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それを望んだわけではない(1/2)

 六月中旬。ある平日の朝。

 ふと目が覚めた。

 カーテンからは薄らと光が漏れている。いつもはもう少し早く起きているから、もう少し暗い。

 今日は平日であり、休校日でもない。それなのに今日はアラームをかけずに寝過ごそうと思っていた。だから七時という遅い時間までアラームを鳴らしていない。なぜ休むのだったか……。寝起きで働かない頭を無理やり働かせる。

「…………」

 ……そうだ。今日は体育祭だ。運動はしたくなく、汗をかきたくなく、面倒臭がりな僕だ。体育祭は僕にとって不必要な学校行事だ。

 今日は予定通り休もう。毛布を掛け直して、開けた目を閉じる。おやすみ。

「…………」

 そのまま眠りに入って二度寝をしようと思っていたが、どうも僕の腹が空腹だと訴えてくる。昨晩食べていればよかった。

 体育祭の予行練習なんてものに付き合わされたから、帰ってからも風呂に入るくらいしか気力がなかったんだ。風呂に入ると言ったらそれなりに気力があると思うかもしれないが、髪は極力濡らさずに体だけを洗うことを風呂に入ると言った。多少濡れた髪も放置していたくらい気力はなかったんだ。

 それでも寝る前に予約炊飯をしていたのは確かで、もう炊き終えているはずだ。あのままほうっておくのは電気代の無駄になってしまうから食べてから寝よう。ベッドから起き上がってだるむ体のまま一階に下りた。

 食べたらすぐ寝るから洗顔はせず、代わりに台所へ向かう。やはり炊飯されていて、このままほうっておけば金の無駄になっていたらしい。

 茶碗に白米をよそおって、きちんと炊飯器の電源を切る。箸も一緒に持って食卓に座った。いただきます。

 今日はきっと「奴」が来るだろうから、早くベッドに寝に行きたい。ずっと寝ていました、とても深い眠りで全然起きません、と思わせられるように。

 ほとんど噛まずに流し込んでいく。途中で喉に詰まらせかけていれば、

「…………」

 インターホンが鳴った。一回ではない。何回も、何回も鳴らしてくる。うるさい。

 このまま知らぬフリをしてもよかったが、相手が不審者だと思われないようにするためにも口にある白米を飲み込んでから出てやった。どうせ、今すぐに出なくとも相手は僕の家の合鍵を持っている。インターホンを鳴らすことに飽きれば、鍵を使って入ってくるだろうな。

 玄関の扉を開けたら、眩しくて目を細める。

「おっはよーれーくん!」

 その声に目を開ければ、小悪魔のような笑みを貼り付けたギルがいた。こんな朝っぱらから押しかけてくる奴なんてギルくらいしかいない。

「……おはよう。帰れ」

 そう言って扉を閉めようとするが、近くに来たギルの手が扉の外から現れて止められた。手を挟まなくてよかった。

「ちょ、ちょっと! 閉めないでよ!」

「なんでこんな朝っぱらから来たんだ」

「もちろんれーくんを起こすためだよ。どーせれーくん体育祭嫌だからってサボろうとするの知ってるから」

 数十年という長い付き合いになると、なんでも見透かされてしまう。……いや、去年もこんなことを言って家まで来られた気がする。

「一人で学校に行け」

「嫌だね。れーくんと行くもん! 中に入れて」

「無理だ。今日は休む」

「……どこか体調悪いの……?」

 ただ動きたくないだけなのに、体調が悪いと思われるのは少し困る。

「悪いわけではない。ただ動きたくないだけだ」

「それならよかった。じゃあ、一緒に行くよ」

 そして小悪魔のような微笑みも付け加える。本当に小悪魔のような顔だ。鏡で見せてやりたい。

「とにかく入らせて! まだ時間あるんだし、早くに来た意味なくなるよ!」

 それならここまで足を運んでこなければよかったじゃないか。そうは思うがギルを外にほうって熱中症になんかさせられない。それに僕と一緒に行って体育祭を楽しみたいらしいギルを学校に行かせないわけにもいかない。

 扉を開けていく。 

「……入れ」

 そう言えばここ最近で一番嬉しそうに顔を輝かせる。こんな笑顔のために自分を犠牲にするのは馬鹿な話だ。

「れーくん大好きー!」

「引っ付くな、暑い」

「えへへへ。俺も暑い」

「なら早く離れろ馬鹿」

「俺のこと馬鹿って」

「わかったから、本当に離れろ」

 朝から溜息が出る。それでも微笑まされる。

 ギルが家に入ってきたことで家の中が蒸し暑いということに気づき、冷房をつけた。

 僕は学校行事に意味は成さないと思っている。だからサボれるものはサボっていた。去年の文化祭の準備や中学のときの合唱コンクールの歌の練習など。合唱コンクールは結局僕が伴奏を弾くことになって、そこはきちんと練習をした。迷惑はかけられない。

 サボれるものはサボろうとしていたが、クラスで行動する行事はサボれないものがほとんどだった。まずギルがサボらせてくれない。今回の体育祭もそうだ。僕が運動をしたくないのをわかっているはずなのに、わざわざここまで来て僕を連れ出そうとしてくる。ある意味、代理の親みたいな感じがしてくる。

「ねえれーくん。お水欲しい」

 食べ終わり、立ち上がったところだ。僕が立ち上がったついでに水を頼もうとするな。

「自分で入れろ」

「えー。だって人の家の冷蔵庫見るのは」

「大したものは入っていない。それに何度でも見ているだろ」

「えへへへ。言ってみたかったんだー」

 もっとまともなことを言ってみたいと言ってくれ。茶碗をシンクに置いたあと、コップくらいは家の主として出した。ギルはそこに冷蔵庫から出した水を注いで飲んでいく。

「生き返るー。……れーくんも飲んどきなよ」

 ギルが再び注ごうとするが、

「要らない……さっき飲んだ」

 飲んだ憶えはないが、寝起きに冷たい水は喉が通らないんだ。もう少ししてから飲もう。

「あ、そうなんだ。ならいいや。食べ終わったんなら次は体操服に着替えて」

 腕を引かれて、二階の僕の部屋に連行される。部屋は冷房をつけておらず、蒸し暑い。扇風機のコンセントは繋がっていたのでつけてギルに向ければ、僕のところへ向け直された。こりず僕も向け直したら、ギルが部屋全体に風が送られるような位置に置き、落着した。

 ギルが勝手にクローゼットの中を見る。が、そこに体操服は入っていない。ないことに気づいたギルは僕のほうを見るなり「どこだ」と視線で言われる。仕方なく勉強机の横に置いておいた体操服袋を手に取り、体操服である僕のジャージ上下と中に着る体操着を取り出した。

 体操服は男女同じ色、同じデザインだ。体操着は風通しのいい白の半袖Tシャツ。部屋着を脱いでその体操着と長ズボンを履く。ジャージ上下は紺色をしていて学校の紋章が左胸と左骨盤あたりにそれぞれある。

「よーくできましたねれーくん!」

 服を着たあとそう言って頭を撫でられる。撫でるな。それにこんなことで褒めるな。

 今日はいろいろ疲れそうだ。

「今日はなにが必要なんだ」

 階段を下りながら、数段先を行くギルに聞いた。

「今日は……そんな要らないかな。お弁当と水筒を持っていけば大丈夫だと思うよ。あと、必要ならしおりかな」

「弁当作ってない」

「そっか……。れーくんっていつも自分で作ってるもんね。大変……だよね……」

 ソファーに座り込んだギルはまだ悲しそうな顔をする。僕は後ろから隣の背もたれに腕を置いて体重を乗せた。

 僕の両親はいない。けど、いなくなったことで解放され自由になった。僕はそれでいいと思っている。家事や金銭類の管理など、普通の高校生ならしないことをしているが、困ったことではない。

 ギルには両親がいないことを話している。僕はそれを暗く重いものだと捉えていないので暗くならなくていいと、謝る必要はないと言っている。それを今回も言う。ギルが覚えるまで。

「顔を上げろ。これで何回目だ。僕は暗く重いものと捉えていないと言っているだろ。暗い顔をするな」

「だって……俺はお母さんもお父さんもいるのに、れーくんはいないんだよ? 悲しくならないほうがおかしいよ……」

 ギルにあって、僕にないもの……か。改めて言われると実感する。が、

「人は結局いつか死ぬ。僕の親が死ねば、僕も死ぬ。ギルもいつか死ぬ。それは変えられないことだ。死を望んでいなくとも死ぬ。この地球で生きる生命はいつか死ぬんだ。いつか、絶対に」

「わかってるよ……わかってるけど……。れーくん」

 続きの言葉がないと思っていれば、振り向いて体に腕を巻かれる。

「俺より先に死なないでね。俺、れーくんのいなくなった世界で生きたくない」

「……それは事故や病気なども含まれ」

「含まれるよ。とにかく、俺より先に……絶対に死なないで。約束だよ」

 ギルの左手は小指が立てられる。僕はそれを、

「いたたたたっ! ちょっと、なにするの!」

 親指と人差し指で強くつまんだ。

「約束はできない。生き物である以上、早死にするなという約束はできない」

 巻かれる腕に力が入る。暗い話をしたな。反省しよう。

「ギル、そろそろ暗い話はっ」

 左耳を強く引っ張られる。

「えへへ、お返しだよ」

 いつも通りの声だった。


 ギルは時間までソファーでのんびりとし、僕はさっとさっき使った食器を洗っていた。体育祭なだけあって、登校時間はいつもより遅い。

「れーくーん」

「…………」

 聞こえたが、ソファーからキッチンまでの空間を挟んで大きな声を出して会話はしたくない。それを察したのか、ギルがいつの間にかキッチンカウンターを挟んだところにある食卓椅子に、椅子の向きを変えて背もたれを抱くように座っていた。

「……昨日の夜なに食べた?」

 食べていないから一昨日のものでいいか。食べていないと答えれるば説教されることは明白だからな。

「うどん」

「自作? お店の?」

「自作。店まで行くのは面倒だ」

 行けばおいしさに後悔することはないんだろうが、徒歩圏内にあるうどん屋を知らない。僕はこの街に十数年といるが、学校以外に外に出ることがスーパーなどの買い物の時以外なく、この街のことをあまり知らない。

 強いて言うなら、小学校中学校、高校の通学路と近くのコンビニ、近くの本屋に喫茶店。それらの道のりにある建物しか知らない。そして、そのどこにもうどん屋は見たことがない。

「外食とか行かないの?」

「行かないな。外に出る時間で勉強に手を回せる。家で作って食べたほうがいい」

「真面目さんなんだからー。……じゃあ、今度一緒にご飯行こうよ。俺らくらいでも出せる店知ってるから」

 なにが「じゃあ」なのかわからない。

「徒歩で何分だ」

「もー。時間は気にしないの! でもすぐ近くだよ。住宅街を出た大通りを右に曲がって、ずーっと行ったところにあるお店」

「……どこだか」

「とにかく! ね、行こ。いつ行くかは体育祭終わってからね。約束だから!」

 なぜそこまで連れ出して食事をしたいのかわからないが、たまには外で食べるのもいいだろう。

 洗い物が終わった。手が少しの間冷水に当たり、いい感じに体温のバランスが取れた気がする。

 手を拭いて掛け時計に目をやれば、いい時間だ。

「そろそろ行くか」

 スマホに目を向けて操作していたギルに声をかけると、すっとスマホの画面を落として「うん、行こ」と頷いた。

 リュックの紐を肩に掛けて玄関に行く。ギルは先に出ていった。

 靴を履こうとしたときジャージを忘れていることに気がつき、部屋まで取りに行った。家の中まで着る必要がなかったから忘れていた。夏に着るのはもちろん暑い。それでも着たいんだ。ジャージの袖を腕に通してリュックを背負う。

 素朴に脱がれた学校のローファーを履く。ローファーの購入は自由で、必ずしも履いて登校しなくてもいい。だからギルはいつも灰色のスニーカーを履いている。今日も履いていた。

 扉を開ければ、ギルが手で顔を扇ぎながらこちらに目を移した。確かに家の中との温度差があって暑く感じる。いや、暑い。

「行こー。暑いよー」

 そう言うので学校に向けて歩きだそうとすれば、ギルに止められる。

「あれ待って。れーくん靴、今日運動靴じゃないと」

「あぁ。その運動靴を学校に置いているんだ」

「あ、なるほど。ならいっか。行こ」

 そう言って歩みだすので、隣を歩いた。

 冷房をつけない部屋は蒸し暑いが、外は蒸し暑いに加えて太陽の光が直接髪や服を温めてくる。長袖はその直接受ける攻撃を避けることができるからいいんだ。それに、

「そういえば、れーくんズボン長いのでよかったの? 暑くない?」

「……ああ。最悪めくる。……長いほうが落ち着くからな」

「ならいいんだけど。……暑くなったら早く上のジャージも脱ぐんだよ? れーくんって謎に上着とか脱ぎたがらないからね。真夏の気温になってやっと袖ちょっとまくるんだから。夏休みに遊びに行く時家だったら半袖なのに、外に行こうとしたら薄い上着着て出るし。ずーっと気になってたの。なんでなの?」

 そう言われても。ギルにはきっと理解できない。してくれるかもしれないが、否定してきそうだ。

「構うな。到底知り得ない」

「知り得るから教えてよ」

「……新藤蓮は黙秘を貫く、を選択」

「あはは! なにそれ面白い。ゲームのRPGの敵と戦うやつだ。じゃあ、俺……じゃなくて英川ギルは教えて、を選択! 教えて!」

「新藤蓮は防御、を選択。ギルの攻撃は防がれた」

「あははは! じゃあじゃあ、英川ギルはいつも宿題を写させて、を選択!」

 どうやら話を逸らせたようだ。

 このRPGを真似た遊びは、途中にあるコンビニに入ったことで終わった。入ってからは水分摂取法について聞いてくる。

「五〇〇ミリリットルのペットボトルだけで足りる? 一リットル持って行ったほうがいいんじゃない?」

「きっと足りる。僕が多く飲まないことを知っているだろ」

「そうだけど、ご飯食べるとき以外ずっと外だよ? 暑いよ? 動くんだよ?」

「最悪、購買や自販機を利用する」

「年中行事のときは購買やってないよ」

「……そうなのか」

 初めて知った。購買はときどきパンを買ってお世話になっていたが、知らなかった。

「どちらにせよ、足りる。なくなったら自販機で買う」

「そっか」

 ギルは白米や唐揚げが入った長方形の弁当を勧めてきたが、おにぎりがある棚に手を伸ばした。レジでエビマヨと梅のおにぎりをそれぞれ一つずつ、五〇〇ミリリットルのペットボトルを渡して会計を済ませた。

「れーくんってカード決済みたいなのしないの? 俺もしてないけど。よくわかんないし」

「しない」

 もちろん現金でだ。カードは僕もよくわからない。

 おにぎりを潰れないよう、ペットボトルは空いているところにリュックに入れ、再び学校に向かおうとすれば、コンビニを出たところでギルがトイレに行きたいということで、コンビニ内で待った。外は暑い。

 戻ってきてからは学校に向かった。

 少しでも暑さを紛らわそうと、涼しかった冷房がついた感覚を思い起こしていれば、

「…………」

「……ん? どうしたの?」

 ふと嫌な予感が脳裏を巡り、脚を止めてしまう。

「冷房を消した記憶がないんだが」

「え! それは……かなり電気の無駄遣いしちゃうね……。どうする?」

「…………」

 腕時計を見て時間を確認する。時間的に走れば間に合うだろう。あまりしたくない選択だが、金が無駄に飛ぶのはかなり困る。

「戻る。悪いが、僕の荷物を持って先に学校に行っててくれ」

 返事を聞く前に僕はリュックをギルに預けていた。ギルはリュックを前に抱えて背負う。

「わかった。でも車に気をつけてね」

「もし遅れたら適当に言っててくれ」

「うん」

「じゃあ」

 僕は振り返って軽く走りだした。大通りだと人通りが多くてぶつかってしまうかもしれない。住宅街に入るまでは本気で走れない。

 体育祭が始まる前に体力を使ってしまうなんて、とんだ馬鹿げた話だ。大きな溜息を吐きたい。


 呼吸音と心臓がうるさい。ローファーで走ったからか、足が痛い。

「お疲れさま。大丈夫だった?」

 なんとかギリギリ本鈴の前に教室へ入れ、先生もまだ顔を出していなかった。そのため、生徒は自由に立ち上がり、汗だくになりながら教室に入っても注目を集めることはなかった。

 席に座るなりギルが│そばに来た。一緒に僕のリュックも机の上に置かれる。

 呼吸が荒く返事ができずにいると、どこかへ離れていき、すぐに戻ってきた。ハンドタオルが握られている。そしてそれを汗筋が流れる不快なところへ押し当ててくれる。

「かなり本気で走ってたんじゃない? 久しぶりだよ、健康な状態でこんな汗だくなれーくん」

「……ああ。……少し余裕ぶっこいて……折り返しで歩いていたら間に合わないと途中で思ってな。……タオルありがとう」

「うん。風邪引かないでよ?」

 誰かの「先生来たぞ!」という声でぞろぞろと生徒が席に着いていく。ギルも「またね」と席に戻っていった。

「おはよーございまーす!」

 今日が体育祭だからか先生は運動着らしい格好をし、機嫌もいいらしい。普段は「はいみんなおはよー」としか言わない。……変わらないか。

 挨拶後、今日の流れを説明されていく。が、涼んだ体には睡魔が襲ってきて、言われたことが脳に入り込まず通り抜けていく。

 この睡魔はきっと昨日の夜に、どうせ明日は休むからといって深夜の二時前くらいまで本を読んで夜更かしをしたせいだろう。夕食は食べれなかったくせして。馬鹿なことをしなければよかった。……面白かったからべつにいいんだが。

「弁当はこの教室に置いて、それ以外を持ってグランドに集合だ。クラスごとに長椅子が並んであって、B組の座る場所ならどこでもいいからな」

 B組の座る場所? そんなのあったか? 頭を振って眠気を少し覚まして顔を上げてみれば、黒板に書かれていた。なるほど。どうやらB組は一般棟を背にした本部や放送部の左側、トラックに沿ってまず一年の席があってその隣に二年A組、その左側に位置している。

「まあ、場所わからなくなったら地面に白線をクラスごとに……ここだったら『2ーB』ってあるからそれを見たらいい」

 らしい。踏まれて全部消されないことを祈ろう。

「ただ、椅子は絶対座ること。他人に迷惑かけるような座り方とか寝転ぶとかは禁止だ。あ、あと禁止ごとといえば、この体育祭を自分の番じゃないときにスマホを使って動画を撮ったりするのはいい。ただ、それをSNSとかに投稿するのは絶対に禁止だ。あとで発覚したら生徒指導確定だから覚悟しとくんだぞー」

 どちらも僕にとっては関係のないことだったな。ヘンな座り方をしてまで種目を見たいわけでもない。スマホで動画を撮るほど思い出作りをしたいわけでもない。

 もう数分先生がなにか話し、終わったら教室から去っていった。先生がいなくなったことにより、生徒は徐々に声量を上げていく。眠気のある僕の脳にはどんな会話も入ってこず、BGMにしか聞こえなかった。

 少しの間、机に伏せて寝るフリをする。眠たい……。

「――と、起きて。ねえれーくん」

 呼ばれて顔を上げれば、慣れない室内の光で目を細める。この声はギルだ。

「やっと起きた」

 声のしたほうを見ればギルがなにか青い紐を持って立っていた。目が少しかすんで、目をこする。

 時計を見てみれば十五分ほど過ぎていた。寝てしまっていたようだ。

「この時間はなんだ」

「先生が体育祭の種目とか書いた紙取りに行ってるよ。あとトイレ行く人は行ってこいって。れーくんはトイレ大丈夫?」

「ああ」

「ならこれ着けるから後ろ向いて」

 持っていた青い紐を揺らす。よく見れば、ギルの額にもその青い紐が髪の毛の下から巻かれている。どうやらこれはハチマキらしい。

「自分で着ける」

「だーめ。れーくん不器用なんだから」

 ……料理や裁縫ができるから器用だと思っていたんだが、どうやら不器用らしい。

 ギルに背を向ければ目の前にハチマキが下りてきた。そして、目を隠される。

「……なんの真似だ」

「え、なにが? ……って、あはは。ごめんごめん。気づかなかったよ」

 目隠しをしてなにかのゲームを始めるのかと少し思った。物語ではよくある展開だからな。例えばデスゲームのような。

 ハチマキが目から離され、今度は額に当てられる。ハチマキと額の間に挟まった前髪が取られていく。そしてときどき頭を後ろに引かれながらも、結び終えたらしい。後ろから「よし……」と声が聞こえた。

「できたよ。こっち向いて」

 言われた通り一八〇度体を回転させた。目の前には相変わらずギルの顔が映る。

「うん。いい感じ。……あとちょっとだけ……」

 そう言ってまだなにか手を加えられる。ハチマキを上に下に引かれ、ハチマキに挟まれているであろう髪を引かれ、前髪をいじられ、

「よし、完璧。かっこよく巻けた」

 と、満足げに言う。自分の髪ですればいいだろうに。僕と違ってさらさらとしたその髪で。

 僕はくせ毛というわけではないはずだ(幼い頃は真っ直ぐだった)。が、風呂上がりに髪をほうっていたらいつの間にかこうなった。他人であるギルがなぜか気にしているが、僕は気にしていない。

「おうおう。関係ない奴は座れよー」

 先生が帰ってきて教室の様子を見て言う。視野を広げてみればギル以外にも、友人らしき人の傍に行って話をしている者がいた。

「これ配り終わったら荷物持ってグランド出るから準備しておけよー。さっきも言ったけど、弁当はこの教室に置いていくんだぞー。持っていったら腐って食べられなくなるぞー。午後の部に昼抜きは大変なことになるぞー」

 そんなことを言っている間に配り終えていた。回ってきたプリントを一枚取って後ろに回す。配られてきたプリントには「第七十五回体育祭(生徒用)」とでかでかとイラスト付きであり、右面には校長の言葉が長々と書かれている。裏面には種目やクラスの席の場所などが書かれている。

「……よし。じゃあ俺らのクラスもグランド行くぞー。弁当以外の荷物は持って行くんだぞ」

 生徒は荷物を持って廊下に並びグランドに向かっていく。僕は途中で抜けて自分のロッカーまで行き、入れてある黒のスニーカーに履き替えた。僕以外にも数人履き替えている奴がいて、焦りが軽減する。

 グランドに向かえば、他学年がグランドに出るところだった。それに同じ青のハチマキだ。その群れに紛れて一緒にグランドに出て、二年B組の席へ向かう。

 各クラスの席には、長椅子が並んでいる。そしてその上にはテントが張られていた。だが、陽がまだ高い位置にあらず、後ろのほうでは日陰になっていない。

 意図的にかわからないが、五脚並んでいる長椅子の右半分が男子生徒、左半分が女子生徒が使っている。そして男子生徒が座る右側の前のほうでは一脚に五人ほど座っている。見ているだけで暑苦しい。

 真ん中あたりの席を逃し、仕方なく空いている右側の一番後ろの席へ座り込んだ。前の長椅子は誰も座っていない。そしてもう一個前の長椅子にはギルが座っていた。なぜか振り向いたギルが僕に気がつき、驚いたような顔になる。

「れーくんいた! いくら捜してもいなかったからどこ行ったのかと思ったよ。そんな後ろじゃなくて前おいでよ」

 前に行ったところで日陰でないことには変わりないのだから、どこだっていいだろうと思いながらも腰を浮かせて一つギルに近づいた。ギルが少し悲しそうな顔をするので、仕方なくだ。

「……俺そっち行こうかな」

 なぜかと問う前にわかった。ギルの隣には誰かが座っており、席が埋まっている。僕の隣の空いている席に座ろうか、と言っているのだろう。

「そこでいいだろ。それに準備体操やらで一度立つだろうし」

「それもそっか」

 生徒が集まったらしく、開会式が始まるようだ。

 生徒は中央に背の順で集まらされて腰を下ろされる。陽の光を浴びた砂は少しばかり熱く、尻に熱を感じる。

 前に出た校長の話が始まった。いつも長い。きっと今日も長い。雲に隠れる素振りも見せない太陽が僕らを照らして頭が熱い。早く終われ……。

「ふ……」

 やっと終わった。暑いのもあったが、眠気も酷かった。途中意識を失っていたかもしれない。

 次は準備体操だ。少し広がって数名の生徒が前に立ち、例の音楽が流れる。この音楽が耳に入っただけで拒絶反応を起こすのは僕だけではないだろう。運動の準備をする体操はしたくない。

 終わってからふと横を見れば、ぐったりしている女子生徒がいた。猛暑のなか長い話を聞かされ、体操をさせられたからだろうな。

「おい、大丈夫か。聞こえるか」

 そっと近寄った。返事がない。かなり危ない状況かもしれない。

『生徒退場』

 周りでは退場する準備として駆け足踏みをしている。そんななか周りを見渡して近くにいた先生と目を合わせた。僕に気づいた先生は状況を理解したのか駆けてくれる。

「体調悪いみたいで」

 周りの生徒が僕らを避けて退場していった。生徒がいなくなった今ではかなり目立つだろう。目立ちたくはない。早く去りたいが、今はこいつを……。

「あなたは大丈夫?」

「はい。僕は」

「なら、もう戻りなさい。あとは先生がしますから。教えてくれてありがとうね。そのまま直進で、退場門潜らなくていいからね」

 先生が生徒を支えながら離れていった。一人でグランドの中央に立っているのはさすがに恥ずかしい。駆け足でクラス席がある場所へ戻り、後ろのほうの空いているギルの隣に座り込んだ。

 かなり走ったわけでもないのに息が切れる。こういうときに体力不足は困る。

「れーくんをおかえり。どうしたの?」

「……隣にいた……奴」

「ああ、息整ってからでいいよ。ごめんね」

 言われた通り息を整えさせた。僕も進んで息を切らした状態で話しはしたくない。

 息を整えてから口を開く。

「……隣の奴が体調悪そうにしていたから。あの感じきっと熱中症だろうな。顔が赤かった。それにきっと意識が朦朧としていたんだろう。そのうち救急車のサイレンの音が聞こえるんじゃないか」

「え、そんなに酷いの? 大丈夫かな……。れーくんも気をつけてよ? 毎年なりかけたりなったりしてるんだから……」

「どうだか」

「気をつけなさい」

 ポンと頭に手を置かれる。

「気をつけないと、よしよししないよ」

 そして頭を大きく左右に動かされる。

「よしよしなんか……それよりやめろ。酔う、ほんとに」

「あはは、ごめんごめん」

 解放された……。気持ち悪い……。胸の不快感を抱いたので深呼吸をして少し落ち着かせる。もっと新鮮な空気だとよく効くんだが。

 ギルが「まあ」と続ける。

「校長先生の話長かったもんね」

「……途中寝ていたかもしれない」

「そんなに? 確かに眠たかったけど、あくびするくらいだったよ? もしかしてれーくん寝不足だったり……?」

「……寝不足ほどではないが、昨日は遅くまで本を読んでた。つい面白くてな」

「もー面白いのは仕方ないけど、次の日なにがあるかって考えないと」

 この顔は、少しばかり怒っている顔だ。

 次の日は体育祭があるが、休むからいいだろう。そう思っての行動だ。考えてはいたんだ。今学校にいるのが想定外なんだ。

「……俺にとってれーくんは、一生の借りがある恩人で友だちで親友で、絶対に手放したくない存在なの。だから……その、もっと自分を大切にしてほしい……な」

 ギルからこういった言葉はあまり聞かない。だが、こうして今言ったんだ。相当な心配やらをかけてしまっているのだろう。

「気をつけるようにはする」

「うん。俺縛られるのはあんまり好きじゃないかられーくんを縛ったりはしたくないんだけど……それでも最低限は配慮してほしいな」

 守れる自信がなく、頷きはしなかった。間もなくして流れた放送によってその話は自然と終わる。

 一生の……か。助けた憶えはないんだが。逆に僕が救われたというか、なんというか……。

 空を見てみれば雲一つなく快晴で、太陽からの光が痛くも感じてくる。なにもしていないのに汗が│にじんで、次第に肌を伝って不快極まりない。

 夏の存在に苛立ちを抱いて一つ溜息を吐く。長い一日の始まりだ。


 次の種目は二〇〇m走だ。これにはギルが出るようで、今入場門まで行った。入場門で待つギルは、緊張しているのか、じっと立っている。いつも僕の周りでは動き回っているのに。そんなギルの様子を見ていた。

 この体育祭では一人三種目は出なければならない。もちろん人数制限は設けられている。二年の場合、二年全体のリレーがあって絶対二年全員が出る必要がある。だから、それ以外にあと二つ出なければならないということになる。

 僕は二年全体リレーの他に、午前の部では借り物競走、午後の部では障害物競走に出ることになっている。どれも余りものだ。どれで走っても最下位は決まっているので、適当に余ったものを選んだ。

 放送が流れる。

『次の種目、二〇〇m走の出場者は入場してください』

 音楽とともにこれから二〇〇mを走る者が出てくる。立ち位置まで来たら一番前の走者とその次の走者以外は座る。

 ギルは二年の枠のB組の中で一番始めだ。初めは一年が走るようだ。

 ピストルの音が何発か聞いたあと、ギルの番だ。

 体育教師がグランドによく響く声で合図する。

「位置について……よーい」

 ――パンッ

 ピストルが鳴り響くと同時に走りだし、歓声が飛ぶ。

 このグランドはトラック一周で二〇〇mに値する。そのせいで、体育のときは軽く地獄を見る。

 走者が二年B組の前を通るたびに周りはうるさくなる。そんななか、ギルが二年B組の前を通っていき、一年の時よりも大きな盛り上がりを見せていた。そして誰を抜かすこともなく、抜かされることもなくゴール。

 ギルは一位らしい。一位の旗の列に座った。おめでたい。クラスの優勝を思っての言葉ではない。ギル個人に向けた言葉だ。クラスの優勝なんて、これっぽっちも興味ない。

 ギルが走り終わってからは知らない奴ばかりなので見なかった。誰が勝っても興味ない。僕はギルだけが目的だったんだ。

 未読の小説の話の内容を想像していたら二〇〇m走の出場者の退場が放送でかかった。そして次の玉入れを参加する者の入場がかけられる。

 少ししてギルが戻ってきた。

「お疲れさま」

 左に寄ってギルに座る場所を空ければ、そこに座り込む。

「ありがと。俺が走るの見てくれてた?」

「ギル以外見ていない」

 見たところで誰なのかわからないし、ただ僕の運動能力のなさを見せつけられるだけだ。

 それだけなのに、言葉を聞いたギルはなぜか少し顔を赤くする。

「その言い方はズルいよ」

 なにが。

 ここの席は後ろのほうであまり見やすいというわけではない。ギルが少し背を伸ばしている。

 僕はべつにこの玉入れに興味がないので目を│つぶって待つことにした。眠気に誘われる。


 どうやら寝ていたらしい。急に声をかけられ、驚いて少し体が動いた。

「れーくん!」

 声のしたほうを見てみるとギルがいた。なぜか椅子が並んでいない通路に立って。

「お願い! 次の種目代わりに出れないかな……」

「次の種目は……」

「二人三脚。代われないかな」

「人が代わっても大丈夫なのか」

「いや、代わるのは俺じゃなくて、俺と走る相方と代わってほしいんだ」

 相方は休みなのか……。

「補欠は」

「前の種目で怪我しちゃったみたいで……」

「……僕は素人だが」

「俺らの絆なら大丈夫だよ!」

 ギルが食い気味にガッツポーズをして見せる。情熱的でいいことだ。補欠もいないとなれば……。

「仕方がない」

「ありがとうれーくん様、神様、れーくん様!」

 ……仏はどこ行った。それに僕をそんなところに並べるな、二人も。

 とにかく出ると決めたんだ。ギルが困っているのにほうっておけない。それにいい眠気覚ましになるだろう。

 入場口へ行くと各ペア一本ずつ紐が渡された。周りを見てみればもう着け始めていた。

「これ、もう着けるのか」

「うん。着けて入場退場」

「初めからハードだな」

「そうなんだよ」

 そう言いながらギルは、僕の左足と自分の右足に紐を通して器用に結ぶ。結ばれた左足は違和感しかなく、この状態で走るのかといまさら実感する。転ばないように気をつけよう。

 間もなくし、入場の放送が流れた。

『次の種目は二人三脚です。出場者は入場してください』

「れーくん真ん中の足からいくよ。せーの」

 合図で慎重に走りだし、並んで待つ。さっきの走りだしでなんとなくコツは│つかんだ。コツはタイミング、歩幅をずらさないことだな。

 今回は前のほうだったからすぐに僕らの番が来た。二人三脚なんて初めてで転ばないかすごく不安だ。転んでしまえば、ギルに怪我をさせてしまうかもしれないし、クラスに迷惑をかける。……いや、迷惑はべつに思っていなかった。今付け足した。

 白線に立てば、心臓がうるさく鳴っていることに気づく。

「真ん中からね」

「位置について。よーい」

「せー」

 ――パンッ

「の!」

 ギルのおかげで、無事合図とともに走りだせた。

 二人三脚は一〇〇m走らなければならない。僕は体力測定の五〇m走を走り終えたら、かなり息が上がる。つまり、今回の一〇〇mを走る際も、五〇m通過頃にはかなり息が上がっていた。

 僕と違ってギルは小さな息をして僕に歩幅を合わせてくれている。どこかのクラスの走者に抜かれてしまうかもしれないと思い、胸を張ってスピードをつけようと思ったが、気づいたギルが言う。

「いいよ……自分のペースで」

「…………」

 そうだ、これは歩幅を合わせて走るものだ。なにを勘違いしていた。

 走っているなかでも声を出せる余裕さ。さすが元運動部だ。四年間帰宅部の奴とは違うな。

 喉を軽く乾燥させていることに気づき、唾を飲んで潤す。顔を上げれば、目の前にはゴールテープが見えていた。そこにめがけて気を抜かず走り抜ける。

「ふ……」

 走り終えた。早まっていた鼓動が減退していく。

「れーくんほんとありがとね」

「眠気が覚ませた。構わない」

 他の走者が走り終えたあと退場がかかり、のんびりと戻った。後ろのほうの席に座れば水分補給をしていく。

 飲み終えたあとに気づいたが、ペットボトルが買った時よりもずいぶんと軽くなっている。新しく買う必要があるのかもしれない。

 陽が昇って気温が高くなってきた。暑さで脳がやられそうだ。真夏ではさらに気温が高くなると思えば、家から出たくなくなる。

 次は綱引きだ。これには力に自信がある男子生徒が出場する。ギルは体力には自信があるらしいが、力には自信がないらしく、出ていない。僕は論外だ。

「面白そうなの見れそうだね」

「去年はなかったからな」

 綱引きは今回初めて見る。どこかの人らとどこかの人らで太い縄の隣に立ち、合図を待っている。どこか真剣さを感じた。剣道や弓道などの開始後の集中力を真似たような静けさだ。

 合図が出されたら、勢いよく引っ張られていく。あそこに僕が出ていれば立って引くことすらできず、床に叩きつけられていただろう。

 体育祭に参加意欲があるギルは横で騒いでいる。「いけいけー!」とか「頑張れー!」とか「おぉー!」とか。

 その隣で一つあくびをした。

 ふと僕の出る種目はあとどれくらいなのかと、ギルが手にしていたしおりを見せてもらう。次は、借り物競走……。僕が出る種目じゃないか。入場口に行かなければ。

 しおりをギルに返して立ち上がる。

「トイレ?」

「いや、次出る」

「あ、そうだっ……け? ……あぁ、借り物競走か。頑張って!」

 手を払う仕草で誤魔化した。頑張る気はない。

 入場口に行けば、もうほとんどが並んでいた。遅くに来た僕に気づいてかどこかから「遅い! 早く並べ!」という声が飛んだ。悪かったな。

 綱引きに出ている者が退場し、借り物競走に出場する者が入場していく。僕は列の前から三番目に並んで座る。少しばかり心臓がうるさい。

 借り物競走は、真っ直ぐ走ったところの机の上に置かれている箱から紙を一枚取り出して、書かれているモノや人を持ったり連れたりしてゴールまで走る。書かれている内容はもちろん知らされていない。ヘンなものが書かれていなければいいのだが。

 順番が来た。立ち上がって白線のそばに手を着き。深い溜息を吐く。

「位置について……よーい」

 ――パンッ

 ピストルの音と同時に走りだし、机の前まで来て箱に手を突っ込み、一番上にあった一枚の紙を取って広げる。

「……は?」

 お題を見れば思わず声を漏らした。誰だこんなお題を考えた奴。

 周りを見渡せば走者は観客に向けて走りだして、声を上げている。僕も早く連れ出さないとなんだが……。そう思っているなか、一つの声が聞こえた。

「れーくん頑張れー!」

 声がしたほうに目を向ければ、

「……ふっ」

 いるじゃないか、あそこに。僕は二年B組の席へ走りだした。そこに近づけばクラスの奴らが騒ぎだす。「こっち来たぞ!」とか「きゃー!」とか「なに借りるんだ!」とか。

 そんななか、僕はある一人に目を合わせた。目が合ったそいつは「俺?」とでも言いたげな顔をして自分を指差している。僕は頷いて手招きする。

「こっち来い」

 こんなクラスの前に立つことなんてないから少しと言わずかなり鼓動が速い。だが、目的はこいつなんだ。早く連れて前に立つのをやめよう。

 長椅子の間を抜けて奴は来た。

「れーくんほんとに俺なの?」

「ああ。行くぞ」

 結果は最下位だった。最下位の旗があるところまで行って座り込む。紙を見てから走りだすのが遅かったからだろう。だが走り切れたんだ。褒めてもいいだろう。

「はぁ……はぁ……」

「ねえれーくん。……ほんとに俺で……よかったの……?」

 グランドの端から端まで走って、どちらも息が切れている。一つ頷いてから、息を整えた。

「お題なんてあったの?」

「これだ」

 僕は持っていた紙を見せた。

「……え! どういう……こと……?」

 ギルの顔を見れば少しばかり赤らめていた。

 僕が取った紙には、

「なんで『好きな人』で俺なの……?」

 そう書かれていた。

「絶対ゴールの時紙見せた先生に誤解されちゃったじゃん!」

「なぜそう捉えるんだ。『好きな人』とは書いてあるが、どこにも恋愛対象でなんて書いてないだろ」

「あ……あぁ、そ、そっか。そうだよね。びっくりしたー」

「それに、恋愛対象として好きな相手がいない奴、僕みたいな奴ならこれを引いたところで連れて来れないだろ」

 そういうところはきちんと配慮されている。

「あははは。そうだね。れーくん好きな子いないもんね」

「お互い様だ」

 取った紙を係員に渡してもうしばらく座って待つ。あまり長い時間ではなかったと思うが、かなり長い時間待った気がした。なにより、暑くてか息苦しい。

 出場者の退場がかけられて立ち上がる。そのとき立ちくらみが生じ、

「っ……大丈夫?」

「悪い。軽い立ちくらみだ」

 ギルに軽く当たってしまった。すぐにバランスを取って自立する。周りの人と合わせて退場門に向かった。

「はぁー、まさか俺が呼ばれるとは思ってなかったなー」

「…………」

「……れー」

「二年生は次全体リレーだから水分補給して並べー」

 ギルの言葉を遮って先生が言う。連続で出るのか。適当になんて選ばなければよかった。少し……体が無理だと訴えているようだ。

 周りの二年生が入場口に向かっていく。

「僕らも行こうか」

「……うん」

 向かって順番に並んで待っていれば、数人挟んだところにいるギルに一歩近づいて声をかけられる。どこか不安そうな顔をしていた。

「れーくん大丈夫? なんか顔色悪い気がするんだけど……」

「どう見てそう思った。それに始まる。……心配するな」

「……そう? なにかあったら」

『次の種目は二年全体リレーです。二年生は入場してください』

 ギルの言葉を遮って入場がかけられる。ギルは、まだ言い足りなさそうな顔をしながらも前を向いた。

 二年の全体リレーは、トラック一周で二人の走者が走る。つまり、一人一〇〇m走ることになっている。トラックの直線部分でバトンパスをされて走り、再び来る直線部分でバトンパスをして走り終える。

 走者順で投資番号を振ったとき、奇数になる者がトラックの前側、偶数になる者が後ろ側になっている。もとからそれぞれ分かれて並んでいるので、入場後はそれぞれの場所でしゃがんで待つ。

 二年生の全体リレーはクラス対抗だ。他クラスに足の速い奴がいるとか教室で何度か聞いたことがあるが、誰だかは知らない。

 入場後、初めの走者と次の走者が位置に着く。そして、グランドに響いた発砲音のあと、走者が走りだすと同時に歓声が飛んだ。

 僕の順番は中間より少し前だ。少しだけ待つことになるだろう。目を瞑る。これ以上、体の異常を悪化させまいと。

 さっきから、体がなにか訴えている。息苦しさや頭痛、貧血のような感覚で訴えてきている。だが、入場した今、抜けることなんてできない。僕は自分の番で走りきらなければならないんだ。

「れーくん。ほんとに大丈夫なの?」

 目を開ければギルが傍まで来ていた。もうすぐ自分の番だというのに。

「自分のところへ戻れ。さっき大丈夫だと言ったはずだ」

「でも……」

「まずは自分を優先しろ」

 次の走者が待つところが空いたのに気づき、目を向ける。ギルも釣られて見る。

「次だ……」

「行ってこい」

「…………」

「見ててやるから」

「……うん」

 少し心配してそうな顔を貼り付けながらも、そこへ向かった。B組はC組のあと、バトンが渡された。

 バトンを貰ったギルは走っていく。それを目で追い、視界の限界に来れば体を動かして追う。が、そのとき視界がぐるっと回ったような感覚に陥って、地面に尻を付けてしまった。

 落ち着いてから顔を上げて見たらギルを見失った。が、どうやらもうバトンを渡したらしい。走り終えた者が並ぶ列に薄黃色の髪の奴がいた。そして、そいつはこちらに顔を向けていた。目をこらしてみればやはり心配してそうな顔を貼り付けている。

 まだそんな顔をしているのかと思っていれば、すぐ後ろの奴に前に進めと目線で言われたので進んだ。ギルにも後ろに並ぶ奴が出来て姿は見えなくなった。

 立ち上がったときに視界が少し暗くなり、動悸を感じながら待っていた。次は僕の番だ。今度はB組が先頭を走っている。つまり、今はB組が一位だ。大きなプレッシャーがかかる。

 走るラインに立って前の走者が来るのを待つ。見えてきた。タイミングを図って軽く前を向いて走りだす。徐々にスピードを上げれば、「はい!」という合図がかけられてバトンが渡された。僕は走りだしていく。

 大きなカーブを抜ければ次の走者が見えてくる。それと同時に、後ろのほうから足音が聞こえてきた。追いつかれそう……。

 上げれるだけスピードを上げる。だが、それをしたのが間違いだった。スピードを上げたせいで体のバランスを崩して転んでしまった。そして、後ろにいた奴を巻き込んでしまう。

「って……なにしてんだよ!」

 そいつは地面に手を付いたためか、そう言ってすぐに走って行った。僕も早く立ち上がって走りだそうとするが、思わぬ痛みが足に走り、再び地面に膝を付けそうになる。なんとか耐えるが、数人に追い抜かれてしまった。さっき巻き込んでしまった奴に足を踏まれたからだろう。痛みに耐えながら走りだした。

 バトンを渡してからは、トラックに入って膝に手を付きながら呼吸を整えていた。心臓がうるさく鳴って吐き気がする。走ったせいで悪化させてしまったのだろう。だが、このリレーを走り切れたんだ。一件落着だ。

「れーくん」

 その声に顔を上げようとすれば、一瞬意識が飛びそうになって倒れそうになったのを踏ん張る。

「わっ……。れーくん、ほんとに」

「大丈夫だ。……ギルは心配しすぎ……なんだ……」

 気持ち悪い……。

「とにかく座って」

 座るよう促され、地面に尻を付けて座った。顔を伏せてギルから見えないようにする。

 ギルは転んだ時に付いた砂をはたいて取ってくれているみたいだ。

 この感じきっと、熱中症にでもなった。今の顔面は蒼白になっているだろう。ギルにそんなの見せれば……。

「列に並んでください」

 誰かが言った。きっとここを指揮する他学年の体育委員だろう。

「立てる?」

 無理やり立ち上がって列の場所を確認する。そのとき運悪くギルに顔を見られたらしい。

「えっ、れーくん顔真っ白だよ!」

「……気のせいだ」

 列の場所を確認すればそこへ行き、座り込む。いまだに頭痛と胸の不快感を与えられる。

「気のせいじゃないよ! 先生呼ばなきゃ」

「呼ばなくて……いい」

 視界が暗くなっていく。片足を立ててそこに腕を置いて顔を覆い隠す。同時に胸の不快感のあまり、胸を押さえていた。

「大丈夫ですか」

 ギルが呼んだのだろう。大人の声が聞こえる。

「はい……」

「大丈夫じゃないでしょ! 嘘吐かないで!」

 ギルに反論されて、顔を覆いかぶせている腕を無理やり解かれて顔の色を見せられる。光が眩しくてか目を細める。

「真っ青じゃないですか! とにかく、救護所に行きましょう。立てますか」

 ギルが早く立てと言わんばかりに腕を引いてくるので、立ち上がる。先生に背中を支えられながらどこかへ向かっていく。前を見る気力はなく、下を向いたままだった。

 日陰に入ったと思えば長椅子に座らされ、鞄の位置を教えるよう言われる。水分補給のために水分を持ってくるのだろう。僕の場合水のペットボトルだ。

 待っているとき、どこかから濡れたタオルが渡された。冷たくて肌によく染みる。けど汗を拭う気力もなくて脚に置いただけだった。

「新藤くんじゃないの」

 この声は……誰だか。重い頭を上げて見てみる。長い髪をだらしない団子にした女性、保健室の先生だ。

「っていうか、あなたなんで長袖なんか着てるの? ズボンも長いのだし……」

「…………」

 袖をまくられながら言う。

 保健室の先生は僕が一年のときに何度かお世話になった。二年になってからは初めてだ。

 持ってきたペットボトルの水をすぐ飲むように言われる。が、僕にはそれほどの気力はなかった。

「そんなに動けない? はぁ、長袖長ズボンで来るからよ……」

 呆れられながら持っていたペットボトルを取られ、キャップを開けられた状態で返ってきた。

「頑張って飲みなさい。それすらもできなかったら救急車呼ぶことになるの」

 さすがに呼ばれるのは面倒だ。半分脅しのようなものだが、口に注いでいく。

「汗も拭いて」

 脚に置いていた濡れたタオルを顔中に押し当てられる。冷たくて気持ちいい……。

「体熱いしこの気温じゃきっと熱中症ね。少し待ってれば良くなると思うから……いや、それか冷房ついてる保健室行く? どうせ競技見るつもりないんでしょ? 誰もベッド使ってないから」

「……どっちでもいいです」

「なら行こっか。立てる?」


 僕は保健室まで連れられ、ジャージを脱がされ、ズボンを軽く折り込まれ、ベッドに寝転んでろと言われた。体育祭のあと生徒に配られるスポーツドリンクの余りものを開けて飲まされる。さっき水も飲んだから腹の中が水浸しだ。

 今は濡れたタオルを額や首に巻かれながら寝転んでいる。だが、冷房が少し寒く感じており、腹まで掛け布団を掛けることを許可されて掛けている。

「どう? もうお昼だけど」

 ずいぶんと時間が経っていたらしく、もう昼だそうだ。シャッとカーテンを開けた音がしたあとそう言われる。僕は瞑っていた目を開けて先生を捕らえた。

「良くなった気がする?」

「……寒いです」

「そんなに寒い? 二十六度なんだけどな」

 腹までしか掛けていなかった掛け布団もいつの間にか肩まで上ってきている。代わりに額や首に巻かれていた濡れタオルがズレ落ちている。いや、体が横を向いているから当然だ。

「……体温高いのに寒いって、インフルにでもかかった?」

 額を触ったあと笑いながら言う。

「熱中症ならすぐ体温下がると思ってたんだけど、しばらくしても下がらないわね。とりあえず熱あるなら測ろっか」

 体温計を渡される。が、寒くてか気力がなくてか動けず、袖から体温計を入れて無理やり脇に挟まれた。

「セクハラで訴えましょうか……」

「あなたが動く気ないからでしょうが。あなたが生徒じゃなければビンタしてたところよ」

「…………」

「急に黙り込まないでよ。怖いでしょ」

 喋る気力もなくなってきた。

 体温計が鳴って取られる。

「あら、七度九分もあるじゃない。下がらなかったら親御さんに迎えに来てもらわないと」

「いないですよ。……仕事で。迎えも来れません」

 喋る気力がなくなってきたが、これは言っておかないと、亡き者を一生待ち続けることになっていた。

「なので、帰るとなれば僕だけで……」

「うーん。とにかくあと少しだけいる? 下がるまで。……いや、上がったときにはもう遅いわ。もう帰ろっか。親御さんが迎えに来れないならなおさら。帰れるくらいの体力は残してないとちょっと面倒なことになるから」

「……そうですか」

「れーくん!」

 扉がバンッとうるさく開いたかと思うと僕の名を呼ばれる。ギルが来たらしい。先生がカーテンの外に顔を出す。

「あら、英川くん」

「れーくんは?」

「ここよ」

 カーテンをほとんど開けてギルに姿を見せる。ギルは僕の傍に立った。

「わわっ。大丈夫……じゃないよね。早く気づけばよかった……」

 気づかせないようにしていたんだ。運悪く気づかれてしまっただけで。僕も隠すのが下手になったものだ。

「れーくんのお弁当持ってきたんだけど……食べれる?」

 持っていたコンビニの袋を見せてくる。

「どうする? 食べてから帰ってもいいけど」

「……帰るんだ」

 そう言ってほっと安心するような顔になるが、すぐになにかに気がついて不安そうな顔になる。たぶん僕が家に帰れば様子見ができないに加えて、誰かと一緒じゃなくなることがわかっているからこんな顔をするんだろう。ギルは相変わらず心配性だ。

 弁当は食べずに帰ろう。今はそんな気力ない。

「家で食べます」

「そう。なら鞄は先生持ってくるから」

「あ、それなら俺一緒に教室までれーくんの持ってきてるから持ってくるよ」

 ……タメ口?

「お弁当は食べたの?」

「れーくんの様子見るために早く食べたの」

 タメ口だ。仲いいのか?

「そう。じゃあ悪いけど持ってきてくれる?」

「うん」

 ギルは早々に保健室から出ていった。喋る気力はないが、あの話し方が気になる。

「……先生」

「ん? なに?」

「ギルと……仲いいんですか」

「なにか訴えてくるのかと思ったらそこ? ……まあ、いいっちゃいいかな」

「なんで……良くなったんですか……」

「んーっとね」

 廊下を一度見て、差別みたいになっちゃうけど、と続ける。

「あの子、ハーフの子でしょ? でね、私の友だちにハーフの子がいて、よくいじめられててね。それに軽いけど同情したら良くなったわ」

「きっかけは……」

「きっかけはただの荷物運ぶの手伝ってもらっただけよ。そのときにさっきの雑談をして良くなったの。それで過去になにかあったと思うんだけど、保健室着いたら泣きだしちゃってね……。少し大変だったわ。……あなたも英川くんと仲良くしてあげなさいよ」

「……してるつもりでは……あります」

「ならいいわ」

 そうは言っても、引っ付いてきているのはギルのほうだ。離れようとしない。

 しばらく沈黙のあと、ギルが帰ってきた。

「お待たせー。リュック持ってきたよ」

「ありがとう。助かったわ」

 ギルはリュックを最寄りの机に置いて弁当や脱いだジャージも入れる。着て帰りたいなんていまさら言えない。言っても渡してくれなかっただろうが。

「門まで送るよ。立てる?」

「悪いな」

 立ち上がろうとすればギルが支えてくれる。それほど心配なんだろう。昔に食中毒になった時よりは全然マシだから、それほど心配しなくていいんだが。

「家に着いたら学校に連絡してね。しないと家に電話しないといけなくなるから。それでも出なかったら新藤くんの家に誰か先生が行くことになるからね」

「わかってます」

 何度早退する時に言われたことか。一度電話をかけず出られずで忘れていて、本当に誰か先生が来ていたのは忘れない。

「では、ありがとうございました」

 ギルに支えられながら保健室に向きながら言う。先生の「車に気をつけてね。さようなら」という声を聞いたあと、校門まで向かった。

 門の前に行くまでギルはずっと、不安そうな顔でこちらを見てきたので、心配しすぎだと言ってやりたかったが言わないでおいた。実際、心配させているのは確かに僕なんだから。

「じゃあ、気をつけて帰ってね。もしなにかあったらすぐ電話して。俺すぐ行くから」

 本当に優しい奴だ。

「……ありがとう」


 校門をくぐって帰路についた。が、途中で本当に歩けなくなって電柱に支えてもらっていた。本当に動けない。家まであと十五分ほどあるのに……。

 さっきよりも頭痛と吐き気が酷い。近くにコンビニとかもない。頭がクラクラして、歩けばそのまま車に轢かれそうだ……。

「くっそ……」

「どうした君、そんなところで。犬の(くそ)でも踏んだか?」

 その声に顔を上げると灰色のキャップ帽を被った少年……青年……男がいた。だが僕より背が低く、声が少しばかり高い。

「うわっ。すげー死にそうな顔してんじゃん」

「…………」

 誰かに気づいてもらったことによる安心感かなにかで急に脱力感が増して倒れかかったところ、

「っ、ちょっと君!」

 その人に支えてもらった。

「すい……ません」

 脚に力を入れてその人から離れた。

「いいって。とりあえず、公園で休もうぜ」

 その人は親指ですぐ横にある公園を指しながら言った。いつも通学路で横を通る公園だ。

 肩を貸してもらいながら公園のベンチまで行って座らせてもらった。無気力感に襲われてこの人の顔を見ることができない。

「あの、ありがとうございます」

「…………」

 なにかマズいことを言ってしまっただろうか。返事がない。頭が働く感じがしないんだ。ヘンなことを言っていたとしても許してくれ。

「あの」

「君ってすぐそこの高校の子? 橋渡ったところにある学校」

「……はい」

「やっぱりかー。俺もあそこの高校で三年生やってる」

 同じ高校の三年生だったのか。

「先輩……ですね」

「……そうならぁ」

「……サボりですか」

「まーな。だって面倒だし?」

「……同感です」

 体育の授業、体育祭なんかなければいいのに。この十数年間で何度思ったことか。この人とはわかり合えそうだ。

「それよりこれ被っときな」

 頭に帽子を被らされた。生暖かい。

「ちょっと汗とか付いてるけど我慢しな。ここの公園日陰になるベンチないからなぁ」

「……ありがとうございます」

 初対面なのに距離が近いな。少し調子が狂う。

「ジュース買ってくらぁ。なにがいい」

「……要りません」

「……ふーん」

 先輩がなにか言いたそうに席を立って自販機に向かう。自分の飲み物でも買いに行ったのだろう。

 それより僕はこんなところでのんびりしていていいのだろうか。今にでも意識が飛びそうなほどぼーっとしてる。……だが、助けてくれた人に口答えする趣味はない。きっと少しの間だけだ。それくらい大丈夫だ。

 先輩が帰ってきたと思えば、目の前に水の入ったペットボトルを差し出してきた。

「飲みな。先輩だから奢ってやる」

 要らないと言ったのに。

「大丈夫です……」

「はぁー。……飲め。ほんとに死ぬぞ君」

 いきなり強い口調で言われ、少し驚いた。なにされるかわからない。受け取って数口飲む。脅迫された気分だ。

「……ありがとうございます」

 要らないとは言ったが受け取って飲んだんだ。礼はする。

「君の家から学校ってどのくらいかかるんだ」

「……徒歩で二十分ほどです」

「じゃあ俺が送ってやらぁ。君どっかで倒れそうだわ」

「……ありがとう……ございます……」

「にしても、あ?」

 先輩の不思議そうに驚いた声が聞こえたかと思えば、先輩の肩に頭を預けてしまったらしい。気づかない間に……。もう体が保たないと言っているのだろう。

「……すいません」

「いいって。それよりタオルとか持ってないのか? 汗拭いたほうがいい」

「……持ってません」

「持ってねぇか……。なら、どっちにしろ早速家に行こうじゃねぇか。このくそ熱いところにいても……なんもねぇ。ほら、行くぞ」

 公園に誘ったのは先輩なんですが。

 腕を引かれるので脚に力を入れて立ち上がる。気づいたら先輩の首後ろから肩にかけて僕の右腕が置かれており、そのまま歩かれるので黙って公園を出た。

 先輩に体を支えてもらいながらトボトボ道を歩き、静かに隣を付いてきてくれたらいいものの、いちいち聞かれて苛立ちを覚えながら、

「次はどっちだぁ?」

「まだ真っ直ぐです」

「次はぁ」

「……左」

 家に着けば先輩を上がらせた。

 正直、やすやすと見知らぬ人に自分の家を教えていいのか迷ったが、なんだかこの人は信じられる気がした。僕が着る体操着でどこの高校かわかるほどだ。きっと本当に同じ高校の三年生をしているのか、単に高校マニアなのか。可能性はその二つくらいだろう。

 冷房をつけて部屋が涼しくなるまでの間に、冷蔵庫から出したペットボトルに入った水をコップに注ぎ、堂々と食卓椅子に座っていた先輩に出した。見知らぬ家の椅子に堂々と座るのは少し……失礼に思える。

「……どうぞ」

「あぁ、わりぃな」

 受け取った先輩はグビグビと飲んで静かにコップを置いて呟く。

「やっぱ冷えた水はうめぇー」

 新しくコップを出して先輩に奢ってもらった水を注いで数口飲んだ。口を付けたペットボトルは早めに飲んでしまわないと菌が増殖する。

「あ、水。塩とか家にあんだろ? それちょっとだけ入れて飲んどけ」

 あぁ。どこかで見たな。水だけでは意味がないとかなんとか。台所から塩を持ってきて水に適当に振り掛け、それを飲んだ。

 少ししょっぱく、それは飲んでいくたびに濃くなって最後にはからく思うほどだった。入れすぎたかもしれない。そもそも塩は混ぜないと水に溶けるのに時間がかかるじゃないか。いまさら気づいた。

「君、学校に電話しなくていいのかぁ」

 そうだ、しないと。危うくまた同じ目に遭うところだった。

 ポケットからスマホを出して、生徒証明書に書いてある電話番号にかけた。醜い証明写真はあまり見ないようにして。

 一コール目。ニコール目。三コール目。……出ない。出ないのならべつにいいと耳から遠ざけたとき、繋がった。

 先輩と目が合えばなんだか恥ずかしいのか緊張し、背を向けて用件を言う。

「……失礼します」

 手早く切って一息吐いた。やはり電話はかけたくない。

 電話との会話の中に昼食は食べたかなんて質問があって思わず食べたと答たが、まだリュックの中だ。リュックから弁当を取り出して冷蔵庫に入れておいた。弁当と言ってもおにぎり二つだけだが、今は食欲がない。

 入れ終わってから近くの壁にもたれ、改めて先輩の容姿を見る。

「……どっか座るかしろよ」

 ここは僕の家なんだが……。

 言われるがまま先輩の向かいに腰掛けた。

 先輩は僕よりも小柄でダボダボな服で身をまとっている。髪はギルよりも少し短い。ギルがロン毛というわけではないはずだから、この人が短いんだろう。もう少し背が高かったら髪を黒に染めたギルのようだ。ただ、ギルより少し目がキリッとしている。

「なんだよジロジロ見やがって。気持ちわりぃ」

「す、すいません。こういう癖がついていて」

「癖ねぇ。……で、どうだぁ? しんどいのマシになったかぁ?」

「……多少は」

「へー」

 聞いてきたのに……。

 助けてくれた借りはあるが、いつまで居続けるのだろうか。初対面の人間だと少し気が張ってしまう。

「君の親は仕事?」

「……はい」

 存在しないが。いたとしてもどうなんだろうな。この時間は僕も学校に行っていたからわからない。

「なんの仕事してんの?」

「仕事……ですか」

 なんの仕事か。なにをしていただろうか。母親は……。父親は……。わからない。知ろうとも思わなかったから。

「わかりません。仕事の話とか聞きませんから」

「……へー? 知らないんだぁ?」

 普通なら知っているのだろうか。母親は専業主婦とか……父親はサラリーマン……とか……。確証はない。親の仕事なんて知ったところでだ。

 そもそも仕事をしていたのか怪しいところだが、こうして僕のところまで遺産が……全額降りてきたんだ。仕事はしていたのだろう。本当に……馬鹿だ。僕も馬鹿だったのかもしれない。

 中学の頃に親しくしてくれた警部によれば、両親の子供、つまり僕が産まれてしばらくしてから、遺産は全額僕に渡るようにしたらしい。本当に馬鹿だ。

「ところで横にならなくていいのか? 顔真っ赤だぞ。熱あんのか?」

 先輩が身を乗りだして僕の額を触ろうとするが、僕の体はなぜか引き下がった。過去に引きずられてか、ただ見知らぬ人に触れられたくなかったのか。

「……あ?」

「いや、勝手に……すいません」

「意味わかんねぇ」

 拒絶反応を起こしながらも先輩に額を触られた。冷房に浸った先輩の手は冷たく、ひんやりと肌に滲む。

「やっぱ熱あんじゃん。ソファーにでも寝転べよ」

 だから僕の家なんだが。

 でも、寝転びたいのは確かだ。席を立ってソファーに寝転びに行った。

 時刻は二時前。いつまで客はいるのだろうか。

「ところで先輩……いつまでいるんですか……」

「いつまでって親が帰ってくるまでだろ」

「親が……」

 帰ってくるはずもない人を待ち続けるのか……。そのうち僕の家に居候でもしそうだな。

「俺の親は俺が自由すぎてもう諦めてらぁ。俺家の鍵持ってるし。だから帰ってくるまで待ってやらぁ」

「……帰ってくるの遅いですよ」

「いいぜ。いつまでも待ってやらぁ。どうせ家帰ってもぐちぐちうるせぇ親しかいねぇんだから」

「…………」

 すごく面倒なことになった。本当に居候する気だ。どうするか……。きっとギルは家に来るだろうから、そのときに出ていってもらうか。友人が来たからもういいと言って。僕の両親がいないことを知るのはギル、その両親くらいだ。

 とりあえず時間が経つのを待とう。

「君、なんで俺がここまでするか気にならねぇか?」

 返事を聞かずにべらべらと語りだす。先輩から見て僕が聞いてるのかわからないだろうに。僕は目を瞑って黙って聞くことにした。

「俺の親父は医者でな、何人もの命を救ってきたんだ。そいつが言ったんだ。自分の知識を使って人を救うことができるなんて、素敵なことだと思わないか。お前も少しは知識を付けて友だちを助けてやれってな。そう言われて病気とか怪我についてちょっと興味持ったんだ。それから調べていくうちに知識が付いて、いざ手当てして感謝されたらすっげー嬉しくなってよ。だからこうして今も看病しているんだ」

「……素敵ですね」

「まあ、俺に友だちなんて言える奴いねぇから、そこら辺の公園で怪我した子供を手当てしたんだけどな」

 ……見知らぬ男に手当てされると思えば、少しと言わずかなり怖いだろうな。よく嫌がられなかったな。そう│しんちゅうでツッコミを入れながらも黙って続きを聞いた。

「けどよ、医者になりたいとは思わねぇ」

「…………」

「医者が人の命を救うのはもちろんなんだ。だけどその逆も存在する。人の命を奪うときだってある。もしそうなれば気持ち悪くて吐いちまう」

「……なりたい者になればいいと思います」

「もとからそうするつもりだ」

 それになれるかは自分の努力次第だがな。

 僕はなりたい者になれるだろうか。そもそも僕になりたい者なんてあるのだろうか。

 なにかになりたいなんて未来を見つめるのも、ああすればよかったと後悔する過去を振り返るのも、苦しくて見続けたいのは今だけだ。

 だが、いつか未来のことを考えなければならない時も出てくるし、過去を掘り返さなければならない時もある。人生は複雑な道でできている。

「…………」

 なんだか少し疲れたな。寝たい。が、寝ている間に先輩に家中を探索されたりしては面倒だ。するという確証があるわけでもないが、少しばかり疑ってしまう。……僕のことを聞いてくれるだろうか。

「……先輩、絶対に二階に行かないでください」

「急にどうした。そんな常識ねぇことしねぇよ」

 しないか。……本当か? 心配だな。

「それより寝なくていいのか? さっきよりもずいぶん声量落ちてんぞ」

 僕でも気づいている。だからより欲求を満たしたいんだ。

「……少し寝ますので……二階には行かないでください。トイレは玄関に続く廊下にある扉です。……なにかあれば……起こしてください……」

「おうおう。……ゆっくり休め」

 目を瞑ればすぐに眠りについていた。


 体が妙に熱くて目が覚める。汗をかいて服がびっしょりだ。すごく不快で着替えたい。けど、冷房のついたリビングだとすぐ乾くだろう。

 物静かで人がいないように感じる。体を起こして見たが、最後に見た時にはいた食卓椅子にも、他のリビングやキッチンにも先輩の姿はない。

「せんぱ……い……」

 なんだ、さっきよりも喉が痛む。口を開けて寝てしまっていたのだろうか。あとでのど飴を舐めておこう。

 先輩はどこにいるんだ。トイレか? それとも家を探索して……。ソファーから立ち上がり、揺れる体でトイレの前に立った。疑う前に確認だ。

「せ、先輩……いますか……」

「おーいるぞ。勝手に使わせてもらってんぞ」

 いた。僕が疑いすぎたのかもしれない。

 ソファーに戻り、だるむ体を寝転ばせた。

 それにしても様態が悪化している。寝る前までなかった咳と鼻水が出てきた。熱中症じゃないのか? 夏風邪か? それか他の……。いや、思いつかない。

 病院に行くべきなんだろうが、少し面倒臭い。感染症の可能性があるのにバスやタクシーといった交通機関を使うわけにもいかない。徒歩しか移動手段がない僕には少し手間のかかる行動だ。

 ……腹の調子も良くないみたいだ。腹に違和感を覚える。本当に熱中症や夏風邪なのか? それとも単に腹を冷やしたか……。

 少しして先輩がトイレから出てきた。ソファーまで来て顔を背もたれから覗かせる。

「君。今の症状教えてみろ。それでなにか特定してやらぁ」

 先輩が医者を真似たようなことを言う。あまり信用するつもりはないが、言わなければなにかされそうだ。例えば殴られるとか。……ないか。

「……頭痛が酷くて、他に喉の痛みと鼻水……。腹の調子も悪いです」

「んで熱もあるんだろ?」

 そう言いながら僕の額を触る。

「ってかさっきより熱くなってんじゃねぇか。休んどけよ」

「休みますけど、先にトイレ……」

「おう、行ってこい」

 医者の許可を得てトイレに籠もることにした。

 出そうで出なさそうで、腹が痛くなり痛くなくなりを繰り返して、十五分ほどは籠もっていた。かなり長くなってしまった。

 トイレから出ると医者が堂々たる仁王立ちで目の前に立っていた。

「俺の知識だと君はインフルエンザだ。型はちーっとわかんねぇけど」

 ……急になにを言ってるんだ? インフルエンザ? ……あぁ、さっき言っていた症状から感染症等を本当に考えてたのか。

 夏だからインフルエンザという選択肢は想像がつかなかった。さすが医者の息子というか。

「そうですか」

 まあ、知ったところでだが。

「だから安静にしておくように。……それか病院今から行くか? 連れてってやるぞ」

「いや、大丈夫です」

 素直に面倒臭い。

 それにそのうち治る。いつもそうだったように。


 医者の命令でソファーで横になるようにと言われ、今こうして仰向けになって目も瞑ってもいる。

「冷却ジェルシートとかねぇの? ほら冷蔵庫とかに入れてるおでことかに貼るやつ」

「……ないです」

 この前ギルに使われて切らしたところだ。使われてと言っても、貼られたのは僕の額に、だが。

「じゃあ使えるタオルどこ」

「タオルなら洗面所に」

「あっす」

 あっす……?

 少し時間が経てば、髪を掻き上げられて額に冷たいものが載る。なにかと目を細く開け、問う前に言われる。

「こうしたほうが楽だろ」

「……ありがとうございます」

 僕はそれを押さえるように右腕を置く。どうやら濡らしたタオルらしい。ひんやりしていて気持ちいい。

 再び目を閉じた。

 この先輩をどう追いだすか考えよう。そうだな……。

 考えようと思えば、突然先輩が僕の胸に手を押し当ててきた。押し当てられているとわかってからは、目を開けて先輩を視界に捕らえる。

「……セクハラですか」

「ち、違うわ! ……俺は人の鼓動が好きなんだ。今目の前に人がいるって、生きてるって実感が湧くんだ。……だってよ、人が死んじまったらこの音、この動き、一切しないんだわ。そりゃ、悲しくなるわ」

「……生者の所有物ですね」

「ああ。俺はこれを大切にしたい。……おもしれぇだろ」

「……すごく」

 この人はどこか、他の人とは違う考えを持っているような気がする。こういう人の思考を探りたいと思う僕の好奇心も異常なのだろう。

「ま、今の君の場合、健康人よりちょっとはえぇから気持ちわりぃが、動いてるだけマシだ。もうすぐ寿命とか病気で死ぬ奴のほうがキメェ。……どんどん音が小さくなっていって……気づいたら動かなくなって……。あの感覚は……」

「死の音……ですかね」

「かもな……」

 沈黙が流れ始め、目を瞑ろうとすれば「それにしても」と先輩が続ける。

「君の呼吸浅くねぇか? 胸と腹、全然動いてねぇじゃねぇか。もっと深く呼吸してみろよ」

 無茶振りだ。いつもこれくらいなのに。

 言われた通り大きく息を吸って、ゆっくり息を吐く。言わば深呼吸をした。

「そうそう。それを繰り返して」

 それを繰り返す。が、途中微かな眠気のせいか、

「……すぅー……はぁ……すぅー……ふあぁ……」

「ははは! それちょー面白い!」

 息を吐くときにあくびが出てきた。無礼を働かないようとっさに口を手で覆い隠したが、これはきっと僕の羞恥心隠しでもある。

「……すいません」

「なんで謝ってんだよ。眠いんなら寝ろよ。欲求を満たさないなんて損だぞ」

「……そうですか」

 僕も寝れるのなら寝たい。が、先輩(あなた)がなにかしないかと疑ってるんですよ。わかりますか。

 名前も知らない人を疑わないなんて、できるわけがない。……名前。

「……そういえば、お名前をまだ聞いていませんでしたね」

「名前か。……俺は名乗るほどの者じゃねぇんだ。黙秘といこうじゃねぇか」

「…………」

 そういう選択肢もあるのか。

「……なら僕も。……あまり重要なことではないと思いますし」

 名前がなくとも代名詞で過ごせる。なにより個人情報だからな。

 それ以来ずっと静寂だった。口元を手で隠しながらあくびをして目を瞑る。眠たい。

 眠たくて寝ようとするが、気になっていたことを思いだして薄く目を開けた。それ以外にもさっきから先輩に腕から胸、腹、太ももと体をベタベタ触られていて気になったのもある。酷くくすぐったい。

「あの、なんですか」

「お、起きて……んでもねぇ」

 なにもなかったかのようにそっぽを向くので、今度こそはセクハラで訴えてもよさそうだ。けど、あいにくスマホは食卓テーブルの上にあって電話をかけられない。残念だ。

 気を取り直して、気になったことを聞くことにした。少し前から気になっていたことだ。

「……先輩、少し気になったんですけど……」

「なんだぁ?」

 まだそっぽを向いて聞く気はなさそうだ。それでも続けた。

「……先輩って女性なんですか」

 言葉を聞いた時には驚いたように体を動かし、諦めたような顔を僕に向ける。

 身長の差は誰にだってあって、それは男女の関係はない。多少はあったりするが。だが、声の高低や喉仏が見えるか否かはだいたい男女で関係してくる。

「気づいてたかぁー。まあな」

 やはりそうなのか……。僕は基本男女それぞれをどうと見ているわけではないが、このモヤモヤを晴らしたかった。かなり失礼なことを言ってしまったのは確かだ。

「俺は女だぁ。べつに隠してるってわけでもねぇけど、こっちのほうがやりやすいっていうかねぇ」

 これで先輩が僕の額に触ろうとした時、拒絶反応を起こした理由がわかった。僕は過去を引きずって少しばかり女が苦手だ。

「男特有のやつはねぇけど女特有のやつは付いてる。正真正銘女だ。邪魔くせぇこれ取れるから取りてぇんだけどよ、親父が許してくれねぇんだわ。『お前は女だ!』って言ってよ。笑っちまうだろ」

「……干渉は嫌いです」

「だよなぁ。俺も大っ嫌いだぁ」

「……そのような生き方、いいと思いますよ」

 誰かに縛られることなく生きれるなんて。過去の僕に教えてやりたい。自分の人生は自分で決めろって。そうすれば、苦しむことなんてなかっただろうに。

 先輩は軽く笑みを作って続ける。

「俺の生き方に賛成の奴、君が初めてだぁ。なんか嬉しいわ。ありがとうな」

「…………」

 感謝されることをした憶えはない。

 もう話すことはなくなって僕は黙り込む。先輩も話すことがなくなったのか視界から消えた。それと同時に玄関のほうから鍵の開ける音が聞こえた。体育祭が終わってギルが家に来たようだ。

 立ち上がって玄関まで出迎える。

「あ、れーくん。わざわざ出迎えてくれなくてよかったのに……。具合はどう? 良くなった?」

「ああ。先輩のおかげでな」

「先輩? 四年間帰宅部のれーくんに先輩?」

「……とりあえず中に入れ」

「うん」

 汗で肌に髪を付けて、なぜか軽く息を切らしているギルを家に招いた。外はきっと酷暑だったのだろう。普段のギルは白い綺麗な肌をしているが今は少しばかり赤い気がする。

 短い廊下から出れば先輩がいることに気づいたらしく、手首を掴まれながら食卓テーブルに近づく。少し緊張しているようだ。

「えっと。……こ、こんにちは……」

「よぉ。邪魔してんぞ」

 僕が先輩の向かいに座ればギルは少し抵抗気味に横に浅く座った。

「……こんにちは……」

「それさっきも聞いたぞぉ。っていうかさ、君ハーフなんだぁ?」

「……は、はい」

 机の下でギルに手を握られる。チラリと目でギルを見た。

「あのせんぱ」

「うちの学校髪染めるの禁止だもんな。初めてハーフの人と話したわ。やっぱ日本語上手いなぁ。どこの国と?」

「……い、イギリスです」

「英語は喋れるのか?」

 ギルは横に頭を振る。

「耳に着いてんのピアスか。いいなぁー。俺も今から着けてもバレねぇかな。……色白で顔面もガイジン寄りで鼻高いよなぁ。名前もやっぱりガイジンみたいな名前なのか? なんて言うんだ?」

 ギルはより強く僕の手を握る。

「先輩。……もう質問はいいですよね」

 ギルが可哀想だ。早く止めればよかった。

「……あぁ、そうだな」

「部屋に行こうか」

「……うん」

 すでに泣きそうな声で返事をした。先輩に悪気はないだろうが、ハーフの人にはよくあることだ。これと一生付き合っていかなければならない。

 震える手を握って僕の部屋に入れた。

「すぐ追いだすからちょっと待ってろ」

「ううん。ゆっくりでいいよ。……あの人、恩人なんでしょ? さっき『先輩のおかげ』って言ってたし」

「……すぐ戻る」

 ギルを部屋に残して先輩と顔を合わせた。僕が向かいに座れば、先輩から謝罪の言葉を受ける。

「悪いな……。なにもわからずに」

「僕に謝らないでください」

「そうだよな……」

 出ていってもらおうか。

「ギル……友人が来ましたし、体調も落ち着いてきたのでもう帰ってください」

「……そうだな。いろいろ迷惑をかけた。ただあの子に謝りたいんだわ。いいか?」

「……少し待っててください」

「おう」

 謝罪しようとする気があるだけまだマシだ。しようとしない奴なんて山ほどいる。

 二階に上がって部屋に入った。ギルは体をベッドに預けて床に体育座りをし、膝と腕で顔を埋めていた。名前を呼べば顔を上げる。

「……どうしたの?」

「先輩が謝りたいそうだ」

「……嫌だな。謝ってほしくない。俺がいるせいでみんな謝るんだもん。もう聞きたくないよ。それにたまにいるもん。心から謝ってない人。もう嫌だよ。それなら初めから謝らないでほしいって思うもん」

 人間は汚いモノばかりだ。僕がそうであるように。

「それより、あの人先輩なんだね」

「……ああ」

「俺の口からは言えないけど、ごめんなさい、でもれーくんを看病してくれてありがとうございますって言ってほしいな」

「わかった」

 部屋を出て先輩にギルの伝言を言いに行く。先輩の向かいに座る前にどうだったか問われた。焦らず座ってから答える。

「無理です」

「無理かぁ……」

「ただ、こう言ってました。……ごめんなさい。でもれ……僕を看病してくれてありがとうございます、と」

 先輩の頭の中は反省の言葉で埋まってくれているだろうか。この人はそうであってほしいと、少なからず思う。

「先輩のためにも、二度とああいう言葉は使わないでください」

「俺の……ため……」

 ……なんだ、先輩がいきなり静かになった。絶望したような顔をして。なにかマズいことを言ってしまったようだ。次第には涙さえも見せてくる。

「あ、あの」

 机に肘をついたまま手で目元を隠す。

「いい。いけるいける……。悪い、俺行くわ」

 すると先輩は帽子を被って玄関まで歩いていった。少し罪悪感があるが、出ていってほしいのは事実だ。止めはしなかった。

 先輩は最後に、

「水と飯食えよ。病院もいけるなら行ってこい。邪魔した」

 そう言って家から出ていった。すぐ玄関の扉から顔を覗かせたが先輩の姿はなかった。もし次会ったら謝ろうか。先輩の心に槍を刺してしまったらしい。

 扉に鍵をして、ギルのいる部屋に行った。

「ギル、先輩帰ったぞ」

 ……返事がない。さっきと体勢が変わらず顔を埋めて寝てる。よくそんな格好で寝れるな。でも、それだけ疲れているのだろう。お疲れ様だ。ただ、首を痛めそうだ。ベッドで寝るように起こすか。

「ギル」

「……んー」

「ベッドで寝ないか」

「……んーん」

 起きてるのか……?

「首痛めるぞ」

「……んーん」

「ベッドで寝たほうが楽だぞ」

「……んーん。……ベッドはれーくんが使う」

 どうやら起きてるようだ。

「僕はいいからベッドで……」

 医者曰くインフルエンザだということを忘れていた。マスクをしないとだな。

 僕の言葉が止まったからか、ギルが顔を上げた。

「……なに?」

「マスクを取りに行ってくる」

 一階の台所のすぐ後ろにある収納扉から薬箱を取り出して、個装のマスクを手に取った。薬箱を戻し、袋から出したマスクを着ける。

 こんな熱い時期にマスクを着けて外に出たくはない。それに日焼け止めを塗り忘れたらマスク焼けもしそうだ。それは勘弁してくれ。

 二階に上がって部屋に入れば、ギルが立ち上がって背伸びをしていた。

「あ、れーくんどう具合は……。さっき良くなったって言ってたよね」

「言ったな」

「それならよかった! 俺ずっと心配で、途中抜けだそうかなって……あはは」

 他人思いが過ぎる奴の作り笑いは少しばかり心が痛む。本当に心配されているんだよな……。ギルのためにも体調には気をつけなければなんだが、ついほうってしまう。

「……もう眠くないのか」

「うん。目瞑って寝たフリしてたら本当にれーくんの家で一夜明かしそうだし」

「そうか」

「でも明日休みだから明かしてもいいんだけど、迷惑かけちゃうから帰る」

 僕も帰ってくれたほうが安心だ。医者曰くインフルエンザらしいからな。今のこの状況でも早く立ち去りたい。

「あの人は帰ったの? れーくんが先輩って言ってた人」

「帰った」

「そうなんだ。……それにしてもれーくんに上下関係が出来るとは思ってなかったなー」

「あの人はたまたま知り合っただけだ」

「どういう感じに?」

 自虐気味に公園での出来事を語った。一言目を喋ったときにはもう悲しそうな顔をしているようだった。

「そんなにヤバかったなら電話かけてくれたらよかったのに……。俺抜けてたよ?」

「僕のせいでギルに傷ついてほしくない」

「……俺の命とれーくんの命を天秤に掛けたら俺なんて薄っぺらで軽いの。れーくんがいないと生きてけない、れーくんに貼り付いてるヘンな奴なんだから。れーくんがそれで死んじゃったら俺……嫌だよ……。無理しないで……」

「…………」

 幾度目の敗北。


 今日のところはギルには帰ってもらった。移してしまうかもしれないと思って。家まで送ることもできないから早めに帰ってもらった。

 ギルが帰ってくれたら冷蔵庫に余らせていた栄養ゼリーを食べて、食卓椅子に座った。短く溜息を吐く。長い一日だった。

 毎晩昨日と一昨日の復習をするのだが、今日はやる気が起きない。それでも、確実に休むであろう今後のために、予習を兼ねてやっておこう。

 部屋に上がって勉強机に向かい、教科書類を出した。邪魔なのでマスクを顎まで下ろし、教科書を開いて復習を始める。


 目を開けて体を起こす。相変わらず体調は優れない。だが、昨日よりは落ち着いている気がする。

 そうだ。昨日は復習をしていて……そのまま寝落ちたみたいだ。勉強机に教科書類が広がっている。

 やたら首や背中が痛むな。ヘンなところで寝たからだろう。

 時計を見てみれば八時半頃だった。いつもより遅い起床だ。いつもなら僕が寝坊していてもギルが起こしに来る。だが今日は休日だ。わざわざ休日に起こしに来るわけがない。

 軽く背伸びをして目を覚ます。

 腹は空いているがあまり食べる気にはなれない。こういうときはいつもの栄養ゼリーを食べている。今日も食べることにした。

 今日は病院に行こうか。先輩に言われたように。

 近くでやっているだろうか。行かなくても治るだろうが、いつもみたいに放置するよりはきっといい行動だ。それに早く治るはずだ。

 近くで土曜日でもやっている病院を調べてみればどうやらあるらしい。徒歩二十分ほど。歩いて行ける。ありがたい。

 だがこんな朝早くからはまだやっていない。時間を待つしかないようだ。今のうちに家事を済ませておこうか。

 洗濯機を回す。洗い終わるまで掃除機を二階にもかけて、二階に掃除機を置いていく。持って下りるのが面倒だった。

 掃除機をかけ終わっても、まだ洗濯物は回っている。終わるまでコーヒーを飲もうかと思ったが、あまり気が乗らない。

 ソファーに座ってテレビをつけた。チャンネルを替えて面白そうなものがないか見てみたが、ニュースや商品紹介、子供向け番組しかなかった。テレビを消す。

 体を倒して寝転んだ。

 あとどれくらいかかるだろうか。

 さっき起きたばかりなのに、暇だからか眠たくなってきた。さっきコーヒーを飲んでおけばよかった。

 ……少しだけ眠ろう。二十分程度だ。洗濯物を洗い終わるまでの、少しの間だ。

 寝よう。


 なんだ。今声が聞こえたような……。いや、気のせいか。

「あつー」

 いや、気のせいではないぞ。声が聞こえる。ギルのような声が。

 体を起こせば脈を打つと同時に頭がズキズキと痛み、つい眉間にしわを寄せて目を細めてしまう。それに喉も痛く、ものすごく寒気がする。

「ゲホッゲホッ……」

 喉の痛みがあるなか、咳をするのは本当にやめていただきたい。

 マスクを口まで上げて音がする台所へ行った。そこにはやはりギルがいた。見れば、鍋になにか入れて茹でているようだった。

「あ、れーくん起きたんだ。おはよー。これね、お昼ご飯作ってあげよーって思って十時くらいに来たんだ。消化にいいうどんだよ。家から材料持ってきたけど、調味料だけ使わせてもらっちゃった」

 あまり食欲はないんだが……。まあいいだろう。

「そうか。ありがとう。構わない」

 声が掠れている。水を飲もう。昨日出したままだったコップに水を入れて飲んでいく。飲んでいくたび喉の痛みが増し、激痛が走る。

「ゲホッゲホッゲホッ……」

 そして咳で追い打ちをかけてくる。痛すぎる……。

「あれ? れーくん咳出るようになったの? 大丈夫? 風邪にでもひいちゃった?」

 相変わらず疑問符をたくさん付けてくる。

「……昨日の、先輩憶えているか。その先輩がインフルエンザかもしれないってな。かなり喉が痛むから、うどんで助かった」

「そうなんだ。インフルなら病院行ったほうがいいんじゃない? 行ける?」

「今日行こうと思っている」

「そっか。そのとき俺も付き添うよ。熱はどう?」

「……さあ」

「さあじゃなくて。体温計どこにある?」

 どこだったか。目を瞑って心当たりがある場所を思い描いていく。親の部屋には絶対に置いていない。物置にもわざわざ置いていない。僕の部屋か一階だ。僕の部屋だとそこら辺に落ちている可能性がある。一階だと台所の後ろの収納扉の中だ。

 目を開けて収納扉を開けて見てみる。ぱっと見それらしきものはない。薬箱を取り出して探ってみる。……あった。ここにあってよかった。あるかもわからない僕の部屋を探す必要がなくなったみたいだ。

 食卓椅子に座って体温計を脇に挟んで計っていく。

「それにしても、ギルが料理だなんて珍しいな。なにかあったのか」

「なにもないよ! ただ、れーくんがつらそうにしてたら嫌だなーって思っただけ」

「……普段僕がなにかにかかってもするのは看病だけだ。やっぱりなにかあったんだな」

「ないってー。……ただ、夢でれーくんがつらそうな顔してただけだよ」

 ……問えばいくらでも出てくるぞ。情報が更新されていく。口の柔らかい奴め。

 体温計が鳴る。抜き取って数値を見てみれば、保健室で測った数よりも上がっているようだった。

「れーくん何度?」

「八度五分」

「……高いね。お粥とかにしておいたほうがよかったかな」

「構わない。ギルが作ったものなら食べられる」

「えへへ、なにそれー?」

 そうは言うがすごく嬉しそうな顔をしている。

 嬉しそうなのはいいんだが、問題として食欲がない。ギルを悲しませたくはないんだが。

 しばらく食卓テーブルに伏せていれば、作り終えたと机に丼が運ばれてくる。

「いただきまーす」

「……いただきます」

 箸を持って食べようとするが少し吐き気が湧いてきた。無理やり口に運んで細かくしてから喉に通せば喉に激痛が走る。我慢できるほどだが、つい目をしかめてしまう。

「……口に合わなかった? 大丈夫?」

「味はいけるんだ。……ただ、飲み込むたびに喉が痛くてな」

「やっぱりお粥にしとけばよかった」

「粥でも飲み込むのは変わらない」

 僕が作るものよりおいしい。味はおいしいのだが……。

 ギルは自分の分を食べ終わっているらしい。箸を皿に置いて僕のほうばかりを見てくる。

 ときどき追い打ちのように咳で喉を痛めつけられながらも無事完食した。胃がもう無理だと喚いている気がする。

「ごちそうさま。おいしかった」

「えへへへ、ありがと。れーくんに全部食べてもらえて嬉しいよ。ご飯作って食べてもらう人ってこんなに嬉しいんだね」

「意外とな。お礼に今度また作ってやる」

「いいの! じゃあ、次の金曜日泊まる! 無理だったらもう次の金曜!」

 食事を作る=泊まる、と考えるギルには敵わないな。

「いいんだが、学校帰り本屋に寄っていいか。新作が出るんだ。それと買い物も」

「全然いいよ! ついでにお菓子も買っちゃお! お菓子パーティー! それとゲームもしよ!」

「ゲームもいいが、先に勉強をしよう。期末がある」

「えー? するのー? あるって言ってもまだ二週間くらいあるよ?」

「二週間しかないんだ」

 ギルはいつも余裕ぶっこいて、前々日になって焦りだす。もう高校二年目だぞ。そろそろ覚えないか。

「んーわかったよー。でも二時間いや、一時間だけね」

 追試受けても知らないぞ。

 残りまだ時間がある。洗濯物を干しに行こう。そう思っていたが、なぜか濡れておらず温かみを帯びていた。どうやらギルが乾燥をかけたらしい。手間が省けた。

 それにしても、昼まで寝てしまうとはな……。

 時間までソファーに寝転ばせてもらう。ギルがいて寝転んでもいいのかと思っていたが「病人は寝るのが仕事なんだから」と無理やり推され、気づけば寝転んでいた。すぐ横にギルが座り込む。申し訳ないとは思ったが寝転ぶだけでも少し楽に感じる。

 目を瞑って病院に行く緊張を和らいでいれば、ギルがくくくと小さく笑うので思わず目を開けた。理由を問えば、

「れーくんが寝るところってすっごく可愛いんだよ?」

 とか言うので目を瞑らないでいた。べつに寝ていたわけではないんだが、そんな感情を抱かれるのは少し嫌だ。

 嬉しそうに頭をガシガシと撫でられる。普段は払い除けるが、病気に感染した今のようなときにそんな気力はない。それをわかっているらしく、ためらいもなく撫でられる。

 しばらくギルの遊びに体を貸していれば、いい頃合いになった。病院に行くとしよう。体を起こせば、頭の痛さに│うなる。

「そろそろ行こうか」

「うん、行こ!」

 と言っても僕はまだ部屋着のままだ。ギルを一階に置いて部屋に上がり、適当に取った薄手の長袖と長ズボンを着て腕時計を着ける。財布とショルダーバッグを持って一階に下りた。

「……やっぱり長袖? 熱くないの?」

「暑い」

「なら」

「けどこれでいい。これがいいんだ」

「……わかんないなぁ」

 カード入れから出した保険証を財布に入れて、財布をショルダーバックの中に入れる。初めて行くところだから診察券はない。

「あ、あれじゃん。れーくん日焼け止めとか言って着てたんじゃない? 長袖着る理由」

「そうだったか」

 いちいち憶えていない。それにその理由だときっとその場限りで言った虚言に違いない。

 ギルにマスクを渡して、病院ではマスクをするよう言う。病院では僕のようにインフルエンザにかかった人がいるかもしれない。インフルエンザに限らず夏風邪なども。

 最後に時間を確認して病院に向かった。


 暑い。

 外は昨日よりも気温が上がっている気がする。僕の体温が上がっているからかもしれないが。なんだか頭がフラフラする。

「……ちょっと、大丈夫?」

 呼ばれて顔を上げればいつの間にか隣を歩いていなかった。ギルが数歩戻って僕の前に立つ。

「……暑いだけだ。ギルこそ暑くないか」

「今は俺よりれーくんのほうが危ないんだから、俺の心配は要らないよ。れーくんこそ無理しちゃ駄目だよ? 一旦コンビニ入る?」

「構わない。……それにもうすぐ着くはずだ」

 そもそもなにも用がないのにコンビニに入るのは少し気が引ける。

 ギルに左手を握られてより暑い思いをしながら着いた。ここだ。今回初めて行く病院。いつも行っていた医院が潰れてしまったから、診てもらうのにも長い道のりを辿る必要があって少し困っている。

 院内に入れば、涼しい空気が肌に伝って心地いい。夏はいつもこれくらいならいいのに。

 ギルには長椅子で待ってもらって、僕は受付に行く。渡されたものを持ってギルの隣に座った。

 渡されたのはバインダーに挟まれた問診票だ。それぞれ書いていこう。氏名、新藤蓮。フリガナ、シンドウレン。年齢……。

「ギル、今何歳だ」

「え、俺? 十七だよ? でもなんで俺なの?」

「ありがとう」

 年齢、十六。

 確か、ギルの誕生月は五月だから一つ下だ。この前ギルの家に招かれて祝った憶えもある。プレゼントはギルの家で買っていたホールケーキとはべつに、僕が買ったカットケーキとお菓子をあげたな。すごく喜んでいた姿を今も大事に憶えている。

「れーくん今何歳だったか忘れてた?」

「ああ」

「もー。自分のこともっと興味持ってよー」

 暑さを心配する必要がないので、遠慮なく僕の左腕に自分の腕を絡ませる。少し書きにくい。

 年齢はいつも忘れる。誕生日も忘れていつの間にか歳を取りそうになるが、ギルは僕の誕生日を忘れないのでその日になればいつも祝ってくる。祝う必要はないのに。けど、嬉しそうに祝ってくれてる奴の前で「祝わないでほしい」なんて言えない。

 性別、男。電話番号、〇九〇……。身長……前測ったので百七十前後だったよな。体重は……知らない。家の体重計はきっとホコリを被っている。体温はさっきのだと八度五分だったな。

 他に今ある症状等を書いた。あとこれを受付に持っていくんだよな。こういった知識を警部から教わっていてよかった。中学生のうちは警部がいろいろしてくれたから心強かった。

「渡してくる」

 すぐ戻るのに名残惜しそうな顔をしながら腕を解いてくれるので、そんな顔が面白くてつい微笑したあと、受付に渡しに行った。頭痛や体のだるさで苛立ちを覚えていたからいい薬になったものだ。

 受付では記入できていなかった体重を量らせてもらい、そのあと待つよう言われてギルのところへ戻った。

「れーくん、さっき体重量ってたよね。何キロだった? れーくんがご飯ちゃんと食べてるかのチェック」

「食べている……はず」

 いや、以前より食べなくなったかもしれない。

「……隠すことでもない。四十八」

「よ……え、ほ、本当に言ってる?」

「点五八」

「点五八でも変わんないよ」

「四捨五入すれば四十九になる」

「事実じゃないから通用しませんー」

 百七十前後の男性の体重の平均がどのくらいなのかは知らないから、全体より痩せているのか太っているのかわからないが、ギルの反応を見る限り痩せているのだろう。

「というか前より落ちてない? ご飯食べてる?」

 よく他人の前測ったときの体重なんて憶えているな。僕は十の位しか憶えていないのに。

「……昼食は学校で摂ってるの知ってるだろ」

「うん。それ以外は?」

「……学校のある平日の朝は無理でも摂って、夜は気力があれば。休日の朝と夜は抜くことが多い。昼を食べて夜を食べない時もあるな」

 ギルは僕の腹を胎児がいるかのように優しく撫でながら言う。……ヘンな撫で方するな。

「ご飯食べなよ? 本当に。中学のときよりほんとにぺったんこになってる」

「あまり腹が空かないというか、食べる気がないっというか……」

 面倒臭いというか……。

 きっと、中学のときは警部がいたから食べれていたんだろう。警部が来た日は必ず食事を作ってくれていたから。

 思えば、警部が来なくなってからは手を合わせる回数がずいぶんと減った気がする。警部が第二の親みたいなものだったから仕方がないか。

「俺が毎日泊まって食べてるか見ないといけなくなっちゃうよ?」

「それは勘弁してくれ」

「ならちゃんと食べること。いい?」

「……いいと思います」

「いいと思いますじゃなくてー!」


 診察が終わって、待合所で待っている。いつやっても鼻に細い棒を入れられるのは痛くて涙が出てきてしまう。今回で二、三回目だと思うが何度やっても慣れない。

 結果はインフルエンザだった。夏にインフルエンザとは、どうなっているんだ僕の体。免疫力がなさすぎる……。

 それはそうと、ギルに移さないようにしなければだ。家に帰ったら殺菌剤を振り撒けておこうか。

 僕の免疫力のなさに呆れて一つ溜息を吐く。そしてそれが引き金のように咳が出てくるので、ギルがいないほうへ顔を向けて腕でマスクを覆い隠した。

 待ち時間が長くて少し目を瞑る。院内でのざわめきが極めて聞こえるようになる。ちょうどいいBGMだ。寝てしまいそうだ。熱で脳がやられ始めているんだろう。

 右側に誰か座った音がした。ギルのほうに少し寄るときにふとその人の顔を見た。それは見覚えのある顔だった。だが少し悲しそうな、苦しそうな表情をしていた。

「先輩、ですか」

 僕に振り向いたその人の目は大きく見開かれる。

「……あ、君じゃん! やっほぉ」

 先輩はまるでさっきの表情は僕の幻かと思わせるほど笑顔になって、僕に近づいてきた。身を引いてギルの肩に当たる。本当に幻のように思えるが、確かにこの目で見た。……どうしたのだろうか。

「俺の言ったように病院来たんだなぁ。偉いぞぉ」

 さっきの表情とは不似合いに頭を撫でられる。が、さすがに払い除けた。恥ずかしい。

 ギルは誰なのか気づいたようで、僕の左手を握る。ギルから離れさせたほうがよさそうだ。

「しかも親父が働いてる病院に来るとはなー。さすが俺の後輩だ」

「先輩、話しはべつのところで……」

 先輩は僕の隣の人間を覗き込みようにしてギルの存在を確認した。

「あぁ、そうだな。じゃあちょっと付いてこい」

 どこかへ行くようだ。早々に僕を置いてどこかに向かう。

「ギル、少し待っててくれ」

「う、うん……」

 ギルが手を離してくれたら、先輩のあとを追った。

 歩くたび振動で頭痛に襲われながらも先輩の後ろを歩く。父親の働く病院内は全て把握済みのようで、ずかずかと奥に進んでいく。どこに行くんだろうか。

 真っ直ぐ進んで途中で曲がったところにあったのはトイレだった。先輩は多目的トイレの扉に手を掛けた。

「ちーとトイレ行きたかったんだぁ。君も入って話ししようかぁ」

 なにを言ってるんだこの人は。

「入りませんよ。早く済ませてきてください。待ってますから」

「君ならそう言ってくれると思ってた」

 小馬鹿にするように、にっと笑って扉を開けた。いったいなんなんだ。

 先輩がトイレに入れば、ガチャッと鍵のかける音が聞こえる。僕は近くの壁にもたれた。

 やっぱり先輩は、内見は男でも外見は女だからこういった場面では少し気を遣ったりするのだろう。

 べつに先輩は、それを望んだわけではないだろうに。

「なあ君、そこにいるかぁー?」

 扉越しに聞こえてくる。なんでそこまでして話したいんだ。出てから話せばいいだろ。それに、僕が一人でなにか話していると思われてしまう。

「いますけど、早く済ませてください」

 言って少しあと、水の流れる音がした。もう出てくるみたいだ。

「…………」

 そう思っていたがなかなか出てこない。代わりに声が聞こえてきた。あまりにも小さかったので扉に近づく。

「君ってさ……セイシってどう思ってる。生きて死ぬって書く生死」

 生死か……。難しいことを聞くんだな。

「そうですね。息を……いえ、鼓動がするかしないか、ですかね」

「ああ。……そうだよな」

 さっき会った時よりずいぶんと声が落ちている。先輩に声をかける前に見たあの表情となにか関係しているのだろうか。

「これ受け取れ。もう戻っていいから」

 扉の下から拳ほどの折り畳まれた紙が出てきた。拾って開けようとするが、勘づいたのかここから離れて見ろと言われた。

 折り畳まれた紙を二本の指で持ちながら待合所に戻って、ギルを見つけたら隣に座り込む。

「待たせたな」

「あ、おかえり。……あの人は? れーくんが先輩って言ってた人」

「……途中で別れた」

「そっか」

「まだ呼ばれてないか」

「うん。呼ばれてないよ」

 まだしばらくかかる感じか。

 背もたれに体を預けて気長い気持ちでいれば、手に持っていた紙を思いだす。先輩から貰った紙。中身が気になって開けてみれば、そこには文字が書かれていた。「ありがとうな。また会おうぜ」とある。

 なにに感謝されたんだろうか。それにまた会おうなんて……。僕は会う必要ないんだが。

 紙を折り直して手帳型のスマホカバーに入れたあと、タイミングを図ったように受付まで呼びだされた。

 薬局に寄って薬を貰い、ギルを家まで送ろうと思ったが、ギルが僕の家まで送ると言って口を聞かないので仕方なく僕の家に向かっている。

 それにしても暑いな。インフルエンザのおかげでより体が暑くなってだるさも増す。体中汗でぐっしょりだ。

「あついー」

 信号に止められたとき、ギルが言った。

「もう外だから外していいんだぞ。息苦しいだろうし外しておけ」

「あ、そっか」

 ギルは着けていたマスクを外して小さく折り畳んでポケットに入れた。僕はもちろん外さない。ものすごく暑いし外したいが外せない。

 信号が青に変わり歩いていく。

「……あ、そうそう。なに言いたかったのか思いだした」

 ずっと考え込むような顔をしていたのはそのためか。

「この前ね、お父さんが欲しかったゲーム買ってくれたんだ! でも普段こんなことしないからなんでって聞いたら、テストの点数がいつもより良かったからって言ってたんだ。確かにこの前あったテストいい点だったから嬉しいんだ。えへへ」

「それはよかったな。ただ、ゲームのしすぎで目を悪くするんじゃないぞ。目を悪くするのは不便だからな」

「えへへ、はーい」

 ギルらしく誤魔化したように一笑する。本当に注意する気があるのだろうか。

 点数が良かったから、か。僕は点数が関係なければ、そもそもなにかを買ってもらいもしなかったな。いくら高得点を得たとしても「そうですね」で終わりだ。なにより父さんが許さない。

 せいぜい腹這いをする年齢を対照にした玩具くらいなら買ってもらったことがあっただろうが、いなくなる前の両親の姿を思い起こせば、本当にもらっていたのかも怪しいくらいだ。

「あ、あとね!」

 まだ続くのか。相変わらずお喋りだな。けどそれもギルの美点だ。

「昨日の夜ご飯ね、ピザだったんだ! 久しぶりに食べてすっごくおいしかったんだー。でも頼んだのMサイズ三枚で家族三人で食べるのはちょっと多かったんだ。あはは。俺が何種類かのピザ食べたいって言うからせめて三種類にしてって。結局すごくお腹いっぱいになっちゃったんだけどね」

 食卓を囲んでピザか……。

「でもすっごいおいしかったから今度れーくんも食べよ! ほんとにおいしかったんだから!」

「……憶えていたらな」

 なんだろうか。歩いているなか、なにかに後ろから引っ張られるような、重いものを引いた糸を体に巻いて引きずったようなこの感覚は。ギルのさっきの話を聞いてからだ。

 見当は付いている。ギルにあって僕にないもの。

 親の存在だ。

 子にとって親は大切な生命維持道具だ。親にとって子は大切な子孫だ。だが、そんな関係を作れない子。もしくは子を作れない親。僕はその前者の一部に値する。

 親がいなければテストの点を評価されることも、なにかを買ってもらうことも、食卓を囲んで食事をすることもできない。

 べつに羨ましいとは思っていない。だが、このモヤモヤとした気持ちは少しばかりか憧れを抱いてしまっているんだろう……。

 べつに本当の親がいないことを望んだわけではないのだが。


 なにかが聞こえてくる。男の怒鳴り声だ。脳内に鋭く刺さって響いてうるさい……。そしてそれを止めるまたべつの女の声。BGMのように小さく泣く声も聞こえる。

「学校はどうした! 早く行け!」

「待って。✕✕✕✕✕はお腹が痛いみたいだから」

「そんなの知るか!」

 きっと強い腹痛と頭痛を覚える映像が流れる。

「早く行ってこい!」

 誰かもわからない声に酷く心が痛む。心臓の内側から槍を刺されているような、外側から握り潰されているような、そんな痛み。

「大丈夫か?」

 雑音が晴れてきたかと思えば子供の声が聞こえる。懐かしいような、待ち望んでたような。でも誰かわからない。

 いったい誰なんだ……。


「れーくんってば!」

 ハッと顔を上げれば目の前に涙を添えたギルがいた。なぜ泣きそうになっているんだ。

「あ……よかった。どうしちゃったのかと思ったよ」

 どうにか? さっきまで歩いていただろ。僕の家に向かって。そのはずなのに周りを見渡せばそこは公園だった。僕の家からの通学路でいつも横を通る公園だ。僕はそこの日向になるベンチに座り込んでいた。

「なんでこんなところにいるんだ」

「なんでって、れーくんが具合悪そうだったから」

 悪そう?

「確かにインフルエンザで多少は悪いかもしれないが、そこまでか」

「何回呼んでも返事しなかったじゃん!」

「……あぁ。……考え事をしていただけだ」

「もう……心配させないでよっ!」

 目に添えていた涙は次第にあふれ、頬を伝った。……僕だ。僕が泣かせたんだ。

 いつもそうだ。僕がギルを泣かせている。僕がいるから泣かせている。僕がいなければ泣くことも心配させることも不安にさせることもない。

「……僕はもう大丈夫だからギルも帰れ。ここまでありがとうな」

「え、なんで。ちょっと待って……よ」

 僕は家に向かって歩きだした。いつかと同じく泣かせたギルを置いて。

 振動で頭痛が増し、今すぐにでも止まりたい。だが、今止まってしまえばギルを置いて歩いた意味がなくなる。

 ……悪いとは思っている。

 だがギルの傍に僕がいては、きっといつかギルを壊す。もとから離れるべき存在だったのだろう。それが今なだけだ。

 僕と違って、ギルには頼れて愛してくれる親がいる。

 そんなギルに僕は必要ない。


 家に着けば早々に部屋に入って布団にもぐった。なにもやる気が起きない。たったあれだけのことで人間は簡単に操作されてしまうんだな。

 部屋に冷房をかけているわけもなく布団に氷が入っているわけでもなく、蒸し暑い部屋のなか、さらに布団を被ってもっと暑い。けど、布団から出たくない。

 体中汗が滲みだして、曲げて肌との接触面がある腕や膝の裏には水たまりができているに違いない。それでも布団から出たくはなかった。

 布団の代わりに冷蔵庫にでも入ってやろうかと夢想していれば、昨日に買ったおにぎりがあることを思いだす。こういう日が続いてなかなか食べられない。賞味期限はいつまでだろうか。数日くらい過ぎても食べられるだろうが、早めに食べたほうがいいのは確かだ。

「…………」

 今のうちに食べてしまおうか。気分を晴らすのにもいい。捨てるのは一番もったいないからな。金も、食材も。

 布団から這い出て一階に下りる。誰もいないのに冷房をつけるわけがなく部屋と同じで蒸し暑い。けど、空間が広いからか少しマシに思える。それでも汗が止まることはない。

 冷気の伝わる冷蔵庫を開ければ、パッと見たら空に見える。それでも中央にあったおにぎり二つ分を手に取って冷蔵庫を閉じる。この暑さのなかだと一瞬だけでも冷蔵庫に入りたいと思ってしまう。

 いただきますの言葉なしに梅おにぎりの袋を手順通りに開けて、一口、二口と食べる。まだ梅の味がしない。もう一口食べればしょっぱい梅の味がしだした。

 順調に食べ進め、二つ目のエビマヨおにぎりを手にする。梅も好きだが、エビマヨも好きだ。

 具が口に入ってきた頃、なんとなく胃の気持ち悪さを自覚して、口に噛んだ跡のある白米と具を入れたまま噛むのを止めた。もちろん口に運ぼうとする手も止まる。

 インフルエンザに限らず、高熱が出た時は食欲が失せてしまう。一食の半分程度なら入るが、半分を越したあたりから駄目になってくる。本当に酷い時は初めから喉に通らない。水すらも。

 無気力に口にあるものを噛んでいく。十分に噛み込まれて甘くなった白米やぐちゃぐちゃになった具を飲み込もうとするが、どうやって飲み込むのか忘れたように飲み込んでくれない。むしろ胃から逆流してきそうなそれに不安が募るばかりだった。昔も今も吐くのだけは嫌だ。

 そろそろ口に溜めるのに飽きてきていた頃、インターホンが鳴った驚きでうまく飲み込んでくれた。開放された気持ちと、ギルが来たのではないかという不安を宿しながら、食べていたおにぎりを袋に戻して玄関の扉から顔を覗かせた。それまでの間にギルにどう言い訳をしようかと言葉を絞っていたが、そんなことをする必要はなかったみたいだ。

「よぉ」

 扉から顔を覗かせればこめかみに汗を流している先輩がいた。服装は変わっていない。

「……なんですか」

「中入らせてくれ」

 返答もなしに扉を開かれて、玄関に入られる。次第に扉は閉まった。

「嫌です」

「いいじゃんかよー。まあどぉしても嫌ならここでもいいわ。外よりまだマシだ」

「家に帰ってください。そうすれば」

 簡単に涼めます。

 そう言い切る前に、

「っ……」

 先輩は僕の胸ぐらをぐいっと引っ張り、右腕を引いて僕に向けて腕を伸ばした。とっさに目を瞑って頭を守るように腕を構え、腹を守るように前かがみになったが、痛覚はしなかった。鼓動が、呼吸が速く酷く乱れて苦しくなる。

「……わりぃ」

 恐る恐る目を開けると、腕の隙間からは先輩の拳が見えていた。もう少し先輩の背が低ければ左目に当たっていた。拳は解けて肩にぶら下がる。

「家に帰れって言う君の言葉が頭に来た」

「す……すいま……せ……」

 声が震えている。体の震えも止まらない。もう四年以上前のことなのに。もう慣れたことだと思っていたのに。脳はなにもかも憶えているようで、いろんな記憶が一気に蘇ってきた。胃がぐるぐるしてきて気持ち悪い。

「君が謝ることじゃ……ってほんとにごめんな。そんなに怯えさせたか」

「…………」

 片方の手は腹を抱え、もう片方の手は口元に添えられていた。そんな僕を先輩は覗き込むようにして見てくる。困惑させているじゃないか。しっかりしろ……。服を力いっぱいに握って気分の悪さを食いしばった。

「すいません……なんでもありません。上がってください」

「…………」

 歪んだ視界を拭って、苦い顔を作っているのを自覚しながら先輩を上がらせた。先輩が問い詰めるようなことをしないのが幸いだ。もう、過去の話なんだから思いだす必要はないはずなんだ。脳内に浮かんできた過去の映像を振り払って、頑張って忘れた。

 先輩はいつもの食卓椅子に腰掛けた。僕も先輩の向かいに座ろうと椅子を引いたが、先に先輩が僕の食べかけのおにぎりを掴んで「これ食べていいか!」と言うもので奪い取った。先輩に移してしまう。同時に先輩の腹から空腹の悲鳴を上げていた。

「んで駄目なんだよぉ」

「袋に入れてますが食べかけなんです。そんなの先輩にあげられません」

「あぁお腹空いたぁ。なんか食いもんない? 昨日からなんも食ってねぇから、空きすぎて吐きそうだぁ。小遣いこの前使ったしさぁ」

 素直に吐かれるのは困るな。この体では掃除できなくて、先輩に頼んでしまうことになる。……いや、吐いたのなら掃除してもらうのも当然か。掃除してくれるのであればいくらでも……なんて言うわけがない。

「なにか……食べますか」

「いいのか!」

 さすがに僕の食べかけおにぎりをあげるわけにはいかない。先輩にインフルエンザを移してしまう。それは料理を作るのも可能性があってできない。となれば、

「なにか買ってきます。あ、いえ、自分で買ってきてください。いくらか渡すので」

「おもんねぇー」

 二階に財布を取りに行ってから千円札一枚と五〇〇円玉一枚、なぜか大量にある十円玉数枚を先輩に差し出した。これくらいあれば十分に食べられるだろう。

「返さなくていいですし、おつりも貰ってください」

「……ありがとな」

 意外と素直なんだな。

 金を貰った先輩は足早に家から出ていった。僕も玄関まであとを追い、そっと玄関の扉に鍵をした。退治完了。

 先輩を退治できても食べかけのおにぎりがあるという事実は変わらない。食べかけのおにぎりを見て現実を受け入れざるを得なかった。

「…………」

 いつまでもおにぎりと睨めっこをしていても無駄な時間が過ぎていくだけだ。袋から取り出して、数口食べて水で流すというのを繰り返し始める。途中ここ一番の吐き気を覚え、次第には本当に吐くときに出てくる大量の唾液が口に滲みだしもして本当に焦った。

 それでも水で誤魔化してなんとか食べ終えることができた。このあとトイレに行っているかもしれないが、少しでも栄養は摂れているだろう。

 部屋に戻って床につこうかと思ったが、食後すぐの睡眠は腹に悪いし、そもそも動く気力もなかった。食後の眠気に襲われながら机に伏せて時間を潰す。

 しばらくぼーっとしていると玄関のほうからガチャッと鍵のかかった扉を開けようとする音がした。きっとと言わず先輩だろう。

 そして立て続けにインターホンが鳴る。もちろん無視するが何度も何度もインターホンを鳴らされ、さすがにうるさく迷惑だ。僕と先輩の関係を伝えずに警察に通報すれば引き取ってもらえそうだ。

 けど、先輩に不審者になってほしくはなかったので、仕方なく重い体を動かして鍵を開ければ扉が勝手に開き、先輩が勢いよく怒鳴り込んできた。

「鍵かけるとはいい度胸してんなぁ!」

 ヤンキーめ。

 ずかずかと家に入り込んでいつもの席に腰掛け、食卓テーブルの上にコンビニの袋をどっと置く。僕も変わらず向かいに座った。気力のなさに机に伏せて目を瞑り、ただガサゴソと袋に触れる音がするだけだ。

 こめかみに汗筋が通ったことで蒸し暑さを思いだし、先輩もいることだし冷房をつけることにした。リビングに置いてあるエアコンのリモコンで冷房をつける。部屋が薄暗いことにも気がついて照明もつけた。

 戻って机に目を向ければ先輩が買ってきたらしいものがいろいろ置かれていた。たまごが挟んである二枚入りのサンドイッチ、ハムやレタスが挟んである二枚入りのサンドイッチ、塩おにぎり、手のひらを広げたくらいのそぼろ丼。……多いな。

 これらを出してもまだ袋はなにかが入っているようで袋が張っている。そして先輩はそれを取り出した。

「……それって……」

 三五〇ミリリットルの度の弱い酒だった。

「なんだぁ?」

「だって、まだ未成年……」

「いいんだよ。どうせバレない。現にこうやって買ってこれた。それに俺ももう……数年したら二十歳だ」

 関係ないだろ。

「だとしても、法律で」

「バレなきゃいいんだよ。君も飲むかぁ?」

「飲みません」

 僕はポケットにあったスマホを取り出して、電話を開いて「110」と入力しようとする。が、

「っ……」

「それは駄目だなぁ。しばらく預かるぞぉ」

 先輩にスマホを奪い取られた。

「病人は黙ってりゃあいいんだよ」

 その言葉に少しイラッとした。この人に助けてもらわなければ、今頃無理やり奪ってでも通報して――

「通報したほうが俺もだけど君も面倒なことになんぞぉ」

「…………」

 これ以上反論はできないだろうとでも言いたげな顔で言ってくる。僕の心中を読んでるのか。

 ……まあいい。確かに面倒だ。未成年の飲酒は現行犯でしか補導されないとも言うし、僕がこの状況で相手にできる気もしない。今回は見逃してやろう。次飲んでいたりしたら即通報することを約束して。

 先輩は酒をカポッといい音を奏でて、喉元を鳴らしながら飲んでいく。

「ふぅー! 久々の酒はうめぇなぁー!」

 今回が初めてじゃないのか。心身に異常を来しても知らないぞ。

 そぼろ丼の蓋も開けて付いていた割り箸で勢いよく口にかき込んでいく。相当腹が空いていたのだろう。視線を送っていたらなにかを察したのか、

「昨日食ってねぇし?」

 そう返ってきた。

「早く帰ったほうがいいんじゃないんですか」

「……だから帰れねぇっつってんだよ」

「…………」

 他人の家庭の事情に口を出すわけにはいかないが、飯までも食ベられてないのは少し心配だ。酒まで飲んでいるほどだ。先輩の親は相当先輩のことを放置しているらしい。「虐待」「ネグレスト」なんて言葉も頭に浮かんで少し胸が苦しくなる。

 酒を数口飲んで最後に残った塩おにぎりを袋から開けて食べ始める。

「君の親ってさ……休みの日も仕事なんだな」

「……はい」

「もっと子供の面倒見てやれってぇの」

 それは先輩の親にも言いたい言葉です。

「面倒を見られるほどの年齢ではないので。それに騒がしくなくてむしろありがたいくらいです」

「でもさ、飯とかも自分でしないといけねぇから大変だろ」

「慣れましたから」

「……子供は親がいることで子供として生きていけるのに、いなかったら子供になれねぇからな」

 そんな言葉を言って、あれだけあった昼食を食べ終えた。どうなってるんだ胃の大きさ。

 確かに僕は年齢的に「子供」だ。だが、親から産まれた「子」とは意識していなかった。

「なんだぁ? 怒ったかぁ?」

「……怒ってませんけど」

 どうやら顔が強張っていたらしい。もう、忘れよう。

 食べ終わって食卓に出ているゴミを集めて捨てる。僕は思いだして、貰った錠剤とカプセルを飲んでいった。……苦い。が、良薬は口に苦し、だ。きちんと飲んだ。

 先輩の顔は食べ始める前と比べて薄らと赤くなっていた。酒のせいだろう。本当に赤くなるんだな。調べた通りだ。けど酔ったときの感覚はピンとくるものがなくて、実際に酒を飲んだらどんな感覚に陥るのか……早く二十歳になって飲んでみたい。

「きみぃー。なんかつまむもんないー?」

 まだ食べるのか。

「ないです」

 ここは居酒屋ではないんですから。

「ちょっと」

 そう言って手招きをする。わけもわからず先輩が座る隣の椅子に座り込んだ。少し酒臭い気がする。

「よーしよしよし」

 座るなり頭を撫でられ、それに応じて自然と頭を少し下げていた。その感覚は初めて味わうようなもので、ギルに撫でられる感覚と違った。ギルはガシガシと遠慮もないが、先輩のは柔らかくてなんだか心地いい。

 撫でられるなんぞ嫌なはずなのに、なぜか許してしまう。触れてほしい。そんな感情がどこからか湧いていた。

「どーしたんだぁ? 涙なんか目ぇに付けて」

 いつの間にか閉じていた│まぶたを開けば、目の前は歪んでなにも見えない。そして頬に伝い、服の袖でそれを拭った。なぜ泣いていたかなんてわかり得なかった。

 それでも先輩は自分の胸に僕の頭を引き寄せて、頭を腕で包むので僕は抵抗せず、流れに身を任せた。

「……なんでもないです。……それよりなんですかこれは」

「食いもんの金くれたお礼だぁ」

 もっと他の礼がよかった。けど、

「……ありがとうございます」

 撫でてもらえるという事実のほうが今は嬉しかった。


「先輩は親の存在についてどう思いますか」

 頭を撫でることに満足したのか先輩からは解放され、再び向かいに座っている。先輩は頬杖をついて酒を数口飲んだ。

「……人生の邪魔な存在」

「…………」

「的な?」

「そうですか。……ありがとうございます」

 親がいることに憧れを抱いてしまっている僕には、少し期待を裏切られるような発言だった。

 記憶を辿ってみれば、僕はずっと親が恋しかったのかもしれない。もちろん死んだあの両親ではない。他の、親の代わりになる人が欲しかった。そんな感じがする。意図して親を亡くしたわけではないが、死んだ両親は要らない。ギルの両親のような、優しくて温かい存在が欲しかった。

「あぁー酔ってきたぁ。君、ちょっと水ちょーだい。これそんな度数高くないはずなんだけどなぁ」

 言われた通り水を出した。この人はいつまでここに居座る気なんだろうか。

 水を数口飲んだあと言う。

「はぁー。ちょっと寝るわぁ。君も寝たいなら俺に構わず寝りゃあいいからなぁ。おやすみぃ」

 「おやすみぃ」じゃないです。ここ僕の家です。寝るなら自分の家で寝てください。脳内でそんなことを言っても伝わるわけがなく、諦めてソファーに寝転んだ。体を楽にさせたい。

 あの人をどうやって帰らそうか。

 小さく溜息を吐いたところで、ポケットに入れていたスマホが振動する。開かなければなにかわからないが、きっと僕のよく知る人物からの連絡だ。それくらいしかスマホの鳴る要因は出てこない。

 スマホを取り出して振動した要因を見てみれば、やっぱりギルからチャットが来ていた。

『れーくん、さっきはごめんね。俺気づかずれーくんに酷いことしちゃってたみたい。気づかなくてごめんね』

 普段明るい者の謝罪は重く感じる。それになにも悪いことをしていないのに謝られるのはいっそう罪悪感がする。

「ギルが謝ることではない。僕がただ勝手な思い込みで動いてしまったんだ。僕こそ申し訳ない」

 と、とりあえず返信した。続きの言葉を書くが……。

『――ギルがうらやまし』

 僕はなにを書いているんだ。書いてる文がおかしい。すぐに今書いてる文を消した。ついには頭もバグったらしい。画面を消して腹に置く。腕で部屋の明るさを遮りながら目を瞑った。眠たい。


 気づいたら寝てしまっていたようだ。薄手のブランケットが掛けられている。確か食卓椅子に掛けていたものだ。先輩がしたのだろう。

 異様に寒気がし、体を起き上がらせたあとブランケットを肩に掛け直した。食卓椅子には先輩の姿がなかった。帰ったのだろうか。

 カーテンからはオレンジの光が漏れている。かなりの時間寝たらしい。感染症を患った時は異様に眠気がして寝てしまって嫌だ。

 先輩が帰ったとなれば玄関の扉は開いているだろうと思い、玄関まで行き閉めた。

 起きてからずっとヘンな眠気が残っていてもう一度眠りに入りたい。照明やエアコンを消して、部屋のベッドまで行って寝転ぶ。

 ブランケットを適当に放り投げ、代わりに布団を被った。誰かが暖めてくれていたというわけはなく冷たい。布団を全身に巻きつけて目を│つぶった。

 インフルエンザが悪化しているんだろう。体が重くて仕方がない。食欲もない。ただ、早く眠りについてこの体から解放されたいと、願うように眠気が襲ってくる。

 寝よう。寝ていれば治る。いつもそうだった。

 そう思っていた。なのに、翌日もそのまた翌日もだらだらと熱やら酷い頭痛やらが残っていた。喉の痛みはある程度和らぎ、食事も軽くなら摂れるが……いつになれば学校に行けるのだか。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

「それを望んだわけではない(2/2)」に続きます。

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