独り家族(4/4)
今日はいつも通りの時間に起きて、準備にも手間取らず、ギルのインターホンにも応えられた。
「れーくんおはよ!」
鍵を開けたら扉が勝手に開かれる。後ろ向きで開けるものだから助かったというものだ。
「おはよう」
「……車椅子の向き逆じゃない?」
「こうじゃないと乗れないんだ。狭い玄関で向きを変えることもできない」
「そうなんだ。動かすよ?」
返事もなしに玄関から外へと出される。自動で後ろに進むもので少し怖かった。
「蓮くんおはよう」
正面へと向けられるとギルの父親が立っていた。
「おはようございます」
ギルはまだ親の保護付きか。
「じゃあしゅっぱーつ!」
「待て。ギルが押すな」
「え?」
その体力で押させるわけにはいかないと、昨日の体育のときにも言っただろ。
「蓮くんは父さんが押していくから、ギルは隣を歩いてあげて」
「えーなんで俺押しちゃ駄目なの?」
「まだ筋力が回復してないからね。回復したら押してあげて」
「んー。わかったよ……」
拗ねて頬をふくらませる。
父親の押すよという声がかかってからゆっくりと車椅子が動き出した。
「車椅子なしで動けるようになれば一週間くらい泊まらせてやるから、今は」
「一週間も!」
一週間ほど泊まることができるとわかれば勢いよく振り向いてご満悦の様子だった。一週間なんてなかなか泊まらせないからな。
「蓮くん、そんなにいいのかい?」
後ろからすかさず言葉をもらう。
「構いませんよ。車椅子生活が終わればそれで。しばらく泊まれないギルへのご褒美です」
「……また今度、ごはん行こうね」
代償にごちそうされるであろう約束を容易に頷くわけにはいかない。頷かず、聞こえなかったフリをした。
昨日はケイ一人であまり話しかけて来なかったが、今日はギルだ。一分もしないうちに次の話題へと話を変えて話し続ける。どこからその話題が出るのか不思議なくらいだ。
「今度れーくんも行こ? ね?」
「……気が向いたらな」
「それ絶対気が向かないやつじゃん!」
誰がパルクールなんて行きたがる。誘う相手を間違えている。
「俺最近ずっとかわいい動物の動画見ちゃうんだよねー。ほんとすっごくかわいいんだから。子猫とかインコの動画が特に好き!」
動物……ギルは憶えてないのだろうか。今でも思いだすと吐き気がする。もう思いださないように脳が記憶を消しているのかもしれない。
「大人猫ちゃんもかわいいところあるんだけど、子猫はちっちゃくてもっとかわいい。インコはね、音楽にのって鳴くのかわいいんだ。れーくん見たことある? ないでしょ? れーくん動画ってあんまり見ないでしょ?」
「見ないな。強いて言うなら勉強の解説動画」
「真面目さんだなー。今見せてあげるよ」
「……前、気をつけろよ」
父親が歩きスマホについて注意はしなかったから、自分の子供を目の前で電柱にぶつけさせないように注意喚起だけしておいた。僕のためにスマホを触って動画を出そうとしてくれているのに、ぶつけられるのは申し訳ない。
少ししてギルにスマホを渡された。画面いっぱいに動画が映され、水色のセキセイインコが椅子の背もたれに立っている。
「画面押したら進むよ」
僕が実行するまでもなくギルが画面を押して動画が進んだ。
画面の外から指が出てきて、爪で机を一定のリズムで叩く。それに乗ってインコが鳴き始めた。楽しそうに鳴いて頭を振る。鳥は賢いからこういうリズムもわかるんだろう。
画面の一番下でずっと流れていた赤い棒が右まで満たされ、一番初めに戻った。動画が終わったのだろう。ギルに返す。
「えへへ、かわいいでしょ」
「かわいいな」
「リズムにのって頭振ってるのかわいいよね」
「かわいいな」
「あ、こんなのもあるんだよ」
再び昼にスマホを渡される。また止まったままだったがもう学んだ。押せば進む。
今度は鳥のゲージの上にオカメインコが立っている。そんな中「こんにちは」と飼い主と思われし人の声がする。それに反応してインコが「こんにちは」と返す。次第にインコが一人で喋り始めた。
『こんにちは。メーちゃんかわいかわいかわい。……どした……ごはん……』
『ごはん欲しいの?』
『え……』
『えぇ?』
かわいいな。ごはんと言って聞いたのに引いたように返す。人間がしてもかわいくも面白くもない会話を鳥がしたらかわいく思える。
動画が終わればギルに返した。
「どう? かわいいでしょ」
「ああ」
「俺もインコ欲しいなー。……欲しいなー」
チラチラと自分の父親に目を向ける。
「動物は駄目だってずっと言ってるよ」
「だってそれはお父さんが駄目だからじゃん! 俺お世話もできるよ?」
「そんなこと言って結局ゲームばかりして全部母さんに任せる未来が見えるよ」
「見えないよ! ちゃんとお世話するもん」
「ペットは寿命が短ければ、きちんと健康管理しないと病気にもかかるし、不慮の事故でギルの手で死なせてしまうこともあるんだよ。それでも欲しい?」
じわじわと責めてくるような話し方で言い寄れば、ギルは黙り込んでしまう。確かに正論ではあるが、ギルには少し早かったかもしれないな。
「……子供の頃、父さんはそれで飼ってた犬が老い死ぬ姿を見たことがあるんだ。大切にしてきた分、別れはつらくなる。ギルにはそのつらさを味わわせたくないんだ。わかってくれないかい」
「……わかった……」
かなり落ち込んでしまったみたいだ。なぜかわからないが父親から「蓮くんごめんね」と謝れもする。
生き物はいつか死ぬのだからそれを受け入れさえできればペットとも過ごせると思うんだが、悲しみという感情がある限りはギルには飼えないだろう。
学校が着くまでになんとかギルを元気づけて、父親と廊下で別れたあとはケイがいない状態で僕をどう席まで移動させるか、という問題に悩んでくれていた。
僕は壁伝いに歩くのを提案したがすぐに却下された。
「んー……んー……」
「なにも思いつかないのなら、寒いしもう壁伝いでいいだろ」
「だーめ。絶対駄目。やっぱり俺が敬助くんみたいに運ぶのが」
「それこそ駄目だ」
「ほら俺の案も駄目って言うじゃん! もう手ないよ」
ギルがケイのように運ぶという提案に否定したんだ。それ以外の案を出していないくせに、なにがもう手がないだ。
廊下を歩く他クラスに「いつまでもなにをしているんだ」とばかりに見られて通り過ぎていく。先生はそんなことわかっていないように「おはようございます」と目を合わさず言って横を通る。
どうしようか。
五分ほどこうしていれば、
「ギルと蓮。おっはー」
「あ、真也くんおはよ!」
「蓮はまだ車椅子かー。ってかなにしてんだこんなところで」
「れーくんをどうやって席に座らせるか問題」
「あー。……敬助来てないもんな」
一瞬教室を覗いて言う。そうなんだ。ケイが来てくれれば直ぐに解決する……いや待て。ケイに運ばれるということはまたあの屈辱を味わう運び方をされるというわけで、僕はそれを認めたということになる。認めていない。僕は認めていないから、ケイを待って席まで運んでもらう必要はない。
そう気づけば体は無理に立ち上がろうとしていた。が、すぐギルに座らされる。
「僕はあの運ばれ方をされたくはない」
「あの運ばれ方って、お姫様抱っこのこと? いいじゃん。それ以外に運び方ないでしょ? おんぶは足上げないと机に当たっちゃうし、でも上げたら人の頭に当たっちゃうかもしれないじゃん」
「抱っこならいいんじゃね? そんなに恥ずかしくないだろ?」
「運ばれるのが恥ずかしいんだ」
「じゃあ自分で立ってい」
「行こうとすればギルに止められるんだ」
ギルは自分でわかっているようで酷く頷く。
「詰みゲーじゃねーか。まあ、なんとかしてもらえよー」
僕の鞄を持って教室に行かれた。手伝ってくれたっていいじゃないか。
今日はきちんとブレザーを着て来ているから寒さはある程度凌げるが、いつまでも廊下で待ちぼうけを食らうわけにはいかない。そもそもケイが今日来るとは限らないし、ケイがいなくとも行動できるようにしないといけない。
悩まされ続けていれば、柊から声がかかった。教室に入ろうとしていたところで僕らに気づいたようで、教室には入らず傍に来てくれた。
「……どうしたの」
「実琴くんおはよー。れーくんをどうやって席に座らせるか問題。十分くらいずっとこのままなんだ。あはは」
「……蓮くん寒くない……?」
「今日はブレザーを着て来たからな。ギル、もうらちが明かないから、柊の手も借りて歩いて行ってはいけないか。もうすぐ予鈴も鳴る」
「うーん。リハビリで一人で歩けてるの?」
「…………」
「じゃあだーめ」
返事はしてないんだが、ギルにはなにが聞こえた。確かに醜いくらいに歩けていなかったが。
「あの、椅子を扉の傍まで持ってきて、そこに蓮くん座らせて、席まで移動させるのは」
「あ、それいい! それでいこ!」
さすが柊だ。鞄だけ奪って見捨てた下条とは違う。やっと机に着ける。
僕の椅子を扉の傍まで持ってきてくれたあと、車椅子を扉に寄せて腹を抱えながら椅子に移る。そのあと前脚を少し浮かせられながら僕の席まで運んでくれる。車椅子とは違って安定せず、なかなかに怖かった。途中で邪魔になった鞄類はギルが避けて、最後は力任せに押して壁に近づけ、机に入れてくれた。
「ふう……」
「ありがとう。本当に助かった」
「べ、べつに……。借りは返さないと」
まだ修学旅行でのことを引きずっているのか。借りなんて作ったつもりはなかったんだが。
ギルも自分の席に着いて早々に体を一八〇度回転させる。
「あ。……実琴くんってずっとキリンのぬいぐるみのキーホルダー付けてるよね。近くで見たらかわいい!」
「き、気づいてたんだ……」
そりゃあ、紺色に近い色をした学校の鞄に黄色いキリンがぶら下がっていたらわかるだろうな。僕は昨日ギルに仕掛けられた名前当てゲームで初めて存在を知ったが。
「キリン好きなの?」
「……うん。でもキリン好きなんて……子供だよね。やっぱ外す」
キリンに手を伸ばした柊の手をギルは握って止めた。
「ううん、子供じゃないよ。だから外さなくていいよ」
「…………」
「好きは無限なんだから。誰がなにを好きであってもいいんだよ。好きは人それぞれ違うんだから。例えば実琴くんはキリンが好きだし、俺は実琴くんもれーくんも好き。ね!」
ギルからの言葉を聞いた柊は静かに手を下ろして俯く。そして小さく「ありがとう」と言う。口元は微笑んでいるように見えた。
「『好き』は好きだからこそ価値があるんだよ! なくしちゃ駄目な気持ち」
いつかにこうした言葉をギルから聞いた気がする。僕のなんとなく好きだと思ったものを否定しようとしたときに。
「俺はれーくんに『好き』を教えてくれて、それ以来好きなものが増えて、増えたら嬉しくなるんだ。それだけ幸せが増えるからかな」
僕が「好き」を教えた? なにを言っているのだか。……きっと過去の僕がヘンなことをギルに注ぎ込んだのだろう。ギルに僕との昔話を語られないよう、ここは黙っておくが。
「キリン好きなら、よく動物園とか行くの?」
「た、たまに。……キリンも好きだけど、動物自体好きだから……」
「じゃあ動物園は実琴くんにとって宝箱みたいな場所なんだね! あ、そうだ! 今度一緒に行く? 俺もずっと行ってないから行きたくなっちゃった」
「……行きたい。蓮くんも……どう?」
動物園か。獣臭いからあまり好きではないから行かない……とはさすがに言えない。けど、久しぶりにあの臭さを味わってもいいかもしれない。
「冬季休暇にでも行こうか」
「れーくんが珍しく乗り気だ。じゃあもう決定! 日にちはまた今度決めよ! でもその前にれーくん早くスマホ買ってね。でないと連絡なに一つできないんだから」
「今週中には買おうと思っているから待ってくれ」
今日ケイが学校に来て、放課後暇なら買いに行くのを手伝ってもらおうと思っていたが、来てくれるだろうか。
金曜日の掃除の時間。
結局一昨日と昨日、ケイは来なかった。けど、今日の朝、本鈴と同時に扉から入ってきた。それは多くの視線を集めたらしかった。当の本人は間に合ったことにホッとしていたみたいだが。
ケイの遅刻癖はよくあることだが、最近マシになってきている。それでも一昨日と昨日、一応今日も遅刻してきた。休憩時間に聞けば、一昨日は体調不良、昨日は腹痛、今日は軽い寝坊だそう。一昨日のケイが体調不良になることにイメージがなく、本人も納得いかなかったらしい。
僕は今、腹を抱えながら黒板を消している。掃除当番じゃないのに。
わけを言うと、教室での「さようなら」という挨拶後、後ろにいた下条からいきなり「掃除当番代わってくれ! マジで急用できて、頼むな!」と言い残して去っていかれた。
本当に用があるらしく慌てた様子で、机の上にスマホを置き忘れていた。それは取りに来る様子もなく、僕の帰る準備ができるまでずっとそこにあった。誰かに取られないよう、今は僕の鞄の中にある。
掃除当番を頼まれたものの、こんな体でできるわけがないとギルに頼もうかと思ったが、ギルがいなければケイや総務もおらず、柊を見つけたと思えば教室から出ていったときだった。
そして仕方なく引き受けてやろうと下条の掃除当番はなにかと横の女子生徒に聞いて、腹を抱えながら教室の前まで歩き、腹を抱えながら黒板を消している。
下部は楽に消せたが、前かがみになっている僕が上部を消すのはいっそう苦痛を感じる。最後の授業が黒板の上下のギリギリまで書く先生だったから余計に。
次第に服は汚れ、上部を消そうと腕を伸ばしたとき、誤って手を滑らせて頭から粉を被る始末。せっかくほうきではいてくれていた場所を汚してしまった。余計な仕事が増えた。
黒板を綺麗に消そうと思えば、まずチョークを消すのは当たり前だが、そのあと黒板消しクリーナーにかけてからもう一度綺麗に消していく必要があって、決して楽なものではない。下条、ほんとに頼む相手を間違えたな。
あと左上部だけになったとき、ギルの声が聞こえた。廊下からだ。残りをやってもらおうと体の向きを変えたとき、足を滑らせて再び粉をかぶってしまう。今度の黒板消しは服の上に悠々と寝転んでいる。
「れーくん帰ろ……えっ、え、どうしたの!」
扉からはギルの他にケイも顔を覗かせていた。ギルの声は誰もいない教室にはよく響いた。
「チョークの粉?」
ギルは黒板消しを取り除いたあと頭からはたいてくれ、ケイにはどこかから持ってきた椅子に座らされた。
「なんで蓮が黒板消してるんだ? 下条だろ」
「急用らしく、スマホを置いて帰っていった」
「スマホ置いていくくらい急いでたんだね」
「だとしてもなんで蓮に頼んだんだよ。見て無理だってわかるだろ」
ケイの声には少し怒りが混じっているようだった。
ギルは背が届かないからと黒板をケイに頼んで、僕の服に付いた粉をはたいてくれている。チョークの粉は以外に取れにくく、はたいても完全には取れなかった。それでも諦めず濡れティッシュで軽く押し当てて取ってくれる。
「目に入ってない?」
新しく濡れティッシュを持ってきて顔に押し当ててくる。
「入っていない」
「ならよかった。……濡れティッシュでやっても取れないから家帰ったら水で洗うね」
「悪いな」
体が不自由な奴に仕事を任せるほどの用事なんて、どれだけのことなのだろうか。僕を粉まみれにしたからにはそれなりの報いを用意しようと思ったが、下条のスマホを預かっているから今回は見逃してやろう。
うるさいクリーナーの音がなくなれば、もう一度黒板を消していかれる。そのとき、キキッと爪を立てたまま黒板をなぞる音がして、とっさに耳を塞ぐ。
「ケイ……」
「耳がぁ」
「……どうした?」
なにもなかったかのように顔を振り向かせて平然としている。今やった行為の重さを理解しているのか。
「爪、今の音」
「あぁ、さっきの?」
理解してくれたかと思って耳を塞ぐのを解いたとき、もう一度同じ音を聞かされる。
「ばっ、ほんとにやめろ」
「聞きたかったんじゃないのか?」
「どこに聞きたがる馬鹿がいる」
「敬助くんは平気なの?」
「二人が耳を塞ぐ理由はわからない」
あの音を不快に思わない人間がいるだなんて……。
もう音を立てないように指を曲げながら消してもらった。もう聞きたくない。
そもそもなんで不快に思うのだろうか。
「よーし帰るか」
黒板消しや床の掃除もしてくれたケイが、服を少し汚しながら腰に手を当てていた。
「うん帰ろー。行き先はれーくんの家ね」
「ケイ」
服の汚れが気になって手招きしてしゃがませ、肩と腰の粉をはたけば、僕のと違って素直に落ちてくれる。
「あ、ありがとう」
目線を逸らされ、口元を隠しながら立ち上がる。たびたび見るケイの奇行の謎はまだ解けていない。
ギルが「敬助くん、れーくん運んでー」と荷物のような扱いをされて車椅子に座らされた。三人分の鞄を持っていたギルは、僕の脚の上に一つとケイに一つ渡す。が、
「ケイ、鞄貸せ。持ちながらだとやりにくいだろ」
「ん、いやいいよ。ハンドルに掛けてるから。というかいまさらだな。蓮のも掛けるか?」
「……いい」
いまさら気づいて悪かったな。
ケイに押してもらいながら帰っているとき、スマホのことについて思いだして聞いた。
「ケイ……今日とか明日にスマホを買いたいと思っているんだ。それで……」
いや……でも……。
「それで?」
「いい。……なんでもない」
「……そう?」
そもそも僕一人ですればいいんだ。ケイに迷惑をかけられない。
「そういえばれーくんのスマホまだ見つかってないの? それ使えないの?」
「見つかってはいる。けど、見つかったとだけ報告されて警察に持っていかれた」
「返されても浸水して無理だろうな。外部の損傷がなければ内部の修理だけでまだ安く済むだろうけど……あれ使って何年だ?」
「中二の秋頃に買ったから……四年くらい」
「四年なら、修理よりも買い替えたほうがよさそうな気がするけどな」
よくわからないが、そういうことらしい。機械には疎いんだ。
次家に警部が来たときに言ってみるか。ケイに余計な負担をかけさせられない。
家に着いたらソファーに座らせてくれ、頼んでもいないのに個々にいろいろやってくれている。ギルは僕をべつの服に着替えさせて汚れた制服を洗面所で洗い、ケイは台所でなにやら作ってくれている。
頼んでもいないのにここまでされるのは、少し世話を焼きすぎだ。頭にそう浮かべながら体を横に倒した。黒板消しに相当な体力を持っていかれたみたいだ。
次に警部がいつ来るかなんてわからない。それまでスマホでの連絡はできない。今回の事件のことで顔を合わせることができたから、次はもっと先だと思ったほうがいい。警部も暇じゃないんだ。
正直スマホはなくてもいい。家に固定電話さえあれば連絡ができる。あれの欲しているところなんてメールと同じ役割を持つところくらいだ。それ以外は要らない。いそがしい警部にいちいち電話なんてかけれるわけがないから、短文を送れるスマホを使っているだけで……。
「蓮、醤油の替えってもうない?」
醤油の替え……。
「後ろの扉の中になければない」
聞こえているのかもわからないが、いつも通りの声量で返事はした。ケイはなにを作っているのだろうか。
ギルの気が済んだあとは、曲げる足元に座り込んでテレビをつける。この時間は子供向けアニメしかやっていない。
「今思えば昔に見てたアニメとか見なくなったよねー」
僕はそもそも見ることがなかったからわからない。
「俺ヒーローアニメとか見てたなー。れーくんなにか見てた?」
「見ていなかった」
「そうなんだ」
今は若者のテレビ離れが増加しているらしいが、スマホなんて便利な娯楽ができてしまったから、仕方のないことだとは思う。僕は昔もテレビを見ることなんてなかったが。強いて言うならニュースくらい。
ケイが夕食ができたと、食卓椅子に座らせてくれる。食卓テーブルには食欲がそそられるチャーハンがあった。
「悪いな、作ってもらって。……いただきます」
向かいにケイが座っていて、感想を待っているように感じる。少し視線があって食べづらい。が、
「おいしい」
「それならよかった……ちょっと調味料入れすぎたかと思ってたんだけど」
本当に不安だったのか、肩の力を抜いて背もたれに体を預けて、少ししたら台所に戻っていった。
「うー、おいしそー」
隣ではよだれを垂らしそうに口を開けているギルが座っている。ぐーっと腹から音も鳴る。
ちらりとケイのいる台所に目を向けて、ケイがこちらを見ていないのを確認して「内緒だぞ」とチャーハンを載せたスプーンをその口に入れた。
「んんんー!」
よかったな。ケイの作ったチャーハンは好評らしい。
「れーくんだけこんなおいしいの食べるのずるいー」
そんなことを言う隣でチャーハンを頬張る。隣からはぐーっと羨ましそうに鳴る。
「ギルくんも食べた?」
シンクで洗い物をしているケイがカウンター越しに聞いた。
「い、いや食べてない……よー?」
わざとらしい。真実を知っているようにケイは笑う。
「おいしかったならよかった。ギルくんにも機会あれば作ってあげるから、そこにある蓮の分、全部食べるなよ?」
「た、食べないけど……おいしかったなー」
相当ギルの口に合ったらしい。
食べ終えたあと、ケイから「冷蔵庫に同じものを置いてあるから、電子レンジでチンして食べな」と告げられる。わざわざいつかの分も作ってくれていたとは、本当に助かる。この体では料理もろくにできない。
家に送ることはできないからやることを済ませたらすぐに帰ってもらう。玄関先まで出向くが、そのとき下条のスマホを思いだした。少し待ってくれと言って鞄を探って戻る。
「どちらでもいいんだが、下条の家に行って返しに行ってくれないか。休み明けまで持ち続けるのはさすがに悪い」
「じゃあ俺返してくるよ。家の場所も知ってるし」
「悪いな、ありがとう」
別れの挨拶をしたあと、鍵をかけてくれて素直にリビングに戻る。
二人がいろいろしてくれたから今することと言えば風呂に入るくらいだ。でも少し面倒臭い。明日は特に出かける予定もないから入らずに寝よう。早くこの体から解放されたい。
腹を痛めながら部屋まで上がって乱暴にベッドに寝転んで痛みを覚える。けど、まだ全然眠気なんてない。まだ八時過ぎだ。あるわけがない。起き上がって勉強をするか、一階に下りて睡眠薬を飲んでまで寝るか。そんな選択が浮かぶ。
寝よ……いや勉強をしよう。
体を起こして椅子にやっと座る。鞄を足で引き寄せて教科書類を取り出した。それぞれ開いてシャーペンを握る。
「…………」
握ろうとするが、右手にはまだギプスがあった。この手のひらに負った傷は相当深いものらしく、数週間はギプスを外せず、表面上での傷がなくなってギプスを外しても、内輪側の神経や腱はまだ治っていなくて、完全に回復しない場合もあると聞いている。
完治には早くて数ヶ月前、長くて一年ほどかかると。今もほとんど感覚がない。
このままずっと右手が使えないままと思って、今から左手を利き手にするのもきっと遅くない。
左手にシャーペンを握って慣れない感覚になる。入院中の暇な時間に左手でシャーペンを握って書く練習はしていた。けどまだ綺麗に書けるほどではない。殴り書きしたくらいには汚い。いやむしろ殴り書きするほどの力もないが。
改めて平和な日常を送れることに感謝しながら、勉強を始めた。
翌日。休日の昼過ぎ。
昨日ケイが作ってくれたチャーハンを頬張る。ただ胃に入れるだけに感じる栄養ゼリーとは違って、食べた感じがしていい。人の手で作られた料理も。
明日の食事はどうしようかと考えながらおいしいチャーハンを頬張る。この体だから買いに行く以外に手段はないのだが。
医師から腹の痛みが完全に治まるには数週間はするだろうと言われていて、もうそろそろ引いてくれていいと思うが、まだ普通に歩けるほど痛みは引いてくれていない。少し腹に力を入れたら内側から殴られているような感覚になる。
チャーハンの量に多さを感じていたとき、インターホンが鳴った。誰か来る予定はなく、配達も頼んでいないから、なにかの勧誘などかもしくは……。
期待を膨らませて、車椅子を玄関まで走らせる。腹を抱えながら鍵を開けて扉を開けた。開ければ、
「しんどう……すまほかい……に」
開けた扉からは警部の姿があった。目の下を黒くして、顔色を悪くして。
間もなくして僕に寄りかかってきて、耐えられず後ろに倒れる。
「け、警部、しっかりしてください」
こんな酷いクマを付けた警部は初めて見る。何日夜を寝ずに過ごしたのだろう。よく人身事故を起こさずここまで来たものだ。そう思っていたが、警部のいたすぐ後ろにはタクシーがあるみたいだった。運転手が気にかけてか、扉を押さえて僕らの様子を見ている。
「あの……大丈夫ですか……? よければ中までお運びいたしましょうか」
車椅子をちらりと見て、僕の現状にある程度の察しをつけたのかそう言ってくれる。仕事の妨害なんてことも気にせずお願いした。僕一人じゃどうにもできない。
「すいません。本当にありがとうございます」
警部をソファーに寝転ばせてくれたあと言った。
「いやぁね、乗せているときも顔色が悪そうで、酷いクマでね。声かけても大丈夫ですって」
なんで行き先は警部の自宅じゃなくて僕の家にしたんだ。警部も無茶をする。
「あの、お茶でも飲んでいかれますか」
「ありがとうだけど、まだ仕事が残ってるから。お大事にね」
「……こちらこそありがとうございました」
車椅子に座りながらも深く腰を曲げた。扉の閉まる音が聞こえたらやっと顔をあげる。玄関の扉に鍵をしたあと、ソファーで寝息を立てる警部の傍まで車椅子を転がす。
改めて警部の顔を見ても目の下に酷いクマが出来ていて、本物かを確かめるように指でなぞってもそれは本物だと訴える。
体に触れても微動だにしないくらい警部は深い眠りに落ちているみたいだ。これほど睡眠を取っていなかったのなら食事は取っていたのかと不安になるが、今は寝かせよう。腹が空けばそのうち起きてくる。
濡れタオルを電子レンジで少し温めて、それを警部の瞼の上にそっと置く。ソファーの隅に畳んでいた毛布も掛けて、僕は食事に戻った。
これを警部にあげようかとも思ったが、もう口を付けているし、警部がいつ起きてくるかもわからない。第一、ケイは僕に作ってくれたのであって、警部にあげるために作ったものではない。全部綺麗に食べきった。
そのあとは部屋から持ってきた小説を持って、警部の傍で読んで時間を潰した。
チェーン店で買ってきた夕食を食べ終えたとき、警部は起きた。状況を理解するようにあたりを見渡して、僕と目が合えばなにもかも思いだしたように驚く。
「おはようございます」
「新藤……俺……」
「ぐっすりでしたよ。いそがしくても睡眠はきちんと取ってください。夕食を買ってますので、どうぞ食べてください」
車椅子に座り直したあと、警部の分の夕食を腿に置いてリビングのローテーブルまで運んだ。
「……悪いな。新藤はもう食べたのか?」
「はい。先にいただきました。ゆっくり食べててください」
コップも用意して水を注いで、テーブルに置く。ソファーに座って、横で警部の食べる様子を見ていた。
せっかくなら警部と一緒に食べたかった。もう少し遅く、トイレにでも立っていたら、少しでも一緒に食べられたのかもしれないのに。そう悔しく思いながら軽く警部の左肩に頭を預けた。
警部が食べ終えたら食卓テーブルにあった僕の分の容器まで片付けてくれる。いくら家の主だとしても怪我人なんだから少しは頼れ、とか言って。片付け終わったらソファーにまた戻ってきてくれ、再び肩に頭を預ける。
「ところでなんで僕の家に来たんでしたっけ」
「スマホだ。今日はもう遅いから明日に行こう。明日も一応休暇だ」
「……あの、一緒に腕時計も買いに行っていいですか……」
「そういえば着けてたな。あれも水でやられてるから一緒に買いに行こうか。ブランドものだったか?」
「いえ、安いやつです。ブランドものなんて、付けこなせる気がしません」
そもそもブランドものは値段が高いし壊れたときに後悔しそうだ。
警部に先に風呂には入るよう言ったが、なにを気遣っていると先に入らされた。入る前に介助は必要かと聞かれたが、要らないと答えた。警部に裸を見られたことはなく、こんな姿で初の裸を見せるのは少し嫌だ。なによりいくら僕に口を挟まない警部でも、僕の細い体を見たらきっとなにか言われる。
就寝のときには介助されながら部屋に上がって、ゆっくりと寝転ばせてくれた。自分の体だからと乱暴に投げ置く僕とは違う。
「警部はどこで寝るんですか」
意外に警部が家に泊まるのは少なく、今回を含めてもきっと両の手で足りる。日が空いているから、いつもどこで寝ていたかなんて憶えていなかった。
「ソファーで寝るけど、新藤が寝つくまでここにいる」
優しい手は僕の頭を撫でる。
「……一緒のベッドでは寝ませんか」
「ここだと少し狭い。ほら、新藤と違って無駄に筋肉が多い体だから」
自虐するような発言……。
「無駄ではありませんよ。それのおかげで犯人を捕まえているじゃないですか。立派な武器ですよ。使い方を間違えない優しい武器。警部はいつまでも優しい武器を持っていてください」
「……そうだな」
再び頭を撫でてくれる。
僕がいつも寝るにはまだ早い時間で、しばらくは寝つけずに警部と話しをした。ずっと溜め込んでいたチャットでは話せなかった他愛もないことを。憶えている範囲で。
「そういえば、これギルから貰ったんです」
寝転ぶときに抱きかかえてずっと腕の中にいた猫のぬいぐるみを抱き直す。
「修学旅行のときに。……あ、警部にもお土産あるんです」
渡したくて起き上がろうとする体を抑えられる。
「俺が持ってくるからじっとしとけ」
「……嫌です」
お土産くらい、自分で渡したいんだ。
四つん這いになりながらクローゼットを開けて、下に置いてあった警部に渡す袋を持って戻った。無理するなと言われるが、ベッドに座らせてくれる。
「清水寺付近のとテーマパークと大阪城で買ったものです。お菓子は食べられなくなるかもしれないと思って買ってなくて、モノばかりですがどうぞ受け取ってください」
警部は袋の中を覗いて、小さいものは手に取る。
「量がすごいな。大事にする」
僕は明らかな笑みをこぼしながら返事をした。
ずっと撫でられながら眠りについたのは憶えている。そしてとても幸せな夢を見たのも。
どんな夢を見たのか思いだそうとしているうちに今は寝起きで現実世界にいるということを思いだす。妙に体がぽかぽかで二度寝をしようと思ったが、家に警部がいて、部屋にいないことに気づいたら体を起こした。
もしかして仕事が入ったのかもしれない。そんな不安が襲ってきたが、一階から食器を出すような音が聞こえた。大丈夫だ。いる。
再び寝転んで、警部が起こしに来てくれるのを待った。警部なら起こしに来てくれる。そう思って目を瞑って待っていた。
次第に階段を上る音が聞こえてくる。そのときには本当に二度寝しそうになっていて、ヘンな演技をして疑われることはなかった。
「新藤、朝だ」
眠たさに負けそうになったが、その言葉に気づかれないほどの笑みを浮かべる。そして寝起きの声で言った。
「一階に連れて行ってください」
頭がまだ起きないまま警部の腕にいる。脚は動かしていないのに視界は景色を流していく。食卓椅子に座らせて、やっと僕は失礼なことを警部に言ってしまったことに気づく。
「あの……さきほどはすいませんでした」
「……なにに謝ってる?」
「寝ぼけてて……運ばせてしまって」
「それだけのことで謝るのか。むしろ新藤が頼ってくれて嬉しかったが?」
なら……いいです。口が緩む。
食卓テーブルには白米とコーンスープが置かれていた。向かいに警部が座っていて、そこにも同じものがある。
「すいません、朝食を任せてしまって」
「……新藤は謝る必要のないところで謝る。その癖、まだ治ってないんだな」
僕にとっては今のは必要だったと思うんです。
久しぶりに人と、警部と朝食をとる。なんだか涙がポロポロと出てきた。
警部はもう食べ始めている。気づかれないうちに食べよう。でも、気づかれるように遅く食べたい。
「……い、いただきます」
至って普通に言った。でも僕の声が鼻声だったことは確かで、警部はこちらを見て目を丸くしていた。
箸を置いて立ち上がった警部は、そっと腕を回してくれた。
「ごめんなさい……」
「長い間、時間が取れなくて申し訳ない」
あぁ、警部が本当の家族だったらよかったのに。
朝食を食べたあと、今度こそは食器を洗おうと警部に言うが、やはり受け付けてくれない。食器を持ってキッチンに入ってしまった。キッチンカウンター越しに警部がいる。
警部がキッチンに立っている。その事実にいまさら実感し始め、また静かに涙を流す。今度は気づかれなかったみたいだ。
涙が止まった頃、警部の食器洗いも終わる。
「新藤。服、着替えようか。一人できが」
「手伝ってください。一人では無理です」
警部の言葉を遮ってしまった。頑張れば一人で着替えられるのに。余計な迷惑をかけてしまう。けど、どこか甘えたくなる。
「十時前に出て、スマホ買ったあと、腕時計買いに行こうか。きっと昼跨ぐから、どこか食べに行こう」
「はい」
部屋に上がるのにまた警部に運んでもらって、ベッドに座らされる。クローゼットを開けて「どの服がいい」なんて聞かれるが、どんな服装でもよかったから「警部が選んでください」と答えた。それに上から上着を着て、中の服なんて隠れてしまう。
警部が選びだした白いパーカーを着て、警部に支えてもらいながら下に灰色のズボンをはいた。そして再びベッドに座らされる。
家を出る時間までまだある。その間警部と話をしようと口を開ける。が、口から出そうな言葉が金銭の話だと気づいて、口を閉じた。こんなときまでそんな話はしたくない。
警部が隣に座るので、頭を預ける。警部の指にはなにかがはめられているというわけでもない。ごつごつとした男前な手だ。
「警部は、結婚しないんですか」
「今のところはな」
「……なんでしないんですか」
「俺の仕事をしていたら、いつ死んでもおかしくないんだ。そんな仕事してるなかで家族を作ってみろ。大切な人を悲しませたくはない。それに、今は新藤がいる。大切な家族のような、な。まあ、俺にかかれば死ぬことなんてないが」
僕を心配させないためか、警部は高らかに笑う。誰かのために死ぬ仕事。警部の服の袖を掴む。
「絶対に死なないでください」
「……新藤を悲しませるようなことは絶対にしない。もう人を亡くして悲しませるようなことは、新藤にはさせない」
べつに両親を亡くして悲しい思いをしたわけではないんだが。
しばらく隣で話をしていたら、警部はそろそろかと言って立ち上がった。
「どこに行くんですか」
「ちょっと行く場所がある。さっきも言ったように十時前には帰って出かけるから、九時半くらいには酔い止め飲んでおくんだぞ」
「……はい」
頭を軽く撫でられて、部屋を出ていってしまった。けどすぐに戻ってきて、家に鍵をするから貸してほしいと戻ってきた。
鍵を渡したあと、今度は戻ってくることなく玄関の扉が開く音がする。行ってしまった。どこへ行ったのだろう。ベッドに倒れ込んだ。時間までずっと話せると思っていたのに。
小説や勉強もせず、ベッドで警部の帰りをぼーっと待っていた。
そういえば酔い止めを飲んでおくように言われていた。警部の車で行くのだろう。ボディバッグから酔い止めを取り出して飲む。あとは警部の帰りを待つだけ。
なんとなく、帰ってこないんじゃないか。そんな不安に駆られる。実際九時半だ。あと三十分もすれば約束の時間になる。
いつ帰ってくるのか不安に思いながら待っていた。掛け時計を一度見て、数分もしないうちにまた見る。そんなことを繰り返していればもう九時四十五分だ。だんだん十時前に値する時間になってくる。
もうしばらく待つ。時刻は九時五十九分。そして十時。
心臓は動きを早まらせて落ち着きを見せない。どこかで事故に遭っていないか。事件に巻き込まれていないか。そんな不安ばかり抱えていた。不安のあまり、一階にまで下りる。玄関から待たせたと言って帰ってくることばかり想像して待っていた。
そして十時十五分頃、玄関の鍵を開ける音がした。この音を待ち望んでいた僕は、食卓椅子から立ち上がって、壁伝いに玄関まで出向く。扉からは警部の顔が覗かれた。
「遅いですよ」
泣き出しそうな感情を必死にこらえて警部の体にしがみつく。
「遅くなってしまった。心配かけて悪いな」
警部が事故や事件に巻き込まれてもう帰らぬ人になっているのではないか。そんな気がしてならなかった。きっと警部が出ていく前にそんな話をしたからだろう。けど、本当に生きて帰ってきてくれてよかった。
警部が帰ってきたら約束通り、家を出ることになった。先に後部座席に折り畳んだ車椅子を入れられ、僕は助手席まで運ばれる。暖房が効いていて暖かい。マフラーも要らなかったかもしれない。警部が扉に鍵をして出てきたら運転席に乗り込んだ。
「新藤、これ。持っておいてくれ」
渡されたのは家の鍵だった。ボディバッグのポケットに入れる。
「シートベルトしておくんだぞ」
言われて気づく。シートベルトを付ける。警部もシートベルトをしたら車が進みだした。
僕が抱えるボディバッグには財布と家の鍵、酔い止めとエコバッグしかない。どこか出かけるにあたって、スマホを持たないことは少し不安がある。救急に連絡するようなことが外出先で起こられても対処できない。まあ、今は警部がいるからなにも心配することはないだろうが。
「新藤。金は俺が持つから心配しなくていい」
「……いえ、僕が。財布も持っていますので警部は」
「これくらいさせてくれないか」
「…………」
その言葉に胸が締めつけられた。なにに対しての贖罪なのかはわからないが、なんとなくわかる。必ず警部が負わなければいけない罪でもないのに。
「……お言葉に甘えさせていただきます。ですがスマホだけですよ。お昼や腕時計ももちろん僕が出します」
「懲りないな。今日一日中俺が全部出すから、新藤の財布は俺が預かっておく。ほら、よこせ」
「嫌です。あとよそ見しないでください。危ないです」
しばらく揺られたあと、着いたぞと声をかけられて車を降りる。降りた警部の横にピッタリ引っ付いて店内に入った。店に入るなり店の人がどうしたのかと聞かれ、警部が答えてくれる。……警部といると心強い。
車に戻ってシートベルトを付ける。今は僕の手の中に新しいスマホがある。前のと同じ色の少しだけ機能がよくなったスマホが。カバーも店で買って同じような手帳型のカバーにした。一見すると、前まで使っていたスマホを持っているように思えるが、新しいものを手に持っている。
前のスマホは警部が持っていて、一度店の人に見せていたが画面がかなり割れていた。モノの扱いの悪い下条のスマホ画面のようだった。僕が最後に電話したときは綺麗なままだったのに。
店で画面の保護フィルムも買ってもらったが、家で付けるとのことでボディバッグの中に入っている。スマホには買ったばかりに付いている薄いシートが貼られている。
スマホを買い終わったときには真昼になっていて、昼食を食べに行くことになる。
まだ店を出ずに車の暖房で暖まっている。
「なにが食べたい」
「警部が食べたいものでいいですよ」
「俺は新藤が食べたいものが食べたい」
その返答の仕方はずるい。警部の返答にムッとしたら警部がはっはと笑う。
「どこでもいい。回転寿司でもラーメンでも焼き肉でも、パスタでも」
「……僕は本当になんでもいいんです。今の気分ならどれでも食べられます。警部が好きなところへ行ってください」
「……ならちょっといい寿司屋、行くか」
真昼の飲食店は人が多く並んでいる場合が多い。警部が選んだ寿司屋もそうだった。ただ、少しいいだけあるのか、他の飲食店よりは並んでいない気がする。
警部が自分の苗字をウェイティングリストに書いて、子供の人数に「1」、大人の人数に「1」と書いた。
「僕は大人に入ります」
「あぁそうか。俺にとっては子どもだからな。なんたって出会ったときはまだ中学の」
「いいから大人に変えて、テーブルでもカウンターでもどちらでもいいんで書いてください」
「…………」
つまらなさそうな顔をして一度僕を見、ペンを紙に走らせた。なお、子どもの欄の「1」は消されなかったから、警部が持つペンを奪い取って二重線を引き、大人の欄に「2」を書いた。
邪魔にならない位置まで移動してもらったあと、警部は横の席に座る。こういう混み合う場所での車椅子は避けたほうがいいのだろう。
「車椅子、車に置いていきませんか」
僕はべつに腹が負傷してるだけで足は動く。あっても邪魔なだけと思って聞いた。が、
「馬鹿か」
そう一言言われた。邪魔だろうと思って言ったのに。そして少し間を空けられて言われる。
「新藤は邪魔だろうと思うかもしれないが、案外邪魔だなんて思われない。実際に新藤は、日常生活で見かける車椅子を邪魔だと思ったことはあるか」
「……ないです」
「なら他の人も邪魔だなんて思っていない。車に入れる必要はない。それに、必要だから使っている。必要でなければ使っていない」
さすがというべきか、僕が劣ったのか。
順番が来たら警部の名前が呼ばれ、カウンターに案内された。一つ椅子が避けられたところに車椅子を入れられる。警部はその横に座った。
「高さ足りるか」
「はい」
「メニューは、これだな。遠慮せず好きなもの注文していいからな。温かいお茶はいるか」
「お願いします」
いくら遠慮なしに食べていいといわれても、ここは少しいい寿司やらしく普通より少し値段が高い。なにを食べたらいいんだ。……それより、昼食は僕が出すと言っていたじゃないか。
「警部こそ遠慮なく食べてくださいよ」
僕のその言葉に警部は驚いてみせる。
「僕言いましたよ、昼食は僕が出しますと」
「店を選んでおいて奢らせる奴なんてどこにいる。新藤の財布は俺が預かっておく」
足元に置いてあったボディバッグをやすやすと取られ、中から財布を抜き取られる。
「あ、ちょっと、窃盗です。警察に通報しますよ」
「残念ながらもうここにいる」
「そういえばそうでしたね」
二人して笑い飛ばした。
僕が茶碗蒸しを頼んで以来、他の注文をなかなかしないから警部が僕に好きか嫌いかを聞いて、勝手に注文された。だから、会計に行くときには本当に車椅子を運ばれないと動けないくらいに満腹になった。
「警部、本当に出さなくていいんですか。僕出しますよ」
「遠慮するなと言ったのは俺だ。心配するな」
「……ごちそうさまです。邪魔になるので先に出てますね」
警部の返事を聞く前に、店の扉を開けてスロープを下った。
暖かかった店内とは違って、外は肌寒い風が吹いている。店に入るから要らないだろうと思ってマフラーも車の中だ。ボディバッグを抱えて寒さを凌ぐ。車の鍵も貰っていないから開けられない。警部の車もどれか忘れて店の前で待っていた。
この寿司屋は一方は大通り、もう一方は裏通りにつながっている。駐車場も店の大きさと比例して大きく、店内で人が混んでいても車が入れるくらいには広かった。スロープがあるくらいには階段の上に店があるというわけでもなく、駐車場と同じ高さに位置している。
どこかから子供の泣き声が「ママー!」と泣き叫んでいる。母親とはぐれてしまったのか、母親と離れざるを得なくて父親などに連れられて泣いているのか。
どうやら声はこの駐車場に接する裏通りから聞こえてきて、今姿を見せた。二十代後半くらいの女性が子どもを連れて歩いている。姿を見る前は母親以外の父親などが連れていると思っていたが女性か。しかも母親らしき女性だ。
僕はその現状に少し違和感を覚えていた。あんなに引っ張られて前かがみになりながら歩いて腰は疲れないのだろうか。いや、そんなことじゃない。
「っ……」
違和感がなにかに気づいて、その子どもに車椅子を走らせた。
母親らしき人に連れられているのにも関わらずあの子どもは「ママー!」といって泣き叫んでいる。母親がすぐ傍にいるにも関わらずだ。母親を求めているならその人間にしがみつけばいい。
なのに子どもはむしろ女性を引きながら、女性から離れるように歩いている。それにもし本当の母親ならあのくらいの年齢の子どもが泣いていたら普通抱き上げて慰めるものじゃないのか。
勘違いでもいい。勘違いじゃなかった場合を考えて動いた。
「あの!」
僕の声に女性と子供は止まる。
「君、ちょっとおいで。……落とし物だ」
子どもに向けて、慎重に言葉を選んで言った。そしたら女性の手を振り払って僕の腕の中に入った。
「怖かったな。あの人は本当に君の母親か」
小声で聞く。子どもは横に首を振った。
「あの、なんです? 早く返してもらえますか」
子どもをモノのような言い方で……。
「あなた、本当の……いえ、この子の名前なんて言うんですか」
「い、いいから返しなさいよ!」
車椅子を横から蹴飛ばされて横に倒れてしまい、子供まで奪われてしまう。
「くそっ」
腹を抱えながら女性に飛びついた。少年は抜け出せたらしく女性から離れる。
「あそこの建物に入るんだ。あそこなら安全だ」
子どもに振り向いたとき、子供は男の腕の中にいた。仲間がいたのか。そう思ったが、
「警部……!」
「応援を呼んだ。よくやった」
僕が来ていたパーカーのフードの紐で女性の手首を縛って車椅子に座らせてもらい、警察が来るまで子供を腕の中に入れていた。いや、いつの間にか入っていた。
「あし、いたいいたい?」
僕らに信頼を得ているのか、もう泣きもせずこの様だ。
「足じゃなくてお腹。このあたり」
少年の左下腹部を触れる。
「うふふふ、くすぐったい」
ちょっと触れただけなのに。さっき連れ去られようとしていたのに元気なものだ。少し少年をくすぐらせては涙を出すほどくすぐっていた。反応がかわいくてつい。けど、こんなに笑って過ごせる家庭が増えるなら、それでいい。……なんだか、涙が出そうだ。
警察が来たら女性と子供も引き取られた。最後まで女性は悔しそうに、少年は嬉しそうに手を振ってくれた。僕も振り返していた。
「悪いな、任せて」
「いえ。ごゆっくりお子さんと休日をお過ごしください。失礼しました」
警部の部下の人か、誰かが一礼してパトカーに乗った。
「お子さん、だとよ」
「……そうですね」
その「お子さん」になれたらどれだけ嬉しいことか。
車の助手席に乗ったあと、抜いたフードの紐を握りながら警部が車椅子を乗せて運転席に乗るのを待っていた。家に帰ってからじゃないとこの紐付けられないな。
警部が運転席に乗ったら思いだしてシートベルトも付ける。
「新藤は怪我してないか」
「はい。強いて言えばあの少年の笑顔に心を打たれました」
「ははっ、新藤も面白いこと言うんだな。怪我してないならよかった」
僕も初めてこんなことを言ったかもしれない。けど、あの少年の笑顔に打たれたのは確かだ。ギルみたいな明るい元気な笑顔に。
「……それより、よく親子じゃないって見てわかったな」
「ミステリ小説を読んでいる人間に言わないでください」
「……関係あるのか」
「知りません」
わざとらしく微笑む。
一騒動あったあと、今度は腕時計を買いに家電量販店に向かう。
警部がギルのような人ではないから絶え間なく話がされるわけではない。それでも警部が隣にいてくれる。その事実だけで嬉しかった。このあともなにもなく過ごせたらいい。さっきの騒動をその「なにか」に含めるならもう「なにもなく過ごす」ことはできていないのかもしれないが。
しばらく揺られ、家電量販店に着く。今度はマフラーをボディバッグに掛けて車を出た。車椅子に乗せてもらい、押されながら店に入る。
家電量販店では名の通り家電が売っている。買ったことのある電子レンジや炊飯器はもちろん、掃除機や洗濯機、ドライヤー、アイロンなども売っている。テレビで何度か見たことのあるものを見るたびに目移りしてしまうが、新しいものは壊れてからと決めているんだ。
時計エリアに着いた。人がいなくてただ一定のリズムで鳴るうるさい音がする。けど僕が探しているのは腕時計なんだ。もう少し進む。
「ここらへんか。どんなものがいい」
そんなことを言われても、種類などわからない。
「……ゴツゴツしたものじゃなくて、シンプルなものがいいです。あと安いもの」
「せっかく家電屋に来たんだからちょっとくらいいいものでも構わないだろ」
僕の好みそうな見た目の場所まで来たら車椅子を止めてもらい、じっくり見る。
「まあ好きなものを選んだらいい。俺はちょっと気になったものがあったからそれを見てくる」
「わかりました」
警部は離れてしまった。
けど、この視線の高さだと上の段が見えない。下の段に最適なものがあればいいんだが、上の段にあるかもしれない。けど、一度下の段を一通り見て決めよう。
一通り見た結果、いいものは見つけたが、やはり一度は上の段も見ておきたい。……車椅子に支えてもらいながら立って見ようか。そうと決まれば腹を抱えながら車椅子のハンドルがあるところまで足を動かして車椅子に体重を掛ける。この視線の高さは久しぶりだ。筋力が回復してきているのかある程度歩けもする。
一通り見たが上の段で見つけたものより、下の段で見つけたもののほうが気に入った。これにしよう。
一番下にあるサンプルでない、箱に入った腕時計を一つ手に取る。あとは警部が帰ってくるのを待つだけだ。警部を捜しに行きたいが、すれ違うのは面倒臭い。ここで待っていよう。
そうして待つこと数分。後ろから足音が聞こえた。警部が帰ってきたらしい。
「警部。こ」
「騒ぐな。騒いだら殺す」
警部じゃない。
首筋になんとなく鋭利なものが当たっている。これが本当の刃物なら、確実に死ぬ。これ以上ギルたちに心配をかけるようなことはしたくない。
「わかったら大人しくしろ」
手に持っていた箱を戻されてしまう。目的はなんだ……。ただ静かにどこかへ連れられる。
時計売り場は二階にある。後ろにいる誰かはエレベーターに乗って一階のボタンを押す。
誰も乗っていなかったから、そして刃物だと思っていたものがハサミだったから、僕は口を開けた。エレベーターに鏡があってよかった。
「なにが目的だ」
「…………」
素直に口を割るとは思っていなかったが。
もうすぐ出入り口を通ってしまう。なにか、なにかここから出ない方法はないのか……。
会計の横を通る。……それだ。
レジ横にあったカラビナを掠め取る。そして出入り口を通るまで後ろの人間にバレないようにと手の中に収めていた。もちろんレジを通していない。出入り口に設置される防犯ゲートのブザーが鳴り響く。
車椅子を押す人間はなにがあったのかわからなかったようで一度は止まって、次に強行突破しようとするが、傍にいた警備員に結局止められてしまう。うまくいったみたいだ。
「なにも知らねぇって!」
「この人知らない人です。勝手に車椅子を引かれてここま」
「か、勝手なこと喋んじゃねぇ!」
「誰かに知らせるためにこのカラビナを」
手に握っていたカラビナを渡す。男は本当に気づかなかったようで驚いている様子だった。
そして騒ぎを聞いたのか、警部が来てくれる。
「警部……。気づいてくれてよかったです」
「また巻き込まれて……。すみません。警察の者です。なにがありましたか」
警察手帳を見せ、警察だということを証明する。本当に心強い。
男を勤務中の警察官たちに引き渡したら二階に上がって腕時計の売っている場所まで戻る。
「今日警部がいてよかったです」
「普段から頻繁に巻き込まれてるんじゃないだろうな」
「僕はいつものように事件に巻き込まれては事件を解決する少年ではありません。今日は多い日みたいです」
どこかの物語の主人公でもあるまい。
「ならいいが。で、どれにするか決まったか」
選んでいた腕時計の箱を手に取って見せる。
「それでいいのか? 値段気にしてるなら遠慮しなくていい」
「遠慮なんてしてませんよ。それにこれは僕が買うんです」
「財布は俺が預かってるのにか」
「…………あっ」
そういえば取られたままだったんだ。
「財布返してください」
「俺が帰るときにな」
「……な、ならべつのに変えます」
「よーし、レジに行こうか」
「……聞いてくださいよ……」
警部が手に持っていたなにかのケーブルとUSB、そして腕時計を持ってレジに向かう。今度こそはレジに通してから出入り口を通る。やはりレジを通してからじゃないと安心しない。あの時は本当に緊張した。
家に帰ったらソファーに座らせてもらえる。警部はいつまでここにいてくれるのだろう。できればもうずっといてほしい。けど、叶いっこないのはわかっている。
「夕食はどうするんですか」
「……そうだな。なにがいいとかあるか?」
外食はできた。ならもう一つしかない。
「強いて言うなら警部の手作りですかね」
「手作りー? 俺が料理できないの知ってるだろ」
「少しならできるって言ってましたよね。だから」
「強いて言ったら俺の手作りなんだろ? なら」
「強いて言わなくても警部の手作り料理が食べたいです」
強いてなんてことはない。言わなければよかった。本当に食べたい。まずくても。
「……もし作るならなにがいい」
「なんでも構いませんよ。警部が作れるもので」
「と言われてもなー」
冷蔵庫にあるものでなにか作れるものでいいと付け加えたものの、野菜室や冷蔵庫にあるものは傷んでたり賞味期限が切れているものがあるかもしれない。そもそも作る材料がない、か。
「残念だな」
「い、今から買い物に行きましょ。警部が作れるものでいいので、買い揃えましょ。それならいいですよね」
時間的にも。値引きされているものがあるはずだ。最悪総菜ばかりになってもいい。卵焼きだけでもいいから警部の手作り料理が食べたいんだ。
お願いしますと無理を言えば、仕方ないとこぼして連れ出してくれる。場所は近くのスーパーだから歩きで出ることになる。車ではないからきちんとマフラーも付ける。
ここらへんの立地は僕のほうが詳しい。近くのスーパーまでの道案内をする。
「……警部はなにが作れるんですか」
「……チャーハンとか、適当に入れた炒め物くらいだな。味はおいしいのかはわからない」
「それくらいできたら十分ですよ。で、今夜はなにを作るんですか。僕は警部が作ってくれるのならなんでもいいです。でも味噌汁は飲みたいです。味噌汁は作る人によってほんとに味が変わるので、警部も作ってほしいです」
「なら味噌汁と、炒め物と、総菜の唐揚げでどうだ」
「……茶色ばかりですね」
気づいた警部ははっはと笑ってごまかす。けどそれでいいんだ。茶色ばかりでも食べられたら。
僕はただカゴ置きになって警部が欲するものを入れていく。ただ味噌や冷凍のものは家に残っているものもあるからそれを使ってもらうように言った。なにがあったかあまり憶えていないが。
「めんつゆ、ですか。なにに使うんですか」
「炒め物にな。意外とおいしくなるんだよ」
そうなのか。初めて知った。
「けどこんなに大きくなくてもいいんじゃないですか。こっちの小さいのでも」
「そっちもあったか。ならそっちでいい」
警察官の割に意外と見落としがちだな。
あと飲み物もなにか買っていくことになって飲み物が売っているエリアに行く。ここは寒くてあまり好きじゃない。
並ぶ飲み物は見たことないものもいくつかあった。いつもコーヒーでジュースを飲むことはあまりないが、たまにはジュースでもいいかもしれない。第一警部がいる。りんごジュースにしようか。
他になにか良さそうなものはないかと見ていると、警部が一言「新藤悪い」と言って離れてしまった。手に持つのはスマホ。
「…………」
選んでも意味がないようだ。
ただもし電話の内容が違った場合のことも考えてりんごジュースを手に取る。僕の勘違いであってほしい。
けど戻ってきた警部の表情を見て、勘違いで済ますことはできないとわかった。
「新藤、悪いが」
「いいんです。……楽しかったです。ありがとうございました」
「本当にごめんな」
俯く僕の頭を撫でられる。
「また来るからな。いつでも連絡してくれたらいい。本当に申し訳ない」
一つの足音が遠くなっては聞こえなくなる。仕方ないんだ。仕方がないことなんだ。
目からあふれたものが頬に伝ってくる。
でももっと、一緒にいたかったな。
ただあふれる涙を拭って、声を殺して、拭った。
なにも出なくなったあと、感覚のない手で車椅子を動かす。かごに入っていたものを全て戻す。りんごジュースも、めんつゆも、かごも、なにもかも。
ただ一つのカップ麺を手にレジに向かった。
月曜日。
誰にも起こされない朝。アラームが鳴る前に起きた。誰にも起こされない。これが普通なんだ。これが普通でしかないんだ。これがいつも通りの日常なんだ。
昨日にあったことを忘れるように、学校へ行く準備をする。それでも腕時計を着けるために、昨日買ったものを開けたら思いだしてしまう。……次はいつ会えるのだろう。目が潤ってしまって、袖で拭う。まだ起きて一時間も経っていないのに、涙なんか流してたまるか。
今日もコンビニでなにか買っていく。もうそろそろ車椅子も要らなくなってくる頃だと思うのだが、様子を見ないとわからない。
いつも通りギルがインターホンを鳴らし、いつも通り学校へ向かう。そしていつも通りギルの話を耳に入れる。
「今日のれーくんちょっと元気ない?」
「……知るか」
「うーん、なにかあったの?」
「……べつに」
昨日にはなにもなかった。ただスマホを買って、腕時計を買った。それだけだ。
「そう? あ、腕時計新しいの買ったんだ! かっこいいね」
「…………」
けど、やっぱり昨日には警部がいた。紛れもない事実なんだ。
「昨日……警部と過ごした」
「そうなんだ。よかったね! なにしたの?」
「……外食と買い物。一昨日には来てた。でも……数日徹夜をして倒れた警部を寝かしつけて、一日が終わった。外食と買い物をして……楽しかった。けど昨日の夕方頃に……」
「……そっか。……また来てくれるといいね」
「…………」
次はいつになるんだろう……。
朝から気分の優れないまま意味のわからない授業を受ける。そして昼食の時間になった。今日も購買で買ってくる。今日はなにがあるのだろう。
いつもギルが一緒に付いてきて、今日も付いている。列に並んで待つ。
「早くれーくんのお弁当食べたいなー」
「……もう少しだけ待ってくれ」
順番が来たら急いで決める。後ろにも並んでいるから長居はできない。手に焼きそばパンとウインナーパン、そしてりんごジュースを手に取って金を払う。
ギルの筋力は回復したこともあって、車椅子を任せている。僕はパンが落ちないように持っていた。
「れーくんがりんごジュース買うなんて珍しいね」
「……まあな」
教室に戻る前にギルがトイレに行きたいということでトイレ前で待っている。りんごジュースだけ先に開けて飲んだ。味がしない。
ギルを暇に待つ。
「あれ……君?」
聞いたことのある声。顔を上げれば見た目のスッキリした先輩がいた。ズボンもはいている。
「え、マジで君じゃん。どうしたんだよそれ」
先輩と会うのはいつぶりだろうか。何度か学校で見かけたが、こうして目を合わせるのは久しぶりだ。
「お久しぶりです。少しいろいろありまして」
「いろいろありすぎな? どっか怪我してんのかぁ?」
「まあ、はい。もうすぐ歩けるようになると思いますけど」
「へぇ。君でも大怪我することあるんだなぁ」
先輩は物珍しそうに車椅子をあちこち見る。
「で、どこ怪我してんだぁ? なにで怪我したんだぁ?」
「……腹部を刺傷、ですかね」
「……はぁ? なにがあったんだぁ?」
「……少し巻き込まれまして」
「へぇ……。まあ、死ななかったならいっか。命大事にしろよ」
出会ってなかったら死んでたくせになにを言っているのだか。
それより、僕は先輩の姿が気になる。男に見えるその姿が。
「胸、切ったんですね」
「あ、そうそう。言おうと思ってたけど全然君と会わねぇからなかなか言えなかったんだぁ。どうだぁ、男みてぇだろ?」
「ええ。それにきっと、『男みたい』ではなくもう『男』なんじゃないですか」
「いいこと言うじゃんかよぉ!」
肩をバシバシ叩かれる。ついでかのようにりんごジュースも飲まれる。返ってきたストローには噛み跡があった。噛まないでもらえますか。
以前に会ったときよりもなんだか表情が明るい。本当に先輩の望む方向に進んでいるんだな。それなら本当によかった。
「これであと声低くなって身長が高くなればもう男なんだけどなぁ。もうちょっとってところで手が届かねぇ。それに身長に関しては体いじんねぇとどうしようもねぇだろうし。さすがにこれ以上体いじんのは親父にキレられる。けど、身長はもうこれでいい。靴とかでごまかせるし」
「……いいと思いますよ」
目の前にいる先輩の姿に、目はまだ慣れない。それでも目の前に映る人間は、たくましく美しく見える。僕よりも強く、勇敢な一人の人間だ。
トイレから水の流れる音がする。ギルが出てきそうだな。もうそろそろ、
「そういえば君と連絡先って交換してなかったよなぁ? しようぜ」
「……ぜひ」
まだもう少しだけいれるらしい。
僕は交換の方法がわからないので先輩に任せる。
そして交換できるのを待っている間にギルが出てきた。初め先輩のことを誰だとでも言いたそうに静止していたものの、誰かと気づくなり、
「先輩さんだ!」
「あ? ……あぁ、ギルくんだっけ? よっ。かっけぇだろ」
「うん。すごく似合ってる!」
その言葉が嬉しかったのか「さすが君の友だち」と、ギルの肩もバシバシ叩く。こんな笑顔、見たことないな。
先輩からスマホを返された。画面には先輩のプロフィールが乗っている。
「いつき……」
画面の名前が書かれる場所に「一樹」とあった。ギルが隣で覗き込む。
「あぁ、そう……。本当はさぁ、俺が新しい名前を決めようと思ってたんだけどよぉ、親父がそれにしろってうるさくてそれになった」
「……素敵な名前だと思います。とても」
一樹……。いつき。
「君の名前はなんて言うんだぁ?」
「先輩さんれーくんは『れん』って言うんだよ」
「ふぅん。だからいつもそう呼んでたんだなぁ。君の名前もいいと思うぜ。君らしい」
「先輩こそ」
一樹。とても先輩らしい素敵な名前だ。
「一樹さんかー。じゃあいっくんだね」
……あだ名がか? 少し馴れ馴れしすぎないか。
「なんかダセェ。駄目だぁ。君には『先輩』としか呼ばせねぇ」
「えぇー。そっかー」
だろうな。語呂が少し幼い。先輩にそういうあだ名にしているのなら、もしや、心のなかでは下条やケイのことを似たようなあだ名で呼んでいたりするのか……?
「せっかく君の名前知れたから蓮って……呼んでほしいかぁ……?」
「構いませんよ無理に呼ばなくて。一樹先輩の呼びやすい」
「い、今、なんて……言ったぁ」
なにかヘンなこと言ったか?
「一樹先輩の呼び」
「それだぁ……。その呼び方されるのくそ恥ずいわぁ」
本当に恥ずかしがっているな。片手で顔を隠している、頬を赤くさせて。
「なら、今まで通り先輩と呼びましょうか」
「それは……それでせっかくの新しい名前がなぁ。名前呼ばれるの君か親父くらいしかいねぇから」
少しワガママだな。
「……いやぁいい。せっかくの新しい名前だぁ。……好きに呼べ。べつに先輩付けずに『一樹』って呼んでも許してやる」
「……僕はあなたの後輩でいたいので、『一樹先輩』と呼ばせていただきます」
「……相っ変わらずいいことしか言わねぇ。いい、それがいいならそれでいい。これからもよろしくなぁ」
先輩の手が差し出される。いまさらお互いの名前を知ることになるなんてな。差し出された手を握った。僕より小さい手。けど体温がする。
あの時先輩を救えた。もし本当にそうなら、僕も死ななくてよかったと思える。
「これから飯だろぉ? 一緒にどっかでく」
「あ、いたいた。森泉、一緒に飯食おうぜ」
一樹先輩の肩を叩いた人が出たと思えば、僕と目が合った。森泉っていうのは、先輩の名字だろうな。
「おぉー……おぉ、タイミングわりぃ……」
一樹先輩の友人……?
「あ、今お取り込み中だった? てか森泉にも友だちいたんだなー」
「ったりめぇだろ。言っとくけど、お前よりこいつのほうが仲良いから」
肩を叩かれる。
「……こんにちは」
「……障害者?」
少し憂いみのある言い方をされる。けどとても温かく聞こえた。この人だから、一樹先輩と仲良くなれたんだろうな。
「あぁ、なんか巻き込まれたってぇよ。腹怪我してる」
「へぇー。大変だったなー。まあ、治るならよかったじゃん。な」
一樹先輩に確認を求めるように腕を肩に回した。
「今からこいつと飯食おうと思ったらお前が来たんだぁ。だから失せろ」
「こっわ。急に失せろとか……」
思えば先輩が他の人と関わるところ、見たことないな。僕と話しているときには使わない喋り方だ。
そういえばギルは。首をひねってあたりを見渡すと車椅子の後ろに隠れていた。一樹先輩までならいけたが、一樹先輩の友人が来て隠れた、っていうところか。ところどころギルにも恐怖に思うことがあるらしい。
「じゃあその子と一緒に三人で食うってのは?」
「……んー」
気に食わないことがあるのか、先輩は頷かない。
「俺、こいつと喋るときってだいたい二人だけで話してたから、お前と一緒にいたらうまく喋れねぇ気がする。それに食べるならこいつとだけで食べてぇし」
友人になりたてなのか……? あまり仲良く見えない。
「ひっど。てか二人で話すってマジで仲良いじゃん。えぇーどうしよー」
確かに一樹先輩となにか話したい。ずいぶん会っていなかったから。けど、
「……一樹先輩、また今度にしませんか」
「先輩って、年下? 同い年だと思ってた」
「……ここは学校ですし、どこかゆっくりできる場所があると言えばないです。放課後でなければ時間も有限です。昼休憩の間にきちんと収まるようなお話ができる確証もありません。ですのでまた今度にしませんか。僕の家には基本いつでも上げられますし、さきほど連絡先も交換しました。連絡くださったら食事の用意もできると思いますので」
「そうだなぁ。君とは人の目気にせずゆっくり話してぇ。また近々君の家行くわぁ。飯はべつに寄こさなくていいけどよぉ。君の家に上げてもらってるのに飯まで作らせられねぇ」
「そんなこと構いませんのに」
「……君たちってなんかそういう関係……? 学校じゃできないみたいなこと言ってるし」
なにを想像しているんだこの人は。
「てか、俺と話してるときとなんか違くない? そんな喋り方だっけ」
そう言って一樹先輩の頬を指で挟む。
「うっせぇなぁ。さっきも言ったけどお前とこいつだったらこいつのほうが仲良いんだよ。こいつとの関係に口挟むならお前と縁切るからなぁ。俺はべつにお前に理解してもらう必要なんかねぇ。こいつが理解してくれてるんだ。正直それだけで十分だ。それに……俺が女だったとき、お前べつに話しかけて来なかっただろ。むしろけいべ」
「あの!」
もう駄目だ。これ以上は。
「……僕があなた方の間に入るつもりはないです。けど、人を傷つけるのは駄目です。手を上げなくても、人は簡単に傷つきます。言葉だって刃物と同じほど鋭いんです。……傷ついて、傷つけられて、その先にある未来はきっと良いものではないです。ですから、どうか、口を閉じてください。一樹先輩なら……わかってくれませんか」
一樹先輩は一度頭をかいて、
「……わぁった」
きっと車椅子の後ろで隠れ続けるギルに向けて手を伸ばした。そして伸ばした手が握られる。その手は震えていた。
「……そんなつもりなかったぁ。ごめん」
素直に謝る一樹先輩を見た友人は少しだけためらっているみたいだった。けど一樹先輩に続けて頭を下げる。
「俺こそごめん」
ひとまずは安心だろうか……。
「お前とはこいつほど仲良くねぇのは確かだ。だからある程度接し方も変わっちまう。それを許せとは言わねぇけどわかってくれねぇか」
「まあ……そういう違いとか埋めれたらいいなって俺は思う」
「ってぇことだ。君はこれで安心できたかぁ?」
「……ええ」
少しだけ。
「君にこれ以上迷惑かけられねぇ。また今度ゆっくり話そうなぁ。じゃ」
「あ、少し……待ってください」
友人を引っ張って行こうとする一樹先輩を呼び止めた。そして傍にいる友人に離れてもらう。
「なんだぁ?」
「……あの方とはいつから仲良くなったのですか」
「えぇー俺が胸切ったときくらいだなぁ。だから九月くらいから。それがどうしたんだぁ?」
「……少し馴れ馴れしくないですか。さほど仲良いとは思えない割には一樹先輩へのスキンシップが多いような気がします」
「そうかぁ? 男ってこんなもんだろぉ」
そうだろうか。あの人同じようなヤンチャを想起させるような友人が、僕にいるかといえばギルや下条だが、その二人が誰かにあんなスキンシップをするというわけでもない。腕を肩に回すくらいはしても、頬を指で挟まれたりは……。
「……僕は少しだけ、あの人が気に入らないです」
「そうかぁ? 俺のこと理解できるっつって九月くらいに話しかけてきたんだけどよぉ」
「その理解できるといって、話しかけてきたのは胸を切ったあとの九月というのも引っかかります。……もし友人を欲しているのであれば、きっと他の方がいいです。あの人は……」
少しだけ嫌な予感がする。
「君がそう思う理由は納得しねぇけどなぁ。まあ、俺が自分で判断するから、君は君の友だちを大切にしろ。今もずっと隠れてんだろ後ろで。そろそろ立たせてやんねぇとかわいそうだぜぇ」
「……そうですね。引き留めてすいません。もしなにかあれば連絡ください。少しばかり心配です」
「君の今の体じゃどうにもできねぇだろうけどよ、ちーっとだけ君の言葉を憶えておいてやる。昼休憩の時間使って悪かったな。また話そうぜ」
「……ええ。では」
一つ肩を叩いて僕の横を通っていく。なんで僕はあの人のことを警戒するのだろうか。
「ギル。遅くなった」
後ろに向けて言ったらギルがゆっくり立ち上がる。
「ううん、ありがと。教室戻ろ!」
至って元気そうに言った。その顔でいられるなら安心する。今度も車椅子を押して教室に向かってくれる。
「そういえばれーくんスマホ買ってたんだね。データはあるの?」
「らしい。だからギルたちの連絡先もあるはずだ」
「ならよかった。もしなくなってたら言ってね。全然交換するから。俺が持ってる人のであれば交換できるし」
けど、僕はギルたちとさっき交換したばかりの先輩の連絡先、そして警部の連絡先があれば十分だ。それ以上もいらない。
終学活が終わり、放課後になる。帰る準備が終わった生徒からぞろぞろと帰り、一部の人は残って掃除をし始める。僕は鞄を持って車椅子に乗って待っていた。ギルが掃除を終えるまで。
暇に廊下を歩く人を見ていたら、目の前にその一人が止まる。顔を上げると担任の先生がいた。妙に真剣な顔をして。
「……どうしましたか」
ふいに以前のことを思いだして、体が緊張を覚え始める。
「……今日、行くからな」
「…………」
そうだった。家庭訪問のことだ。忘れてしまっていた。
先生はそれだけ言うと目の前から離れる。
先生がいなくなっても鼓動は早いまま。
どうしよう。親がいないことがバレてしまう。今からでも警部を呼び寄せるか? いや、警部もいそがしい。こんなことで呼び寄せられない。
焦りを顔に出した。だからきっと前を通ったケイが聞いてきたんだ。いや、近くにいて聞こえていたんだ。
「さっきのなんだ? 今日行くからなって」
「…………」
ケイになら言っていいだろうか。いや一人で解決できる。僕だけでなんとかできる。しないと、また今度も巻き込む。散々迷惑も心配もかけてきた。もう、絶対にかけられない。
「……さあ。先生の独り言じゃないか。僕も言葉の意味は理解できなかった」
「…………」
怪しんでいるのか表情に安堵を見せない。
「……またそうやって、一人で抱え込もうとしてるんだろ」
「…………」
「……蓮はいつだって一人で全部抱え込んでる。なにもかも。昔から変わってない。手伝ってほしいときも、一人じゃ解決できようのないときも、助けてほしいときも。蓮のいつまでも治らない悪い癖。いや性格。……ギルくんから何度も言われてるだろうけど、俺はそうやって隠されるほうがもっと心配する。……いい加減人を、いやせめて俺とかにはさ、なにもかも話せるくらい信頼してくれてもいいだろ」
「きっと信頼だとかではなくて迷惑を」
「だからそうやって隠されるほうが迷惑かけられてるって言ってんの。なんでわかんない?」
「…………」
眉を少し上げて、声も少し大きい。怒られている……。怖い。
カーディガンを握る。
「……わ……」
わからない。
そう反論しようにも、声が震えて出ない。次第に目の前も歪みだす。
「……あ、いや、泣かせたいわけじゃ……強く言いすぎた、ごめん。でも」
「わ……かっている。全部……僕が悪い」
「いやそんな」
「今日はもう……ほうっておいてくれ」
「…………」
なにか言いたそうに口を開けた。けど、なにも聞こえないまま、食いしばる。ただ小さく開いた口から「ごめん」と声を出して前から消えた。もう誰にも迷惑かけられない。
掃除が終わったらしく、帰る準備万端のギルがやっと帰れると嬉しそうに僕の前に現れた。
「お待たせ、かーえろ」
「……あぁ」
家に帰りたくないなんて思ったの、何年ぶりだろうか。
ギルはその心情に気づいているのか表情を不安にさせる。
「どうかしたの?」
「……なんでもない。……帰ろう」
「ほんとに?」
「……本当に」
いつまでも不安そうな顔をしたまま、それでも「押すよ?」と優しく聞いてくれて「ああ」と答えた。ギルにも、ケイにも、誰にも、迷惑はかけられない。一人でどうにかしないと。
見飽きた風景、それが家に近づくにつれ鼓動が早くなる。まだ先生はいないはずなのに。けど幾年前の家に帰りたくないと言う気持ちの種類が違う。まだ耐えられる。
家に着いたあと、いつも通り部屋まで送られそうになるのを今回は断った。
「もうごはん食べるの?」
「……少し用がある。このあと来客があるから、今日は帰ってくれないか」
「……うん」
きっとギルも気づいている。なにか隠していることを。僕が来客なんて言葉を使わないことを。
「ほんとに一人で大丈夫……?」
「構わない。最悪その来客に手伝ってもらう」
「……そっか。じゃあ帰るね? なにかあったらすぐ言ってね、俺すぐ行くから。……また明日」
「ああ」
家まで送れないから、見送れるところまで見送る。扉が完全に閉まって、鍵のかける音が聞こえたら、
「…………」
軽く食卓とリビングを散らかして、僕以外にもいると思えるように細工する。
そして待つ。
「…………」
いつ来るかとソワソワしていた。が、なかなか来ない。もし本当に勘違いだったならそれでいい。
少し緊張を溶かしながらも、時が来るのを待った。
そして六時半過ぎ。
来ない。
いくら待てども来ない。
本当に来ないのなら夕食の準備をしよう。そう思って腹を抱えながらキッチンに向かって冷蔵庫を見る。なにを作ろうか。野菜も多く残っているし……野菜炒めにしよう。
野菜を冷蔵庫から出して、まな板と包丁も取り出す。と、インターホンが鳴った。
こんな時間に誰だ? と一瞬思ったものの、思いだした。来客があるんだった。
心臓をうるさくさせながら玄関まで行って、扉を開けて顔を覗かせる。やっぱり、
「遅くなってすまないな」
「…………」
歓迎の言葉くらい言ってもよかったはず。でも出なかった。ただ静かに通した。
「生徒の家に入るのはやっぱり楽しいものだなー」
いつもの雰囲気でそんなことを言う先生だが、今度ばかりは笑えるものでもない。
食卓まで案内して水を出すためにキッチンに入る。
「夕飯作るところだったのか?」
「…………」
わかっているくせに。
「そうだとなにか悪いですか」
「……なんにも」
先生の前にコップを出したら、ためらいながらも僕も向かいに座る。
リビングの生活感を出そうと少し散らかしたが、きっと意味もないんだろう。キッチンも、玄関も、親がいないこと、それを証明している。
「そういえばさっき歩いてたな? 歩けるようになったか?」
「……少し。壁などに支えられながらなら」
「それはよかったー。もし走れるくらいまで治ったらクラスのみんなで鬼子でもしようかな」
「……勘弁してください」
走れるようになった直後だから嫌だなどではなく、単に走ることはしたくない。それに鬼子だなんて、子供の遊び。
「今夜はなに作るつもりなんだ?」
緊張をほぐしでもしているのか? 一向に本題に入る気配が見えない。
「……今日ここに来た理由は知っています。……さっさと話を済ませませんか。もう、わかってますよね」
脳天気そうな表情からぐんと口角が下がって、真剣な表情になる。別人みたいに。
「……新藤がそれを望むなら、早速本題に入ろうか。
なんで俺が今日ここに来たのか、理由はわかってるんだな?」
「……明白です」
「なら話が早い。一応確認する。親はいないんだな」
ためらいを持つものの、頷く。証明されているものを、確信されているものを、どうすればねじ曲げることができる?
「今まではどうやって過ごしてたんだ。ずっと新藤一人で過ごしてたのか?」
「……それだとなにか悪いですか」
「悪くはない。ただ、本当のことが知りたかっただけだ」
「……嘘です」
他になにかあるに決まっている。ここに来た理由が。
「本当だ。なら他になにを知りたくてここに来たと思う」
「…………」
他の理由。わからない。けど、きっとなにかあるはずだ。
「……はぁ。新藤はずっと、俺が探りを入れたときから敵対してきてるのは十分にわかる。まるで俺が『敵』みたいな目つきで警戒してる。今も体に力が入って疲れてるだろ?」
敵、か。
「……そうさせたあなたが悪いんです」
「俺がー? 俺はただ……。まあいい。
新藤、お前は敵として接してるかもしれないけどな、俺は新藤の担任なんだ。先生。新藤は俺に守られるべき存在なんだ。そんな敵だなんて思わないでくれ」
声色が……変わった。いや、今まで僕の脳が勝手に敵の声にしていたのかもしれない。
「……僕は一人で生きていけます」
「そういうのじゃなくて。確かにな、新藤は一人で生きていける力があるはずだ。料理もできるみたいだし。今まで、どれくらいの期間一人で暮らしてたのかは知らないが、きっと同い年の子供より十分に自立できている。
けどな、人間ってのはそのうち一人で生きざるを得なくなるんだ。年を取ればいずれ。だからな、新藤にはまだ早いんだ。まだ高校生の新藤は大人に守られるべき存在なんだ。だから、もう少しの間だけ大人のもとで暮らしてもいいんじゃないか?」
「……つまりは養護施設などに、入れということですか」
思っていた通り。先生は大きく頷く。
要は一人で生きるにはまだ早いからもう少し大人のもとで暮らせと言っているのだろう?
「必要ないです。僕には。僕は一人で生きていけます。大人の力なんて必要ないです。……今のこの自由を奪わないでください」
僕の答えに、先生は頬をかく。
「今の俺の話聞いてたか」
「ええ。……その話の提案を僕は今否定しました」
「あぁー」
顔を歪めた先生は頭をガッガッとかく。
「わかった。わかった、素直に言う。俺はお前の先生だ。お前の先生は俺だ。だいたいの先生はな、自分が持つクラスの生徒を本当の子供のように大切なんだ。俺も同じだ。俺のクラス生徒である新藤が、一人で過ごしてるって知って心配なんだ。だから」
「無理です。……そんな理由で養護施設には行きません。先生のエゴじゃないですか。他人のエゴのために僕は縛られたくはないです」
そう反論したら、一度は口を開けたものの、言葉は出ずに溜息が出る。そしてコップを持って口に運んだ。
「なんでかなぁ」
空になったコップを置いて下を向く。なにかを考えている。
「……水、まだ要りますか」
「……要らない」
先生は目を瞑ったまま、静かな時間が流れる。ふと左腕を見たあと、口が開かれた。
「新藤はなんでそんなに一人で生きたい」
「……理由もないです。ただなにかに縛られたくないだけです」
「……そうかぁ」
諦め。そんな思いが伝わってくる言い草。
「新藤。俺はな、心配なんだ。そこはわかってくれるか」
「……理屈はわかりますけど、同情はできません」
「はぁー。いい、またこの話をしよう。
俺な、新藤が初めて無断欠席したときな、ものすごく心配したんだ。そのあとな、英川のご両親から事件に巻き込まれたと聞いたときにはもっと心配した。授業中でヘマを連続させるくらい。それだけ新藤も他の生徒も心配になるんだ。
だからわかってくれ。心配させないでくれよ」
「…………」
エゴだ。
頷けずにいると、インターホンが鳴った。先生以外の来客の予定はなくて、不思議に思ったものの、出てみると、
「近くに寄ったから来た」
警部だ。
招き入れた警部と、先客の先生が名刺交換したあと、なんでこういう状況になったのか先生が話してくれる。
「それに新藤は反対しているのか……」
僕の隣に座った警部がちらとこちらを見る。
「新藤は入りたくはないんだな」
「……はい」
「ならなしにしましょう。本人が嫌がるのならそれはできないです先生。人生は一度キリなんですから、本人の生きたいように生かせてもらえませんか。それにときどき私もこうして顔を覗かせますし、新藤は新藤なりに一人で生きる力も知識もある。心配されなくても、この子は一人で大丈夫ですよ」
頭に置かれた手が左右に動く。警部の手、大きい。
「それにもうすぐ成人します。守られてばかりの年でもなくなるんですから、それの練習だと思えば先生の気休めにでもなると思いますが。なにより家族同等の私が言うんです。学校の担任の先生であれど、こちらに歯向かうことはできかねると考えます」
家族同等。家族……。
「わかりました……。この件についてはこちらから引き下げます。僕の心配が過ぎました。こんな心強い方が新藤の傍にいるのであれば、心配ないですね。……新藤をお願いします。このあともまだ残業があるので、僕は帰ります」
先生が立ち上がるから、僕も立って見送ろうとするが、警部に止められた。俺が行く、と。
「……新藤、また学校でな。さようなら」
「……さようなら」
挨拶を交わしたあと、先生は玄関に向かう。警部があとを追った。
警部が玄関まで見送って帰ってくる。
「大変だったろ。呼んでくれたらよかったのに」
「……迷惑かけられないです」
「迷惑だとかは思ってないんだが、まあいい。またああいう話が出たならいつでも呼べ。息子の危機が迫ってるとでも言えば行かせてくれる」
「結婚指輪すらしてないのに、無理でしょう」
「かもな」
はっはっはと笑う。
時計を見て時刻を確認する。一時間ほど話しをしていたらしい。ずいぶん時間が経ってしまった。水滴で水たまりを作っている野菜を見て思いだす。
「あの、このあとって用事ありますか。よければ夕食、一緒に食べませんか。野菜炒めを作る予定です。いえ、要望があればそっちでも」
「いいや、いい。新藤の作る野菜炒め、食べたことがないからな」
ニコッと笑ってくれる。さっきまで大量に体にのしかかっていた不安が、なくなっていることに気づいた。
数週間後の平日。放課後。
「敬助くーん、れーくん掃除終わったよー。帰ろー」
掃除が終わるまで廊下で壁にもたれていたケイを起こす。
「あ、起きた。帰ろ!」
「んー」
一度大きくあくびして、大きく伸びたあとに立ち上がった。よくこんなところで寝れるものだ。
ケイが動けるようになったら学校を出る。歩けるようになった足で一歩ずつ。
「なんか今日一日時間進むの遅かった気がする」
「そう? 俺は早かったけど」
「ケイは寝ていたからだろ」
「ははっ、まあ」
僕もなんとなく時間が過ぎるのが遅かった気がした。普段と変わらないはずなのに。
「にしても、れーくんすっかり歩けるようになったね! この前手こずってた黒板消しもすいすいできるようになっちゃって」
「もうあの生活には戻りたくない」
こうやって歩けることがどれだけ幸せなことか。車椅子生活をしていたとき、どれだけ体の負担に気を使っていたことか。
「あはは、だねー。でももしまた怪我したとかで車椅子使うようになったら俺がお世話してあげるからね!」
「そもそももう怪我すんな。そんなに言われたらいつ怪我するかハラハラしながら蓮のこと見てないといけない」
「それは確かに! じゃあ怪我しちゃ駄目だよれーくん!」
もう今後一生切り傷さえもしないのであれば願いたいところだ。痛い思いはしたくない。
ギルを家に送ってケイと僕の家に向かう。と言ってもケイが勝手に付いてきているだけだが。理由は聞いていない。
「今日はまっすぐ帰りたくない日か」
「早く帰れる日はいつも真っすぐ帰ってないさ。スーパー寄ったり小さいけどゲーセン寄ったり、こうして蓮の家寄ったりな」
「悪い奴だ」
「そりゃどうも」
家まで付いてきたケイは家に上がることが当然のように僕のあとを付いてきた。口を開けることもなく食卓の前で止まる。なにか企んでいる。
「座れ。コーヒーでいいか」
「ん」
荷物を下ろしたあとカップを出してコーヒーメーカーに設置してボタンを押す。
シンクで手を洗ったあとコーヒーが淹れ終わるのを傍で待っていた。
「…………」
「…………」
なんの話をするのだろう。
コーヒーが淹れ終わったあとカップと受け皿を持ってケイの前に出す。
「ごめんな、ありがと」
ケイは淹れたてのコーヒーを数口飲む。僕は向かいに座った。
「なんの用だ」
「……バレてるか」
「すごく」
ケイがもう一口コーヒーを飲んで置く。湯気が揺らめいてとても温かそう。
「……一口くれないか」
「いいけど、蓮のは淹れてこないのか?」
受け取ったカップを持って飲む。温かい……。
「白湯を作る」
「貧乏性」
暖房もつかないリビングで、防寒具を外せないままでいる。寒い。
鍋に張った水が沸騰する前に止めてカップに注ぐ。それで暖を取るようにしてケイの向かいに座った。息で少し冷ましてから一口飲む。……熱い。
「で、要件は」
「……この前さ、先生が蓮の前にいたときに、蓮が独り言だってごまかしたの、なんだったんだ」
その話か……。ずいぶん時間も経ったから忘れていると思っていたのに。
「……あの時は悪かった。あれは先生の独り言でもない。僕に向けて言った言葉だ。……簡潔に言うと、先生が家庭訪問に来た。親を探るために」
「……それって、親いないこと」
「ああ、ごまかせなかった」
「……蓮はそれでよかったのか」
「……よくは思っていない。が、そうなってしまったんだ。仕方がない。それにいずれバレることだと思っていた。それがあの日だっただけだ」
白湯を飲んで口内を潤す。
「他には? なにか話した?」
「……特には話していない……な。ただ先生が親がいないことを心配していると言っていた」
「……心配してるさ。先生でなくとも」
「…………」
やけに顔を暗くさせたケイはコーヒーを飲み干した。
「……用はそれだけか。もうこの時間になったら外も暗くて夜道も危ないし、早く帰れ。ただでさえ家まで遠い。帰れ」
「…………」
ケイは立ち上がった。珍しく素直に帰るのか。ほんの少しの寂しさを覚えていたら、
「……もう少しだけいさせて」
頭を抱かれる。
素直に言うことを聞く奴じゃなかったな。
ただずっと、ずっと静かに頭に、肩に腕を回されていた。
これがケイが今までに心配してきた分なんだろうとふと思う。それだけ心配させてきていた。事件に巻き込まれたときから。もしかしたらそれよりも前から。ずっと、ずっと。
嫌いに思うこの体も、大切に思ってくれる誰かがいる。それだけでこれからも生きていこうと、心配させるようなことさせないように、と思える。失ってはいけない体なんだと思い知らされる。
――命は一瞬にして奪える割に、一人一つしかない大事なもの――
今なら十分に理解できる言葉。
「早咲きの蓮華は地面咲いた」の八作目、「独り家族」を投稿しました。
前半少しグロテスクな表現があって書いてるとき僕自身も少し吐き気を覚えながら書いてました。こんな描写いるのか? とは思いましたけど、そういう人も実際にいるのだと考え直して消さずにいました。
今作は「憧れの存在」と少し似たようなところがあったのかと思いますが、家族とひとくくりにしたなかのもう少し繊細なことのお話だったのではないかと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




