉、三〇〇グラム、だ」
『うん! ありがとれーくん! 大好き!』
これくらいのことで……。けど、これくらいのことでそんな言葉を出せるほど、ギルから愛されていると思うと悪くないものだ。
ギルとの会話を終えたら、食卓椅子に戻った。
「カレーからハンバーグカレーになった」
「……ずいぶんと豪華になったな。ギルくんが?」
「冷食のハンバーグを見て食べたくなったと」
「ははっ、ギルくんらしい」
「……あ」
そういえばハンバーグに必要な牛乳とパン粉がないことを思いだして、ギルにかけ直した。すぐに了承して電話が切れる。肉を買っている間に忘れなければいいが。
カレーには白米が必要で、先に洗米して炊飯器にセットした。二人がどれくらい食べるかわからないからとりあえず三合。
それも終わったら、恒例のようにトイレに籠もりに行った。
相変わらず腹が痛いが、吐かないだけまだありがたい。昨晩に一度吐いた以降吐いていない。正直もう一生涯吐かなくていい。
トイレ内にある洗面所で手を洗ってタオルで拭く。
そういえばこのタオル、昨日替えたか? いや、憶えはない。
そんなことを思ってタオルを取ったとき、
「…………」
トイレ内にある小窓から音が聞こえた。ジャリッと家の周辺の敷地内に敷かれている小石を踏むような音が。
この窓は家を正面から見て左の側面にある。そしてやはりその下にも小石がある。
小石を踏むような音はまだ鳴り続け、なんとなく家の奥に進んでいるような気がする。
腹痛も忘れるくらいに心臓を早まらせる。少しだけ嫌な予感がする。
戸を閉めて、リビングには戻らずに玄関の戸を静かに開けた。けど、開けたあと念のためスマホを持ってこればよかったと後悔する。
音がしたほうを覗こうとしたとき、玄関の戸が開いて「蓮、どうした?」とケイの声がしてビクッとする。でも、僕以外にも人がいるという心強さを利用して、勢いに任せて音のしたほうを覗いた。
けど、誰もいなかった。
「……蓮?」
猫なのかもしれない。けど、猫がここを歩いた程度で、小石がジャリッとなるだろうか。
いつの間にかケイの袖を掴んで、もうしばらく音のしたところを見ていたとき、あるものが小石に紛れて落ちていることに気づいた。ケイの袖を強く握る。
「け、ケイ……あれ」
指を差したことで、ケイが僕よりも前に出る。けどなにかわからなかったのか振り返って問われる。
「たばこ……すぐそこの」
火は消されている。が、
「あ、これか。誰かがここに捨てたんだな。不法投棄だろ」
そのたばこを汚れたモノを触るように二本の指で掴んで、家の敷地外に放り投げた。
僕の見間違え、憶え間違えでなければ、あの銘柄は……。
「さ、戻ろ。寒い」
「…………」
僕の思っていることが本当でなければいい……。さっきトイレに行ったばかりなのに、酷く腹が痛んできた。
それでもケイにソファーで触れられてその不安はなくなっていった。
ギルが帰ってきたのは十一時過ぎだった。渡したエコバッグを腕に提げて、元気に帰ってきた。食卓テーブルにエコバッグを置いて洗面所に入っていく。
ケイは生ものを冷蔵庫に入れてくれた。野菜類はすぐ使うからいいと言って台所に出したままにしてもらう。
「……お菓子?」
「買いに行ってもらう代わりに買っていいって言ったから。きっとケイの分もある」
ギルのことだから僕の分も。
洗面所から出てきたギル曰く、おはぎとクッキーが僕、ポテトチップスののりしお味とそれとは違うスナック菓子がケイ、ラムネやチョコの小さい駄菓子が俺、三つのうち一つだけすっぱいガムの菓子はみんな、らしい。たくさん買ってきたものだ。
「れーくん、俺のお菓子選ぶセンス最高でしょ」
「ああ、おはぎはよかった。和菓子はいつ食べてもおいしい」
「それを見越して買ってきたんだから。あと、このガムあとで一緒に食べよ。すっぱいのあたった人、罰ゲームで……小学校と中学校、あれば幼稚園とかのアルバムとかどう?」
「……なかなかに自信があるみたいだな」
ギルも罰ゲームが当たる可能性があるというのに、どこからその自信が出てくる。
「だって、俺の昔の写真を見せる確率って三分の一でしょ? 三分の二はれーくんか敬助くんが当たるんだから得する確率のほうが高いもん。それに昔の写真って言ってもれーくんは俺とずっといるんだから写真見ても変わんないよ」
それならケイに見せてやれ。
今回ばかりは避けたい。昔の写真なんて見たくない。そもそも見つからない気がする。
「それよりれーくんハンバーグカレー作らないの? お腹空いてきちゃった」
「……作ろうか」
キッチンに立って手を洗い、マスクとビニール手袋を着ける。
出したままの野菜はどれも綺麗なものばかりだった。言った通りに買ってくれたみたいだ。
それぞれハンバーグとカレーで使う野菜を混ざらないように全て切ったら、ハンバーグで使う玉ねぎをフライパンで先に焼いた。きつね色になったら火を止めて粗熱をとる。
その間にカレーを作り始めていこう。隣のコンロで鍋を出して玉ねぎと人参を入れて炒め、四百ミリリットルの水とじゃがいもを入れて弱火で煮込む。あとはもう混ぜながら放置するだけだ。
粗熱をとっていた玉ねぎをボウルに移し、他の材料である合いびき肉、パン粉、牛乳、塩とこしょうを少々入れ、新しく出したビニール手袋をして粘り気が出るまで混ぜ合わせる。
ちょうどケイが転校してきた頃ぶりだ。懐かして小さく微笑む。
混ぜ合わせたらハンバーグの形を作っていく。初めは僕の分までハンバーグはいらないと思って二等分にしたが、一つが大きく感じて三等分にした。
次に面倒臭い空気を抜く作業だ。空気を抜くときに、手袋ごと持っていかれそうになって、やっぱり相変わらず面倒臭かった。
空気を抜き終えたら焼いていく。
焼き色が付いたら裏返して蓋をして、弱火で蒸し焼きにする。
「ふぅ……」
これで焼き上がればハンバーグは完成だ。
キッチンカウンター越しに食卓椅子に並んで座る二人を見る。ギルのスマホでゲームをしているらしい。オセロみたいだ。
今のところ黒が多い。ギルがタップして間にある黒が白になる。黒はケイみたいだ。
「えー! ちょ、ちょっと待って。えーと……えーっと」
ケイが冷静に角を取って、白が一気に黒にひっくり返ったことで、ギルが焦りを見せる。頑張れ。
一度フライパンの蓋を取って焼けたことを確認すれば火を止める。あとはカレーが煮込むのを待つだけだ。キッチンを出て、ギルの隣に座った。
「れーくんどうすればいい?」
そう聞かれても、一つしか置く場所がない。
「諦めろ」
「うぅ。ここしかないかー」
泣く泣くひっくり返して、ケイが角を取って多くがひっくり返される。
「れーくん、これからどうにか」
「ならない」
「もー、こーさんする……。敬助くん強いよ!」
「ははっ。悪いなギルくん」
負けたほうが次のゲームで好きなものを選べる、なんてルールがあるのか、ギルが多数あるゲームの中からどれなら勝てるか厳選している。
「もうできるのか?」
「あと少し」
「ありがとうな。俺が飯作るって言ったのに」
「構わない。もう治ってきているみたいだし、一晩みてくれた礼だ」
「敬助くんこれで勝負ね! これなら勝てるはず」
ギルが選んだのは上からコインを落として四つを並べる単純ゲーム、四目並べだ。せいぜい頑張ることだな。僕がケイと戦ったときは、ケイが隙を見逃すことがなければ勝てなかった記憶があるが。
コンロの前に戻ってじゃがいもが柔らかくなったらカレーのルーを入れる。軽く解かして再び蓋をし、弱火で煮込む。
その間にハンバーグを弱火で温め直す。皿を取り出して炊いていた白米を左半分に盛り付け、ハンバーグを白米の上に載せてカレーを少し混ぜる。ほどよく混ぜたら火を止めてカレーをハンバーグにも掛かるようにして掛ける。……一つ目が完成だ。
白米の量を少し少なくしている僕の皿にハンバーグを置きそうになったが、これは二つに分けて二人に食べてもらおう。ハンバーグまでもいらない。小皿に移した。
二人分の皿を持って食卓テーブルに向かう。が、ギルはどうすればケイに四目並べで勝てるか吟味していて気づかない。
「ギルくん。いいニオイしない?」
「うん。ずっとしてる。……ちょっとまってね、ここ!」
ケイにスマホを見せると同時に顔を上げ、僕と手に持つカレーの存在に気づく。
「あ、できたの! 全然気づかなかった。あはは。いいニオイはずっとしてたんだよ?」
二人の前にカレーを置いて、僕の分とスプーンを取りに行く。
「すっごいいいニオイする……」
「甘口カレーは中学校以来か」
そういえば、ギルはからさを増す調味料は買ってこなかったらしいな。
ギルの隣にカレーをもう一皿置いて、スプーンを配る。ギルの隣に座って、ブランケットを膝に掛ける。
「いただきまーす!」
「いただきまーす」
やはり、何度言われても飽きない。
いただきます。
心の中で呟いてから一口食べた。
「おいしー! ほっぺ落ちちゃう」
「どっちもうまい」
何度でも過剰評価だ。
「あれ、れーくんハンバーグないの?」
「……あぁ」
そういえば移した小皿を忘れていた。立ち上がって小皿をキッチンカウンターに置いて、取るよう言う。ついでにコップも出して、水を入れた。
それぞれの前にコップを置いて再び座る。
「……れーくんこれは?」
水を出す間にも忘れてしまっていた。いまさら僕の記憶力を疑う。
「余ったものだ。……分けるならナイフ持ってこようか」
「ううん、いいよ。敬助くん食べる?」
「……蓮は本当にいいのか?」
「きっとこれでいっぱいになる。……そういえばカレーのおかわりはあるから自由に取ってくれ」
「そっか。ギルくん食べるならどうぞ」
ギルは嬉しそうに頷いた。
去年まではギルを家に上げて二人で食事をするなんてことがあった。ギルの両親に招かれて食事をすることもあった。けど、招かれるなんて相当なくてときどきしかない。
ケイが転校してからはケイとも食事をすることが増えたが、やはり二人以上で食卓を囲う人ができると嬉しい。本当の家族みたい……だなんて思っては駄目、か。二人には気づかれないように頭を振る。
なんの血のつながりもない、ただの友人。親しくしてくれる人。それだけだ。僕の私欲に、自由を奪ってはいけない。
二人がおかわりをしてルーを減らしてくれているなか、僕は腹の不快感に顔を伏せていた。カレーは甘口でも刺激物に含まれるのか? いまさらそんな疑問を抱く。刺激物に含まれるのか、ただ食中毒故の食欲不振で吐き気がしてきたのか。
まだ皿にはカレーが残っている。五分の二ほど。ハンバーグも半分ほど。気持ち悪い……。
もしかしたら口内にある食中毒の病原菌を食べ物を介して移すわけにもいかないから、食べてもらうなんてできない。食べ物を捨てるなんてこともしたくない。
「れーくん大丈夫? これ食べれる? 俺が食べようか?」
「……たべられる」
「無理に食べて吐かないようにな」
「……はかない」
吐き気と闘いながらスプーンの三分の一ほどずつ食べて、なんとか完食できた。カレーもハンバーグもほとんど冷えて、あまりおいしくなかった。
食べ終わったあともしばらくうなだれていたら、ケイが皿を持っていってくれる。どうやら洗ってくれていて、他にも残ったカレーや白米を容器に移して冷蔵庫に入れたりしてくれたみたいだ。
「悪い……」
「いいよ。……蓮っていつも洗った食器拭いてる?」
「いや、面倒だからそのままにしている」
「そっか。……だいぶ顔色悪い。もう寝といたほうがいいんじゃないか?」
「そうかもしれない……」
ケイにも言われた通り、ソファーで寝ておこうかと思って移動する。アイマスクでも持ってこようかと思いながら、光を腕で隠しながら寝つくのを待っていた。
「よし、じゃあさっき言ってたすっぱいガム食べよ!」
どうみても寝ようとしていることがわかるはずなのに、ギルときたら……。それにまだケイが食器を洗ってくれている。ギルはいつもどんな景色が目に映っているのだろうか。
「ギルくんちょっとだけ待って」
「うん待つよ。れーくんの写真はもう用意しておいたから」
……どこから持ってきた。
目の前のローテーブルに三冊置かれる。小学校と中学校の卒業アルバム、そして家で作られていたらしいアルバム。
……というより、
「なんで僕が当たることが決まっている。当たらない限り絶対見せないからな」
「あはは。そんな誰があたっても見ようとしてるなんてことないに決まってるじゃーん」
その口ぶりで実際にした記憶しかないんだが。
三冊のアルバムに片手を伸ばして見られないよう胸に引き寄せようとするが、意外に重くてローテーブルから浮かせたらすぐに落ちてしまった。拾おうとする、いや見ようとするギルの手を払い除けて、今度は両手で一冊一冊拾い上げて胸に押し当て、ぬいぐるみで覆い隠す。これで見られまい。
ケイの洗い物を済ませるまでギルの遊び道具にされながら待っていた。ガムをかんでギルが満足すれば寝よう。悪化でもし始めたのか体がだるくなってきた。
ケイが来たら菓子袋を開ける。
「じゃあじゃんけんで勝った人からどれか選ぼ」
こういうとき僕は最後になる。実際余り物を取った。
「せーので食べるよ。せーの」
口に入れた。……すっぱさは感じない……。そう思ったのに、
「っ……!」
口の中がいきなりすっぱくなり始めて、慌てて体を起き上がらせた。すっぱい。なんだこれ。どうなってるんだ。
「あはは。れーくんが罰ゲームだね」
「漬物が出たら食べてる蓮でも、すっぱく思うんだな」
「すっぱいの……種類が違う……」
和食のはほとんど酢漬けだ。けどこれはレモンのようなすっぱさがある。
「あはは! れーくんの口梅干しみたいになってる」
これ本当に菓子なのか? すっぱすぎる……。
ガムはいずれ口から出すものだから、もう出していいかと聞いたが、味がなくなるまで駄目だと言われた。
すっぱさの他にぶどう味がする。味が組み合わさってもまずく思わないのが悔しい。
顎が疲れるまで必死に噛んでいたら徐々に味が薄れ、次第には唾液と混ざって、粘り気もなくなっていた。僕はこのかみ続ければネチャネチャとしだすガムが嫌いだ。ガムを食べるくらいなら顎の疲れるグミを食べる。……いや、疲れるものは疲れる。やっぱり食べない。
ギルにローテーブルにあるティッシュを取ってもらい、そこへ吐き捨てた。やっと口の中の異物から開放される。今度からこういったガムの賭けはやめよう。どれも僕しか当たらない気がしてきた。
すっぱいガムが当たったのは僕で、罰ゲームの内容は過去の写真を見せるというものだ。渋々胸とぬいぐるみで挟んでいた三冊のアルバムを出してローテーブルに置いた。
「えへへ。俺れーくんの卒業アルバムの写真は見たことあるけど、家のアルバムは見たことなかったんだよね。というかこんなのがあるのも知らなかった。教えてくれてもよかったじゃん」
「僕もそれの存在は去年知ったんだ。去年の酷く暑くなる前。なにかの探し物を家出していた時に母親の部屋にあったんだ。
……中身も見た。ヘンな写真なんてなかったから好きに見ればいい。ただ、スマホでその写真を撮るのは絶対にやめろ。やっていたら今度一切写真を撮らせない。記念写真であっても」
「はいはいれーくんが写真嫌いなのに珍しく写真見てもいいよって言うからじゃあスマホで撮っちゃおなんて思ってないから」
そう口にするギルの手にはスマホがある。
持っているだけかもしれない。が、隙を見てギルのスマホを奪った。ケイのもあったからそれも取る。そして胸とぬいぐるみの間に挟んで、ぬいぐるみを抱き寄せた。
「あははは。厳重だね。言われたことは守るんだからそこまでしなくても」
「ギルならする可能性があるからしたんだ。見るならさっさと見ろ。制限時間を設けるぞ」
「待ってよ。お菓子持ってきて鑑賞会するんだから」
またヘンなことを。
呆れて目を瞑る。次に目を覚ます頃には見終わっているだろう。家のアルバムもあまり多くは入っていなかった。赤子から小学六年生あたりまで。
あくびをしながら毛布を掛け直す。寝よう。
「……ケイ、夕食は」
「俺が作るよ」
「……悪いな。材料が足りなければ適当に買ってきてくれていい。エコバッグも使ってくれ。少し寝る」
「夕飯できたら起こすな。おやすみ」
「おやすみー」
もう一度あくびをして目を閉じた。
蓮の過去の写真。卒業アルバム。家で作られたアルバム。俺は今からパンドラの箱を開ける。
『YUKI'S HISTORY』
ゆっくり表紙を開いた。
一ページ目はやっぱり赤ちゃんの頃から載ってる。産まれたて。布に身をくるまれて泣いたり笑ったり、誰か大人の手を小さい手で握ってる写真もあった。
「かわいー! ほっぺ落ちちゃう」
「ははっ、食べるなよ?」
俺もほっぺが落ちそう。
ギルくんが大人の手を握る小さい手の写真を見たのか、今は寝息を立てている蓮の手に、人差し指を中に入れた。けどなにも反応がない。
「んー。握ってくれない」
赤ちゃんが手に触れられて握り込むのって、なんとか反射って言って赤ちゃん自身の意思じゃないみたいで……って家庭科で習ったけど、ギルくんにそれを言えば「……ん?」って反応されそうだからごまかすように笑った。
次のページにめくって見ていく。
蓮は赤ちゃんの頃からカメラに映りたくなかったのか知らないけど、なんとなく寝てる写真が多い気がする。けど、かわいいからなんでもいい。あー、スマホに収められたらよかったのに。
「……あ、敬助くん見て! 握ったよ」
ギルくんが後ろを向いてなにかしてるって思ってたけど、どうやったら握ってもらえるのか試してたんだな。二人が握手するように蓮の手は握っている。
たぶん、赤ちゃんに見られるなんとか反射じゃないんだろうけど。
ギルくんが握ってもらえたことに騒いで、それに蓮が起きそうになったから一回静かにする。んーっと言って仰向け気味になったら落ち着いた。
いまさらギルくんがしーって口の前に人差し指を持ってくる。鏡、見る?
次のページをめくる。
今度は目が開いてる。今のキリッとした目じゃなくて、くりっとしたかわいらしい目。この目のまま今の容姿になっていたら、目と容姿のギャップで俺は気絶してたかもしれない。
ギルくんがお菓子食べながら見よとか言うから、俺は買ってきてもらったポテトチップスを開けた。ページをめくれるように左手だけで食べて。ギルくんも食べていいって言えば食べる。
ページをめくっては幸せな気分になる。そんななか、桜の木の下で肩から鞄を提げてるセーラー服姿の蓮の写真があった。
「あ、これ幼稚園のだ。俺はまだここには来てないけど。制服懐かしー」
幼稚園か。この制服を着させるところ、よくわかってる。俺のところは私服だったからな。幼稚園とかに制服があったのも驚いたけど。
紺色のセーラーに襟からスカーフが出てる。まだブカブカなのか、服の下からズボンが少ししか見えてなくて、上の服しか着てないようにも見える。とにかくかわいらしい。
この頃はまだ写真を嫌っていなかったのか、鞄の紐を掴んで照れくさそうにカメラの視線から外れている。そんなところもかわいらしい。
幼稚園での運動会やなにかの発表会で木琴を叩く様子も写真に収められてる。今では考えられないほど楽しそうに笑っている。
「……あ、見て見てこれ。あひるさんだよ」
笑いながら指差したのは、口元にポテチを二枚挟んで、あひるの口みたいにしてる写真。
自分でなにをしてるのかわからないのか、カメラの視線より少し上に目を向けて、白けた顔をしてる。天使みたい……。
ギルくんがテーブルの上にあるポテチから二枚持っていったときなにしようとしたのかわかった。寝ている蓮の口にポテチを挟もうとするけど、ぬいぐるみで覆い隠されてる。それをそーっと取って、ポテチを二枚挟んだ。
「か……かわ……」
ギルくんは必死に笑い出しそうなのをこらえてる。俺も、ぬいぐるみが退けられたことで露わになったスマホを取ってカメラを向けそうになるのを耐えてる。
ギルくんが落ち着いたら、口元にあったポテチが抜かれる。そのとき一瞬キラリと光る。
「敬助くん食べる? ちょっと付いちゃってるけど」
「食べる」
一枚貰った。蓮の口に挟まれたほうから食べた。
アルバムの続きを見ていく。
いつの間にか夏服セーラーになっていた制服が今度は冬服セーラーになる。今の蓮は夏でも長袖を着てるから、半袖が新鮮に感じた。
しばらく笑う蓮の幼児姿を見てた。どれも愛おしくて、スマホに収められないか、何度も思った。けど、ギルくんは約束を守ってスマホを手に持たないから俺も我慢してる。
少し成長してまた桜の木の下に立つ蓮の写真が出てきた。また視線は外れて、今度はあまり笑ってなかった。
そしてこの写真を機に写真が撮られる日の間隔も広くなって、蓮の笑顔が見られなくなった。それに対してギルくんは「なんでだろ?」と不思議そうにしてた。
俺はなんとなく想像できてしまって、この歳から……? って信じたくなくて疑念も抱いてた。
しばらく日が空いて、写真のなかにギルくんが入ってきた。今とは違ってなにに対しても自信がなさそうに、蓮の隣にしがみ付いている。
「あはは……昔の俺だ。情けないなー。このときのれーくんは俺の支えだったんだよね。なにするにしてもれーくんと一緒だった。
でもれーくんがもとからこんなクールキャラじゃなくて、俺と会うちょっと前からクールキャラだったんだね。もっと子供らしかったらもっとかわいかったのに」
そんなことを言うギルくんも日に日に蓮にしがみつくこともなくなって、隣でピースサインを出せるようになってた。
代わりに蓮はどんどん無表情になっていく。撮影を嫌がるような写真もあった。
制服と門も変わって、学校名と「入学式」って立て看板の写真になる。蓮の隣にはギルくんがいた。
この頃には今のギルくんと同じくらい明るかった。蓮も少し明るいように見えたけど、無理に微笑んでいるような気がした。
「……蓮ってこの頃から今までずっとこんな感じに暗かったのか?」
「うん、そうだよ。あ、でもね、一回だけちょっと明るくなってたときあったよ。小学……六年生くらいのとき。
小学校上がってからは今よりもずっと暗くて無口で無表情で、常に怒ってるって感じだったんだ。実際怒ってなかったらしいんだけどね? その六年生のときはちょっとだけ明るくなって、お母さんのことちょっとだけ話してくれてたかも。ずっと家のことなんにも話してくれなかったのに。小さく笑うときもあって、あの頃はれーくんの笑った姿見れてすっごく嬉しかったの憶えてる」
俺もそのときに会えてたらな。
「それで中学校上がったときくらいからまた暗くなって、そのままお母さんたちが亡くなっちゃったって感じ」
そう話しながらアルバムのページはどんどんめくられていく。俺はあんまり見る気がなかった。なんとなく写真の中の蓮が楽しそうじゃないから、見ないほうがいいかなって思って。
初めのうちは行事のたびに学校に来ては写真を撮っているみたいだったけど、学年が上がるたびに少しずつ減ってた。
五年の写真に関しては日常生活の写真、運動会も作品展の写真すらもなかった。もしかしたら五年生のときの写真は撮られてないのかもしれない。
でも六年になればいきなり増えた。運動会、遠足や修学旅行の行き帰りの写真、作品展、授業参観、日常生活で隠し撮りしたらしい写真。この頃にはもう確実にカメラを向けてほしくなかったんだろうな、隠し撮りをするくらいには。
小学校最後の写真。学校名と「卒業式」って書かれた立て看板の隣に立つ蓮とギルくん。その写真もやっぱりギルくんは笑って、蓮は無表情だった。いや、でも少しだけ笑ってるようにも見える。入学式のときよりも柔らかく笑ってる気がする。
中学生になって初めの写真。学校名と「入学式」って書かれた看板、その隣に逃げようとしている蓮の手を掴んでいるギルくんの写真があった。
「あはは。そういえばこんなことあったなー。れーくんほんとに写真嫌がって、俺が無理やり掴んで写真撮ったんだよね。入学式と卒業式の写真は撮らなきゃって言って。それから記念写真はって言うようにして、記念写真は撮ってくれるようになったんだ」
保護者が学校に来る日が少なくなった中学校では写真はあまり見られなく、日常生活の写真なんて皆無だった。そして「入学式」の写真から数枚写真が載ったあと、途端に写真はなくなった。
最後の写真は合唱コンクールで蓮がピアノの椅子に座って弾く写真だった。凛とした表情の蓮はかっこよさとともに、苦しそうにも感じた。
「……合唱コンので終わりかー。……あれ、でも確か合唱コンって中二の九月とか十月とかにやったよ? れーくんのお母さんたちが亡くなったのって夏だよ? 夏休みとかそこらへんに」
「なら誰が撮ったんだこれ」
「……え、え、急にホラー展開やめてよ!」
ギルくんに腕をガシッと掴まれる。
「蓮の祖母とかが撮ったって可能性は?」
「そぼ……って?」
「……おばあちゃんのこと」
「あー、うんん。それはないと思う。れーくん会ったこともないって言ってたし、特にれーくんのお父さんのお母さんたちとはお父さんがあんまり仲が良くなくて家に行ってないって言ってた」
……つまり蓮の父親の親、父親と父方の両親とが仲悪いってことだな?
ていうか蓮の会ったかどうかはあんまり当てにならないんだよな。今でも人の顔と名前覚えれてないから、会ったことあるけど忘れてるっていう可能性も大いにある。
けど父親とその両親との仲が悪いっていうのは本当で、悪ければ父方の実家に行こうなんて発想はなかったんだろうな。
……でも蓮の母親って一度再婚してたよな。その新しい父親の両親に会いはしなかったのか?
「あ、でも一回だけ会ったことあるって言ってたかもしれない。お母さんのお母さんたちに」
母方の祖父母だな。
「そのさっき言ってた、れーくんが明るくなったって言ってたときあったでしょ? 小学校六年生のときに、一回家にお母さんのお母さんたちが来たって。でもれーくん怖がったかなにかでずっとお母さんの傍から離れなくて、それ以来来てないって」
蓮自身が馴れてなかったら、親を亡くしたあとも母方の家で暮らそうとは思えないだろうな。
「再婚した父親の両親についてなにか聞いてる?」
「んー。聞いてない……かな。あー、うんん。聞いてる、一つだけ。その再婚したあと、しばらく経って一回お父さんのお母さんたちに会いに行こうってなったときに、れーくん行かなかったんだって。よくわかんないけど、信用ならないとか言って。で……もし俺の憶え間違いじゃなければ……そのときに事故、起こしたんだって。れーくんのお母さんたちを亡くす事故が」
「…………」
つまり、もしそこに蓮が乗っていれば、蓮は……。
ドクッと鼓動が鳴ったかと思えば同時に事故死した心美のことが頭に浮かんで、あの記憶が、悪夢が鮮明に流れ出す。
脳裏に流れると同時に死ぬんじゃないかと思うほどうまく息ができずに動悸と吐き気とかを覚える。
それを見てたギルくんが蓮を起こして、俺を落ち着かせてくれた。もう二度と思いだすな。そう落ち着かされるたびに思うけど、思いだしてしまう。
「ごめんね。俺がヘンなこと言って……ごめんね」
「べつにいいよ。……呪縛のように刻み込まれてるんだから、思いださないためには引きこもるくらいしかない」
俺よりも体を熱くさせている蓮は、呼吸が落ち着いてもずっと背中に腕を回してる。
すぐに思いださせないようにするためか、しれっと抱いてもらってる感覚を味わっているのか。後者の可能性も考えて、俺は蓮の背中に腕を回した。
「アルバム鑑賞は楽しめたか」
「俺はね。でもまだ敬助くんが卒業アルバム見てないからまだ」
「無理に見なくても」
「見せますー。あはは」
蓮の背中に腕を回しているから、微笑んだのがわかる。
少ししたら蓮がソファーの背もたれに体を預けた。熱で体がだるいのか、あんまり元気そうに見えない。
ギルくんから卒業アルバムを見てていいよと渡されたから小学校のほうから見始めた。けど、正直蓮以外興味ないからすぐにも終わりそう。
「あ、ねえれーくん。家で作ってたアルバムの最後の写真って誰が撮ったの?」
ギルくんがページを開いて見せる。
「……あぁ。これは警部が撮ったものだ。たまたま休暇と重なって、ついでだから見るなんて言って。来なくていいと言ったものの来ては写真まで撮られていた。
アルバムに挟んでおけなんて言われたが、アルバムの場所がわからなくて、ずっと手元に持っていたんだ。けどこの前このアルバムを見つけて、写真のことも思いだして最近挟んだんだ。べつに捨ててもよかったんだが、せっかく警部が撮ってくれたものだから」
「捨てなかったのは偉いじゃん。じゃあ俺のスマホに入ってるれーくんの写真も印刷したら入れて」
「入れない。わざわざ入れるはずがない。入れたいならそれは個人で作れ。もちろんデータはやらない」
「れーくんのケチー」
「なんとでも言え」
返す言葉ははっきりしてるんだから。
卒業アルバム、どっちも一通り目を通したけど、蓮が常に映らないように意識してたのか、修学旅行とかの行事の写真にはあんまり映ってなかった。
強いて正面ではっきり顔が映ってるものといえばやっぱり卒業写真だった。それでも視線は外れてた。
そして中学の卒業写真に蓮の写真がなかった。名前があるだけで、写真がなかった。小学校のときと同じで行事の写真にもあんまり映ってない。
高校受験のときに顔写真は必要になっただろうから、それは渋々撮ったんだろうけど、それを卒業写真として入れないように言った、そんなところかな。どれだけ写真嫌いなんだ。いまさら思い知らされる。
「ねえ。敬助くんのアルバムも見たいー……なんて言ったら怒る?」
「……ギルくんのを見せてくれるなら。昔の俺なんてクソガキだったから、醜くて恥ずかしいものを見せることになるからな」
「えへへ、俺のでいいならいくらでも見せるよ。俺れーくんと違って写真は宝箱だと思ってるから。
じゃあ今からアルバム取りに行く? れーくんにはちょっとお留守番しててもらって」
一目蓮を見た。
蓮を一人にさせて大丈夫かな。けど顔は心配を漂わせないくらい楽そうにしてた。寝てる? いや目瞑ってるだけか。
症状もマシになってきてるみたいだからそこまで心配はいらないかもしれないな。
「行こっか」
「なられーくんちょっとお留守番しててね。すぐ戻るから。でも油断せずになにかあったらすぐ電話してね」
「あぁ……」
今すぐにでも寝そうな声。かわい。
ゆっくりと体を横にさせたあと、毛布とぬいぐるみも引き寄せる。
「行きか帰りに買い物を買ってきてもいい。何度も外に出るのは面倒だろ。行くならテーブルに財布とエコバッグがあるから。おやすみ」
「あはは。おやすみー」
寝る気満々だ。けど、熱があるならゆっくり寝てほしい。
帰りに買い物に寄っていくかどうか。けど俺の家から蓮の家に行くとすれば、スーパーの横は通らない。アルバムを置いてから行こ。
ギルくんにそれを伝えれば、防寒具を付けて早速家から出た。鍵はどうしようかと思ってれば、ギルくんがポケットから鍵を取り出して扉に鍵をかける。
そういえばギルくんは蓮の家の合鍵を持ってるんだっけ。……俺も欲しい。
ギルくんと隣を歩いて、途中で別れた。
戻るとき車で送ってもらおうかな。父さん今日いるかな。いや……出かけてたかもしれない。アルバム取りに行くだけで往復一時間くらいはちょっと面倒臭いなぁ。
ギルたちが家から出るときには寝る気満々で目も瞑っていた。けど、ケイが大変なことになってギルに起こされるまで寝ていたから眠気はなかった。
ただ熱と排泄で体力が奪われて、体が休みたいと思っているだけだ。脳は睡眠を欲していない。勘弁してほしい。
しばらく毛布を被って寝つくまで、と思っていたがいくら経っても寝ることはできなかった。仕方なく体を起こす。毛布が肩から落ちるから肩に掛け直して、さらに足をソファーに上げて足も包んだ。寒い。
ローテーブルにはやっぱり三冊のアルバムが出ていた。全てのアルバムに目を通したこと証明するかのように、中学校の卒業アルバムが開かれている。ちょうど卒業写真が載っているページ。
撮影されるのが嫌で断った思い出が蘇る。
このときの撮影は、卒業アルバムに載る写真と受験に必要な写真を撮ることになっていた。
初めはなんの写真でも撮りたくなくて、当日の撮影時は保健室で仮病を使っていた。相変わらずよく体調を崩すから仮病を使ってもバレることはなかった。
それでも後日になって撮ろうと、欠席者のための別日を用意していたらしく、改めて懇願した。
『……写真、撮りたくないです』
胸に不安を帯びながらそう言った。
『そんなこと言われても、アルバムと受験に必要になるから、撮らないと』
『お願いします……。撮られるくらいなら受験しません』
そんなことを口走ったくらい当時の僕は撮られたくなかった。
『どうしてそんなに撮りたくないの?』
『……嫌だからです』
自分のことが嫌いで、顔も見たくないから。そんなことが言えるわけがなく、嫌だと一点張りでいた。
やっと撮らないことを認められたあと、でも、と続けられた。
『あなた写真を撮りたくないって理由だけで受験をやめるって言うなら、今後どう生きていくの? アルバイトも社会に出て仕事に就こうにも証明写真が必要になってくるのよ? 社会を甘く見てるなら、今すぐそんな考えはやめたほうがいいと思うけど』
社会を甘く見ている? そんなわけがない。当時の僕は口から出したい声を抑えて言えなかった。
結果的に受験で使う顔写真は撮ることになって、卒業写真は撮らないことになった。卒業写真は絶対に撮りたくなかったから、そう決断されたときには潔く了承した。
僕自身も「撮られるくらいなら受験しません」なんて言ったときはすぐに後悔した。警部にいろいろ迷惑かけて考えた進学先をこんな程度のことで曲げていいのか。そう後悔した。
卒業写真は撮らないことにしてくれたものの、今は「記念写真なら」という条件で撮影を許しているが。
卒業写真に写るギルは明るく、笑顔だった。写真を撮られることを嫌がった僕が情けなく、醜く思うくらいには。
一度トイレに行ったあと、置かれるアルバムを見ていった。中学、小学、家のアルバムの順番で。そんなこともあったな。もしくはそんなことあったか? なんて。ときどきギルの笑顔に微笑まされていた。
僕のアルバムを見ていたとき、知らない男が写真に入っていて、それが誰だか知るのに数十秒要した。明らかに通行人じゃないのに、映り込んでいる男。
再婚した父親だ。……こんな顔してたんだな。
この男をいつまで経っても父親だと思えず、僕は「お前」とか「そいつ」とか言っていた気がする。実際血のつながりもないただの他人だ。……それに、こいつが母親に惚れたせいで、また居心地の悪い家になったんだ。
母親と父親が離婚したあと、一年くらいは母親と二人で暮らした。僕が病にかかるたび母親は優しく看病してくれた。
僕だけを見てくれる。
僕のために食事を作ってくれる。
僕のために一緒に出かけさせてくれる。
僕だけに見せる優しい笑顔。
そんな暮らしがいつまでも続けばいいと思うほど、その頃の僕は満たされていた。
そんな満たされた状態も、いつかに入り込んだ男によって……再婚によって絶たれた。なんで再婚なんて……。
でもどうせもう死んでいる。いまさらなにかを問えるわけもない。今からでも離婚してくれなんて言えない。
もう過去の話だ。
妙に機嫌が悪くなり始めて、開いたままアルバムを見るのをやめた。
早く帰ってこないか。二人の幼き頃を見れば、気分も良くなる気がする。
やっぱりこんな気分の悪くなる家庭よりも、友人と時間を過ごしたほうがよほど楽しい時間を過ごせる。
眠気はないが、寝転んで目を瞑った。
しばらく目を瞑っていれば、本当に寝そうになってしまうくらいにはなっていた。それでも玄関から鍵の開ける音が聞こえてくる。ギルが帰ってきたらしい。目を瞑っていたからヘンに眠たくなってしまって、目を閉じたまま、体は起こさなかった。
僕が寝ているとでも思っているのか静かだ。ケイとは別行動みたいでギル一人分の足音しかない。それはゆっくりこっちに近づいてくる。
ギルの昔の写真、というより幼稚園の頃の顔は微かに記憶に残っている。けど、それより前の写真は知らない。産まれたときは、どんな感じだったのだろうか。今からそれを拝めると思えば、少し期待するというものだ。
足音は頭上で止まる。声を出さないのにはなにか企んでいるのだろう。
そう思った。けど、違った。
「……優希」
ギルじゃない。
その名前に、その声にドキリとして慌てて体を起こした。
足音が止まった場所に立っていたのは、
「久しぶり。大きくなったな」
僕の実の父親だった。
夢? 夢なのか? いやきっと夢なんだ。ここにいるわけがない。
「どうした、そんなに息荒げて」
夢だということを証明するために手の甲をつねった。
けど証明できなかった。
腹が痛みだしてくる。食中毒とはべつの痛み。胃が……ぐるぐるして、気持ち悪い。
おもちゃ箱をひっくり返したみたいに過去の記憶が蘇ってきて、頭が痛くなる。
思いだした記憶で埋め尽くされて、どうやって息をするのかも忘れた。
「実幸、知ってる? ずっと連絡がつかない」
「…………」
これは現実。今目の前に父親がいる。僕を産んだ父親が。散々僕を痛めつけた父親が。体が震えて声も出ない。
いや……きっと別人なんだ。父親に似た別人が……家を間違えて……。
僕の父親はこんな優しい声をしていない。
……優しい声? ……あの父親が? そもそも別人、ってなんだ?
別人と信じたい気持ちと、目の前にある事実で信じきれなくて、頭がぐるぐる、ふらふらしてくる。
「優希? 耳、聞こえてない? 難聴にでもなった?」
「…………」
「……あ、それ美幸のアルバム……じゃないのか。優希のか。つまんな。けどいいや」
父親が近づいてくる。反射的にソファーから降りて離れた。父親はしゃがみ込んで開かれるアルバムを覗いた。僕はまだこれが現実だと受け止められない。
でも、実際そこにいるのは事実で、この震えている体を抱えているのも事実だ。
後ろを振り向かずに後ずさりをしていれば、壁に背が付く。
「……優希。この男誰だ」
名前を呼ばれてビクッとする。父親はアルバムを持ち上げて、指差していた。母親と再婚した男を指していた。
声が出ないでいると、父親は近づいてもっと震え上がる。逃げようにも背に壁が付いていて逃げられない。
「……本当に難聴? この男、誰? 聞こえる?」
「…………」
「チッ、なにか答えろよ、なあ!」
キーンと耳に響く。
……うるさい。きっと別人のはずなのになんでこんなにも怖い……。
けどこのままなにも言わずにいる意味もない。下顎を震わせながら口を開けた。
「さ……再婚あい、て……」
「……再婚……?」
少しの間考えるように黙り込む。その間、逃げようと思った。
助けを呼ぼうと思った。けど逃げられなかった。助けを呼べなかった。怖くて動けなかった。
顔を上げた父親は明らかに怒りを覚えた顔をしていた。そして手に持っていたアルバムを振り上げて、それを僕の頭上に振り下ろし、
「っ!」
拳が腹に食い込んだ。声にもならない叫びを上げて、頭と腹を抱えてしゃがみ込む。
……なにが、別人だ。僕の記憶にある父親のままじゃないか。それに……僕は初めから、あれが父親だとわかりきっていた。現実から目を背けたかっただけだ……。
「なんで再婚を止めなかった! 違う男を連れ込んで、お前はそれでよかったのか!」
怒声を上げながら何度も頭に痛みが走る。僕はそれに体を縮こませて腕で守って、痛みに耐えるしかできなかった。
「役立たず。お前はいつまで経ってもそうだ。人様に迷惑をかけて、今も生きてて恥ずかしくないのか」
……止ま、った……?
それでも顔を上げずにずっと頭を守っていた。
「で、その男と美幸はどこにいる」
「…………」
こいつ、二人が死んだことを知らない……?
なんとなく呼吸が浅くなくて、唾を飲み込む。
死んだと伝えるのが、僕……?
「聞いてる? どこにいる?」
胸元を掴み上げられ、立たざるを得なくなる。
これ以上黙ってたら……きっと痛い目に遭う。
いや……どっちの選択をとっても変わらないか。その事実になんとなく力が抜ける。
力なく、なにをされてようにも受け入れるつもりで言った。
「……事故で死んだ」
「…………なんて言った」
「……三年前の夏に、交通事故で死んだ」
言い終えてすぐ、逃げることも、守ることもできず、髪を握られ、壁に頭を打ち付けられた。
声も出さず、何度も何度も。痛くて痛くて、痛みもなくなってきた。
誰かの「なにしてるんだ!」という叫び声で父親が倒され、髪を握られていたから当然僕も倒れ込んだ。
頭が……痛い。
「れーくん! れーくん! ……け、敬助くん血、れーくん頭から血出してる」
肩を揺さぶっているのがギルだとわかれば、二人が帰ってきたということがわかる。
二人は巻き込みたくなかった。僕が……僕がいつまでも父親の言いなりになっていれば、二人を巻き込まなかった。
腕に力を入れて体を起こす。父親はケイに取り押さえられている。けど、すぐに払いのけられ、ケイを一度殴った。
……ケイを殴った……?
ギルに腕を回されているのも構わず、脚に力を入れて立ち上がった。その拍子に視界が回って、床がどこなのかわからない。耳もなんとなく遠い。
けど、あいつはケイを殴ったんだ。
立ち上がればギルに腕を掴まれる。けど、すぐに払い除けた。
「れ」
聞こえたギルの声を黙らせるように、
「くる、な。……にげろ」
ケイが振り解かれて、足取りを重くさせた父親が向かってくる。
「俺の……俺の美幸を……」
父親は涙ぐんで、僕の服をカッと掴んで引き上げる。
「お前のせいだ! お前が殺した。お前が産まれたから、お前が美幸の前でガキでいたから、美幸はお前に余計な愛を、愛情を注いで俺の前から去った! 全部お前のせいだ!」
僕のせい……?
殴りかかろうと飛んできた拳を、今も細い腕で止めた。運良く止まった。神が味方してくれた? そんなわけがない。
「ならなんで僕を作った。なんで息の仕方を教えた。……僕が産まれたからお前に向けるはずだった愛情が向けられなくなった? 寝言は死んで言え。子供一人もろくに育てられない父親を愛す妻なんてどこにいる。人殺し。はっ、まだ死んでなかったな。お前が殺しそびれたから」
頬に涙が伝う。なんで、泣いて……。
胸が苦しくて、気持ち悪くて、息ができない。
「けど、殺せなかった。お前の覚悟は足りなかった。そういうことだろ? 殺したい人間にこんなことを言われる様、なんて醜い」
僕の服を掴んでいた手は解かれる。そして脚の力を失ったように崩れた。僕はそのゴミを見下ろしている。
早く警察を呼んで引き取ってもらおう。僕がこいつを殺してしまわないうちに。
ローテーブルには僕のスマホが置かれている。頭ではそこに向かおうとしていた。
けど体は、キッチンに向かう。
「優希。一つ、聞け」
そんな言葉が聞こえた気がするが、足が止まることはない。
水切りラックでまだ乾ききっていない、銀色を光らせる包丁を握って父親に向ける。
「やり直そう」
「…………」
「優希、お前をもう一度愛したい」
いまさらなにを言うのかと思えば……。耳を傾けた僕が馬鹿だった。一度でも愛したことがないくせに。
でも握った包丁を持って動けない。体が動いてくれない。
「いちからやり直して、今度は失敗しない。きちんと愛す。誰も苦しまないように」
父親の目はなにかを見透かしているように強く、僕を見据える。
本当に……愛して、くれる……?
「――――!」
遠くでケイの声が聞こえる。なにか言っている。……いや、ケイの声なんてどうでもいい。
あいつと暮せば、孤独から抜け出せる?
家族を、知れる?
本当の愛を、教えてくれる?
……そうだ。ケイに迷惑をかけることもなくなる。愛情に飢えることもなければ、警部といつ過ごせるかなんて考えなくてよくなる。ずっと愛を、教えてくれるんだ。
父親は立ち上がって両腕を広げて僕をまっすぐ見ている。僕はその腕の中をめがけて、一歩、一歩と近づいた。
手の力が緩んで、するっと包丁が手から滑り落ちる。軽い音を奏でて、止まる。
僕は震える手を伸ばして父親の腕の中に入った。父親は優しく包みこんでくれる。
ギルの親みたいな存在がずっと羨ましかった。
それは温かくて、目の前にいるのは、僕の父親なんだ。親……こんなにも温かい……。
けど、そんな温かさも、すぐに冷たくなった。
背中に体温がなくなったかと思えば、耳下を触られてゾワッとする。逃げられないようにか後頭部を支えられて父親の顔が近づいてくる。
なんとなく口づけをするのだろうとわかった。したくないに決まっている。
けど、それが関係を築く一歩なら、アイす証ならと、唇を重ねられることを受け入れた。
口の中に入ってくる舌を噛みちぎってやりたくなった。生暖かくて柔らかい感触。嗚咽が漏れそうなほど気持ち悪かった。
でも、満足するまで我慢した。これが家族を作り直す一歩目。そう言い聞かせて。
唇が離れたら、はっ……はっ……と音を漏らす。これで……僕を愛し――
「優希は本当に美幸に似て綺麗な顔をしてる。美幸にそっくりだ。会えて嬉しい。美幸」
みゆき……? 目的は母親に似た僕の容姿?
ぼくじゃ……ない……?
「…………」
パッと音が消えて生きた心地がしなくなる。
胸から沸き上がるその重く苦しい感情が僕の体を勝手に動かした。
父親を突き飛ばして、落ちていた包丁を拾い上げた。同時に唇に残る感覚に思わず手の甲で拭う。
拾い上げた包丁を父親の前に立って向ける。
「ギルくん止めて!」
「ど、どどうしたら」
愛したい人間が目の前で殺されたら、どんな感情を抱く?
「この世に産まれてきて不幸だった」
振り上げた包丁を、体内でうるさく鳴り響く胸に沈めた。
これで、父親が愛した人間を殺せる。
「……っ……!」
けど、殺せなかった。胸に沈めようとした刃は胸にではなく、胸の前に伸ばしてきたケイの腕に沈んだ。
胸に痛みが走らないとわかったときには深く、ケイの腕に包丁が沈んでいた。
「……ケイ……?」
「ぎ、ギルくん、蓮押さえて」
痛みのあまりか、震える息を漏らしながらもそんな指示をする。
僕がケイを刺した……。僕が、刺した。僕が……。
逃げるように一歩、二歩と下がり、床に尻を付く。
ケイが抜き取った包丁には血がべっとり付いていて、遠くの床に捨てたことであたりに飛び散る。肩から下げるケイの右腕は服の袖からポタポタと血が垂れていた。
ギルが目の前に来て、抱かれると同時に視界が遮られる。
息が苦しくて、頭が痛くて、気持ち悪くて、なにがあったのかわからない。
ただ、ギルの体の端から見える包丁に手を伸ばしていた。ずっと伸ばして、届かないことがわかっていても伸ばして、
「…………」
ただ僕を、優希を殺したかった。
パトカーのサイレンの音が近づいてきて、意識がはっきりしてくる。ギルの着る服でなにも見えない。頭を抱かれている。僕の頭を抱く腕と腹はヒックヒックと息を吸い込む音とともに弾む。
ふと、鼻にツンとした強いニオイがして気がつく。すぐ下に口から出したものがあった。気づかなかった。
ギルはこのニオイに釣られて吐いてしまうんだ。もぞもぞと体を動かして服を脱ぎ、それに覆い被せた。……けど、ニオイの強さはあまり変わらない。
うるさく耳鳴りが鳴っていて、インターホンが鳴ったあとの会話はなにを言っていたのかわからなかった。
ただ足音が何個か増えて、聞き覚えのある声が僕を呼ぶ。
「新藤」
ケイが持ってきた服を着たあと、警察署に行って取り調べを受けることになった。一瞬のように感じたさっきの出来事を洗いざらい話して罪を背負おうとしていたから、ふらふらと玄関へと向かっていた。
なのに、
「お願いします」
ケイがなにかを説得していた。
「食中毒がまだ完治してなくて、いつまた腹を痛めるかわかりません。べつの日にお願いします」
ケイは布で腕を縛っている。けどその布も赤く染まり始めていた。僕が刺したから。チクリと心臓あたりが痛む。
今なら、殺せる……。
振り向いて包丁があった場所に目を向けた。まだ回収されていない。拾い上げようとしたとき、包丁の柄が踏まれる。踏んだのはギルだった。まだ泣き顔でいる。
「また……刺そうとしないで。自分のこと刺そうとしないで……」
包丁は拾い上げられて、警察に渡された。なんで邪魔するんだ。でもまだべつの包丁がある。それでなら。今度こそ外さないように。
キッチンへ歩き出そうとしたとき、
「もう、やめて!」
酷く耳に刺さる声を聞く。
そしてすぐに、強く背中に腕を回された。同時に警察からも声をかけられる。
「新藤、頭を怪我してるのか」
なんで僕の名前を知ってるんだ。
ギルと警察がなにか話して、警察が戻ってきたら髪を触られ、痛む場所になにかを当てられた。痛くてそれを取ろうとするが、ギルが腕に力を入れるから動けなかった。
「新藤、ここで取り調べを行うことになった。待機する部屋を一室借りてもいいか?」
「…………」
「新藤?」
「……勝手にしろ」
「……新藤の部屋を借りる。新藤はあとに回すから少し頭を冷やせ。別人みたいだ」
なにも知らないくせに。
部屋を借りるとか言ってたのに、一度リビングで全体の話を聞くことになった。抜け殻のようになった父親と腕を握るケイが主に口を開ける。
僕はギルに体を預けて時間が経つのを待っていた。いっそのこと、僕がケイを刺した。その事実だけで事が収まるならそれでいいじゃないか。言ってしまおうと思った。けど、なにかを言う気になれなかった。
父親から順に取り調べが行われた。その間僕の部屋で待機することになっているみたいで、ギルに連れられた。警察も一人、部屋にいた。僕の名前を知っている警察じゃない。
ギルはずっとすぐに泣き出しそうな顔のまま、僕を抱くように、なにか行動させないようにベッドで腕を回していた。ケイは床に座り込んで、縛られている腕を眺めていた。
「れーくん? どうしたの」
急に体が熱くなってきて、頬には涙が伝う。
そうだ。またなかったことにしようとしていた。記憶を忘れようと……。
ぼんやりしていた頭がはっきりしてくる。
過去にあの父親から暴力を振るわれていた事実が本当であれば、今日父親が突然家にやってきて、知らない男と再婚していた事実と二人が死んだ事実を知って、僕をまた殺そうとしていたことも本当だ。
そんなは父親と関係をもう一度築こうと差し伸ばされた手を取ったことも本当だ。
そして手を差し伸ばした意図を知って、原因である優希を殺そうと包丁を握ったのも本当だ。その結果ケイの腕を刺してしまったのも本当だ。
嗚咽が聞こえる。
僕はなんてことをしたんだ。もしケイの刺しどころが悪ければ、僕は大切な人を死なせていた。殺していた。ギルに止められなかったら、今度こそケイか優希を殺していた。大切な友人を殺してしまうか、醜い優希を殺すか。天と地ほどの差がある。
「……けい……ぼくを、殺せ……」
優希を殺したいなら、誰かに頼めばよかった。それならケイを傷つけずに済んだ。
言葉を聞いたケイは一瞬の驚きを見せたあと、目を細める。
「……どうして、そんなこと言うんだ」
「ぼくがケイにきずを作った。ぜんぶ、ぼくのなかにいる優希のせいだ。だからもう、終わらせるために、だれかにころして」
「もう! 喋んないで!」
ギルに口を塞がれる。
今わけを話していたのに。なんで邪魔をするんだ。
ギルは涙を流して、優しさの欠片もなく抱き締める。こんな痛いのなんて求めてない。
「……いつものれーくんに戻ってよ……。れーくんはそんなこと言わないよ……。
今のれーくん、昔のれーくんみたいなの。なんにも希望を持ってないみたいに、いつでも死にそうな顔して……。
昔の、あの人に付けられた昔のれーくん、『優希』なんて知らない、関係ない。今はれーくんなの。今ここにいるのは新藤蓮なの!」
蓮……。大切な人に、ギルに付けられた名前。大切な名前……。
僕の番が来た。一階まで付いてきたギルが階段に姿を消したあと、食卓椅子に座っている警部のほかに、傍に立っている警察もいた。
いつもの僕の知る正義にあふれた警部とは違って、今は人を殴りそうな警部だった。初めてこんな顔を見る。……警部はそんな顔しない。なんで、怖い……。僕の勘違い……?
「座れ」
いつもは鳴らない鼓動を鳴らしながら、僕は向かいに座った。
今回の件について、憶えている範囲で話したあと、
「どうして父親を刺そうとした」
「……わかりません」
「ならそのあと、どうして自分を刺そうとした」
「…………わかりません」
そのとき、心のなかでなにを思ったのか憶えていない。なにを話したのかも憶えてない。ただ、優希を殺したかった。
何度か同じような質問をされたあと警部は隣に立つ警察になにか言い寄った。そして二階に上がっていく。
「……これで俺と二人だ。過去になにがあった。あの父親になにされた」
ドクッと鼓動が鳴り、涙が流れ始める。
気づいて……くれた。
僕は洗いざらい、過去にこの家であったことを話した。
小学校に上がる前から暴力を振るわれていて、それは日に日に酷くなっていたこと。
母親を殴った日から食事をあまり与えられなくなったこと。与えられない日もあったこと。
寒い時期に家から放り出されたこと。
病気にかかっても病院に連れて行かれなかったこと。逆に病気にかかってなくとも無理やり薬を飲まされたこと。
数日部屋に閉じ込められたことがあったこと。
小学五年生頃に離婚して父親がいない一年を過ごしたこと。そして再婚して、母親が知らない男を連れてきたこと。
再婚したあとも母親が寄り添ってくれなかったこと。
そして二人がいつかに交通事故で死んだこと。
全部話終えたときには涙が止まらなくて、隣に座っていた警部に背中をさすられていた。
「そんな過去があったなら、あの父親に刃物を向ける理由もわからなくもない。が、自分を殺そうとする必要はなかったはずだ」
「……わかんない、ですけど、父親が欲してるのは母親に似た僕だと、だから中身は要らないって……思った気がします」
「……新藤の気持ちをわかりはする。それでも、もう一度言う。命は一瞬にして奪える割に、一人一つしかない大事なものなんだ。たとえそれがどれほど憎くて嫌いな自分のものだとしても、殺したら駄目なんだ」
「ごめんなさい……」
僕が落ち着くまで優しく抱きしめてくれ、落ち着いたら警部と一緒に部屋に上がり、部屋にいた二人の警察を扉の外に呼んだ。
僕が部屋に入れば目を腫らしていたことに気づいてか、ギルに抱きしめられる。
もう一度リビングに集められたときには、事情聴取を終えると言われた。きっとなにか罰を受ける。そんな思考をしていることが顔に出ていたのか、警部からはきっと起訴にはならないから、酷く心配しなくていいと言われた。
僕は刃物を持ち出した件だけが、今回の事件として扱われると思っていた。けど、もう一つ、父親が認めたことがあったらしい。
「新藤蓮に対する虐待行為については、このあとお聞きしたいと思いますので、同行願います」
父親が警察に連れられて、家から出る。警部はまだ残ったままだった。
「新藤、影島さんとギルくんが言ってた。家に戻ってきたとき、知らない男が新藤の頭を壁を打ち付けていたと。けど本人からは聞いてない。なんで言わなかった」
「……その行為が当たり前になっていたから、なんとも思わえなかったです。それに……どうせ言ったところで、あいつが否定すると思いました」
「……それが、本人が自供していた」
……自供していた? まさか。
「頭を打ちつけたことの他に、腹部と頭部を殴打したことも言っていた」
……そう、なのか。
信じられない。ならなんで……あんなこと……。隠さなかった意味がわからない。もう逃げられないとでも思ったから……? それとも、その行為がいけないことだとわかっていながらしていた……?
どんな言い訳でも、信じることなんてしないだろうが。
けど、あいつがあのとき言った言葉、
『優希、お前をもう一度愛したい』
本当に僕を愛すつもりがあったのか、母親に似た優希を愛すつもりだったのか。それが前者だったならと、少し考える。
「それはそうと、頭打たれてたな。明日にでも病院行って来い。俺はあいつの面倒を見る必要があって付いていけないが。影島さんもな」
警部は一礼して足を玄関に向けた。けど、すぐ止まる。
「新藤はなんで初めのうちに俺に虐待を受けていたこと言わなかった。言っていれば今回の件が起きなかったかもしれない」
なんとなく目が潤った。視線が下がって口に力が入る。
「……わかんないですよ。未来のことなんて、当時の僕には。それに……子供でいたらいいって言ったの、誰でしたか……」
「……悪かった」
優しいその手は、僕の頭を撫でて、包んでくれた。
ギルとケイには帰ってもらうことにした。腹の調子も良くなってきたのもあるが、
「またなにか危害を加えてしまうのが怖いんだ。それに少し心を落ち着かせたい。だから帰ってくれ」
二人で顔を見合わせたあと、ギルが心配してくる。「もう本当に一人で大丈夫? 病院に行くまで、俺いるよ? 頭打ってるのに一人にさせるの怖い」と。
そんな言葉も「心配するな」と一点張りで、帰る準備をさせた。
「……じゃ、じゃあまた月曜日。でも、ほんとになにかあったらすぐに連絡してね? 絶対だよ」
「……ああ」
「心を落ち着かせるために、なんにでも言ってくれてもいいから、一人で抱え込まないようにな。病院、行けよ」
「……ああ」
「またね」
無気力に口角を上げて、二人を見送った。
扉が閉まると、上から吊られる糸が切れたように崩れ落ちて、声を殺しながら涙を流した。
胸のうちから湧き上がるその感情を、ただ独り殺そうと。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
「早くに咲いた蓮華は春を知る(2/2)」に続きます。




