表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/20

独り家族(3/4)

 翌日の学校終わり、今日は下条と帰った。べつに一緒に帰るつもりはなかったけど、下条が急に一緒に帰ろうぜとか言いだして帰ることになった。

 下条は自転車で来てるらしく、押して俺の隣に付いてる。横ハンの黒の自転車。自転車で通学とはさぞかし楽かろう。

「敬助ってどこらへんに住んでるんだ?」

「隣町」

「えっ! そんな遠いところから徒歩で来てるのか! 自転車買ってもらわないのか? 隣町って自転車、せめて電車で行くレベルだろ……」

「自転車、子供の頃に使ってたの小さくてそのまま捨てたから、あれ以来使ってない」

 そのおかげで長い時間歩く耐性は付いてる。

「家から学校まで何分くらいなんだ?」

「……三、四十分くらい」

「もう自転車買ってもらえよ。よく今まで三十分歩いてここまで来てたな。どっち方向? 俺の家まで乗っていくか?」

「この道しばらく真っ直ぐだけど、二人乗りは最悪金取られるぞ」

「げっ」

 高校生はもう大人と同じだからな。最悪金取られるし、親とか学校からも怒られるかも知れない。

「じゃあ、敬助が途中まで自転車使って、俺が走るのは?」

「このままでいい。それになんで下条が走るんだ。走るほうが体力削られるだろ」

「……敬助がそれでいいならそれでいいけどよ……」

 それにしばらく自転車に乗ってなかったから、うまく運転できずに壊してしまうかもしれない。それは親からくそ怒られるからやめたほうがいい。

「なんで急に俺と帰ろうって言い出したんだ?」

「いつも蓮たちと帰ってるだろ? でも今蓮たち入院してるから、敬助一人になるんじゃねぇーかなって思って」

「下条はいいのか」

「俺はいつも違う人と帰ってるから。まあ、友だちの中でも家が同じ方向にある奴とだけどなー」

 下条に親友という存在はいるのか? いつも休み時間はいろんな男子と話して時間潰してるみたいだけど、蓮とギルくんみたいに特定に仲良くしてる人、見たことない気がする。

「友だちって何人くらいいるんだ?」

「友だち? んー……んー、今までの幼稚園小中高って合わせたら三十八くらいで、今の高校だけなら十五人くらい」

 多い……。普通このくらいいるのか? 俺が少ないだけ? 俺に友だちって言える人は蓮とギルくんと下条に垣谷、ついでに柊も。……あと前の高校のときにいたあいつくらいか。いや、でもあいつは……たまに話しかけてくるくらいで、友だちじゃないかも。なら、四人……。少な。

「まあそんなか、高校の友だちですっげー仲いいって奴はあんまいないかも。ギルたちとかの修学旅行のメンバーは仲いいけど。あとは同じクラスで二人くらい、他のクラスで三、四人くらい。友だち多くても、みんな同じくらい仲がいいってわけじゃないんだよなー。だからその分遊ぶ回数とかにも差できるから、なんか平等じゃないよなーって」

 友だちが多い奴には多いなりの悩みがあるらしい。俺にはわからない。

 俺は狭くて深い友情だけでいい。

「……今日、蓮のところに行こうと思うんだ。ギルくんの家にも」

「……え、それならもう過ぎたぞ、蓮の家。ギルの聞いた話だと。ギルの家はまだ」

「ならいい。先ギルくんの家に行って鍵を借りて、蓮の家に行こうと思ってるから」

「あぁ、そういやギルって蓮の家の鍵持ってるんだよなー。なんで他人の家の鍵持ってるんだろって思ってたけど」

 それは俺も知りたい。よければ俺にも欲しい。……なんて、相当信頼できる人間にしか合鍵なんて渡せないよな。

「俺も行こうかなー蓮のところ。意識戻ってからまだ顔合わせてないし」

 下条に連絡したのは月曜日に蓮と会話してたとき。学校の話をしたときに、下条と垣谷の名前が上がって、そういえばと思って。

 下条も行くか行かないかの返答は聞かないまま、ギルくんの家に行った。ギルくんの家は曖昧にしか憶えてなかったから、下条がいてよかった。

「あ、ここ」

 誰かいたらいいな。いなかったらまた明日、もしくは休みの日になって、蓮の暇つぶしを渡すのが遅くなる。

 インターホンを押す。……誰も出ない。

「……寝てるのかな」

「寝てる?」

「ギルのかーちゃんはいつも家いるって言ってたから」

 ならと、もう一度インターホンを押してみた。少ししても出ないから、無理かと思ったとき、扉が開かれた。

「スミマセン。ドチラサマ…… oh 」

 扉から出てきたのはギルくんの母親だった。長い髪を下ろして、バスローブ姿で出てきた。不用心すぎない……?

「シンヤクン、ケイスケクン!」

「ど、どもっ!」

 友だちの母親に興奮するな。確かに大きな胸があるのがわかるけど、だからってな……。

「あの……蓮の家の鍵を借りに来たんです」

 って日本語で言ってもわかんないよな。英語に訳して言った。それには下条がすっげとか言ってた。中学のときの英語の授業をきちんと聞いてたらわかるはずなんだけどな。

「 Come in 」

 扉を大きく開けて、中に入るよう促される。

「なんて?」

「入れって」

「お、おう」

 友だちの家に入るのにそんなに緊張しなくていいだろ。中に入れば、鞄を置いて椅子に座れと言われる。べつに長居する気はないんだけど、下条が乗り気で座る。……今日中に渡しに行きたかったんだけどなぁ。下条を連れたのは間違いだったかもしれない。

「オチャノム?」

「飲む飲む!」

「はぁ……」

 駄目だこりゃ。

 お茶がコップに出されて出てきた。氷も入れて。この時期に氷入りの冷たいお茶はいらないかも……。

 でも下条はグビグビと飲んでた。俺は少しだけ飲む。早く鍵を貸してもらって帰らせてもらおう。

「あの鍵を、えぇっと……キャナイバローユア」

「ユアービューティフル!」

 俺の言葉遮んな。てかなに言ってんだこいつ。それを真に受けるな、母親も。はぁ……。たぶん、この二人絡ませたら駄目な二人だ。

 下条から母親が綺麗だの美しいだの言われていれば、母親が突然立ち上がる。持ってきたのは瓶に入った酒だった。そういえば、ギルくんの母親は酒好きとか前言ってたな。

「ノム? コレ」

「イェスイェス」

「いえすじゃない。これ酒だぞ」

「え? そうなのか?」

 将来、違法薬物を濫用してないか今から不安になる……。

 コップを新しく出してそれを注いで、グビグビと飲み干す。もう一度注いだかと思えば、それを下条に差し出した。下条が飲むとか言ったから……。

 というか、イギリスも十八歳までは飲めないはずだろ? 俺らがギルくんと同じ歳だとわかってるなら、飲めないとわかるはず。俺らは飲めないことを言えば、残念そうに飲んだ。

 早く用を済ませて蓮のところに行きたいのに……。

 家に上がってから三十分くらいが経った。酔いが回ってるらしく、顔を赤くしてベラベラと英語でなにか話されていく。下条はもちろん、俺も少ししか聞き取れないくらいだった。

 酔いが回れば、ほとんどの人間は無防備になる。この人もそうだった。バスローブの紐だけで抑えてるのを忘れてるみたいで、時間が経つにつれてだんだん胸元が緩んでくる。下条はその事実を理解してるのか、この人と同じくらい顔が赤かった。

 もうここまで来たら鍵より、どうやって帰るかを考えたほうがよさそう。ギルくんは病院だから無理だろうし、ギルくんの父親はいつ帰ってくるか……。俺の英語力は蓮ほどじゃないし、コミュニケーション力も下条ほどない。

 頭を抱え気味に考えていたら、母親が酒の入ったコップを机にこぼした。さすがに酔っててもこぼしたことは理解したらしく、立ち上がった。そしてそのとき、

「っ……」

「……け、けいす……」

 バスローブの紐が解けたらしく、胸に着けてるブラが露わになった。

「ば、馬鹿。そんなまじまじと見るな」

 すぐに立ち上がって、バスローブを整える。

「け、敬助もそんなさ、触るとか」

「触ってない!」

 そして胸を触られると思ったのか、甲高い声を上げられる。それと同時に足をフラつかせ、俺の足も持っていかれて、

「っ!」

「け……」

 ギルくんの母親の上に覆い被さるような、俺が母親を襲ってるような体勢になってしまった。すぐにどこうとすれば、ガチャッと玄関から聞こえ、見ればギルくんの父親がいた。

「どうし……。え、ちょっと、どういう……」

 いつも冷静なギルくんの父親も焦ってる。

 俺はさっとどいて、母親から離れた。本当にやった。いや、するつもりはさらさらなかったけど、結果的にやった……さすがにやばい。

 父親は母親のバスローブを固く結んで床に座らせ、自分が着ていた上着の背面を前にして母親に被せた。

 俺はまだ動けずにいて、下条は顔を真っ赤にして鼻血を出してた。

 少し落ち着いてからこれに至った経緯を説明すれば、納得したらしくて怒られはしなかった。初めから俺らに怒る気はなさそうで、母親に少し怒り気味だったけど。

 このバスローブ姿でインターホンに応じることが多く、何度か注意はしてたらしい。あと、昼から酒を飲むなと、客を招いてるなら飲むなとかも。

 そして母親は二階に上がらされた。

「本当にごめんね。敬助くんは怪我してない?」

「大丈夫です……」

 俺が女性を押し倒したような感覚に陥って、なかなか立ち直れないでいた。

 下条には鼻にティッシュを詰められてる。まだ少し顔が赤かった。そりゃ友だちの母親の裸姿を見たようなものだからな。……いやだとしても気まずさのほうが勝つと思うけどな。

「蓮くんの家の鍵だったよね。あと鞄。取ってくるよ」

 父親は立ち上がって、二階に上がっていく。

「敬助、触った?」

「触ってない」

「……たった?」

「黙れ」

 まだその話するか。ギルくんにこんなことがあったなんて絶対言えない。下条には固く念を押した。でも、適当に返事をするから正直不安でしかない。

 少ししたら父親が戻ってきて、机の上に金属製の小さな猫のキーホルダーが付いた鍵と、学校の鞄が置かれた。蓮のだ。ギルくんのはキーホルダーとか付けてたから。蓮のはキーホルダーとかなにも付いていない。ヘンなところ真面目だからな。

「渡すのはこれだけでいい? 他になにかある?」

「いえ、これだけで大丈夫です。鍵はまた返しに来ます。用はこれだけだったので」

「本当にごめんね。これだけのために……」

 鍵はポケットに入れて、鞄を俺のと二つ持って玄関まで行く。

「本当に送っていかなくていいのかい?」

「はい。下条も自転車あるんで」

「……なら、気をつけて帰ってね」

「はい」

 俺は逃げるように扉を開いて下条の自転車を引いた。しばらくギルくんの母親と目を合わせられないかもしれない。

「今日蓮のところ行くの無理だよな」

「確実にな。蓮には悪いが明日行く」

「ていうか、なんで蓮のところに行くんだ?」

「蓮から入院に必要なものを持ってきてほしいって言われてな。あと暇つぶし。暇つぶしはこの鞄に入ってるものでなんとかなるって言ってたけど、必需品となれば、家に入らないと持って行けないから、今日こうしてギルくんの鍵を借りたんだ」

 ……あれ、でも昨日に蓮から鍵をもらってれば、わざわざギルくんの合鍵使う必要なかったんじゃ……? そしたら俺もあんなことせずに済んだんじゃ……。まあいっか。もう過ぎたことだ。忘れよう。

「でも、なんで敬助が持って行くんだ? 蓮のかーちゃんとかが持っていけばいいだろ」

 そ、そっか。確かに俺が持って行くのは普通に考えておかしい。

「れ、蓮の親は仕事でいそがしいって、それで俺に頼んできてさ」

「……なんか、蓮の家ってヘンなところばっかあるよなぁー。家のこと聞こうとすればごまかしてくるし。もしかしたらなんかあんじゃねぇの?」

「…………」

 下条とは途中で別れて、家のあるほうへずっと進む。途中で学生らしい人や会社員らしい人を見かける。みんな遅くまで大変だな。

 家に着いた頃にはもう真っ暗だった。家の鍵を取り出して扉を開ければ、シチューのいいニオイがしてくる。

「ただいま」

「おかえり。ずいぶん遅かったわね」

「……友だちの家寄ってたから」

「そう。早く手洗ってきて。もうできるから」

 いつもはソファーに鞄を置いたら手を洗いに行くけど、今日は先に鞄を部屋に置きに行く。なんで鞄が二つあるのかの説明は面倒臭い。

 蓮の鞄と合鍵を机の上に置いて、俺の鞄は椅子に載せた。……なんだか人のを盗ってきた感じがして落ち着かないな。

 一階に下りたら手を洗って、食卓椅子に座ってスマホを触って待つ。寒くなってきた時期にシチューはいいな。母さんが作る料理はおいしいし。……蓮に食べさせたいな。

「敬助、入れるお皿出して」

 自分出だせよとか思いながらもスマホを机に置いて、白い厚底の皿を出した。実際母さんは料理を作ってくれてるのに俺はなにもしてないから、これくらいはしないと。

 父さんはまだ仕事で帰ってきてない。父さんはいつも夜遅くまで仕事してる。思えば、ギルくんの父親があの時間に帰ってきたのは定時上がりだったんだろうな。なんて健全な家庭なんだ。……母親を除いて。

 シチューを入れた皿二つ分を食卓に運んで、スプーンは母さんが取ってきてくれた。いつもの席に座れば、母さんが向かいに座る。

「いただきまーす」

「はい、いただきます」

 皿の上に顔を出したらすごくいいニオイがするクリームシチューを、スプーンですくって息で少し冷ましてから口に入れる。うん……いつものクリームシチューの味がしておいしい。母さんの作るクリームシチューが一番おいしい。

「…………」

 蓮はもうそんなこと思えないんだよな。自分の親が作った料理を食べることも、味わうことも……。

「敬助? どうかした? 味薄かった?」

「全然。いつも通りおいしい。……すごく」

 なんで、蓮なんだろ。

「あのさ、いつか俺の友だちに母さんの料理食べさせてもいい?」

「……なんであたしなの」

「……母さんが作る料理おいしいから、食べさせたいって思って。一人だけでいいから。一人しか呼ばないから」

「……一人くらいならいいけど……。呼ぶときはちゃんと言ってよ?」

「ありがと……」

 偽物だとしても、少しくらい「家族」ってものを味わってもいいんじゃないかな。

 食後は眠気が酷くて、ソファーで横になって寝てた。でも誰かの泣き声で起きた。あたりを見渡せば、声の主が誰かわかる。

「……なんで母さん泣いてんだ」

 いつの間にか帰ってきてた父さんが横で慰めてた。

「敬助が母さん泣かせた」

「はあ? 俺今まで寝てただろ。そんな泣かせるようなことしてない」

「寝言で、『母さんいつもありがと』って、『産んでくれてありがと』って言ってた」

「……はぁ? 俺が?」

「敬助が」

 俺……そんなこと言ってたのか? それで泣く母さんもどうかしてると思うけど。

「敬助」

 泣きながら母さんに呼ばれる。他人事のように見てたから、少しためらった。母さんの前に立てば優しく体に、頭に腕を回された。

「……生まれてきてくれて、ここまで生きてくれてありがとう」

「…………」

 そんな言葉、言ってもなにも出ない。けど、何度か死を選ぼうとした俺には目がよく潤った。


 昨日にあんな言葉をかけられたあとの入眠は最高で、最悪な目覚めだった。いつも以上に鮮明にあの時のことが脳内で流れて飛び起きた。汗でビショビショになった部屋着で、しかも時間を見れば十二時前。今日の学校はもういいか。

 涙を拭って一階に下りても誰もいない。代わりに食卓テーブルには書き置きがあった。

「おはよう。今日は休むかな? すごくうなされてるみたいだったから、今日はゆっくり休みな。朝ごはんは冷蔵庫にあるから食べてね。お昼前に起きたなら味噌汁もあるから飲んでちょうだい。お昼過ぎたのなら危ないから捨てていいよ」

 まだ昼前……だよな。捨てるのはもったいないし、もう食べるか。でも、この服でいるのは嫌だから違う服に着替えよう。

 洗面所で顔を洗って髪の毛をくくって、二階に上がった。べつの部屋着がなかったから私服に着替える。ついでに今日蓮のところに行こ。昼食べて蓮の家に寄ってから行けば、ちょうどいいくらいだと思う。

 一階に下りたら、それぞれ温める。冷蔵庫にあった白ごはんと卵焼きを電子レンジで、コンロに置きっぱなしだった蓋をされた鍋に入った味噌汁を火に掛けて。味噌汁を茶碗に移して食卓に並べたら、

「いただきます」

 やっぱり、いつもは父さんとたまに母さんで食べる朝飯を、一人で食べるのは少し寂しく感じる。この寂しさを蓮がいつも感じてるとすれば、本当にここに住ませたい。

 やっぱり作りたてじゃないから味は落ちる。けど、やっぱりおいしい……。

 寂しさを感じながらもそもそと朝飯兼昼飯を食べた。

「ごちそうさま」

 食器をシンクに運んで洗う。母さんはいつも使った食器を仕事に行く前に洗っていくから、このままにしていくのは悪いと思っていつも洗ってる。

 蓮のところに行くために、リュックと手提げを用意した。たぶん、真面目な蓮にとっては全教科の教科書を持ってきてほしいとか思ってると思う。せめて五教科と、筆記用具類。それらは学校の鞄に入れようと思う。手提げとリュックには必需品を入れようと思う。あと念のためのビニール袋二枚。

 準備ができたら蓮の家の鍵と俺の家の鍵、スマホと財布と入れる袋類を持って、家を出た。扉に鍵をしたら早速蓮の家に向かう。蓮の家は何回か行ったことあるから憶えてる。でも、中に入るのはなにげに初めてかもしれない。

 ときどき車が通らない道の信号を無視するか迷いながら無事にたどり着く。他人の家の鍵を開けることに少し緊張を抱きながらも、鍵を開けて入った。

 もちろん誰もいなくて電気もついてない。物静かでしんとしてる。

 靴を脱いで丁寧に揃え、短い廊下を歩いてスライド式の扉を開けたらダイニングが見える。ソファーとかテレビはキッチンより向こう側にある。

 キッチンはカウンター式でカウンターに引っ付けて机が置かれてる。机の長辺にそれぞれ椅子が二つずつある。俺の家とあんまり変わらないけど、椅子がすごく高そうな気がする。

 二階に続く階段はキッチンの向かいにある。それをゆっくりと登って二階に上がった。よくこういう階段になにかが飾ってるのを見るけど、なにか飾ってるというわけじゃなかった。

 二階はL字に廊下が続いて、扉が四つあった。階段から真っ直ぐ見たところに一つ、左に一つ、曲がって少ししたところの左右の壁に一つずつ。蓮の部屋がどれかと、階段近くから見ていった。

 一つ目の部屋は物置らしく、ホコリの被ったものがたくさんあった。面倒臭がりの蓮のことだから掃除なんてしてないんだろうな。いつか掃除しに来てあげようかな。

 二つ目の部屋はぱっと見なんの部屋かわからなかった。あるといえば、体育館とかにあるより小さいピアノ、ベッド、鏡付きの机……化粧台か。それくらい。化粧台の中に化粧があったから、蓮の部屋じゃないのは確か。蓮は化粧してないからな。母親の部屋かな。

 三つ目の扉を開けたとき、そこが蓮の部屋だってすぐわかった。化粧台があった部屋みたいに無臭じゃなくて、蓮のニオイが開けると同時ににおってきた。蓮はいいニオイがするからな。ギルくんみたいな華やかなニオイ、というよりは落ち着いたニオイ。

 まだ開けてない部屋はたぶん、父親の部屋だと思う。どんな部屋か知りたくもなかったから、開けなかった。

 蓮の部屋は俺の部屋と少し似てるけど違うと言えば、モノが散らかってなかった。俺は置きっぱなしにしてる服とか教科書とか本があるけど、蓮の部屋はそんなことなくて床にモノがなかった。

 目立つところと言えば、大量に小説が置かれている本棚、ベッドの上に畳んで置かれてる部屋着、勉強机の上に教科書とノートその他勉強類、付箋があるくらい。付箋にはテスト日とかの重要な学校行事の日程とか、小説の発売日とかが書かれてる。

 他人の部屋に鼓動を早まらせながらも、持ってきた鞄に頼まれたものを丁寧に詰めていった。部屋着、下着類、タオル類、念のために私服と上着も。衣服類はこれくらいでいいかな。あとは……。

 日常生活で使うものを思い起こしては探して入れてを繰り返して、手提げもリュックもほぼパンパンになった。これだけで足りるのかとも不安になったけど、もしまだなにか必要ならまた取りにいく。今はこれくらいでいいかな。

 あと保険関係のと印鑑だったな。ベッドの下にあるとか言ってたような……あった。この箱か。一見ガラクタが入ってそうな蓋付きの茶色い箱だ。通帳や印鑑、保険関係のもの、マスターキーなどが箱の中にあった。そのうちの印鑑と保険関係のもの、それと一応通帳を取り出してビニール袋に入れて、リュックのポケットに入れた。

 学校の鞄には五教科の教科書とかノート、ルーズリーフ、筆記用具を入れたらすごく重たくなった。五教科と言っても一つの教科から分岐してるものも入れてるからな。例えば社会の教科書でも、地理と歴史があったりする。そういったものを含めての五教科だから、ほんとに重たい。

 ノートを抜いていいかな。ルーズリーフ持っていけばなんなりと書けるし。俺の腕もだけど鞄が壊れそうで怖い。

 ノートを抜いてもあまり重さは変わらなかったけど、心なしか軽くなった気がする。一度机に置いて、床に座り込んだ。これを含む鞄三つを今から病院まで運ぶと思えば気が遠くなる。それに俺の家から駅までは十分くらいだけど、ここからだと二十分くらいかかると思う。

「…………」

 ……車で行きたい。


 ときどき重さにバランスを見失いかけながらも駅に向かっていた。五分もする前に足や手が疲れてきた。確かに修学旅行に持っていった荷物も重たかったけど、これも重い。感覚、修学旅行に持っていった荷物プラス教科書くらいの重さしてる。

「あれ、ケイスケ?」

 呼ばれた? べつのケイスケさんが周りにいるのか? 名前を呼ばれるくらいの友だちは今学校のはずだから、もし俺が呼ばれてても呼んだ人の見当がつかない。

「おーいケイスケ」

 また呼ばれた。俺のこと呼んでるのか? 試しに声のする後ろに向いてみれば目の前に下条の顔面があって、それに驚いて後ろに倒れてしまった。

「って……」

「ははは! ビビりすぎだろ」

 重い背中を頑張ってあげて体を起こした。けどまだ立ち上がらない。

「重たいんだ。それでバランス崩して……っていうか、なんでいるんだ」

 下条は自転車を引いてて、他に柊もいた。目が合えば、さっと目を逸らされる。

「それはこっちのセリフだぞ。なんで今日学校来なかったんだよ?」

「……寝坊したから」

「え、それだけで? それなら途中から来てもよかったじゃん」

「……どこに昼まで寝て学校に行きたがる奴がいる。それで、なんでこの時間に帰ってるんだ?」

「アラームかけろよ。……今日は半日だぞ」

 半日? そうだったのか。なら余計に昼から行かなくてよかった。

 半日だから今はこうして修学旅行で仲良くなった柊と帰ってたのか。なるほど。

「…………」

 柊は鞄だけ持ってるけど、下条は自転車のカゴに鞄を入れて引いてる。自転車……。

「下条、俺今から蓮のところにこの荷物運んでいこうと思うんだ。そこで、その自転車のカゴに載せて駅まで来てくれないか」

「全然いいぞ。実琴も駅までだし、一緒に行こうぜ」

 柊も付いてくるのか……。でもいい、あと十五分くらいを少しでも楽でいられる。

 一番重たい教科書の入った鞄をカゴに載せてもらった。なぜか柊も荷物を持つと言って、手提げを取っていかれた。でもずいぶんと楽になった。

「そういえば、実琴の家って病院のあるほうだったよな。実琴も蓮に会いに行ったら?」

「はぁ? なんで影島と……」

 俺もすごく思った。

「でも……。電車の定期内にあるなら行く」

 定期外であれ。

 駅まで着いたら切符を買うために最寄り駅の金額を確認する。

「影島、早く」

 見れば柊はもう改札を通ってた。

「待て馬鹿。誰もが定期券持ってると思うなよ」

「ははは、仲良くしろよー」

 切符を買って、カゴに入れていた鞄を肩に掛ける。……おもっ。

「ここまでありがとうな」

「どうってことねーよ! 敬助も早く自転車か電車で行けるようにしてもらえよ? 次に蓮のところ行くときは俺も一緒に行かせてくれよな! じゃあな!」

「ああ。気をつけて帰れよ」

「二人もなー!」

 振り向かず手だけを振って行ってしまった。ここからは柊とだけになってしまう……。病院が定期外ですぐに降りろ。

 電車に乗ってからは鞄を床に置いて、身が軽くなる。重たかった。これは蓮のだけど、蓮が持ってるときに何度か地面に置いてたのを見たことがあったから、俺も遠慮なく置かせてもらった。

 柊は気を遣ってか、俺のトートバッグを持ち続けてた。あれには衣服類を入れてるけど案外重たかった。さすがにあの重たいものをいつまでも持たせるのは気が引けたから、床に置いてもいいって言った。柊はそれをぶっきらぼうに応えた。

 何駅か乗り過ごしていれば席が空いて、柊に座るよう促せば素直に座った。俺は柊の前に立つ。

「どこの駅で降りるの」

「あと……五駅」

「……ぼくも蓮くんのところ……行く」

 ……定期内なのか。すごく残念。

 五駅分揺られて、その駅で降りた。

 駅から病院まで十五分くらい。また長い道のりを歩かないといけない。……あぁ、重たい!

「影島。……ぼくの鞄にちょっと入れる? 今日は二教科しか持っていってないから……」

 十分くらい経ったあと、柊がそんなことを言う。

「もっと早くに言え、そういうことはっ!」

 ドンッと鞄を道の端に置いて、同じくらいの量になるように分けた。次に持ったとき、意外と軽くなっててびっくりした。いや、あの量が異常だったのかもしれない。本当にありがたい。

 あと五分くらいを軽くなった鞄とリュックを背負って向かった。ずいぶん過ぎる時間が早くなって、あっという間に蓮の病室に着いた。

 鞄を床に下ろして、ノックをする。返事はなかった。一度あたりを見渡して場所があってるかの確認をしてから扉を開けた。

「蓮、遅くなって……」

 蓮は俺らのほうを向いてベッドに寝転んでて、ちょっとぐったりしてるように見える。目は開いていて、そこからは少々無気力を感じられる。

「持ってきてくれたんだな。ありがとう」

「れ、蓮くん」

「……柊。久しぶりだな」

「…………」

 柊は少し涙ぐんでた。

「適当に置いといてくれ。学校の鞄だけ近くに置いてほしい」

 言われた通りベッドの傍に置いた。柊も中身を出して、傍の机の上に置く。

「蓮、なんかすごいぐったりしてるみたいだけど」

「あぁ……。修学旅行のときに熱出しただろ。あれと同じ感じで少し熱を出して、念のためと言って採血したから、少し気分が優れなくてな」

 修学旅行のときの熱は慣れない環境でのストレスから来た熱だったらしい。地元に帰省してすれば、すぐに良くなってた。あの時みたいに高熱出さなければいいけど……。

「採血って、さっきしたのか?」

「……三十分くらい前。昼食を食べたあとにな」

 手を顔に近づけたら素直に触らせてくれる。あの時ほど熱くない。三十七度前後くらいかな。

 これくらいならあんまり心配はなさそうだ。でも、だとしても無気力さと割に合ってない気がする。

「しんどくない?」

「……採血したてよりは全然。昼食を食べたあとだったのもあるかもしれないが、気持ち悪くて戻してしまったからな」

 吐いたのか。大丈夫か?

 俺は蓮の頭を撫でた。

「……急にどうした」

「愛情表現をすることによってストレスが緩和される」

「……ストレス性のものはストレスが解消されなければ、なかなか治まらない。が……」

 続きの言葉はなく、でも口元が緩んだ。正直だな。

「お、お前ら……そういう関係……?」

 柊が後ろから聞いてくる。そういう関係?

「蓮はただの友だちだけど。……家族くらいに大切な」

「あ、愛情表現とか……恋人が言うやつ……」

「言いはしないかもしれないが、愛情表現は家族間でもする場合はあるから、柊のその考えは全て正しいとは言えないな。……べつに恋人などではないし、僕が同性愛の人間でもない。ふっ、異性愛でもないかもしれないが」

 まあ、勘違いされるもんな。気持ち悪いって。

「……っそ。べつにぼくは同性愛でも受け入れる人間だけど……」

 二次元はともかく、三次元で同性愛を認める人間ってあんまりいないからな。俺は……いいと思う。愛があるならそれで。

「こっちに服とか入ってて、こっちに日用品入ってる。傍に置いといたほうがいいものがあるなら出すけど」

「……それケイの鞄だな。中身適当に置いてそれは持って帰れ」

「いや、あんまり使わない鞄だから。それに退院するときも入れる袋とか必要だろ?」

「……悪いな。今は必要ないから……あぁ、ハンドタオルと歯磨き類……それと筆記用具となにか書けるものだけ出してくれないか」

 ハンドタオルと歯磨き類はリュックに入ってて、筆記用具とルーズリーフは蓮の鞄の中。それぞれ取り出して机に置いた。

「ありがとう」

「れ、蓮くん。……その、なにがあったの」

 たぶんクラスには蓮とギルくんになにかがあったということは広まってて、一部の人間には二人が入院してるというのも知ってる。柊も下条から教えられてたから知ってる。でも、入院した原因は当事者と俺、それぞれの親しか知らない。だから、学校にはそのことは広まってない。

 少しためらってるみたいだったけど、柊が推してくるから本人の口から言った。ただ、初めに他言は禁止してた。

「……そんな……」

 事の全てを聞き終えた柊は手で口を押さえて固まる。俺も初めて詳しい話を聞いた。でも、父さんと話してたときとほとんど同じみたいだった。

「……馬鹿じゃないの」

「今回ばかりは否定しない。本当に心配をかけたな」

「もし刺される位置がもう少し真ん中だったら……蓮くん死んでたんだよ……。わかってる……?」

 蓮は虚しそうに目を細めて「あぁ」と答えた。

 刺さる位置がもう少しズレていたら死んでいたことくらい、本人が一番わかってるはず。

「今回の件では命の軽さをより実感した。今度からは……気をつけるつもりだ」

「それは日頃から気をつけるっていう意味も含まれてるんだよな。脱水しないように水を一日一リットル飲んだり、体調を崩したらすぐに俺……もだけど、親に言って看病してもらったり、そういうことをするってことだよな」

 蓮は普段から水を飲まなければ室温調節もしない、体調を崩しても俺らに連絡しない。それこそまさに自殺行為なのかもしれない。

「……取り消してもいいか」

「言ったことは責任を持って果たしましょう。……はは」

 蓮はまんざらでもない笑みを浮かべる。これを冗談で捉えるのかはわからないけど、俺はほとんど本気のつもりで言った。

 今日のところは早めに退散した。蓮があんまり優れない体調のに付き合わせるのは悪いと思って。そのことを言えば、そんなことしなくてもいいとかまた無理するようなこと言ってたけど、コーヒー買ってもう一度部屋を覗いてみたらぐっすり眠ってた。

 持ってきてたぬいぐるみ、修学旅行のときにギルくんから貰ったぬいぐるみを腕の中に入れたら嬉しそうに抱きしめていた。

 もっと素直になればいいのにな。


 三日後の金曜日。

 朝の予鈴の待ち時間に下条に話しかけられることが日常的になってた。

「そろそろギルくらい来ねーかなぁー。蓮はたぶんまだ無理だろうけど。だって腹刺されたんだろ? あと一ヶ月くらいかかりそう。蓮のスマホ壊れてるから連絡もできねーし」

 一ヶ月もかかるか? 昨日聞いた感じ、あと一、二週間くらいで行けると思うとか言ってたけど。まあ、あとは蓮がどれくらいリハビリを頑張るかかな。

「……なあ、今ギルの声したくない?」

「ギルくん? 来てほしさに幻聴でも聞こえたか」

「違うって! 絶対声した……ほら!」

 聞こえる? そんな声。

「あはは、大丈夫だよ」

「ほら!」

「ほんとだ。聞こえた……」

「だろ!」

 下条は教室内を見渡していないことを確認すれば、教室を飛び出した。俺もあとを追う。

 廊下まで顔を覗いてみたら、ギルくんと父親が一緒に立ってた。

「ギル!」

「あ、真也くんおはよ! 敬助くんも」

「ギルー!」

 下条はギルくんが蓮に抱きつく勢いで抱きついた。でもそれの勢いは強く、後ろに押されたのを父親が支えた。

「あはは。嬉しがりすぎだよー。……俺ね、今日から学校行けるようになるんだ! でも今日だけ途中で帰るんだ。久々の学校だからってお父さんが。俺は全然一日中学校にいるつもりなんだけど。あはは」

「今日行って、疲れなかったら月曜日からは一日中いてもいいよ。今日は昼までで我慢しなさい」

「はーい。だって」

 久々の学校は体力をいつも以上に使う可能性があるからな。ギルくんの場合無理するかもしれないから、父親のその判断は正しいと思う。

「二人とも、ギルがなにか困ってそうなら、手伝ってあげてくれる?」

「もっちろん!」

「積極的にサポートします」

「よろしくね。じゃあ、ギルもまた昼に迎えに行くから」

「はーい。遅れて来てね、あはは」

 ギルくんが父親に預けてた鞄を持とうとすれば、下条が横から奪うように取ってた。それに対してはギルくんが不満そうに、自分で持てるのにとか言う。ギルくんが席に座ったら、父親は安心したように微笑み、軽く頭を下げて廊下を歩いていった。

 ギルくんの髪色は黒だらけの教室では少し目立つ。ギルくんが学校に登校してきたことはすぐに広まったみたいだった。ギルくんと関わりがあるらしい人たちがギルくんの机に集まってきたから、俺は巻き込まれないようにすぐに逃げた。俺は何度も目を合わせたから、俺より他の奴の顔が見たいと思うし。

 ギルくんは父親が言っていた通り昼飯を食べたら帰っていった。弁当だけはみんなで食べたかったらしくて、弁当持ってきてなかったけど買ってきてくれて、昼休憩の時間にギルくんの母親が持ってきてた。母親が俺に挨拶してくれたときはあの時の記憶が鮮明に思いだして身震いしてた。


 翌日の土曜日。面会可能時間開始から数分後。

 俺は一度ノックして口ごもった返事を聞いたあと病室の扉を開けた。

「……まだ食べてたか」

「ケイ。……看護師もいそがしいだろうと補助を断って、左手でなんとか食べようと思ったんだが、意外にもうまく使えなくて……」

 そういえば、利き手でもある右手も刃物で刺されたっけな。今もギプスで見えなくなってる。利き手を奪われるのは大変だろうな。

 ベッドに腰掛けて蓮の食べる様子を見る。煮物のこんにゃくを不安定に掴んだと思えば、さっと落とす。もう一度掴んで、口まで運んだかと思えば、入れる直前で落として、机に落とす。

「……俺が食べさせようか?」

 な、なに言ってるんだ。蓮がそんなのお願いするはずな――。

「お願いしてもいいか……。このままだと一日かかる」

 言った……。


 口にあるものを飲み込んだら、口を開く。開けば口まで食べ物を運んでくれる。

「水くれないか」

「あ、ああ」

 空になったコップを持って、ウォーターサーバーから水を注いでくれる。戻ってきたら、左手でそれを受け取って数口飲む。

 あと少し。

 ケイが箸を持ったのを確認して口を開けた。気づいてくれたら掴んだ白米を口に入れてくれ、それを噛んで飲み込む。

「さ、最後」

 かき集めた白米を掴んで、口まで運んでくれる。

「……長かった。ありがとう」

「ぜ、全然……」

 最初から最後まで、結局ケイの顔が赤いままだったな。熱でもあるのかと頬を触らせてもらったがそんなことはなく、最後までなんで赤かったのかわからなかった。

「このお盆は……」

「そこの机にでも置いててくれたらたぶん、そのうち看護士が取りに来てくれる」

 僕は達成感で体を伸ばすが、腹の傷が酷く痛んで伸びたことをすぐに後悔した。

「ケイ、ほんとに熱はないのか」

「ないさ。べつに……」

 でも、確かにあればここまで来れてなかっただろう。受付でせき止められたはずだから。

 盆を言った机に置いたケイは、やはり顔を赤くしながら、手で口を隠しながらベッドに腰掛けた。顔はよく見えないが、なにかに照れてるみたいだ。僕の昼食を食べさせてくれているときに女優の胸でも想像したか?

 ケイは一向に振り向いてくれなくて、僕は後ろでくくってある脇下まで長く伸ばした赤みがかった茶髪を見た。決して綺麗にくくられているというわけでもないが、適当にくくられているというわけでもない。ただ、もう少し綺麗に結べたのではないかと思う。……ケイのこの髪色も唯一無二で綺麗な色をしている。

「そういえばケイ。あの教科書の量持ってきてくれたんだな」

「え、あ、あぁ」

 振り向かずに返事をしたあと、頭を左右に振って僕に向いてくれた。もう赤くはなっておらず、いつもの眠たそうな顔だ。

「重たかっただろ。本当に申し訳ないな。もう少し少なくてもよかったんだが」

「真面目な蓮は全教科持って来いとか言いそうだったから、とりあえず五教科だけ。他にも持ってきてほしいものあれば持ってくるけど」

「いや、あれで十分だ。それに、もうすぐ退院すると思う」

「もうするのか? まだ痛むんじゃない?」

「多少はな。でも……こういう話はできるだけしたくないんだが、正直金が心配だ。三年では金を稼ぐつもりだが、今年まではケイたちとの時間を大切にしたいと思って、してなかったんだ。……僕が現実から逃げてしまっていたというのもあるかもしれないが。

 昨日聞いた時点では、もう車椅子での生活で完治までは過ごせると聞いたんだが、利き手が使えないと飯も食えないから、少しばかり延長してるみたいだ」

 今回は犯罪被害で入院したから医療費の手当や高度療養費制度というものの申請だとかができると警部から聞いたから、酷く心配は要らないだろうが、それでも入院が長くなればその分出さないといけないのは確かだから、正直長くはいたくない。

 それに、

「リハビリが終わってからでもいいと提案されたんだが断った。代わりに通院という形でリハビリをさせてもらおうと思っている。出費のこともあるが、授業で後れを取れないということもあるんだ」

 一週間弱での授業の遅れはかなり厳しい。

「……そっか」

 やっぱり、金銭のことを大人の前以外で口に出してしまうのはよくなかったな。金のことを考えるのは現実を真っ直ぐ見ては逸らせられない。できるだけ控えよう。控えないといけない。

「……俺になにかできることがあるなら遠慮なく言えよ。なんでもするから。……それで、考えたんだけど、数日間俺の家に泊まらない……?」

「理由は」

「……その……」

 ケイの口は完全に閉ざされてしまう。なにか企んでいる、か?

「僕に気を遣ってのことなら断らせてもらう。気持ちだけ受け取っておく。なにより、気を遣われるのはあまり好きじゃないんだ」

「か、母さんの味を……俺の母さんが作る料理うまいから、食べてほしいんだ。それで……」

 いかにも今考えた言い訳にしか思えない。

「断る」

「…………」

 気を遣ってまで僕の幸を作ってほしくはない。それに、今が一番安定した生活を送れているんだ。僕は一人で生きる。

「けど……ケイの誕生日ならなんでも言うことを聞くかもしれない、とだけ言っておく」

「それほんとか!」

 ……ギルみたいだ。パッと目を輝かせる。

「でも俺の誕生日ってもう過ぎて……。それ狙ったのか」

「さあな」

 そもそもケイの誕生日を憶えてないんだから、狙えるはずもない。

 少し悔しそうにしながらコーヒーを買いに行った。僕もいるかと聞いてきたが、この状況でカフェインを摂るのは少し申し訳ない気がして断った。……それよりケイはいつもコーヒーを飲んでいるな。大丈夫だろうか。

 ケイが帰ってきて、口にする。

「今日はギルくんたちも来るみたい」

「そうか。……合わせる顔がないな」

 今から謝罪の言葉を考える。

「きっと大丈夫さ」

 ギル以外はきっとなにかを軽く言うくらいだろうが、ギルはどうだか。

 しばらくケイと駄弁っていれば、扉がノックされた。返事をする前に扉が開かれ、

「れーくん!」

 気づいたらギルの腕の中にいた。間もなくしてギルは泣き出す。

「心配かけた」

「ばかれーくん……!」

 扉から出てきたのはギル以外にギルの父親、下条、総務もいた。

「蓮が生きてる」

「下条くん言い方……。無事でよかったよ」

 父親と目が合えば、軽く頭を下げて微笑まれる。

「ここ数日、たくさんの心配をかけた。本当に申し訳ない」


「れーくん、久しぶりの学校楽しかったんだ! でも教科書忘れたり、プリントの名前書き忘れて、これ誰だって言われて、クラスの人がこれ俺の字だって言われて……。ほんとに恥ずかしかった。あはは……。久しぶりの学校だったから、いろいろ忘れちゃってた」

 ギルは僕の脚に乗って、僕の体に腕を巻きながらいろいろ話をしてくる。そして、今胸に頭を埋めた。

「仕方がないんじゃないか。久しぶりの学校だったのだから」

「……そ、そうだよね!」

 いきなり顔を上げられて軽く顎を打つ。ギルは気づいていないらしく、えへへと笑う。

「あぁ、そういうことか」

「わかった? ならこの問題解いてみて」

 総務とケイはこの場に及んでも勉強をしている。始まりは下条がここで課題をし始めたからだ。それで下条がわからないところをケイに聞き、ケイもわからなかったからと総務に。初めに聞いた下条は答えがわかればそれだけ書いて、他の問題を進めているようだった。

 ギルはそんなこと眼中に入っていないようで、今も僕の脚に乗っている。

「ギルも勉強はしなくていいのか」

「だって休んでたからわかんないんだもん」

「だからこそ勉強するんだろ。総務に教えてもらえ」

「えぇー。じゃあれーくんも一緒に勉強ね? 俺だけするはしないから」

「お望みならいくらでもするが」

 机を引っ張り出してもらい、その上に教科書とルーズリーフを出してもらう。

「総務さん、俺が休んでたところ教えてー」

「……ちょっと待ってて」

 どうやらケイに教えるのでいそがしいみたいだ。

 ギルが休み始めていたときの授業は受けていたから、わかる範囲で教えようか。教科書を開いて心当たりのあるページを開く。

「ギル、ここした憶えあるか」

「うーん、あるよ。もうちょっと前じゃない?」

 教科書を自分に向けて一ページ、二ページとめくっていく。

「……ここ、じゃない? たぶんここから休んでた」

 意外と前に進んでいて、むしろ僕が習った記憶がないくらいだ。大問一の問一を解いてみようとするが、

「悪い、僕がわからない」

「あはは。おっちょこちょいだなー。じゃあ、総務さんが来るまで落書きしよー」

 ギルが連絡なしに休むことで不安があって、夜にする復習にも集中できなかったから、定着せずに忘れてしまったのかもしれない。まあいい。復習がてらやっていこう。右上のギルの落書きを消すが、すぐ横に同じ落書きを書かれるから諦めた。

 正直本当になにも憶えていない。事後、数日意識も戻ってなかったみたいだから、そのせいでもあるのかもしれない。試しに、少し前の授業でやったところはなんとなく憶えている。

「れーくんは真面目さんだねー」

 真面目かどうかよりも、テストがあるだろ。それまでにきちんと理解しておかなければ赤点を取ってしまう。

「えへへ、これれーくん」

 指差すところには、角帽を被って敬礼をする棒人間が描かれていた。これが僕? まさか。

「ギルはどうなんだ」

「俺? 俺はー……これ。あはは」

 隣に、ギルが僕という棒人間に向けて手を伸ばしている棒人間が描かれる。

「俺はれーくん大好きマンだからね」

 そして中央に左矢印を書いて上にハートマークを描く。

 いたずらで、そのマークの中心に上から下へとギザギザを書いてやる。

「あー! ちょっとハート壊さないでよ! せっかく書いたのに」

 反応が面白くて、つい笑みをこぼす。

 ギルは壊されたハートの上から「✕」を書いて、左矢印の下に新しくハートを書いた。たくさん。

「あんまり落書きするなよ」

「あはは、はーい」

 そろそろ勉強に戻ろうとしたとき、総務がお待たせとギルの横に立つ。ギルはさっと落書きを手で隠していた。

「……そこの椅子使え」

 椅子を引っ張り出してきて座る。

「ギル、せっかく来てくれたんだから落書きは一旦やめろ」

「あはは、はーい」

 新しく書かれていた棒人間の頭に二本の短い棒を付け足したら顔を上げて笑う。

 しばらく、一時的な家庭教師から勉強を教えられていた。

「新藤くんどう? わかりそう?」

「…………」

 が、どうもわからない。今までこんなに難しかっただろうか……。

「……もういい。次に進もう。ギルがわかってるならそれでいい」

「れーくんがわからないって珍しいね。いつも簡単簡単って言ってるのに」

 べつに言ってないが。

 いつもなら簡単に理解できるものができなくて、集中が切れてきた。コーヒーが欲しい……。

「れーくん……? ちょっと休憩する?」

「……疲れてきたね。ちょっと休憩しよ」

「…………」

 明らかに不機嫌そうな顔をしていたのか、ギルが不穏そうに顔を覗き込んでくる。思わず目を逸らす。

「勉強がわからないってこんな気持ちなんだな」

「……あはは。そうだよ。俺全部わかんないからいつもそんな顔になっちゃう。あはは」

 ギルの場合はこんな顔より、むしろ開き直ってゲームで遊んで笑顔になると思うんだがな。背をベッドに預けて力を抜く。疲れた……。

「ギルー、ゲームするー? これ面白い」

 下条がさっきまで総務がいた椅子に座り込んでギルにスマホ画面を見せる。……スマホ買わないとなんだった。

 今月はいろいろと狂ってしまった。バイトをすれば、月いくらほど稼げるだろうか……。

「これどうするの?」

「こうやって持って、上からこれが流れてきたらこの線に合わせてタップ。音と一緒に合わせて流れてくるから、ちょっとだけ音でかくしてもいいかも」

 スマホを下条から渡されたら、言われた通りスマホを横に持って親指でタップしていく。そのゲームはいわゆる音ゲーだろうか。一度インストールして入れてみたが、どうにも反応できなくてその日中にアインストールした。

「こ、これであってるの?」

「そうそう。で、あ、これ、さっきのは上にしゅってする」

「遅いよ!」

 説明を終えた下条はずり落ちない程度に後ろに手を着いて背を反らす。暇そうだな。ギルはそんなこと気づいていなさそうに楽しそうにゲームをする。

 下条と目が合えば、さっと逸らされる。

「……豊の字きっれ」

 逸らしたことでノートの字を見たらしく、そう呟く。確かに総務の字は形が綺麗で大きすぎず小さすぎもしない、お手本のような字だった。

「……ははっ、蓮習字書いてる?」

 僕のは総務に比べて画と画の間を少しつなげるような癖があって、行書気味だ。

「そうは言うが下条の字はどうなんだ」

「聞こえてた?」

 すごく。

「俺は……ここ書くぞ?」

 ギルの落書きが書かれている傍に「下条真也」と書かれる。

「大きくて丸いな」

「見やすいだろ」

「さあ」

 大きすぎてむしろ読みにくいと思うんだが。酷く丸まってるわけではないが……いや丸まっているか。

「ギルのは……なんか普通」

 一番まともそうではあるが、少し左に傾いていて右下がりではある。まあ、左利きだから仕方のないことだろう。

「なあ、敬助はどんな字……って寝てるし」

 ケイは下条の向かい、つまり窓側に椅子を運んでベッドに伏せて寝ていた。いつの間に移動したんだ。

「寝るなら家で寝ろよー」

「ケイは一度同じ位置で一晩明かしたことがあるんだ」

「え、マジか。怒られなかったのか?」

「少し怒られている様子だったが、当の本人は気にしていないようだった。僕が目を覚ましたこともあって、そんなことどうでもよかったんだろうな」

「へー」

 興味なさげだな。

 改めて総務と僕の字を見比べてみるが、やはり汚いな。僕の字は。

「そういえば総務はどこに行ったんだ」

「トイレじゃね?」

 まあ、普通に考えたらそうか。

 あのハロウィンの一件以来、総務の顔は明るくなったが、どうにも名残が残っているのか頑張りすぎるところがある。

 今総務が席を立ったのは母親からの電話なんじゃないかと、そう考えてしまうこともある。けどきっと、変われた総務はそんなことがあるのなら僕に相談しにくる。なんとなくそう思う。

 総務の中で僕が信頼できる人間であれることは嬉しいことだ。

 総務がハンカチを手にしながら扉を開けて入ってきた。そして思いだしたように手にあったハンカチをポケットに入れて、ギルの隣に腰掛けた。下条に場所を取られているからか。

「ギル、総務が帰ってきたことだし、そろそろ勉強に」

「もうちょっとこれするもん」

「…………」

「ふふっ。また教えておくよ。新藤くんだけ先に進める?」

「頼む。……あと、さっきのわからなかったところもう一度教えてくれないか」

「もちろん」

 下条と席を代わってもらったら、勉強を再開する。もしこれでも理解できなければ、相当馬鹿になったらしいから諦めよう。

 総務から淡々と勉強を教えてもらっていたなか、突然ケイが顔を上げて「蓮の名前に込められた思いってなんだ?」と、聞いてきた。さっきまで寝ていた人の発言とは思えなかったのか、誰しもが手や声を止める。僕も書いていた数式をイコールまで書いて顔を上げる。

「急だな」

「ずっと聞きたかったんだ。それ今思いだして」

「…………」

 僕の名前の意味。ケイはどちらの名前のことを言っているのだろう。旧名か今の名前か。

 ギルに顔を向けるが、気づかれずケイを見つめる。

「れーくんのお名前はね」

「ぎ、ギル……」

「…………」

 僕が呼べば振り向いて一瞬なんで俺呼ばれたの、とでも言いたげな顔をして、すぐにえへへと笑う。

「自分の名前に込められた思いってあんまり知らないよね。僕も小学校の宿題で初めて知ったし。僕はたくさんの経験と知識を持ち、充実した人生を送ることを願ってって」

「よく憶えてるなー。俺もそんなのあったけど、忘れた」

 案外真面目に育ってほしいという思いかもしれないな。今でギルと同じくらい「不」が付きそうな真面目だから、その思いは叶ってないのかもしれない。

「俺知ってるよれーくんの名前に込められた思い!」

 一度こちらに顔を向けて、確認を取るように首を傾げた。僕はもう勝手にしろという思いで顔をくいっと上げる。

「……いいの?」

 でも、意図をくみ取ってくれずこの有様。

「勝手にしろ」

 今度は声を出して言う。

「えへへ。じゃあ言うね。れーくんの名前に込められた思いは、綺麗で美しい心を持って、たまに休みつつ、困難に負けずに強くかっこよく生きててほしいって思い」

「なが」

 確かに長いかもしれないな。それに、よくそんな長いの憶えてたな。まあ、今の名前の名付け親がギルなんだから、長いことには仕方のないことなのかもしれない。

「……それは誰から付けてもらったんだ? 自分……からなんて願えないしな」

 ごまかすの下手か。ケイは僕の旧名を知っているから、「蓮」という名前は自分で付けたのか誰かから付けてもらったのか、はたまた思いや願いはあるのか、気になったんだろう。旧名でも付けた思いや願いがあるだろうが、正直どうでもいい。

「……それは……もちろん親だろ」

「そうだぞ。親以外誰いるんだよ」

「…………」

 普通の家庭で育ったのなら、そう言葉が出てくるだろうな。

「まあ、いつか詳しく話してやる」

「忘れんなよ」

「……ああ」

 明日には忘れてるかもしれない。


 月曜日は、昨晩の荷物整理で力尽きて寝落ちてしまって朝も気づかず寝てしまっていた。入院中は迷惑をかけないようにアラームをつけていなかったから、起きれるはずもなかった。ギルが起こしてくれなかったのはきっと父親と登校していて、僕の家に寄らなかったからだろう。いつも寝坊して、体調が悪そうでなければ起こしてくれるからな。

 寝落ちた割りにはベッドでぬいぐるみを抱いて布団までも被っていたからのんきなものだと思った。起きたのは昼過ぎで、時間的にもあまり行く気にはなれなかったから学校には行かなかった。

 遅い昼食を食べたら荷物整理に戻って、のんきに昼寝をした。入院生活で疲れが溜まっていたのか、すぐに眠れた。

 夜は傷に痛みを覚えながらも、久しぶりにシャワーを浴びた。いくら快適な室温といってもずっと風呂に入れず、濡れタオルで体を拭くだけなのは髪が洗えず少しべたつきがあった。久しぶりのシャワーはとても気持ちよかった。

 湯船にも使ってやろうかと思ったが、傷を治療してる間に入っていいものなのか迷いを持ち、そもそもこの傷じゃ浴槽も洗うことはできなかったから諦めた。同時に冬季休暇には温泉に行こうと思った。面倒臭くなったら行かない。

 そして翌日の火曜日。

 今日は学校に行くつもりでアラームもきちんとかけ、その音に起きた。傷のことを忘れていて、起き上がったときに酷い痛みが走ってその痛みに驚いてベッドからずり落ち、ものすごく最悪な目覚ましになった。

 痛む場所を増やしてから一階に下りようとしたときに思いだす。階段は段差があることによってより脚とその上の筋肉を使うことになる。だから昨日は手すりを使って上がったんだ。階段に尻を付けてほぼ腕力だけで上がるようにして。多少の痛みは仕方がない。

 今回もその手を使おうと思い、床に尻を付けて腕力だけで下りていく。でも途中で尻を滑り下ろしたほうが楽だと気づいてそうした結果、最後の二段でヘンに滑ってしまって顔面から床にぶつけた。無駄に尻も痛いし、もう体中痛い。

 一階に着けば階段のすぐ横に置いてた、タイヤの汚れを拭いた車椅子に乗る。一階と外ではこれで移動することにしている。さすがに二階には持って行けない。僕は家にエレベーターがあるほど金持ちじゃないんだ。

 車椅子での移動はものすごく楽で、今までが酷すぎたように思える。同時に、なんで二階に制服と学校の荷物を置いてきたのかと後悔と過去の自分に問いかける。

 太腿をびしゃびしゃにしながらもなんとか洗顔を終え、台所に向かって朝食を食べようと思うが、昨日寝落ちたんだ。米なんて炊いてない。代わりになるようなパンやシリアル食品を置いているわけでもない。途中で買って食べて行くことにする。しばらくお預けだ。

 食卓に置いてた常温の水だけ飲んで、二階に上がった。寝起きに飲む水、いつまで経っても飲みづらい。慣れない。

 部屋に上がって痛みに唸りながら鞄の準備をし、制服を持って、今度こそ部屋に上がる必要がないか確かめてから一階に下りた。腕時計は壊れてしまっているから着けられなくて、左腕に少し違和感があ

る。

 鞄は食卓椅子にほうって、車椅子に座って痛みが許す限りの動きで制服を着ていく。

 さっき時間を見てみたが、あと十分ほどで学校に行かなければならない。これはいつもギルが来る時間ではなく、十分後学校に行けば本鈴が鳴る時間だ。遅れは確定しているみたいだ。今から出たとしてもこの車椅子じゃ歩きほどの速さを出すことは少し難しいし、そもそも本気で走っても十分くらいはかかる。

 ゴミ出しの準備をして、家を出たのが本鈴一分前。もう開き直ってのんびりと行こうか。ゴミを所定の位置に置いて鍵をかけたら、普通くらいのスピードでタイヤを回して学校に向かった。

 一番初めに見かけたコンビニでメロンパンと少し贅沢をして二つ入りのつなたまごサンドイッチを買った。サンドイッチは冷蔵のものだからコンビニの前で食べてしまった。メロンパンは休憩時間にでも食べる。

 ゴミは汚れが付かないようにポケットに入れて、学校に向かうことにする。

 今日は風が強くて、少し身震いをした。

 あの日は特に気温が不安定で、家を出たら寒くてコートを持っていったものの、歩けば温かくなったりしていたから、今日はコート無しでもいいだろうとブレザーだけで来た結果寒い。

 中にカーディガンを着てきたらよかった。車椅子に乗るならひざ掛けも。明日からはきちんと着てこよう。

 僕の通う学校は夏は冷房をつけてくれ、先生に寄れば寒いくらい温度を下げられるが、暖房は十二月に入らないとつけてくれない。ときどき例外で急に寒くなった日につけてくれることはあるが。

 慣れない視線の高さで大通りに出る。散歩している犬がより近づいて今にでも噛まれそうな距離だ。少しスピードを落として距離を置いた。

 信号を待ってるとき、メロンパンを食べようと手にしたとき、後ろから声がかかった。

「……蓮?」

 開けようとした袋を持ったまま、声のしたほうへ振り向けば、寝坊したらしいケイがいた。

「もう退院してたのか!」

「……日曜日の朝にな。退院したことを伝える手段がなかったから、ケイたちに伝えられなかったんだ。日曜日、僕が退院したあとに病院に行ってなかったか」

「俺は行ってない。他も、行くって言ってる人はいなかった」

 ……誰も来ていないことを祈ろう。わざわざ出向いたのに目的の奴がいなければ、さぞかしショックを受けるだろうからな。

「もう、今日から学校に行けるのか?」

「後れを取りたくないからな」

 信号が青に変わって、視覚障害者向けの音が鳴る。

「そっか。でもよかった。……俺押していくよ」

「ちょうど頼もうとしていたところだ」

 遠慮なくメロンパンの袋を開けた。

 人に車椅子を押してもらうって楽だなぁと、メロンパンを頬張りながら思う。おいしい。

「朝飯それだけか?」

「さっきサンドイッチを食べた。水も喉に通した」

「それならよし。たまに食べたくなるよな、サンドイッチって」

 ケイの発した言葉が終わる間際に再び身震いして、ケイに心配される。身震いくらいで……。

「急に冷え込んできたもんな。俺のブレザー着るか?」

 そう言いながらも一度車椅子を止めてケイのブレザーを布団を被るように肩に被せてきた。

「返事してない。……ケイが寒くないなら、少しだけ貸してほしい」

 寒いのは事実である。けど、僕がそう言えば、ケイは必ずと言っていいほどいつも同じようなことを言う。今のようにTシャツ一枚だったとしても。

「蓮は寒がりだからな。俺は寒くないからむしろ使って。歩けば暖かくなるし」

 ずっと同じような言葉を使って、自分の防寒具を犠牲にして僕の寒さ対策をしてくる。ずっと変わってない。

 半分くらい残していたメロンパンをケイに差し出した。でも、今は両手が塞がってるから食べれないと。

「ケイ。口開けろ」

 素直に開けてくれた口に小さくしたメロンパンを入れた。入れたら前を向いて僕も一口食べる。

「……狙ってるだろ」

 狙う?

「なにを」

「…………」

 再びケイの口に放り込もうとすれば、口を固く閉じて開けようとはしてくれない。仕方なくそれは僕の口に入れた。押してくれてる礼のつもりなんだがな。

 メロンパンの袋を空にして、学校まで押してくれるのを待っている間、なにも考えずただぼーっとしていた。ケイがブレザーを掛けてくれたから寒くもない。スマホもないからなにもすることもできない。

 すずめが公園を縁取る網の穴の中にいる。器用だなぁ。そのすずめと並んだときには飛んでいってしまった。……来世は鳥でもいいかもしれない。

「ケイ。今日はぐっすり寝れたか」

 口が暇だと思って、なんとなく聞いた。

「……いや。今日ははずれ。入眠に時間かかったし、アラームで起きれなかった。結局母さんが何回か起こしに来てくれてたみたいだけど、それでも起きれずで……」

 今こうして僕と登校してるというわけか。

「ケイはよくコーヒーを飲んでいるみたいだが、いつもどれくらい飲んでいる」

「……朝起きたら飲んで、昼ば眠たくなったとき、夕方にも飲んでる。あとは次の日が休みで、寝つけない夜にはコーヒー飲んで勉強とかゲームとか」

「……あんまり飲み過ぎるなよ。コーヒーは確かに眠気は覚めるが、飲み過ぎは中毒になる。朝と夕方には僕もときどき飲むことがあるから無理は言わないが、夜に寝つけないからといって眠気を覚まそうとするな。飲まずにしたいことをして、眠たくなれば寝ればいいんだ。中毒になって、しんどくなるのはケイなんだからな」

「…………」

 ケイの気持ちが全部わかるわけではないから、薬を飲みたくない気持ちも、途中で目が覚める気持ちもわからない。ケイなりの思いがあるのは確かだろうが、カフェインの摂り過ぎが良くないのは確かなんだ。

「……気をつけはする」

 実際僕がカフェイン中毒になったわけではないが、名前に毒が入るほど人にとっては害のあるものなんだ、きっと。同じ毒の付く食中毒であれほどしんどい思いをするのだから、カフェイン中毒もきっとしんどいものに決まっている。

 昨日は十分に寝たはずなのに、暇だからかあくびが出てしまう。押してもらってるケイに聞かれるのは悪いから、できるだけ静かに、目立たずにあくびをする。

「あっ」

 突然ケイがそう口にする。忘れ物かと思ったが、すぐに口が開かれた。

「名前。蓮の名前に込められた意味。教えて」

 「…………」

 あぁ……。そんなの言った気がする。

 確かに今は誰もいないからちょうどいいかもしれない。

「……今の名前はギルに、親が死んだ同じ年の夏休みに付けてもらった。親が死んだと言ったあと、心の癒しでもと思ったのか数駅離れたところにある植物園に行ったんだ。その道中にふと名前のことを言って、しばらくしたあとハスの概要を見ていたら、名前は蓮にしようって言ってな。僕が初めてその一面に咲くハスの花に見とれてしまっていたから、ギルはそれに目を付けたのかもしれない。……こういったところだ。謎は解けたか」

「ああ……」

 決まりの悪そうな返事をしたあと、

「もしかしてその植物園って」

「駅のどっち方面に行くかは悪いが憶えていない」

「一番重要なところ。どうせ園名忘れてるんだろ」

「もちろん」

 潔く答える。

「そんな誇らしげに言うなよ……まあ、思い当たるところはあるけどな」

 心当たりがあるならわざわざ聞かなくてもよかったんじゃないか、と思っておく。

「……もう一つ聞きたいことあるんだ」

 急に改まった声で言い出す。なにか真面目な話しをするみたいだ。金とかが関わる話だろうか。

「あの、前警察と話してたよな……」

「ああ。もうなに話したか憶えてないが」

「……後遺症の話」

「…………」

「俺聞いてたんだ。スマホ取りに行く時に」

 ……そんな話してたな。

「後遺症が残ったのか知りたいんだな」

 べつに振り向いてはいないが、なんとなくケイが小さく頷いた気がした。

「心配する必要ない」

「ほんと……」

「本当」

「……信じてないから。なんで信じないかわかる? わかんないだろうな。蓮はいつまで経っても俺に嘘つく。全然大丈夫じゃないのに大丈夫って。だから俺は蓮の言葉を信じれない。だから今回も信じない。

 ……本当のことは言ってくれないんだろうけどさ、絶対一人でなんとかしようとすんなよ。絶対。絶対周りの信頼できる人に頼めよ。無理なら無理って、できないならできないで、俺が絶対助けるから」

「…………」

 きっとこれ以上本当だと言っても信じてはくれないだろうな。

 べつにケイのことを信じてないわけではない。それでもなんとなく他人に頼みたくないんだ。きっと、周りの人に言ってしまえば、迷惑をかけたり余計な心配をされたり、中には怒り出す人もいるかもしれない。それが嫌だから……。


 学校の通用門の前で止まってインターホンを鳴らす。二人分の遅刻を言えば、門の鍵が解除されて通される。

「蓮って遅刻したことあるのか?」

「何度か。どれも体調が優れなくて準備に手間取ったときだ。結局早退させられるというオチだから安心しろ」

 初めてエレベーターに乗せてもらう。室内はショッピングモールなどにあるのとあまり変わらない。ただ一回りくらい小さいと思うくらいだ。

 着いたら教室の前まで送ってもらう。

「……蓮がどう教室に入るか聞いてくる」

「悪いな」

 壁伝いじゃなければ歩けないくらいに僕の筋肉は劣っている。入院中、歩かなくとも筋肉の伸縮はできる限りやっていたから、この程度で収まったんだろう。まあ、壁沿いに歩けても数歩で疲れて休憩が常に必要なくらいなんだが。

 教室内に車椅子を入れることは可能だろうが、この学校の生徒はほとんど机の横に鞄や部活動で使うものをぶら下げているから、車椅子が通るのには少し厳しいかもしれない。

「新藤! 久しぶりだなー」

 扉から鞄を下ろしたケイと担任の先生が出てきた。時間的にもう一限は始まってる頃だと思うんだが、一限は数学だったか?

「……お久しぶりです」

 先生に向かってこういう言葉を発していいものなのか、少し違和感を持った。

「なかなか時間作れなくてお見舞いに行けなくてごめんなー。元気そうでよかった」

「こちらこそご迷惑をおかけしてすいません」

「いやー新藤が無事ならそれでいい。謝るな」

 にっと笑って、わしゃわしゃと頭を撫でられる。

「で、座り方だよな。新藤の席ってどこだっけ」

「確か中央の」

「蓮、席替えしたんだ。蓮の席は一番道路側の後ろから三、四番目のあたり」

 席替え、もうそんな時期だったか。僕がのんきに寝ている間に。

「遠いなー。鞄横に掛けてる生徒が多くて車椅子だと通れないかもしれないから……新藤はもう歩けるか?」

「……少し厳しいです。まだ筋肉が回復できてないので」

「そうかー」

 這ってならまだいける。

「な、なら……俺が席まで運びますよ」

 運ぶ? 車椅子ごとか?

「お、悪いな影島。じゃあ、お願いしようかな」

「す、少し揺れるぞ」

 ケイが僕のほうを向きながら車椅子の横に立つ。

 なにをするのかと不思議に思っていれば、前よりも骨のようになった細い僕の足をひょいと上げて自分の腕を膝裏に当てる。右脇に腕を滑り込まされて左肩に触れられる。

「しっかり掴めよ」

 掴む?

 なにを掴むのかを聞く間もなく、僕の体は中に浮いた。

「……ま、待てケイ。運ぶって」

「どうかした?」

 ケイの顔は笑っている。

「お、憶えてろよ……」

 教室の扉をくぐろうとするケイの胸に頭を埋めた。こんな姿、誰が恥じずにいられる。

 ケイが僕を抱えて現れたことで、教室が騒がしくなる。僕に対してか、この運び方に対してか。いやそんなのは正直どうでもいい。早く降ろせ……。

「誰か蓮の椅子引いて……あ、ギルくんありがと」

 引かれた椅子に座らせてもらえる。すぐに顔を上げ、ケイを睨む。

「もっとマシな運び方があっただろ」

「文句は一人でここまで歩けるようになってから言ってもらって。というか、入院中ちゃんと飯食べてたか? 本当に軽い。前よりも手足が細くなってたし」

「動いていないんだから筋肉が衰えるのは当たり前だ。それに癪だったが、ケイが食べさせてくれただろ。あれが証拠だ」

 僕の記憶の中でもずいぶん羞恥に浸った出来事を言えば、思いだしたらしく顔を赤くする。あれは食べさせる側も食べさせてもらえる側も恥ずかしいものなんだ。あれを悠々と行えるギルがおかしいんだ。

「と、とにかく前向いて、椅子入れるから」

 足を少し浮かせられて前に向かせられ、落ちないようにか胸に手を添えられながら椅子を机に入れられる。早く一人でできるようにならなければ……。

 廊下にいたらしい先生がケイを呼んで「じゃあ」と逃げていかれた。

「れんー。敬助のお姫様抱っこどうだったー?」

 なんで下条(こいつ)が後ろなんだ。背中をつついてからかってくる。傷が痛むから後ろを向けないことが幸いだ。

 顔を机に伏せる。さっきのことはもう忘れよう。

「れーくんおはよ!」

 下条からのからかいを知らないフリをしているのか、ギルが嬉しそうに朝の挨拶をしてくる。挨拶はしないといけないから返そうと顔を上げればギルが前の席にいなく、代わりに横から勢いよく抱きついてきた。反動で窓に強く頭を打って、次第には腹に体重が乗って酷く痛む。

「れーくん……れーくん……」

 それでも声を押し殺して、今は歓喜のあまり泣き出しそうなギルの頭を撫でてやった。

「おはよう」

「おはよっ! もう学校来れるようになったんだね! ほんとのほんとに嘘じゃない?」

「嘘ではない。体力的にときどき休んでしまうかもしれないが、極力遅刻してでも行くようにはする」

「えへへ、れーくん大好きっ!」

 強く抱きしめられて少し痛い。あの時と同じくらい痛い。けど、こんな程度、あの時に感じたギルからの痛みに比べたら余裕だ。

 ケイが教室に戻ってきて僕の鞄を机の横に掛けて自分の椅子に座ってからは、授業が再開となった。立っていたギルが座らされて抱きつかれなくなる。開放されてからは鞄を開けて数二の教科書を取ろうとするが、ない。

「あ、そうそう今来た新藤と影島、この授業は歴史との入れ替えでもとからなかったから、教科書持ってきてなくても評定は下げないから安心しろよー。板書だけどこかに書いておいてくれ。再開するぞー」

 ということらしい。持ってきていなくてもよかったみたいだ。ルーズリーフと下敷き、ペンケースだけ取り出して、急いで黒板の板書をした。

 連休明けの数二の授業はなかなかに理解しがたかった。これは放課後先生に学んだほうが自力で何時間も使って勉強するよりいい気がする。

 少し苦しい時間が過ぎ、久しぶりの休憩時間に入った。

 ルーズリーフを鞄の中に入れて、机に伏せる。今までできていたことができなくなるなんて、これほどまで苦しいことなんだな……。今まで通り過ごすために今できることはとにかく理解するまで勉強することだ。いつもより勉強時間を増やそう。

「れーくーん。お話ししよ!」

 顔を上げてギルと目を合わせる。ギルはこれっぽっちも心情を知らないように笑顔で、嬉しそうだ。

「昨日ね、俺れーくんの家に行ってたんだよ! れーくん寝てて気づかなかったと思うけど。月曜日の朝にれーくんの家に間違えて行っちゃって、ついでだから休憩していこうかなーって家入って、れーくんの部屋に行ったられーくん床で寝てたんだ。それでお父さんにベッドに運んで布団掛けてもらって、最後に俺がぬいぐるみ置いたんだ。そしたらぎゅーってしてくれて俺嬉しかった」

「……だからか。床で寝落ちたと思っていたのに、悠々とベッドに寝転んでいたからのんきなものだと思っていたが」

「えへへーそうなんだー」

 これで床で寝落ちたはずなのに、悠々とベッドで寝ていたという謎は解けた。

「それでお父さんが言ってたんだけど、ちゃんと食べてる? 俺より軽かったって言ってたよ?」

「ほんとに」

 ギルの言葉に沿うようにケイが割り込んできた。

「ギルくんの体重がどれくらいか知らないけど、ギルくんより背の高い蓮のほうが軽く感じるのは食べてない証拠だ」

「だから食べている。それにまだ筋肉が付いてないから軽く感じるのは」

「れーくんは筋肉付いても体重変わんないよ」

「すごく変わる」

「変わんないな」

「…………」

 変わるし……。

 僕の意見を聞いてくれないから諦めて、頬杖をついて窓に顔を向ける。退院直後だからそう感じるだけだ。僕がこうしたことで二人分の笑い声が聞こえる。

「あはは。でもこれから一緒に筋肉付けよ! 俺一回筋肉マッチョなれーくん見てみたい!」

「たぶん、百年はかかる」

「あはは、何百年でもいいよ! いつかなってね」

 正直ボディビルダーのような体にはなれないと思うし、なろうとも思ってないからギルとの約束はかわさなかった。どれだけ小さな約束でも、一つの約束だ。

「なあ敬助」

 席に戻ってきたらしい下条がケイのことを呼ぶ。反応したケイは視界から消えてしまった。

「これ教えて」

「……垣谷に教えてもらえよ」

「だって今女子に教えてるもん」

 珍しいな、下条が勉強を自ら教わろうとするなんて。

「問一くらいはできるだろ」

「できませーん」

 問一って、もしかして課題を教えてもらおうとしているのか? やっぱり下条は下条だな。

「あ、そうだれーくん。ずっとやりたかったことあるんだ」

 耳の注意をギルに向ける。

「名前当てゲーム」

「却下。……どうせ誰も当てられず終わる。ギルならわかってることだろ」

「聞こえない聞こえなーい。あはは。じゃあやるよ? まず初め俺の名前は?」

 正気か?

「英川ギル」

「じゃあ後ろのけいす……今真也くんに勉強教えてる人は?」

「……影島敬助」

「じゃあその教えてもらってる人」

 さっき言ってただろ。

「下条……真也」

「じゃあじゃあ、あそこの今女の子に勉強教えてる人は?」

 あいつは……総務か。総務の本名はなんだったか。さっき話をしていて姓名が垣谷なのは思いだした。下の名前はどうだったか。下条は仲いい人のことは名前で呼ぶ。下条はいつもなんて読んでいた?

「……垣谷……」

 思いだせ……。

「……豊」

「そう正解! できるじゃん! じゃあ今焼きそばパン食べてる鞄にキリンのキーホルダー付けてる人は?」

 ギルは指を差すことなく目線でその人のことを見る。鞄にキリンのキーホルダー……。いた。目線を上げて顔を見てみる。

「柊……」

 柊の下の名前はなんだったか……。修学旅行のときに初めて知ったんだが、もう憶えていない。

「『み』から始まるよ」

 み、み……。

「柊実琴」

「正解! 正解だよれーくん!」

 嬉しそうに手を握って上下に振られる。

「あはは、れーくんが人の名前憶えてる。……憶えてるよ」

 次第に降る威勢はなくなり、ギルの目には涙が添えられる。

「どうした。どこか痛むのか」

「ううん。……れーくんが人の名前……憶えてくれて、すっごく嬉しいの! それだけれーくんと関わりを持って、仲良くしてくれる人がいて……。俺以外の名前言ってくれるの、すっごく嬉しいんだよ」

 つまり、僕がギル以外に友人ができたことが嬉しいんだな。まるで僕の親みたいだな。友人関係の発展で喜ぶなんて。

 けど、それは高校生になってギルが外向的になったことが要因でもある。ギルがいつでも僕以外の人間と関わることがなかったら、僕がその人間と関わることもなかっただろうし、威嚇気味に返事することも少なくなった。

 どれもこの高校に進学したことと、ギルが友人を作ろうとしたからだろうな。僕が名前を憶えたのではない。ギルが名前を教えてくれたんだ。

「これからもたくさんの人の名前憶えられる?」

「少し腹いっぱいかもしれない」

「えー。……でもこれだけたくさんの人の名前憶えてるならもう十分だよ」

 ギルは嬉しそうに笑う。

 高校生になってからはずいぶん安定した私生活、高校生活を送れていて、生徒間でもこれといった大きなトラブルがなかった。これはこの高校に進学したことが正解と言っていいだろう。

 今はこんな幸せな日々を過ごせているんだ。心から、本当に生きていてよかった。死んでいなくて本当によかった。


 次の時間は僕にとって地獄の一時間になる体育だ。が、しかし今この状態で受けられるわけがない。もちろん見学する。今日ばかりは地獄の一時間にはならなさそうだ。

 見学者であっても体操服に着替えるが、移動時間も考えると五分という短時間で一人で着替えるなんてまだできない。上のジャージならある程度いつも通りに着替えることはできるが、ズボンがなにより大変だ。他の人が着替えている中手伝ってもらうわけにもいかない。事情を先に伝えているわけではないから直前に言うことになってしまうが、あの教師なら許してくれるだろう。

 そもそも体操服を持ってきていないが。

 ギルは一人で着替えることができるみたいだが、体育はやはり見学するらしい。父親から見学しなさい、と言われたらしい。

 今はケイに車椅子を押してもらってグランドに向かっている。楽だ。

「今日なにするんだろ。バスケならやりたかったなー」

 グランドに出るんだからバスケットボールな可能性は低いと思うが。

 廊下に出た時点から寒いと思っていたが、一階に下りたらもっと寒くなった。誰かからブレザーを借りたらよかった。

 グランドのベンチのあたりまで押してもらい、ギルは隣に座る。ケイも向かいのベンチに座り込んだ。周りにはクラスの男子生徒が置いたと思われる水筒やペットボトルがある。大きいものや小さいもの、まちまち。

「敬助くんは行かなくていいの?」

「時間まで少しだけあるからな」

 グランドにはクラスメートが二列横隊になって並んでいて、中には半袖で着ている人もいた。寒くないのだろうか。ギルはジャージの前を閉めていて、ケイは前を開けている。暖かそうだ。いや、意外とジャージは薄手だったりするから寒いのか?

 先生は倉庫の前でなにやら準備をしていて、見えるのが白い線を引くライン引きだ。今日が見学でよかった。あれ以外に準備物を出していないということは長距離走な可能性がある。

 腕時計を見れば長針が「8」に当たりそうだ。

「ケイ、そろそろ行ったほうがいいんじゃないか」

「……そうかもな。じゃあ」

 ケイが離れて小走りしていくうちにチャイムが鳴った。体育教師は一秒遅れただけで怒るような先生ではないから、ケイが並んでなかったことで怒りはしない。

 体育教師のいつもの流れは挨拶のあとに欠席者の確認、そのあと準備体操を体育委員に任せて自分はなにやら準備をする。

 けど、今日は体育委員に準備体操を任せたあと体育倉庫前へとは向かわず、僕らのほうへやってきた。ギルがなにか悪いことをしたのかとビクビク怯えていたが、どうやら違うみたいだ。

「新藤と英川は見学だな」

「……はい」

 わざわざ聞きに来てくれるなんてありがたいな。

「事情は知ってるから、今は安静にな」

 そして顔に似合わない微笑みを見せる。そうなんだ、意外とこの体育教師は優しいんだ。

 それだけ言うと体育倉庫へ向かっていった。

「なにか言われるのかと思った……。例えばなんで見学のこと言わないー! みたいな」

「怒るのは授業でふざけた場合のみ。それはどの先生にも当てはまることだ」

「それもそうだよね」

 準備体操のあと倉庫前に集められ、なにかが配られていく。青い……縄跳び? それを持ってバラけさせられ、笛の合図で縄跳びをし始めた。

 縄跳びを見るなんていつぶりだろうか。小学校で跳ばされたのは憶えているがいつだったか。前跳び以外どれも引っかかってあまり好きではなかった。ただ手首を回して跳ぶだけの作業だと思えば走るよりは楽だったのは憶えている。

「縄跳びかー俺も跳びたいなー。俺縄跳びは得意なんだ!」

 立ち上がったかと思えばそこに縄跳びがあるようにジャンプする。が、バランスを崩して転けそうになってしまう。

「あまり暴れるな。そういうのは筋力が戻ってからにしろ。怪我する」

「えーでもこれも筋肉を回復させるための運動だよ?」

「するな。筋力は少しずつ回復させるものだ。いきなり戻そうとするのは怪我をする」

「んー。わかったよー。でもれーくんも筋力戻ったら一緒に縄跳びしよ?」

 高校生が縄跳びをするのか。小学生のうちに誘われるならまだしも……。

 五分ほど跳んだあと休憩が挟まれ、汗だくな男子生徒がこっちに向かってきた。なにかと思えば水筒の水を飲みに来たらしい。ケイも小さめの黒い水筒を僕の前で飲んでいった。

「お疲れさま」

「……五分はキツイ」

「僕はこの単元が終わるまでは見学しようと思う」

「いいご身分で」

「ケイと変わらない」

「……そ」

 縄跳びも長距離走もしたくない。

 他の生徒が朝礼台前に向かい始めたことで、ケイも手を軽く上げて去る。

 それぞれ二、三ペアになって相手の走った距離と走り終えた時間を書くらしい。去年と同じような感じだ。

 今回の距離は一五〇〇メートル。……一五〇〇メートル? いきなりそんな距離を走るんだな。本当に見学でよかった。どうせ次の体育では距離を延ばすんだろうな。本当に嫌だ。

 ケイは前半に走るみたいだ。トラックから一本飛び出る白線に並ぶ生徒の真ん中くらいにいる。笛の合図で走り出していった。

 初めに先陣を切った生徒が何人かいる。その中に下条もいた。四人目あたりにいる。それとは違って中間より少し早めに走っているのがケイだ。

 長距離走は徐々に息も切れ、走る体力も削られる。初めのうちはこれなら走れると思っていても、だんだん苦しくなる。世の中に長距離走なんて体育の単元、必要ないと僕は思う。走りたい人だけ走ればいい。

 距離の半分ほど走っていれば遅い者、速い者と明確になってくる。先人を切っていた生徒が遅い者になっている場合もあるみたいだ。

 ケイが前を通り過ぎたことで、自然とケイを目で追いかける。走って熱くなってきたのかモゾモゾと腕を動かしてジャージをトラック内に脱ぎ捨て、白の半袖が見える。ケイのペアらしい総務がジャージを拾い上げていた。ケイは次第に他の生徒に隠れて見えなくなってしまう。

 数分ほど走る生徒を暇に見ていたら走り終える人がちらほら見えてきた。その中に下条もいる。走り終えた生徒は膝に手を付く生徒やまだ余裕そうな、きっと運動部である生徒などがいた。下条は後者だ。

 のちにケイも走り終え、膝に手を付く。お疲れ様だ。服で顔の汗を拭いたことで、割れている腹筋が見える。ケイにファンなどがいればどれだけ湧いたことだろう。

「今の見た? 敬助くんの」

 腹筋のことだろうか。

「割れているのなら」

「俺一回くらいああやって汗拭きたい……。なんかかっこいいじゃん。でも俺あんなに割れてないからただお腹見せてるみたいになりそうでできない。あはは」

 ヘンなことに憧れを抱くんだな。

「それにさ、俺今運動とかできないから割れもできないんだよ」

「割ろうと言う意志があるなら腹筋を鍛える運動くらいはできるんじゃないか。上体起こしとか。あれなら怪我もしない。筋力の回復にもつながる」

「うーん確かにそうかもしれないけど、ちょっと面倒臭いって感じする」

 その決意の固さでヘンな憧れを持つな。

「れーくんも一緒にしてくれるなら」

「しない。一人でしろ。僕は絶対にやらない」

「あははは。そう言うと思ってたよ」

 なら聞くな。

 少しの休憩が挟まれたあと、今度はまだ走っていない後半の生徒に交代だ。そこには総務の他に柊もいるみたいだった。同じく笛の合図で走り出していく。

 今度も暇に見ていた。長距離走をするのは地獄だが、こうして見ているのも暇だ。いや、やりたいとは言っていない。

 あくびを一つして、ぼーっと眺める。

「あ……大丈夫かな」

「……なにがだ」

「ほら、奥のほうで実琴くんが転けちゃってる」

 奥だったか。前しか見ていなかった。

 確かに柊が地面に脚を付けていた。その横を生徒が通っていく。

「……俺行ってくる」

 そう言ったギルの手首を掴んだ。

「なに?」

「……あそこまで距離がある。ギルが着く頃にはもう立ち上がれている。……それに」

 ギルにも柊のほうへ向くように促す。

 柊ともう一人、名前の知らないが立ち止まって柊に手を差し伸べている。柊は修学旅行以前はああいった救いの手を自ら払い除けていた。今ここで手に取ることができたのならそこには、柊自身の成長と信頼、友情が生まれる。

 柊はその手を取ろうと伸ばすが、すぐに引っ込んでしまう。けどその差し伸ばされる手は今もある。

 生徒は今も横を走っている。

 ためらいながらも柊はゆっくり、その差し伸ばされる手を掴んだ。手を引かれ手柊は立ち上がる。

「……ああやって信頼できる人ができるんだよね。れーくんが俺にしてくれたように」

「…………」

「もしかして知らなかった? 俺ずっと憶えてるよ。初めて声かけてくれたとき、あの時は怖くて泣いちゃったけど、話しかけてくれたのれーくんだけだったの。

 そのあと、さっきの実琴くんみたいに手伸ばして助けてくれた。実際は手を伸ばしてくれたわけじゃないけどね。あはは。

 ……助けてくれたとき、俺ほんとに真っ暗だった世界が明るくなって、この人だけは絶対に離さないって思ったんだ。絶対に優しくて、絶対に助けてくれるって思って。それで実際は何億回も優しくしてくれたし何億回も助けてくれた。俺これからも絶対にれーくんのこと離さないからね」

「……過剰表現が過ぎる。それに……こうして息をしていけるのはお互い様だ」

「……そうだね。記念にぎゅーっしていい?」

 意味がわからない。

 答えを言う間もなく筋力はないながらも強く抱きしめられた。

「なんだか、こうしてぎゅーってできるのも奇跡に思えてきちゃった。れーくん生きてくれてありがと」

「……お互い様だ」

 軽く抱き返す。涙ぐんでいる姿を見せたくない。


 授業が終わる五分前くらいに体育教師から鍵が渡され、先に教室の鍵を開けてほしいとのことだった。体育の授業時は体育委員が鍵の使用権が与えられるが、その体育委員ももちろん長距離走をするわけであって、疲れている中走って鍵を開けさせたくはないとのことだった。やはり体育教師は優しい。

 ギルに押してもらいながら教室に向かう。初めはギルも体力が回復したわけではないから押さなくていいと言ったものの、これも回復させる一つの運動とか言って手を離してくれなかった。ケイならまだしも、半分病人のような人間に押してもらうなんてしたくなかったのだが。それでも軽く自分では押している。

「俺さ、今日初めて学校のエレベーター乗ったんだよね。普段学校のエレベーターなんて使わないからワクワクする」

「……そうか。普段学校生活を送るなかで乗るようなものではないからな」

 僕は車椅子に乗ったまま誰かに押してもらってエレベーターに乗るのには少し抵抗がある。今はギルや先生といった信頼できる人に押してもらっているから安心できるが。

 読んだ小説の中に、僕と同じような状況に陥った物語があった。交通事故で車椅子生活を送ることになった主人公が、その日に出会った自称親切な人に押してもらってエレベーターに乗る。もちろん自称親切な人も乗っているわけで、四階を押してもらうよう言ったものの押されるのは屋上。

 実はその自称親切な人の正体が別れた元恋人で、その元恋人は別れたあとの生活の差に不満を持ち、主人公をたまたま見かけて屋上から突き落とそうとしていたというわけだ。

 まあ、なかなかにそういった「物語だけの話」を体験するようなことはないと思うが。

 教室の前に着いてギルが鍵を開けに行く。僕はその間に車椅子の側面を壁に付け、壁に支えてもらいながら立ち上がった。

「よし開いたよって、れーくんなにしてるの!」

 座らされそうになるが、なんとか耐える。せっかく立ったんだ。

「教室に入る」

「お、俺運ぶよ、敬助くんみたいに」

「ギルには運べない」

「でも……」

 ギルは僕の体を支えながら教室に入り、席のあるほうへ導いてくれる。

「あったか……」

 一時間前の授業のときから教室には暖房がついていて、入った瞬間布団で温もったくらいに暖かくなった。天国みたいに温かい……。

 席の前までくれば椅子を足で乱暴に引き出して、そこへ座らせてくれた。

「れーくん無茶しないの」

「していない」

「してるから言ってるの。まだ一人で歩けないのに歩こうとしない。もし次したら足と手、車椅子に縛るからね?」

 怖いことを言う。

「それか、んーっと一週間小説読むの禁止」

「わかったからそれはやめてくれ。暇が潰せなくなる」

「あはは。それはれーくんの行動次第だよー」

 ギルも自分の席に座って着替えていく。座りながら着替えるのは時間に余裕があるのと立つのが疲れたからだろう。ギルにも立つのが疲れたなんて思う日がくるとは。その気持ちはいつも僕が思っている気持ちだ。

 着替えていく様子を後ろ手に見ていく。ギルの腹も手もずいぶんと細くなったものだな。人に言えることではないだろうが。

 教室の電気はついていなく、静かだった。それでも焦った者はそんなことには気づかず、いきなり教室の扉を開けて言う。

「遅れてすいません!」

「わっ!」

「…………」

 ガっと扉を開けたのはクラスで顔を見たことがある女子生徒だった。名前はわからない。

 女子生徒は理解しようとしているのか静止している。ギルもとっさに下半身を服で隠して静止している。運悪くズボンを着替えようとしていて立ち上がっていたから、隠さないと下着が丸見えになるところだった。

「……男の裸を見る趣味があるのか」

「……え、今体育!」

「ああ。そしてここは男が着替える場所だ」

 下半身を必死に隠すギルにやっと気づいたらしく、

「ご、ごめんなさい!」

 扉を閉めてどこかへ走っていった。

「……ほんとにびっくりした……」

「気づいたのが今でよかったな。クラスメートの男が他にいたら……もっと大惨事になっていた」

 ギルは笑ってそうだねと頷く。もっと人がいたらきっと弱みとして握られていた。

 ギルがブレザーに腕を通したとき、今度はゆっくりと扉が開かれる。今度こそは着替えようとするクラスの男子生徒だった。その中には下条ももちろんいて、僕の後ろへ消えた。べつに下条のほうへ向いていない、それなのに下条は話しかけてきた。

「なあ蓮。……今度宿題じゃなくて勉強教えて」

「……今っ……」

 下条自ら勉強を教えてほしいといった事実が信じられなく、理解したあと振り向こうとしてしまって腹の傷が酷く痛んだ。後ろへ向く途中で唸って腹を抱え込んでしまう。

「え、蓮?」

 顔を上げてみればそこにはケイよりも割れた腹筋をYシャツから若干見せて、しゃがんで覗き込んでいる下条がいた。早く隠せその腹を。頭に来てしまうぞ僕。

「そういや怪我してるんだっけ? どれくらい酷いんだ?」

「見ようとするな」

 服をめくろうとする手を払い除ける。

「人によってはグロテスクに感じる人がいるんだ」

「蓮が?」

「僕は小説で耐性が付いているから」

「ならいいじゃん」

 そういって再びめくろうとする。

「変態」

「へ、変態じゃねーし」

 否定したからには服をめくろうとするのをやめてくれる。いや、下条自身がやめてくれたわけじゃないみたいだ。下条の手首に誰かの手がある。つながる腕を下から上へとたどれば鼻を赤くしたケイがいた。

「やめろ下条」

「鼻あっか。トナカイかよ」

 そういえばそんな歌もあったな。

「外が寒かった。それよりボタン……閉めてほしい。寒くて手が動かなくて着替えが進まない」

 ボタン? ケイの着るYシャツを覗き込んでみれば、下条と同じように前を開けていた。そしてまたしても見える割れた腹。なんでこう二人も見せてくる。

 要件はボタンを閉めることだったな。少し八つ当たり気味に前を閉めて腹を見えないようにしてから下から閉じていく。

「そんなに寒かったか?」

「初めに走ってしまえば後半が終わるまでは動かずで汗が風で冷えて寒くなる」

「上のジャージ着ればいいだろ。まあ俺は余裕だったから着てなかったけど? ……えっくしゅ」

 なにに意地を張ってるんだ。それに言ったくせしてくしゃみをするな。それに目の前に僕がいるのに顔を一切逸らさずくしゃみしないでくれないか。唾が飛ぶのが見えた。

「……ひざ掛けにしてた」

「馬鹿だなー」

 座ったままだと上が届かない。

「ケイ、しゃがめ」

 しゃがめと言ったものの、下条がいてしゃがめなくて前かがみになる。

「途中で気づくだろ、さむって」

「風で汗が冷えてるんだろうなって思って」

「だからそれで寒く感じたんだろ? なに言ってんだ?」

 ケイ自身もなにを言っているのかわからなくてか首を傾げる。

「ま、いっか。ってか敬助邪魔。無駄にでっかい体してー」

 ケイが下条の道を塞いでいる。ケイが一歩右にズレれば、下条はその横から抜け出して続きを着替え始めていく。

「風邪ひくなよ」

 ケイのシャツから手を離して終わりの合図を出す。

「ありがとう。……俺も着替えてくる」

 まだ鼻の赤いトナカイ……ケイは自分の席に戻っていった。

 体育終わりの授業はどの生徒も疲れて集中が切れる。それに、朗読のような落ち着いた声を発する国語の先生となればもう寝ずにはいられない。クラスの半分くらいが眠たそうにし、そのうちの半分は寝ていた。

 僕は疲れていないので眠たくはない。が、さっきから太陽の光が当たって温かく、それで眠気が増してきている。

 国語の先生は昭和のお硬い先生ではないが、年寄の老人教師で、若く厳しい先生よりはおっとりしていて、二分の一ほどの生徒が寝ていても知らないフリをしている。しかもこの先生は生徒に問題を当てるというような強制はされないから、生徒の悪い考えで高評価の先生だ。

 真面目な生徒は気の毒だが、正直言ってこの先生の授業は聞き取りにくくなにを言っているかわからない。だから余計に必死に起きる人も少ない。

 あぁ、太陽が雲に隠れてしまった。急に寒く感じる。

「この――――る。なぜ――――か。私が――――これは」

 先生の声がいいBGMで本当に寝てしまいそうだ……。うとうとしてくる……。

 目を閉じて寝てしまいそうになったとき、まぶたの外が明るくなる。何事かと思えば、雲から太陽が見え始めたみたいだ。温かい……。

 が、まだなにも板書をしていない白紙のノートに光りが反射して眩しい。それほどまで眩しいのかと寝ぼけ始めている僕の頭は太陽へと目を向ける。眩しく目が刺激されながらも空の神々しさは感じられた。綺麗だ……。

 そろそろ眩しくなってカーテンを閉めようとカーテンに手を伸ばすが届くわけがない。ちょうどギルの机の右上の角あたりにある。もう一度、今度は少し前のめりに伸ばすが、届かない。そもそも腹が痛い。

 諦めて小声で言って閉めてもらった。そもそも前が知ってる奴なら腹を痛める必要もなかったのに、なんであんなことをしたのだろうか。

 眩しくなくなったら顔を振って目を覚ます。授業に集中しよう。

「注目するのはここの書かれ方。三行目の……」

「…………」

 集中しようとしたのに、窓が開いていたみたいで風でカーテンが煽られ、前が見えなくなる。そしてそれに気づいたらしい先生が教科書を読みながらカーテンを開けられた。また眩しくなる。

 僕は眠気に任せて寝てしまうことにした。


「れーくん、れーくん」

 目を開ければギルが後ろを向いて座っていた。周りを見渡してもそのような生徒はちらほらいるがみんな座っているみたいだ。つまり今は授業中みたいだ。だが先生はいない。

「これやらないと」

 自分の机の上から持ってきたのはプリントだ。僕の机の上にも同じものがある。黒板には、

「自習……」

「そう。今日お休みなんだってー。それでこれやらないとだからやろ」

 休みなのは生物の先生みたいだ。生物は暗記ものがほとんどだからすぐに終われそうだ。終わったら寝よう。

「気持ちよかった?」

「ああ。ぐっすり寝れた」

「あはは。だよね、ほんとに気持ちよさそうに寝てたもん」

 いきなりスマホを取り出したかと思えば僕が窓に頭を預けて寝ている写真があった。また写真なんか撮って。消そうと、画面に触ろうとすれば察したのか手を引かれてしまう。

「どんな夢見た?」

「見ていない」

「そっかー」

 ギルと一緒に教科書を見ながら進めていく。ギルも休んでいた分があるから、わからないところはわからないみたいだ。僕もわからないのに聞いてくる。

「これは?」

「そういうのも全部あとでだ。あとで総務に聞こう」

 そう思っていたのに総務自ら来てくれた。休んでいてわからないだろうと。

「新藤くんここわかりそう?」

「…………」

「れーくん寝ないのー。あとちょっとだよ。頑張ったらご褒美にパン買ってあげるから」

「…………」

「れーくんが欲しがってたせんべいあげるから」

「……約束だぞ」

 なんとか眠気と闘いながらプリントを埋めて授業の時間が終わった。結局授業の終わりまでかかってしまって寝る時間も作れなかった。

 だが、おかしなことにチャイムが鳴れば目がどんどん覚めてくる。今はギルがトイレに行っているから小説を読んで待っている。

 入院中に読み進めていた小説で、もう終わりそうだ。犯人も凶器も特定され、残るは動機だけだ。初登場からこの人が犯人なわけないと思いながら読んでいたものだから少し衝撃だった。動機がどんなものか気になる。

「あー、お弁当の準備してって言ってたじゃん」

 ギルが帰ってきて早々本を取られてしまう。

「待て今ちょうどいいところ」

「関係ありませんー。お昼ごはん食べるよ。……お弁当は?」

「…………」

 そもそも弁当を作っていないじゃないか。

「ないから本を返せ」

「ないからって本読もうとしないの。買ってくるの」

「べつに腹が空いていないから食べなくとも」

 本当にタイミング悪く腹が鳴る。

「ほんとにお腹空いてないんだ、へえー?」

「あ、やべ!」

 僕やギルの気を引くような大きな声が後ろから聞こえた。下条の声だ。

「真也くんどうしたの?」

 ギルが僕越しに聞く。

「弁当家に忘れたー。金持ってねーし昼飯食えねー……」

 ずいぶんと落ち込む。まあ、三大欲求が食欲しかない下条にはそれほどショックなのだろう。

「ならちょうどいい。僕の分も買ってきてくれ」

 腹を抱えて痛みを抑えながら体を横にして、顔だけ下条に向ける。

「蓮も忘れたのか?」

「ああ。下条の昼食も僕の金で買ってきていいから僕の分も適当に買ってきてくれ」

「えーでもそれはなんか」

「昼食は食べたいんだろ」

 なんとか下条を説得して買いに行ってもらった。僕や下条も昼食を食べれ、下条の小遣いも減らず、僕は動かず、どちらも幸せになる。平和的解決だ。

 下条を待っている間、小説を読もうと返してもらおうとするが、返してくれなかった。あとほんの数十ページなんだからそれくらい読ませてくれ。

 暇でおいしそうに食べるギルの様子を眺めていれば、

「新藤」

 担任の先生に呼ばれる。

「今日の放課後、空いてるか。少し話したいことがある」

 放課後に、話したいこと。

「れーくんなにか悪いことしたの?」

 していないはず。そもそもずっと入院して今日久々に学校に来たのだからすることもできない。

「いや、そういう話じゃない。……新藤に聞きたいことがあるんだ」

「事件のことならもう警察の方に」

「いや、それも違う」

「……わかりました。放課後、ここで待ってます」

「ありがとうな」

 やけに真剣に僕の表情を気にしているような顔をするものだから、どんな話を持ちかけられるのか読み取ることができなかった。

「れーくんもしかしてお財布盗んだ……?」

「なんでそんなピンポイントなんだ。それにしていない」

「れんー、買ってきたぞー」

 下条が帰ってきた。机の上に財布と一緒に三つのパンと二つサンドイッチが置かれる。

「ありがとう」

「どれがいい? 適当に買ってきたから蓮が好きなのでいいぞ。お金出してくれたんだし」

 そんな遠慮いらないのに。

「下条が食べたいのを取ればいい。全部下条が取ってもいい」

「それは俺が駄目。ちゃんとお昼は食べないと。退院してすぐなんだから食べないと倒れるよ」

 はい。

「えーじゃあこれとこれ」

 取っていったのはハムカツサンドとウインナーパン。

「もう一つ選べ。サンドイッチとパン一つで十分だ」

「いいのか? なら……これ」

 焼きそばパンを新たに取っていく。余ったのは三つ入りのツナサンドとメロンパン。

「明日絶対俺の弁当ちょっとあげるな! マジでありがとな!」

 下条は嬉しそうにパンを抱えて教室から出ていった。……なんでもいいといったが、メロンパン、朝にも食べたな。ギルにあげよう。

 サンドイッチの袋を開けて食べていく。

「ねえれーくん。あれでしょ、お弁当用意するのって難しいよね。だから今日忘れたんだよね」

「今日は……白米を炊いていなかったのもある。が、台所に立てられなければ包丁も握れないから、一食作るのは少し難しいだろうな」

「だよねー。しばらくれーくんのお弁当食べれないなー」

 目的はそれか。

 サンドイッチ三つは十分一食に値し、眠くならない程度に腹が満たされた。今度こそ小説を返してもらおうとすれば、半分食べた跡があるメロンパンを渡してくる。

「俺お腹いっぱい」

 結局腹一杯に満たされてしまうらしい。

 食べている間、小説を読みたくて仕方がなかった。ギルが目の前で本を開いて見ている。

「……そういえば、しおり挟んでくれないか。確か……三二〇ページあたり」

「えーっと、ここ? 『私はずっと彼を愛していました。愛して、愛して、愛し狂って、彼を殺してしまいたいほどに愛しました』」

 ん……? そんなところあったか?

「『だから彼に睡眠薬入りのお酒を飲ませ、キスを、最後のキスを交わしながら彼の息の根を止めました』」

「……待て、それ何ページだ」

「んーっと三三〇ページだよ?」

「……十違う……ネタバレ……」

「あれ? おーいれーくん」

 ネタバレを……食らった……。

「ギル、これ食べろ……」

 机に伏せて無気力になる。


「ははっ、そんなことがあったんだな」

「それからずっとれーくん元気なくって」

「まあ、ネタバレは人によっては嫌な人もいるからな。今回は仕方がないかもしれないけど」

「仕方がないことない。ギルが素直に渡していれば……よかったのに……」

 机の上に置いた腕に左耳を埋める。

 もう小説は読み終わったが、ギルからネタバレされたからあまり面白くなくなった。ネタバレは大罪だ。

「ところで、先生遅いな」

「やっぱりお話ししないってなったんじゃない? それなら帰ろ」

「…………」

 僕的には帰りたくない。なんの話がされるのか気になる。

「新藤お待たせ。職員会議があって、遅れてしまった」

 僕ら以外にいない教室に先生が入ってきた。

「構いません。それで話とはなんですか」

「……ここは誰もいないけど、部活動で帰ってくる生徒もいるだろう。場所を移させてもらえるか。影島」

 朝と同じ運ばれ方をして車椅子に座らされ、先生が進む後ろでケイが押してくれる。

「なんの話だろ」

「さあ。蓮がなにかしてないなら、テストの点が悪いとか」

「れーくんのテストの点はいいよ? いつも平均点は超えてるもん」

 本当になにを話されるんだ。

 そう思いながら着いたのは指導室。

「……れーくんやっぱりなんかしたんじゃないの」

「あぁ、今ここが空いてるからここにさせてもらいたい。指導するようなことじゃないから」

「…………」

 この教室は生徒指導や進路指導のときに使われるのがほとんどだ。僕はどちらに当てはまるのか。それともどちらでもないか。

 室内は一般教室とは違って机や椅子が並んでおらず、長い机に向かいになるように椅子があり、壁には赤本や大学のパンフレットなどがある。

 近くの椅子を避けて、ここに車椅子を持ってくるよう言われて、机の下に脚が来る。

「新藤と二人で話したいから英川と影島は出てほしいんだ」

「…………」

 二人で見合わせたあと反論するであろうギルに出るよう言った。僕が言えばすぐに出ていってくれた。

 開けっ放しだった扉を閉めて静かになる。なんの話がされるかわからず、ヘンに緊張する。

 先生が向かいに座れば、やけに真剣な顔をされる。僕は溜まっていた唾を飲み込んだ。

 先生は小さく息を吐いたあと言った。

「単刀直入に言う。親はどうした」


 なんとかごまかせた。いや、たぶんまだ疑っている。また聞かれるかもしれない。顔を上げても先生の顔は笑っていない。

 あの言葉のあと、なんでそんなことを聞くのかと、仕事であまり顔を見せないがいると言えば、

「なんで俺が親がいるのかって聞くと思った」

 そう返された。僕としたことが……。

 そのあと僕がなにも言えずに黙っていれば、警察の尋問のように問い詰められた。仕事はなにをしている? 仕事でいそがしいって、休日にはいるだろ? 電話にはつながらない。入院中に学校に連絡してきたのは新藤を知る警察だった。なんで親からじゃない?

 どれも「親がいるというつもり」で答えた。職業は普段いそがしそうな看護師と警察。休日はそれぞれで好きなことをして過ごしていて、どちらもアウトドアだから休日でもいない。電話はマナーモードにしていて僕の電話もなかなか出てくれない。親が出向けず、警察の人が連絡してくれた。

「警察がしたって、なんで新藤の通う学校を知ってるんだ。新藤が溺れて病院に運ばれたときはなにも持ってなかったと聞いてる。学生証がなければ、スマホもなかったんだろ? どうやって知ったんだ」

 警部がきっと連絡してくれた。けど警部との関係を話したら親がいないことがバレてしまう。

「……そろそろ本当のことを話してみろ」

「……本当のことですか。……言ったこと全部本当のことです」

「…………」

 僕には家族がいる。そういう設定付けて今は先生と話している。僕が一人で暮らしている、そんなことはない。

「まあいい。また家庭訪問する」

「…………」

「……焦らないんだな」

 焦ったら嘘だと確実にわかる。

「日時はまた決めよう。親御さんの仕事が休みの日でいい。また聞きに行くから聞いとくんだぞ」

「…………」

 そうして指導室から出て、今教室に向かっている。対抗したあとなこともあって、僕も先生もなにも話さない。なにも話せない。

 初めて先生のことが怖いと思った。正直怖くて逃げ出したかった。今も動悸がしてうるさい。どうしてこういうときに限って動けないんだ。

「新藤」

 返事をしようと口を開けるが、声が出ない。

「俺は本当のことを新藤の口から言うことを望んでる。……ずっとそうだ。夏休みに入る前に三者面談があっただろ。あのときも新藤だけで来た。しかもそのとき親は海外にいると? 今は日本にいるんだな」

「…………」

「それに英川や最近だと影島と話しをしてるときもよく弁当を自分で作ってくるし、英川や影島を家に泊まらせたり食べさせてあげてるみたいだな」

「…………」

「……俺は新藤を傷つけるようなことはするつもりはない。けど、本当のことを話すくらいはしてほしい。学校でも対応できるところはする。新藤に抱えていることもできる範囲でサポートする。……それでも口は開かないか」

「…………」

 小さく溜息を吐かれ、肩が強張る。

「言う気になったらまた言えばいい。もし俺以外にもっと言いやすい先生がいるならその」

 僕は一人で生きれる。今までそうしてきた。いまさらそんな保護なんていらない。

「僕を……」

 車椅子から身を投げだして先生と距離を置く。けど、もちろん壁もなしに立つことはできない。床に尻を付けて、引きずってもう少し離れる。

 先生は僕の知る先生ではないように思えた。そんな顔をしている。感じたことのある雰囲気に気持ち悪くなる。

「……新藤?」

「……ぼ、僕……を、どうしたいんですか。なにが目的……ですか」

「……目的? そんなもの」

「殺すためですか……」

「……なに言ってるんだ」

 車椅子のハンドルを離して近づくことがわかった。反射的に立ち上がって一歩足を出す。無理やり足を出した。が、筋力のない足では一歩も歩けずにバランスが崩れて躓いて、床に顔を打ちそうになる。そのときに後ろから腕を引っ張られて、痛い思いをすると同時に打たずに済む。尻を床に付かせてくれたら持っていた腕を下ろされる。

「俺はただ新藤が心配なんだ」

 心配なんてしてないくせに。

 半ば抱かれながら車椅子に座らされる。視界から先生が消えたらゆっくり進み出す。背後の殺意に怯えながら。

「もう一度言う。俺は新藤の口から言ってくれるのを望む」

「…………」

 いつの間にか教室の前に着いていて先生が二人を呼ぶ声が聞こえた。二人は嬉しそうにしながら僕の傍に来る。

「はい。れーくんの鞄」

 腿に僕の鞄が置かれる。

「……ありがとう」

 自分の声を聞いていつもの声ではないとハッとし、明るく言い直す。が、言い切る前に二人とも僕の異常を感じたらしくギルは僕の顔を覗き込んで、ケイは、

「じゃあ気をつけて帰れよー」

「待ってください先生。蓮になに言った……んですか」

「……なにって、話だ。話」

「内容は」

「……新藤の家庭についてだ。そういえば影島と英川はよく新藤と仲良くしててよく家に泊まってるみたいだな。新藤の家についてなにか知ってるんじゃないか」

 僕の口から言わないのなら二人の口から……か。

「知ってたらなんですか」

「教えてほしい」

「生徒の家庭事情を知って、どうする気ですか。空き巣にでも入るんですか」

「そんなわけない。ただ知りたい」

「さっきその話をして蓮は口を開かなかった。なら今俺らの口から言うことはなにもない。本人の口からなにも言わなかったのに俺らの口から言わそうと」

「ケイ……」

 無理やり立ち上がってケイの背を掴む。ケイは一つスイッチが入れば負けるか勝つかしなければずっとこうだ。

「れ、蓮。動くなよ」

 車椅子に座らされる。またケイがヒートアップしないうちに別れの挨拶をして学校を去った。最後に見た先生の顔はあいつに似て僕を殺しそうな目をしていた。

 ケイに車椅子を押してもらって家に向かう。冬はすぐに陽が落ちる。この時間でももう暗くなり始めていた。

 陽が落ちるとともに気温も低くなり、ブレザーをケイに貸してもらっている。

「ほんとに寒くないか」

「心配しすぎ。これくらいなんともないさ」

「……寒くなればすぐ言えよ」

 さっきのことを思いださせないためにか二人とも「放課後の話」には首を突っ込まなかった。それでもあの一瞬に思ったことを僕は呟いていた。

「おとな……こわい」

 けどすぐに話題を変えようとスマホのことについて言おうとすれば、ケイが呟いた言葉に反応する。

「怖いよな。俺もこのあとあんなんになると思えば吐き気する。まあ、子供と関わるところにいなければその子供も怖い思いはしないだろうさ」

「……ケイは優しいからきっと、自分の子供でも怒りはしなさそうだな」

「俺の子供って、結婚する前提か?」

「しないのか」

「……たぶんできない」

「えーそうかな。敬助くんならいいお嫁さんできそうだけどなー」

 けど、結婚する気がなさそうなのは確かだ。なぜかわからないが。

「ギルくんは?」

「んー俺は……どうだろ。あはは……。女の人と関わるのに慣れてきたらかな……。でもお母さんが孫を見たいって言ってたからするのかなーって思うな」

「あ、それ。俺も言われたことある。死ぬ前に俺の孫見たいから早く結婚しなさいってさ」

 親はそんなこと思うんだな。どういう感性をしているんだ。

「れーくんもいいお嫁さんできそう。料理すっごくおいしいしかっこいいからみんな寄ってきそう。あはは」

「勘弁してくれ。……女なんて作らない」

「えーもったいないー」

 僕は女と同棲なんてできない。相手が可哀想だ。

「あ、でもその言い方だと男なら作ってもいいってことでしょ? じゃあそこは俺が」

「言い直す。女も男も作らない」

「あははは。駄目かー」

 ギルは昔からヘンなところに食いついてくる。隙あらば自分を隣に置こうとする。

 まあ、もしこの世界が必ずしも結婚しなければならないなんてことなら、僕はギルやケイを選んでいただろうな。この二人くらいなら同棲はできる。

 ギルとケイが楽しそうに話しをする中、僕は冬の冷たい夕方の風に寒さと眠気を覚えながら車椅子で押されていた。ときどき二人から質問を投げられたときに口を開くくらいで、それ以外は黙って二人の話を聞いていた。僕にわかる話やわからない話。三対八の比率だな。

 ギルとは僕の家に着いてから別れた。どうやら帰りが遅くなると聞いたギルの父親が僕の家に来ることを見越して待っていたらしい。僕の家で別れてからは一人になるだろと思って。暗いのもあるだろうが筋力のこともあるだろう。去年は迎えに来るなんてことはなかったからな。

 ケイは家まで入って、いろいろ介助をしてくれた。悪いと思ってタイヤを拭くくらいでいいと言ったものの、今は夕食まで作ってくれている。

「ケイ、もう七時前だぞ。ほんとに帰らなくていいのか。外も暗い。夕食はもういいからもう帰ったほうが」

「だから大丈夫だって。今日はもとから遅くなるって、蓮が先生に連れられたときに言ってるからなにも言われないさ。なんなら今日泊まって蓮の手助けもしていいんだし」

「それは駄目だ。……でももう遅いから、親が迎えに来ないとかなら……」

 どうしようか。ケイを家まで送るのはできるが、それは僕が危ないとか言ってケイが許してくれない。

「まあ、それは夕飯食べてから決めよ、な?」

「…………」

 ケイの言葉に不安を抱きながらも、休んでいた間に配られていた大量の手紙に目を通したり、洗濯物を回したりした。入院前の洗濯物をずっと回せていなかった。

 ケイが食事を作り終えたあと、車椅子に乗せて食卓テーブルに運ばれるが高さが足りず、結局椅子に座らされる。入院前の材料がないままで作ってくれたから、オムライスという簡単に作れるものだった。スプーンまで置いてくれる。

「い、いただきます」

 大きく膨れるオムライスをすくって一口食べる。僕が作るものとは違って少し濃い。けどおいしい。やっぱり作る人に寄って味は変わるものだな。

 向かいでケイが嬉しそうに眺めてくる。少し食べづらい。

 それでも自分の分は作っていないみたいだから仕方がないのかもしれない。ケイの夕食は自分の家にあるからと言って作らなかったみたいだ。それでもこの量は少し多いから食べてもらうことになるかもしれない。

「どう? まずくない?」

「おいしい。……ケイも食べるか。僕の世話をしてくれているから食べるのも遅くなってるだろ。……申し訳ない」

 ケイにオムライスをすくったスプーンを突き出せば、少しためらいながらも食べる。

「べつにいいさ。蓮の場合、作って食べられないってわかったなら買いに行くしかないけど、それすらも面倒臭くなって買わないだろうから、こうやって食べてるかの確認でもある」

 図星。思わず食べる手を止めてしまう。

「けど、夕飯食べたってことがわかれば俺はもう帰ってもいいかなって思ってる。他に風呂とか手伝ってほしいなら、全然するけど」

「駄目だ。親に頼んで帰れ。そこまでさせてしまうのは本当に悪い。とにかく、今電話をして迎えに来てもらえ」

 僕はそう言った。言ったのにケイは聞こえていなかったとでも言いたげに微動だにしない。

「ケイ、連絡し」

「冷めるぞ」

「…………」

 一すくいし口に入れてもう一度言う。

「食べるか言うかどっちかにしな」

 意地悪だ……。

 結局食べ終わるまで電話をしてくれず、食べ終わって食器を洗ってくれたあともしてくれなかった。次第には風呂に入れさせようと、洗面所まで車椅子を押して服を脱がそうとしてくる。

「実際風呂入るのも一苦労だろ?」

「そうだが、一日くらい入らなくてもべつにいいんだ。今日はいい」

「明日はどうするんだ?」

「……明日は入る」

「今日手伝いありで入って明日入らずに済むのと、今日入らずで明日手伝いなしで苦労しながら入るのと、どっちがいい」

「……ほんとに、性格が悪い……」

 僕が必要としている介助は服を脱ぐとき、着替えるときだから、それ以外は断った。

 ケイから手伝うといったものの、僕の全裸を見たときには顔を赤くしていた。なに恥ずかしがっているのだか。そういう僕の鼓動も少しだけ速かったのは気のせいだろう。

 そして冷たくなったケイの手で支えてもらいながら風呂場にある椅子まで運んでもらうまでした。

 体がスッキリして風呂から上がるときに手伝ってもらおうとしたが、べつに必ずしもケイに手伝ってもらう必要はないと思い返して、一人でした。けど風呂の扉が開く音がしたからか、ケイが洗面所の扉を開けてやってきた。

 少し顔を赤くさせながらも着替えを手伝ってくれて、車椅子に座らせてくれる。椅子に着くだけでふっと息をつける。

 ケイが髪の水気をとってくれていたとき、ケイのスマホに電話がかかってきてさすがに遅いから迎えに行くとの連絡があったらしい。それを聞いて少しホッとした。

 髪を乾かしたあと、ケイは父親と一緒に帰っていった。玄関まで見送ったとき、父親から僕の両親に挨拶をしたいと言うもので焦ったが、なんとかケイがごまかしてくれた。まだ仕事だと言って。どうやらケイの親には僕の事情は話していないみたいだ。ケイもずっとあのままだと気を遣うだろうし、早めに明かしてもらうことを明日学校で言おう。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

「独り家族(4/4)」に続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ