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独り家族(1/4)

【注意】

 本作品このページの前半部分にグロテスクな表現があり、ウサギが関連しております。途中気分が悪くなりましたらすぐに読むのをおやめください。主な場所は読み進めていただいたら出てきます「女の部屋」に入ってから部屋から出るまでです。

 物語全体はやれんにおいて支障はございませんので、前半部分を飛ばしていただいても構いません。

 またこのページでのグロテスクな表現は以降のページではございませんのでご安心してお読みください。

 十一月下旬。ある平日の騒がしい朝の教室。

 僕の後ろの席には誰もいない。今日もギルは欠席のようだ。

 いつもギルが僕の家まで来て一緒に学校へ登校しているが、今日も来なかった。今回の休みは一昨日から始まっている。

 欠席の日はいつもギルから連絡が来る。チャットか電話で僕が登校前に、相当な事情じゃない限り欠席理由も込みで伝えてくる。だが、今回の欠席は一切の連絡が来ていない。

 いつも以上に胸をソワソワさせながらも今日のホームルームを待つ。

 いくら隣で騒がしくする奴がいない絶好の読書日和だとしても、本なんて集中して読めない。

 スマホを取り出して画面を見る。ギル宛に一方的に送っているチャット画面。

『今日も休みなのか?』

『寝てるのか?』

『休む理由くらい教えてくれ』

『なにかあったのか』

『ギル』

 それ以来なにも書かれていない。ギルはこの文に目すら通していないらしい。ずっと既読が付かない。もちろん一昨日から。

「新藤」

 担任の先生が僕を呼んで近づいてくる。

「英川からなにか聞いてるか……。家に連絡しても誰も出なくてな」

 顔を横に振る。

「……そうか」

「…………」

 先生が頭を掻きながら教卓へ戻っていった。こうして一昨日から欠席理由を聞かれている。今はギルになにが起きているのか、僕も知りたい。

 昨日、ギルの家のインターホンを押したが、時間が夕方なこともあってか、誰も出なかった。父親は仕事。母親は買い物かなにか。当のギルも学校に来なければインターホンに出ることもなかった。

 先生は生徒出席簿にペンを走らせて教室内をまとめる。

「席着けー。今日のホームルーム始めるぞー」

 ギル、本当にどうしたんだ……。

 スマホを強く握って、胸を騒がせているとスマホが振動しだした。電話がかかってきた。ギルから連絡が来たのかと思ったが違った。画面には見たことある電話番号が表示されているが、誰だかはわからない。とりあえず出てみようか。

「先生、電話来ましたので少し」

「おう」

 教室を出て、きちんと扉を閉めて電話に出る。コールが長くて助かった。

「もしもし」

『あ、出てくれた』

 聞き覚えのある声だ。

「……どちら様ですか」

『あ、ごめんね。私はギルの父だよ』

 ギルの父親。僕の電話番号はどうにかして知れただろうが、なんで電話なんか……。

『蓮くんだよね』

「はい。あの、ギルは今日も休みなんですか」

『…………』

 返答がない。

 なんとなく、今ギルの家で起きていることが異常で難解なことだと、容易に予測できた。

「……どうされたのですか。ギルになにがあったのですか」

『……ギルが家に帰って来ないんだ。連絡もつかない』

 帰ってこない……? 連絡もつかない? あのギルが……? 

「つまりそれは……家出ですか」

『いや、家出かはわからないんだけど、ギルの勉強机の上にね……信じてなんてないけど……』

 父親は一息置いてから続けた。

『い、遺書がね』

 その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。それに伴って心拍数が増えるのもわかる。

 遺書……だ?

「そ、それはどういう……!」

 つい大きな声で言ってしまった。僕の声が廊下に響いたことで扉を開けて先生が言う。

「新藤うるさいぞー」

「すいません」

 扉を閉めて教室に姿を隠した。だが先生よ、ああ言われて平常心でいられる奴なんて相当いませんよ。

 僕はスマホ越しの会話に戻った。

「あの、それはどういうことですか」

『私も理解が追いつかないんだ』

「もしよければ、その内容を読んでいただけますか」

『今はちょっと……。上で警察の方が見ている』

 警察……。

 捜索願は出しているようだ。いい方向に進んでいればいいんだが……。

『それで、今日にでもギルのことを聞きたいと思ってるんだ。今日の学校終わり空いてるかな』

「学校終わり……。いえ学校が終わってからなんて遅すぎます。今から行きます」

『でもそれは』

「一昨日からいないんですよね。ギルの身の安全のほうが大切です。もうすでにギルの身になにか起きているかもしれません」

 ここまで言えばギルの父親は口をつぐんでしまう。僕の学校での授業やらを心配しているのかもしれないが、そんなことどうでもいい。

「きっと警察の方はまだ帰られないと思うんですけど、帰りそうになったら少しの間引き留めておいてください。では」

 電話を切った。

 スマホをポケットに入れ、教室に戻る。

「お、新藤。もう一時間目の授業始ま」

「帰ります」

 自分の席に行って、鞄に畳んで入れていたコートを取り出して、鞄の中に荷物を入れた。

「え、なんで」

 コートを着る。

「……大切な人が危ないかもしれないんです」

「大切な人……? どういうことか詳しく」

「蓮」

 先生の言葉を遮った声に振り向くとケイが近くにいた。今日は来てたんだな。 

「ギルくんか? 危ないってどういうことなんだ」

 家族がいないと知っているケイにはすぐにギルが絡んでいるとわかったか。

 一度先生の目を向けてから背を見せて、ケイの耳を近づけた。

「一昨日から姿を消しているのは知っている……いや知らないかもしれないがそうなんだ。それでさっきの電話で遺書らしきものを見つけたということと、話が聞きたいと言われた。だから今から行く」

「警察には連絡してあるんだろ? なら大丈夫だって。それに迷惑になるだろ」

「連絡してあっても情報が多い分には困らないだろ。それに警察が迷惑なんて思っていたらやっていけない」

 準備ができた。急いで向かおう。

「また連絡する」

「っ、待て蓮」

 そんなケイの言葉を無視して教室から出た。走って階段あたりまで来れば先生の声が聞こえる。

「新藤ー。あとで話聞くからなー」

 だが、今は振り向いている暇なんてない。その言葉も無視して階段を下りる。もう息が切れてきた。体力のないこの体を初めて恨む。

 息を切らしながら校門前まで来た。立ち止まって息を整えようとする。……駄目だ……急がないと……。息は苦しいが、僕の体よりギルの身の安全のほうが優先され、肺が潰れそうになりながらもギルの家に向かった。

 信号の待ち時間がより遅く感じる。ここの信号は比較的短いはずだから、待とうとしたが、

「…………」

 この胸のざわつきをなくすため、無視して走った。車通りの少ない道でよかった。

 もうすぐ冬で外は肌寒いのに、汗で髪を額に付けながらギルの家に着いた。酸欠で頭がフラフラする。

 一度呼吸を整えてから扉を開けようとする。が、もちろん鍵が開いておらず、ガンっと低い音が鳴る。思いだしてインターホンを鳴らす。

『はい。あ、蓮くんだね』

「お……お待たせしました」

『今開けるよ』

 インターホンの通話が切れてから、扉から鍵の開く音がして扉が開かれた。

「来てくれてありがとう。まだ警察の方がいるよ」

「ありがとうございます」

 家に上がらせてもらい、警察が集まっているらしいリビングに行く。警察がいる。二人はソファーに腰掛けて、もう一人は立っている。

「……警部!」

 ソファーに座って、ローテーブルに置かれているチャック付きの袋に入った一枚の紙となにかのノートを見比べている警察がいる。それが警部だった。

 警部と呼んだ人は驚いて振り向く。

「……新藤! 久しぶりだな。……でもなんでここに……学校は?」

 中学三年生のときにスマホを買い、連絡先を交換してもらっている。

「ギルの遺書があると聞いて抜けてきました」

 警部には何度かギルの話をしたことがある。そして確か何度かギルとも顔を合わせている。

「ギルって……あのよく話してた子のことか? 聞いたことある名前に容姿だと思っていたら……。そういうことだったのか……。あの子が……」

 顔色が曇る。知人が失踪したと思えば、気が重くなるだろう。僕も呼吸するたびに苦しくなるほどだ。

「英川さんはギルくんが自殺をするような子じゃないと聞いた。新藤もそうなのか」

「……そうですね。今となってはもう、考えられないです」

「ギルくんの学校での様子、なにか変わったことはあったか」

「いえ、見受けないです。金曜日もいつもと変わらなかったです」

「……やっぱりか。英川さんからそう言ったことを聞いて、自殺の可能性は低いと考えて、なにかに巻き込まれてると踏んでいる」

 僕もそう信じている。いや自殺でなかったとしても、なにかに巻き込まれていてほしくないんだが、今目の前に遺書(これ)があるのなら、ギルの身になにかあったと考えざるを得ない。

「ギルくんの部屋の中も見させてもらったが、特に気になることはなかった」

「なんでもっと……」

 もっと早く警察に連絡しなかったのか。ギルの父親にそう言いたかった。けど僕ならきっとそうしている。自力で捜し出そうと。

「新藤、これがギルくんが書いたと思われる遺書だ。部屋にあったギルくんのノートを借りて筆跡を見比べているんだが、普段から字を見てるだろ。ちょっと見てくれ」

 荷物を食卓椅子に置かせてもらい、ローテーブルに近づいてしゃがみ込んだ。警部がその紙とノートを僕に向けてくれる。

 その「遺書」の内容を見てみた。ボールペンで書いてある。

『遺書

 お母さん、お父さんへ


 急にいなくなってごめんね。でもこうするしかなかったんだ。これを読んでるってことは今はもう遠くの場所に行ってます。

 今まで迷惑かけてきて本当にごめんなさい。

 でもこれで終わり。今までありがとう。


 みんなにも伝えたいことがあるんだ。


 れーくん、家が近くてずっと仲良くしてくれてありがとう。ずっと大好きだよ。でもごめんなさい。

 来世でも仲良くなりたいな。

 真也くん、いつもオラウータンのマネして楽しませてくれてありがとう。

 でもごめんなさい。

 あんまり面白くなかったよ。

 総務さん、家に行きたいって言ってたのに行かせてくれなかったの悲しかったな。

 でもいつもわかりやすく勉強教えてくれてありがとう。すごくわかりやすかったよ。

 泣きそうになったときも優しく勉強教えてくれてほんとに嬉しかった。

 実琴くん、俺が階段でつまずきそうになったとき支えてくれてありがとう。でもごめんなさい。

 敬助くん、短い間だったけどありがとう。

 けん玉すごく上手でびっくりしちゃった。

 しかもテストの点数も背も高いんだもん。うらやましかったよ。


 ばいばい』

「…………」

「どうだ……?」

「ギルの字にしか……見えません」

 それに、僕の家とが近いだとか、総務の家に行きたがっていたのだとか書かれている。本人が書いたとしか、これについて言い逃れはできない。

 胸が苦しくなる。いつの間にか奥歯を強く噛み締めていた。

「そうか……」

 誰かべつの人間がギルの字を真似て書いたにしても、どこかに特徴が出てくるはずだ。ハネやはらい、点の位置やバランス。だが、どこを見ようが、どれもギルの字にしか見えなかった。

 それに、これはボールペンで書かれている。左利きの人間がボールペンで文字を横に書いていけば、手にこすれて字がぼやけてしまう。乾かないうちに次の文字を書いていくからな。それがきちんと残っている。

 ギルがいなくなったのは一昨日からだ。もしその日からなにも飲まず食わずだとすれば、もう危険な状態。……そもそももう、手遅れの可能性だってある。

 ギルの身になにが起きた。なにが考えられる。遺書まで書いて本当に死ぬ気なら、止めようがない。

 足が疲れて、床に尻を付けた。

 「遺書」もギルの書いたものにしか見えない。もう、諦めるしかないのかもしれない。

 沈黙の時間が過ぎていく。

 僕の視線は何度も、何度も文を往復している。一切頭に入ってこないが、それでも往復している。

「…………」

 ……ん? ふと、違和感を覚えた。

 よく見れば、筆圧がないように見える。ボールペンで書かれているから筆圧だとかはわかりにくいが、線自体に力がなく真っ直ぐじゃない。

 それになんだこの改行の多さ。

 初めには両親のこと、途中からにはそれぞれ僕、下条、総務、柊、ケイのことが書かれているが、僕らのことが書かれているところはやたら改行が多い。

 下条の謝ったあとに面白くなかったことを伝えるところや、総務の泣きそうになったというところで改行がしてあるが、正直同じ内容での改行は異様にしか思えない。まだ僕やケイのところでの改行は納得できる気がするが。

 あと、下条のオラウータンの真似ってなんだ。聞いたこともない。それにケイがけん玉がうまいってことも聞いたことがない。あの一年間でケイがけん玉に触れていたところさえ見たことがない。

 よく見れば、この文には違和感しかない。

 裏にはなにも書かれていないのか? 裏返して見てみるが、なにも書かれていない……いや、なにか痕が……少し凹凸があるような……。

 袋から取り出してよく見る。

「おい。証拠品だぞ」

 もちろん指紋が付かないようにするためや汚れの付着、紛失がないように袋に入れているのは知っている。が、

「なにかあるんです」

 凹凸を指差す。

「……あるか? 幻覚でも見えて」

「幻覚じゃありません。なにか、つまようじのような先の尖ったもので付けられたような痕があるんです」

 僕は立ち上がって鞄を置いたところへ行き、ペンケースからシャーペンを抜き取って先いた場所に戻る。

 ペンを握る前に、念のためスマホで裏表の写真を撮ってから、

「警部、少し書きますが許してください」

「待て、おい!」

 凹凸があるところを塗りつぶしていく。

 そして、文字が浮かび上がってきた。

「な、なんだこれ」

「……暗号ですかね」

 浮かび上がってきたのは数字。679586378214とある。

 この数字を見て少し安心する。裏に隠すように書かれたこの数字。隠したということは誰かに見られてはまずいということ。そして誰かに隠してでも伝えたいことがあるということ。つまり、これはギルが自殺をするために書いた遺書ではない。

「語呂か? むなくご……はむさい……? なにかこういう言葉知ってるか」

「いえ」

 なにかの語呂だとしても読めない。となれば、なにかに当てはめた数字だ。例えば、日本語やアルファベット。

 近くにあったメモ帳を一枚貰い、それぞれ書いていった。日本語の「あ」を一番と考えて、順に当てはめれば「かきけおくかうきく」。アルファベットだと、「FGIEHFCGE」と、どちらでもないみたいだ。

「日本語でもアルファベットでもないとすれば、なにが当てはまるんだ?」

 数字を隠して暗号にしたのは、もちろんその「誰か」にバレないようにだろうが、僕らもわからなければどうしようもない……。

「警部。でもこれで」

「ああ、これはきっと『書かされた遺書』だ。それでこの数字でなにか伝えようとしている。ギルくんは誘拐された」


 三日も経っているなかこんな手紙をよこすということは確実になにか事件絡みに巻き込まれて、ギルは誘拐された。しかもきっと動けない状態にいる。わざわざこんな手紙を今朝届けに来た、なんて馬鹿げた話ないだろうからな。

「……身代金の要求はなかったんですか」

 誘拐犯の犯行動機は金目当てなのが多いが……。

「まだ来てない。来てたら道具がいろいろ出揃う」

 来てないのか……。

 ……ならなんでギルは誘拐されたんだ。

 誘拐犯はだいたい金目当てで幼い子供をさらう。……そうだ、いくら子供と言っても高校生は幼いとは言わないだろう。金目当てならもっと幼い子供をさらうはずだ。なら、犯人は金目当てじゃないのか? 金目当て以外でギルをさらった理由。

「……ギル本人が目的」

 そんな言葉が脳内に流れた。

 けどもしそうだとして、なんでギルが誘拐された。ギルは特別なにかをしているわけではない。なにかの金賞を取った。なにかに選ばれた。有名人のサインを貰った。そんなこと一度もない。現に、ギルの部屋にそれらしきものは見えない。それになにかに受賞などしたら必ず僕に嬉しそうにする連絡が来るはずだ。なのに来ていない。となれば、べつのなにか……。

 わからない……。

「…………」

 だがわかったこともある。身代金の要求がなく、遺書まで書かせてなんらかの方法で今朝ギルの部屋に置いたということは、ギルを返すつもりもないし、犯人が今後僕らの前に現れるつもりもない。今回を逃せばギルの安全どころか、犯人の足取りも逃してしまう。今日で確実に捕らえないといけない。

「警部。……ギル本人が目的で誘拐したのであれば、計画的な犯行か、突発的な犯行かで分けられますよね」

「なんでギルくん本人が目的だと踏んだのかはわからないが、誘拐したからと言って必ずしも金目当てで計画的な犯行と言えるわけではないな」

「だから……ギルがなにか犯罪を犯しているところを見て、口封じのために誘拐した可能性もあるんですよね」

「そうだな。けど、口封じだとしたらその場でやっていると俺は見るがな。もしそうでなくて、今も生かしているとすれば、どこかに監禁して身代金を受け取ってからっていう手口もある。犯罪を犯しているところを見て生かして返すわけには行かないだろうからな。だからなにか見てはいけないものを見てしまったという突発的な犯行の可能性は低いと考えられる。その場でやればいいものを、わざわざこんな手紙をよこす理由に納得がいかない」

「……ギルはまだ、生きてるんですか」

「生かされている可能性は高い。瀕死かどうかはともかく」

 まだギルは生きている……。こんな謎解きをしている間にもギルは危険にさらされているんだ。早く見つけ出さないと。

「計画的な犯行ならば前々から目をつけられていた可能性が高い。おい」

 警部は二人の警察を呼んで話していく。防犯カメラの洗い流しと、盗聴器の有無を調べるそうだ。

「新藤、いつも一緒に学校へ登校しているんだったな。どの道を通るか教えてくれ」

「はい」

 学校への道のり、ギルと僕の家までの道のりと、僕の家から学校までの道のりを言うと、それをそのまま部下に伝えた。

「それと英川さん。息子さんがいなくなる前、どこかに行ったりしましたか。日帰り旅行とか、息子さんだけでどこかに行ったり……」

「……私に話してくれた分では行っていません。黙って行ったならわからないですけど、それなら私の妻が問うと思いますので。行き場所を装ったりしていなければ、学校と蓮くんの家以外行ってないと思います」

「新藤、最近ギルくんとどこかへ遊びに行ったか」

「いえ。放課後にスーパーなど行くくらいしかしてません」

「ギルくんがSNSなどしていることも」

「ないと思います」

「わかった」

 僕はこれだけの情報を集めている警部の考えていることはわからない。けれど僕は警部を信頼している。今は僕ができることをしよう。

「思えばそういうことだったのかもな」

「……なにがですか」

 一度僕を見てから考えるように目を瞑る。そして開く。

「……一応俺も仕事でやってるんだ。他言できない」

「……こんな証拠品まで見せておいてなに言ってるんですか」

「それもそうだな。……わかった。けど、新藤がこの事件に関与したことは誰にも言うんじゃないぞ。もしかしたら次は新藤が狙われるかもしれ」

「わかってますだから」

「新藤一旦落ち着け。焦る気持ちもわかるが」

 警部のその言葉で、僕の体はいつの間にか警部に近づいていたことに気づいた。気づけば、体がその体勢のつらさを訴え始める。もといた場所に尻を付けた。

 一息吐いて落ち着かせる。ギルを早く見つけたくて興奮してしまっていた。

「数日前、この家に空き巣が入った形跡があったらしい。けどおかしなことになにも取られていなかった。しかも過去最近にも何回かあったが、そのいずれも、モノは取られていなかった。

 これは今回のことに関係あるかわからなかったから伏せていたが、今となっては盗聴器や隠しカメラなどを設置するためになにも取らなかったということには納得がいく」

「そんな大事なこと早く教えてくださいよ……」

 ギルも口出ししなかったのならギル自身は気づいていなかったのだろうが……。

「盗聴器や隠しカメラが事前に設置されていたのならギルくんの部屋に突如として現れたこの『遺書』にも納得がいく。一人暮らしでもない家に忍び入るなんて容易なことじゃない。けど盗聴器や隠しカメラがあったのなら家族構成はおろか、誰がどの時間にどんな行動をするかだとかはだいたいの予測がつく。その隙を縫って今回置いたのだろうな」

 ギルであっても誰か知らない犯人であっても、ほとんど常に家にいるギルの母親に見つからずにどう部屋に置いたのかと思っていたが、そういうことだったのか。ギルの部屋まで行くのには、階段を使って二階に上がる必要がある。そしてその階段はリビングや台所から丸見えだったから理解できなかった。

 ローテーブルに今も置かれる「隠された遺書」の裏面、謎の数字が書かれている。結局これがなんなのかわかっていない。

 ギルはなにを伝えようとしているんだ。警察になにを伝えたいんだ……。

 これに全てが詰まっているはずだ。伝える手段はこれしかないはずだから。

 誘拐されたときに伝えたいこと……。ギルは住所を覚えられる人間じゃない。自分の電話番号すら覚えていないんだ。だからこれが住所じゃないことは確か。そしてなにかの電話番号でないことも。

 さっき日本語やアルファベットに当てはめたがどちらも当てはまらない。日本語にしては数が小さいものに偏っているし、アルファベットはさっき当てはめて無理だった。なによりギルは英語が苦手だ。

 けど日本語でも英語でもないとすればなにに当てはめるか。そんなところで行き詰まっていた。

 なんの数字か……。そもそもこれは日本語やアルファベットに当てはめるための数字なのか? 他のものを示す数字そのものではないのか? 例えばフリック入力のような。僕は使っていないがギルはいつもそれで打っている。なにかを表すにしては範囲が広すぎる。

 そしてまた行き詰まる。

「くそっ……」

 拳をどんっと太腿に打ち付ける。

 なんなんだこの数字。ギルはなにを思ってこれを書いたんだ。そもそもこの数字に意味はあるのか?たまたまこの紙を下敷きにして上の紙に書いていたものが下にあったこの紙に写ってしまっただとかではないのか?

「…………」

 駄目だ。……落ち着かないと。焦って考えてもわからなくなってしまう。

 この紙を下敷きにしてしまっていたとしてもこれほどはっきりと文字が残ることないはずだ、意図して写そうとしない限り。だから違う。確実に、絶対にギルが助けを求めて、犯人にバレないように隠して書いたメッセージだ。

 メッセージ……。これダイイングメッセージ……なのか……?

「違う……」

 違う。そんなことない。そんなことがあっていいわけない。焦るな。

 ふぅ……と息を吐いて一度落ち着かせる。ギルは生きているんだ。足掻くためにこれを書いたんだ。

 裏返して「書かされた遺書」にヒントがないか見る。

 正直何度も見たくはない。けれどなにかわかることがあるかもしれない。ギルを助けるために。

 ん……。

「そうか……っ、そうか……!」

 これを使うんだ!

「なにかわかったか」

「ええ、謎解きはもう、おしまいです」

 数字は確か「679586378214」。だから……つまり……。

「近……く……お……ん……な……家……い……つ……階……助……け……て」

「新藤? どっからそんな言葉が出てきた」

 きっとこれだ。これなんだ、ギルが伝えたかったことは。やっと近づけた……。実感が湧いて目が潤うがまだギルに近づいただけだ。今からなんだ。歯を食いしばる。

「新藤、説明してくれ」

「はい。この文、初めの両親のことについて書かれている文には違和感なんてありません。ただのカモフラージュですから。ですが僕らのことが書いているところからはどうですか。違和感を覚えませんか」

「そうだな……。改行が多い。こういうのはだいたい、一人書き終えたら改行だろうと思うが。特に『真也くん』と『総務さん』の改行については要らないと思える」

「そうです。その違和感しかない途中からの文に、メッセージが残されているんです。初めの僕のことが書かれている文だけで文字を当てはめても意味がわからない文になります。ですがこの改行の多さから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()文になるんです。

 つまり、初めの一文の『みんなに伝えたいことがあるんだ』のあとの、僕についての文。そこに裏の初めの数字の『6』をこの文の六文字目と考えて、文字を読み取るんです。この場合だと『近』です。そしてまた次の改行されたあとの文で同じように考えれば、『来世でも仲良くなりたいな』の七文字目の『く』になります。改行までの文を段落と定義づけるなら、段落ごとに一文字当てはめるんです。

 こうしていけば、さきほどの『近くおんな家いつ階助けて』の文字が出てきます」

「なるほどな」

「途中の『いつ階』というのは、『つ』のもとが促音だったので、きっと『一階』です」

「つまり『近く』の『おんな』が住む『家』の『一階』にいるから『助けて』ということだな」

「はい。それと、わざわざ一階と書いたのには、この家のような一軒家の一階に位置する場所で助けを求めているというわけではないと思います。一階にいると言ってもそれに確証があるわけでなければ二階などに移動させられる可能性もある。だからそういう一軒家の一階二階という意味ではなく、マンションやアパートなどの一階二階という意味だと思います。

 しかしこの近くにあるマンションは確かどれも一階がロビーになっていて、人が住める場所はなかったはずです。もしかしたら少し離れた場所がギルにとっての『近く』で、僕が知らないマンションのことを言っているかもしれないので、絶対とは言えないのですが。ですが僕が知っている範囲だとそうなので、場所はアパートの可能性が高く、どこかのアパートの一階の一室ということだと思います」

「なるほど。アパートの一階……。確かに納得がいく。その線で調べてみようか。一応この付近のマンションが他に候補としてないかも」

 捜索範囲がほんの少し絞れた。けどまだギルは救えていない。本当は、もしかしたら、これをのんきに解いている間にどこかべつの場所へ移動させられている可能性だってある。全く安心できない。ギルの居場所特定には至っていない。

 ギルが行方不明になったのは一昨日から。誘拐されてから三日三晩なにも口にしていなければ、もうかなり危険な状態だ。誘拐するような奴がさらった体のことに目を向けるとは思えない。

「…………」

 ならギルはもう……死んでいるのか……?

 いくら三日水を飲まず、七日食べ物を胃に入れなかったら餓死するという結果が出ていても、誰もがそうとは限らない。七日以上生きる人がいれば七日以下、三日以下に死ぬ人だっているに決まっている。ただの平均でしかない。ギルがそれに当てはまるかどうかなんてわからない。

 ギルはもう……もう死んでいる……?

「はっ……はっ……はっ……」

「……新藤、大丈夫か」

「な、なにがですか」

「息荒いぞ」

 その言葉で初めて肩から息をしていることに気がついた。

「焦る気持ちはわかるけど、焦って逃してしまえば元も子もない。今は確認を取ってもらってる。生きてると信じよう」

「…………」

 そうだ、ギルは生きてるんだ。……生きてる……はずだ。けど焦ったところで時間には逆らえないんだ。時を待つしかない。

 深呼吸をしよう。

 ……うまくできない。うまく呼吸ができない。

 不安でか頭がフラフラとし、めまいもする。腹も痛い。

「本当に大丈夫かい? お水飲んで」

 肩に触れて、目の前に水の入ったコップを出してくれる。それほど今の僕は心配になってくるらしい。

「すいません……」

 けど、今までで初めてだ。人が死ぬかもしれない状況でここまで焦りを感じるのは。そもそもそんな状況がなかったのは確かだが。

 僕は体の不調を訴えるくらい焦っているらしいのに、ギルの父親はなんでここまで冷静でいられるんだ。自分の子供が死ぬかもしれないんだぞ。よく、自分の子は自分の命より大切だと聞くが。

「ギルのお父さん。ギルがもういなければ、どうするんですか」

 その冷静でいられる理由が知りたい。

「新藤なに聞いてるんだ」

「……みんなが帰ったあと、一日中悔やんでいるだろうね。妻はギルと一緒に逝こうとするかもしれない」

「……なぜそこまで冷静なんですか。自分の子供の生命の危機というのに」

 父親は溜息を吐くように肩を下げ、顔を緩ます。

「……私は昔ね、友だちを持っていたんだ。ガンを持っている子を。発見が遅れたせいか、その子は数年後に亡くなったよ。そのとき私は、どうしようもない無力感に襲われた」

 父親は俯き気味になっていく。

「なにもできなかった私にすごく腹が立った。でもね、こんな弱い私じゃ、なにかをするなんてことは到底できなかったんだ。私はできないのになにかしようとしたんだ。惨めだろう?

 今回の件もそう。私は警察の方に頼って、なにもできてない。なにもできないんだ。私は時の流れだけを待つ、なにもできない弱い人間なんだ」

 自分の顔が俯いていると気づいてか、顔を上げる。父親の目には薄らと涙があるように見えた。目がずいぶん潤っている。

「ないでほしいけどギルがいなくなったとき。そのときは、私の無力さと時を恨むよ」

 父親は微笑む。だが、その微笑みに一切のプラスの感情はないようだった。どこかぎこちない。

「……けど捜そうとしたんですよね、警察に言ったんですよね。それだけでも十分だと思います」

 僕はそれすらもできなかったと思う。

 けど父親は頭を横に振る。

「蓮くんが来てから、私はなにかしたかい。蓮くんはなにか見たかい。……私はただ君が一生懸命になっているのを傍で見るしかできなかった。年上の私はなにもできなかった」

「…………」

「……少し、外の空気を吸ってくるよ。……ごめんね」

 足早に玄関へと向かっていった。

 リビング内では静寂になったなか、

「必ず捜しだす」

 警部の口から小さく、そんな言葉が漏れた。

 しばらくしたあと、警部に確認を取ってもらっていた情報が出揃った。

 まず盗聴器や隠しカメラ。単刀直入に言えばそこら中にあったらしい。特にギルの部屋には多く。ベッドの下、クローゼットの中、コンセント、勉経机の隙間など。

「これで家族構成とか家族の動きを知ることができる。それで隙を狙ってギルくんの部屋に」

 次は防犯カメラだ。場所はギルの家から僕の家、僕の家から学校まで。ギルは僕の家に寄って一緒に登校する。ギルの家から学校までの防犯カメラを見ても意味がない。

 防犯カメラには僕の家から学校までの道のりで、怪しい人物がいたそうだ。毎日僕らの後ろを歩いては学校付近に近づいていなくなる。

「服装はいつもバラバラ。行方が確認できなくなる一週間前からあとをつけられてる」

 そいつがきっと今回の犯人だ。そうに違いない。そうでなければ、また一からになってしまう。そうであってほしいと心から願う。

 犯人への情報が掴めたから、今度は聞き込みをしていくらしい。昨日から周辺の聞き込みをしていたらしいが、もう一度同じところを回って情報を確実に得るらしい。

「ここらへんを頼む」

 地図に指差しながら部下に指示を出していく。

「このへんだ」

「あの……警部」

「ああ、頼む。どうした新藤」

「僕も……なにか手伝います」

「一般人に頼むことはない」

「……手伝わせてください」

「ない」

「お願いします」

 僕は深く腰を曲げる。待つだけなんてしたくない。少しでも早くギルを捜しだしたい。

「……ここは警察の仕事だ。一般人が入り込んでいいところじゃない」

「友人を助けたいんです。お願いします。小さなことでもいいんです」

「……顔上げろ」

 ためらいつつもゆっくり上げていく。

 上げきったとき、一番に痛覚が反応した。

「っ……」

「…………」

 痛い……。頬がヒリヒリと痛む。叩かれた……。

 過去の嫌な出来事が脳裏に湧き出てきて、頭を狂わす。でも今はその出来事を振り払って脳内を空にする。

 痛む頬を触って警部を向く。どんな顔をしているのだろう。

「もっと自分の命を大切にしろ」

 過去にも言われた言葉だ。警部は怒った顔つきで僕を見ていた。

「ギルくんが心配なのはわかる。けど、それでもし新藤の身になにかあったらどうするんだ。新藤は独り身だ。自分の子供を心配する家族がいないかもしれない。けど、だからと言って命を容易に捨てていいわけじゃない。高校生にもなったんだからそれくらいわかるだろ」

 高校生にもなったからわかる……?

「わかりません。わからないです。友人を助けてはいけない理由がわからないです」


「新藤は一階を頼む。くれぐれも、なにかあったら叫ぶんだ」

「はい」

 警部と一緒になら捜索することが許された。

 出るときにギルの父親に家のタオルを貸してもらい、そのタオルを濡らした。ギルが一昨日から誘拐されていて、なにも食べていなかったらもう危険な状態だ。早く見つけなければならない。

 何件目かの聞き込み。アパートを囲う塀に「ペット不可」とある。三部屋並んで二階建て。そのうち一階だけを聞き込みをする。警部はおらず近すぐ隣の一軒家に聞き込みをしてる。二人いるなら別々の場所を聞き込んだほうが効率いいに決まっている。

 一〇一号室。インターホンを鳴らす。

 中から若い女性が出てきた。玄関の靴には女性ものの靴しかない。毎回住人が出るときにギルの靴が無いかをみて確認している。

「どちら様ですか」

「こんにちは。僕、友人が行方不明になって警察の捜査の協力をさせていただいています。そこで、こんな容姿の子を見かけませんでしたか」

 スマホ画面をつけて見せる。ギルの笑った顔の写真。何度だって見たい笑顔。

「待って待って。ほんとに協力してるの? 普通に考えて学生じゃん。学校は? こんなお遊びごっこしてていいの?」

 警部といないとき毎度似たようなことを言われる。まあ言われても仕方がない。

「……警部……警察の方がすぐ近くで聞き込みをしてます。疑うようでしたら、来てもらいましょうか」

「……わかったよ。なんだかほんとみたいだし」

 それだけ言えばスマホを覗き込む。

「……うーん。見覚えあるようなないような……。この制服、すぐそこの高校の子でしょ?」

「はい」

「ならその学校の近く通ったときに見たのかもしれないけど、正直それでなにかを見たってわけじゃないから。力になれなくてごめんね」

「いえ、こちらこそご迷惑をおかけして……ありがとうございました」

「お友だち、見つけてあげてね」

 それだけ言って扉を閉めていった。

 初めは怖い人なのかと思ったが、案外優しかった。ギルの写真を見せても驚きを見せなかった。怪しい感じはしなかったな。

 一〇二号室。隣の部屋のインターホンを鳴らす。

 中から背の高い少し太った男性が出てきた。今回も同様に出るときに靴を見た。ない。

「誰です?」

「僕は友人が行方不明になって警察の捜査の協力をさせていただいています」

「へぇ」

「そこで、こんな容姿の子を見かけませんでしたか」

 写真を見せる。

「俺外出ないからわかんないわ」

「そうですか。……ありがとうございます」

 清潔感がなくて、靴も多く使われているようには見えない。本当なんだろう。

 腰を曲げて次の部屋に行こうとしたとき、止められる。

「あ、ちょっと待って。……それ、今どんな状況か教えてくんない? 俺売れない小説家でさ、ネタ探してんだよ。それで今の状況を参考にして小説を」

「お引き取り願います」

「頼むよー」

「……人間は玩具ではありません。失礼しました」

 無理やり扉を閉じる。人間を玩具のように扱う奴は大嫌いだ。顔すらも合わせたくない。

 一〇三号室のインターホンを鳴らす。

 中から女性が出てきた。玄関を見ると、

「っ……」

 覚えのある靴があった。しかもこの人が履くような靴だとは到底思えない。

「どちら様?」

「……僕は友人が行方不明になって……警察の捜査の協力をさせていただいています。そこでこんな容姿の子を見かけませんでしたか……」

 写真を見て少し目が大きくなる。無意識に目を細める。

「知らないわ。どこかで見た気がするけど、思いだせないわ」

「そうですか。ありがとうござ」

 言葉を遮って少し大きな音がする。硬いなにかがぶつかったような。

「……飼い犬がなんかしてるみたいだわ。じゃあ、私はこれで」

 飼い犬? ここペット不可のアパートじゃなかったか?

「少し待ってください」

 閉めようとしている扉に靴を挟んで閉められないようにする。

「な、なによ」

 素直に開いてくれた。

「少し、家の中を拝見してもよろしいですか」

「なんでよ」

「その飼い犬を見てみたいと思って。僕犬が好きなんですよ」

 犬がいるなんて思っていない。

「無理って言ってるでしょ!」

 乱暴に胸ぐらを掴まれた。

 きっとコイツがギルをさらったんだ。そしてこの家の中にギルがいる。

 深く息を吸って、

「け」

 警部を呼ぼうと叫ぼうとしたとき、口を押さえられた。そして部屋の中に引きずり込まれ、床に叩きつけられる。硬いなにかが頭に当たって痛くて押さえる。

 鍵が閉められるような音のあと、女は振り向いて不適に微笑む。

「お友だちを捜してるって? あなたも一緒に私と遊んでくれるんでしょ?」

 なにを言っているんだ。

 女の視線は僕より斜め右奥を向いていて、僕もそこに視線を向ける。電気はついていないが、窓からの光で少しだけ見える。扉を挟んだ部屋には、ベッドで腕や足をロープで拘束されている素っ裸の、

「ギルっ!」

 僕の声に反応しない。もう手遅れなのか……!

「やっぱりあの子か」

 その声で振り返れば、花瓶が飛んできた。それは僕の側頭部に殴打し、頭を机の角打ち付けられる。痛みのあまり頭を押さえて体を丸める。

「丸くなっちゃって、かわい。お友だち見つけてよかったね。でもここからどうする? ここから出さないから。あなたもね」

 どうするどうする。とにかく救急車と警部に連絡をしないと……。

 ギルがいるところは、この台所とローテーブルがある部屋の左側にある。扉が開かれた状態でベッドが見える。

 ……よし。あの扉は外開きのようだ。なら内側から家具で押さえてやれば開けられなくなる。

 スマホをバレないよう取り出し、ギルのいる部屋に駆けた。

「自分から行くんだ」

 扉を閉めて傍にあったねちょっとした感覚があった突っ張り棒でL字をしたドアノブの下滑り込ませてドアノブがひねられないようにする。これできっと開かない……はず。

 扉の奥からガチャガチャと開けようとする音が聞こえるが開くことはない。けどいつまでも持つとは限らない。急ごう。

 ふとニオイがするのに気づく。……鉄臭い。もしかしてギル、血を流しているのか。

 粘り気のした電気のスイッチを押して、振り返って部屋を見る。

「な……」

 なんだ……これ……。気持ち悪い……。思わず口に手を添える。が、さっきスイッチに触れた左手に粘り気がしたことを思いだして左手を見る。指は血が付いていた。

 部屋は鉄のニオイが充満して、壁には血痕が、床には虫や小動物の死骸があった。……気持ち悪い。

 それが胃から舞い上がってきてもうすぐそこまである感覚になる。息もしたくない。

 けど、踏ん張ってベッドに寝転んでいるギルのもとへ行く。

 ギルは手足はロープで縛られて、口は布を詰め込まれて助けも呼べない状態だった。肌には浅くナイフで切られた痕もある。ベッドには黄色い液体がシーツに染み込んでいたり、虫の混じった胃液があった。そして床に死骸があれば、ベッドにも何体か死骸があった。

「……ひどすぎる……」

 気を抜いたら吐きそうなほどこの部屋には気持ち悪いもので埋められていた。ギルはこんな状態で何日も……。

 脈を確認するのに息をしていないと思えるほど冷たい首を触った。すると、ギルが薄く目を開けた。

「っ、よかった……」

 口に詰められている布を取って見るのも不快な床に落とす。

「れ……」

 そして掠れた小さい声を出し、目を潤す。だが、涙は出なかった。すごく弱っているようで、呼吸が浅く、鼓動や脈もほとんど感じない。

 冷たくなった体にコートを被せる。本当はこんなものが近くにあるなか被せたくはないが。そして持っていたタオルにペットボトルの水を含ませて、小さく開いた口に水を絞り出す。

 いくらか口に絞ったあと、ギルの手首が縛られているロープを、持っていたマルチツールで切って楽な場所へ動かしてやる。足のロープも切る。が、動かす体力がないからか、周りになにがあるか知っているのか、ロープを切ってもギルは体を動かさなかった。

 扉が開かれる前に、耳にスマホを挟みながら救急車を呼んだ。様態を説明する。危険人物がいることも念に。

「はい、お願いします」

 その間にもギルの口に水を絞っていた。

 次に警部にも電話をかける。が、なんだ。なんでつながらない。けどいい。普通に一〇〇番でかけて通報しよう。

 そして最後にもう一度警部にかけるがやはりつながらない。が、かけた状態にして手に持った。

 連絡はした。だから今度は今、極悪人が迫っているこの状況をどうするか。

 部屋には窓が一つある。人が一人入れるくらいの大きさの。血痕は付いているが、死骸などは見る限りない。それ以外はもう目すらも移したくない。

 酷だが、扉が破られる前にこの窓から出るか……? いやでもギルの体を無理に動かしてさらに弱らせたくない。それにあの窓を抜けた先が外なのはわかるが、あの先がどうなっているかわからないからあまりいいとは思えない。けど今この状況で……べつの方法は……。

 そんな迅速な決断ができず、扉は破られた。

「さ、さぁ。もう逃げ場はないわよ」

 開けるのに必死だったのか軽く息切れしている。

 そしてゆっくり僕へ歩み寄ってくる。

「すまん新藤気づかなかった。どうした」

 タイミングがいい。

「ギルがいました! 一階のっ」

 喋ることにも頭を使ったからだ。飛びかかってくるのに反応できずに床に叩きつけられた。あの気持ち悪い床に頭を付けたくない。そんな程度だった。けど瞑っていた目を開けた途端、その気持ち悪さに吐いてしまった。

 天井に動物の死骸が釘付けにされていた。

 喉を詰まらせないために顔を横に、ベッドの下に向けるとそこにも信じられない物があって、

「こんのっ!」

「っ……」

 気持ち悪さに唸っている間に首を力強く絞められる。

 苦しい……。気持ち悪い……。

 必死にもがいて抵抗する。けど吐いたことに体力を使ったからか、力が入らずだんだんと意識が薄れてきた。ピクッと体が勝手に動く。

「はははっ! かっわい!」

 なにを言っているんだ……。

「新藤! どうした新藤!」

 返事をしたい。場所を伝えたい。でも声は出ない。息ができない。

「ん?」

 電話に気づいた女は、それを切って壁に向けて投げた。気づいてくれ……せめてギルだけでも……。

 僕の抵抗する手が弱まったからか、絞める片手を離して僕の服のポケットを探っている。

 勝手に涙が顔を伝う。意識がはっきりしない。目の前も真っ暗。

 もう……むりだ……。

 そう思ったとき、なぜか首を絞める手を離された。

 寝落ちかけたときのように意識が戻ってきた。けど今までにないほど苦しく激しく咳込んで喉が痛んでうまく呼吸ができないし、体が思うように動かず震える。耳鳴りと動悸が音を主張して止まない。今なにが起きたのかも理解できない。

 微かに見える視界で、床に落ちていたナイフを出しっぱなしのマルチツールを拾い上げるのが見える。

「いいもの持っちゃって」

 そしてそれを振り上げて、瞬きをしたあとには僕の右手の平に突き刺さっていた。

 まだ呼吸がうまくできずに苦しんでいたのに、手の痛みも酷く主張してさらにうまく呼吸ができなくなる。ただそれを抜き取ろうと左手を伸ばしたら、

「もっと!」

 マルチツールを上から足で踏まれた。僕の喉が声にもならない悲鳴を上げる。抜き取ろうとしても脳は右手に感じる痛覚に夢中になって力が入らない。

 そして僕は右手のひらにあるそれを抜き取るのに必死になってしまった。

「まえ」

 そんな小さなその言葉に気づかされる。危機的状況だということを。目の前で包丁を振りかざそうとする人間がいる。殺される……。

 とっさに左手の近くにあったものを掴んで目の前に突き出す。それと同時にぼたっと血が顔に降ってきた。

 目を開けて掴んだものを見る。するっと垂れ下がった長い耳。

 手に掴んだのはウサギの死骸だった。

 包丁は防げた。けど代わりに喉ももう痛いのに、今日何度も味わったそれが口に押し寄せてきた。

 包丁の刺さったウサギを床に捨てたから女の手には武器がなくなる。ウサギから包丁を抜くこともせずに女は、

「ま、まて……」

 逃げた。

 何度も何度も胃液を口から出して胸も喉も痛い。鉄のニオイしかしなかったのに今はもう、口の苦い味でいっぱいだ。

 息がうまくできなくて、体が震えている。力が入らない。早く追いかけないといけないのに……。

 ふと、頭の下敷きになっている物があると気づく。それは柔らかくて、でも骨のような硬さがあって、

「…………」

 想像もしたくない。

 吐くことに体力のほとんどを使われてもう本当に力が入らない。

 僕もおかしくなった。今も天井に打ち付けられている死骸を目にしてもなんとも思わなくなった。

 立ち上がろうとした矢先、右手が引かれて思いだす。もう感覚がない。まだ刺さり続けるナイフを抜こうとするがやっぱり力が入らない。

 けどいつまでもこうしていられない。左手を精いっぱい力を入れてナイフを抜いた。けど右手には痛みが走らなかった。……たぶん神経までやられた。

 力の入らない左手と痛みの走らない右手で支えながら体を起こす。もう疲れた。立ちたくない。歩きたくない。けどいかないといけない。

 痛みもなく流れ続ける右手の出血を止めるために、ギルの足に縛られていたロープを手に取って、口も使いながら手首に縛った。これで止まってくれたらいいんだが。

 遠くで救急車のサイレンの音が聞こえだして近くで止む。やっと来てくれた。ギルを送ってから追いかけよう。

 少しだけ体力を回復させてからと甘えてベッドにもたれる。もうこの部屋がどうだとか思わなくなった。

 少し待つとインターホンが鳴った。けど扉が開く音が聞こえる。

「要救助者発見」

 僕と目が合って部屋に入りながらそう言われるが、首を振る。

「……僕じゃない……」

 そして隊員はこの部屋の異常さに気づいてた目を丸くする。

「……ギルを先に……三日三晩……なにも口にしてない……」

 久々に聞いたギルの掠れた声みたいだ。

 ……隊員も来てくれた。あとは任せて行こう。

 フラフラする頭のなかベッドに手を付きながら立ち上がる。もう行かないと追いつけなくなる。

「じっとしててください。怪我してるんですよね」

 僕に言われた……?

「少し……用事があるんです」

 スマホとマルチツールを手に持って部屋から出ようとすれば小さな声によって止められた。

「れ……く……」

 今では弱く脆くなった声。

「すぐ戻る」

 最後に安心させるためにギルの頭に感覚がなくてうまく動かせない右手を置いて、部屋を出た。出てから気づく。ギルの綺麗な髪に僕の汚い赤色を付けてしまった。

 アパートを出れば左右の道に分かれている。あいつはどこに行ったんだ。でもすぐにわかった。血が左へと続いていた。あいつが血を流していた覚えはないが、部屋にあった血でも付けたんだろう。

 おぼつかない足元のまま、血の跡を追う。

 ギルにあんな目を遭わせたんだ。それ相応の罪を償ってもらう。

 血痕を追っていれば、どこか見たことある道に出た。もちろん家の近くの道だろうから見覚えしかないはずだ。その見覚えのあるなかでもいつも通っている道、通学路に出た。だからといってどうとは思わないが、あまりにも犯人の進む道が通学路に沿っている。

 体を動かせば息も体温も上がる。足を動かしながらもマフラーを取った。

 血痕は通学路でいつも通る橋まで続いていた。そしてあいつものんきに歩いていた。腕から垂れる血に気づかず。

 あいつが橋の中央で橋に寄りかかっているから、チャンスとばかりにケイに電話をかけた。ないだろうが、もし僕が犯人を見失って犯人が向かう先が僕の通う高校なら、生徒が危ない。あいつはきっと死体や死骸、体や精神を痛めつけて興奮する人間なんだ。あんな大量の獲物がいる場所になんて行かせたら……。

『どうした。ギルくんは無事なのか?』

「……きっと今は……保護されているから……。それより……もし校内に不審者が出たら……そいつが今回の犯人と同一人物の……可能性が高い」

『どういうことそれ。犯人って?』

「ギルの誘拐犯だ。……それで今僕の前にいる。高校の近くの橋だ。……ずっと向かう先が高校からブレないからもしかしたらと思ってな。だから少し警戒していてくれ。ただ僕の思い違いな可能性もあるから先生にまでは言わなくていい。警戒しておくだけでいい。また……連絡する」

 スマホを耳から離すと、あいつが振り返って不敵な笑みを浮かべる。

「痛そうな手。あの子置いてきてよかったのぉ?」

「……もう警察も呼んだ。さっさと地獄へ落ちろ」

「ひっどぉい。あ、そんなこと言うのならお姉さんとまた遊びたいんだあ? あの部屋に行く?」

 あの気味が悪い部屋が脳裏によぎって吐き気がする。

「燃えてしまえ」

「せっかく集めたコレクションなのに」

 あいつは一歩、一歩と近づいてくる。確実に取り押さえる……。震えて逃げ出しそうな足に力を入れる。

 見たところ手に武器は持っていない。……左腕から出血してポタポタと血が落ちている。いつ切ったんだ。

 もうすぐ傍まで来た。

「ていうかほんとにお姉さんと遊びたいの? 全然逃げないけど」

「…………」

「強いんだねえ」

 こいつの腕の傷、あの部屋で切ったはずがない。僕の武器は右手に刺さったままだったマルチツールしかない。なら、自分で切った? いやそもそもあの血痕、アパートから続いていたんじゃない、塀を過ぎたあたりからあった。

 自分で切ったならそれは僕をおびき寄せるため……? いやそもそも自分で切ったのなら相手は武器を持って――

「そんなあなたにご褒美あげる」 

 女は手を広げて、逃げる間もなくいきなり近づいた。

 そして腹に痛みが走る。

 顔を上げた女はにまりと口を曲げて、

「甘い蜜に負けちゃった」

 ニコニコしながら後ろに数歩下がった。

 僕は腹に目を落とす。

 刺さっている。腹に。

 その痛みをいまさら覚えてきて腹を押さえながら橋の手すりに掴む。

 呼吸が早くなって、体が熱くなる。

 …………痛い。

 ……痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い……けど……。

 ナイフは抜かず、女に近づく。もう武器は持っていないはず。

「まだ動けるんだ。すご」

 今度こそ捕まえようと手を伸ばしたとき懐から、

「じゃじゃーん」

 それを出した。

 ……なんでそんなもの……。この日本で……。

 そして当たり前のようにハンマーを倒す。回転式……。

「最終兵器。出すつもりなかったけどあなたしつこいんだもん」

 さっきあいつは「最終兵器」と言った。「出すつもりはなかった」と言った。つまりもう、本当にもうあれ以外武器がないはずだ。

 きっとここから逃げても体力的に無理だ。逃げ切れない。だから……。

 橋の手すりを背にできるように、女を誘導する。

「そんなぐったりした体でどう歯向かうつもりなのか、すごく見もの! たくさん楽しませてよ」

「……そうだ。もうこの体も保たない。……だから最後にキスでもしてください」

 口を緩めて言う僕の要求に不思議そうに顔を傾けるが、潔く「いいよ、お姉さん優しいからしてあげる」と言った。

 ナイフの柄を抜かれないように掴み、女が近づくとともに押し付けてくるそれを手探りで見つける。

 そして顔が重なる、その前に押し付けられるそれを失うまいとがっしり掴んで、手すりの後ろに体を放り投げた。


 そして一つの発砲音が聞こえた。

 そのあと水中に入ったように静かになる。

「は……今の……」

 つい耳元から離したスマホからは、もう電話が切れてるって言われる。

「なあ敬助、今さ」

 下条も聞こえたらしい。全身の血の気が引く。

「今のどっちから聞こえた……」

「こっち」

 指差すのは窓。

 心臓が急に早く鳴り始めて息を苦しくさせる。

「……敬助?」

「…………」

「さっきの音なにかわか」

 スマホととっさに掴んだひざ掛けにしてたマフラーを手にして教室を駆け出した。

 橋……確か橋にいるって言ってた。

 蓮がまた連絡するって言ったあと、電話が切られなかった。意図してなのか忘れてたのかはわかんない。でも確実に今、蓮が危ない状態なのは確か。

 スマホは確実に川に落ちた。蓮は……?

 考えたくないけど、もしかしたら蓮も川に落ちたかもしれない。考えたくないけど。よりによって、蓮は泳げないんだ。

 今回のギルくんのことはあんまり理解していないところが多いから、なにも付いていけてない。けど今は蓮の身になにかあったっていうのは確か。

 校門を出てすぐにある車道で車が通ろうとしてても気にせずに渡ってクラクションを鳴らされる。

 一心不乱に走ってたらすぐ橋まで着いた。けど橋には誰もいない。さっきまで蓮がいたとは思えないくらい人がいない。

 でも代わりに、黒と灰色のマフラーが橋の手すりに掛っているのが目に入った。近くで見る。俺の記憶が確かならこのマフラーは蓮のもの。確実に蓮がさっきまでここにいたんだ。

 他に変わったところがないかと見てれば、マフラーがあったすぐ下の地面に血痕みたいなのがあった。それが少し行ったところに一つ、また一つって定期的に落ちてる。犯人とどっかで争って負傷して橋まで追いかけた、ってところか?

 そう思ってたら、決定的な跡が残ってた。

 血痕が固まって落ちてるところがある。そしてその傍の手すりにべっとり血痕が付いてた。それは道のないほうへと掠れて消えてる。手すりの色が赤でわかりにくかったけど、これは絶対に血だ。

 ここまで証拠があれば落ちたとしか考えられない。急いで堤防にある階段から橋の下に下りた。

 見上げて血痕があった場所を確認する。確かあのあたり。血痕の付いた場所から落ちたとなれば、川に真っ逆さま。堤防だとかに蓮の姿はないから、川に落ちたあと陸に上がれずに河口へ流されてるのかもしれない。河口に向けて走る。

 途中、この行動が正解とでも言うように、川が赤く濁り始めてくる。そして一番色が濃い場所に川の流れに身を任せる黒い影があった。それは人の形をしてる。波で揺られて、その一瞬で誰だかわかる。

「蓮っ!」

 俺の声は聞こえてないみたい。

 身を軽くするためにスマホとかいろいろほうって、すぐさま飛び込んだ。

 川の水はもちろん冷たくて、一瞬にして体が冷え込む。

 少しずつ流されながらも少し離れた場所に蓮の姿が見えた。波がそこまで立ってなくてよかった。そこまで泳いで蓮の服を掴んで、陸まで上げた。

 陸に上げるまでの間に蓮が目を開ける様子はなかった。いつから水中に顔面付けてたんだ。

「蓮! 起きろ蓮!」

 反応ない……。

 足がまだ浸かってるのを見てもう少し陸のほうに上げようとしたとき、腹にナイフが刺さってるのが見えた。

「えっ」

 驚いて蓮の体を離したら、するっと体から抜ける。そして服に赤色が染み込んでいく。

「やめろ……やめろ……」

 な、なにしたらいい。どうしたらいい。

 服に滲んでいく様子をみてからずっと嫌な記憶が脳裏にチラつかせて冷静を壊しにくる。

 息してない? 血を流してる。発砲音がした。ナイフがある。血が止まらない。息が聞こえない。大きな音が――

 駄目だ……もう、もう大切な人は失いたくないんだ。焦るな!

 冷えた首を触る。脈はある。けど弱い。口元に耳を近づけて、腹を見る。呼吸は聞こえない。腹も動いてない。呼吸してない。呼吸してないなら、気道を確保して人口呼吸だ。

 人口呼吸しながら風で冷たくなった服を脱がせる。けど右の袖から手が抜けない。なんでなのか顔を上げてみたらロープで腕を縛ってあった。けど今は服を脱がせたいからロープを解く。

 そして最後のシャツを脱がせたとき、俺は息をのんだ。

 腹から血が流れてる。いやナイフが刺さってたんだ。流れるに決まってる。けどもう一つ、ナイフの形をしてない傷痕がある。小さな丸い形。やっぱり、本当に撃たれて……。

 赤くなってた水の量からして、かなりの出血をしてるはず。早く輸血しないと……。

 大きな傷口を圧迫しながら人工呼吸をしてると、蓮がいきなり咳き込んだ。そして水を吐き出す。

「蓮!」

 呼吸はしてくれた。けど目は覚まさない。ひとまずは一命を取り留められた……かな。あとは止血。

 俺の白いマフラーを傷口に当てて、体重をかけながら腹の血管を圧迫する。

 丸い形をした傷はそこまで腹の内側にはなかった。けど、貫通はしてないからたぶんまだ腹の中に弾が残ってる。

 問題なのがナイフの傷。拳銃のより内側で、傷口も大きい。もしかしたら内臓が傷ついてるかもしれない。

 傷口を圧迫させながらスマホに手を伸ばす。救急車を呼ばないと。

 救急車を呼んでからは止血に専念してた。白が赤に変わってしまった俺のマフラーをできるだけ絞ってピンクにした。そして懲りずに傷口に当てる。

 体重を半分くらい乗せて圧迫してる。それなのに蓮は痛いとか反応も見せない。けど、痛みを訴えられたらたぶん圧迫できない自信しかないからきっと、今が止血するチャンスなんだとばかりに押さえ続けた。

「…………」

 押さえ続けてる。ずっと、ずっと。でも一向に止まる気配がしない。どうなってんだ……。少しは出血量が減ったと思えるけど、止血はなかなかできない。

 やっぱりこの濡れた同然のマフラーでやるのが悪いか……? 早くきちんとしたもので止血させてあげたいんだけど……。

 もう一度強く絞って赤い水を流す。

 救急車の到着時間は平均約七分。勉強とかしてたらそんな数字すぐに経つけど、時間が経過するのを願ってだと遅く感じる。本当はどっちであっても進む速さなんて変わんないんだろうけど。

 脳に酸素が行き届いてない分、きっと脳に障害が残りやすくなる。けど過去に散々な目に遭ってる蓮に、追い打ちをかけるような障害なんて残してほしくない。絶対に障害を残すこともなく回復して、お願い……。

 止血に専念してると救急車のサイレン音が聞こえてきた。堤防上で音が止んで担架を持って近づいてくる。ひとけがないからか誘導とかはいらないみたいで一直線でこっちに向かってくる。

 蓮が担架に乗せられてるときに一緒にご乗車くださいって言われたから、衣類とかの荷物を持って一緒に救急車に乗り込んだ。救急車の乗車はこれで二回目。一回目は心美がひき逃げに遭った時。

 あのときは周りの人がいた。ほとんど見てない聞いてないフリされたけど。

 でも今回はそんな昔話と違って、周りに人がいない、俺一人の現場だった。俺がどうにかしないといけない状況だった。うまくできてたかな……。


 救急車に乗って以降の記憶がほとんどない。蓮に触れられない不安とプロに任せられる安心、俺の心はぐちゃぐちゃだった。

 ただこれだけは覚えてる。

 病院に着いて蓮はどこかの部屋に入っていった。

 そのときの俺は緊張や不安や焦り、いろんな感情が入り交じってなにも体が動かなかった。ただ心臓がうるさく鳴り響くなか、蓮が運ばれていった開くはずのない扉を見つめ続けてた。

 そしてそんな俺を待合室に案内するって言った看護師がいたことも。

 今も待合室で待ってる。

 車内でもいろいろ質問されて答えたけど、この待合室でもいろいろ質問されて答えた。蓮の状況を説明された。替えの服も貸してくれた。

 それと警察も来てた。発砲音がどうって聞いたとか銃弾が腹の中から見つかったからだろうな。でもそれに関しては音を聞いただけ、傷口を見ただけってくらいしか言ってない。たぶん撃たれた蓮ならわかるんだろうけど。

 替えの服もブランケットも貸してくれて暖まってるからわかるけど、あのときの蓮の体温、ほんとに低かった。俺も川に入ったからそこまでなのかとか思ってたけど、ブランケットを被ってやっと暖かいって思えるなら、あのときは本当に蓮の体は冷たかったんだ。

 障害は残らないでほしいけど、命が助かることが最優先だ。……お願いだからまた目を開けて俺を見てほしい。見て笑ってほしい。

「くしゅっ……」

 寒い……。ずっと濡れた服着てたから体が冷え切ったんだろうな。どうにかこの寒さを耐えなければ……。ブランケット越しに腕を摩ったり、口から吐く息を手に当てたりしてどうにか体を暖める。寒い……。

 俺の心臓は変わらずうるさいくらいずっとドクドク鳴り続けてる。

 息を吹き返したとしても搬送中に意識は戻してなかった。

 手汗が酷いことに気づいて今もまだ濡れるズボンで拭いた。そして気づく。手が震えてる。体はほんとに正直だな……。

 心を落ち着かせるためにも一回溜息を吐いた。けどそんなので落ち着くわけがなかった。

 ふと横を見ると窓があるのに気づいた。窓の外の景色は見たことがない。帰れるか……? と内心思いながらも眺め続けた。

 そしてまだ時期的に降るには早い雪が降ってくる。

「…………」

 この雪は俺の心を落ち着かせるのに十分だった。どこか一点を見つめれば必ず視界に入る雪。ふわふわと落ちるそれは俺の心を奪っていく。遠い存在だと思ってたけど、今は近く感じる。

「…………」

 雪が静かに降り続けるこの時間がいつまでも続けばいい。

 ……まずいなぁ。昨日、寝れてなかったからか眠気が酷い。なんでこのタイミングで……。

 蓮が危ないっていうのにのんきに寝てなんかいられない。両頬をパチンと叩いて眠気を覚ますけど、これで覚めた覚えはない。

 次第にぼんやりとしてきて、気づけば瞼が閉じられてた。

 駄目なのにさ……。


 小学三年生のときの転校前日。あるどっかの知らない学校。

 この学校には明日から通うことになった。親が先生と話しに行くってことで、俺もなぜか連れられた。でもスマホもないし他のゲームもなかった。もちろん学校だからそんなものは持っていったらいけない。……って、親から言われた。どうせ暇になるのにって思ったけど、逆らっても怒られるだけだから素直に手ぶらで付いていった。けど、やっぱり暇だった。

 だから途中、トイレに行きたいって言って部屋を抜け出して、学校探索でもしようと歩き回り始めた。俺だけ教室の配置を理解してないのは、周りと後れが出る。もしわからなくなれば他人に聞けばいいとか親が言ってたけど、人間そんなうまく作られてない。どうせ見てないフリ。

 廊下に誰もいないのを確認して親たちがいた部屋とは真逆に歩いた。ただ、親がいる部屋を忘れたら戻れなくなるかもしれないから、見て回るだけじゃなくて、頭で地図を作りながら歩いていった。

 廊下の窓から漏れるオレンジ色した光。連れられた時間は生徒がほぼ帰った放課後。だからか俺と同じくらいの歳の生徒を見かけない。

 ……ここが三年の教室らしい。続けて二つ並んでる。このどっちかの教室に明日から入ることになるのか。鍵が開いてて中の様子が見れる。

 三年一組。

 机がずらっと並んで、前には教卓と綺麗にされた黒板。右端に日付と曜日、明日の時間割っぽいのがある。教室の後ろは習字で書かれた「未来」っていう文字。夕日のせいで半紙がオレンジ色に見える。

 他にもコルクボードに貼り付けられている「配布係り」とか書いてる色画用紙があったけど、全部見たいって思えるほど興味はない。次のところに行こうと思った。

「…………」

 けど、他の机と少し違う机を見つけて足が止まる。

 右から二番目の最前列。机のところどころに鉛筆で文字が書かれてる。『学校来んな。ルールいはん』『ちょーしのるな』『きっも』って、ガキらしい言葉遣い。複数からいじめにあってるらしい。文字の書き方がどれも違う。

 そのままべつの場所に行ってもよかったけど、いじめは嫌い。一回廊下を左右見渡して人がいないのを確認して土足で教室に入った。

 教卓の中から箱を取り出して中身を見る。だいたいこういうところに貸出の鉛筆とか消しゴムが入ってるはず……ほらあった。数個あったうち、大きいものを選んでさっきの机の横に立った。

 さっきは少し遠目で見てたから薄らとしかわからなかったけど、よく見たらさっきの以外にもあった。『しーね』『外人なのにえい語しゃべれないとかおもしろすぎ』『目立ちたがり屋』とか。酷いな。

 それを消しゴムで消して証拠隠滅のために消しカスをゴミ箱に捨てた。これでちょっとは傷つかないはず。

 続いて隣のクラス。三年二組。

 ここも鍵が開いていて中が見れる。けどさっきとあんまり変わらない。一つ違うと言えば、教室の後ろに貼り付けられている習字がすごく綺麗な人が一人いた。周りが汚いから余計に目立つ。

 中に入って名前を見てみた。……なんて読むんだ? 三年にしては難しそうな名前を全部漢字で書いてる。

 一文字目は新しいの「新」。二文字目は草冠と……「勝」みたいな字。見たことある気がするけど。三文字目はにんべんに……なんだろう「夏」じゃないし……。四文字目は希望の「希」。なんて読むかさっぱり。

 あ、こっちの教室には椅子と机に名前のシールが張ってある。俺はすかさずあの習字を書いた人の机を探した。

 あった。これだ。一番左の列、後ろから二番目。やっぱり机の中に入ってる教科書の名前も綺麗に書いてある。

 ……けど、

「なに……これ……」

 表紙に数本の切れ込み。中を開くと破られたページとかぐしゃぐしゃにされたページ、赤い絵の具みたいなのが付いてるページ、なかにはシミの付いた異臭のするページもあった。

「…………」

 見るのも気分が悪くなりそうなそれは、どの教科書にもあった。ただ副教科はそこまで酷くなかった。酷いので破られてるくらい。

 気味が悪くて出した教科書を机の中に入れる。

 この机にはもう一つ、他の机と違うところがあった。横に掛かってる手提げの中がないに等しい。

 他のところの手提げには中身の入った体操服の袋とか上靴の袋、給食当番ならエプロンとか入ってるけど、この手提げには体操服袋すら入ってなかった。むしろ上靴の袋しか入ってない。

 月曜日に持ってくるのを忘れたとしてももう水曜日。さすがに持って来れる。教科書と言い、体操服と言い、この机、ほんとに気味が悪い。早々に離れて教室から出た。

 そのあともトイレの位置、特別教室の位置、階段の位置と頭に入れていった。

 そして一周する頃に、まだ見てない教室から声が聞こえた。しかも子供。この時間になってもまだ子供がいるんだな。

 俺は気になって中を見てみようと思った。でもその教室の扉の前に誰か立ってる。中の様子を気にするように顔を動かすけど体は仁王立ちのまま。

 中から聞こえてくる声はどれも汚い言葉だらけ。聞いてて無性に腹が立ってくる。窓から中の様子は見れない。カーテンで隠されてる。

 今まで隠れてたけど、思い切ってその扉の前に立ってるガキ……同じくらいの歳の男子に聞いた。

「お前、なにしてんだ」

「……あ? お前こそなんだ。って言うかなんでせいふく着てないんだよ。お前見ない顔だけどよ、どっから来た?」

 これはもう調子に乗ってるガキパターンその一だな。そして調子に乗るくせして下っ端。

「俺は明日からこの学校に行くことになった……影島敬助。その教室の中から聞こえる声はなんだ」

 よく聞けば鼻声の声も聞こえる。合計で四人。

「なんでもねーよ。早く帰れ」

「…………」

 ここで親のところに戻れば俺はどこも怪我することなく帰れる。けどなにであれ俺はいじめが嫌い。この中で起きてるのはたぶんいじめ。放下後の誰もいない部屋でいじめる。隠れてしか行動できないかわいそうなやつら。

「その教室内で起きていることをかくにんするまでは帰れないな」

「あ? オレの言うことが聞けねーのかー?」

 調子乗ってきたな。

「……そういえばさっきすぐそこに先生いたから大声出すと気づかれる。おれが大声出してもいい。さあどうする? お前だけ助かるか、それでも仲間を裏切らないか」

「……っち、くそ……」

 男子は早々にその場から離れた。もちろん先生がいるなんて真っ赤な嘘。探索中に見たことすらない。

 さ、この教室内がどうなってるか。いじめが行われてるのは確か。

 一度深呼吸をして扉を開けた。

 中に入れば仰向けに馬乗りにされてる奴、馬乗りにしてる奴、その馬乗りされてる奴の腕を掴んでる奴、そしてその馬乗り状態にスマホを向けてる奴がいた。

 馬乗りにされてる奴以外の視線が俺に向く。誰かがなにかを言う前に先に口を開けた。

「お前らもうやめとけ。先生よんだからもうそろそろ来る」

 よくよく見れば、馬乗りにされている奴は腕を逆の方向に関節を折られそうになってる。袖をまくったのかまくられたのか、肌には酷い痣が見える。

「は、先生よんだとかうそだろ……」

「じゃあなんでおれはここに入ることができたでしょーか」

 入ってきた扉を親指で差しながら言った。俺は門番的な奴を払って入ってきたんだ。

「マジかよ。おまえら行くぞ」

 馬乗りにされていた奴以外、俺とすれ違って部屋から出ていった。

「…………」

 逃げるなら初めからすんじゃねぇよ。そんな気持ちもありつつ、残った奴の近くに行った。

「大丈夫か」

 起き上がらせようと手を伸ばしたら、

「っ、触るな」

 バシッと手を払い除けられて、自分で起き上がった。助けてあげたのにそんな態度取るか普通?

「そのあざは? さっきの奴らだよな」

 細い腕を見て言えば、思いだしたように袖を戻して痣を隠す。

「……関係、ない」

 そいつは立ち上がって歩幅を小さくして歩き出す。

「あ、ちょっと待てよ」

 細い腕を掴んで止めた。けどまた振り払われる。

「…………」

「あいつらからいじめられてるんだろ? 先生に言った?」

「…………」

「……名前は?」

「…………」

 口開かなくなった。だるー……。

 せめて名前だけでも聞きたい。明日から俺ここに来るんだから、名前さえ知ってれば助けに行ける。

「……おれいつまでもおまえのことをおまえって言いたくない。名前は?」

「……だまれ」

 ……汚い言葉使うんだな。なんとなく綺麗な顔してたから、か弱くていじめられてる王子様ですー、っていう感じしたから喋り方も落ち着いてるのかとか思ってたけど。全然王子じゃなかった。

 そいつの前に立って扉を遮る。

「……ちょっとだけさ、話そ。おれお前のこと知りたい」

 表情何一つ変えずそいつはそっぽを向いて歩き出した。ほんとに喋んないのか?

「なあって」

 肩に触れて引く。と、そいつは驚いてバランスを崩して机の角に頭を打った。

「あっ、ごめん。頭打ってない?」

 丸くなって頭を押さえる。けど腕の隙間から見える顔に涙なんてなかった。ただ痛そうな顔してる。

「…………」

 と思えば、起き上がって腹を抱く。それにさっきと違って気分の悪そうな顔してる。……これ吐く?

 珍しく嫌がらずにいたから背中をさすって待ってたけど全然吐かない。けど気持ち悪そうな顔してるから吐くと思うんだけど。口に手を添えてるし。

「……ちょっと手洗ってくる」

 近くのトイレに入って手を洗った。そして戻って来る。まだ吐けてない。

 口に添える手をどかす。俺の警戒より吐き気が優先されてるっぽい。体を動かしても嫌がらない。

 なら、って都合良く思って、俺はそいつの後ろに回って、小さく開いた口に手を突っ込んだ。

 さすがにこれには驚いて嫌がったけど、俺もびっくりするくらいすぐに吐いた。

 昔インフルにかかったとき、母さんが俺にしてくれたの思いだしてやったけど、こんなすぐにできるんだ。

 気持ち悪いのを出したそいつは咳込んで、胸を押さえるように服を掴んで、ゆっくり体を横に倒す。確かに吐いたあとって疲れてるけど、倒すほどか?

 声をかけようと右手を伸ばすけど、少しニオイがしてネチャって汚れてる。また洗いに行く。

 そして戻ってもまだそいつは横になってる。っていうかすごく眠そう。

 そいつの前に立って、この床に落ちたやつをどうしようかと悩む。このニオイ、いつまでもにおいたくない。

 けど普通吐いたなら保健室か。こいつも一緒に連れて行こ。

「立って。一緒にほけん室行こ。教室教えてくれたらたいそう服持ってくるからさ」

 けど一切体を動かさない。目は開いてる。ほぼ閉じかかってるけど。

 先に先生だけ呼んでおくか……?

 うまく処理できずに立ち尽くしてたら、気づく。この落ちてるものを見てもあんまり不快に思わない。なんで?

 ……そうかこれ、食べカスがほとんどない。なんならちょっと血も混ざってる。俺が知ってるのと違う。

 昼に給食食べてるはずなのにその食べカスがほとんどないのはおかしい。血が混ざるのももっとおかしい。

「お前、これではくの何回目?」

「…………」

 まあ教えてくれないって知ってたけど。

 頭をかいて目を映す。綺麗な顔してる。

 そんな綺麗な顔の口が小さく開いた。

「……おまえ……は……」

「……は?」

 なに言ってんだ? ずっと、さっきからずっと俺いただろ。

「おれのことゆうれいかなんかだと思ってた?」

「……ちがう……ちがう」

 なんで二回言った?

「じゃあなんだと思ってた?」

「……ちがう」

 会話通じてる……? 俺こそ今幽霊でも見てるのか?

「おまえ……さえぎった」

「……なにを?」

「……僕の……言葉」

 遮った? なら続きがあったんだ? っていうか、こんな尖った喋り方して一人称「僕」なんだな。

「ならもう一回言って」

「…………」

 すねたのか床に顔を埋める。

 なんかこいつ喋り方ヘンだし、なんていうか、いじめに遭うのも理解できる気がする。いじめる側が悪いのは確かだけど。

「カッター……かハサミ……持て」

「カッターかハサミ? なんで」

「……教卓」

 理由は教える気ない、か。わかりましたよ。

 教室の前まで移動して教卓の中を見る。

 ここそういえばなんの教室なんだ? 普通のクラスの教室じゃないのは確かだけど。机が長いし白いし、椅子が丸椅子だし。洗面所もある。……理科室か。

 教卓の中からハサミを見つけた。それを持って戻って、見せる。なんでこんなのいるんだ?

「持ってきたぞ」

「……さす」

「……サスって?」

「……刺せ」

 あ、サスってこれで刺すってことか。……なにを?

「こんなところにさすようなものな」

「いいからっ!」

 こいつの声を聞いたなかで一番大きな声を出して、ハサミを持つ俺の手に自分の手を重ねて、それを振り上げて、

「おいっ」

 刺さる前にそいつの手を掴んで手を止めた。

「…………」

 こいつの手を、こいつの腹に刺さる前に。

 なんとなく普通の子供じゃないことはわかってた。けどここまでとは思ってなかった。たぶん、死にたがってる。

 死ぬことを止められたそいつは、目を潤す。けど表情は変えない。

「……一回それはなそ。大丈夫だから」

 提案みたいに言ったけど、無理やりに奪って俺の後ろに置いた。

 目に溜まってた涙が流れだす。

 俺より背が低くて、手も足も細くて、手が小さくて、顔がすごく綺麗。ずっと見続けちゃうくらいに。けど綺麗な顔にある綺麗な目から生気を感じない。この先を生きたいと、その目から感じ取れない。

 こいつになにがあったのかとかは知らない。けど、俺は服が汚れることも気にせずにそっと頭を引き寄せて包みこんだ。背中に腕は回ってこない。

「……おかしい」

「なにが?」

「……知らない……のに」

「おかしくないと思うけど? 相手を知らなくても死のうとしてるの止めるくらい」

「……おかしい」

 やっと受け入れた。俺の背中に腕が回って服を引っ張って、腕の中で小さく、か細く泣き出す。

 尖った言葉使うし、ヘンな喋り方するけど、中身は同じなんだな。いじめられて死にたがる。

「……なんで……止めた」

 まだ言ってくる……。

「死ぬには早い。まだ生まれて数年しか経ってない。これからなんだからさ。それに……おれがお前のこと知りたいから」

 腕の中でもぞもぞ動き出すと、俺から離れる。悲しそうな顔してる。

「……嘘」

「うそじゃない、ほんと。……落ち着いたならほけん室行こ」

 立ち上がって、手を差し伸ばす。

「…………」

 けど見えなかったみたいに無視して自分で立ち上がった。まだ信頼されてないのかな。

 そいつは一人、教室を出ていく。俺もあとを追った。

 なにも声を出さずに着いたのは保健室。靴を脱いで扉を小さく開けて中の様子をうかがってる。

「なにしてるんだ?」

 俺を横目で見たあと扉を閉めてしまう。先生いなかったのか? とか思ってたらすぐに扉が開いた。俯くこいつと目を合わせるためにかしゃがみ込む。

「やっぱりでしたか。また戻しちゃいました?」

 こいつに聞いてるんだろうけど、顔を逸らして頷きもしない。

「はきましたよ」

 だから代わりに俺が言う。

「えっと、あなたは?」

「明日からこの学校に来る影島敬助です。親と先生が話しててひまだから学校たんさくしてたら、こい……この子がどっかの教室でい」

 いじめられてるの見て、って言いたかったけどこいつに後ろから軽く殴られたから言葉を換えた。

「会って、話してたら急にはいたから連れて来ました」

「あら、そうでしたか。場所はどこだかわかりますか?」

「……たぶん理科室です」

 理科室って聞いて不思議そうにするけどすぐわかりましたって言われる。

「先生片付けてくるから、(ゆう)()くんは体操服に着替えてて。あなた……ケイスケくんは優希くんの傍にいてくれる?」

「……はーい」

 こいつユウキって言うのか。……へー?

 先生がいろいろ手に持って部屋を出たらユウキは保健室に入る。俺も一緒に入って扉を閉じた。

 傍にいてって言われたけど、ユウキは部屋から出る様子もなく教室にいるから、傍にいなくてもいいって思った。だから扉のすぐ近くにあった長椅子に座った。

 ユウキは手慣れた様子で隅にあった布袋を開けて中身を出す。あれは体操服……? なんでこんなところにあるんだ?

 体操服を取り出したらユウキはシャツのボタンを開ける。けど、

「…………」

「…………」

 俺と目が合ったらベッドまで足を運んで、ベッドの周りにあるカーテンを閉じた。着替えてるところ見られたくない……? 俺ユウキと同じ男だけどな。

 まあいっか。

 ユウキが出てくるまで足を揺らして待った。

 しばらくしたらユウキがカーテンの端から顔を覗かせて今度も俺と目が合う。そして、

「……まだ……いる」

「まだいるけど」

 なんとなく面倒臭そうな顔作られてる気がする。そんな顔されてもな……。

 ユウキは長袖長ズボンでカーテンから出てきた。けどまだサイズが合ってないのかぶかぶか。かわいい。

 カーテンを開けるけど、こっちまで足は運ばずにベッドに乗り上がった。……俺もそっち行こ。

 ベッドまで移動したらなんとなく嫌そうな顔してる気がする。

「ユウキ、上の名前なんて言うんだ?」

「僕の……なんで……」

 そう聞いてきたのに、なんでかわかったのかなにも言わなくなった。ユウキっていう素敵な名前は保健室の先生がそう言ってて覚えた。

「ユウキって、よくはくのか?」

 さっき先生が「また」戻したのかって聞いてた。またってことは前にも一回以上は吐いてるんだ。

「…………」

「のどとかおなか、いたくない?」

「…………」

 ほんとなんにも教えてくれない……。

 吐いたら喉が痛くなるのは知ってるけど、ユウキは一緒に血も出してた。大丈夫なのかな。

「水飲まなくていい?」

「…………」

「口ゆすぐ?」

「…………」

 ほんっとうになんにも……。どうしたら口開いてくれるかな。さっきまで喋ってたんだけど、なんでなにも言わなくなったんだろ。

 そういえば俺の名前って言ってたっけ? 聞けば、

「……知らない……憶えない」

「無理に一回でおぼえなくていい。何回か会ううちにいやでもおぼえるからさ」

「……それ……また会う……僕と」

「そう。そのために名乗るんだ」

「……会わない……もう」

「……なんで?」

「…………」

「でもそっか。学校でいじめられてるんだろ? なら家にいたほうが」

 ユウキを思って言ったつもりなのに、腹を強めに殴ってきた。

「……口を慎め」

 ほ、ほんとに小三……ですか……?

 ちょっと痛くなった腹にある手をどけて落ち着かせる。

「気にさわったならごめん。けど名前だけでも言わせて。おれは影島敬助って言う」

「……かげ……けい……」

 ……ふざけてる……?

「影島、敬助、な」

「……かげ……けいす」

 惜しい。

「か、げ、し、ま、け、い、す、け」

「……ケイ……」

 ……諦めた。

「……それでおぼえててくれるならそれでいいよ」

 そうだもんな、影島敬助って長いもんな。上も下もどっちも四文字だもんな。それでいいよ。

「……そういえば、なんでこんな時間まで学校にいたんだ? いなかったらいじめられなかったんじゃない?」

「……関係ない」

「関係ないことない。だれか待ってた? そもそも友だちいる?」

 こんな尖った性格してたらいるかも怪しい。

「……たぶん」

 たぶん?

「どんな子?」

 こんな性格の人を友だちにした理由が気になる。

「……弱い」

 ……弱い……? 小さく笑う。どんな子か聞いて弱いはなかなかない。

「けど……強い」

 弱いけど強い……?

「……純粋」

 三年で純粋とかわかるんだ。俺は小説とか読むからわかるけど。

「……馬鹿」

「ぷっ……」

 急に馬鹿は面白い。友だちを紹介するときに馬鹿って言う人なかなかいないと思うけどな。

 弱くて強くて、純粋で馬鹿な子、か。

「その人がユウキにとって友だちになりたいって思った人なんだな」

 確認するように聞いたけど顔を振る。

「……あっちから……言った」

「友だちになりたいって?」

「……決めつけた」

 気づいたら勝手に友だちになってたんだな。友だちってそういうものだと思うけど。

「ユウキはそれいやじゃない?」

「……嫌……じゃないと……思う」

「ならいいじゃん」

 小さく頷く。

「……守らないと……死ぬ」

「え?」

「……弱い」

 だからか。守らないと死ぬくらい弱いってことか。でも強いとも言ってた……けどな。

「ならユウキはその子を守りたいって思って友だちだと受け入れた感じ?」

「……たぶん」

「ふーん」

 守らないと死ぬような、赤ちゃんみたいな人を友だちにするとか、大変そ。

 話が終わってちらっとユウキを見る。

「……ねむたい?」

 瞼が重そう。

「…………」

「帰らないのか?」

 眠たそうだからそう言った。けどユウキはパッと瞼を開けて俺を睨んできた。俺……なんか悪いこと言ったっけ?

 睨まなくなったと思えば、俯いてベッドにもぐり込んだ。ここで寝るのか……? それっていいのか?

 布団まで被ったユウキだけど、熱かったのか顔を出して枕に置く。俺に顔すら合わせず、俺に背中を向けて寝転んだ。けど俺をちらっと見たらこっちに向いて、俺から離れて目を瞑った。

 人は警戒する相手に背中見せないらしいけど、これってそういうこと? 距離も置かれてるし、警戒されてる? さっきまで普通に話してたのにな。

 部屋の掛け時計を見て何時か見る。親って何時から話してたっけな。あとどれくらいかかるかな。けど、ユウキがいるなら、いつまでも待ってていい気がする。

 しばらく暇でぼーっとしてた。でもそれも飽きた。

 意味もなくユウキの顔を見る。

「……か」

 かわいい……。

 もともと顔が綺麗なのはあるんだろうけど、死にたいって思わされる目が瞑って見えなくなって……ただ寝顔がかわいい。

 まつげ……長い……。口、小さい……。鼻高い……。

 力なく曲げる手、細くて小さい。爪も綺麗にされてる。俺なんか噛み癖があって今治してるところなのに。

 あんな喋り方で、話し方で、他人のこと敵対してるのに、寝るときこんなにもかわいい……。

 なんか、ずっと心臓ドキドキしてる。

 ……ドキドキ、してる……?

 立ち上がってユウキから離れる。

 なに言ってんだ俺……。男に、かわいい……? ドキドキしてる……? いや、おかしいおかしい……。普通に考えて意味わかんない……だろ。

 でも……。

「…………」

 ユウキの寝顔を見る。

 胸を触ったら今も動いてる。ドクッドクッドクッドクッ、って。

 なんで……。おかしい……。おかしいのに。

 慎重にベッドに座り直して、そこにある寝顔を見る。

「…………」

 俺……。

「っ……」

 急に扉が開いた。先生が帰ってきた。

「あら、寝ちゃいましたか」

 先生と目が合う。

「……少し忘れ物しちゃいました。まだもう少しだけユウキくんを見ててください」

 扉を開けて閉まる。……なにしに来たんだ。

 扉からユウキに視線を移す。また心臓がドキドキ言ってる。

 たぶん、俺の中で答えが出てる。

「…………」

 おかしいと思う。でも俺はそのままでいたい。

 ユウキの頭に手を置いて、優しくなでた。

 ユウキはすごく楽そうな顔はしてない。むしろ、なでたらなぜか余計に悲しそうな顔になった。

 気づいたら目に涙が溜まってる。流れ出しそうになったそれを指でなぞった。

 そして指に付いた水を舐める。しょっぱい。

 俺もベッドに寝転んで、ユウキを真っ直ぐ見る。顔……近いな……。

 近くなったユウキの顔を眺める。綺麗で、かわいい。

 口が少し動いた。

 動いても、小さくて綺麗な形してる。

「…………」

 急に気になってくる。

 キスってどんな感じなんだろ。

 さっきよりも動きが早くなった心臓のことも気にせずに、頭を浮かせてユウキの顔に近づける。

「ここかな」

「っ、わぁ!」

 声に驚いて、気づいたらベッドの下に落ちてた。

「いって……」

 さっきの声、母さん?

 打った頭をさすりながら体を起こして立ち上がる。やっぱり母さんだ。

「いた。帰るよー」

「あ……」

 もう、帰るのか。

 ……いやそれよりもさっきの……見られてない……よな。

 ユウキに目を映す。目、小さく開けてる。目が合ったらドクッて心臓が鳴って目を逸らす。

「ま、まだ寝てていい……と思う。俺、もう帰んないとだけど」

 ユウキは目をこすりながら体を起こす。目が合いそうになったらさっと逸らす。

「……もう友だちできたの?」

「……いや……まあ」

 俺は友だちって思ってても、ユウキは思ってなさそうだけどな。友だちいるかって聞いたとき、相手が友だちだって決めつけてたとか言ってたし。

「まあ。それはよかった。敬助をよろしくね」

 ユウキは母さんに目を向けたあと、俺にも目を向ける。キリッとした二重。

「……似てる」

「似てるじゃない、おれの母さん」

「…………」

 なぜか急に俯く。

「……おれもう行くけど、一つだけ。今何年? おれは三年」

 高学年じゃないのはわかるけど……。

「……同じ」

 口が緩む。

「おれと同じだ。同じクラスになったらいいな。ちがうクラスでも休み時間会いに行くけど」

 俺は嬉しくてそう言った。けどユウキは顔を逸らす。

「……おれ、帰るな。また明日」

 手を振って部屋を出ようとしたらユウキに手を掴まれて、足が止まる。

 けどハッとしたのかすぐに離した。

「……まつ」

 松……? あっ「待つ」か。

 そっか。俺は顔を笑わせる。

「待ってて」

 扉の前まで行って、振り返る。最後にユウキに手を振って部屋を出た。


 新しい学校で授業を受ける日。

「今日は新しい生徒を紹介します」

 扉の奥で聞こえる。緊張してる。……何回でも慣れない。

「入ってください」

 震える手で扉を開いて歩いて止まる。

「ここに名前を書いてください」

 チョークが渡された。ここの学校は名前書くんだ。

 俺の後ろの黒板に間になにもないカギカッコがあった。そこに、手を震わせながら名前を書いた。

 ……ちょっと汚い。けどいっか。

 一息ついて振り返る。

 そのとき、

「……あ」

 思わず振りそうになった手を、首の後ろまで持っていってごまかす。

「影島敬助って言います。……よろしくお願いします」

「よろしくお願いします。影島さんの席は」

 見つけてからずっと口が緩んでる。窓際の席にユウキがいた。

 けど頬杖をついて窓の外見てる。俺のこと気づいてない……。休み時間に話しかけに行こ。

 そして念願の休み時間。なくしやすいから鉛筆と消しゴムだけペンケースに入れて立ち上がる。ユウキのところに行こうと思った。でも、

「影島さん」

「どこから来たの?」

「敬助くんって呼んでいい?」

「身長高いね」

「かっこいー」

 あぁ、そういえば転校したらこんなのあったな。……面倒臭い。しかも女子ばっか。

「じゃ」

 邪魔……って言おうとした、けど思いだす。

「…………」

 それで前の学校で、クラスでハブられたんだ。面白くないいたずらもされたんだ。

「……ごめん、今度でいい? おれちょっと話したい人いるからさ」

「かっこいい」

「話したい人ってだれ?」

「うちだったりして!」

 ……そんなわけあるか。

「とにかくちょっと、ごめん。今日は話しかけないで」

 面倒臭くてちょっときつめに言えば、素直に道を開けてくれた。やっとユウキのところに行ける。

 口を緩ませてユウキがいた席に目を移す。

「…………」

 なんだあれ。ユウキの席の周りで男子が集まってる。しかも、昨日に見た奴。

「どうしてくれるんだよ」

「イシャリョウはらえ」

 昨日に理科室で馬乗りにしてた奴ら……。同じクラス……? なにかの冗談? 笑えないんだけど。

「おい」

 一人の肩を掴む。ユウキは窓に頭を押し付けられてる。なのに顔色一つ変えてない。

「なにしてるんだ」

 眉を上げて目を細める。

「きのうの……」

「こっちこそなんだよ。オレらはこいつと遊んでんだよ。じゃますんな」

 遊んでる……? なに言ってんだ。

「はっ、じゃあそれのなにが楽しいのか、教えてもらおっかな」

 ユウキの頭を掴んでる奴の頭を掴んで、思いっきり窓に叩きつける。

 バンってぶつかる音が鳴った次に、軽い音と一緒に綺麗な鱗が飛ぶ。

「あっ」

 窓が割れた。

 瞬間、室内で悲鳴が飛ぶ。うわー……やった……。

「ってぇ……はなせよ!」

 こいつのせいにしよ。パッて手を離す。

 ユウキの机の上に綺麗なガラスの破片が飛んでる。思いだしてユウキの顔を覗き込んだ。

「大丈夫? けがしてない?」

「…………」

 見た限りガラスの破片で綺麗な顔に傷はつけてない。ひとまず安心。

 ユウキの机の上に散らばったガラス片を手で集める。

「ごめんな、散らかして」

 床に落とそうとしたとき、ほぼ空の手提げ袋が机の横に掛かってるのが目に入る。

「…………」

 あれ……。一瞬頭がくらっとする。この席って確か……。

「…………」

 周りを見渡して確かめる。一番左の列、後ろから二番目。ここだ。この席だ。

「はぁ……はぁ……」

 気づいたらユウキの腕を掴んで教室から、あの場所から逃げてた。けどユウキの足が止まって、俺の足も止まった。

「きゅ、急に走らせてごめんな」

「……ケホッケホッ……ケホッ」

 手を離して振り返る。ユウキは胸を押さえて苦しそうに息をする。そんな様子が心配になって肩を掴んだ。そしたらビクッてして顔がパッと上がった。走ったからか顔赤くなってる。なんで俺こんなことさせたんだろ……。

 ユウキの息は落ち着きつつあったけど、なぜか一歩、一歩って離れられる。

「な、なんでおれこんなことしたんだろ。ははっ……」

 ――いや。

 俺から離れたユウキが目を細めて俺を見る。

「……ほんとごめん」

 嫌われたかな……。

 でもなんで走り出したのか、なんとなくわかる。

「……ユウキの席ってあそこなんだな」

「…………」

「……おれさ、昨日ユウキと会う前にたんさくしてたんだ。学校たんさく。俺三年だから三年の教室見てたら、習字がすごく綺麗な人がいて、椅子とかに名前のシールはってるだろ? それで名前見て探したらあの、ユウキの席だったんだ」

「…………」

「でもさ、机の中もちょっとだけ見たんだ。どんな人なのかなって思って」

「…………」

 睨まれてる。細めてなんかない。あれは睨んでる。

 ――いやだ。

「だめなことしたのはわかってる。ごめん。……でも、あの席の教科書とか……気味悪くて」

「…………」

「気づいたら……」

「…………」

 落ち着いてもユウキは胸を押さえてる。服を握ってる。

「でもユウキは」

 一歩踏み出すと、ユウキは一歩後ずさる。

「……ごめん」

 ――嫌だ。

「……おれのこと知らないもんな。当たり前……。でもさ、俺ユウキのこともっと知りたい。綺麗なところも、汚れてるところも、全部。だからさ」

 ポケットに手を入れてメモ帳を出して一枚ちぎって、ユウキに向けて伸ばす。

「もしユウキがそれでもいいって思ったら、ここにユウキの上の名前の読み方書いてくれない? ……おれ、小説読んでるのにわかんなくてさ。……あ、ペンないから教室に戻ってからでいいけど……」

 手が震えてる。目が熱い。なんで、泣きそうなんだ。

 ユウキはちょっと目を細めて紙を見てる。そこになにかの文が書かれてるみたいに、その文を読んでるみたいにじっと見てる。

 俺は服を力いっぱいに握ってる。

「…………」

 受け取ってほしいって願った。願い続けた。

 だからか、ユウキの手が伸びてくる。一瞬引っ込めそうになったけど、受け取ってくれた。

 俺はパッて顔を上げた。けどユウキは目の前にはいなかった。

「……机に置く」

 声がしたほうに向けると、曲がり角で見えなくなってた。

 追いかけようと思った。けど、足は動かなかった。代わりにほっぺに水の感覚がする。目を指でなぞった。

 馬鹿だなぁ。

 気持ちが落ち着くまで待ってたら先にチャイムが鳴って、急いで教室に戻って席に着いた。

 ――嫌だ……。

 そういえば、机に置いておくって言ってた。俺の机はさっきの授業の教科書とノートで埋まってた。

 ――嫌だ……!

 けどペンケースの下にさっきの紙が隠れてるのが見える。

 それを引っ張り出すと、

『    』


「嫌だ!」

 なぜか呼吸が荒くて、絶え間なくドクドクって心臓がうるさく鳴ってる。それがすごく苦しい。

 さっきまでの記憶がなくて、寝てたっていうことがなんとなくわかる。目の周りが濡れてる。

「…………」

 嫌なの思いだしたな……。

 周りを見渡せば当惑してる見覚えのある看護士がいた。

 窓の外を見てみれば、俺の心を落ち着かせるものがなくなってた。雪は止んで、夕日がもう数時間すれば沈むだろうなってわかる状況だった。

 俺はずいぶんと長い時間寝てしまってたらしい。まあ、こういうことは寝てない日が続いたときとかならよくあるからなんとも思わないけど。

 長時間過ぎたとなれば、蓮がどうなったか自然と気になるもの。

「あの、蓮は……」

 初めは誰かわかってない様子だったけど、なにか思いだしたのか、顔を少し曇らせた。鼓動が早まる。

「そうですね……」

 俺が動揺してるのか、看護師が言ってることをすぐには理解できなかった。ただ今は治療の途中で、時間が経過しないとわからないって。どうとも言えないって。

「そうですか……。ありがとうございます……」

「それで帰ることも可能ですがどうしますか?」

「…………」

 説明で出てきた言葉……低酸素脳症……低体温療法。……溺水……障害。

「……今日はまだ用が残ってるので、今日は帰ります」

「わかりました。こちらに乾きました服がございますのでお着替えのほどよろしくお願いいたします」

 手のひらで指すのは横にある机。マフラーが白になってる。

「……ありがとうございます」

 看護師は部屋から去っていく。

 もちろん蓮のことも気になるけど、ギルくんも心配。

 スマホを取り出して親に迎えに来てほしいって電話をかける。

『……つまり朝に事件があって、病院まで付き添った敬助は夕方まで寝ていたってことか。……最後に寝たのはいつだ』

 ほーら来た。「最後に寝たのはいつだ」って。だから連絡したくなかったんだ。でもだからと言って今財布にタクシー代があるわけでもない。まあ、相手が母さんならもっと怒ってただろうから、父さんが電話に出てくれてよかった。

「……と、とにかく迎えに来て。じゃ」

『あ、ちょっと待って。さっきギルくんの親御さんからギルくんのいる病院を教えてくださったんだ。迎えに行ったあとそこに行こう』

「……ちょうどよかった。それ聞くの思いだしたところだった」

 日もかなり沈んで寒くなってきた。コートまで着て部屋を出れば、さっきの看護士がいてロビーまで案内してもらった。

 しばらくすれば親の車が来た。念のためにナンバープレートを確認して車の助手席に乗り込む。車内は心地良いくらいの温度で体が暖まってくる。

 間もなくして車が動き出す。

「蓮くんはどうだった」

「……かなりやばい状態かも……。まだ治療途中で意識とかもわかんないけど……」

「無事だといいな」

「……ああ」

 本当に願う。心からそう。

 俺は窓の外を見た。また雪が降り始めてる。

「…………」

 蓮がこの景色を見たらどんな反応するかな。いつも通り素っ気ない反応を見せるのか、どこか悲しそうな顔を見せるのか。

「敬助」

 顔の向きを変えずに返事をする。今は問答したい気分じゃないんだけど。

「ずっと前から聞きたかったことなんだけど、恋人できたのか?」

「……は?」

 驚きのあまり振り向いてしまう。今する話じゃないだろ。

「さすがに脳みそ狂ってる」

「父親に対してその言い方か?」

「狂ってるのは変わらない」

「そうか。……で、できたのか?」

 ……しつこい。

「できてない。作る必要もない」

「作る必要はあるよ。影島家を継いでもらわないと」

「はっ」

 俺は今それどころじゃないんだ。

「できたところで、婚約とまで進むかわからない。それに……」

「……それに?」

 仮に本人には言えても親には言いたくない……。

「……俺は好きな人なんて作らないから」

「なんだそれ」

 相手に「好き」だと言えてもそれが恋なのかはわかんない。けどもしあれを本当に「恋」なんて言うなら父さんに言ったことには嘘が見え隠れしてる。

「ところでなんでこの話今したんだ。するときじゃないだろ」

 「今」を強調して言った。本当に今する必要ない。

「……敬助と話す機会が少ないからな。話せるときは話したいと思って今した」

 その言葉に気づかされた。そっか……。

 俺は帰っても寝るか勉強かで部屋にずっといるし、夕飯が出来たとしても食べるのは母さんとだ。父さんは夜遅くまで仕事してて話せても土日の飯のときくらい。

 しかも土日は俺が起きないこと多いし、起きててもどっか出かけてたりするしで、思えば父さんと言葉を交わすのは母さんに比べたら少ない。

 父さんは俺の親、父親なんだよな。

「ごめん」

「なにに謝ってるんだ? 謝る必要ないだろ」

「…………」

 それ以降、会話は途切れた。

 しばらく車に乗って着いたのが、ギルくんがいるらしいどこかの病院。会えなくとも現状を知りたい。

 院内に入って受付の人に聞いた。緊急処置は終わって今は集中治療室にいるらしい。外でなら話してもいいらしいからそこまで向かう。

 ここだ、けど……。ノックをして扉をそろーっと開けると、ギルくんの父親が眠たそうな顔を上げて俺と目が合う。軽く会釈したら立ち上がってこっちに来る。

 ギルくんのこともチラッと見えたけど、想像のついてた光景が写った。ギルくんが目を瞑ってベッドで横になって、右腕には点滴が打たれてる。バイタルだとかも表示されてた。

 部屋の外に出て扉を閉める。

「遅くにすみません」

「こんばんは」

 眠たそうな顔とは裏腹に優しい微笑を浮かべる。

 そのあと俺の父さんも挨拶をして、俺が入ったら邪魔になりそうな話になってた。その間俺はギルくんの様子をこっそり見てた。

 きっと運ばれてからはまだ一回も目を開けてない。寝ているにしては布団が荒れてないし、姿勢が整いすぎてる。

 蓮は刺されて川に落ちたとかだいたいわかったけど、ギルくんに関してはなにがあったのか本当にわからない。

 今の俺がわかることといえば、この一連の出来事は全て犯人とやらが関与してる事件ってこと。その犯人がなにを犯したのかは知らないけど、蓮を刺したり、発砲音が聞こえたからとりあえず傷害罪と銃刀法違反は問われる。

 きっとこの事件を理解しているのは当事者の蓮とギルくん。それと犯人。けど二人はどっちも意識不明だし、犯人が逮捕されたのかわかんない。犯人が見つかれば事の全容もわかっていいんだけど……。もちろん二人も意識を回復して、普通に学校に通えるまでなってほしい。

「私も息子がこんなことに巻き込まれるとは思っていませんでした」

 ふとギルくんの父親がそんなことを言ったのが耳に入った。そうだよな。まさか自分の子供が事件に巻き込まれるなんて思うはずがないよな。そのまた逆もしかりで罪を犯すとも考えられない。それは俺が親になったとしても思う。

 少し話したあと、父さんの話し相手は俺になった。

「こちらこそ。敬助、もう行けるか?」

「…………」

 ギルくんの顔をもう一度見て、こくりと頷いた。

 心配はしてる。けど今はギルくんの父親がいるし、親同士の話しを盗み聞きしてみたら、今は目を開けられないくらい体が死にかけなのかもだけど、いつか絶対目を開けるから心配は要らないとか言われたらしい。だから過剰な心配はあまり要らないのかもしれない。

 俺が立ち上がったことで父さんは部屋から出ていった。俺もあとを追おうとする。そのとき、ギルくんの父親に名前を呼ばれた。俺は立ち止まって振り向く。

「ときどきでいいから顔を見せてくれないかい? きっとギルも喜ぶ」

「……はい。時間が空いたときにでもお邪魔します。……では」

 一礼して部屋から出た。ギルくんの父親が微笑んでくれた。けどそれに対応できるほど今の俺に余裕はなかった。

 部屋を出れば父さんが壁にもたれてた。けど、俺が出てきたことに気づいてか廊下を歩き始める。俺はその隣に着く。

「父さんたちの話し聞いてたか?」

「そこまで」

「ギルくんが一昨日から学校を休んでたらしいな。そのときかららしい。ギルくんが家から姿を消したのは」

 ……一昨日から始まってたのか。

「それで今朝にギルくんの部屋に行ったら、机に『遺書』って書かれた紙があったんだ。それで警察と蓮くんに電話したんだって」

 あのときか。蓮が朝のホームルームで電話だって抜けたとき。蓮が驚きを隠せずに教室まで声が響いてたのはよく憶えてる。そのあと急に学校抜けて……。

「そのあと学校を抜けた蓮くんがギルくんの家に来た。蓮くんが来たら、たまたま担当になった警察の人が蓮くんの知り合いで、一緒に今回のことについて考えてたらしい」

 確か親しい警察の人がいるとか言ってたな。その人かな。

「そうしていろいろわかって、警察の方々でギルくんを捜しに行こうってなったときに蓮くんがねだって一緒に捜しに行ってたって」

 蓮がそこで行ったから、ああいう結末を出したのか。……けど、だからと言って蓮が動かなければギルくんはもうこの世にはいなかったのかもしれない。……この世は残酷だ。

「捜しに行ってからしばらくしたら、警察の人からギルくんが見つかったって連絡が入って、ギルくんはそのまま救急車に乗せられてその警察の方と病院に行った。ギルくんのお父さんもそのあと、あの病院に行って警察の方からいろいろ言われたと。

 あぁ、それとこういうことも言ってた。ギルくんが運ばれてる途中に、付き添いで行った警察の人にほとんど聞こえない声で伝えたらしい。蓮くんが犯人を追いかけに行った、って」

「はっ!」

 ど、どういう……。くっそ……蓮の馬鹿野郎……。推理小説に憧れでも抱いてたのか知らねぇけど、探偵気取ってんじゃねぇよ……。

 右手に力が入って痛い。けど力は弱まらない。

「……そのあとはわからない。本人、蓮くんに聞いてみないと」

 いや、きっとここからは俺の記憶したこととつながってるんだ。

「きっとそのあと、犯人を追いかけた蓮は犯人と争って腹と右手を……いや、違う。追いかける前に右手をやって、追いかけて橋まで来て、腹をやられて川に……。そのあと俺が来て救急車に運ばれた」

 これでつながった。細かいことは本人に聞かないとわかんないけど、だいたいのことはわかった。

「え、敬助そこにいたのか!」

「犯人はいなかったけどな。蓮が犯人を追いかけてる途中とかに俺に電話がかかってきたんだ、その犯人が俺らの通ってる高校を狙ってるかもしれない、とか言って。

 けどその電話の途中、明らかに……日本じゃやばい音と水の音がして、気づけば電話が切れてたんだ。それですぐ近くの橋だからって学校抜けてその橋まで行けば、案の定蓮が川に流されてて意識なかった」

 保健の授業ちゃんと受けておいて本当によかった。たぶん俺の自己満足で終わらせてないはず。

「……なるほどな。そうだったのか。……まあきっと大丈夫だと思うよ。蓮くんの親御さんにも連絡来てると思うし一週間もすれば学校に行けるようになってるさ」

「…………」

 そう願ってるさ。ずっと前から。

「だから今日は心配せず寝るんだ。ただでさえ昨日寝てなかったんだろ?」

「…………」

 家に帰ると夕飯は作られてた。けどそんなに食欲はなかった。食べれる分だけ食べて、残りは明日の弁当にでも入れておいてって言って、

「あら、おいしくなかった?」

「……いや。おいしかった。でも今日はもう……腹いっぱい」

「そう」

 部屋に上がった。

 ずっと心臓がうるさい。明日提出の課題がまだ終わってないからやらないとなんだけど、

「…………」

 どうにも集中できない。

 うるさく動く心臓を静かにする方法をいろいろ考える。けど、たぶん今だけはどの方法を試しても静かにならない。

 蓮の命が危ないかもしれないのに、もう声を聞けなくなるかもしれないのに、のんきに飯なんて、課題なんて、睡眠なんて……。

 気がつけば課題を鞄の中に入れてスマホを取り出してた。そして看護士と話してたときに出てきた単語、低酸素脳症、低体温療法というものを一つ一つ調べた。

 低体温療法は、その低酸素脳症に有効な療法……。

 他に多量出血によって起きうる状態、溺水も同じく。後遺症を残すことなく、社会復帰まで回復するのか、しなくても後遺症とはどんなものが残るのか。いろいろと調べた。画面と睨み合って目が痛くなるくらい。

「……ふ……」

 知りたいことを知れて、知識っていう安心を身に付けたら一気に脱力感が俺を襲った。

 眠気も酷く出てきて、今から寝ようとベッドに体を投げて眼鏡を外したら、勝手に瞼が閉じる。 

 けどどこからか照らした光は俺の目を瞼越しに刺激して、

「…………」

 朝だと知らせる。

 もう……こんな時間だ……。絶望だとかよりも惨めに諦めが俺の頭に覆い被さる。

 調べることに夢中になりすぎて、一晩明かしたらしい。カーテンから漏れる光は眩しく、脳を起こそうとしてくる。

 ベッドに寝転んでからはもう寝る気満々だったから、体を起こしたら軽くフラフラする。休みたい。でも今週あんまり行けてない。昨日は行ったけど数時間したら抜けたから行ってないようなものだし。……行こう。行かないと。

 軽くフラつく頭で目をこすって、眼鏡をかけて、立ち上がって、鞄に要るものを詰めて、制服に着替えて、髪をくくって一階に下りた。……寝てないからかな、頭痛い……。

 いつも通り、父さんは食卓について朝飯を食べてる。母さんは弁当を作ってくれてる。

 鞄をソファーに置いて洗面所に行って顔を洗う。……そういえば昨日風呂入ってなかった。でも蓮がいないんじゃどうでもいい。

 まだ目立つ眠たそうな目とその下にあるクマを見て洗面所を出た。朝飯が置かれてる父さんの向かいに座る。

「おはよう」

「……あぁ」

 いつもながら、挨拶が狂ったように聞こえる。ていうか俺、ずいぶん鼻声だな。 

 また目をこすって大きなあくびをする。眠たい……。瞼を開けるので精いっぱいだ。目の前で湯気が揺れる朝飯を見てもおいしそうとは思えない。逆に腹がいっぱいになる。

「……昨日寝てないのか?」

 父さんがそんなことを言う。ま、ここで嘘ついてもどうせ見破られる。

「寝れるわけがない」

 昨日に引き続いて、あんまり食欲ない。けど朝は取らないとさすがに母さんから言われるから、たまに吐きそうになりながら無理やり口に詰め込んだ。

 食後、いつもなら父さんが仕事のために家から出ていく。けど今日はそんなことなく、のんきに食器洗ってる。いつもなら母さんがするのに、わざわざ代わって。思わず俺は聞いた。

「父さん、今日仕事は?」

「今日は休みなんだ。職場でインフルエンザが流行ってしまって、数日は行けない」

 インフルエンザ。もうそんな時期か。

「ふーん」

 さ、俺も準備するか。眼鏡からコンタクトに替えて、テーブルに出されている弁当箱と箸の入った保冷バッグを鞄に入れた。

「敬助、体調悪くなったらすぐ休むんだぞ」

 突然父さんが似合わないことを言う。急になんだ?

 俺の返事を聞いたら洗濯物を干しに、二階に上がっていった。ほんとになんだったんだ?

 けど時間もないしわざわざああ言ったわけを聞きに行くこともしなかった。スマホと財布があるのを確認してから、鞄を持って家を出た。


 教室に入れば相変わらず自分の席に座る。

 いつもなら蓮とギルくんが先に教室にいて、二人で話してるのをよく見かける。たまに俺のところまで来て、ギルくんが話し相手を変えることもある。俺が話しかけに行くこともある。

 けど、今はその二人はいない。

 少ししてホームルームが始まる。号令後、先生がいつも通り明るい声で言った。たぶん心配させないために。

「えー、今日から新藤と英川は、しばらく休みだ」

 聞き慣れない単語に教室内は少しざわめく。

「しばらく?」

「なんでだ?」

「大丈夫かな」

 そんな言葉が耳に入った。けどどれも、現状を知っている俺には軽い言葉にしか聞こえなかった。

「あいつらいつも仲いいし、二人仲良く事故ったんじゃね?」

 なかにはそんな言葉が聞こえてきてもっと気分が悪くなる。

 休憩時間に下条からなんか知ってるだろって問われた。俺に聞いたのはやっぱり、昨日電話したあとに下条になにも言わずに抜けたからだろうな。

「……知ってる」

「じゃあなにが」

「けど……」

 言っていいことなのか……。俺は判断できない。

「心配しなくてもいいさ。蓮はともかく、ギルくんは早めに帰ってくるはずだから」

「蓮はともかくって……どういうことだよ」

「…………」

「教えろよー。心配なんだってー」

「…………」

 俺だって、ずっとずっと、ずっと心配してる。声が聞けるなら今すぐにでも会いたい。下条だけじゃないんだその気持ちは。

 でもどうしようもないことにいつまでも時間は使えない。今蓮が息を続けようと足掻いてるんだ。俺も今を生きるために、俺は話を逸らした。

「……あ、数学の課題やってなかった。下条やったか?」

「おうよ。見せてやるよ」

 なんとか逸らせた。

 下条から課題を写させてもらう。けどあんなことがあったんだ。動揺が隠せない。次第にシャーペンを持つ手が止まる。

 蓮が、大切な人が、目を瞑りながら横たわって、全身濡らして腹を動かさず血を流してる姿を目の前にして、誰が普通に息してられるんだ?

 脳裏によぎるたびに体が固まって、全身の血の気が引く。

「…………」

「敬助? 大丈夫か?」

「いや……大丈夫。課題ありがとう。……もういい」

「え、でもまだ写せてねぇじゃん。いいの」

「いいんだ。……ありがとう」

 早々に課題を鞄に入れて、話を切り上げた。もう手を動かせる気がしない。

 今日なんかいつもより体が重たい。寝てないからなんだろうけど、いつもこんなに酷かったっけ? でもいいや。どうせ眠たいんだし。

「少し寝かせてくれ」

 傍にいて聞いてるかもわからない下条に、そう一言だけ言って机に伏せて目を閉じた。もうすぐチャイム鳴るだろうなぁ……。

 次第にチャイムで鼓膜を刺激するから俺は体を起こした。次の授業の英語の教科書類を取り出して、先生が来るのを待つ。

 今でも意識が飛びそうなほど眠気に襲われてる。得意なほうではある英語は起きていたいんだけどな……。

 そんな願望は叶うことなく、号令後数分で寝てしまった。


「――きーろ、起きろ敬助」

「……ん」

 肩を揺らされてる。

「やっと起きた。次体育だぞ。着替えないとだろ」

 体育……? 俺を起こした目の前にいる下条は体操服に着替えてる。教室にも人はそんなにいなかった。

 今は何時かと掛け時計を見ると、確かに時間が進んでた。チャイムの音くらいなら起きれるんだけど、それですら起きなかったんなら俺の体は相当疲れてるらしい。

「……あぁ」

 立ち上がって体を重くしながら体操服に着替えていった。

 さっき寝たはずなのにもう眠たくなってきた……。一つあくびをする。いまさらすぎるけど俺の体狂ってるだろ。本当にいまさらだけど。

「外なのか」

「おうよ。確かサッカーやるとか言ってたぞ」

 よりによって動き回るサッカーとか……。

「行こうぜ」

「…………」

 というかなんで下条、いつもに増して俺に引っ付いてくるんだ。たまにしか話さないのに、俺より話しやすい仲良い奴いるだろうにさ。

 下条の後ろを歩いて、グランドまで出た。やっぱり冬場のグランドは本当に寒い。冬場くらい体育館でやればいいのに……。

 背の順の列に入ってチャイムが鳴るのを待つ。

 俺らを担当する体育の先生は授業中だとすごく厳しい。一秒遅れただけでも怒ってくる、とかではないけど授業中は休憩時間より厳しくなる。けど授業外だとか怪我したときとかは、厳しいとかはなく普通に優しい。だから女子にはちょっと人気。ぜひその女子たちにも俺らの体育の先生で授業に出ていただきたい。

 そしてチャイムが鳴って準備体操をしたあと、二グループに分けられそれぞれ色の統一したユニフォームを着させられた。一通り先生からのルール説明後、グループ内で作戦を立てて試合が開始される。

 正直ルール説明も作戦もなにも聞いてなかったから、ヘンに動けない。とりあえず基本的なサッカーのルール、手を使ったらいけないとかはわかるから、できるだけなにもせずそのまま群れの中にいた。

 ボールが回ってきたら相手のゴール側に向かって走って、パスを回せって誰かの合図や声があれば回していった。

 そして一試合目が終わる。

 この体育の時間はずっとサッカーをするらしい。もうかなり疲れたのに……。

「次、メンバーを替える」

 数試合目が終わる。

 かなりしんどいこれ……。ずっと走るとか、持久走だろ……。

「はぁ……はぁ……」

「敬助、大丈夫か?」

 俺が膝に手を付けて肩から息をしてれば下条が話しかけてきた。

「……なんともない……」

「なんともないことないだろ。汗すごいぞ? 敬助だけ真夏にサッカーしてると思うくらいに。今日なんか体調悪そうだしさ、休んだほうがいいって」

 下条が真面目に心配なんてな。笑えない。

「ほんとになんともないから」

「……ほんとかー? ……あ、チーム決めるって。行こうぜ」

 情けなく下条に腕を引かれて生徒の輪に入った。

 チームは体育委員が中心で決めてる。どう決めてるのかは知らないけど、名前を言われたらそのチームに入ってる。

「で、下条さんと影島さんは青チーム。北田さんと」

 下条と同じチームか。

「同じチームだな! 移動しようぜ」

「…………」

 重い腰を浮かせて立ち上がる。けどそのとき目の前が暗くなったかと思えば、ふわっと体のバランスが取れなくなって、

「えっ、敬助!」

 気づいたら地面に倒れてた。

 ……頭痛い。

 ズキズキと痛む頭を押さえながら体を起こす。

「マジで休めって、絶対大丈夫じゃないから!」

 下条の声が耳に響く。それで余計に頭が痛くなる。なんなんだこれ……。俺が知ってる痛さじゃない。寝不足が原因じゃないのか?

 下条が騒ぐから先生が傍に来る。

「影島、今日体調悪いだろ。保健室に」

「俺連れて行くっす!」 

 下条がすぐ隣で食い気味に手を大きく挙げた。

 先生は俺が体調悪いの気づいてた? 俺すら気づいてなかったのに。どうせ寝不足が原因だって思って。

「なら頼んだ。他の人はチーム決めの」

「ほら敬助行くぞ。立てるか?」

 そんな下条の言葉を聞いてなかったみたいに一人で立ち上がってフラつきながら保健室に向かった。頭痛い……。

 下条はやっぱり付いてきて俺の体を支えるように背中を押して隣を歩く。

「なーんか今日の敬助おかしいなーって思ってたんだよ。ずっとしんどかったんじゃねーの?」

 しんどい……? あぁ、これがしんどいっていう感覚なのか。数年前からずっと風邪とかかかってなかったからわかんなかった。

「風邪でもひいたんじゃねーか?」

「……風邪なんてひいてられるか」

「……ん? ……もう体育だけじゃなくて、家に帰ったほうが」

「いいんだ。……ほっといてくれ」

 体調が悪いからかイライラする。……いつもこんなことでイライラする、俺は。

「もしかして蓮とかギルのことでなにかあったんじゃ」

「……半分そうかもしれないな」

 実際、昨日は脳を休めるどころか、一晩中スマホと睨んでたからな。目も疲れてる。っていうか痛い。

「なぁ、なにがあったか教えてくれよ。俺ちょー心配なんだけど」

「本人に聞け」

「つまんねー」

 保健室に入ったけど先生はいなかった。それでも長椅子に気だるげに腰掛けて俯く。しんどい……。なんでしんどいんだ……。

「先生いねーな」

「さむっ……」

 思わず身震いする。

「俺は走ってたから暑いけどな! ……敬助も走ってたけど寒いのか?」

「冬だしな」

「蓮みてーだな」

 蓮……。

「まあ寒いならちょっとベッド借りたら? 体調悪いって敬助見たらわかると思うし」

 それくらい悪そうに見えるのか?

 ま、なんでもいいか。

「先生に怒られても下条が言ったからって言い訳にするからな」

 ベッドまで移動して体を投げる。

「えー。べつにいいけどよ。俺もう行くけど早く治せよー。風邪かなんか」

 そうだ、そもそもこれがなんなのかわかってない。なんでこんなにも頭痛がして、なんとなく体が熱いんだ。

 下条は体育終わったらまた見に来るからなって吐き捨てて保健室から出ていった。

 頭痛い……。ほんとになんなんだこれ。しんどい……。

「影島くーん」

 名前を呼ばれて目を開ける。寝てた……?

「勝手にベッド使うのはどこの誰でしょうか」

 そうだ。先生がいないからって勝手に……。

「すみません、先生がいなくて……」

「べつにいいけど。こんなしんどそうな顔されて怒るほうがどうかしてるわ」

 なんとなく体を起き上がらせるけど、頭が痛くて目をしかめる。同時に寒さと体の重さを覚える。

「さっき熱測らせてもらったんだけど、あなた四十度近くあったわよ。自覚症状無視してでも学校行きたかった理由があった?」

「いや……体調悪いのすらわかんなかったんです。寝不足からのだと思って」

「……そう?」

 先生は立ち上がってベッドに俺の鞄を置く。

「まあ、さすがに四十度もあれば帰らされることはわかるわよね? 親御さん呼んだから来るまでゆっくりしときな」

 もうそこまでされてたのか……。冬に四十度って、完全にあれだろ……。最悪だ。

 頭の痛さを押さえ込むようにしながらベッドに横になる。横になるだけで少しだけマシになる気がする。

 しんどい……。


 揺れてる……。

 目が覚めたら、そこは車の中だった。

「えっ……いって……」

 驚いて飛び起きたけど、そのせいで頭が痛む。

 見れば後部座席で寝かされてたらしい。けど、なんで車なんか……。いやそういえば親呼んだとか言ってたな。だとしても次目開けたら車の中は怖いだろ。服も体操服のままだ。

「起きたか」

「……俺の鞄とかは」

「持ってきてる」

 すぐ隣の席を指差す。そこには確かにあった。鞄の上に体操服袋があって、その上に制服が重なってた。

「とにかく、着くまで寝ておきな」

「……あぁ」

 ゆっくり体を倒した。

 さっき寝たからか眠気はないけど、なにもしたくない。ただ目を瞑るだけにした。

 こんなときに体調崩すとか……。蓮が意識戻したときに、すぐに行けない……。

「はぁ……」

「……今日病院に行こうか? 明日でもいいけど」

「……変わりない」

「そうか」

 病院に着いた頃には、俺の体調がさらに悪くなってた。さっきよりも体が酷く重たくなって、咳が出始め、喉が痛くなってる。その症状は俺をいらつかせるには十分すぎた。

「マスクまだあったかな……」

 父さんがグローブボックスに手を入れて探ってる。俺の家の車はこういうときのために、数十枚マスクが個装で入ってる。俺自身がそこのマスクを使うのは初めてだと思うけど。

「あ、あった。はい。これ」

 渡されたマスクを袋から出して着ける。久々にマスクなんか着けるな。

 父さんが出るタイミングと合わせて車から降りた。

 父さんの横を歩いて付いていく。どこに向かってるのかわからない。病院なんだろうけど、なにせここの景色に見覚えがない。

「もうすぐだ」

「…………」

 俺がなかなか体調崩すことないからか、今回のがより重く感じる。けど、本当になんでこんなタイミングで……。腹が立つ。

 少し歩けばここが院内らしい。椅子に座って待ってろって言われた。ここは外とは違って寒くも暑くもない、ちょうどいい。

 空いてる椅子に座って待つ。その間も俺の体調は悪化させるように咳が出る。うるさく感じるほどに。

 少しすれば父さんが紙をバインダーに挟んで帰ってきた。隣に座ればその紙になにか書き込んでいく。俺は自然と父さんに寄りかかった。

「ここに今の症状なにがあるか書ける?」

 バインダーとペンを受け取る。

 もう俺の中で答えはわかってるんだ。ある症状にチェックマークを付けて返す。下条にも移してしまってるかもな。それだとほんと悪い。

 下向いただけで鼻水が垂れてくる。待合所にティッシュはあるけど、何枚も使うわけにはいかない。なんとか鼻水を吸って垂れないようにしてる。でも吸ったときに頭痛がするから、あんまり吸いたくない。

「出してくる」

 動くからもたれるのやめろってか。素直に体を預けるのをやめた。

 順番までまだ時間かかるだろうな。スマホを取り出してSNSを開いた。ただ特定のなにかの情報を見るとかじゃなく、面白そうなネットニュースがあればそれを見たり、なにげない日常の呟きを見てる。

「…………」

 けど飽きた。そこまで面白そうなのがなかった。ゲームアプリを開いてやろうかと思えば、下条からメールが来た。

『けいすけ大丈夫かー? 体調良くなったかー? 生存確認のために返信よろ』

 心配かと思ったら、急に意味わからないことを言うんだな。なんだよ生存確認って。

 少し(しゃく)だったけど生存してるから返信する。

『生きてる。今病院。数日学校行けないかもしれない』

 もう既読が付いた。

『生きてたか。よかったよかった。学校休むのか? インフルにでもかかったかー? 早く来いよ!』

 続けて「元気出せっ!」ってスタンプが送られてきた。

『やへ、もう修行始まるわ。また欄楽すは』

 修行……? ランラク……? ……これ誤字ってないか? よく見れば、濁点も抜けてたりするし。最後のはどうしたらそうなるんだ。授業が始まるギリギリで返してきたんだろうけど。

 少し微笑まされたけど、すぐに口角が下がる。笑うのにも体力がいるとかおかしいだろ。

「はぁ……」

 なにもすることがなくなった。暇だと呟くように溜息が出る。実際暇だし。スマホゲームをしてもいいけど、気が変わったし目が疲れて痛いなかしたくない。


「ふぅ……」

 自分の部屋のベッドに腰掛けて後ろに倒れ込んだ。頭に刺激が走って痛む。

 結局、陰性だったけど感染したばっかで反応しなかったとかなんとか言ってインフルエンザが疑われて、何個かの薬が渡された。誰かと会うときにはマスクを着けろって言われて着けることになった。今は俺の部屋にいるから顎まで下ろしてるけど。

「あー……」

 しばらくの間、確実に蓮の見舞いに行けなくなったのがわかれば、自然と体の力が抜ける。早く治れ……。

「はぁ……」

 なにもする気力がない。さっきのど飴を舐めたから、喉の痛みはほとんどない。けど、咳は多少出る。

 父さんからは寝てろって言われたけど、べつに眠たいわけじゃない。けど特別なにかしたいわけでもない。

 ただベッドに体を落としてた。

 暇つぶしに下条にでもチャット送ろ。

『インフルかもしれない。しばらく行けない』

 またすぐに返信が来た。

『やっぱインフルだったかー。しばらくけいすけとも喋れなくなっちまうー』

『他にも相手がいるだろ』

 俺がそう送れば、急に返信が絶えた。けどべつに下条に伝えないといけないことなんてない。スマホの画面を消した。


 あれからどれだけの時間が経ったんだか。

 ノックなしに父さんが部屋に入ったかと思えば、飯だとか言って粥を机に置いていった。でも今の俺は食べる気力もないし、正直吐き気のほうがする。これは食べないほうがいい気がする。

「……けど……」

 普段から無理してでも食べてる蓮が頭に浮かんだ。蓮は自分のために作ってもらった飯は残さない主義らしい。注文して届いたものでも、誰かに作ってもらったものでも、誰かの手が加えられたのなら。

 誰かにあげたらいいものの、気が向いたり相手が欲してなければあげないんだとか。目の前にある飯が蓮にとって確実に多いのに最後まで、本当に吐く直前まで食べて、食べたあとには気持ち悪そうにする。しかもたまに吐いているとかギルくんから聞いたことある。吐いたなら食べたのに意味がないって思うけど、蓮自身が満足すればいいか。

 俺はそこまで残食のことを考えたことなくて、残すときは残してたから捨てるっていうことにあんまり抵抗してない。いや残さないべきなんだろうけど。

 そうして、ずっと粥を睨み続けて、いくらか時間が経った。

「はぁー……」

 食べればそのうち食欲湧くか? 粥に向き直ってラップを取る。もう冷め始めてる。粥に熱気を感じない。冬は冷めるの早いからな。

 正直まずそうだけど温めに行くほど食べたいっていうわけでもない。けど……蓮は冷めきっても出されたなら食べるんだろうな……。

 スプーンを手に持って、一口。

「……まず」

 やっぱりまずかった。もとから食欲もないし、正直食べたくない。

 俺が諦めを覚えてた頃、扉がノックされて開いた。

「お粥はもう食べれたか」

 父さんだ。まだ粥は減ってない。むしろ減らしてない。さ、どうしよ。

「いや……まだ……」

「もう冷めてる頃じゃないか? 温め直そうか?」

「いや……その……」

 正直に……言うか。いつまでもこれが部屋にあるのはだるいし。きっと正直に言っても怒ることはしないだろうし。俺病人だし……。

「食欲なくて……全然食べれないっていうか……」

「……そうか」

 よかった。わかってくれ――

「けど食べれる分だけ食べないか?」

 ……いやだから食べれないんだって。

「……もったいないとかで?」

「違う。たとえ病気にかかっても栄養は摂ってくれないと、こっちも心配するし、敬助には健康でいてほしいからな」

 今超絶不健康なんだけど……?

「それに……」

 トーンを落としてそう言うけど、言葉は続かない。けどそれでなんとなく察せた。父さんがトーンを落として話すことは毎回心美が関わってる。

 結局半分くらい食わされて、今すごく吐き気がする。気持ち悪さのあまり机に伏せる。ほんとに吐きそう。

「あぁ……」

 気持ち悪い……。なんで無理やり食べさせるかな……。そんな文句も今は言えない。皿を片付けた父さんが、なぜか部屋まで戻ってきた。

「なんでまだいるんだ」

「……進路について話しておきたいと思ってな」

 だから今じゃないだろ……。

「頭のネジどこで落としてきたんだ? しない。誰がするか」

「……なにか理由があるのか?」

 呆れて気だるげに笑う。

「普通に考えて今じゃないだろ。俺体調崩してんだぞ? ただでさえ喉痛いっていうのにさ」

 そんななか喋らす親がどこにいるんだ。……ここにいたわ。

「ほら、早く出ていけって。マスクが熱い」

「……そうだよな」

 それだけ言うなり、部屋から出ていった。初めからそうしてればよかったんだ。

「…………」

 そうは言っても、なにもすることがないんだよな。少しでも楽にするためにベッドに寝転ぶ。

 いっそのこと睡眠薬飲んでしまう……? いや……あればできるだけ飲みたくない。それにまだ食べて、数分しか経ってない。ただでさえ体調悪いのにさらに消化不良を起こして腹壊す。

「はぁ……」

 早く蓮の様子見に行きたいのに……。あぁもう、くっそ! なんでこんなときに!

 ゴンって音が鳴ったと同時に俺の拳に痛みが走る。壁を殴ってた。イライラしてたからつい……。って言い訳にしても駄目だよな。さすがに文句言いに来たのか階段を上る音が聞こえる。

「入るよ」

 声をかけられて扉が開かれる。父さんがノックするのはきまぐれだからな。

「食べたあとに飲む薬」

 そう言って皿に入った錠剤とペットボトルを渡してくる。そういえばそうだったな。けど持ってきてくれるなんて、父さんにしては気が利くな。

「これらの薬一つずつ、食後三十分以内に。ここに置いておくから。……あと体操服脱いで。洗うから」

 ……気が利かないところもある。

 言われた通り体操服から部屋着に着替えて父さんに渡した。それを受け取ればすぐ部屋から出ていく。わざわざ今着てるものを脱いでまで洗わなくてもいいだろ……。

「はぁ……」

 皿には錠剤が五錠あった。……けどこれ、この二つだけ俺の憶え間違いじゃなければ、俺の睡眠薬な気がする。俺が寝れなくなってから医者から貰ってる睡眠薬。

「…………」

 もしかしたら俺の憶え間違いかもしれないけど……。

 一度部屋を出てフラフラしながら一階に下りた。この薬があれじゃないかを確認するために。

 一階には誰もいない。いや、トイレから音が聞こえる。母さんは仕事のはずだから、たぶん父さん。

 俺は薬を入れてるケースを持ってる。そのケースの薬と、この薬を見比べて同じ薬じゃないか見たい。

 そう思っていたら、父さんがトイレから出てきて俺の存在を認知した。少し驚いたような素振りを見せてから声をかけられる。

「どうしたんだ」

「…………」

 無視してケースを探す。あれ……いつもここに置いてるはずなんだけど……。周辺を探してもない。どっかべつのところに置いたっけ?

「敬助」

 無視した父さんが俺の肩に手を置いて再び声をかける。俺が聞こえてないとでも思ったのかもしれない。

「どうしたんだ。なに探してる」

「……ケース」

「ケース?」

「……薬入ったケース」

「…………」

 なぜか黙る。

「知らないか」

「なんで必要なんだ? 敬助が珍しくあのケースを必要とするなんて思わないけど」

「……渡された薬が似てたから……見比べようって思っただけ……。場所知らないか」

「見比べる必要なんてないと思うけど。あれは医者から貰った薬だ」

「……あっそ」

 怪しい。あれだけ飲まないでおこ。

 再びフラつきながらも部屋に戻った。そして例の怪しい薬だけ抜き取って他の三錠を飲んだ。怪しい薬は机の引き出しから取り出したハサミの持ち手で砕く。

 さて、これからなにをしようかな。……下条たちももう学校に帰ってる頃だよな。今日取ったノートを写真で送ってもらお。それでノートに写そ。

『今日取ったノート見せてくれないか』

 すぐに返信はなかった。

 珍しいな。部活か? そもそも入ってるのか? 入ってたとしてもなにに入ってるんだろ。あの脳天気な奴の部活はどれも想像がつかないな。入ってたとしても運動部なんだろうけど……。

 あ、返信来た。

『うーん、どーしよっかなー。体調悪いのにさ、無理に写さなくていいと思うぞ?』

 ……暇なら寝てろってか。

『お願い。普段からまともに授業受けてないからすぐ追いつけなくなるんだ』

 これでどうだ。

『それは寝てる敬助が悪い』

 ……正論。

『それに、なんでいつも寝てるのにテストの点いいんだよ! いっそのこと追いつけなくなってしまえ!』

 ……はっ。

『なら、もう宿題の答え教えなくていいんだな』

 奥の手を使おう。

『あ、いやそれはちょっと』

 ははっ、こう言ったら断れないよな。

『見せてくれ』

『しょーがねーなー』

 数分後、まとめて今日取ったらしい板書されたノートの写真が送られてきた。ありがたいありがたい。

『これでいーかー?』

『ありがとう。またいつでも宿題の答え写しに来いよ』

『約束だからな!』

 画面を変えて、それぞれノートに写していく。正直、あんまり頭に入ってこないけど、まあなんとなくでわかればいいか。テスト数週間前から勉強してれば、理解もしていい点取れるし。

 お、ここまでか。横にスワイプしても次が出てこない。ふぅー終わった終わった。指も疲れてきた頃だった。

 ……なにをしよ。

 また暇つぶしに下条に適当なチャットを送って反応でも楽しんでようかと思って、ベッドに寝転んだ。けどそのとき、部屋がノックされて扉が開かれた。

「…………」

 なにも話さない。なにか取りに来ただけか?

 やっぱり。皿が取る音が聞こえた。そしてすぐに出ていく。べつに今取りに来なくてもいいだろ……。

 いちいち父さんの行動にイライラする。いつもはこんなすぐイライラしないんだけどな。体調崩したせいかな。いやそのせいにしておこ。

 あぁ、腹が立ってきた……。そのせいか体が重くなってきた気がする……。急に体も熱くなってきた……。

「あぁ……」

 仰向けになって白い天井を見る。なにかする気力がない……。頭もぼーっとする。インフルのせいか?

 体を横にしてスマホの画面をつける。下条からチャットが来てる。

『けいすけー』

『あ、寝た? 寝たならいいんだけどさ? 早く元気になれよー』

 そして一番最新のチャットには目に止まる文が書かれてた。

『けいすけ!』

『ギルからチャット来た!』

 ギルくんから……? 病院のベッドで横になるギルくんが脳裏に浮かんだ。……ん、てことは……意識が戻ったのか! 俺は驚きで体を起こした。

「って……」

 けど、酷く頭が痛んだ。

『なんて来たんだ』

 そう送れば写真が送られてきた。ギルくん宛のチャット画面のスクリーンショットだ。

『俺いろいろあってちょっとの間入院するんだー。でも心配しなくて大丈夫だからね! ちょっとの間だから』

 「ぐっ!」っていうかわいい少年が指でグッドサインを出してるスタンプが送られてる。

『ギル! 数日間全然連絡来なくてちょー心配してたんだぞー! っていうか入院するとかいろいろありすぎだろ! 蓮もだけどなにがあったんだ?』

 続けて疑問符だらけのなか、首を傾げる少女のスタンプを送ってる。

『それは、うーん。まだ教えられないかな。教えていいのかもわかんないし。教えることはできないけど、終業式前には行けるようになるはずだから待っててね!』

 「お座り」って小型犬の白い犬が座ってるスタンプが送られてる。

『入院してる場所どこ? お見舞い行きたい』

 「そわそわ」っていう少年がもじもじしているスタンプを送ってる。

『あー俺もまだそこらへんわかってないから、また教えるね。俺もどんな感じになったのかわかんないから』

 泣いてる少年のスタンプが送られてる。

『そっか。じゃあ早く教えてくれよ! 絶対お見舞いに行くから。けいすけといけたら豊も連れて』

 「今行く!」っていうスーパーヒーローみたいなスタンプを送ってる。

『うん!』

 「待ってる……」っていうなにかを望んだ目をする少女のスタンプが送られてる。

 チャットはここで終わってる。……というかスタンプ送りすぎだろ。文送ったあと毎回送ってるな。

 ギルくん、意識を取り戻したんだ……。よかった……本当によかった……。あとは蓮だけ。

『なあけいすけ、もしかしてギルが入院してる病院知ってるんじゃねーか?』

 下条から俺の心を見透かされたようなチャットが来る。転院してなければ知ってる。俺も行きたいのは山々だけど、俺の体は今この状態。俺的にも行けないし、病院側的にも来んなって言われる。

『もう行っていいのかわかんないから、判断しようがない。それに俺の体見て言ってるのか? 行けたとしても体が治ってからだ。それからじゃないと行けない』

『じゃあ俺だけ行ってくる。場所教えて』

 ……それはそれで嫌だな。

 あぁ、急に眠たくなってきた。スマホの画面を消して机に置く。ここまで眠たくなればどう抵抗しようも眠たくなってしまう。

 だから眼鏡を外してそっと瞼を閉じた。そして次第に意識が遠のいて……。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

「独り家族(2/4)」に続きます。

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