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本当の心と音

〈本当の心と音〉


 ――十二月二十五日

『友人からクリスマスプレゼントを貰ったんです[プレゼント]でもサンタからのプレゼントもあって、それが一番嬉しかったです』17:49既読

 ――十二月二十六日

『それはよかったな。俺からもなにか欲しいならなんでも言うんだぞ、食事でもなんでも』0:11

『ワガママかもしれませんが、一日中一緒に過ごしたいです』0:12既読

『いえ、おいそがしいですよね。こうやってお話できるだけで十分です[にこにこ]』0:18既読

 ――十二月二十八日

『ごめんな返せなくて。また過ごそうな。そうだ、初詣、一日とかに一緒に過ごすなんてのはどうだ?』23:03

 ――十二月二十九日

『いいんですか[驚き]』10:24 既読

⤴『返信が遅くなることは謝らないでください[ぷんぷん]何回目ですか』10:24 既読

『わがまま言ってすいません。でも楽しみにしてます[ワクワク]』10:25 既読

 ――十二月三十一日

『本当にごめん。仕事が入ってしまった。本当に申し訳ない』12:33

『構いませんよ[にこにこ]職業柄仕方がないです』23:54

『またの機会ですね』23:59

 ――一月一日

『こちらこそわがまま言って申し訳ございませんでした』0:01


 スマホの左上に表示されている「1:55」。

 入力欄には『いつになったら一緒に過ごせるんですか』。

 文字を変える。

『いつなら一緒に過ごせるんですか』

『いつなら一緒に過ごせますか』

『いつかまた一緒に過ごしたいです』

「…………」

 中に「✕」が入っている左の辺が尖った五角形を長押しして、文字を消した。

 目を(つぶ)ってスマホの電源ボタンを押し、ベッドに投げ置く。


 ただ独り、寂しさと孤独感を覚えて涙を流していた。苦しくて苦しくて、息の仕方もわからなくなって――

「っ……」

 目が覚めた。

 涙が横に伝っていくのがわかる。

 腹をさすりながら涙を拭った。


 一月上旬。自室のベッドの上。

 玄関の扉が開かれる音で起きた。扉が開かれた音はきっとギルのものだろう。

 また目元が濡れていて袖で拭う。目元は少し腫れているようだった。

 今日は一月一日。どうせ初詣に行こうなんて言われる。

 僕はただ寒くてぬいぐるみを抱き直して布団に包まった。部屋の掛け時計を見てみれば昼前らしい。やけに腹が空いていたのにも納得がいく。

 ギルは一階でくだらない細工でもしているのか、なかなか階段を上がる音が聞こえない。来ないならと、スマホ画面をつけた。

 目に入るのは警部とのチャット画面。まだ既読はついていない。警部もいそがしいのだろう。腹をさすりながら一つ戻って、未読のマークがついているグループチャットを開いた。


 ――十二月三十一日

ギル『初詣一緒に行けるひとー!』15:32

 [チラ見スタンプ]15:32

下条『おれわかんないけど、たぶんむり』16:07

下条『ごめんなー』16:07

ギル『いいよいいよ!』16:08

 [オッケースタンプ]16:08

総務『僕お兄ちゃんと行くことになってるんだ。ごめんね』17:27

ギル『ううん、全然大丈夫!』17:27

 [了解スタンプ]17:28

ケイ『時間に起きてたら』19:42

ギル『れーくんは行けるって言ってたからこのままだと俺とれーくんだけになっちゃうー』19:43

 [うるうるスタンプ]19:43

ケイ『起きるようにはする』19:44

ギル『あはは、無理はしなくていいからね! 時間と場所はあとで送るね!』19:44


 相変わらず既読をつけるのが早い。というか、いつ僕はいけると言った。勝手に決めて……。

 階段を上がってくる音がする。が、構わず布団に包まり続ける。外は寒いから出たくない。

 扉が開く音がしても、足音が近づいても知らないフリをした。

「れーくーん……なんだ起きてるじゃん。びっくりさせようとしたのに。でも寝起きでしょ」

「……ギルの玄関の扉を開ける音で起こされた」

「え、耳良っ。さすがだね。というか珍しいね。れーくんがこんな時間まで寝てるの」

 寝転んでぬいぐるみを抱えながら、目をこするフリをして目の腫れを気にしていた。観察力の鋭いギルのことだから気づかれてしまうかもしれない。

 そう思っていたが、案外バレてないみたいだ。頭を撫でられるが、それでも気づかないみたいだった。

「昨日遅くまで本読んでたんでしょー。で、グループで既読つけてないのもれーくんでしょ? 全部わかってるんだから」

 ギルが言ったグループとは、修学旅行のときに作られたグループチャットのことだろう。確かにさっき見た。

「初詣、敬助くん以外それぞれで行くんだってー」

「さっき見た」

「あ、見たんだ。実琴くんは行けないって。俺個人のほうに来てた」

 柊は基本グループになにかを送ってくることはないからな。僕もあまり送らない。

「お昼食べてないでしょ? おせち俺の家にあるんだけど食べる? れーくん用に取ってたんだ。もし食べないなら、俺の今日か明日のごはんになるけど」

「……眠い」

 最近調子が悪いんだ。ギルに剥がされそうになった掛け布団を掛け直す。

「要らないって言わないってことは食べたいってことだよね。ほら俺の家行くよ」

 確かに食べたいとは思った。おせちは中学二、三年のときに警部と食べた以来だから、久しぶりに余り物でも食べたいと思った。おせちを自費で買うとなれば高いからなかなか買おうとは思わない。

 それでもベッドの外は寒いからとなかなか出ずにいたら、ギルに暖房をつけられて気づいたときには暖かくて、着替えさせられた。

「はい、帽子とマフラーと手袋。ていうか、こんなのあったっけ?」

「……なかった。けど……今年は『いい子』でいたらしい」

「……そっか。よかったね!」

 今年貰えたことは決して忘れないだろうな。

 体にいろいろまとって、ぽかぽかとしだした頃行こうと言う。その頃には正午だった。

 ギルは昼食を食べているから、構わずギルの家に連れられた。けど、途中で寄り道をしてコンビニに入らされるなり、肉まんを買っていた。僕の分も。食べながらギルの家に行った。ギル曰く「なんかすっごい肉まん食べたい気分」だったらしい。

 鍵を開けるなり入らせてもらうが、ギルの両親はどこかへ出かけているのか、姿は見えない。ただ電気のつかない薄暗いリビングがあった。なんとなく、ギルも僕と同じ思いをしているのではないかと不安になるが、ギルはなにも思っていなさそうにおせちを食卓に出してくれた。

「お箸もあるよ。おせち食べるお箸。待っててね」

 そう言ってキッチンカウンターの影に隠れる。同じような思いをしていなければいいんだが。けど、ギルの両親に限って、ギルを放置するような親ではない。そう信じたい。

 重箱には入っていなかったが、一通りの具材は分けてくれていたらしい。久しぶりのおせちに薄らと笑みを浮かべながら完食する。

「おいしかった。ありがとう。両親にも伝えておいてくれ」

「どーしよっかなー。れーくんが直接伝えたほうがいいと思うけどなー」

「……なら電話を今かけろ」

 ギルのことだから、「直接言う」ことを口実に自分の家に上がらせようという算段なんだろう。

「え、え、それは……違うじゃん?」

 読み通り。

「機会があれば言いに行くが、今日や明日は時間がないだろう。ギルの家にわざわざ上がるようなことはしない」

「はー、もうれーくんなんでも俺の作戦読むんだからー。ちょっとくらいわざと引っかかってくれてもいいじゃん」

「引っかかりたいと思うような作戦を考えないギルが悪い」

「えー?」

 食べ終わって少しゆっくりしたあと、神社に向かう。というより無理やり腕を引かれて連れられた。暖房のつくギルの家から出たくなかったのに。

 今年の大晦日は雪が降って、その雪はまだ溶けていない。だから余計に寒さを増している。

 道の雪は除雪されているが、草の上や住宅に駐車している車などにはまだ雪が残っている。吐く息もまだまだ白い日に外を歩きたくない。

 それでも歩いていると少しだけ体温が上がって、服の中がぽかぽかとしてくる。途中の自販機でおしるこも買わせてくれた。

 それを飲みながらいつも連れられる神社に向かった。大きな神社で、ところどころ屋台が出ている。

「あ、敬助くん今家出たって。待つ?」

「……ケイの家の場所的にももう少し時間がかかる。手だけ洗って、境内に入った広いところで待とう」

「うん。送るね」

 変わらず歩きスマホをする。それで前にも電柱にぶつけたかしたのに、懲りないものだ。

 ギルの前方にも気を遣いながら歩いていると、鳥居が見えてくる。場所的に神が通るところだったから、ギルの腕を引いて端に寄る。

 一度お辞儀するために立ち止まってからくぐる。そのときギルがなにもせずくぐろうとしていたのは見逃さなかった。

「えへへへ。忘れちゃってた。でもなんで真ん中とかそのまま通っちゃ駄目なの?」

「……神が通る場所だからな。一礼するのは、その神がいる敷地内に入るから。常識だ」

「そうなんだ。でもむかーしに聞いたことあった気がする!」

 人の流れに歯向かわず進む。それにしても人が多い。……疲れた。

 手水舎で手を洗ったらケイが来るのを待つ。まだもう少し時間がかかるだろうが。

「そういえば、ギル。身の清め方知っていたか」

「え? 身を清めるって……なに?」

「……さっきした手洗いのことだ。右手から洗っていただろ」

「……うん、そうだけど。……もしかして順番とかあったの!」

 今までどうやって参拝していた。それに何度かギルと参拝したこともあったから、もしかしたらそのたびに指摘していたかもしれない。

 ギルに覚えさせるためにシュミレーションをする。

「まず、右手で柄杓を持って、左手を洗う」

「右で持って左を洗う」

「持ち替えて右手を洗う」

「洗う」

「また持ち替えて左手に水を受けて口をすすぐ」

「え! そうなの? 俺それしてないや」

 駄目じゃないか。

「今度からはするようにな。もちろん、口に入れたものは吐き出さない。口に入れたくなかったらフリでもいい。そのあと、口をすすいだらまた左手を洗って、最後に柄杓の柄を洗う」

「それもしてなかったかも」

 駄目駄目じゃないか。

「……ギルの行動に神が怒って、今年のギルには悪いことばかり起こるかもしれないな」

「えぇ! お、俺もう一回清めてきていい? ほら敬助くんも来てないし」

「いたいた、お待たせ」

「なんで来るの敬助くん!」

「……あれ、俺来ないほうがよかった……?」

 悲しそうな顔をするケイに事の説明をしたあと、二人で身を清めに行った。

 今度こそ間違えてないか見ていたが間違っていなかった。それを来年まで覚えててくれたらいいのだが。

 二人が帰ってきたら改めて参拝するために前に進む。ケイはここへは来たことがないらしく、ギルの後ろにいる。僕もあまり憶えていないからギルの後ろにいる。それに対してギルが、なぜ誰も隣にいないのかと、顔をムッとさせながら言っていた。

 本殿に近づくと進むスピードも遅くなる。本殿はもうすぐそこなのに、まだまだたどり着けないみたいだ。

 その待つ間に財布から小銭を出そうと中を見る。五十円玉と五円玉があるな。これでいいだろう。少額すぎても神はいい思いをしないだろうし。

 五十五円をポケットに入れて財布をしまう。まだだろうか。

 動かなさに寒さを覚えていた頃、目の前が開ける。最前列に来たらしい。やっときた。

「ね、ねえれーくん。これも順番あるの?」

「なんで今聞くんだ。あるが、後ろにも並んでいる。僕のを見てやればいい」

 ちょうど鐘が三つあるから、並んでお参りをする。賽銭を入れ、鐘を打つ。

 二礼。

 二拍手。

「…………」

 一礼。

 終われば、邪魔にならないようさっと去る。

「なにお願いした? 俺ね、これからもれーくんたちと仲良くできて、いつまでも一緒にいれて、お父さんたちも健康で長生きできますようにってお願いした!」

 ケイが僕を見てくるから、ギルの問いに答えてやれと顎を上げる。

「俺はまあ、大学に受かりますように、とか」

「そっか、来年っていうか今年受験生だもんねー。嫌だなー。れーくんはなにお願いしたの?」

「……なにも。……強いて言うのなら、ギルが参拝の作法を覚えてくれますように、だな」

「なにそれー」

 口を尖らせるが、すぐに笑い飛ばす。

 神に祈ったところで、神などいないに決まっている。願って叶ったことがない。それがなによりもの証拠だ。

 おみくじを買いに行く。もちろんギルが買いたいと。おみくじなんてただの紙でしかないのに。けど、そういう遊び心もあっていいものだろうと、三百円を納める。

「まだ見てないよね? いくよ、せーのっ」

 右から大吉。凶。小吉。

「やった! 大吉だ」

「一番つまらないな。ケイの結果」

「べつにいいさ」

 肩を竦めたケイは、さほど中身を見ずに「小吉」と書かれた紙を畳んで、財布の中に入れる。

 凶か。

『運勢 思うように物事が進まず、焦りや不満が生じやすい。無理に動くと事態を悪化させる恐れがあります。今は現状維持と慎重な判断を心がけましょう。

 学業 努力が結果に結びつきにくい。何度も確認すること。

 健康 すぐ疲れる。無理は禁物。

 失物 出にくい。隅々まで探せ。

 恋愛 誤解が生じやすい。感情的な行動は慎むこと。

 待人 来ない。期待しすぎないこと。

 争事 不利。控えよ』

 ……本当に今年の運勢を占ったわけではないだろうが、文字だけ見ると少し、残念という思いがしてくる。ギルに遊ばれる前に財布にしまった。

 どんな言葉であろうと、ただの紙にすぎない。

 おみくじを引いてギルは満足しただろうと思っていたものの、お守りを買いたいと言いだす。必ずしもいるわけではないだろうに。

「今年とら年なんだ。れーくんにお守り買ってあげるね。凶を引いたれーくんに」

 あははと笑って並ぶお守りに目を移す。明らかに馬鹿にしてる。悪を引きつけるお守りなんてものはないだろうか。

 そういえば、ケイも言っていたが今年は受験生なんだな。二人の分の合格祈願、買っていこう。あと、健康祈願。ここにいない下条たちには悪いが、祈りはしてやるからなにも求めるな。

 買って渡すとき、ギルやケイからも貰う。ギルからは健康祈願。ケイからは合格祈願。お守りなんて信じないが、貰えるならとありがたくちょうだいする。

 もうすることもなくなったから、このあとは帰るだろう。早く帰って寒い外とおさらばしたい。

 トボトボとギルの後ろを歩いていると、ギルがトイレに行きたいだなんて言いだす。

「近くにある?」

「うん。確かあったと思う」

「なら俺も行こうかな」

「れーくんは?」

「……ここで待つ」

 二人と別れて、電柱に体を預ける。……寒い。別れたばかりで悪いんだが、早く戻ってきてくれないか。

 手袋越しに息を吹きかけて手の冷えをなくす。なにか温かいものを飲もう。少しでも温かくなる。

 自販機が近くにないかあたりを見渡す。ない……か。あったとしても人がいて気づけないだろう。けど、いい。代わりのものを見つけた。甘酒が売っているらしい。

 すかさず並んで待つ。貰ったら人の少ない物陰にしゃがんで、手で包み込む。温かい……。ずずずと音を立てながら飲む。温かい……。なんとなく気分もよくなってきた。アルコールなんて入っていても一パーセント未満だろうに。

 しばらく甘酒の温かみに体を染み込ませていたら、ふとかなり時間が経ったことに気づく。ギルたちはもう戻ってきているだろう。僕も戻ろう。

 そう思っていたものの、

「……どこだここ」

 迷子になってしまった。

 そう距離も離れていないはずなのに。一つ溜息を吐いて、スマホを取り出す。

 やっぱり。ギルから連絡が来ていた。

『れーくんどこー?』

『ねえー』

『帰ってないよね?』

『れーくーん』

 申し訳ないな、気づかなかったばっかりに。入力欄に『ぶらついていたら迷子になってしまった。どこかで合流しよう』と打って送る。既読はつかない。

 集合場所としてわかりやすいところがいいだろうが、どこがあるだろう。境内は、どこかしら人であふれかえっているから、境内外のいい場所……。

『神社の近くに公園があっただろ。そこで待っている』

 既読がつかないならと、場所を指定する。さっそく移動しよう。

 ギルとこういった人混みの中にいる分には心強くいれるのだが、一人だとすぐ苦しくなってしまう。極力人が少ない道を通って、公園までたどり着く。

 これだから初詣なんて……。なんて罰当たりなことを思いながら公園を見渡す。ギルたちはまだ来ていないらしい。

 が、

「…………」

 代わりに一人の人間を見つける。少し口を緩ませながらその人に近づいた。

「お久しぶりです。一樹先輩」

 ベンチにだらしなく腰掛けている先輩に話しかける。片手には珍しくココアが握られている。子どもっぽいところもあるんだな。

「……あぁ! 君じゃん。奇遇だなぁ。てかもう怪我治ったんだなぁ。よかったよかったぁ」

「おかげさまで。一樹先輩にもご心配をおかけしました」

「君が怪我したとき、俺はなんにも知らなかったけどなぁ。……座れよ」

 遠慮なく先輩の隣に座る。 

 ただ先輩が隣にいるだけなのに、鼓動が速くて、少し苦しい。やっぱりまだ、諦めきれてないんだろう。

「一人で初詣かぁ?」

「いえ。友人と。ただ今は僕が迷子になってしまって、この公園で待ち合わせをしようと」

「迷子って、君今何歳だぁ? ガキでもねぇんだから。君ってほんと抜けてるところあるから気をつけろよぉ?」

「……そうですね」

 先輩はきっと嫌だと言う。僕が思いを伝えたら。

 特別な関係になりたいわけではない。ただ思いを伝えられたらそれでいい。それだけでいい。でも、それだけでいいのなら、もとから思いなんて伝えずに僕のなかだけで留めてしまえば、先輩が傷つくことはない。

 ビューっと風が吹いてきた。思わず口をマフラーで覆う。寒い……。

「さっむぅ!」

 隣から聞こえる。

「…………」

 着けていた手袋を先輩に渡して、コートを肩にかけた。一気に寒くなった。けどこれでいい。

「あぁ? いいってこんなの」

「少し暑いので、一樹先輩が着けててください」

「風吹いたとき口隠してたくせに」

 バレてたか。

「コートは君が着ろ。さすがにこれは借りれねぇ。ただでさえ君の体よえぇんだから」

 そう返された。けど気に食わなく、今度はマフラーを首に巻いた。それなら納得したのかなにも言われることなくマフラーに口を埋めた。

 そんな寒そうにする先輩を温めようと手を伸ばして肩を引き寄せようとするが、途中で止まる。さすがにまずいか。

「あ、そうそう。これ見ろよぉ」

 先輩はポケットに手を突っ込む。面白い形の石でも見つけたんだろう。そんなことを思っていた。

 けど、実際に出てきたものを見た瞬間、ドクッと心臓が鳴った。

「…………」

「ずっと前から気になっててよぉ、最近吸い始めた」

 当たり前のように箱から一本のたばこを取り出してライターを握る。

 けど僕はそれを払い落としていた。

「……なんだよぉ、君がまだ吸えないからってしっ」

 たばこなんて……。

「やめてください。たばこなんて、吸わないでください。体に害しかないたばこなんて……」

「君がどんなこと思ってるのかは知らねぇけど、これは俺が吸いたいと思って始めたんだ。君が口出しすることじゃ」

「わかってます。僕だって、一樹先輩には自由でいてほしいです。ですがこれだけは……たばこだけは絶対にしてほしくないんです。僕の大切な人は、僕の手以外で死んでほしくないんです」

「……さらっと殺害予告すんな?」

 実際にはしないが……。

「とにかく、やめてください。大切な人の吐く息を汚してほしくないんです。たばこの影響で早死にしてほしくないんです。お願いします」

 心底からの頼み事で、深く頭を下げる。一人の大切な人の自由を奪っているという自覚を持って、深く、深く頭を下げる。

「……わぁったよ。正直咳しかしねぇから、ちょうどいい機会だ。やめる」

 そう言って先輩は咥えていたたばこを箱に戻しては、ゴミ箱に捨てて戻ってくる。

「これで君は安心できたかぁ」

「……はい。……けど、すいません。僕の自分勝手な思考で、一樹先輩の」

「いいって。ちょうどやめどきだったんだって。それに俺もたばこ吸った影響で早死なんてしたくなかったからなぁ。君と楽しめる時間がなくなる」

 僕と……楽しめる時間。先輩はきっとただ楽しみたいという思いで言っただけだ。決して僕と同じ気持ちだなんてことはない。

 わからなくなってきた。僕が本当に先輩のことが好きなのかどうか。ただ一つ年が上という身近にいる保護者的な存在を求めているだけかもしれない。先輩の特殊な体という僕の好奇心が動いているのかもしれない。もうわからない。

 僕は先輩になにを求めているのだろう。

「……君、どっか悪いのかぁ? 元気ねぇ」

「……そうですか」

「なんだぁ、言ってみろ。俺が聞いてやる」

 言えるわけがない。聞いてくれようとしている人のことが好きだなんて。好きかわからなくなってるだなんて。

「……なんでもないです」

「……なんでもないって言うなら、その今にでも泣きそうな顔やめろ」

 泣きそうな顔なんて……。しているつもりはなかった。けど、瞬きしたときに目からあふれ出たそれでやっと気づく。情けない。こんなことで……。

 涙を拭って立ち上がる。もう、ギルたちを迎えに行こう。先輩の前から消えたほうがいい。いつか傷つけてしまう。わかっているのなら未然に防ぐ。それ以外にない。

「……僕もう行きますね。またどこかで」

「ちーと待て」

 背を向けたのに手首を(つか)まれる。

「後輩が泣いてんのに、先輩の俺がなんもしねぇなんてこと世の中が許さねぇ。どんなことでもいいから言ってみろって。少なくとも俺は君の先輩なんだから、ちっとは先輩らしいことさせろ」

 自分勝手じゃないか。

 再びベンチに座らされる。けど、先輩は急かして問うなんてことはせずに、ただ隣に座っている。

 もうこのまま黙秘を貫けば、いずれ時間が解決してくれる。そう見越して口を開けることはしなかった。

 そして読み通り、

「れーくーん。お待たせー」

 時間が解決してくれた。

「先輩さんもいる! 久しぶりー」

「おぉー。久しぶりだなぁ。ちょうどよかった今」

 すかさず先輩の口を塞ぐ。これ以上話を広げられたら後戻りできなくなる。

「もう、解決したので大丈夫です。なにも言わないでください」

 一瞬当惑の表情を見せ、理解したあとにはつまらなさそうに僕の手をどけて口を開ける。

「せぇっかく俺が話聞いてやるって言ったのに。ま、君がそれでいいならいいけどよぉ?」

 話が広められずに済むみたいだ。よかった。

 ギルたちとも合流したことだし、そろそろ本当に先輩と別れよう。感情が変化してしまう前に。

「……蓮、誰?」

 立ち上がって行こうと思ったのに……。

「同じ高校の先輩だ。一つ上の」

「……へぇ」

「あ、その子も君の友だちだったんだぁ? ギルくん以外に友だちいたんだなぁ。君って意外と友だちいるんだなぁ。俺安心だぁ」

 勝手に不安になられても。それに、そんなことを言ったら先輩だって友人はいないとか言っていたじゃないか。

「……どこで知り合った」

「どこ……体育祭があった日に、早退して倒れかけたときに助けてもらったというか。情けない話だが」

「……へぇ」

 聞いてきたのに、興味がなさそうに返事をする。

「そんなこと言ったらそこの君も、ギルくんもどうやって知り合ったんだぁ? 数少ない君の友だちの出会い話なんておもしれぇに決まってる」

「話しても面白くないので教えません」

「君に聞いてねぇ。ギルくん、どうぞ」

 拳を作ってギルの口の前に持っていく。それをギルは嬉しそうに口を曲げて、口を開けた。どうやらしばらく暇になるらしい。ベンチの背もたれに体を預ける。

 ギルと初めて会ったときのことは……忘れもしない。ギルと出会って僕の見える世界がほんの少し色づいた。そんなきっかけをくれた。


 十数年前。幼稚園。

「みんなーおはようございまーす!」

 扉を開けて入ってきた幼稚園を操る大人はそう言った。続けて周りの子供は挨拶し返した。

 僕は口を開くことはしなかった。

「今日はね、新しいお友だちを紹介したいと思いまーす」

 その言葉に、周りの子供はそわそわとし始める。

 その新しく入る子供といつ「友だち」になったんだろ。

 僕は頬杖をついて扉とは真逆のほうへ顔を向けた。

「じゃあ、早速入って来てもらいまーす! どうぞ、入ってきてー!」

 大人はそう言うけど、扉が開かれる音なんてしない。ただ少しの間、静かな時間が過ぎた。

「あれ? もしかして緊張してるのかな?」

 少し気になって、扉のほうに向いた。大人が扉を開けに行って、しゃがんで誰かと話す。

「はーい。みんなー、新しいお友だちを紹介するよー!」

 立ち上がったかと思えば、一人の子供の腕を引いて前に立った。

「…………」

 その子供は、どこか僕や周りの子供と違った。僕や他の子供は黒とかで色がないのに、その子供の髪は黃色だ。その子供の目は緑だ。外国人……だ。

「ギルくん、自己紹介してみよっか」

「……え、えっと……」

 ……日本語。外国人が喋ったときみたいな喋り方じゃない。僕が喋るみたいな日本語。ハーフ……かな。

「ちょっと難しいね。この子は、『ギルくん』。みんなと見た目は違うけど、みんなと同じ日本人だから、仲良くしてね」

「……はーい」

 少し遅れて周りの子供が返事をする。

 僕はもう興味がなくなったから、頬杖をついてそっぽを向いた。本を読みたい。

「じゃあ、ギルくんの席はあそこ。✕✕✕✕✕くんのお隣の誰もいない席あるよね? あそこね」

 僕の隣に……。一つ席が増えてるって思ってたけど、そういうためだったんだ。

「先生と一緒に行こっか。ちょっと緊張するね」

 自分の席を指定されても座りに行かないからか、大人と席に来たらしい。足音が二つ近づいてくる。

 椅子を引いた音がしたあと、

「✕✕✕✕✕くん、なにか困ってそうなら教えてあげてね」

「…………」

 片方の耳から聞こえてくる。けど、僕はそっちに向くなんてしなかった。どうせ大人は呆れた顔をしてる。僕は聞こえなかったフリをした。

「……はあ」

 足音が離れていく。やっと解放された。

「はーい。じゃあ気を取り直して、今日のこの時間は歌を歌いたいと思いまーす! 昨日歌った歌憶えてるよね。それを歌いたいと思いまーす!」

「はーい!」

 周りの子供が返事する。僕はそれが上から糸で吊られた操り人形そのものに見えた。

 ピアノの音を出して、くだらない発声練習を子供はやらされる。僕はもちろんしない。する意味がわからない。

「じゃあ、次は歌を歌いまーす! じゃあいくよー! せーの!」

 かけ声のあと、子供は歌い出していく。音程があっていたりあっていなかったり。不調和音を聞かされている気分。気持ち悪い音。

「はぁ……」

 早くこのくだらない遊び、終わらないかな。

「…………」

 ……なんだろ。不調和音に紛れて聞こえてくる。鼻をすするような……。

 耳を澄ませてみれば、聞こえてくるのは隣からだった。ハーフの奴。

「…………」

 そいつは静かに涙を流してた。涙を拭う素振りを見せず。周りの子供と違って歌わず。

 僕は一瞬だけ、このハーフの奴は周りと同じ子供じゃないのかと思った。けどきっと同じだ。ハーフの奴を見るのをやめた。

「ぱぱ……まま……」

 歌に紛れて聞こえる。隣のハーフの奴の声。

「…………」

 気になってハーフの奴を見た。今度は涙を拭ってる。ときどき見える瞳は、やっぱり緑の色をしてる。……綺麗。

「……だいじょうぶ……?」

 さすがにここまで涙を流してるのになにもしないのは嫌だから聞いてみた。

 けど、

「…………」

 聞こえてないのか聞こえなかったフリをしたのか、返事は返ってこなかった。

 返事しないならいい、と僕はハーフの奴を見るのをやめた。早くこの時間が終わってほしい。

 それにしても、大人は気づかないのか? そう思ってピアノを弾く大人に目を向けたけど、貼り付けた笑顔にハーフの奴の姿は映っていないらしい。気持ち悪い笑顔を作ってピアノを弾いてる。

 僕は再びハーフの奴に目を向けた。今度は泣き止んでる。

「ねえ」

 今度は少し強く言った。歌に消されないように。

 そしたら今度は聞こえたらしく、体をビクリと動かしてから僕のほうへ顔を向けた。目は充血したまま。緑の瞳がよりいっそう潤って見える。

「だいじょうぶ?」

「…………」

 聞いたのに返事がなく、涙を流し始めた。

「はぁ?」

 不意に疑問に思って出た言葉。その言葉が強く聞こえたのか、体を縮こめて僕とは真反対へ体を向けた。

 まあいっか。そっちがそうしたいなら僕が口出ししない。もう黙っておこ。口を開けるのが面倒。


 休憩時間に入った。僕はさっそく椅子の下に置いてあった本を手に取って、読み始める。けど、十数文字も読む前にムズムズしだして、本を閉じた。

 机に入れた椅子の下に本を置いて、トイレに向かおうとする。でも、ハーフの奴がふと気になって、振り向いてみた。

「…………」

 ハーフの奴は泣いてなかったけど、今にでも泣きそうな顔をしてた。でも僕を無視したんだからあいつに言葉をかける必要もない。構わずトイレに行った。

 戻って本を読もうと思えば、僕の椅子に誰か座ってた。

「……どいて」

 聞こえてないのか振り向かない。そいつは隣の席のほうに向いてる。ハーフの奴が座ってたほう。ついでに言えば、ハーフの奴の周りを子供が囲ってる。

 今度は背中を軽く押して強めに言った。

「どけ」

「っ、なんだよ」

「ぼくのせき。どけ」

「やだね。ほかのせきすわれよ」

「……ほかのせき。ならお前のせき、ずっとすわる。きゅうけい時間おわっても」

 こいつの席なんてもともと知らないけど。

「それは……」

「ならどけ」

「……しょうがねぇな」

 椅子から立てば、わざわざ僕のほうへ椅子を向けてくれた。そんなに自分の席に座られるのが嫌だった? ならそもそも座るな。

 自分の椅子に座れたら、机の下から本を取りだして、読んでたページを開けた。読んでたところを見つけたら読み始めていく。

 でも、

「…………」

 隣からの声がうるさくて集中できない。

「ガイジン」

「にほんじんじゃない」

「に、にほんじんだもん……」

 ハーフの奴がいじめられてる。ハーフの奴の涙声が聞こえる。

「じゃあ、そのかみのけのいろはなんだよ」

「そのきったないめのいろも」

 汚い……? そんなわけない。

「さっきのことば、とりけして」

「は? なんだよおまえ」

「とりけせ。そいつに言ったことば。今すぐ」

「おまえカンケーないだろ」

「お前らはさっき、そいつのかみとひとみをきたないって言った。……そんなことを言うお前らのかみとひとみのほうがきたない。まわりでそのかみとひとみをしてるやつがいる? こんなきれいな色をしてるやつがいる? きたないお前らときれいなそいつはちがう。さっさとそいつからはなれろ」

「な、なんだよ。……いこーぜ」

 いじめっ子はハーフの奴の周りから消えた。これでゆっくり本が読める。

 そう思ってたのに、今度はハーフの奴が涙声で話しかけてきた。

「あ、あの、ありがと」

「……たすけてない。ぼくが本にしゅうちゅうできないから」

「でも……たすけてくれたのはおなじだよ。……ありがと」

 最後ににっと笑いかけてきた。

「…………」

 休憩時間が終わるまで本を読んでいようと思ったのに、ハーフの奴が僕の前まで来て話しかけてきたから、全然集中できなかった。「なによんでるの?」とか「おもしろい?」とか。全部無視した。

 全然本を読めないまま休憩時間が終わった。こいつは僕の邪魔しかしない。

「この時間は粘土で好きなものを作りたいと思いまーす! 今から粘土を渡していくから、渡された子から袋開けて好きなもの作っていってね」

「はーい!」

 粘土で作る……。面倒臭い。読んでいたページに目を移して、続きを読んでいく。

「おれはきょうりゅうつくる!」

「おひめさま!」

 好きなもの……くだらない。

「あー、もー✕✕✕✕✕くん? 本はもうお終い。この粘土で好きなもの作るの。わかった?」

 持ってた本を取られて、床に置かれる。

「…………」

「ちゃんと作らないと、パパとママ喜ばないよ?」

「……よろこばなくていい」

「はぁ……」

 溜息をわざとらしく吐いたあと、大人は立ち上がって前のほうに行った。僕は床に置かれた本を取り上げて、読んでいたページを探して、見つかれば読んでいった。粘土より本を読んだほうが面白い。

 でも、すごい面白いってわけでもないから、ただの暇つぶし。この幼稚園に連れられる間だけ。

 他の子供はもう作り始めてたけど、隣にいるハーフの奴は粘土に手を付けてなかった。鼻をすする音も聞こえてくる。それでも、大人には聞こえてないらしく、話しかける様子はない。

「作らないの」

 確実に聞こえるように顔を向けて言った。

「……ギルくん?」

 は?

「ギルくんじゃないの?」

 ……なに言ってるんだ。

「作らないの」

「なにつくるの?」

 大人の話聞いてなかったのか。

「すきなもの」

「ギルくんの?」

 ギルくん……って誰のこと言ってるんだ。

「お前のすきなもの」

「ないよ?」

「…………」

「すきなものない。すきなもの……ぜんぶこわされちゃうから、すきなものない」

「…………」

 壊される、か。見た目からいじめられるんだろうな。可哀想に。でも、一つくらい譲れない好きなもの、あるだろ。

「ぜったいにない?」

「ない」

 まあいっか。僕がこいつの相手をする必要ない。本の続きを読もう。

「✕✕✕✕✕くん? 今は粘土で好きなものを作る時間。本を読む時間じゃないの」

 あっけなく本は取られて、今度は大人の脇に挟まれた。こいつの相手してたから全然読めなかった。相手しなかったらよかった。

「✕✕✕✕✕くんの好きなもの作るの。好きなのはなに?」

「…………」

「……はぁー」

 本を脇に挟んだまま立ち上がられた。本が取られた。……暇になる。

 大人はハーフの奴の前にしゃがみ込んだ。

「ギルくんはなにつくる?」

「…………」

 大人からそう聞かれたら、鼻をすすって泣き出しそうになる。

「あらあら、どうしたの? まだ慣れないところで怖いよね」

「…………」

「こいつのすきなものない」

 自分で言いなさそうだから言った。

「こいつって……。朝に言ったでしょ? この子のお名前は『ギルくん』。憶えた? あなた他の子の名前も憶えてないでしょ」

「……おぼえるひつようない」

「ありますー。……で、ほんとに好きなものないの?」

 ギルって奴に向き直って大人は聞く。それにギルは小さく頷いた。

「例えば、ロボットとかお人形さんとか新幹線とか」

 大人の言葉を全部横に顔を振った。

「ギルくんのすきなもの……ぜんぶこわされちゃう。だからすきなものない」

「…………」

 わけがわかったらしい大人は黙ってしまう。……大人なのになにも言えないんだ。

「……こわされる前に、自分でまもったら」

「え?」

「すきなら、自分でまもらないとだれもまもってくれない。せかいはそんなかんたんじゃない。すきでこわされたくないなら自分でまもれ」

「……あなた何歳よ」

 知らない。

「……おなまえ、なんていうの?」

「教えな」

「この子は✕✕✕✕✕くんって言うの」

「かってに教えるな」

 少し考える時間が空いたらギルは口を開く。

「✕✕✕✕✕くん? ……✕✕✕✕✕くん! ギルくんのすきなものできた!」

「それはなにかな?」

「えっとね……」

 っ……。

「ギルくんのすきなもの、✕✕✕✕✕くん!」

 いつの間にか、ギルに腕を回されてた。力が強くて痛い。それに今、好きなものを僕って言ってた。

「そうなんだ、それはいいね」

「だめ。それだとぼくがこわされるってことにな」

「ギルくんが✕✕✕✕✕くんのことまもる! すきだからまもる!」

 ……自分で言ったことを初めて、言わなかったら良かったって思った。

「はなれて、いたい」

「いやだ。まもるもん」

「ぼくは自分でまもるから、お前がまもらなくていい。はなれろ」

 強くギルを押して、離れさせた。床に尻を付いたギルは痛かったのか、泣きそうになる。

「あー、もう✕✕✕✕✕くん? お友だちを強く押さないの。ギルくんも、痛がってたら無理にぎゅってしないの。二人ともわかった?」

「う、うん」

「……僕はこいつと友だちじゃない」

「みんなお友だちよ。ほら、ギルくん立てる?」

 ギルは泣きそうな顔をしながらも立ち上がって、自分の席に座った。……いつこいつと友だちなんて存在になんか……。僕に友だちなんていらない。

 ギルは座るなり涙を拭いて粘土を触り始めた。やっぱりこいつも同じか。

「ほら、✕✕✕✕✕くんはなに作る? 好きなものはなに?」

「…………」

 大人は僕がなにか作れば満足するはず。適当に作って、早く本を返してもらおう。

 手のひら二つ分くらいの粘土を取って、こねて……少し細長い四角を作った。それを整える。……できた。顔を上げてできたとわからせようとした。

 でも、その頃には大人はいなかった。

「…………」

 目がなんとなくうるっとしたのがわかったから、服で拭った。

 今度は壊したい気持ちになって、作った「好きなもの」をぐちゃぐちゃに丸めて床に捨てた。

 この気持ちを紛らわせるためにも立ち上がった。手を洗いに行こう。

「あ、✕✕✕✕✕くんどこ行くの? おトイレ?」

「……手をあらう」

「ギルくんもいく! でも……あとちょっとだけまって……」

 それだけ言うと自分の粘土に目を落として粘土を触り始める。一人でいけばいいのにって思ったけど、こいつは今日来たばっかりで、手洗い場所なんて知らないはず。……少ししか待たないから。

 でも、そうすぐには終わらなかった。もう行ってしまおうと思って立ち上がれば、ギルが「できた! ✕✕✕✕✕くんいこ!」とか言う。待たせすぎ。

 廊下にある手洗い場に行こうとすれば、粘土の付く手で僕の手を握ってきて、すぐに払った。よくその手で握ろうと思ったな。

 手洗い場には、さっきギルをいじめてた子供がいて、ギルは僕の後ろに隠れた。次第にいじめっ子が水で掛け合うから、仕方なく外にある手洗い場に行った。風が吹くからあんまり外にはいたくなかったけど。

 外の手洗い場には誰もいなかった。ギルは僕がやったことに意味をわかってないのか、のんきに「誰もいないね」とか言う。もちろんなにも言わなかった。

「うっ、さむ……。ゆきふるかな」

 冬じゃないから降るわけないだろ。

「✕✕✕✕✕くんのこと……」

「…………」

「ゆーくんっていっていい?」

「むり」

 そんなヘンな呼び方するな。

「えぇー? ✕✕✕✕✕くんならいいとおもってたのに。ギルくんと✕✕✕✕✕くんはもうおともだちだから」

「ちがう」

 だから、いつそんな存在になったんだ。

 ポケットからハンカチを取り出して、手を拭いていく。ギルも洗い終わったのか、水を止めてポケットに手を突っ込んだ。でも、なにも掴まずに手を出した。

「えへへ、ハンカチなかった」

 ギルが初めて笑った……。

 ポケットに入れかけたハンカチをギルに渡した。

「……つかえば」

「……いいの? ありがと!」

 ビショビショに濡れた手をハンカチで拭いていけば、すぐにハンカチは水を含んで湿る。僕のハンカチはさらに湿って返ってきた。もう少し水を切ってから拭けない? そう思いながらもポケットに入れた。

 部屋に戻ろうとすれば、

「あ、まってゆーくん。……おトイレいきたい……」

「…………」

 なにも答えず廊下に向かえば「まってよ」と言いながら隣に付いて、手を握ってきた。その間にも、漏れそうなのか、服を下に引きながらもじもじしてた。

 部屋には戻らず、右に曲がった。そのことにはギルが「こっちであってるの?」とか場所もわからないくせに言ってた。

「ここ」

「なにが?」

「……行かないの」

「……あ、おトイレ。ギルくんのこときいてたんだ! ありがとゆーくん!」

「そのよび方やめろ」

 言い切る前にはもう、トイレに入ってた。一つ溜息を吐いて、部屋に戻ろうと部屋のあるほうに向いた。けど、

「…………」

 やっぱりやめた。

 ギルがトイレから出てきたら、僕がいることに驚いてた。

「なんでまだいるの?」

「……へやのばしょわかる?」

「……ううん! ありがと! ゆーくんやさしくてすき!」

 今度は優しく腕を回されながらも、その呼び方について言った。

「だから、そのヘンなよび方やめろ」

 今度こそ聞こえたはず。

「ううん。ヘンじゃないよ。ゆーくんはギルくんのトクベツ? だから、ギルくんのすきなよびかたする!」

 僕がギルの、特別……。

「ていうか、手あらった? 手ぬれてない」

「あらってないよ?」

「は? あらってきて」

 ギルを引き剥がしてみれば、ギルの楽しそうに笑った顔が見えた。


「二人ともどこ行ってたの?」

 部屋に戻れば子供が席に座ってて、大人が聞いてきた。僕は自分の椅子に座ろうと思えば、ギルが手を引いて、僕の背中に隠れた。前に立つのが嫌みたい。

「……なんでもいいだろ」

「……ギルくん? どこに行ってたの?」

 大人のその質問が怒ってるように聞こえたのか、泣きそうな声をしながらも答えた。

「おててあらって……おトイレも、ゆーくんがつれていってくれたの」

「あら、そうだったの。ありがとうねゆーくん」

 大人が少しニヤッとしてそう呼ぶから、大人を睨みつけた。

「だまれ」

「そんな汚い言葉使わないの。ほら、席に戻って」

「……だまれ」

 ギルの手を引きながら壁沿いに歩いて、席に戻った。ギルは僕が発した言葉の意味をわかってなかったらしく、「なにがきたないの?」って言ってた。ギルは……そんな言葉覚えてほしくない。

 本は返されなかったから、休憩時間はギルと言葉を交わして時間を潰した。でも、そのときですらいじめっ子が髪を引っ張ったり、ギルを転がそうとしてた。

「なんで……ギルくんだけ」

「…………」

「ゆーくんはいいなぁ」

「……っそ」

 僕の家のことを知っても本当にそう思うかな。


 ギルがなにも話さなくなってからは、図書室に取りにいった本を読んでた。そのときもギルが付いてきていた。パッと見て面白そうな絵本を見つけるたびに、僕に見せてきた。

「ゆーくん、これおもしろそうだよ!」

「絵本は読まない」

「エホン? ゆーくんがよんでたのはエホンじゃないの?」

「ちがう」

 多少は絵があるけど、だいたいは文字ばかりの本を読んでる。絵本は子供すぎる。

 選んできた本を持って部屋に戻った。ギルも絵本を持ってきていて、それを嬉しそうに僕に見せてきた。嬉しそうにするギルを見たら、少し不思議な気持ちになった。感じたことない気持ち。

 持ってきた本を椅子に座って読み始めれば、ギルが僕の椅子と引っ付けて隣で読み始めた。初めはうるさくするだろうと思って、離れようと思ったけど、静かに絵本を読んでたからなにも言わずにいた。

 それを見た大人が笑ってた。なにか言ってやろうと思ったけど、ギルが気づいてないみたいだったから、なにも言わなかった。

「この時間はみんなで公園で遊びまーす! 帽子を被って廊下に並んでくださーい」

 いつの間にか休憩時間は終わってて、大人の声でやっと気づいた。

 公園? ……歩く? 歩きたくない。僕はそのまま本を読み続けた。

「ゆーくん、おそとだよ。ぼうしかぶらないと」

 行く気満々らしいギルが帽子を被って、僕の帽子を持って前に立った。この幼稚園の青い帽子。

「……ぼくは行かない」

「……いかないの?」

「✕✕✕✕✕くんも行きますー。ほら、帽子被って」

 本を取られて代わりに帽子を被らされけど、すぐに脱ぎ捨てた。

「行かない。同じ公園あきた。ぼくはいかな」

「なら、いつもと違う公園なら来てくれる?」

「……本もっていく」

「いきません。いつもと違う公園行くから、帽子被って廊下並んで」

 大人は帽子を頭に被らせてくる。乱暴に。そして手を無理やり引いて転けそうになりながらも扉の外にある廊下まで連れられた。

「ギルくんと一緒に手つないで付いてきてね」

「……チッ」

 面倒臭い。僕は手をポケットに突っ込んで、図書室があるところへ行こうと振り返って歩き出そうとした。けど、

「ゆーくんこっちだよ」

 ギルに腕を引かれて逃げられなくなった。

「はぁ……」


 正直歩くのが面倒だし、疲れるから行きたくなかった。でも大人の勝手で行かされる。おかしい世界。

 でも、いつもと違う公園に行くのは本当らしい。いつもと景色が違う。見たことない景色が広がってて心をくすぐられる。

 僕は上を見上げてなんとなく前の子供に付いていった。ギルに手をつながれてることも忘れるくらいに。楽しい……。

「ゆーくん。まえみないとぶつかっちゃうよ」

「ぶつからない」

「ぶつかっちゃうよー」

 仕方なく前を向いたとき、目の前には灰色のなにかが立ってた。

「……って」

「ほらー。だいじょうぶ?」

 自然と視界が歪む。

「ゆーくんないて……」

「ないてない」

「でもなみだが」

 さっと目にある水を拭いた。

「ないてない」

「でもないてたよ」

「ないて……」

 言ったあと、ふとギルが泣く姿が脳

頭に浮かんだ。言いすぎたらきっと、ギルは泣く。そう思って、

「いいから行こ」

「うん」

 けど、行こうと思えばいなかった、さっきまで前にいた大人と子供たちが。見失った。

「あれ? せんせたちは?」

「…………」

 僕が電柱にぶつかったから……。引き返そう。道は憶えてる。

「もどる。みうしなった」

「え? でも……。あ!」

 ギルが驚いたから、引き返そうとギルの腕を引こうとするのをやめた。

「なに」

「あそこあそこ!」

 ギルが指差してるところを見ればいた。大人と子供たちが。車が走る道の奥を歩いてる。僕らに気づいてないらしく立ち止まる素振りなんて見せない。

「おーい!」

 ギルが僕の手を引いてしましまの道を走って渡ろうとしたとき、すぐ横からギルめがけて車が走ってくるのが見えた。

「ギル!」

 ギルが僕を引きながら走ることを利用して、前に体重を乗せた。ギルとぶつかったときには、僕の目の前に車があった。

 ゴンッという鈍い音が聞こえてからは憶えていない。


 次に目が覚めたら、そこは病院だった。病院のニオイがしたからわかった。

 頭がすごく痛くて、起き上がってみればギルが泣きじゃくってた。

「ゆーくん! よかった、よかった!」

 そして抱きつかれた。

「ギルくんのせいで、ゆーくんしんじゃったかとおもった……。はじめてできたおともだちがしんじゃうなんてぜったいいやだった!」

「……ぼくは友だちなんかじゃない」

「ギルくんとおともだち!」

「…………」

 病室いっぱいにその言葉を響かせる。

 それを聞いた部屋にいた二人の大人が振り向く。一人は若い男。もう一人は制服を着た女性警察官。

「…………」

「……良かったよ……。俺はキミを轢いてしまったんだ。意識が戻ってほんと良かったよ……」

 この男が安心してるのは、僕が死んだらその分金を払わないといけないから安心してるんだろうな。ギルみたいに「死んでない」から安心してるわけじゃない。

「ますのでくれぐれもヘンな真似をしないように」

 女性警察官は部屋を出ていった。

「ゆーくんね、おおきなおとしたあとね、ギルくんとおててつないでなかったの。それでね、うしろみてみたら、ゆーくんがいっぱいあかいの、あたまからだしてぐったりめつぶってたの。ゆーくん……しんじゃったのかと、おもったの!」

 涙声ながらも、そのときにあったらしいことを言ってくれ、力一杯に僕に腕を回してくれる。痛くはないけど、少し痛い。

「おねがいだから、もうしんじゃわないで! ギルくんのはじめてのたいせつなだいすきなおともだちもうしなせないで!」

 誰にそれを言ってるのかはわからなかったけど、それを聞いてた男が俯いてた。

 僕はその言葉を聞いて、ギルを守ろうと思えた。


「……ギル」

 話し終えて満足そうなギルを呼ぶ。そして優しくギルに腕を回した。

「えっ! れーくんが! あのれーくんが自分からっ!」

 そうしたらもちろんギルは抱き返してくれる。いつもよりも優しく、強く。

「ギルが昔話をするからそんな気分になったんだ。……あのとき、ギルじゃなくてよかった」

「俺? なにが?」

 ギルは車に轢かれたことは話していなかったか。僕が勝手に記憶を思い起こしてそんな気分になったのか。けどいい。本当に、ギルが生きててよかった。

「あのときのギルは弱そうな体をしていたからな」

「俺はいつだって丈夫なんだから! 弱くないもん!」

「そうだな」

 ギルの温かみを十分に体に染み込ませたあと、ギルを解放する。と言っても離れることはなかったが。

「で、そっちの君はどんな出会い話をしてくれるんだぁ?」

「俺と蓮とは……本当につまらないから話さない。蓮もきっと教えたがってないから」

 ケイとはまあ……確かにあまり思いだしたくはない。けど、ケイと出会えたという事実とするなら大切な記憶だ。

「つっまんねぇ。これだから君の友だちは」

 悪かったな。

「……蓮。俺、こいつなんとなく苦手」

「聞こえてるっての。苦手ならどっか行ってもらって。

 それに蓮とちょー仲いいから、君が誰だか知らねぇけど、君より俺のほうが仲いい自信しかねぇからぁ?」

 肩に腕を回される。なにに張り合ってるんだ。……それに顔が近い。

「はぁ? なに言ってんだ。蓮と何年の付き合いなんだよ。俺のほうが仲いいし」

 ケイもなんで張り合うんだ。面倒なことになるからやめてくれないか。

「俺一番付き合いなが」

「ギルは話に入るな」

 ギルまでも参戦したら本当に面倒なことになる。

「君こそ何年の付き合いなんだぁ? 俺は去年の夏な? ほら言ってみろよ」

「お、俺は去年の九月……からだけど、小三のときに仲良くなってるし」

「ぐっ……」

 なんなんだこの茶番は。

「ケイ、一回張り合うのをやめろ。一樹先輩も、無駄なことに張り合わないでください」

「へぇ? 君ケイって言うんだなぁ?」

「でも先輩さん、ケイってれーくんが勝手に言ってるあだ名で、本当は敬助っていうんだよ」

「へぇー? ケイスケねぇ? 特別に『ケイ』ってぇ? はー、俺は『先輩』だからなぁ」

 きゃっきゃっきゃーと聞いたことのない笑い声をあげる。どうやったら止められるんだこれ。

「ついでに俺は二人きりで屋上に上がったことあるしー?」

「もう一樹先輩やめてください。ギルたちも、少し二人で話したいから、雪遊びでもして時間を潰していてくれ」

 先輩の小さい手を掴んでギルたちから離れる。離れ際にケイに向かって、舌を出して目の下を引っ張って「べー」なんてしていた。今何歳ですか。

 不意に掴んだ先輩の手、小さい。僕の手よりうんと小さい。手を触れて体温が上がっていたことは自覚していた。

 べつのベンチまで移動して座ってもらう。一つ下のケイに、なんであんなことで張り合ったんだ。僕との付き合いの年月なんてどうだっていいだろうに。

「あのケイって奴おもしれぇなぁ」

「知りませんけど、子供じゃないんですから」

「で、話ってなんだよ。もう話しねぇって君から切り出したのに、まぁたこんな二人っきりになって。そりゃあいつも君と真剣な話するときは二人っきりだけどよぉ?」

 そうだ……。特に用もなく、とにかくあの状況をなんとかしたいと先輩を連れ出してしまった。

 しかも先輩の手も掴んでしまったし、それに今も、ずっと前も僕は先輩と二人きりなんて状態でいたのか……。気づかなかった。「二人きり」……なんて心をくすぶる言葉なんだ。

「い、一樹先輩が悪いんです」

「……はぁ?」

「一樹先輩がケイに意地を張るから、それをなんとか止めようと連れ出したんです」

「つっまんねぇ。それだけのために俺歩かせたのかよぉ。ならもう戻っていいだろ。ケイくんいじりたい」

「いじらないでください。僕の大切な人なんで」

 戻るようなことを言った先輩だが、全く動く気はない。けど、こうしてまったり、なんの目的もなしに声を交わすだけであってもいいだろう。僕だって先輩と二人きりで他愛もない話をしたい。

 僕は話題を口に出した。

「一樹先輩は、好きな人……とかできたことありますか」

「『好きな人』? 君がそんなこと聞くなんて、柄にも合わねぇ。けどまあ話すこともねぇんなら答えてやる。……好きな人ねぇ」

 思いだす時間のように、ココアをグイグイ飲んでぷはーと声を出したあと、

「いねぇなぁ、思えば。君が言う『好きな人』をどの『好き』を指すのかは知らねぇけど、恋愛対象でも、人間としてでも好きな奴はいねぇ。

 けど、君はそこらの顔見知りよりは好きだなぁ。こうやって何気ない話もできるし、くそ真面目な話もできる。君を『特別』だと思ってるのは今も変わりねぇよ」

 先輩の特別……。僕は先輩から好まれている……そう聞くために意図して質問したみたいに、欲しい答えが返ってくる。

「恋愛相談ってできますか……?」

「恋愛相談? 君がぁ? 似合わねぇ似合わねぇって」

 横に首を振りながら笑う。似合わない……か。僕は先輩を好きになってはいけない……のだろうか。いや、こんなことを好きであろう人から言われるのなら、好きになってはいけないんだ。

 少しだけ悲しい気持ちになって、視線も下がる。ただ僕の気持ち悪い細い脚と、すぐ横に先輩のズボンが見える。そのとき心臓がドクッと鳴った気がして、さっと逸らした。好きな人の下半身を見て胸を高鳴らせるのは、本当に最低だ。最低すぎる。

「あぁー……。いや、その君の人格を否定したわけじゃねぇんだ。そんな気を沈ませんなって。……けど逆に考えれば、そんな似合わねぇ君が恋愛相談、つまり恋してるってことだろぉ? どんな内容なのか気になってきたぁ。いいぜ、話してみろよ。先輩として相談に乗ってやらぁ」

 なんだか、もうすでに馬鹿にされている気分だ。

 あんなことを言われてあまり気乗りはしない。けど、先輩に面白がってほしい思いと少しでも気づいてほしい思いから、口を開ける。

「……出会ったのは、最近なんです。最近と言っても人生観で言ったらという意味ですけど。その人は優しくて、広い視野を持って感受性が豊かで、ときどき鈍くて、けどとても頑張り屋で自分を犠牲にするような人なんです。そんな存在に僕は惹かれました。

 けど、近いようで遠い存在で、相手はきっと気づいてないです。僕の……気持ちに。

 特別な関係になりたいわけではないんです、きっと。ただその人に思いを伝えたくて、少しでもこういう話ができる機会が増えたらなと……思ってるんです」

「待て。君、今『こういう』って……言った?」

「……言いましたっけ……?」

 自分に確認させるように声に出していたからわからない。けどもし本当に言っていたら……。

「あっ、いや、違います。その……」

「急になんだよ。違うってなにがぁ?」

 あぁ、もう……。バレるならバレてほしい。本当に鈍感だ。

「その……さっき『こういう』と言ったのは……その、こういう感じでよくお話をするんです。それで……その……」

「……あぁわぁったわぁった。続きはぁ? そいつに思い伝えれねぇのは君の勇気云々の話じゃないんだろぉ?」

 名前を呼ばれた気がして鼓動が速くなる。

「…………」

「え?」

「……いえ、なんでもないです」

 びっくりした。先輩が知っているのかと思った。やはり、一つのものとして記憶されているんだな。早く消えればいいのに。

 一つ咳払いをして続ける。

「思いを伝えたい方は……その、言ってしまったらきっと傷つくんです。相手の人格を全て否定するような、そんな意味になるんです。僕が思いを伝えるというのは」

「へぇ? 結構真面目な話なんだなぁ。それで終わりかぁ?」

「はい。一応」

 先輩はココアを口につけて天を向く。地に顔を戻したあとは、ベンチの手すりにココアの缶を置いた。そしてわかりやすく考え込むように腕組をする。

 先輩は思ってもみないだろうな。その相手が自分だなんて。

「……君は、どぉーしても思いを伝えたいのかぁ?」

「……必ずしも、というほどではありません。もういつだって会えますし、少しでも傷つく可能性があるのなら、僕は伝えたいとは思いません」

「ならもうそれでいいだろ。はい決まり。俺に恋愛相談なんてできねぇんだよ。ちょっと酒買ってくらぁ」

 あっさり話を終わらされてしまった。やはり、相談相手を間違えたな。そもそも気づきもしてなかった。……いつになったら、気づいて……。

 けど、もう諦めよう。少しでも傷つく可能性があるんだ。もう諦めよう。思いなんて心のうちにしまっておくものだ。

「…………」

 昨夜の、ヘンな記憶を思いだす。

 急に孤独感に襲われて腹を抱えるように丸くなる。言葉にしなければ誰も傷つかない。いつになってもそれだけは変わらない。

 靴を脱いで足を上げて顔を埋める。

 ……苦しい。

 感情なんてなければよかったのに。

 感情がなければ、悲しいとも、寂しいとも、怖いとも、苦しいとも、つらいとも、疲れたとも、過去に囚われることもなかったのに。

 ただ誰かに体を優しく包んでほしくて体を丸めていた。でもただ冷たい風とともに時間が過ぎていくだけだった。

「どぉしたよ君。くそ短いさっきの間になんか嫌なことでもあったかぁ?」

 顔を上げると少し顔を赤くした、片手に酒を持つ先輩がいた。

「先輩の俺がなんでも聞いてやるから言ってみろぉ?」

 酒をベンチに置いて、頭を撫でてくる。温かい……。ずっと触れていてほしい。そんな思いからなにも声は出さなかった。

 先輩が隣に腰掛けると、頭は撫でられなくなる。けど、代わりに手を握ってくれる。柔らかくて小さい手。

「あ、君もこれ飲むかぁ? 泣きてぇときに飲んじまえば、もうなぁにもかも忘れて楽になれるぜぇ?」

「……酒は二十歳からです」

「そういや君は真面目だったなぁ」

 真面目じゃないです。

「でぇ? なんでそんな顔してんだよ」

 もう、

「一樹先輩のせいです」

「おれぇ? 俺いなかったろさっきまで。大丈夫かぁ? 頭打ったかぁ?」

 なにもかも、全部先輩のせいだ。

 先輩がいたからこんな感情を抱いてしまったんだ。先輩がいたから、少しの生きがいを見つけられたんだ。先輩がいたから、今も生きてるんだ。

「一樹先輩のせいです」

「なんもしてねぇけどなぁー」

 酒を飲んで、君も飲むかと聞く。飲まない。

「けどもうなんでもいいわぁ。だいぶ気分良くなってきた。俺が酔って寝たときはかついで君の家まで送っていってくれよぉ?」

「……知りません」

「つれねぇなぁ」

 先輩が横で静かに酒を飲むなか、僕は暇を持て余していた。なにもすることがない。先輩となにか話をしたい気がする。でもなにも話題が思いつかない。こんなときでも瞬く間に次の話題へと移り変われるギルの頭はどうなってるんだ。ふとそう思う。

 先輩が横にいるからか、手を握ってくれているからか、僕の鼓動は少しばかり速い。先輩に鼓動を聞かれたら、きっと問われるだろうな。いつかに胸に手を押しつけてきた時とは違って、今は健康状態だ。

 ……僕も飲み物を買ってこよう。

 そっと先輩の手の下から手を出して、静かに立ち上がる。もういっそ、ギルたちのところへ戻ろうか。そんなことを思うが、そんな失礼で、損するようなことはしたくない。先輩から終わりをちらつかせない限り、僕は(そば)にいたい。

「あ、どこ行くんだよぉ」

 手をすり抜けさせたときも、立ち上がったときも声は出さなかったのに、一歩踏み出したときに言われる。

「……なにか飲み物を買ってきます」

「あぁ、なら屋台行こうぜ。夏、君にくそほど出してもらったからお返ししねぇと」

「いえ、べつにあの時のは」

「ほら行くぞぉ」

 服を引っ張られる。まあ、少しだけならいいか。

 先輩の横を歩きながら人だかりに入る。着物やはかまを着る人がいれば、僕らのように私服を着ている人もいる。

 よくこの日のために着物やはかまなんて着るのが面倒臭い服を着れるものだ。それに気をつけないと型崩れしてしまう。……先輩の着物姿……。

「いいニオイするぅ。あ、焼き鳥」

 さっきからいいニオイがしていると思ったら焼き鳥屋があったのか。先輩が見つけるなりぐいっと僕の腕を掴んで列に並んでしまう。

 三本買ったら一本僕に渡してくる。片手に酒を持って、もう片方に焼き鳥。もう酔っぱらいじゃないか。

 僕は止まるか座るかして食べようと思ったものの、先輩は歩き続けるから、隣を歩く。歩きながら焼き鳥を頬張った。

「今日は屋台あるからってわんさか金持ってきてるからいくらでも奢ってやらぁ。君なにか食いたいもんあるかぁ?」

「……いえ、特には。一樹先輩が食べたいものを買えばいいですよ。僕も持ってるので」

「君は後輩なんだから先輩の言うこと従ってりゃいいんだよ。あ、焼きそばあるなぁ」

 またぐいっと腕を引いて列に並ばされる。まだ焼き鳥を食べ切れていないのに。

 結局買い終わるまでに焼き鳥は食べきれずに、僕が持つことになる。

「食いたきゃ食えばいい。ほら行くぞ」

 はあ。さっきのベンチに戻りたい。けど戻りたくない。そんな葛藤が頭の中で広がっている。

 手をいっぱいにしたらやっと空いていたベンチに座る。

「買った買ったぁ。りんご飴こっちよこせ」

 そう言ってりんご飴を持っていた僕の左手に手のひらを覆い被せて大きな口でかぶりつく。そんなに焦らなくても……。それよりも僕の鼓動は速まっていた。

 そして一口かぶりついたあと僕の手から奪い取る。器用に持っていたのに、先輩が奪い取るからバランスを崩して落としそうになった。けど、おいしそうに食べる先輩の顔が見れるのならいいか。

 僕も買ってもらったたこ焼きを食べよう。けどその前にベンチに置けるものは全部置いて、一度手を楽にする。それでもりんご飴やわたあめなど串の刺さっているものは置けないからまだ左手にある。

 たこ焼きを膝に置いて、爪楊枝で刺して食べる。寒い時期に食べるたこ焼きはおいしい。

「俺の分も置いとけよぉ? てか君に食べられる前に食べるわ」

 そうは言っても片手にはいか焼き、片手にはりんご飴。自分でも気づいたのか両の手を交互に見て僕を見る。

「食べないので先にどちらか食べてしまってください」

「いーや信用ならねぇ。それに今食べたい、食わせろ」

 なんて自分勝手な。爪楊枝で一つ刺して、少し息で冷ましてから先輩の口に運ぶ。

「うっまぁ! やっぱたこ焼きなんだよなぁ」

 関西人でもないのになにを知ったように。確かにおいしいが。


 先輩は唐揚げについてきた爪楊枝で歯の間に挟まったものを取っている。

 もう両手にはなにも持つことはなく、出たゴミは全てベビーカステラの袋に入れられている。

 先輩は酔いが回ってきたのか、ずいぶんとか顔を赤くさせている。

「よしとれたぁ」

 呂律の回っていない声。

「いやぁ食った食ったぁ。きみももぉ腹いっぱいだろぉ?」

「そうですね」

 僕に渡してきたものの半分は先輩の胃の中に入りましたが。

 でも確かにもう腹がいっぱいだ。もうこれ以上はいい。おやつとは言えない量だ。

 もうそろそろギルたちのところへ戻ろうかと先輩に伝えようと口を開けたとき、

「いつき……」

 肩が重くなる。先輩の頭が乗っているらしい。小さい頭。

「くそねみぃわぁ。俺が寝たら家まで連れて行けよぉ?」

「…………」

 本当に家まで連れて行っていいのなら、まだ二人きりでいれる……。

「あぁ、でも君弱っちぃから俺担げねぇかぁ」

 わっはっはと大きく笑う。僕を馬鹿に……。

 なんだか、さっきからなんとなく先輩に怒りたい。僕が一つ下だからって、馬鹿にしているような、そんな感じがする。

 けどこうして隣にいれるなら、いいか。

「……一樹先輩」

「…………」

「一樹先輩……?」

 ……どうやら本当に寝てしまったらしい。頭が肩からずれ落ちてとっさに手で支えた。本当に寝た……。僕の家に……いや、ここから家までは距離がある。無理に決まってる。ケイならこんな小柄の人、担げるだろうが、出会ってそうそう張り合っていたからきっと無理だろうな。

 とにかく頭が重たいから膝の上に乗せる。

 先輩の寝顔が見れるなんて思ってもなかった。とても綺麗な顔をしている。そんな綺麗な顔を貼り付ける頭を一度撫でる。が、すぐに手をどけて今やったこと思い返して体が熱くなる。ドッドッドッと心臓が鳴る。なに気安く触れてるんだ。先輩が起きてなくてよかった。

 背もたれに体を預けて天を見る。綺麗な空だ。もう少しだけこうしていたい。

 風で先輩の髪がサラサラと揺れる。相変わらず短い髪。綺麗な色。

 髪が風に揺られて耳が見える。そして耳たぶにキラリと光るものがある。ピアスだ。ピアス、開けたんだな。よく似合っている。

 そんな先輩の耳を触る。が、びっくりしたのか起きてしまった。さっとなにもなかったかのように手をベンチに付ける。僕はなにも……していない。

「なんか今耳ゾワってしたぁ……。息でも吹きかけたかぁ?」

「そんなことしてませんよ。風と間違えたんじゃないですか」

「ほんとかぁ? まあいい。ちょっと思いだしたことがある。耳貸せぇ」

 思いだしたこと? 今は僕しか近くにいないから普通の声量でも誰にも聞こえないだろうから、耳と口を近づける必要ないだろうに。……耳と口……?

「っ……」

 気づいたときには遅かった。

 貸した耳に細くくすぐったい息を吹きかけられて、ヘンな声を出してしまう。吹きかけられた耳を手で覆い隠して先輩を見る。

「はははっ! お返しだから文句ねぇよなぁ?」

「文句しかないです。僕やってませんってこんなこと。ほんとに……まだ違和感があります……」

「顔赤くておもしれぇなぁ!」

 面白いことなんてないのに。

「もう、いい加減にしてください」

 ガッと先輩の肩を掴んで、顔と向き合う。うるさく鳴く口を塞いでしまおうと思った。

 でもできなかった。心臓がドクドクドクドクとうるさく鳴ってやまない。

 先輩は僕がなにを考えているのかはわかっていないようにぽかんとする。ただ僕がいきなり肩を掴んだことに驚いているだけのようだった。

 僕は弱いから、想いを伝えることなんてできない。諦めを覚えて、やろうとしたことを恥じて、ゆっくり肩から手を離して前を向く。

 心臓はまだうるさく鳴っている。先輩は今どんな顔をしているだろうか。僕の思いに気づいただろうか。好奇心が勝って、隣をちらりと盗み見る。と、

「…………」

「あ、あの……一樹先輩」

 どこか絶望を覚えた顔をしていた。

 そうだ、しまった。自分でもわかっていたじゃないか。思いを伝えること、それは相手の人格を否定することと同じだと。させたくない顔をさせてしまうと。わかっていたのに、なにを馬鹿なことを……。

 すぐ弁解をしようと締まる喉を開けるが、先輩はさっと立ち上がってしまう。

「……君だけだと思ってた。俺が俺のままでいられる場所は。けど、君も同じだったんだな」

 僕は他の人と同じ……? 僕が……同じ……いや、今は過去を思いだしてる場合じゃない。過去と今を比較するときじゃない。

「……あ、あの違うんです、ほんとにこれは」

「戯言なんて聞きたくねぇ。もう俺の前に顔出すな」

 行ってしまう。そうわかって、大きく踏み出して、後ろから先輩に手を回した。

「…………」

「違います。違うんです……」

「なにがちげぇんだよ。俺は君も他の奴も、今はもうおんなじに見える。今だって、そういう男の欲望、君も本当の姿になったんだろ」

 ハッとして先輩から離れる。違う。違う。僕の、男としての欲望なんかじゃない。一度でもそういう目で見たことなんて……見たことなんて……。

「……あったかもしれません。少しでも、一秒でもそんな目で見てしまったことがあったかもしれません。いえ、あった気がします。でも違うんです」

「さっきから違う違うってうるせぇ。言い訳くらいそれ以外の言葉使えよ」

「言い訳じゃないです。一樹先輩にとっては言い訳であっても、僕にとっては事実なんです。

 僕は……一樹先輩が、好きだと思います。けど……」

「君もやっぱそうなんだろぉ? 俺が女に見えて? 今も下半身が疼いてるってか? 気持ちわりぃ」

 誤解されたまま今日を、明日を、これからを終える、僕はそれを望んだわけではない。絶対に望まない。だから言った。

「さっさとうせ」

「聞いてください! ……い、一樹先輩の妄想論なんて興味ないです。……そういうのじゃないです。違うんです。僕は一樹先輩がきっと好きです。それを人としてそう呼ぶのか、少しでも感情を抱いてそう呼ぶのかは僕でもわかっていません。

 ですが、僕にとっては一樹先輩は一樹先輩なんです。人としてもちろん好きですし、そういう感情も持ってると思います。僕にとって一樹先輩は女だとか男だとか、どうだっていいんです。僕は……僕は一樹先輩という存在が好きなんです! 僕は一樹先輩が傍にいてくれたら、それだけでいいんです……」

 涙が出てくる。昔から本音には弱い。

「口調が怖いくせに本当はすごく優しくて、初対面であったにも関わらず僕を助けてくれて、感謝の言葉も謝罪の言葉も怠らず、心配も迷惑もかけられ、かけてくれました。そんな……そんな一樹先輩が好きなんです……。

 恋愛相談だなんて嘘ついて言ったこと、全て一樹先輩のことなんです。あの時に言った言葉はどれも本当なんです。だからあの時言ったように、なにか特別な関係になりたいわけじゃないんです。恋人なんて肩書は要らないです。本当にただ、少しでもお話ができる時間が増えたらそれでいいんです……!」

 言い切った頃には涙は止まらなくなって、ずっと袖で拭ってもうびしょびしょだ。

 もう言ってしまったからには、先輩とはもう縁も切れるし、本当に赤の他人になってしまうんだろう。いやなるんだ。他人でないといけない。

「ごめんなさい……。もう迷惑も心配も話かけもしません。もう……たばこもお吸いになってください。勝手なことを言ってすいませんでした。ごめんなさい。捨てていただいたたばこ代も出します。ごめんなさい」

 財布から千円札を出して、石を拾い上げて押さえる。

「連絡先も消しておきます。ごめんなさい」

 出した財布も鞄に直すことなく立ち上がる。もうどうだっていい。不快にさせてしまっているから先輩の前から早く消えよう。

「聞け」

 軽く腰を曲げて体の向きを変える。

 もうこれで終わりなのか。けどもう伝えられた、きっとそれだけでいいんだ。

「もう、消えますね」

「聞けって!」

 あまりにも大きな声で体がビクリとすると同時に後ろを向く。そのとき一瞬、見たことのある顔が見えた。見たくない顔。けど瞬きをしたら眉を上げた先輩が映る。

「……俺は君を殺したくはねぇ。……悪かった。言いすぎてたかもしれねぇ」

「言いすぎだなんて、まだたくさん言われてとうぜ」

「君、財布なんて置いて、このあとなにしようとした。なにが頭にちらついた」

 なにが頭にちらついた……? わからない。ただもうなにもかもどうでもよくなった。人を傷つけた。それで、それ相応のことをきっとこのあとしていた。

「……それを答えさせる義理なんて俺にはねぇだろうけど」

「…………」

 先輩は少し暗い表情で頭をかく。

「……俺はあの夏、君に救われた。今度は君を殺しそうになった。恩を仇で返す、ってのはこのことを言うんだなぁ。深く詫びる」

 殺す……? 先輩が? 僕を? それに恩を仇で返すって……?

「やっぱ、これ含めて君は特別だ。他の奴ならほうってた。どこにでも行きゃいいって。けど君は止められた。そこにはあの時に築かれた、君を失いたくはないって俺の思いがあったんだろぉよ。君には生きててほしいってな。救われた分先に死なれてたまるかって」

「……さっきからなんの話をしてるんですか」

「無自覚かよぉ……。人って大事なもん捨てるような奇行をしたときにある先の道ってのは、だいたい犯罪か死かのどっちかなんだよ。君がどっちだったかは知らねぇけど、確実にどっちかの道に行こうとしてた。……本当に悪かった」

「……人を傷つけたんです。当然です」

「当然かどうかは誰かが決めるものであって、自分で決めるものじゃねぇ。

 ……確かに傷が入った。君に失望した。それは確かだ。でも俺も俺で君の全部を聞かずに勝手に失望した。そして殺しかけた。十分重いことを俺はした。君と同じように。……だからぁ、これはどっちもどっちだぁ。君も悪いし、俺も悪い。それで君は納得がいくかぁ?」

 僕も先輩も悪い……。理解ができない。僕だけが悪いんだ。

 先輩はベンチの上で風に吹かれてひらひらと逃げ出そうとする千円札と財布を手に取って僕に近づく。反射的に一歩離れる。

「俺は……君がいいのなら、このままでいたい。少しだけ会う機会を増やして。毎日はちーと面倒くせぇから約束はできねぇけど。俺は俺の中で君を特別だと思っておきたい。君だけは周りの奴らとは違う。いつだって俺の味方でいてくれるって、そう思いたい。だから、な、受け取ってくれねぇか」

 ひらひらと揺れる千円札と財布を差し出してくる。

 ただ先輩の手を見つめていた。手は動く気がしない。足も、どこも動く気がしない。力が抜けたような、そんな感じがする。

 でも動いてくれた。一歩後ろに足が動く。なんだか先輩が睨んでいる気がする。怒らせた。やっぱり目の前から消えたほうがいい。

「……もういいんです。釣り合ってるんです。一樹先輩を傷つけた大きさと。だからこれ以上、なにもしないでください。釣り合いを崩さないでください。それは一樹先輩が貰ってください。口座のパスワードも教えま」

 目の前が影になる。いや、影というよりもなにかが近くで視界を遮っている。そして唇には温かく柔らかいなにかが当たっている。胸元を下に引かれて、腰がつらくなってくる。

 つらさのあまり、腰をまっすぐにさせて顔を上げた。

 先輩がすぐ前にいて、少し怒ったような顔をしている。けど、どこか弱さを覚えられる、そんな顔をしている。

 そんな表情を見て今気づいた。

 唇に当たったもの。当てられたもの。それは先輩の唇だったということを。

「やぁっと黙った。いい加減そのネガティブやめろ? 俺も人のこと言えねぇけど、君みたいな大事な奴がそんなこと言ってるのは気分がわりぃ。てかさっさと受け取れこれ。いつまでも持つの邪魔なんだわ」

 胸に押しつけられて、落とさないために反射的に手にする。

「君はなにが気に食わねぇ? なんでそこまで自分を貶してぇんだ」

 貶す……? そんなつもりはなかった。

「……ただ、僕は一樹先輩を傷つけた。だからそれ相応の状態を作ろうとしている、それだけです」

「俺にとっては相応じゃねぇ。いいか、君が俺を傷つけた分、君の立場は弱くなる。なら、俺に尽くすのが筋ってもんだろぉ? つまり、俺の言いなりになってりゃあいいんだよ」

「そう、なんですか」

「あぁそうだ。だから、俺の言うことを聞け。一つだけでいい。……今まで通り、二人きりでいろんなこと話せ、な」

 にっと笑う。その笑顔は明るく、罪に対する許しを得た、そんな感じがした。


 悲しみや怒り、悔しさ、よくわからない感情が完全に抜けきった頃、僕は顔を上げた。少し目が腫れている。ギルに見つかってしまうだろうか。情けないな。人前で、好きな人の前であんなにも泣くなんて。

 最近涙腺が弱くなった気がする。孤独感が酷くなってきたせいだろうか。今でも、先輩から撫でてほしいなんて思っている。抱いてほしいだなんて。

 けど言ってしまえばまた傷つけてしまう。わかりきっているから言わない。

「でも君があんなに泣くなんて思ってもみなかったなぁ。初めて君をガキだと思ったわぁ。ガキって精神年齢でもねぇ君を」

「お恥ずかしいところを見せました。……最近、涙もろくなったみたいで……この前も友人の前で涙を流してしまいました。本当に情けないです」

「まぁいいだろうよ。どうせ男でも女でも人間であることに変わりはねぇし、男だから心がつえぇってわけでもねぇ。逆に女だから心がよえぇってわけでもねぇ。大半は女より体が大きくなる男でも君みたいなガリガリがいるし、君よりも弱虫な男だってきっといる。家事ができねぇ女もいれば化粧できねぇ女だっている。今どき男だからとか女だからとかで騒ぐ時代じゃねぇよな。昭和でもねぇんだから」

 そう言われるのは、少し救われる。こんな僕がいてもいいと思える。

「さーて。話すことはもうねぇかぁ?」

「……えぇ。きっと」

「なら雪合戦しようぜ。さっきからしてぇって思ってよぉ。君の友だちも含めてチーム戦だぁ」

 子供らしいところもある。

 先輩の隣を歩いて、ギルたちがいた場所まで戻ってきた。そこでは二人して雪だるまを作っていた。そこまで大きくはないが、それでも立派な雪だるまが立っていた。

 大きさの合わない枝を両端につけたらよしっとギルが満足気に漏らす。

「えへへへ敬助くん見て。できた!」

「上手。俺ももうすぐ終わる」

 先輩が珍しく口を開けないと思って隣を見ると、先輩はしゃがんでいた。しゃがんで、手を赤くさせながら雪を丸く固めていた。まさか雪だるま作りに変わったか? 構わないが。

 そう思っていたものの、できた丸い塊は手のひらサイズ。そしてそれを大きく振りかぶって、

「おらっ」

 ケイの雪だるまに命中させた。……やったな。

「ストラーイク!」

「あ、れーくんたち帰ってきてたんだ」

「少し様子をみ」

「おい……」

 あぁ、ケイが怒った。

「今度こそ許さねぇ。ちょっと面貸せよ」

「あぁ? 先輩に向かってその口ぶりかぁ? やんのかぁ?」

「忠告するが、それ以上続けるのなら僕とギルは帰る。……それでもそれ以上続けたいのなら、雪合戦で勝負というのはどう」

「受けて立つ」

「かかってこいやぁ」

 思ってたよりもやる気満々だ。

「俺も雪合戦したい!」

 二人分の雪も溶けそうな熱意が伝わってくるなか、ギルの純粋な遊び心には守ってあげたくなって仕方がない。

 チーム戦はもちろん、ケイと先輩とで分かれるから、ギルが望むようなチームにはならない。

「僕が先輩のチームに行こうか」

「じゃあ俺敬助くんね」

 それぞれ雪で作った塀の後ろに隠れる。始まるまでの間にも先輩は雪玉を作り続けてもうビリヤードができそうなほどある。

「そっちはもう準備いい?」

「準備万端だぁ!」

「ルールは顔面はセーフ、自分から当たりにいくのはアウト。当たった人は雪玉も作ったら駄目。それと他の人に当てないようにね! じゃあ始めるよー! よーいスタート!」

 始まってすぐにしゃがんで雪玉を取る。そしてギルたちがいるほうへ投げる。が、手前に落ちて割れてしまった。今度はもっと大きく振って……届かない。なぜだ。

 さっきの投げ方を思い返そうとすれば目の前に雪玉が見えてとっさにしゃがみ込む。……危ない。

「君、投げるの苦手だなぁ?」

「……そうですね」

「じゃあ投げるのはいいから雪玉いらねぇくらい作れぇ。俺は投げるからよっ」

「わかりました」

 そうなるだろうとは思っていた。が、雪玉を作るのも楽しいというものだ。

 雪玉を作っているとときどき雪玉が飛んできて割れるのを目にする。少し塀の外を覗き込んだ。

 投げるのは主にケイ。ときどきギルが見えなくなって、ときどき加勢する。ケイは現状二対一だと理解したから攻められると踏んだのだろう。

「あっぶねぇ! あいつやるなぁ。君、時間かかってもいいから少し大きいの作ってくれ。小さいのは適当でもいいけどストック切らすなよぉ」

 注文が多い。

 要は小さい雪玉を作りながら大きいものを作れということだろう。

 とりあえず小さいのを有り余るくらい追加で作ろう。それから大きいものを。

 雪玉を作っているとだんだん雪がなくなってくる。二回戦目をするときは他の場所から雪を持ってこよう。

「よっしゃ、ギルやったぁ」

 ギルが当たったのか。立場が逆になる。

 敗者になったギルは雪を集めては頑張れと応援するくらいしかしなかった。

 ケイは必死そうに投げては雪玉を作ってを繰り返している。なんだかこの状況になってまで塀に隠れて雪玉ばかりを作るのは少し卑怯に思えてきた。僕もときどき顔を出して投げよう。

「よしっ」

 ……早々に当たってしまった。

「なにやってんだよ君! 雪玉作れっつったろぉ!」

「二対一でこっちが有利なのにずっと引き篭もってるのは卑怯かと思いまして」

「あぁもういいから雪持ってこい雪!」

 どれだけ必死なんだ。

 結果、僕が作っておいた大きな雪玉がケイの肩に当たって僕らの勝ち。

「くっそ、あいつに負けたぁ!」

 ケイが相当悔しがっているのかいつもより声が大きい。ケイにも案外子供らしいところがある。

「あぁ次だ次。もう一回すんぞ。今度こそ絶対やってやる……」

 また溶けそうなほど熱意が伝わってくる。

「やれるもんならやってみろって、なあ君」

 先輩がなんの確認かわからないが聞いてくる。知りませんよ。

「君……手大丈夫かぁ」

 雪玉を作りながら先輩を見ていたら、やけに真剣そうな顔でそんなことを言う。手?

 確認するために手を広げると、

「…………」

 気づかなかった。手が赤くなって、震えて、思えば感覚がない。だから切り傷にも気づけなかった。

「おいまだか」

「ちょっと待てって。……ちょっと手洗ってこい。あと手袋……は俺が使ってるのかぁ。ちょっくらコンビニで買ってくるからぁ、手温めてろ。体が冷え切る」

「……すいません」

「いいって。俺が作らせてたようなもんなんだからぁ」

 先輩が外した手袋はコートのポケットに入れてくれた。僕はそのまま公園にあるトイレに入って水で手を洗った。

 冬に蛇口から出てくる水は凍えるほど冷たい。特にこういった温度調節もできない手洗い場などいっそう。けどそれももう、雪を触り続けたおかげか冷たいとは感じなかった。

 手を拭いたあと手袋を着けて戻る。ケイと先輩はいなく、ギルがポツンと雪玉を作っていた。

「あ、れーくんおかえり。手大丈夫だった?」

 先輩が言ったんだろう。

「ああ。おかげで水が冷たいと感じなかった」

「駄目なやつじゃん」

 できた一つの雪玉を僕に軽く投げてくる。それをキャッチするという発想にはいたらず落ちて消える。

「雪合戦楽しい。人生初かな。れーくんも初?」

「だろうな。なかなか雪が降ったあとに外に出ようと思わないし、そもそも寒くてしたくない」

「あはは、だよねー。れーくんならそう言うと思ってた」

 今度は作った雪玉を手に持って、片手は僕のコートを掴む。と、

「えい」

「……おい」

 コートの中に雪玉を入れられた。立ち上がってバサバサとして雪を出す。

「えへへ」

 入れた本人は反省していなさそうに笑う。

 そしてまた雪玉を作った。今度は二つ重ねて小さな雪だるまを作った。

 しばらく待っているとケイたちが帰ってきた。コンビニの袋が膨れている。

 先輩に呼ばれたからギルに一言言って陣地に戻った。

「君、これ買ってきたからこれ使え」

 袋から出したのは雪玉製造機。製造機と言っても自動なんてものでもなければ、一つずつしか作れないもの。けど雪を挟んですぐ作れるというのはいいところだろう。

「あとなぁ、強度高くしてほしいんだぁ。その挟むので作ってから君の手でもう一回握れ。したら強度高くなって投げやすくなるはずだぁ。それとぉ……いつまでも雪玉作るのはつまんねぇだろうからストック切らさない程度に君も投げろ」

「……わかりました」

「あいつに執着しすぎて君に目向けてなかった。わりぃな」

「構いませんよ。投げるのが下手なのは変わりありませんし」

 まだ始まらないから、雪を袋に詰めてべつの場所から取ってきては、作りやすくなった雪玉を作って強度を高めていた。これがあるだけで十分に違う。

 そしてそれぞれ準備が整ったら、

「いくよー! よーいスタート!」

 先輩に言われた通り、今度はストックを切らさないようにしつつ、僕も投げる。

 前の試合は二回ほど投げて届かないからと諦めたが、何度と投げるうちになんとなくコツがわかってきた気がする。

 ギルは今度もときどき顔を覗かせながら雪玉の製造をしていた。けどケイは違って、ケイもときどき塀にもぐっていた。

「っぶねぇ!」

 雪玉を作っているときに先輩が避けてボスっと音が鳴って割れる。……少し……なにかが違う。

 もう一度落ちて割れる音を聞こうと、的を増やそうと立ち上がるが、

「…………」

 なかなかこっちに飛んでこない。むしろ先輩のほうにしか飛んでいっていない。二人が適当に投げているということでもないそうだ。

 しゃがみ込んで雪玉を作りながら音を聞く。

 やはり音が違う。一回戦目と割れたときの音が違う。一回戦目はほとんど音もなく割れていたのに、今回は確実に音に硬さがある。雪玉の製造効率よりも投げを重きにおいたか。

 ……いや違うかもしれない。

 もしそうだったとしたらなにが目的なんだ。私欲か……? けどなににしろ確かめる必要がある。

「……一樹先輩、もしかしたら強制終了させられますけど一ついいですか」

「んだぁ?」

「……僕が言ったタイミングで場所を交代してほしいんです」

「はぁ? それしてなんのっ、意味があんだぁ」

「……さっきも言った通り、強制終了させるためです」

 今一つピンときてなさそうなのが顔に出ている。

「っと……。君が話しかけるから当たりかけたぁ。……まぁいい、わかった。タイミング言え」

「……できれば二人が投げかかるところで」

「じゃぁ今だなぁ!」

 肩を掴まれて乱暴に場所を代わられる。

 そしてタイミングが合った。

「うっ」

 二人が投げた雪玉が僕の腹と顔面に当たって、後ろに倒れ込んでしまった。……痛い。

「君っ、大丈夫か」

「蓮!」

 やっぱり。

 先輩と重なってケイの声が聞こえる。そして投げることを止めてまでケイは陣地を離れ、僕に駆け寄る。

 腹を抱えながら体を起こす。考えは的中してケイも、ギルも傍にいた。

 ……にしても打ち所が悪い。胃に直撃した……。痛い。鼻も痛い。

「んだぁ? 相手が雪玉食らったからってぞろぞろとぉ」

「一樹先輩、これです」

 ちょうどギルの持っていた雪玉を貰って先輩に渡す。

「は、んだよこれ、硬すぎんだろ」

「だから相手の心配をしにきたんです。……それに真向かいにいるはずのギルは、真向かいにいて狙いやすいはずの僕を狙わず、一樹先輩しか狙わなかった。ときどき軌道がズレて僕のほうに飛んでくることもあったが、その都度表情がこわばっていた。いやきっと、ギルなら一樹先輩に当たりそうになったときにもこわばらせていたかもしれない。だろ」

 ギルは口を尖らせて少し俯く。

「そしてなぜそんな顔をこわばらせる必要があったのか。今回の試合で作られていた雪玉の頻度はそう多くはなかった。ときどきケイが塀にもぐっていたのが証拠だ。つまりは雪玉の製造に重きを置いていた。雪玉の作り方は」

「さっさと結論言え」

「……雪玉の作り方はそれぞれあるが」

「おい」

「そのなかでもギルたちはさらに硬くするという手法を選んだ。だから雪玉の製造に時間がかかった。そして硬くする方法、僕らも少しばかり強度を意識した。けどギルたちのはそれよりも強度のあるものだった。一回戦目に聞いたときと割れる音が明確に違うとわかるほど。そんな強度のあるものをどうやって作ったか。零度以下の雪玉に水をくぐらせると、表面が氷のように硬くなる」

「……つまりはほぼ氷を投げてた、ってーわけだなぁ?」

「そうです。そしてさっき僕が当たって倒れ込んでしまったように、ほぼ氷の球体は人に当たると危ない。頭なんかに当たってしまえばいっそう。だから僕が身を挺して強制終了させた。そういうことだ」

 罪悪感が湧いてきたのか、ケイの顔が暗くなる。相手に執着しすぎた結果だ。

「……蓮に当てるつもりなかったんだけど……ごめん。周り見えてなかったかも。当たったところ大丈夫か……」

「ああ、構わない。……わかってくれたのならいい。僕以外に当たらなくてよかった」

「俺もごめんね、知ってたのに止めれなくて」

「ギルくんは悪くないさ」

 反省の色を見せる二人の前で頭をかいた先輩は、作っていた雪玉を二つ分持って、二人の上着の中に入れた。

「これで許してやらぁ」

 楽しそうな笑顔を貼り付けて。


 そうしてさっきので何戦目か。それぞれ手や腕が疲れ切るほど雪玉を作り、雪玉を投げた。

「あぁ、もうこんな時間かぁ」

 オレンジに染まる雪を見て先輩が言う。

「はぁー楽しかったー」

「ケイくんに何回も何回も当てられて、その仕返しまだできてねぇけど、今日はこれで許してやらぁ」

「そっちが先に当ててきたんだろ」

 公園の土が覗くほど雪玉を作った。……楽しかった。こんなにも時間を潰して遊ぶなんて、いつぶりだろうな。そもそもこんなに遊んだこともない気がする。

 陽も落ちてもう昼間の気温はなく寒い。手袋越しに息を吹きかける。

「もうそろそろ帰ろっかー」

 少し名残惜しいが、時間が時間だ。ケイなんて遠くから来ているはずだから遅くまでは残らせられない。

 使った道具を袋に入れて帰路に向いて、先輩の隣に付いて歩き出した。

「なあ君。今日君の家に泊まっていいかぁ。年末年始はどうも親父が仕事しねぇで家でテレビ大音量で流してダラダラ酒飲んでらぁ。うるせったらありゃしねぇ」

「……なにもありませんよ」

「買ってこりゃいいだろ。帰りにでも」

「それでいいのであればいいですけど」

「先輩さん今日れーくんの家に泊まるんだ」

 ギルが顔だけ振り向かせる。その言葉にはケイも反応して振り向いていた。

「こ、こいつ泊まらせるのか」

「泊まりたいみたいだしな」

「な、なら俺も泊まる」

 ケイが少しムキになっている? なんで。

「……年始に泊まるのは親も心配するんじゃないか。なにかと親戚などに会いに行ったりも」

「しない、俺の家そういうのしないから。だからさ」

 やっぱりどこか必死になっている。

「……親に確認しろ」

 そう仕向ければ早速スマホを操作していた。なぜそこまで必死そうに……。いつもはギルほど泊まることをねだりはしないのに。逆にギルはねだってこないな。

「ギルは泊まりたいと言わないんだな」

「明日出かける用事あるからね。お父さんのおじいちゃんとおばあちゃんの家行くんだ。ちょっと遠くてその間暇だけど、おじいちゃんたちすっごく優しいんだ! だから楽しみ。ごはんもおいしいし。あ、れーくんの作るごはんもおいしいからね!」

 べつにそこに気を遣う必要はないのだが。

 ケイの親から連絡が来たらしい。駄目だと。

「なんでだよ……」

 ケイのその意思が通じたのか今度は電話がかかってくる。

「母さんなんでとま……。べつにいいだろ行かなくて。……知るかよ。盆に会ったんだから俺はべつにいい。……それくらいべつにいいさ。もっと大切な時間優先したいし。……はぁ? なんで……俺は……。あぁもうわかった。行けばいいんだろ? 一人暮らししたらそんなの強制すんなよ。……あぁ。……適当に食べる。……あぁ、じゃあ」

 なんの話をしているのかさっぱりわからないまま電話が終わった。ケイは先輩にニコリと顔を向けて、

「俺も今日泊まる」

「そぉですかぁ」

 なんでそこで張り合うんだ。

「いいなー俺も泊まれたら泊まりたかったのになー」

「ギルくらいまともに年始を過ごしてくれ」

 もう日も見えなくなって薄暗い夜道のなか、ギルを家まで送る。

「れーくんたちありがとね。あ、ちょっとそこで待ってて」

 なぜか帰るのを拒まれる。けど当の本人は家に入っていった。なんだろうか。

 そして次に顔を出したときには父親がいた。そして、

「あけましておめでとう。これお年玉」

 三つのポチ袋が差し出された。

「あ、俺の分もあるんだぁ?」

「少し顔に見覚えはないけど、今日ギルと遊んでくれたらしいからね」

 あの一瞬で雪合戦のことを話したんだな。

「あけましておめでとうございます。わざわざ用意してくださって申し訳ないです。ありがとうございます。ちょうだいいたします」

「そんな固くならないで。ほら敬助くんとそちらの方も」

 ケイは礼儀正しく、先輩は軽く礼を言って受け取った。

「今年もギルをよろしくね」

「こちらこそよろしくお願いします」

「帰り気をつけてね」

「ありがとうございます」

 一つ礼をして扉の前を去ろうとしたとき、扉からギルの母親が出てきて、

「アケマシテオメデトーゴザイマス! コトシモヨロシクオネガイシマース!」

「あけましておめでとうございます。こちらこそよろしくお願いします」

 お辞儀をしながらそう言ったらたいそう喜んでいた。そんな母親を引っ張ってギルが「じゃーね!」と言って扉が閉まった。今年も元気な家だ。

「年始早々あんな元気な人初めて見たぁ」

「ギルの母親は日本文化が好きみたいだからな」

 冷蔵庫になにもないから、先にケイたちを家に上がらせたあと買いに行こうかと思っていた。なのにそれを言えば二人して買い物に付いていくと。

「年始早々こんな男三人で買い物をするところなんて誰が見たがる。暑苦しい」

「蓮はかっこいいし暑苦しくなんてないさ。こいつはともかく」

「あぁ? そんなこと言うケイくんこそ」

「もう二人は会話するな。もっと暑苦しくなる」

 来客の食事を用意するとなれば、いつもはスーパーに買い物に行くが、今日は元旦だ。そうそう開いていない。

 けど食事は用意しないとと思って少し遠いスーパーに行こうかと思っていたが、二人が付いてくると。二人して長い距離を歩かせるわけにもいかない。だから近くのコンビニでおのおの食べたいものを買うことにした。

 なにを食べようか。

 コンビニで食事を買うときは決まっておにぎりかホットスナックしか買わない。今日もおにぎりで済ませようとすればケイに指摘され、少し大きいたらこパスタに変えた。

 袋をそれぞれ手にぶら下げ、僕の家に向かう。

 その間、隣に付いたケイが口を開けた。

「……蓮、今日は泊まるんだけど、明日の昼過ぎには出ようと思ってる」

「そうか。昼はどうする。と言ってもなにもないから作ってあげることもできないが」

「んー、まあ適当に食べようかなって思ってるから、そこはべつにいいさ。食材が揃ってる状態で蓮のおいしい飯食べたいし」

 いつかに食べることが確定しているような言い草。

「いつでも食べに来たらいい」

 家に上がらせたら暖房をつけて、早速暖める。その間に二人分のコップを出して水を入れる。僕は白湯を。

 このメンツで家に上がらせるのはなかったな。なにより張り合ってる二人が揃って家に泊まりたいと言うのには驚いたが。

 温めるものは電子レンジを使って温める。湯を使うものは湯を。

 ケイはカレーを、先輩はカップ麺を買っていたから先に湯を入れて、温めて、一緒に出した。二人のが終わったら僕のも温める。

 できたパスタを持って食卓に持っていくと二人は手を付けず、僕が座るのを待ってくれていた。

「悪いな」

 パスタを置いて先輩の隣に座ろうとすれば、ケイがパスタを隣の席まで引っ張っていく。

「こっち座れよ」

 どこからそんな先輩への対抗心が出てきているんだ。

 座ったあと手を合わせる。

「食べようか」

「いただきまぁす」

 いただきます。

 パスタの蓋を開けるといいニオイが漂ってくる。けどカレーやカップ麺のニオイもときどき混ざってくる。

 付いてきたプラのフォークを持って一口。コンビニのパスタはなかなか食べないがおいしい。

 食べ進めていると先輩の視線に気がつく。

「一樹先輩なんですか」

「……うまそうだなぁって」

 パスタに目を移す。

「食べますか」

「いいのかぁ、たべ」

 食べる前提かのような言い草で言ったかと思えばケイが横から挟んで、

「いや食べんな、お前自分のあるだろ。これは蓮が買ったやつだ。欲しいなら自分で買ってこいよ」

 とか言う。また始まる……。

「あぁ? べつにいいって言ったんだからいいだろうがぁ」

「だとしても蓮の食べる量減るだろ。考えたらわかるだろこの能無し」

「じゃあ俺が食べた分ケイくんのところからあげたらいいじゃねぇかよぉ」

「なんで俺のところからあげないといけないんだよお前が食った分を。そもそもお前が蓮の食わなきゃ」

 はぁ……。

 結局一口ずつ僕のを先輩に、ケイは僕にあげたことで収まった。ケイも先輩から貰う予定だったが、ケイが断って結局貰わなかった。

 ケイが少し不満そうではあったが、それ以外の解決方法が思いつかなかったんだ。……カレーからかった。

 容器を片付けたあと、そのままコーヒーを淹れる。淹れ終わるまでの間、顔を覗かせてケイに聞いた。

「ケイもいるか、コーヒー」

「んー、お願い」

「へぇー。どっちもコーヒーなんか飲めるんだぁ」

 コンビニで買ってきていたりんごジュースを飲みながら言う。

「お前みたいなガキには飲めないだろうけどな」

「ケイ」

「ケイくんみたいなガキにはお砂糖三つも入れないと飲めないんだろうけどなぁ?」

「一樹先輩も」

「ブラックで飲めますけどー」

 心中で溜息を吐く。本当になんでこの二人がいるんだここに。

 また始まりそうになったのを、僕が「それ以上続けるなら追い出す」と言えば素直に収まった。なんなんだ。

 今度もケイの隣に座って飲む。温かい。けどまだ寒い。

「一樹先輩、そこに掛かってるブランケット取ってくれませんか」

「これかぁ?」

 隣の椅子に掛かっているブランケットを取ろうとしたさなか、視界にはケイが映る。

「蓮これなんだな」

 ……また始まる。わかる。もう。

「あぁ? んだよ。これは俺が頼まれたんだぁ。取るんじゃねぇ」

「そんなの知るか、お前が動くのが遅いからだろ」

「二人ともいい加減にしろ。次それしたら本当に追い出す」

 言えば笑ってしまうほどぱっと喋らなくなった。それで無言のままブランケットの取り合いが始まったから僕が取りに行って収まった。

 本当に問いたい、なんでこの二人は今日泊まると言ったんだ。

 ケイがトイレに行っている間に先輩はソファーに移動してテレビをつけた。コンビニで買ってきたであろう酒をカポッと開けて飲んでいる。もう慣れてしまっているが、よくもまあバレないものだ。

 そしてトイレから戻ってきたケイが指摘してまた始まりそうになったのを咳払いをして止めた。

 ケイが向かいに座ってコーヒーをすする。

「なんであいつ飲んでんだよ。まだ二十歳じゃないだろ」

「去年の初夏頃からは飲んでいた。仕方がない」

「補導でもされりゃいいのに。今から通報してやろうかな」

 僕も一度夏に通報しようかと思ったことがあったが、今となってはできないだろうな。

 ケイがスマホを取り出したが、僕が止めた。

「なんで」

「……通報したらしたで面倒になる。僕もそうやって過去に止められたことがある」

「知るかよそんなの」

「それに、通報したところで一樹先輩に害はほとんどない。買わせた店に罰金がいく。ケイはそれで納得するか」

「…………」

 口を尖らせる。と、スマホを机に伏せた。そして先輩を睨む。先輩は赤くした顔でテレビに抜けて大声で笑っていた。

 ……家が温かいことなんてないのに、今日はすごく温かい。

 風呂に入るかどうか二人に聞いて、ケイは入ると、先輩は入らないと。

「……この前も断ってませんでしたか」

「……この前って……こいつ泊まるの何回目だよ」

「風呂って面倒くせぇだろだってぇ。君がなにもかも洗ってくれるってぇならいくらでも入ってやるけどよぉ」

 確かに風呂は面倒臭い。僕も同情はする。が、

「今回ばかりは、入らないのであればベッドへの侵入は許可しません。酒臭くなります」

「ソファーはぁ?」

「……ソファーならいいですけど、僕が嫌です」

「というとぉ?」

「……来客にソファーなんて窮屈で質素な寝床で寝てほしくないです。僕のベッドは貸すので」

「だから入れってかぁ?」

「そういうことです」

 先輩は大きな溜息を吐いたあと「しょぉがねぇなぁ」と頭をかいた。僕は微笑む。

「てか、君がソファーに寝て、俺は君のベッドに寝るとして、ケイくんはどぉするんだぁ」

「俺は蓮と一緒に寝るから。ご心配どうもですー」

「ソファーでかぁ? それはちっと無理あると思うぜぇ。一人なら寝れるけど、二人はぜってぇに無理」

 それはギルと試して証明されている。

 困ったな。来客にソファーは使ってほしくない。けどケイが僕と一緒に寝たいという。それに僕がソファーで寝たとして、ベッドをこの二人で仲良く寝れるとは思えない。特にケイが意地を張って僕に気づかれないように床で寝ていそうだ。

「……てか、君親は」

 あぁそうだ……。まだごまかしていないんだった。

「今日は出張で、だから二人を招いたんです」

「……二人とも出張かぁ? それか君片親かぁ?」

 ……面倒だな。どうごまかそう。

「おい、人の家の事情に口出すんなら出ていけ」

「……そういうケイくんは、その事情ってぇやら知ってんだなぁ。俺には言えねぇんだぁ?」

 先輩が目を合わせてくる。……もう、言い逃れはできないか……?

「知らねぇよ。蓮の家の事情なんて。ただちょっと事情があるって聞いたくらい。それ以上口出しすんなら俺が無理やり追い出す。デリカシーのないお前がいても不快に思うだけだから」

「……ッチ、わぁったって。詮索しねぇって」

 ケイがさっきの言葉を、先輩との対抗心で言った言葉じゃないことはわかる。感謝しないと。

「で、寝る場所、このリビングで布団敷いて寝りゃあ解決だと思うんだけどよ、異論あるかぁ?」

「異論はない……ですけど、敷き布団が三つもありません。あって二つです」

「あぁ、もう面倒くせぇなぁ。もう俺がソファーで寝るからいいだろぉ? ソファーで寝るほうが俺には合ってるから」

 ……あまり納得はできない。が、仕方がないかもしれない。それぞれの要望に応えるとするのであれば。

「わかりました。枕と掛け布団はあとで持っていきます。硬いのと柔らかいのがありますけどどっちがいいですか」

「どっちでもいいわぁ。余ってるので」

 ソファーに寝ることになった先輩は必然的に風呂に入らなくてもよくなって、風呂に入ることを断られた。ケイはもちろん入ると。


 風呂に入り終わったあと、蓮が風呂に入っていった。あいつは風呂に入らずにソファーで酒飲んでテレビに向けて大声で笑ってる。うるせぇー。一つ文句言ってやろうかな。

「おい、うるさい。静かにしろって」

「はははっ! 腹いてぇ」

 駄目だこりゃ。

 蓮が上がってくるまで暇になるな。ゲームでもしてようかな。

 食卓椅子に座ってスマホ画面をつける。

「…………」

 いや、あいつうるさいし、二階の蓮の部屋見に行ってもいいかも。あの時は蓮が入院してたこともあって、無断でいろいろ見るのは罪悪感あったし。

 大声で笑う猿をちらっと見てから階段を上がった。うるせ。

 蓮の部屋は確か、階段から三つ目の扉。試しに扉を開いてみれば蓮のニオイが充満してる。思わず鼻を大きく吸った。……やってることキモいな。

 今下で本人が風呂に入ってることに少し悪いことしてる気分になって静かに部屋に踏み入った。相変わらず綺麗な部屋。

 なんとなくベッドに座り込んで枕のニオイを嗅いだ。……ほんとにやってることキモい。やめよ。

 勉強机にある椅子に座ったらキシっと音が鳴る。昔から使ってるんだろうな。勉強机には昨日の夜とかにやってたらしい勉強してた跡がある。冬休みなのに勉強だなんて、ほんと真面目。俺なんか課題で手いっぱいなのに。

 たぶん、課題じゃなくて勉強してるってことは、この一週間くらいで終わらせたんだろうな。さすがすぎる。

 なんとなく広がってる教科書とかの上に顔を伏せた。……人の部屋だからかな。ずっとドキドキしてる。いつもこんな部屋で過ごしてるんだな……。

 勉強机の引き出しを勝手に空けたり、タンス、クローゼットも開けてみた。子どもみたいな遊び道具がないか見るために。

 けど、勉強机の引き出しには未使用のノートとか筆記用具類、それとしおり。

 机横の引き出しには高校一年の教科書とかこれまでのノート、遊び道具は見つけたけどトランプだけ。

 クローゼットは制服とか冬服。下のほうにボックスがあって、その中も見たけど思い出箱みたいだった。よくわからない貝殻とか入ってる。遊び道具、っていうにはほど遠い。

 他に本棚の小説に紛れてエロ本とかあったりしないのかなって、奥のほうも見てみたけどエロ本とかはなかった。

 ……ほんと、蓮って男な感じがしない。男ならベッドの近くにティッシュくらいあってもいいと思うんだけど。それすらもない。

 ティッシュは勉強机の端に置いてる。確かに勉強机とベッドは引っ付いてるけど、ベッドとは逆の端なんだよな。

 いつか三大欲求ってどれが強い、みたいな質問してみようかな。まあ、それで素直に性欲って答える人もいないと思うけど。

 蓮の部屋は他人の部屋って思うと相当つまんない部屋だった。机と本とベッドしかない。ほんとに。本当に。確かにガラクタはクローゼットにしまわれてたりしたけど、たぶん思い入れのあるようなものばっかりで、ときどき思いだして懐かしいなってするやつだから、遊び道具っていうには少し違う。

 今までどうやって遊んでたりしたんだろ。……まあ、蓮の家庭環境のこと考えたら、こんな質素な部屋のわけがわからなくもないけど。

 けどあの蓮のことだからもしかしたら、使わなくなった遊び道具を今はもう使わなくなった両親の部屋にでも詰め込んでたりするのかな。物置部屋も案外埋まってそうだったし。蓮って面倒臭がりだけどそういうところきちんとしてるからな。

 蓮の部屋の探索が終わってのんびりしてたら、階段を上ってくる音がする。あいつが起きて蓮の部屋まで来たのかと思ったけど、蓮の部屋に入らず、この部屋よりもっと手前の扉を開ける音がした。

 気になって見てみると、階段の真ん前の部屋の扉が開いてた。あそこは確か蓮の母親の部屋。あそこの部屋、前見たときほこり被ってたけど、あそこになにしに行ったんだ? そもそもあいつ?

 少し待ってると扉から蓮が出てきた。掛け布団といくつかのクッションを持って。俺には気づかずに階段を下りていく。こっそり俺もあとを追った。

 階段のところから蓮の行動を見てたら、あいつのためだったらしい。掛け布団を丁寧にあいつの体に被せて、ソファーの下にクッションを敷いてる。落ちないようにするため? あいつのためにそんなことしなくていいのに。

 蓮が満足したあと、俺を背にしてあいつの前に立った。そして頭を下げる。……なにしてるんだ? 頭を上げたらこっちに振り向いたからさっと壁に身を隠した。なにしてたんだろ。蓮がこっちに来る前に部屋まで戻った。

 俺が部屋に入って少ししたら蓮が入ってきた、少しだけ口を緩ませて。

 けど、

「……ふぅ」

 溜息をついたら眠たそうな顔に早替りして、俺と目が合ってもさっと逸らされた。俺は少しだけ口を尖らせる。

 蓮はベッドに向けて歩いたと思えばドサッとベッドに倒れ込んだ。かわいい……。

「もう寝る?」

「……まだ寝ない。たぶん」

「そ。……そういえばさ」

 気になる。俺がそう切り出せば蓮は体を起こして壁にもたれた。

「あいつにさ、布団掛けてたよな」

 俺が問えば少しだけ目を開けて、目を逸らされる。

「……見てたんだな」

「布団持っていくところから見てた。そのあとなにしてたんだ?」

「……クッションを敷いた。落ちて怪我されても困る」

「……それじゃないけど……まあいいよ。そのあと、それ終わったあとなにしてたんだ? 頭下げてたの」

 俺がそう言えばパッと頬が赤みがかる。

「……なにもしていない」

「嘘。なにしてた」

「……していない」

「ならそのまんざらでもなさそうな顔やめろ。なにしてたんだ」

 蓮は必死に普通の顔をしようとするけど、だんだん顔が赤くなっていって、手で口元を隠す。……なんだよそれ。

 なんとなく顔に力が入って、ベッドに歩み寄る。そして今もまだ口元を隠してる細い手首を掴んで壁に付けた。そうしたら蓮はハッとして、見たことある目つきにさせる。俺を警戒するような。

 俺の力に勝てないことを、修学旅行のときに覚えたのか全然抵抗しない。

「……なんだ」

「…………」

 お互いに口を開かなかった。けどそれを蓮が破った。

 べつに、蓮に警戒させたいわけじゃない。無駄に体力をすり減らしたいわけじゃない。

 手の力を緩めて蓮の体に腕を回した。

「……ごめん」

「…………」

「……俺にも……さ」

 唇を奪いたかった。けどしたら嫌われるに決まってる。それに待っててってあの時言った。きちんと俺の口から言えるまで、それまではしちゃいけない。

 あの時蓮は、バレないようにキスしてたんだ。

 悔しくて強く、強く抱き締める。

 蓮は、先輩(あいつ)のことが好きなんだ。

 離したくなかった。ずっと。このまま全部奪ってやりたかった。なにもかも。

 でも蓮が泣いてるのかと心配してきたから顔を上げて蓮の顔を見た。恥ずかしさに浸った顔じゃなければ、口を緩めてなんかもいない。

 あの時してた顔を俺には見せてくれない。

「……大丈夫か」

「…………」

 心配させて……情けない。

「なんともない。……俺こそごめん」

「なにか不安や相談事があるなら聞くが」

「……いやいいよ。そんなんでもないから」

「……ならいいが」

 もう少しだけ蓮を抱きしめたかった。けどもう心配なんてかけられない。

 俺が寝転ぶことを促したら素直に寝転んだ。俺も寝転んで、結局抱きしめたくなる。その衝動に負けないように蓮を背中に向けた。

 けど、すぐベッドの端だってことに気づいて口を開ける。

「……蓮、狭くない……?」

「ああ。いつもギルと寝てもこれくらいだ」

 ギルくんの話まで持ってくる……。なんで気づかないかなぁ。

「……それより、場所変わらないか」

 場所変わるって……?

「なんで」

 俺の声、明らかに不機嫌だ。

「……落ちられても困る」

「落ちないし。……それに俺もマットレスだし。あいつじゃないんだから。……あいつと俺、重ねないで」

「……悪い」

 眠たいのか、蓮の声に張りがない。

 ずっと静かだった。それでも俺は寝れなかった。そもそも電気がついてる。

 蓮が寝てるのかわかんなかったけど、もう時間も時間だし、電気を消しに立って戻った。蓮の顔を見ずにまた蓮を背中にして寝転ぶ。

「……また、か……?」

 蓮の声。でもやけに声が丸い。

「……ケイ」

 俺? 思わず蓮のほうに顔を向けた。けど蓮は目を瞑ってる。ぬいぐるみを抱いて、丸まって目を瞑ってる。

「……なにが」

「……またぼくは……まちがえた」

 間違えた?

「……けいを……おこらせた」

 怒らせた……? 俺怒ってなんか……蓮にはそう、感じたんだ。

 体の向きを変えて蓮のほうに向いた。蓮の顔を見ずに頭を胸に寄せる。

「……怒ってない。全く」

「…………」

 寝てるのかな。なら今のは寝言?

「……あたたかい」

 声がほんとに丸い。……かわい。甘えてる……?

 蓮は俺の胸に顔を埋めた。手も曲げて小さくなって。俺は蓮を抱く。

「いつもこれくらい素直だったらいいのに」

「……むねのおくまで……あたたかくて……あたたかい……ごめん」

 寝ぼけてるなこれ。声までとろんってしてて……かわい。

「俺は怒ってないから、もう寝な」

 この幸せだけは逃さないように優しく蓮を抱きしめて、目を瞑った。


 妙に体が熱くて、心臓がドキドキして、頭がボーッとする。口がとろけて、それを快感だと訴える。

 ボーッとするなか、目を開ける。

「…………」

 心臓が絶えずドキドキ鳴っていて、少しだけ息が荒い。夢で誰かと深い口づけをしていた。後頭部を抑えられながら。

 部屋が少しだけ明るくて、朝だということがわかる。そして昨日ケイに抱かれて寝ていたと、それを証明している。

 目を凝らして掛け時計の時刻を見る。六時。休みなのにこんなに早くに起きるなんて、損することを。

 僕を腕の中に入れてケイは寝息を立てている。気持ちよさそうに寝ている。転校したときにあんなことがあったんだ。こんな姿を見れるのは安心する。

 そういえばケイの他に先輩も下で寝ているんだった。この時間に起きれたし、二人分の朝食を作ってしまおう。

 ケイの腕をどけて起き上がろうとするが、股がなんとなく冷たく感じる。

「…………」

 よりによって……。最悪だ……。

 新しい下着を持ってトイレに行ったあと、ソファーに寝転んで寝ている先輩の様子を見に行く。が、

「……よ」

 寝転びながらスマホを触っていた。

「……おはようございます」

「寝起きの君ってそんな声するんだなぁ」

「一樹先輩こそ。……なにか温かいもの出しましょうか」

「いらねぇ」

 さすがの先輩でも寝起きはテンション低いんだな。

 洗面所の洗濯カゴに下着をほうって手を洗う。カゴにうまく入らずに床に落ちてしまったがまあいいか。

 ケイはいつ起きてくるだろうか。普段から寝不足だから無理に起こしたくはないんだが、作ってしまった朝食を置いておくわけにはいかない。温かいものを食べてほしいから作り置きするわけにもいかない。

 ……ケイの寝息を立てる姿、子供みたいでかわいらしかったな。先輩の寝る姿も――

「…………」

 昨夜、部屋に上がる前に先輩にしたことを思いだして鼓動が速くなる。

 洗顔をしたあと、キッチンに立った。

 普通に白米を炊いていいだろうか。年始くらい、豪勢な朝食にしてもいいかもしれない。……といっても、それをすぐにやる体力なんてないが。ケイがいつ起きてくるかもわからないし。

「……一樹先輩。贅沢したいですか」

「べつにぃ。なんもねぇならコンビニでいいし」

「白米くらいは炊けます。味噌汁や卵焼きも」

「ならそれでいいだろぉ」

 いいのか。でも確かに、年始だからと贅沢する理由にもならないか。

 炊飯器で早炊きを設定して時間を見る。まだもう少しゆっくりできるか。

「きみぃ。……おれちょっとねるからぁ、めしできたらおこしてぇ」

 なんでさっきまで起きていたんだ。

「わかりました」

 先輩と話ができると思っていたが、無理か。

 静かにソファーで目を瞑る先輩を見る。先輩もかわいらしいところがある。

 あんな夢を見た理由があるのであれば、昨夜にした行いの罰だろうか。けど確かに、寝ている人に目をつけるのはきっといけない。あの夢はその罰だと思いたい。けど、

「…………」

 白く、小さい手に唇を付けてから、キッチンに立った。白米を炊こう。

 僕はいつも一合より少し少なめに白米を炊いている。けど、今日はケイと先輩がいる。二人は朝食をどれだけ食べるかわからないが、二・五合くらい炊いておこうか。

 洗った米を炊飯器にセットして早炊きのボタンを押す。今から卵焼きとかを準備しては冷めてしまう。もう少しだけゆっくりしていよう。

 先輩はもうぐっすり寝てしまって、いびきまでかいている。起こすのは悪い。部屋に上がろう。

 掛け布団を肩まで掛け直して、部屋に上がった。

 ケイはまだ寝ている、僕が腕にいないことに気づくこともなく。けどギルみたいに僕の代わりになにかを抱いている、ということもない。むしろ仰向けになっている。

 頭の近くにしゃがみ込んで、寝顔を見る。いつかに見た寝顔とは違って、楽そうに眠っている。目の下もずいぶん明るくさせて。

 いたずらで、ケイの頬に人さし指で突くと、むにっと凹む。ギルほどではないが柔らかい。

 そして、僕がいたずらしたからか、すぐ上の目がゆっくり開いた。

「……悪い」

 まだ状況が理解できてなさそうに、目をこすってあくびをした。次に起き上がって、傍にあった眼鏡をかける。

「……おはよ。今何時?」

「七時前」

「そ」

「今白米を炊いている。朝食はもう少し待ってくれ」

「全然待つ」

 言い終えると同時に僕を胸に引き寄せる。

「偉いな」

 なんのことを言っているのかはわからない。が、僕も身を任せて胸の中にいた。そっちのほうが温かい。先輩の鼓動が好きな理由もよくわかるくらいに。

 ケイの気が済んだら顔を上げる。頭を撫でてくれて、心地よかった。

「朝食、贅沢なものは用意してないが、なにか欲しいものはあるか」

「ううん、いいよそんなの。蓮の作ったのが食べれるならそれだけでいい」

 白米を炊いて、卵を焼いて、具材を入れた湯に味噌を入れて味付けするだけなのだが。

 ケイが伸びをしてベッドから降りる素振りを見せるから僕は立ち上がって離れる。

「洗面所借りるな」

 僕を置いて部屋を出ていってしまった。空になったベッドを見る。今ベッドに寝転べばケイの温もりが残っているだろうが、きっと寝てしまう、こんな早起きしたのなら。休日に早くに起きてしまったときも、そうでないときもだいたい二度寝して昼前に起きているからなおさら。

 ケイのあとを追って僕も一階に下りた。洗面所で水の流れる音がする。ソファーからもいびきが聞こえる。

 僕はそろそろかとキッチンに立った。手を洗って小鍋に水を張って火をかける。

 最近は楽な粉のスープで済ませていたから久しぶりに味噌汁なんてものを作る。

 味噌汁を加熱している間に卵焼きを作る。終業式以来作っていないから味が少し変わりそうだ。いつも目分量でしているから。これくらいだったか?

 卵に火を通るのを待っていたらケイが洗面所から出てきた。食卓椅子に座ってなぜか姿勢正しく座る。ずいぶんと遅かったものだ。それにやけに顔が赤い。

 ケイはたびたび顔を赤くさせているが、一年と三ヶ月経った今でもわからない。しかも特に症状がなければ次に目にしたときにはケロッとしている。顔を赤くさせていなかったかのように。

「ケイ。……熱か」

「ん……い、いやなんでもない。ほんとなんでも」

 なんでもあるときの反応だということには気づいているだろうか。

 けどいくら問えども教えてくれないのはさすがに覚えているから問うことはしない。

 茶碗に白米をよそって、味噌汁もそれぞれ注ぐ。入れ終わったらカウンターに次々に置いて、箸を取りに行く。その間にケイが並べてくれていた。……やはりなんともなさそうにしている。

 箸まで並べたら先輩を起こした。……いや、起きない。

「一樹先輩。朝食できましたよ。冷めますよ」

「……あぁ?」

 起きたか? 少しだけ目が開いた。

「朝食、できました」

「チョウショク……? んだそれぇ」

 寝ぼけているのか?

「朝食は朝食です」

「蓮、そいつ馬鹿だから朝食が朝飯だってことわからないんだって」

 後ろから聞こえる。少し納得した。

「一樹先輩、朝ごはんです」

「あぁ……それならそうだって言えよぉ……」

 ずっとそう言っていた、朝食ができたと……先輩は「朝食」という言葉を知らないのか。

 先輩が体を起こしたのを確認して食卓椅子に座った。ケイは早くこっちに来いと言わんばかりに先輩に目を向けている。

 こっちに来るかと思ったら僕らに背中を向けて洗面所に入っていった。

「……はぁ、先に食べてよ。冷める」

「構わない。僕は待つ」

 返答はなかった。けどぶっきらぼうに「いただきます……」と言って箸を突き始めた。

 顔を赤くするのと同じで、こうやって急に機嫌が悪くなったりもする。本当にケイの思考がわからない。

 洗面所から出てきた先輩はずいぶんしゃきっとして出てきた。顔を濡らして。

「……タオルで拭いてください」

「手拭きのかぁ?」

「いえ、ラック棚にフェイスタオルがあったと思います。それを使っていただければ」

「あったかぁ? んなもん」

 また洗面所に入っていった。きちんと見つけられるだろうか。様子を見に行こうと立ち上がれば、隣で箸を置く音が聞こえる。

「……俺が行くから、蓮は行かなくていい」

 機嫌の悪そうにそう言って洗面所に入っていった。またケイを……知らない間に機嫌悪くさせている。どうすればいいだろうか。

 食事が冷めていないか茶碗の上、皿の上に手の甲を浮かせる。……冷めてきている。

 僕のが冷めているなら先輩のも、ケイのも冷めてきている。少しだけ温めようか。二人分の茶碗を持って電子レンジに入れる。少し熱いくらいがいいだろう。

 二人は温め終わったときに帰ってきた。洗面所でどちらかが喧嘩を売ったのか徐々に声が大きくなってきている。

「だぁかぁらぁ、俺は知らねぇってぇの」

「知るかよそんなの。お前がただ馬鹿だからだろどう考えても」

 朝から元気なものだ。

「朝からそんな大きな声出すな。耳に響く。それに最悪通報されてしまう。温めたから冷めないうちに食べろ」

 そう言いながら二人の前に茶碗を置けば静かになった。僕の茶碗も電子レンジに入れる。

「……お前が遅いからって、蓮待ってたんだぞ」

「ケイ。僕は構わないからそれ以上口を開くな」

「だってよぉケイくん」

「一樹先輩も、煽るようなこと言わないでください。朝から大きな声は聞きたくないです」

「わあってるって。俺も朝一に大声は無理だからなぁ」

 その大声をあと少し遅ければ言っていたんだ先輩は。

 やっと箸を持った先輩は、

「いただきまぁす」

 いただきます。

 味噌汁、僕の口では飲めたが、二人はどうだろうか。少し様子を見ながら食べる。けどどちらもなかなか口に付けない。まあ、味に文句があれば先輩が声に出してくれるだろう。先輩はそういう人だから。

 そして予測通り、

「なぁきみぃ、味噌汁ちょっと薄くねぇかぁ?」

「薄かったですか。すいません。塩取ってきます」

 席を立ったあとケイの声が聞こえる。

「作ってもらってるのに味に文句つけるとかどうかしてると思うんだけど。しかもお前味噌汁作れるとかじゃないだろ。料理もしたことないだろ。そんな奴がのんきに文句い」

「ケイ。やめろ」

 僕が言えばすぐ静かになる。

「べつに文句をつけられても構わないから。むしろ口に合わなかったら言ってくれたほうがおいしく食べられるだろ」

「…………」

 すねたのか、箸を置く。

 珍しい。ケイがすねるなんて。

 ギルのようにわかりやすくすねているわけではない。なにか言いたげに顔をこわばらせている。

「……なんで」

 次第にそう呟く。

「……ケイも口に合わなかったなどであれば遠慮なく」

「そんなのない。べつに。……お前がいるからおいしくない」

 ケイは乱暴に立ち上がった。そして階段を上っていく。

「…………」

 またケイを……。なにがいけなかっただろう……。胸が締まる感じがして痛む。

 箸を止めることなく食べ続ける先輩に目を向けた。けどさすがに気にしているのか、いつもの食べっぷりは見せない。

「……飯だけはさぁ、おいしく食べてぇだろ」

 コップを傾けて喉を鳴らしたあとそう口にする。

「……一樹先輩は、なにも悪くないです」

「見るからに俺も君もなにもしてなかった。ケイくんの問題だ。……俺がいておいしく食べれねぇなら他で食べらぁ」

 そんなの嫌だ。僕が嫌だ。一緒に食べたい。

 先輩に一言言って席を離れた。

 部屋の前に着いて恐る恐る扉を開く。と、ケイはいた。机に伏せている。

「……ケイ」

「ごめん。食べてていいよ」

 声色はいつも通り明るい。けどどこか暗く、顔も上げようとしない。

「……一樹先輩がいるからか」

「……べつに」

 先輩がいるからではない?

「ケイの中でなにが気に食わなかった」

「……俺が気に食わなかった」

 ケイが?

 ケイのその言葉の意味を考えていると、冷めないうちに食べるよう促してくる。けど僕がケイとも食べたい。ただでさえいつもよりもおいしく感じれたんだ。温かかったんだ。

「一樹先輩が、食事くらいはおいしく食べたいと言っていた。……僕もいつも以上においしく感じた。無理にとは言わない。けど……」

 急に喉が締まる。言いたい。

『一緒に食べてほしい』

 そう言いたい。でも、怖い。本音を言うのが怖い。

 結局口から声は出ず、俯いてしまう。目に涙が溜まり始める。こんなことも言えない……。

 喉が締まるなか、これだけはと声を絞り出す。

「……た、食べたくなったら温める……から下りて……きて……ほしい」

 立ち上がって部屋を出ようとする。先輩も待ってるんだ。一緒に食べたかった。でも、無理だ。

 いまさら喉が緩んできた。上がっていた肩も下がる。脳内では言えなかった言葉が繰り返される。

「……一緒に食べたかった」

 続きを食べに行こう。ケイに一言だけ言おうと振り返ったら、

「ケイ……?」

 なにかと確認する間もなく腕を回された。頭を胸に寄せられて速い鼓動が聞こえる。

「ごめん。……一緒に食べよ」

「……いいのか」

「俺も一緒に食べたかった。けど……もうちょっとだけこうさせて」

 ついこの前もこうして抱かれた気がする。けど、人の体温を感じられるのは、思ったよりも温かくて、僕だってずっとこうしていたいんだ。

 今回のは長かった。以前よりも長く、強く抱かれていた。そして顔を上げたケイはどこか切なさを思わさせる顔を貼り付けていた。

 僕がそれについて問おうとしてもケイが先に一階に下りることを促して、腕を引く。

「…………」

 ケイにはきっと、ずっと隠していることがある。それは今もきっと。そしてそれを僕に話してくれない。

 もしかしたらそれは、修学旅行やクリスマスのときに言われた「気持ち」なんじゃないかと思う。

 ケイはクリスマスのときに僕に「子供」になればいい、抱えたものを降ろしていいなんて言ったくせして、ケイも抱え込んでいる。

 問い詰めていい思いをしないのは身を持って知っている。けど、それで以降ケイの負担が減るなら、話してほしいと僕は思う。時間があったら聞いてみよう。

 その「時間」は朝食を食べ終えたあとできた。先輩がどこかに出かけた。すぐ帰るとは言っていたが。

「どうせ酒だろ」

 そう呟いてコーヒーを飲む。僕もそんな感じがする。

 白湯を入れたカップを手で覆って暖を取る。なんて切り出そうか。白湯を一口、二口、口に入れて飲み込む。温かい。

「……ケイは、どうして泊まったんだ今日」

「べつに、理由とかはないけど、あいつが蓮の家に泊まるとか聞いたら……なんとなく嫌で」

「嫌か。ケイも泊まれるなら泊まったらいい。家が近くないからギルほど潔く泊まらせるかはべつとして」

「あいつは家近いんだ?」

「さあ。一樹先輩の家は知らない。けどケイほど遠くではないだろうし、片親なのか知らないが、ネグレスト気味みたいだからな」

 それがどれほど苦しいものか、身を持って知っている。だから、先輩であっても、僕ができることはしてあげたいと思ったんだ。

「蓮のほうがつらい思いしてたのに、蓮が世話しなくてもいいだろ」

「……つらさは計れるものではない。人それぞれ違う痛みがある。それに一樹先輩には僕のことを話していない。そんな人にいきなり僕は一樹先輩よりもつらい思いをしてました、なんて言えないだろ。そもそも言わないが」

「そうかもだけど……あいつだけ特別扱いしてるの……ずるい」

 特別扱い? 特別扱いなんてしてただろうか。けどケイがそう思ったなら、意識しないといけない。

 ……けどギルにはいいのだろうか。ときどきギルのことを特別扱いのようなことをしている。例えば、僕を呼ぶ際、あの呼び方をすることを許可していることだとか。ケイが今頼んできても必ず断る。

「ケイがそう言うなら気をつける。してるつもりはあんまりなかったんだがな。……それと、もう一つ聞きたいことがあるんだ。ケイ、隠してることあるだろ」

「……え?」

 無自覚? そんなことはないだろう。

「なにかとははっきりとは言えないが、隠していること」

「……思い当たることはないけど」

「……ケイを見ているとときどき特定の誰かに恨む……妬むか、そんな気持ちを出している気がする。そしてそれを僕にしないことも。その表情をする理由。なにかあるのか。なければあんな表情はしないだろ。

 僕は今の周りの関係を壊すことは望んでいない。言えるなら言ってみろ。……僕にも言えと、本音を言えと促してきたのだから」

「あったっけ?」

 促したわけではないかもしれない。けど、クリスマスの日に、確実に「子供」になっていいと言われた。

 頭をかいたケイは困ったように眉を寄せる。

「……俺は、それを言える準備をしてない」

 準備? 心の準備のようなものか?

「ずっと考えてるけどなかなか決着がつかない。決着がついてもこれでいいのかって何度でも考えて結局初めに戻る。だから、もう少し……あと少しだけでいいから……待ってて」

 以前にも使っていた「待ってて」という言葉。まるで決着がついたら僕に一番に言い聞かせるような言い草。

「……僕が急かすようなものじゃないことは理解できた。ケイのタイミングで言えばいい。けど、いつか僕に言い聞かせろ。恩を返したい」

「恩?」

 まあ、過去のことも含めたら返しても返し切れないだろうが。

 さっきの話をしてからはどちらも口を開かなかった。どこか神妙な空気になって、開けづらかった。けど、気まずく思うほど関係が薄いわけでもない。

 その空気を壊してくれたのは先輩だった。ガチャッと玄関の扉を開ける音の次にビニール袋の音が聞こえる。

「きみぃてつだぁえぇ」

 そしてそう叫ぶ。素直に手伝いに行こうと立ち上がったが、

 ――あいつだけ特別扱いしてるの……ずるい――

 そんな声を思いだす。

「…………」

 一度ケイに目を移す。と、顎をくいっと上げた。

 玄関に顔を覗かせたら大きなビニール袋を両手にだらしなく提げてうなだれていた。

「買いすぎですよ。なに買ってきたんですか」

 袋をちらりと見ると、たくさんのカップ麺があった。

 それを持ち上げる。

「三つ買うとお得って書いてたからよぉ」

 先輩はそういういくつ買ったら割引という言葉に釣られるタイプか。

「だからと言って買いすぎです」

「これもぉ」

 そう言ってもう片方の袋も差し出すから持つが、

「っ……な、なに入ってるんですか」

 重たさのあまり、持ってすぐに床に付けてしまう。

「さけぇ」

 酒? 袋を見ると段ボールで入った酒が二段ほど入っていた。

「か、買いすぎです。これ全部飲むんですか」

「たりめぇだろ。きみものむかぁ?」

「飲まないです。これ持つのでカップ麺持ってください」

 そう無理やりに渡して、酒の入ったビニール袋を両手で抱えながら食卓まで運んだ。

「なにこれ」

「酒らしい」

「はぁ?」

 ケイも信じられないらしく、目を丸くさせて袋の中を見た。

 カップ麺を持ってこいと先輩に袋を渡したが、なかなか来ない。仕方がない。

 再び玄関に戻ってみると、先輩は扉にもたれて目を瞑っていた。

「起きてください。そんなところで寝たら風邪ひきます」

 そもそも寝心地もきっと悪い。

「きみがもっていけぇ」

 ずいぶんとフニャッとした声。聞かずともわかる。帰ってくる途中で飲んできてもう酔ってる。

「手貸すので立ってください」

 と言っても扉から離れる気はない。それもわかっていた。だから腕を引いた。

 けど、思ったよりも先輩が軽くてひょいっと僕のほうへもたれかかってきた。すっぽり胸の中に先輩の頭が入って、急に鼓動が速まる。

「い、一樹先輩立ってください」

「ちからはいんねぇ」

「もう……」

 体勢もいい。おぶっていこう。と言ってもこのままじゃおんぶはできない。体の向きを慎重にひっくり返してしゃがんで先輩を背中に乗せる。

 カップ麺は一度置いて、先輩の太腿を下から支えて、背中に先輩の温かみを感じながら、よろけるのを踏ん張りながらソファーまで運んだ。

 そのときケイが傍に来ていたのが見えた。また「特別扱い」と言われるだろうか。身構える。が、口を開けたケイは、

「うっわ……酔っぱらい」

 少しだけ安心する。

 玄関に置きっぱなしのカップ麺たちも持って食卓に置く。しばらく先輩は起きないだろうな。

 ゴミを見るような目つきで先輩を見ているケイの傍に行く。

「水飲めよ」

「ケイくんにさしずされるすじあいはありましぇーん」

 呂律が回ってないが、言うことははっきりしている。その態度にケイはいっそう一発殴りそうになっていた。

「屋外なら容赦なく水ぶっかけてた」

 そんなケイの言葉を無視するように、先輩は「けどよぉ」と続ける。

「べつにぃ、おれはケイくんがきれぇってぇわけでもねぇ」

 チラと見たケイは殴りそうな顔はしていなかった。その証拠に拳は握られていない。

「すきでもねぇけどなぁ」

 そうきゃっきゃっきゃと先輩は笑う。

「俺だって……お前のこと好きでもねぇよ」

 そう呟くようにケイが言う。言っても先輩の耳には届かないことを理解していたのだろう。


 ケイは昼前になると帰ると言って家から出ていった。どこか寂しげに「またな」というものだから、またいつでも来たらいい、そう返した。ケイはそれを見て微笑み、歩きだす。

 昼はどうしようかと、先輩の意見を聞くように呟くと、

「そば食べようぜぇ。ほらぁ、年越しそばって言うだろぉ?」

「そうですね。なにか入れたい具などはありますか」

「入れたい具? んでそんなこと聞くんだよぉ。食いに行くんだろぉ?」

 あ、外食か。作るのかと思っていた。年越しそばを外食で、か。年越しそばなんて何年ぶりだろうな。

「では、行くまでにその酔いを覚ましておいてくださいね。フラフラしてる状態では行かせられません」

 そうして昼食はそばを食べることになった。しかも先輩にいいところを知っていると言われて。

 店に着いたはいいが、年始はやはり人が並ぶ。外で寒い思いをしながら待っていた。

「情けねぇ。それでも男かってのぉ」

「男も女も関係ないと言ったのは、誰でしたか」

「知らねぇ。……くちゅっ」

 ……今のくしゃみか?

「……かわい」

「あぁ?」

「あ、いえ、なんでもないです。本当になんにも」

 けど思えば、先輩は僕よりも薄着だ。マフラーを巻いてなくて首元が寒そうだ。綺麗に切りそろえられている髪の毛が見える。そして色白い細い首も。

 ドクッドクッと言わせながら先輩の首を包むように触れた。

「なっ!」

「あったか……」

「離せおらっ」

 そして振り払われる。やはり駄目か。

「君のこと嫌っていいんだなぁ?」

 眉を上げて言われる。

「誤解です。温めようとしたのです」

「君さっき俺の首触って『あったか……』とか言ってたろ」

「……さあ」

 言った憶えしかない。

 グチグチと言われるなか、僕はマフラーを解いて先輩の首に巻いた。

「ほんっと君もガキみたいなところあったりす……あぁ? んだこれ」

「首が寒そうでしたので」

「君も寒そうに足震えてるけどぉ? 俺はいいから自分に」

「僕は一樹先輩がいるので」

 そう言って、先輩に腕を回した。やっぱり温かい。大きなカイロみたいだ。

「あ、あぁ?」

「あったかいです」

「……知るかよ」

 そう言う先輩だが、まんざらでもなさそうな声だった。

 店に入ったらそれぞれメニューを決めて待つ。店か込んでいるから早々に来ることはないだろう。

 背もたれに体を預けてスマホを触っている先輩を見る。

 昨日、先輩に本音を話した。先輩のことが好きだと。それを先輩はどう受け止めたのだろう。確かに僕を特別だと聞いた。けど、それが本当かどうか、はたまた本当は僕のことを嫌いに思っているのではないか。僕の中でぐるぐる回る思考はたくさんある。

「一樹先輩は昨日……その、僕が言ったことはどう受け止めたのですか」

「昨日? ……あぁ。どうもこうもねぇよ。君の気持ちを尊重する」

「いいんですか。僕がそんな気持ちを持っていても」

「誰かを好きになるってぇのは自分ではコントロールできねぇ感情だからなぁ。俺も好きな奴ができたらぜってぇ好きって思いを脳内で繰り広げるだろうよぉ」

 確かに、好きの感情はコントロールするようなものじゃない。僕は先輩を好きでいていいんだ。

「……確認ですけど、一樹先輩はべつに、僕のことが好きだとかではないですよね」

「今のところはなぁ。特別ではあるけどな」

 それでもいい。好きの感情がなくても、少しだけでも特別だと思ってくれているのなら。

 言えてよかった、気がする。先輩に、この気持ちを。

 本音を言うと、傷を負ったり負われたりするし、関係が壊れることもある。だから誰だって言うのは拒むものだ。それでも言わないと始まらないことだってある。いつまでも一歩を踏み出せずに終わることだってある。

 大切なことは、これからも言っていきたい。先輩に限らず、ギルやケイたちにも。

 そう心では言えるが、実際はどうなんだか。

 昼食を食べたあと、店の前で先輩の足は止まる。家に帰ろうとしていた僕の足も止まる。

「……俺、帰るわ」

「……帰るんですか。……もう少しだけ一緒にはいれませんか。ここでいいので」

 今日一日とは言わない。あと少しだけ。

「君、その脚でそんなこと言うかぁ?」

 脚? 言われて見るとガクガク震わせていた。店内が暖かかったから余計にだろう。

「あの大量の酒やカップ麺はどうするんですか」

「酒とかは君の家に置いておけ。たまに飲みに来る」

 たまに飲みに来る……。喜ぶべきか、否か。

「そういえばこれ返してなかったなぁ」

 そう言って首にマフラーを巻かれる。

「べつに返していただかなくても」

「だからその脚で言うなってぇの。それにいくら君のでもさすがに返すしぃ」

 マフラーが巻かれ終わるのを待っていたが、どうも不器用で首を絞められるから、自分で巻き直した。それに先輩は「おっかしいなぁ」と頭をかきながらぼやいていた。

 巻き終えたあと、先輩は鼻を赤くさせて口を開く。

「この前っていうかずっと前。君と会って数日したときかぁ? その時に言ったこと憶えてるかぁ?」

 先輩と出会って言ったこと? 憶えていない。憶えられるはずがない。

「いえ」

「……あん時はさぁ、君と縁を切る、なんて言ったんだぁ」

 あぁ、事の終結に至ったときのことか。確かに言われた。縁を切る、と。けど今こうしてまだつながっている。

「けどよぉ、結局こうしてまた君と会った。縁を切ることとはほど遠くな。だからよ、今度は逆にしようぜ。『縁を切る』じゃなくて、『また未来で会おう』ってな。そうすれば君と会わなくなるはずだぁ」

 また未来で会う……。

「面白いですね。……そうですね。また未来で会いましょう」

 先輩に微笑みかけて、歩き出そうとする。別れが寂しくなる前に。

 けど、

「君」

 呼ばれて振り返ると一つの拳が伸びていた。意図を理解した僕は口を緩ませて、作った拳をそこに当てる。

「未来で会う約束な」

「えぇ」

 先輩はこれが『縁を切る』と同じ意味だなんて思っているのだろうか。

 いやきっと……。

 振り返って歩き出す。

「ふっ」

 本心だろうな。

「早咲きの蓮華は地面咲いた」の十作目、「本当の心と音」を投稿しました。

 ちょうど本作と同じ時期に出せて少し親近感が湧きます。今作のイチオシポイントはやはりギルと蓮の幼稚園のお話ですね。出会ったときのお話。好きすぎてここでいっぱい語っちゃいそうなので唇を縫いつけますが……。

 お久しぶりの先輩こと森泉一樹の登場もありました。憶えてますかね、先輩の名前。蓮の一樹先輩に対する気持ちを伝えることができた本作。まさかあれで終わり……なんてことないでしょう。

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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