憧れの存在(2/2)
大通りに出てタクシーを捕まえる。運良く捕まえられた。家の住所を言って、送ってもらう。
流れる町並みは暗闇の中で光が灯っている。どこか温かく感じられる。それでもずっと、ずっと冷たい。
酔い止めの効果がまだ続いてるからか、酔いはしない。眠たさで横になりたい気持ちを我慢してあくびする。
「ずいぶんとお疲れのようですね」
眠ってしまいそうに頭をガクン、ガクンと繰り返していたら運転手に話しかけられる。
「……えぇ。まあ」
「遅くまでお仕事ですか?」
……仕事。僕が社会人に見えたのか?
「いえ……。ただ一日息をし続けた疲れです。それに僕はまだ社会に出る歳でもないです」
運転手の顔は見えない。けど、すぐ返事がなかったから、驚きでもしたのだろうと、容易に想像できた。
「……老けて見えますか」
「とんでもない。確かに社会人には見えましたけども、二十歳前後かと思ったくらいです。お若いのは変わりありませんよ」
べつに、老けて見えたっていずれ老けるんだから特に気にするものでもなかったんだが。
「もし眠たいようでありましたら、ご到着しましたときにお声かけしますよ」
「……我慢できなければそうさせていただきます。少し……横になっても……」
「ええ。構いませんよ」
柔らかくて優しい声。それに癒やされるように、目を瞑った。
最後に見た総務、すごく温かそうだった。すごく幸せそうだった。母親に抱かれて眠る。どれだけ幸せだったんだろう。
そんな幸せそうな総務に、口を滑らせてしまった。過去のこと。べつに総務じゃなくてもよかった。誰だって。ただ誰かに聞いてほしかったんだ、きっと。
明日からも変わらず接してくれるだろうか。ヘンに気を遣われないだろうか。周りに口外しないだろうか。いろいろな不安が湧いてくる。だがどれも、そのとき次第。そうなってしまったとき、そのときに考えよう。
総務の母親はきっと、昔は優しい人だったんだろうと容易に想像がつく。けど、ストレスやらなんやらで、いつしかああなってしまった。誰を責めるべきか、いや、誰も責められない、責めるべきではない。
「…………」
抱かれる総務の姿が頭から離れない。
妬ましい……いやきっと羨ましい。
僕も誰かから本当に愛されて、│抱いてほしかった。もう、そんな歳でもないが。
「着きましたよ」
「っ……!」
気づかない間に寝てしまっていた。
ここはどこだと右を左を見て確認する。変わらずタクシーの中で、窓の外には僕の家が見える。
「ずいぶんとうなされているようでしたが、本当にお疲れのようですね」
うなされていた……? ふいに目元が濡れていることに気づいて拭う。
「……そうなのかもしれません」
代金を払って降りる。
「ありがとうございます。ゆっくりとおやすみになってください」
「……ありがとうございました」
タクシーが見えなくなるまで頭を下げた。そして静まり返った夜の冷たい空気に触れて、三日月が雲に隠れることなく輝いて、
「…………」
孤独だと知る。
胸にポッカリと穴が空いたような気がして、胸を抱える。痛い……。
もう、こんな気持ちに埋もれてしまう前に家に入って寝てしまおう。寝ればなにもかも忘れられる。そう思って、ズボンのポケットを探る。上着のポケットも探る。
ない。
鍵、どこかに落としたか? あれがなければ家に入られない。いや、ギルの合鍵を貸してもらえば入られるが……。
もしかしたらギルの家に置いてきているのかもしれない。
「はぁ……」
面倒臭さのあまり溜息を吐く。送ってもらう場所をここじゃなくてギルの家にしておけばよかった。
ギルの家に忘れていたとしても、どこかに落としていたとしても、ギルの家に行かなければならない。もしどこかで落としたとなれば、今合鍵を持っているギルに貸してもらうよう言わなければならない。
行こう。ギルの家に。
「あ、れーくんおかえり。ありがと、わざわざ総務さん送ってくれて。外寒くなかった?」
……なんだかすごく温かい。目が熱くなってきた。けど、なにも流さないように平然を装う。
「今お風呂敬助くんが使ってるんだ。もうすぐ出てくると思うんだけど……」
ギルの家に上がれば下条がソファーに座りながらテレビを見ていた。ギルに髪をタオルドライされながら。下条はパジャマに着替えている。風呂から上がったあとなんだろう。
ギルはまだ入ってないみたいだ。仮装を少し崩して着ている。
「よし。真也くん、タオルドライしたからもういいよ。流さないリンスも付けてね。それか俺がドライヤーする?」
「い、いやそれはいい。それは自分でする」
下条がタオルを持って洗面所に入っていった。
ギルが髪のことでしつこく言ったんだろう。例えば、風呂から上がった下条がソファーに座ってテレビを見ていたら、ギルが後ろからタオルドライしないと、と言ってさっきの状況になった。……いつかの僕みたいだ。
「れーくん。俺まだお風呂入ってないんだけど、久々に一緒に入る? いや、入ろ! ね?」
「……入らない。それに一度でもギルと一緒に入ったことがあったか」
「家のお風呂はないけど、温泉行ったじゃん」
確かに行ったな。あれは一緒に風呂に入ったことになる……のか。
「無理だ。入る必要ない。それに狭い」
「大丈夫だよ! 俺は背低いし、れーくんは細いからね」
……今回ばかりは本当に意味がわからない。
「ねー、一緒に入ろー? 髪の毛洗ってあげるし、背中流してあげるからー」
「いらない。自分でする。入るなら今入っているケイとでも入れ」
「んー。まあいっか。ちょっと敬助くんのお風呂姿見ちゃおー」
それを言うならケイの「風呂に入っている姿」だろ。ときどき言葉が欠けている、ギルが発する言葉は。
「れーくんもさ」
「…………」
無理やりに洗面所に入らされては下条がドライヤーで髪を乾かしていた。イヤホンを付けて、目を閉じているので僕らの存在には気づいていないらしい。……ドライヤーの音がうるさい。
ギルはガッと風呂の扉を開ける。どうやらケイは湯船に浸かっている。満喫しているのか目すらも瞑っている。
湯船には入浴剤が混ぜられているらしい。水が薄い緑色をしていて、いいニオイがする。
「どう? 湯船気持ちい?」
「…………」
ケイの返答がない。ギルのことを無視するのは初めてかもしれない。
「あはは……」
……違う。違うぞ。これは無視したんじゃない。
「寝てるんだ」
「え?」
証拠に少しずつ体が沈んでいっている。暖かくて眠たくなったのか、ケイ特有の眠りか。とにかく、
「ケイ、起きろ。ケイ」
脇を持って沈まないようにし、呼びかける。いっそのこと一度上げたほうがいいか? ……けど、さすがに重い。そんなことを考えていれば、ケイが目を覚ました。
「っ! ……蓮」
僕のことを認知すれば、脇を持っていたことでどういう状況だったのか気づいたらしい。
「他人の家の風呂で寝るなんて」
「わ、悪い。眠たくなって、気づいたら……。昨日は寝たんだけどな……」
「酸欠じゃないのか。湯船に浸かれば血圧が下がって脳が酸欠になりやすい」
「知ってるさ。……俺はもうちょっとだけ暖まってから出るわ」
「早く出てこい。あとがつかえている」
静かに扉を閉め、洗面所からも出た。そう広くないところに三人もいるのは暑苦しい。
さっきのでズボンが少し濡れた。脚に冷たさが感じる。
「寝てたね。ていうか、血圧どうのってどういうこと?」
ケイだからすんなり話を理解してくれたが、やはりギルにはわからないか。
「……風呂に入ると汗かくだろ」
「かかないよ」
「……かくんだ。シャワーで流れているだけで。汗をかく理由は知っているだろ」
「うん。体がいつもの体温に戻そうとしてでしょ?」
「ああ。それと同じで風呂に浸かれば体温も上がる。そうすれば体を冷まそうと汗を出すために血管が拡張……広がって、血圧は低くなる。低くなれば血液の進みが悪くなって、酸素を運ぶ血液が脳に来るのが遅くなって脳が酸欠を起こす。と、わかりやすく説明をするならこんな感じだ」
「ふーん」
聞いてきたくせに興味なさそうな態度を取るな。今後なにも教えないぞ。
「……まあいい。それはそうと、他人が入っている風呂を見たいだなんて、どんな神経をしている。プライバシーの侵害だ」
「でも、敬助くん寝てたのに気づけたし……。あはははは……」
「はぁ」
ソファーに腰掛けて、ただ流れているテレビを眺める。画面の左上に表示されている数字は「9:58」とある。もうこんな時間だったのか。
「でさ、一緒に入ろ?」
まだ言うか。
「僕はべつに一日くらい入らなくたって気にしない。必ずギルと一緒に入るしか風呂に入るという選択肢がないなら僕は入らない」
「……そんなに俺と入るの嫌なんだ」
ギルの声とは思えないほど暗かったので、つい見てしまった。が、そこには、
「あはは、なーんてね」
楽しそうにする顔があった。冗談か。……よかった。
「お風呂は入ってほしいから、今回は諦めてあげる。でも……また一緒に温泉行こ! れーくん温泉好きだったよね」
「……またな」
「えへへ、約束ね」
「温泉かーいいなー俺も行っていいか?」
洗面所から出ては僕らの会話を盗み聞いていた下条が言う。
「いいよー。真也くんも一緒に行こ!」
「…………」
僕の意見は言えないのか。まあ、温泉は個人でどれだけ楽しむかだ。誰が来ようと構わない。
ケイが出たことにより、ギルが風呂に入るよう勧めてきた。俺は最後でいいからと言って。まあ、寒かったことは事実だ。言葉に甘えようじゃないか。
洗面所で服を脱いだとき、全裸の僕の姿が鏡に映った。
「…………」
気持ち悪い。
髪や体を洗ったあと、湯船に浸かった。湯船には板状の蓋が半分被っていて、足もとは暗くなっている。
湯船なんて久々に入る。やっぱり気持ちいい。一日の疲れがどっと襲ってきて、それを癒やしているように思える。寝てしまいたい。
少しの間目を瞑っていれば眠気を覚え、頭を振って払った。
よく見れば湯船にはおもちゃのアヒルが浮いていた。野球ボールくらいの大きさだ。そのアヒルを掴もうと水面から腕を上げれば、波に乗って足のほうへ行ってしまった。細い腕だけが残る。
諦めて腕を水中に戻し、肩まで浸かる。
僕が嫌いだ。顔も体も、性格もなにもかも。
いつからか体格や体にできるものを気にしていた。僕の体を見た奴に気味悪がられる。手足が異常に細くて骨の浮いた体、そこに目立つもの。だから、小中学校で体操服に着替えることは嫌だった。プールは親から入るなと言われていたから裸と同じような姿を見せることはなかったが、体育はいくら見学時にでも着替えなければならなかった。そのときに見えるそれは、僕も捨てたいくらいに嫌いだった。そして、誰にも見られたくなかった。
温泉に行きたいと気づいたらぼやいたのが、中学三年生の立冬直前頃だ。ギルがそれを聞いて行こうと言う。けど、誰かに体を見られたくなかったからすぐに取り消した。やっぱりそんなことはない、温泉なんてとんでもない、と。けど取り消した理由を問われ、気持ち悪い体を見られたくない、そう答えれば、
「大丈夫だよ」
そう言った。
「大丈夫だよ。誰も気にしないし、所詮は赤の他人。もしれーくんの体を嫌ってもどうせ思いだすことはないんだからさ」
その言葉は僕の好きを肯定してくれた。
「まあ、そう言っても、なんでれーくんが自分のことがそんなに嫌いなのか、知りたいくらいなんだけどね」
ただ、そう付け足しはした。そう言ってくれるギルくらいにはなにもかも打ち明けたいくらいなんだが、僕はギルに傷ついてほしくない。
「ヒートショック……」
「だろうな」
ほんの少ししてギルが洗面所に入ってきた。
「お水持ってきたよ。……飲める?」
湯船に浸かって頭を空にしていれば、さすがに酷い眠気を覚え寝てしまう前に上がることにした。風呂から出れば、ケイが髪を乾かしていた。一度こちらを見て目を大きくしたと思えばさっと逸らした。髪で隠れて耳は見えない。耳が隠れる人間の心情を図るのは難しい。
タオルで体を拭いて、ギルが出してくれていた服に着替えていれば急な動機や耳鳴りを覚えた。だが、なにかがヘンな作用を起こしたのだろうと思って上の服を着た。
だが、次第には視界が暗くなったり冷や汗をかいたりして、さすがにしゃがみ込んだ。気持ち悪い……。
「蓮」
いち早く気づいたのがケイだった。ケイがいるときはいつもだいたいそうだ。
「どうした」
そう聞いてきたが、僕の顔を見るなり洗面所から顔を出して誰かになにかを言って戻ってきた。
もっと早く気づけばよかった。いつかと同じ症状じゃないか。特に冬場の風呂に入る前後になりやすいもの。
「ヒート……ショック」
「だろうな」
急激な温度変化によって体温を暖めようとしたり冷まそうとすることで血圧が上下され、心臓や血管に負担がかかって体に異常を来すこと。
過去に何度かこうしてヒートショックを起こしたことがある。そのほとんどが忘れた頃になって、早くに対処できないでいた。今回もそうだ。だが、今回はケイが傍にいてくれて助かった。それにこのヒートショックについても知識を付けているらしい。ありがたい。
「お水持ってきたよ。……飲める?」
ギルが入ってきた。僕の様態を見て少しの驚きさえ見せるが、すぐ飲むよう促してくる。
コップを受け取って少しずつ飲んでいく。頭を上げればフラついて気持ち悪くなって、途中で飲むのをやめて頭を下ろした。
「もう、どうすることもできない。良くなってきたら動いたらいいさ」
「……そのつもりだ」
本当にケイがいて助かった。いつもなら僕一人しかいなくて、動けずで水すら飲めていないからな。水がこれほども効果を出すとは思っていなかった。今度から洗面所に水でも用意しておこうか。
ケイは僕の様子をチラチラ見ながらも髪を乾かしだす。ギルから髪が傷むと言われて。僕も今、ギルからタオルドライをされている。頭を動かさないように注意してくれながら。ギルは髪についてうるさく言う。髪を愛しているかのように、本当にうるさくしつこい。
落ち着いた頃、ズボンを履いて一度熱を帯びた湿気のある洗面所から出た。暖かかった室内から出ればリビングが寒く感じる。
出てからはギルからもう一杯飲めと渡された水をちびちびと飲んでいた。ソファーに腰掛けて流れるテレビ番組を見ながら。
飲み終わってからも、湿ったタオルを首に掛けながら座っていた。そのタオルが徐々に寒さへと導いてくるが、座ってからは動くのが面倒に感じていた。
「もーせっかくタオルドライしてあげたんだから、早くドライヤーしたらいいのに。ほら、行くよ」
ギルに連れ出されて洗面所に入れば前にはなかった椅子がどんと置かれていた。そこに座らされて髪を乾かされている。まあ、髪を乾かす手間が省けたというものだ。
「髪の癖を伸ばしながらドライヤーしたら、ちょっとマシになるんだよ」
「…………」
「真也くんたちはお父さんと布団敷いてくれてるみたい。俺の部屋に敷いてね」
「…………」
「どういう順で寝るんだろ。俺れーくんの隣がいいなー」
「…………」
「れーくんとなら何回か寝たことあったけど、その時っていつもベッド一つで足りてたから、今日みたいに敷いて寝るのは久々だね。中学生の修学旅行以来かな」
「…………」
と一人でずっとなにか喋っている。しかもドライヤーの音にかき消されないように少し大きな声で言っている。よくもまあ、疲れないものだ。
「俺よくれーくんと隣で寝たら、れーくんのこと抱きついて寝てるけど、れーくんはそんなことない? 俺なにかと抱きつくからさー。あはは。ぬいぐるみのときもあれば掛け布団のときもあるし、枕だって。なーんか起きたらいつもなにかに抱きついてるんだよねー」
ギルと一緒に寝れば、いつもギルに抱かれているのを憶えている。四季問わず。冬は暖かくてそのままいることが多いが、夏はさすがに引き剥がす。さすがに暑い。
そんな四季問わず抱きつくギルのベッドには数体ぬいぐるみが鎮座している。きっとギルの場合幼い頃に貰ったぬいぐるみを捨てられないでいるんだろう。
髪を乾かし終えたら今度はギルが風呂に入る。
「悪いな。自分で乾かせばよかった」
「いいんだよ。どーせれーくんそう言っても乾かさないんだから。れーくんのことぜーんぶ知ってるんだから」
ギルが僕の髪を乾かさなければ、もっと早く入れただろうに。早く気づけばよかった。
部屋にケイたちがいるらしく向かった。話し声が聞こえる。扉を開けばこちらに注目が向いて、会話が止まった。悪いことをした。
二人とも敷かれてあるベッドにもう寝転んでいて、ケイの横に下条が寝転んでいる。ケイと目が合えば「蓮も寝転べよ」と言って向かいの布団を軽く叩いた。ここを使えと言われている気がする。まあ、どこでもいい。
「初めてだよな、このメンツで一晩過ごすの。ちょー楽しみ! お泊まりとかもしないからなー」
下条は布団の上でゴロゴロと動き回る。ケイの左肩に当たったときは少し嫌そうな顔をしていた。
「……蓮はどんな寝方をするんだ?」
嫌そうな顔をやめて聞いてくる。それには下条も動きをやめて寝転び直した。
「気になるか。そんなの聞いて」
「いや……まあ」
「俺はいっつも仰向けだな! ……兄ちゃんからいびきうるせーって言われたことあるけど、仰向けが一番しっくりくるんだよなー」
人それぞれの好みがあるだろう。口にあうあわないがあるように寝方も。
「俺はそのときにしっくりくる寝転び方で寝てる。横向きで寝るときもあれば仰向けでも。うつ伏せは……最近はないな」
妙に目を合わせて口を緩ませて言う。
「蓮はどんな寝方だー?」
「……僕は横向きがほとんどだ。これが一番いい」
「変わらないな」
そうケイに微笑まれる。が、変わらないとはどういうことだ? ケイに一度でも寝たときの姿を見せただろうか。
「え? 敬助って蓮が寝てるところ見たことあるのか……って、そういや敬助って蓮と会ったことあったんだよな。転校してきたときになんか教室で話してたもんな」
「まあ、会ったことがあるって言っても小三の一年間を過ごしたくらいだけど。……すごい濃い一年だった」
僕もそう思う。小学生で特に濃かった。ケイに会ったからだろうな。
「え? でも小三のときってことは修学旅行一緒に行ってねぇじゃん。小三でもうお泊まり会とかしたのか?」
「僕からも問いただしたい。僕の寝た姿はいつ見たんだ」
「蓮も憶えてなかったのか。あれだ。あの……」
ケイから笑顔が消えた。なんだ、そんな笑顔が消えるようなときに見たのか? 本当に記憶がない。……嫌な記憶しか思いだせない。正直、ケイと仲良くなったきっかけは憶えているんだが、初めて会った時は曖昧……。
あのときか。
「……思いだした。……ケイと初めて会った時だな」
「……そう」
確かにケイが言うのを拒んだわけがわからなくもない。あの時は……少し気分が悪くなってきた。あの日の嫌な記憶が脳裏を巡る。
「……眠い」
そう言って枕に顔を埋めた。眠いどころか、軽い動悸がする。
「めっちゃ急だな。起きろよー」
頭を突かれる。が、それを止めてくれた。ケイが止めてくれた。
「やめろ」
「なっ……敬助握力強くね? 腕相撲しようぜ」
「上等だ」
ケイと下条の腕力勝負か。腕相撲は握力は関係ないのを下条は理解しているのだろうか。
嫌な記憶を消すためにもその戦いを眺めることにした。いつまでもこの気分は嫌だ。せっかくこうして「友人」という存在がいるのに。「家族」なんてものよりも大切に思える存在が。
「そういやギル風呂か?」
腕力勝負で、下条が負けを何度か味わったあと聞いてきた。
「ああ。入っている」
「ならもう少しかかるかなー。じゃあその間にさ、トランプしようぜ! ギルのとーちゃんが置いていってくれたんだ」
誰も返答はしなかったが配られていく。ギルが来るまで本でも読んでいようかと思っていたが、まあ暇つぶしには変わりない。
「じゃあ、大富豪なー」
大富豪? なんだそれ。
「三人でするのか? それに俺そこまでルール知らないんだ」
「えー? じゃあここは無難に七並べにするかー」
七並べは知っているが、無難なのか?
「なにそれ」
今度はケイが知らないみたいだ。
「えー? これもかー? んーじゃあ無難にババ抜きでいっか。ババ持ってる人一つ抜いてー」
今から抜くのか? 配り終わったあとだが。
「……誰持ってるんだよ」
僕はあいにく持っていない。なら下条かケイだ。だが、下条が言っていて抜かないなら、ケイが持っていることになると思うんだが。
「……え? ほんとにどっち持ってるんだよ」
「僕は持っていない。手札見せようか」
「い、いやそれはー。じゃあ敬助なんじゃ」
「俺も持ってない」
ケイはさっと手札を置いて広げる。確かにそこにはなかった。なら、下条なのか? 自分で言っておいて。
「俺もねーぞ?」
下条も手札を見せる。ない。僕も見せたほうが早そうだな。
「……え? 誰も持ってねーじゃん。なんで?」
そういえばと思って一枚トランプをめくる。このトランプの裏の柄って、全部揃っていないトランプじゃないか。ギルが言っていた。昔にトランプをしようと「引き出しのトランプ取ってー」と取ったものの、「これは全部揃ってないからこっち」と言ってべつのものを出していた。
「確かこのトランプは全部揃っていないんだ。以前にギルが言っていた」
「え、まじ?」
「だから手札が少ないのか。五十四枚あるカードを三人で分けたらちょうど十八枚ずつになるからな。俺の手持ちには十五枚しかない」
さすが、論理的だな。僕のところは二枚足りない。きっと下条も二枚だ。
「でもババどっちもないとか面白いな。他になにがないんだ? 一回並べてみよーぜ」
左から右に、数の小さい順に記号を揃えて並べていった。結果、ジョーカーが二枚確かになかった。これほどないとは思っていなかった。
「全然揃ってねー。これじゃトランプできねーじゃん」
「いや、もう一つある。確かそっちは揃っているはずだ」
立ち上がってギルの勉強机の引き出しを開けてみる。確かここにあったはずだ。ギルの勉強机は、勉強道具とおもちゃの比率が二対八となっていて、僕の中では有名な勉強机だ。いや、勉強机ではない。ただの机だ。
あった。確かこれだ。箱から出して見ていく。ペラペラとめくれば、どうやら一から順に揃えられているらしい。綺麗に数字が上がっていく。
それを持って布団に寝転んだ。
「揃っているみたいだ。で、なにするんだ」
「ババ抜き!」
後方にあるジョーカーを一つ抜き取って、混ぜていく。途中、混ぜているカードがうまい具合に散乱したので、神経衰弱をすることになった。
「蓮一枚も取れてねーじゃん。勉強できるのになんでだよ」
始まって二人とも数枚取れた頃に下条に言われる。何度ギルに言われたことか。こういうのは得意じゃないんだ。
一回戦が終わった。ケイが一番。下条が二番だ。僕は三ペアだけ取って最下位。べつに悔しいなんぞ思っていない。……べつに……思っていない。
下条がもう一回しようということで再び並べている。そのときギルが帰ってきた。
「……ずいぶん早いな」
「そう……かも。えへへ。みんなと一緒に遊びたくてちょっと適当にしちゃってたかも。なにしてるの?」
「神経衰弱! 今から始めるところだったからギルもしようぜ」
「うん! するするー」
ギルが僕の隣の布団に寝転んだ。この距離からでもシャンプーのいいニオイがする。学校でもいつも匂ってくるニオイ。
二回戦目が始まった頃、僕は同じくあまり取れていなかった。どうも一回戦目の記憶が混じって、どこになにがあったかわからなくなってくる。
ケイは変わらずだが、ギルと下条がいい具合に戦っている。その記憶力を勉学に使ってほしいものだ。
終盤に入った頃、僕の番だった。どこになにがあったか……。たしかここに三があって……。もう一つはどこだったか。
記憶を思い起こしていれば、突然下条が言った。
「ギル……? 大丈夫か?」
その言葉にカードから目を逸らせてはギルを見た。ギルはうつ伏せになりながら腕を立てて俯いている。髪の隙間から見える耳は少し赤い。肌が白いからか余計に目立つ。
「うん。ちょっと眠たくて……あはは……」
そう言うが顔を上げる素振りは見せない。ギルの頬に手を当ててみる。少し熱い。
散々歩き回った代償か、もとから体調が悪かったのに平気な面をしていたか。けど、今日一日中そんな素振りは見せていなかった。隠すのが上手になったのか、僕が鈍ったのか。
「無理するな。もう寝ておけ」
「……ごめんね。ありがと」
手元にあった枕をギルの腕と頭の間に挟み込む。そうすれば頭を枕に乱暴に置いた。柔らかい枕でよかった。
「……え? え?」
状況を理解していないらしい下条が聞いてくる。ケイは気を利かせてかカードを集めてくれている。僕のも渡した。
「少し熱があるようだ。下条、ギルの父親に熱があるかもしれないと言ってきてくれ」
「お、おう」
持っていたカードを置いて部屋を出ていく。
「ギルくん、風邪かな」
置いていった下条のカードを束ねながらケイが聞く。
「……さあな」
なにであれ、体調を少し崩したと、それだけで親が寄り添ってくれる。そんな家族が、
「…………」
ギルの頭を撫でる。
羨ましい。
下条が呼んできてくれた父親が来れば、ギルの傍にしゃがみ込んで顔に触れて、仰向けにさせて、脇に体温計を挟んで……。こんなこと、されたことない。
「……七度四分か。もし風邪だとみんなに移してしまうから、申し訳ないけど今回はべつの部屋で寝かせるよ」
「えぇーせっかくのお泊まり会なのにー」
「……わがまま言うな。それに泊まることなんて都合が合えばいくらでもできる。下条だって風邪ひきたくないだろ」
「ま、まーな?」
風邪を、風邪でなくともインフルエンザや食中毒でも、誰か……「家族」に看病してもらえるのであれば、いくらでも代わりにかかってやりたい。
父親がギルをゆっくり抱きかかえて「おやすみ」と言って扉が閉まった。
「……僕は寝る」
空の敷き布団を背にして布団を被る。またこんな感情だ。
「お、おい! こっからだろお泊まり会は!」
「……うるさい。耳に響く」
「敬助、なんか急に蓮機嫌悪くね? さっきまでトランプしてたのに」
「眠たくて機嫌悪いんじゃない?」
僕はケイではないのだから、そんなことは言わないでいただけると嬉しいんだが。イメージが下がる。……どうだっていいが。
「あっそー。じゃあ俺らだけで枕投げしよーぜ」
「俺はいつそんなのするって言った? しないしここはホテルでもなんでもない。ただの近所迷惑だ」
頭の上からガサゴソと布団をどかす音が聞こえたら僕の目の前を通っていく。そして途端に暗くなった。電気を消してくれたらしい。ありがたい。
これで寝られる。ちょうど動くのが面倒臭くて誰かに頼もうとしていた。
「俺ももう寝るから下条もさっさと寝ろよ」
「はぁーこれだから蓮も敬助もインドアなんだよなー」
関係ないだろ。
「敬助おやすみー」
「おやすみ」
突然だったからか、僕には言われていないし言っていない。……べつに、どうだっていい。
いつもよりも背中を丸めて目を瞑る。
これからも、この先も、ずっと家族なんてものには触れずに、僕は孤独だ。
もう寝ついた頃だろうか。
静かな暗い部屋でずっと寝つけずにいた。普段は十二時以降に寝ている。だからそれより早くは寝れなかった。そもそも総務の家から帰る時に寝てしまったから、それが主な原因だろう。
暗くて時計は見えない。この暗闇でスマホをつけようとも思わない。
ケイはわからないが、下条はもう寝たのだろう。いびきがうるさい。少し頭の角度を変えれば聞こえなくなるはずなんだが、あいにく反対側にいてわざわざ寝つけないのに雑音を消そうとも思わない。
寝つけないストレスは何度も感じた。いつまでもこうして無駄な時間を過ごすよりも、なにか得のあることをしたい。……けどあいにく今日はなにも持ってきていない。
静かに布団から出て寒さを覚える。目は暗闇に慣れているから、そこらへんにあったはずの上着を探す、がない。なら机の上だろうと手を伸ばせばガサッとなにかの袋を鳴らしてしまう。その音に反応したのか下条のいびきもなくなる。
これ以上音を立てたら起こしてしまいそうだ。仕方がない。このまま出よう。
外に出て、静かで暗く、冷たい外に出ようと思った。けどその前にギルの父親の部屋をこっそり開けた。部屋から出されたギルが眠っているだろうと思ったから。けど結局そこには父親が寝ていた。ギルはいなかった。
なら母親の部屋にいるのだろうと思うが、さすがに女性の部屋を覗くわけにはいかない。あのギルの母親のことだ。ギルは抱かれながら寝ているんだろう。
「…………」
部屋に戻ってスマホと財布、家の鍵だけを持つ。そのときにも音を出してしまったが、すぐに部屋からも、家から出る。もう帰ろう。僕の家に。貰った菓子はあとできっと取りに来る。
静かに扉を開けて、冷たい空気に触れる。静かに灯る街灯を見ても温かいとは思わない。むしろ冷たさを増加させる。
そういえばここの鍵はどうやってかけよう。いつかに小説で見た密室トリックでの鍵をかける方法を試せばかけられるだろうが、他人の家でそれをしようとは思わない。
けど、そうそう泥棒なんて入らない。なぜなら相手は鍵がかかっているていで、窓を割ったりして入るのだから。それに、中にどんな奴がいるかもわからないのにたやすく盗みに入るわけもない。中にいるのがか弱い小鳥だけならまだしも。
今日に限って入ることもないだろうと、扉を閉めようとしたとき、
「蓮」
「っ!」
驚いて振り向くと、ケイがいた。
「……起こしたか」
「さあ。そんな寒そうな格好でどこ行くんだ?」
手に持っていた僕の上着を肩に掛けてくれる。
「……家に帰る」
「なんでまた」
「……独りがいい」
温かいものに触れたくない。そんな気がする。触れては、もっと苦しくなる。
「……俺いたら邪魔?」
「邪魔などではない。……ただ……」
言葉が続かなくて黙り込んでしまう。僕はなにをしたいのかわからない。ただ苦しい。だからこの苦しさをどうにかしたい。
「……じゃあさ、ちょっとだけ散歩しない? 夜にする散歩って、なんだか落ち着くんだ」
散歩?
わざわざ残り少ない体力を使って付き合おうとは思わなかった。でも、昼間にする散歩じゃない。夜の、静かな散歩だ。
「……少しだけ」
嬉しそうに柔らかく微笑む。
「なら行こ。家に帰るか帰らないかは散歩終わったときに決めたらいいさ」
気分が変わると断定しているような。ケイはなにが見えているのだか。
ケイに誘われて言われるがまま隣を歩く。夜のツンとした冷たさにときおり胸が締めつけられる。
ケイが向かう先はわからない。ケイも昔はこの近くに住んでいたからある程度の立地は把握しているのだろう。昔から住んでいる僕だが、多くは外に出なかった。ここがどこなのかもわからない。
ただ隣を歩くだけ。
ふとケイが止まる。信号だ。車も通っていないのに律儀に止まっている。僕も止まるが。
そのままなにかが通るわけでもなく青に変わる。ケイは歩みだし、僕は止まり続ける。
「……蓮?」
隣を歩いていないことに気づいたのか、歩道の途中で振り返って僕を見る。
「どうした?」
「…………」
ケイはきっと、ずっと歩み続ける。
「……あとどれくらいで着く」
「そうだな、あとちょっと。数分くらい。疲れた?」
三日月がいつの間にか雲に隠れて町はもう暗い。街灯がないところはいっそう暗い。
雨が降り出しそうな暗闇に抱き締められる。
「…………」
わからない。なんでもう、今日はケイといたくないのか。独りになりたいのか。
「……蓮はずっとどんな気持ちが心を覆ってる?」
青信号が点滅しては世界が赤色に染まる。
「……知るか」
「垣谷を家まで送ってからかな。それからずっと様子がヘンだ。ずっと表情が暗い。なにがあった?」
「……なにもない。ただ送って帰ってきただけ」
「その送ったあとなにがあった?」
送ったあと、正確に言えば家に着いたあと。母親、総務の母親と話した。ケイはそんなところまで見透かしているのか?
「……帰る」
来た道を戻ろうとケイを背にしたものの、足音が聞こえては肩を掴まれる。
「話して。蓮が今どんなこと思ってるのか。なにがそうしたのか」
学校の近くにある橋、ではない。橋長の長さはある程度あるものの川は流れない、そんな橋の下。
気づいたらここにいた。草が小さく伸びるそこに座り込んで虫の鳴き声を聞いていた。
「で、話せる?」
まだねだる。ケイもギルと似たようなところがあったりする。
「……なにもない」
「こんなところまで来てそれはなし。話して」
「…………そこまで言うなら話すが、ケイは知ってるだろ。……僕には看病してくれたり、飯を作ってくれたり、心配したと怒ってくれたり、抱きしめてくれたりする親がいないことを」
それだけ言えば僕が今作る表情のわけを理解したらしい。今度はケイが黙り込んでしまう。
「今日、総務の家に着いたあと、総務の母親と会った。話した。いろいろ。けど、最後には、あんな電話を寄越した母親さえ、自分の子供である総務を、目を腫らして眠る総務を抱いていた」
「…………」
「……ケイにはわからない。ギルも下条だって。抱きしめてくれる親がいない奴の気持ちは。朝に早くに起きて飯を作り、家に帰ってきたときに、『おかえり』なんて言ってくれる親がいない奴の気持ちなんて」
「……ごめん」
「……べつに同情を求めているわけではない。謝る必要もない。……ただそういう、大切だと思える『家族』がいるケイたちを、羨ましいと、憧れだと思ってしまう僕がいる。ただそれだけの話だ」
家族のいるケイにそんなことを言ったって、なにかが変わるわけでもないはずなのに。
立ち上がって、橋の下から出る。三日月はもう見えない。雲が空全体を覆っていた。ただ心臓を突きそうなほどツンとした冷たさと、耳を煽るような静けさに包まれた夜があるだけ。
「……今度こそ帰る」
「わ……わかんないだろ。帰るって言ったって」
「今は江戸時代だとでも思っているのか。スマホがあればいくらでも地図を見られる」
「……こんな夜中を蓮一人で帰らせたくない。こんな静かな町でも、物騒なことを企んでる奴なんてそこら中にいるんだからさ」
「ふっ。過保護な親みたいだな」
総務に例えてそんなことを笑って言ってみせた。なのにケイは妙に真剣な顔のまま変えない。
「……過保護で、親みたいで、なにが悪い」
「…………」
「……俺には蓮の言う憧れの存在がいるかもしれない。けど、それと関係ないだろ、俺が蓮の親みたいでいることは。俺は蓮の親くらいに蓮のことを心配してるし、もっとほんとは笑ってほしいって思ってる。もっと、もっとこういう話を持ちかけてほしいって思ってる。俺も、親でなくても蓮が心配なんだ。昔はいつでも死にそうな顔してた蓮が、今では少しマシになったとは言え、今でもちらつく。いつかほんとに死にそうで。
そんな大切で、いつでも死にそうな蓮をほうっておけるほうが意味わかんないだろ! ……って俺は思う」
ケイを親だとは思えない。ただの友人だ。
そう言ってしまいたかった。けど、そう口は動かない。代わりに目が潤う。
「…………もし本当にケイが親ならば、どれだけ幸せだっただろうな」
ギルの家に戻っていた。正確にはケイの隣を俯きながら歩いていた。気持ちは変わらないまま。けど、あのあとケイに「少しくらいは誰かを親に見立てて甘えてもいいんじゃない?」と言いくるめられて、ケイの隣を歩くことにした。
きっと今日だけだ。今日だけ、こんな気分になるのは。誰かを羨ましいと、ないものを羨ましいと思うのは。これ以上は迷惑はかけない。
けど、今日だけは……。
信号待ちのケイの袖を掴む。掴んでもなにも言ってこない。だからそのままでいた。
静かにギルの家に入って、ひとまず泥棒が入っていないことを確認してホッとする。部屋に促されるように入って下条の斜め向かいに体を落とした。もう今日は疲れた。
ケイは向かいの布団でガサゴソと言わせて僕を呼ぶ。僕は視界に入る程度にケイを見た。
「話してくれてありがと。おやすみ」
聞き慣れないその言葉に数秒の沈黙が生まれる。
「……あぁ」
「そこはそうじゃなくて、さ」
「……おや……すみ」
「そう」
優しく微笑む顔になんとなく体が温かくなって体を丸める。
「……俺そっちで寝ようかな」
またガサゴソと言わせて今度は背中側に移った。そしてそっと触れられて背中が温かくなる。
「こっち向いてくれたら抱けるけど」
「…………」
べつに、親でもない相手に。
腹まで伸びてくるケイの手を握って布団を被る。
「……そ。おやすみ」
「…………」
後日。
僕は昨日の疲労からか昼前まで寝てしまっていた。元気になったらしいギルは起こしてくれなかった。
「俺が勝手に連れ回しちゃったからね。疲れてるなら寝させたほうがいいかなって」
下条は予定があるからと帰ったらしい。
起きたときにケイの手はなくて、代わりに優しく耳に響かない声が聞こえる。
「おはよ」
「……おはよう」
まだ微かに昨日に散々覚えた感情は残っている。いつもなら寝ればすぐに消えるのに。
ケイは昨日のことを憶えていないのか、気にもしていないのか、午前中にあったことを話してくれた。ギルが元気な姿で起こしに来たこと。悪夢は見なかったこと。下条が「お前ら引っ付きすぎだろ」と言ったこと。昨日の微熱はきっと遊び疲れたんだろうとギルも父親も言っていたこと。
そして、
「お昼は寿司頼んだってー」
「……昼まで用意したのか。悪いな。起きたら帰るつもりだったんだが」
「いーのいーの。みんなで食べたほうがおいしいんだから。それよりれーくんお腹空いてない? まだ保つ?」
「構うな。休日なら日常茶飯事だ」
「休日でも日常茶飯事なのは駄目なんでアウトでーす」
休日に食べる朝食ほど無駄なものはない。
昼食後、総務から連絡が来た。どうやら兄のところへ住むことになったらしい。そう選択した理由には通学時間が短くなるということもあるみたいだ。総務のところは電車通学らしいからな。
その結果がチャットで送られてきたとき、ホッとする安心と、その選択をさせてよかったのだろうかという不安に駆られた。兄のところへ行くよう意見したのは僕だが、正直責任を取れるか否かの狭間だった。
もし兄のところでもうまくいかないようで、兄の住所などがバレたときはかくまうように僕の家に招こうと思っていた。だがそれは犯罪とでも言えてしまうかもしれない。本当にああ言ってよかったのかわからなかった。が、結果として母親が認めたんだ。よかったと思おう。
それに、最終的に選んだのは総務本人だ。総務は自分がしたいように自分で選んだんだ。
もしかしたら、いやもしかしなくとも、母親や兄、父親も混ぜて話をしたんだろうな。家族でこれからのことを話したんだろうな。僕なら、家族のいない僕なら独りで決めていたことを。
また襲ってきそうな感情をごまかすように背を伸ばす。
どう選択しても、正直、間違いか正解かわからない。いい結果になるのか否か、未来になるまでわからない。それが人生で、生きるということ。
「…………」
僕はこれからも一人で生きていく。
十一月上旬。
眠気に誘われながら、警部の運転する車に乗っていた。
目的地は町外れにある墓地。
あまり乗り気でないことを承知しているのか、ずっと口を開かずに済んでいる。
墓地に行って、両親の墓参りに行く。今日はそんな面倒なことをすることになった。
発端は突然警部から、今年は墓参りに行ったのかという連絡が来て、行っていないと素直に言えばなら行こうかと、こんなことになっている。
勝手に死んだ両親、しかもうち一人は全く知らない赤の他人だ。なんでそんな奴が眠ってる墓を掃除して花を添えないといけないんだ。
でもこうして出向いた。警部が連れて行ってくれる。警部と過ごせる。そんな誘惑に負けて。
山に入って気圧が下がったのか、少し耳に閉塞感がある。
酔い止めを飲んだはずなのに少し酔ってきた。横になって目を瞑る。早く着いてくれ。
「新藤、どうした」
「……なんでもないです」
「俺の車で吐かれるのは困るんだから、無理なら無理って言えよ」
「……吐きませんよ」
なにより警部の前で、感染症に侵された時以外吐いたことがない。
「それより、どうしてそんなに墓参りに行きたくないんだ? 去年にも言ったかもしれないが。両親の眠ってる墓に挨拶に行きたいとかは思わないのか?」
「……去年にも言ったかもしれませんが、面倒なので。それに警部に言ってもわかりませんよ」
「……そうか?」
結局中学二年からお世話になっている警部も、僕が過ごしてきた家での様子を知っているわけではない。僕の気持ちがわかるはずもない。
少しして着いた。車から出たときに吸った新鮮な空気が酔いかけの頭にはいい薬になった。
警部が掃除の道具を揃えてくれている。僕は先に墓の場所まで行って、草むしりを初めた。
夏場のように生い茂っているわけでもないが、それでも生き生きとしているやつはいる。
体の弱くなった祖父母たちは、ここまで来て草むしりや掃除ができる体じゃないだろうから、きっと去年ここへ来たときから誰も来ていない。強いているとすればいとことか、そこらへんに当たる人だろう。なにより両親に兄弟がいたのか知らないが。
草むしりをしていれば出てくる虫は出てくる。蜘蛛、あり、よくわからない虫。僕は昔から虫を得意としてるわけではない。貸し出しているスコップで土をすくっては覆い被せて土に返してやる。
ふ……と、一通り草むしりができて立ち上がる。そのときには警部も来ていて、一緒にむしっていた。
『――――家之墓』
墓石に刻まれる赤の他人の苗字。いまさら本当にここの墓で合ってるのかと思うほど見慣れない文字列。母親はここに一緒に眠っている。僕はそんな母親も嫌っている。こんなよくわからない男と一緒に寝てる、そんな母親が。
……もとから母親も嫌いだった。いつまでも父親と同じだ。いまさらどうとも思わない。
「……チッ」
……面倒臭い。だから大人は嫌いなんだ。
「新藤、綺麗にしてやれ」
雑巾とバケツを差し出す。警部はきっと素直な感情で僕に言った。けど僕はそれをぶっきらぼうに受け取った。
警部は草の入った袋を持ってどこかへ行く。きっと僕が水を掛けなくても気づかれない。なぜ濡れてないかと言われたら自然乾燥したと言えばいい。
でも、雨風に打たれ汚れた箇所を見ては水を掛けざるを得なかった。
桶で水を掛けては雑巾で拭く。石の模様で汚れているのかもわからない場所が何個もあって、それを鬱陶しく思う。
ある程度汚れを落とせたら顔を上げて背を伸ばす。そして見える見慣れない文字列。
「…………」
この名前を見るたびに、あの男の顔が浮かぶ。母親に引っ付いては僕からなにもかもを奪った男。
いら立ちを覚えていると自覚したときにはバケツに入った水がなくなっていて、目の前にある墓がびしょびしょだった。伴って土や周りの石もびしょびしょになっている。靴もそのうち染み込んできそうだった。
「……はぁ」
ひとまず避難して、上から水気を雑巾でぬぐってはバケツに絞った。
バケツに水を戻したら花を入れる花立も水道で洗い、水を貯める。こんなものだろうか。使った道具を軽く洗って位置に戻した。
警部が戻ってきたときには花束が抱えられていた。花立に差し込んだら、ぱっとそれらしくなる。出来のいい親族が丁寧に掃除して墓参りをしました、とでも言えそうな柄をしている。
警部が灯籠に火を付けて、貰った線香をその火でつける。煙臭いニオイをさせながら線香を立てる。
いまだにここまでする必要性を理解していないまま、警部から数珠を貰って、なんとなく手を合わせる。
安らかに眠っては、二度と目の前に現れるな。
人は簡単に死ねる。思い立ったときには死の淵にいることもある。思い立たなくとも、突然訪れることもある。先日の総務のこともそうだ。今日参った墓の主もそうであるように。
簡単に殺し殺せる心臓を、どう扱うか。
総務の母親はあの日に改心したのか、酷く執着することがなくなれば、兄と一緒に住むことを了承した。それがいい方向へ進むのかはわからない。
けど、簡単に殺せる自分の子供の心臓を、その選択にしてよかったのではないかと思っていてほしい。自分の子を大切にしようとする心を持っているのであれば。
空腹になりながら車で揺られて山を下りる。
警部の横顔を覗き見る。警部もいつかあの石の下に眠る日が訪れる。僕も同じくいつか訪れる。それは変えられぬこと。
「新藤、昼はなにがいい」
「……なんでもいいです」
こんな気分のまま食べてもあまりおいしく感じないだろう。
「……相変わらず機嫌悪そうだなぁ。じゃあ奮発して」
「嫌です」
「……まだなにも言ってないし、なんでもいいって言っただろ?」
「嫌です、焼肉やステーキは」
「しかも当たってるし。ならなにがいい」
「……焼肉やステーキ以外ならなんでもいいです」
焼肉やステーキなんてものは口に合わない。合っても味の他にも気に食わないことがあって拒む。
「なにがいい。焼肉、ステーキ、寿司、ラーメン、うどん、中華、スパゲッティ、ピザ……なにがいい」
「警部はなにが食べたいんですか」
「俺はなんでもいい」
お互い様じゃないか。
「なら……次に見かけた店にしましょう」
「それはいいな。ってことは……あれか? あれは……焼肉だな」
「無理です」
「次見つけた店にするって言ったのは新藤だろ? もう腹も空いたしここにする」
「駄目です。今日は出る予定もなくてあまり持ってないんです。なので違う店に」
「そんなことで拒んだのか? 相変わらずだ。もう駐車場にも入ったしここだここ。それに俺がいる日は俺が持つって言ってるだろ? どれだけ払いたがりなんだか。ほら降りるぞ」
焼肉なんて……なんでこんな気分の悪い日にこんなものを食べないといけないのだか。
席を通してもらってはメニュー表を貰う。でもただ流し見るだけで、隅々まで目を通さずに閉じた。
「決まったか? 好きなものを頼むんだぞ」
「……特にないです」
「相っ変わらずだなぁ。じゃあ俺が適当に選ぶからな?」
焼肉やステーキは火が通っただとか、どれが何肉だとか、どれを取っていいだとか、そんなことに気を使わないといけないから、あんまりというよりかなり嫌いだ。一人で行く分にはいろいろ好き勝手にできるからマシだが、そもそも一人で行くほど贅沢する気分にもなれない。高いし。
届いた肉を警部が焼いては、食べろとでも言うように僕の皿に載せる。それをなんとなく食べていたが、さっきから警部の箸が動いていない。ずっとトングと皿に移す箸を繰り返し持っている。
「……警部、そのトングと箸貸してください」
「なんで」
「いいから貸してください」
素直に貸してくれた。今度は僕がする。ずっと食べてばかりでいて腹も膨れた。
焼けた肉を警部の皿に置く。
「なんだ、どうしても食べたい肉があったのかと思えば、それのためにか。それは俺がするから新藤は食べろ」
「もうお腹いっぱいです」
「そんなわけあるか。まだ少ししか食べてないだろ。むしろこの量を俺だけで食べれないんだからな」
「知りませんよ勝手に頼んだんですから」
ときどき小腹が空いては食べていたが、トングと箸という主導権を握っている僕だ。ほとんどは警部にあげた。なにより、今度ばかりは払うのが警部になりそうだ。多くは食べられない。
ラストオーダーでデザートを注文する。メニュー表を初めて開いたときからずっと気になっていたものだ。警部の手助けで少し食べていたらいつの間にか腹が膨れていて、頼むのをためらっていたが、やっと腹が空いて頼んだ。
「警部はデザート、どうですか」
「要らない。新藤が食ってくれなかったから腹がいっぱいだ」
「知りませんよ」
「新藤、コーヒー入れてきてくれ」
苦しそうに腹を撫でる警部を見て立ち上がる。仕方がない。ついでだ。
ドリンクバーの前に立ってマグカップを二つ取り、一つずつコーヒーを入れる。入れ終えたら戻って、あとに入れたコーヒーを警部の前に出した。
「ありがとう。……新藤もブラックなのか?」
「ええ」
「ブラック飲めるんだなぁ。ずいぶん大人になって。もう酒も飲める舌になったんじゃないか?」
「舌がいけても法律が駄目です。それに、警察官が未成年に酒を勧めないでくださいよ」
「ははは。冗談だ。けど、大人になったとき、一緒に酒飲もうな」
大人になったとき。
「……まだ、子供扱いするんですか」
「俺にとってはまだまだ新藤は子供だ。出会った頃から変わんない。……新藤はいつまでも子供でいたらいいんだ。なにも知らない、なにもできない子供にな」
警部くらいは大人だと言ってくれると思っていたのに。
少しばかり熱いコーヒーに息を吹き掛けて口につける。
……苦い。
帰るまでに眠気に誘われて、横になりながら闘っていた。けど少し食べすぎた食後だ。横になるだけで気持ち悪い。
「……警部、袋ありませんか……」
「吐くのか」
「……いえ、一応」
信号で止まったとき、袋を貰う。
「気持ち悪いなら言えよ。止まるから」
「……はい」
貰った袋を口元に置きながら、それでも眠たくて目をつぶっていた。
次に目を開けたときはソファーの上にいた。時刻は四時。こんな時間まで寝てしまっていた。
けどそんなことよりも、警部はもう帰ったか? 慌てて体を起こせばいた。食卓に座ってドーナツをパクパク食べていた。まだいる。よかった……。
起き上がって、腹の消化された感じがしなくて腹をさすりながら警部の向かいに座る。
「起きたか」
「……起こしていただけたらよかったのに」
「気持ちよさそうに寝ていたからな。誰だってあんな顔して寝てる人を起こそうとは思わない。食うか?」
手に持つドーナツをこちらに向けて言う。あまりそういった洋菓子は好きではない。普段からあまり食べない。それでも、僕は警部の隣まで移動して、味の確認のために半分に分けてもらったドーナツを一口かぶりつく。
……同じ味だ。
昔はこれをおいしいと思った気がする。プレーンのほんのり甘みがあるドーナツを。まだ外の味を知らない、小さなとき。まだ両親が優しかった頃。
幼稚園の帰りに寄ったスーパーで菓子を買っていいと言われたものの、どんな味なのかもわからなかったから「要らない」と言ったら、なら近くにあるドーナツ屋でドーナツを買っていこうと言われた。
ドーナツ屋に入ってカラフルなドーナツをショーウィンドウ越しに見る。甘いニオイは店に入って感じていたが、どれがどんな味なのか想像もできなかった。
「どれ食べたい?」
そう聞く母親の問いには答えられず、
「……お母さんが好きな味」
家に帰っては本でも読もうかと思っていたら母親が僕をダイニングに呼んで、「ドーナツ食べよ」と。
その輪っかのお菓子を半分にして虹にしてくれた。
「これがお母さんが好きな味なんだよ」
そう教えてくれた。
それはおいしかった。無知の頃の舌はそれを甘くておいしいものだと感じた。同じ味なのに、母親に差し出しておいしいだなんて言ってかぶりつかせたことも憶えている。それでも母親は優しく嬉しそうに微笑んでありがとうと言った。
今になって気づく。
あれは幸せの味だった。
口内の水分を持っていかれて喉が渇く。一度警部にドーナツを預けて水を飲んだ。味も流れる。
水を飲んだあと、ドーナツを受け取って口にする。
まずい。
あの頃よりも甘さが薄れて生地もパサパサに思える。味がないように感じる。僕はあの頃よりもたくさんのことを知った。
「…………」
こんな菓子ごときにまずい味を思いださせられる。
僕は同じような環境らしい総務に同じ思いをしてほしくないと、そう思って首を突っ込んだ。過去の出来事を脳裏によぎらせては散々に痛い思いもした。けどその結果、いい方向には進んだと思う。まだ完璧にとまではいかずとも。
「……はっ」
よかったじゃないか。
手にある残りのドーナツも口に入れて水で流す。
「口に合ったならまだあるぞ。好きなだけ食え」
「…………要らない」
警部に頭を預けては、目の前を歪ませる。頬に流してしまう前に拭う。それでもまだ歪み続ける。
胸が痛い。苦しい。もう……ぐちゃぐちゃだ。警部も、気づいてくれない。
立ち上がってフラフラと階段へ向かう。
「新藤? どうした」
飯も用意してくれ、幾度と電話をかけてくれ、身の安全を心配してくれる。家族が好きだと言える、言ってくれる。
濡れた目元のまま、警部をチラと見る。
僕の親じゃない。家族じゃない。
どれだけ勉強を強いられようと、罵声を上げられようと、愛情表現が歪んでいても、それでも、
「…………」
それでも僕は、あんな家庭さえも羨ましくて憧れの存在なんだ。
「早咲きの蓮華は地面咲いた」の六(漢数字)作目、「憧れの存在」を投稿しました。
今作は家族をテーマとしたお話でした。蓮にとっては苦しいお話だったかと思います。
家族を大切にしようと思えるか思えないかはその過去の育てられ方に影響します。どうか、少しでも家族を大切にしたいと思える子供が増えてほしいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




