大切な本
これで満足か。
『早咲きの蓮華は地面に咲いた』
そっと花を撫でた。
「…………」
胸が熱くなるのを、ただ笑った。
僕はギルと……何歳だったか、幼稚園年中か年長の時に出会った。初めて会った時と今を比べたら全然違う。今はああだが、昔はああじゃなかった。昔はいつもなにかに怯えたような、そんな表情をしていた。
そんなギルと出会ってからはほんの少しだけ、僕の人生が動かされたのを自認している。直線でも数度違ったまま進めばズレは大きくなる。ギルは僕の人生を大きく変えた。
小学校に上がってからは、楽しそうに笑うギルの顔を見れることが増えた。が、それに伴っていじめも少し酷くなった。いじめっ子は、得た知識を使って人を傷つける、最低な奴らだ。
小学三年生には、また僕の人生を大きく動かした人と出会った。名前は……なんだったか。特徴的な髪色をしていたのは憶えているんだが。
そいつは僕の人生を数度と言わず、十数度と変えた。そんな奴だった。なのに、一年後に転校していった。そこから小学校を卒業するまではずっと、ほんの少しの悔しい気持ちがあった。
中学校に上がってからは特に変わったことはなかった。またいじめが少し酷くなるだけで……あぁ、そうだ。そうだった。中学二年生の半ばくらいに、大きく人生を変えた出来事があった。正直、ギルやあいつに出会ったことは人生になにかを与えたのか確信がなかった。いや、あるのかもしれないが、どう与えたのかと言われると答えられない。だが、この出来事はきっと僕の人生を大きく変えた。いや、きっとではなく本当に大きく変えた。
両親が事故死した。両親と言っても父親はべつだ。父親は小学六年生だったかに、母親と再婚したときの父親だ。その一年前に、僕を産んだ本当の両親が離婚した。その偽物の父親と本物の母親が事故で死んだんだ。
その事後は一人で生きていくことになった。当時は親の死よりも、これからどうしていけばいいのかという不安のほうが大きかった。けど、今までと大差変わりないと平然を装っていた。
そんななか、声をかけてくれたのが当時の事故の担当になった警部だった。その人は休暇の日に、僕の家まで顔を出してくれて僕の様子見をしてくれた。今でも信頼している。個人の携帯番号も知っている。
中学三年生の終わりには受験があって、少し苦しかった。あんなに苦しいと思ったことがなかった。けど、そのときも警部が横で支えてくれて、なんとか息をしていた。
そして無事に高校に進学できた。ギルと同じ高校に。付いてきたのはギルだ。僕は特にこれといった夢があるわけでもなく、近くだからという理由で徒歩圏内である普通科の高校に入学した。ギルは僕がここを目指すと言えば、息を吐くように同じところを目指すと言った。もう少し慎重に考えることを促したが、聞く耳を持たなかった。
そして――
四月上旬。高校二年生になって初めての登校。
一年最後の登校と同じく、僕、新藤蓮の隣には英川ギルがいる。
違うと言えば会話の内容だ。いつもは他愛のない話を聞いてときどき返している。だが、今回のギルの声はいつも以上に焦りを漏らし、いつも以上に声の張りがなかった。
「もしれーくんと違うクラスだったらどうしよ……。一緒じゃなきゃ俺死んじゃうよ」
「死なない」
「ねぇれーくんどうしよ!」
ギルだけに許可しているその呼び方にはもう慣れている。二年半前くらいからだろうか。初めは断ったが、なにがなんでも呼んでくる。だから仕方なく、だ。ギル以外には呼ばせていない。まあ、呼ばせる相手もいないが。
「同じでなくとも、いつでも会えるだろ」
「同じクラスで、休み時間を一緒に過ごすのが青春じゃん?」
「……知るか」
隣を歩くギルの容姿は、ぱっと見外国人だ。指通りの良さそうなそのつやのある、砂色を付けた髪。二重でぱっちりとだがタレ目な、綺麗なアイビーグリーンの瞳。日本では努力しなければあまり見ない、色白の肌。そして宗教かなにかで開けられ、着けたままのピアス。だが話す言語は日本語。
ギルは親がイギリス人と日本人のハーフだ。学校には承諾を得ている。が、これらが原因で過去にいじめられていたこともあった。
高校に入学してからは、そういったことを聞いていない。この高校は近くであるとともに、偏差値が平均的だ。と、言っても少しだけ高いほうなのだろう。偏差値がある程度高ければ、治安も良くなる。……そう勝手に思っている。もしかしたら影でこそこそ行われているのかもしれない。
ここを選んだのには近いというのもあるが、治安が良さそうなところでもあったからだ。ギルはどこでもいいから僕と同じところに行く、と決めたきり変えないので選抜先のことは僕の責任になる。進学先でいじめなんかが行われるところに通わせてしまえば、ギルがいつ死んでもおかしくない。他殺であれ自殺であれ。
門をくぐってすぐにある場所で、クラス替えの紙を貰った。教室案内を見て二年生の教室に向かう。今のうちに見ておこうと、歩きながらクラス替えの紙を見ようとすればギルに止められた。
「……なんだ」
「まだ見ないで! 二年生の教室がある階に着いてから」
「…………」
そういえば、入学したときもこんなこと言っていた気がするな。どれだけ僕と別なのが嫌なのだろうか。ただ、一緒である利点はギルに危険が潜んでいないかの見極め、潜んでいればすぐに助けにいけることだろう。ただ、ここ一年間でそういったトラブルはなかったから、いまさら注意しなければならないなんてことはないだろう。
例の二年生の教室がある階に着いた。廊下には階段からトイレを挟んで「2ーA」「2ーB」……と並んである。
邪魔にならないように壁に背を付ける。
「じゃ、じゃあ見るよ……?」
ギルは紙をゆっくり開いていく。横目でそれを覗いてみた。
A組には……どちらの名前もない。B組は……。最後まで見ないうちにギルに紙を閉じられた。なんだ、とばかりにギルの顔を見れば、喜びか悲しみかでギルの口はポカンと開かれていた。
「どう」
「やった……。やったよ! れーくんと同じクラスだよ!」
僕の言葉を遮って発せられた言葉は、どうやら喜びの言葉らしい。また一年間よろしく、ギル。
「何組だ」
「B組。クラス間違えなくて済むよ」
去年もB組だったからな。何組か知れたのでその教室に向かう。
教室には数人生徒がいた。静かに座って窓の外を眺めている奴。もう友だちが出来た、もしくはもとから友だちらしい奴らなどなど。誰も顔に憶えはない。
黒板にはでかでかと座席表が貼り出されている。もちろん出席番号順で並んでいる。左から一列目、前から五番目にギルの席が。左から四列目、前から三番目に僕の席がある。
「荷物置いてくるね」
ギルが離れていく。僕と一緒のクラスなのが相当嬉しいのかずっと笑顔でいる。笑顔でいるなら安心だ。安心ならば心配する必要もない。
僕は自分の机の横に鞄を掛け、席に座った。前にでかでかと貼り出されている座席表を、暇つぶしに見ていく。「安藤」……「植田」……「英川」……「香川」……「佐藤」……「田中」……ギルの顔……。ん?
焦点を合わせればギルがひょっこりと顔を覗かせていた。だが、その顔の表情はさっきとは違って、どこか悲しげな表情だった。
「どうした」
「……さっき俺の席の近くの人たちが……俺のこと……」
なるほど……。
ギルにとってはよくあってしまうことだ。このことに関してはどうフォローのしようもない。他人の気持ちを理解できない奴なんぞ、そこら中にいる。反論するにしてはキリがない。
ギルはきっと自身の容姿を嫌っている。だが、そんなに綺麗な髪色や瞳をしているというのに嫌ってほしくない。その色を大切にしてほしい。……こう僕が思っても、ギルの心を動かすことはできないんだろうな。
「気にするな。ギルはギルでしかない。他人がどう思おうがギルはギルのままでいいんだ」
「……そうだよね」
これはしばらく落ち込んだままだな。
「担任の先生誰かな?」
そうでもないらしい……。落ち込んでいないのならそれでいいか。
担任か。正直誰でもいい。一年のときの学年の先生でなければ誰かわからないし。
「ほら、もしかしたら誤解しちゃうようなお堅い先生かもしれないじゃん」
なるほど。だがそういうのはだいたい先生間で行き届いていると思うんだ、ギル。
チャイムが鳴って座る者と座らない者とで分かれる。ギルは前者だ。
「あ……じゃあまたあとでね」
「ああ」
数分後、大きな音を立てて扉が開かれた。……うるさかった。
入ってきたのは先生と思わしき人だ。険しい顔でいる。しかめっ面だ。今回の担任は「怖い」に分類される人なんだろう。
……ん? そう思っていたがいきなり頬が緩んだ。
「はい、座われよー」
初めての声を聞く。案外おっとりした声だ。先生の声で続々と座っていく。その様子を軽く見ていたが、見た感じ僕が知る生徒はいなかった。いや、忘れているのかもしれないが。
「今日は最後に始業式をすることになっていて、クラスの時間が」
始業式は授業がなくてすぐ帰れるから楽なんだが、ヘンなこと(主に重要のない校長たちの話)ばかりするから少し面倒でもあるんだよな。
「じゃあ自己紹介していくぞー。出席番号の一番始めからか、一番後ろからか、どっちがいい?」
自己紹介をするのか……。自己を他人に教える趣味なんて僕にはないんだが、必ずしないといけないのか?
先生の問いに周りは口々に声を出す。僕はどっちでもいい。どうせ順番が回ってくるのに、最初も最後もないだろ。
「んー、無難にじゃんけんで決めようか」
というわけで、「出席番号の一番最初」に当たる(座席表を見れば)青木と、「出席番号の一番最後」に当たる(座席表を見れば)安田がじゃんけんを始めた。
「最初はグー」
先生が代理をしてかけ声をする。
「じゃんけんぽん。……えーじゃあ青木が勝ったから」
勝者は青木らしい。出席番号一番から順に自己紹介をしていくことになった。
先生は黒板になにか書いていく。見れば紹介時に言うことらしい。箇条書きで「名前」「好きなもの」「嫌いなもの」「一言」とある。
順に紹介されていく。
「俺の名前は青木雄大だ! 好きなのは笑顔! 嫌いなのはもち勉強! よろしゅうたのむな!」
いきなり頭のネジがどこか外れていそうな奴が来たな。次の奴が紹介されていく。名前は……もう忘れた。
憶えない名前などを聞いていくうちにギルの番が来た。立ち上がって丁寧に椅子を入れる。
「えと……え、英川ギル……です」
僕と話しをしていた時と違い、自信がなさげで声が小さい。震えているようにも聞こえる。頑張れ。
「え……っと……」
続きの言葉がないと思っていれば目が合った。助けを求めているような目だ。だが、僕にはどうすることもできない。僕はそれほどのこともない、弱い奴なんだ。
ギルが言葉を発さないからか、小さな声で喋っていた奴も黙り込んで教室内が静まり返る。
「……っと」
聞こえないほどの声が発せられたあと、先生が口を開いた。
「ちょーっと難しいか。いいぞ、座れ。じゃあ次」
俯きながら椅子に座った。影ながら見えるギルの顔は今にでも泣きそうな顔だった。ときどき涙を拭うような素振りさえも見せる。よく頑張った。
「垣谷豊です。好きなことは音楽を聴くことです。嫌いなことは……特にないです。一年間よろしくお願いします」
ギルから数人進んだあとに、ふと耳に入った自己紹介だ。真面目そうな奴だ。眼鏡をかけて第一ボタンもきちんと閉めている。髪も綺麗に切り揃えられている。この高校は頭髪検査などといった厳しい校則はないが、それでも整った髪型をしている。きっとというより確実に真面目なんだろう。
再び、憶えもしない名前などを聞いて時を過ごす。……次の列に移る。この列は僕が座る列でもある。
そして数人後、僕の番が来た。
「つぎー」
立ち上がって一度ふぅっと息を吐いて、声を張った。
「新藤蓮です。……読書と面倒ではないことを好みます。面倒なことは好みません。……お願いします」
最後にこれっぽっちも思っていないことを言って席に座った。
どうせ聞いても忘れるんだこういうのは。シンプルで素っ気ないのがいいんだ。
「次」
席に座ったことで、いつの間にか速かった鼓動が落ち着きを見せていく。
そういえば、心臓がうるさくとも印象に残った奴がいたな。僕の席から一つ机を挟んだところにいた奴だ。
確か……。
「俺の名前は下に、条約の条に、真面目じゃないけど真って書いて、他っていう漢字の左の『イ』なくした漢字で下条真也だ! 好きなのはゲーム! 嫌いなのは勉強! 一年間よろしくな!」
「おぉ。元気のいい自己紹介だな。じゃあ次の人」
こういう感じだったな。
あいつの素があれなのか「キャラ」を作っているのかは定かではないが、あいつはあの脳天気のままが面白い気がする。
僕自身の紹介が終わってからは、緊張などは消え失せて、残りの自己紹介なんぞ聞いていなかった。……終わる前もこれっぽっちも聞いていなかったが。
そして、いつの間にか始まっていた先生の自己紹介も終わって、手紙が配られ始めた。始業式なこともあって配られる量は普段より過多だ。
普通なら親にほうって目すらも通さないものばかりだ。金の話のものや国の制度やらなんやら。これは家に帰ったら調べるためにパソコンと睨めっこをしなければならないかもしれない。疲れるからあまり好きじゃないんだが。
僕ら生徒宛に配られる手紙も、もちろんある。保健だより、生徒だより、PTAからのなにかの知らせ、アンケートなどなど。生徒だより以外はほとんど目を通していない。保健だよりに面白そうな情報があれば、ときどき目を通すことはあるが。
アンケート内容は春期休暇中にいじめやなにかトラブルがなかったか、というものだ。
僕は今までにこういったいじめなどのアンケートを真面目に回答したことがない。真面目に回答すれば、先生からの呼び出しを喰らって話をすることになるからな。それに、頼ったところ必ずしも解決するわけでもない。
……けど、あのとき僕のことを洗いざらい吐いてしまえば、今の僕はなかったのだろうと何度か思ったことはある。だが今はこの道で、僕のことを吐かなくてよかったのだろうと思う。
結局僕は何事も面倒なのはしたくない。
休憩時間に入った。休憩時間になればいつもギルが一分もしないうちに僕の傍に来るが、今回は来ない。チラッとギルのほうを見てみたら、俯いて暗い顔をしていた。さっきの自己紹介のことでなんだろう。
声をかけにいってやろうか。読書しがいのある時間だが、今はギルを優先する。読書なんていつでもできる。
取り出した本を鞄に入れる。一応自腹で買った本だ。取られるのは少しショックを受ける。
立ち上がってギルの席に向かおうとしたとき、目的の場所になにやら人が集まってきた。男子生徒数人。
ギルは確かに、僕ほど友人を作らないわけではないが、多いというわけではない。あいつらは友人かなにかなのだろうか。
「なあ、英川だったよな」
「――――」
ギルの声は小さくて聞こえない。いつもならもう少し、時にはうるさいくらいなのに。まるで別人だな。あの自己紹介で相当なダメージを負ったみたいだ。
「お前ってハーフ? じゃないと、そんな髪色とかピアスとか」
その話か。あいつらは友人などではないらしい。止めにいこう。
一歩踏み出したとき、今度は女子生徒が集まってきた。僕の周りに、数人。一歩身を引く。鼓動が速まってきた。
僕は過去のギルに対するいじめを傍で見てきて、同じくらいの歳の女の怖さを少しばかり実感している。だから、どの女子生徒もヘンな黒いオーラがはなたれている。本当に優しそうな奴ははなたれていないが。
「……なんだ」
「新藤さんって、去年何組だったの?」
なにも用がないのなら、
「今は駄弁るほど暇ではない。どいてくれないか」
そうは言ったものの、一人の女子生徒が一歩前へ近づいて、僕の足は机が当たる。逃げは許さないとでも言いたいのだろうか。
「ねぇ、教えて? 連絡先でもいいからー」
去年は何組だったのかと、連絡先を教える重さがだいぶ違うんだが? どちらも教える気はさらさらないが。
少しきつめに言おう。女であれ関係ない。
「どけ。今は駄弁るほど暇ではないと言ったはずだ。組も連絡先も教えるつもりはない。学校生活を送るなかでそれらは必要なことか」
「必要なことだよー。教えて?」
一歩近づいて手を握ってくる。気持ちの悪い奴だ。少し鳥肌を立たせながらも少し強く手を振り払った。両手を軽く上げる。
「本当に勘弁してくれ」
女子生徒の顔面の隙間からギルへと目を向けたら、今にでも泣きそうな顔をしていた。
「じゃあ、今日の放課後でいいから、校門前に」
「無理だ。失礼します」
手を上げながら女子生徒の間を抜ける。女というものは本当に強いものだ。男のほうが弱いまでもある。
窮屈だったところから抜ければ一息吐いて、ギルの席に近づく。
「どことのハーフ?」
「……い……」
震えた声だ。長く待たせてしまった。
「ぎ……行くぞ」
「……っと? 誰だっけ」
「名乗るつもりはない」
ギルの手を握って教室を出た。抵抗されることなく、ひとけのない廊下まで歩く。廊下に接する教室は、ほとんど使わないところばかりで、去年に行ったことがあるのか疑うくらいだ。
廊下の端まで行って、階段を折れる前のところでギルの足が止まった。僕も歩くのをやめて手を離す。
「……やっぱり……人って怖いね……」
今にでも泣き出しそうな声だ。
振り向こうとすれば、後ろから抱きつかれる。
「ちょっとだけ……」
「…………」
ギルだって一人の人間だ。感情ももちろんある。心がない奴からの言動で、人は簡単に死ぬことができる。あいつらはなにもわかっていない。
震えるギルの手を軽く握る。
休憩時間終了まであと数分。始業式からサボるつもりはなかったが、ギルがこうでは仕方がない。
「いくらでも待っている」
「…………」
そう言ったあと、一度強く抱きしめられたと思えば、背中から温もりが消える。ギルが背中から離れた。
「ううん。戻ろ」
「…………」
振り向けば、いつもの明るい表情のギルがいた。
「次は始業式だよね。めんどくさいなー」
「ギルでもそんなこと思うんだな」
「思うよ。だってする意味ないじゃん」
意味はあるだろうが。
「れーくん時計見せて。……あとちょっとでチャイム鳴っちゃうー早く行こ」
さっきまでのギルが嘘みたいだ。
少し駆け足気味で教室に入り込んで、少し息が荒れる。ギルはなんてこともないみたいだ。少し羨ましい。
「よし、間に合った」
満足げに腰に手を置く。そんなギルになにかが飛んできた。
「いたっ……」
転がるのはピンポン球だった。足下まで転がってきて拾い上げる。もしかして、見た目からまたいじめの対象にでもされたのか。飛んできたほうを見る。
「お、俺……」
ギルも同じことを思ったのか、僕の後ろにしがみ付いた。強く、がっしりと。
「ごめんごめん。そっちにピンポン球いっちゃって……当たってたよね、ごめんよ」
ギルを覗き込むようにして言う。意図したことじゃなければいいのだが。それに、どこから持ってきたんだこのピンポン球は。
「あ……自己紹介頑張ったな」
「…………」
しがみ付く力が強くなる。
べつにいじめようとは思っていないのか……? だが、こう言っておいてするやつなんていくらでもいる。
「二度と関わるな。それに、ピンポン球をこんなところで使うな。のちに没収されるぞ」
「……そういう系ね。マジでごめん。べつに英川をいじめようとかは思ってないから。オレ、いじめとか大っ嫌いだから」
そいつはピンポン球を寄こせとでも言うように、手のひらを見せる。少し気に食わなかったが、言葉が真であることを信じて渡した。
「当たっちゃってごめんな。じゃあ」
そいつはもと来たほうへ戻っていった。ギルからの力強いしがみ付きがなくなり、血流が流れる感覚を覚える。
あいつは「そういう系ね」とか言っていたが、どういうことだ。なんのことを言っているんだ。
「……あの人、中学と去年のクラス同じだった人。……憶えてる……?」
……あぁ、理解した。確かにそういう系だな。奴は僕のことを憶えていても、僕は奴のことを憶えていない。奴は僕が人を憶えないと知っていたのか、ああ呟いたのだろう。それに、ギルの自己紹介に対して褒める言葉、高校ではまだいじめに遭っていないのに、いじめのことが出てくるのは中学時代を知っている奴の発言だ。
あいつは信用していいのだろう。
「ほいほい座れよーチャイム鳴るぞー。あ、ほら鳴った」
先生が急に後ろに現れてギルが驚いていた。そして席に座ったあと、ピンポン球が没収されていた。……僕ではない。ピンポン球が先生に当たったんだ。
今日は昼前に下校することになっている。
僕は自分の椅子に座って、誰もいない静かな教室で、窓から見える外の風景を眺めていた。建物が並んでいる。空は綺麗な青にグラデーションがかっている。雲が少しずつ動いている。
僕は空というか自然が好きだ。理由はいろいろあるが、一つ、僕自身が移動しなくてもいろいろな景色を写しだしてくれる。
静かな教室だったなか、ある女子生徒たちの声が聞こえてきた。
「ねぇ、あれ新藤さんじゃない?」
「ほんとだ! 新藤さんってすごい大人なイメージあるんだよねー。一年のときもずっと静かでさ。女子の中で名前上がったよね」
「そうそう。付き合うなら誰ってやつでね」
男子がくだらないことをするのは確かだが、女子もくだらないことをするんだな。だからか、さっき気持ちの悪い奴に絡まれたのは。勘弁してくれ。
「私ちょっと狙ってたりー?」
「え! そうなの?」
「うそうそー」
「え、本当はどっちなの?」
「あっはは、教えなーい」
声は遠くなっていった。……僕、あいつに狙われているのか……? 顔は見てないが、あの声には気をつけよう。
再び静寂が訪れて、一つ溜息を吐いた。一人は落ち着く。誰にも気を遣うことなく、一人の自由な時間を楽しめる。現に今も、一人で静かに空を眺めて楽しんでいる。
空を見ていると足音が、この教室に入ったのがわかる。それは僕に近づいてくるようだ。
「だーれだ」
その足音の主であろう者に後ろから目を塞がれた。突然のことで「なにをしている」と言ってやりたかったが、今は教室に誰もいない。付き合うことにする。
「ギル」
「あはは。わかっちゃったかー」
「その声はギルしかいない」
「そんなこと言うけど俺以外の声憶えてないでしょ」
まあ。
ギルは前の席の椅子の背もたれに軽く乗って、僕が見ていたほうを見る。
「空綺麗だねー」
思っていなさそうに言う。それでも僕はそうだなと一言。
「れーくんってさ、いっつも暇なら本読むか空見るかしてるよね。本はまだわかるけど、空見てて飽きないの?」
「飽きないから見ているんだ。それに、空はいつも違う景色で飽きることなんてないだろ」
「えぇー? そう?」
空は風に吹かれて、のんびりと道なき道を進んでいく。僕はそういうマイペースなのが好きだ。せわしいのは好まない。時間が無限にあればいいのだが、世の中はそう簡単に作り込まれていない。
それにこの地球にある空は、一日を感じることができる。
毎日過ごしているなかでも、同じ日が来ないように同じ天気はない。昨日と今日が同じ晴れでも雲量が違う。それに雲の形も違う。毎日晴れが来ようと、雲の形が全く同じ日なんてない。そういう自然の造りに一日を感じられる。
なんて、ギルにこんなことを言っても伝わらないのはわかっているから、言わない。
「れーくんはさ……」
続きの言葉がない。
「なんだ」
「……その、お母さんとかお父さんがいなくなって困ることってないの?」
そういう話か。少し面倒臭そうな顔を作る。
そうだ。僕の両親は中学二年の半ばくらいに、交通事故で死んだ。正直、嬉しかったなんて言っていいのだろうか。だが、それくらい僕の人生を左右させてくれた出来事だった。
事故当時はさっきも言った通り、中学二年生というまだ人間としては未熟な歳に起きた。当時、どうすればいいのか、なにをするべきなのかなんてわからなかった。それにこれから先はどうすればいいのだろう。そんな事ばかり考えて、頭が弾けそうだった。体調を崩したか、崩しかけたか、そんなこともあった。けどそのとき、その事故を担当した警部がいろいろ教えてくれた。
そして一段落ついた頃にその警部が僕の家まで来てくれたんだ。「一人じゃいろいろ不安だろ」そう言って。
僕の歳を見てか、その警部がたまに取れる休暇の日に僕の家まで足を運んでくれて、一人で生きていくのに必要な知識や家事、ときどき警察関係の人しか知らないような知識や警部にわかる範囲での勉強も教えてくれた。
初めは何度か顔を合わせたくらいで、ただの「警察」としか見ていなく、赤の他人としか思っていなかった。だが、そうして顔を出してくれるようになって、その警部個人の連絡先も教えてくれ、僕の中で信頼できる人になっていた。
そんな警部も高校生になってからは、顔を出さなくなった。「立派な大人になったから、もう俺は必要ないな」と吐き捨てて。もう来なくなったとわかったときの僕は、不安で押し潰されそうだった。だが、今までやってきた通りにすれば一人でも生きていける。そう思えた。
つい最近に一度顔を出してくれ、数年前のことを懐かしんでいた。成長した僕の姿を見た警部は自分の子供のように喜んでくれ、僕も自然と笑えていた。
「え? 困ってるの?」
警部と会ったことを思い出して懐かしんでいたら、ギルの質問を忘れていた。一人になって困っているか、だったな。
「あの、いつかに言った警部のこと憶えているか。何度か顔も見たんじゃないか。その人のおかげで困っていることはない。今も難なく生活を送れているから、心配することもない。……というか、いまさらだな。その質問」
「えへへ、ちょっと気になっちゃって」
見慣れない位置にある教室の掛け時計に目をやった。
「そろそろ帰るか」
「うん。俺お腹空いてきちゃった。早く帰ろ」
校門を通ったとき、風が吹いてきて桜が少し降ってくる。それをギルは掴もうと控えめにはしゃぐ。昔にもこんな光景を見たことがあるな。なにも変わっていない。
幼稚な姿にかわいらしさを覚えていれば、強い風が服や髪を揺らした。乾かないようとっさに目を細める。が、
「ねえれーくん見て!」
その言葉に目を開けた。
「…………」
僕は誰にも気づかれないほどの感嘆の声を漏らしていた。目の前に雨が降った。桜の雨が。桜が舞い散っている。どこを見ても桜が踊っている。桜は僕らの周りで踊り狂っている。
どうもこういう手には目を奪われてしまう。
「桜の雨」
「そうだね……。すっごい綺麗……」
見取れていると、ギルが数歩踏み出して僕の前に立った。大きく手を広げて満面の笑みでいる。
「祝ってくれてるよ、桜が! 俺らが一緒に進学できたこと! 一緒のクラスになったこと! それと、これからもずっと、ずっと一緒に過ごすこと!」
最後に口元が笑っているのが見えた。釣られて、僕も微笑する。
さっきより強く吹いた風によって髪で目の前を隠される。今まで以上の強さの風が吹いてからは落ち着きを見せていった。いつの間にか瞑っていた目を開ける。
その一瞬、ギルの顔が悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。まばたきのあとに見えるギルの顔はいつも通りだ。
「……どうかしたの?」
ヘンな顔でもしていたのだろうか。僕に近づいたギルが言う。
「……なんでもない」
「そっか。じゃあ、帰ろ」
地面に落ちている花を踏んで、帰路についた。
「お願いー! 進学祝いだよ? 泊まらせてよー」
「泊まる意味がわからない。今日は無理だ。することがある」
「ないくせにー」
通学路にあるダークグレーをした橋を渡り始める。橋と言っても、幅の大きな川の上を通る少し長い橋だ。横には道路が走っていてガードレールが置かれている。
川を覗き込んでみれば、白い小さなものが一緒に流されている。きっとどこかで散った桜だろう。なぜか見取れてしまう。
「本当だ。買い物をしなければならない」
「じゃあ、俺も一緒に……」
突然ギルの声が消えた。気になって川から目を離して、隣にいるであろうギルに視線を移した。が、そこにギルの姿はなかった。少し後ろで呆然として立ち止まっていた。
仕方なく数歩後ろに戻ってギルの横に立った。ギルはどこか前方を見て動かない。
「どうした。忘れ物か」
「ううん。違う。ただ、あの人が気になって……」
ギルが小さく指差すほうを見てみた。指はこれから歩くほうへ伸びている。そこには確かに人間がいた。学ランを着、鞄を地面に置き、手すりに手を掛け、川を見下ろしている少年だ。ギルと同じくらいの身長だ。だが、体格的に年下だと直感で思った。中学生だろうか。
その少年の顔はどこか悲しそうで、さっき気のせいで見たギルの顔に似ている。
「知り合いか」
「ううん。知らない人。でもなんか……」
知らない人なのに、そこまで気になる理由を知りたい。
僕はギルを置いて歩き出した。
「あ、待って」
ギルが付いてくるとわかっていたからそうした。
その例の少年とすれ違う。
「…………」
少しだけ気になって少年を見るために、顔だけ振り向かせた。
目に映ったのはさっきと同じ光景、ではなかった。少年は、
「お、おい!」
橋の手すりに跨がっていた。隣からも驚きの声が聞こえる。
少年は僕らに気づいたようで驚き、バランスを崩す。そして道のないほうへ身を投げ出された。
「っ……!」
その少年はとっさに地面に指を掛け、僕は安堵の溜息を漏らす。
視界に飛び出してきたギルは、鞄と脱いだブレザーを近くにほうって少年の手首を掴んだ。僕はその鞄とブレザーを持って近づく。
少年が驚いたとき、地面に指を掛けていた。あれは、本当は生きたい証拠なんだろうな。
僕はただ、ギルが少年を救おうとする姿を見ていた。僕には僕なりの考えがあるんだ。それでもギルは失いたくなかったので、ギルの体に腕を回す。
「お願いします……! 手を離してください!」
「駄目だよ、力入れて……! わっ」
そしてギルも川へ投げ出されそうになる。
「いた……」
ギルが小さく呟く。無理もない。腕を引っ張られているなか、手すりに腹が食い込んでいるんだ。
「ねえれーくん……離れて、下がってて」
「な」
「いいから!」
言われた通りにギルから離れて、一歩下がった。なにをする気だ。
「れーくんこのあと、川の横の……右のところ来て」
「は? なん……っ、待て馬鹿っ!」
ギルを掴もうとする手は空を掴んだ。
ギルはなにかを言うこともなく、手すりを乗り出した。地球は自分より下に重たいものがあれば、より重力に引っ張られる。ギルは勢いよく重力に引っ張られた。そのあと、水に大きなものが落ちる音が聞こえた。
「…………」
全身の血の気が抜ける。急いでギルと僕の、ついでにあの少年の鞄も持って、言われた通り堤防に行った。どいつも馬鹿なことをする。
着けば、ギルたちはすでに地に着いていた。服も髪も全身を水で濡らして咳き込みながら座っていた。ギルには自分のブレザーを肩に被せ、少年には僕のを被せた。
「……ありがと」
下で会って、ギルに言ってやりたかったことを全部口に出す。
「川の深さもわからないのに、一度川に落ちるとか馬鹿か。危なすぎる。わざわざギルも落ちる必要なかっただろ。そいつだけ落とせばよかったじゃないか」
「それはそれで危ないし、酷くない? 俺れーくんと違って泳げるから大丈夫っておもっ」
「とにかく、もう二度と危ないことはするな。……風邪ひくんじゃないぞ」
「へ、へくちゅっ……あはは。大丈夫大丈夫。……もうしないようにするよ。心配させちゃってごめんね」
反省しているならいいか。本当に二度とこんなことさせるか。そもそも、こんな危ないことをすることになったのは、こいつのせいなんだがな。
少年はギルに背中をさすられて、泣くような素振りを見せる。水で濡れていて涙を流しているのかはわからない。
「れーくんは寒くない?」
「カーディガンを着てきていてよかった。それよりまずは自分の心配をしろ」
「えへへへ……」
僕の鞄になにか拭うものがないか探ったが、所詮始業式をしに来たんだ。持ってきているほうがどうかしている。
少年が泣き止む素振りを見せることはない。どうしてあんなことをしたのか問いただしたいんだが……。
「どうしてあんな危ないことしたの?」
そんなことを考えていれば、ギルが至って平穏に言った。優しい顔を貼り付けている。
ギルの問いに少年は答えない。それよりも泣くことで必死なようだ。こいつが泣き止まない限りにはなにもできないらしい。
……それなら一度家に連れて行ってしまおうか? それならじっくり話ができ……いや、果たして僕らがここまでする必要はあるのか? いやきっとないはずだ。互いに知らない相手だ。明日にでもブレザーを返してもらって、今日はそのまま帰ろう。
ギル、ほうっておくぞ。早く帰ってギルの体を暖めなければ。そう言おうとしたが、ギルに先を越された。
「れーくんの家に上がらせることって……できないかな?」
「…………」
ギルは家に帰っても親のいない僕の家に上げることはできないか、そう聞いてきたのだろう。ギルの家だと、なにがあったのかと問い詰められるだろうからな。
……仕方ない。
「どうしてあんなことをしたんだ。なにかわけがあったんだろ」
「…………」
「はぁ……」
部屋に上がらせたはいいが、ずっとこんな調子だ。と言っても、僕も同じ状況に置かれたら一言も喋れないだろうな。仕方ない……のだろう。
ギルは今風呂に入っている。先にこの少年を入れたが五分もしないうちに上がってきた。僕が用意した服を今は着てもらっている。が、少し大きかったようで袖や裾を少し折って着てもらっている。
服は、今ギルのと一緒にベランダに干している。全身濡れていて、そんなすぐに乾くはずがない。晴れていて助かった。
机を挟んで少年を向かいに、あぐらを掻いて座っているのだが、
「…………」
「…………」
どうも気まずい。
いくら問うても答える気はなさそうだ。早く上がってきてくれギル……。僕だけではこいつの口を開けさせることはできない。
「お待たせー。湯船使わせてもらったんだけど、よかったの?」
ようやく上がってきたかギル。扉を開けて入ってきた。同じく僕の服を着てもらっている。が、同じく大きかったらしい。ズボンの裾は折っているが、袖は折っていなかった。
「急いで入れたんだが、冷たくなかったか」
「うん。大丈夫だったよ。着替えもありがとね」
もしかして、少年が早く上がってきたのは、湯が炊けていなかったからか……?
「れーくんお水欲しいなー」
「……取ってくる」
ギルと入れ違いに場所を代わって一階に下りた。コップを人数分取り出し、常温で置いてあるペットボトルに入った水を入れる。それを両手で器用に持ち、二階に上がった。
部屋の前に来て気づいた。扉が開けられない。部屋で水を入れるべきだった。
仕方がないのでギルを呼ぼうと口を開けたとき、ギルの話し声が聞こえた。
「つらいことがあったんだよね? 誰かに相談できなかったんだよね? ……じゃあ、もしよければなんだけど、俺たちに言ってくれたら力になれるかもしれないんだけど……どうかな?」
「――――」
小さくて少年の声は聞こえない。けど、今にでも泣きそうな声だった。喋れたんだな。……さすがに小馬鹿にしすぎか。
「あ、トイレ? トイレは一階だよ。案内するね。って言ってもここれーくんの家なんだけどね。あはは」
足音が近づいてくる。とっさに隠れようかと思ったが、こんな両手の塞がっているときに隠れられる場所なんぞないとすぐに思い起こし、一歩下がるだけにした。
「いいよいいよ。俺もこの家の主みたいなところあるし」
誰がこの家の主だ。
扉が開かれる。
「わっ! ……びっくりした。……ずっと待ってたの?」
「い、今来たところだ。ほら、手が塞がっていて。ちょうどギルを呼ぼうとしたときに、扉が開かれたんだ」
「そうだったんだ。この子にトイレ貸すね」
「ああ」
ギルとナツキを通してから部屋に入った。机にコップを置いてから最寄りの椅子、勉強机の椅子に座った。
部屋には僕とギルの鞄以外に、隅のほうに見慣れない肩掛け鞄とその横に一眼レフカメラが置かれていた。どちらも新品のものには感じないが、綺麗に使われているのだろうと想像が付く。
ギルが帰ってくるまで本でも読もうかと立ち上がったが、そのとき扉が開かれたので座った。帰ってきたのはギルだ。
「トイレに行かせてきたよ。えっとね、名前はナツキくん。今は中学三年生だって。……飛び降りようとしたのはまだ聞けてない。それでね、もしれーくんがいて言いづらそうなら……」
「出ていく」
「ごめんね」
申し訳なさそうに手をあわせた。僕からはそんなオーラを出しているらしい。構わない。
そんなことよりも、名前とおおよその年齢を聞き出せるとはなかなかだな。さすが優しさオーラが湧き出しているギルだ。僕もこのオーラに負けたのだったか。……いや、違うかった気がする。記憶がもう消えそうだ。
「でさ、今日ナツキくんが家に帰ったら、俺はれーくんの家に泊まっていい……?」
まだその話をするか。
「ギルも帰れ」
「あはは。駄目だったかぁ」
「駄目だ」
沈黙が流れていくなか、扉が静かに開いた。僕はその音に気づき、
「…………」
そしてその隙間から覗かれる目とあった。
「あっ……」
微かに聞こえたその声のあと、ギルも気づいたようでそちらに目をやる。ギルの顔面にはきっと、優しく微笑む顔が貼り付けられている。
「怖がらなくても大丈夫だよ。おいで」
隙間が大きくなっていく。ギルはナツキを迎えるためか、扉の前に立った。そこまで世話を焼く必要があるのだろうか。
「大丈夫大丈夫。ここには俺とれーくんしかいないから安心して」
ナツキを連れ出したギルは机の前へと座らせる。ギルはその向かいにあぐらを掻いた。
「水、れーくんが用意してくれたんだ。自由に飲んでいい……んだよね?」
顔をこちらに向けて聞いてくる。なんで不安になるんだ。
「そのための水だ。好きなだけ飲め」
そう言ったあと、斜め下を向くナツキの肩が少し上がった。僕を確実に怖がっている。席を外したほうがよさそうな気がしてきた。
ギルが数口水を飲んでから口を開ける。
「えっと、本題に入るんだけど、いいかな?」
ナツキへの確認だと思っていたのだが、こちらにも目線が送られてきた。僕は顔を上げて合図する。僕は合意したが、ナツキの返事はない。僕がナツキの立場なら、きっと僕も簡単に頷きはしなかっただろうな。
「ギル、無理にまで話させることではない。口を割らないのなら」
「でも……ナツキくんが言うって……」
「気分が変わったのだろう」
「……そうだとしても……」
空気を良くしようとしたのか、ギルの腹から空腹だと唸る声が聞こえた。
「あはははは……」
そういえば昼食がまだだったな。もう諦めて帰らせるか、気分転換になにか食べるか。ギルに問えば笑顔で即答。昼食を食べようと回答した。
「なら適当に作ってくる。二人とも、親に連絡するならしておけよ。……あと、ナツキと言ったな。アレルギーや嫌いな食べ物などはあるか」
体をビクリと動かして、僕のほうに顔を向けて目が合ったかと思うと、すぐもとの位置に戻す。そして小さく首を横に振った。
なにを作ろうか。
よし。
食事を盛り付けた皿を机に置いていく。フォークも一緒に並べる。しばらくギルが泊まりに来ていなかったから、こうして家で誰かと食べるというのは久しぶりだ。フォークを綺麗に並べるなんてことも久しぶりだな……。
「…………」
階段を上がってギルたちの耳を近づけ、昼食が出来たと呼んだ。呼べば応答のあと、「えへへー。れーくんが作るご飯おいしいんだよねー」という声が扉越しに聞こえた。
僕は先に一階に下りて、端の椅子に座った。すぐにギルが階段から顔を出し、続けてナツキの顔も出す。ナツキの手首には、当然のようにギルの手があった。
ギルが僕の向かいに座れば、ナツキはその隣に座った。
「ナポリタンだ! おいしそー! さすがれーくんだね!」
「いつもと大して変わらないだろ。冷めないうちに食べようか」
「うん。えっと、いただきまーす! なんかれーくんと家で食べるの久しぶりだね」
「そうだな」
いただきます。
それぞれフォークを握って食べ始める。
ギルは相変わらずおいしそうに食べてくれているが、ギルの隣にいるナツキはフォークすら握らず、俯き続けている。無理もない。
「……毒なんか入ってない」
「…………」
僕がそう言えば、ギルも気づいたようで手を止める。
「食べないの? すっごくおいしいよ!」
「…………」
「実は嫌いな食べ物がありました、なんて言わないんだろ。食べないならギルが食べるぞ」
「そこ俺なの!」
ショートコントを披露してもナツキはくすりとも笑わない。やはり家に上げる必要のなかった奴だったのかもしれない。互いに知らない相手だ。勝手に死のうとしたんだ。止める必要なんてなかったはずだ。
呆れて、僕は手を動かし始める。それを見たのか、ギルも手を動かし始めた。かと思うと、フォークに巻き付けたパスタを自分の口まで運ばず、隣にいる人間の口まで運んだ。
「おいしいよ? ほらあーん」
ギルお得意の「他人に食べさせる」だ。幾度もされたことがある。僕が体調崩してギルが粥を作ってくれた時。体調関係なく、学校で弁当を食べている時。どこでも誰の前でも食べさせてくる。
ナツキは少し抵抗気味ではあったが、口を小さく開けた。ギルは開いた口に向けてパスタを巻き付けたフォークを突っ込んだ。
今までこんな絵面だったのかと思うと少し恥ずかしくなってくる。目線を下ろして続きを食べ始めた。同時に今度から食べさせようとしてきたときは確実に断ることを決めた。
「どう? おいしいでしょ?」
べつに美味であるという感想を期待していたわけではないが、ギル以外の口にも合うのか少し気になってナツキの顔を覗き込んでみた。
「…………」
どうやら、不味そうな顔はしていないみたいだ。そうとわかれば圧をかけないよう(かけているつもりはないが)、再びパスタに目を戻した。
「毒なんか入ってないから安心して食べていいよ!」
「…………」
そう言うギルの言葉がナツキに届いたのか、ゆっくりと食べ始めた。少なくとも、口に入れられないほどまずいというわけではなさそうで、安心する。
ナツキの表情も和らいできている気がする。緊張が解け始めているならいいんだが。
「あの……おいしかった……です」
食べ終わったあと、部屋に戻る素振りを見せないので、使った食器類を洗っていた。そんななか、カウンター越しにナツキからのパスタの感想を貰う。
「そうか」
ナツキに一瞬目を向ける。が、ナツキではなくすぐ隣に座っていたギルと目が合った。そして、
「…………」
両の人差し指を立てて指先は口元を指し、満面の笑顔を作った。なにをしているんだ。
僕の顔が明らかにわかっていない表情をしていたらしく、ギルがわかりやすくムッとした顔をする。……ああ。さっきのは笑えと言っていたのか。今理解した。
「口に合ったようでよかった」
そして微笑む。
これで満足か、ギル。目を向けてみれば、これまたお手本になるような満面の笑顔だった。自然とギルのその笑顔に口が緩んだ。
食器を洗い終えたあと、部屋に行くようでギルたちは先に階段を上がっていった。僕はそういえばと思い出した菓子を取り出す。
半年くらい収納扉で眠っていたせんべいを、個装のまま木製の器に並べて、それを持って部屋に上がった。賞味期限は切れていないから大丈夫だ。
「あ、れーくんベストタイミング。ちょうどナツキくんがお話しするところ」
今度のナツキは、硬い床にではなくベッドに腰掛けていた。隣にギルもいる。ナツキの肩は相変わらず上がっている。だが、会った時よりは下がっているみたいだ。
話をするならせんべいは要らなかったかもしれない、と思いながらも机に置いた。それを見たギルが「それせんべい? 食べる!」と言ってベッドから机まで移動してきた。持ってきてもよかったようだ。
「ナツキくんもほら」
ギルはせんべいを一つ手に取り、ベッドに腰掛け続けるナツキに差し出した。
「いえ……。パスタもいただいたので……」
「れーくんにそんな遠慮はいらないよ! 出されたものは遠慮せずに、ね!」
「…………」
そうギルが言えば、尻をベッドから滑り落として床にしゃがみ、ギルの隣に付く。どうやら、ギルはナツキの取扱説明書を手に入れたらしい。もちろん僕はなにひとつわかっていない。
ギルが渡したせんべいを手に取って袋を開ける。ニオイを嗅いで、一口パリッといい音を立てた。ギルも隣で音を立てる。
「あの……おいしいです……」
べつに、
「べつに、僕が作ったわけではな」
「れーくん?」
ギルのほうへ顔を向ければ、にっと笑っていた。要するに黙っておけと言いたいんだろう。心中で溜息を吐いた。
僕が三つ目のせんべいに手を付けようとしたとき、ナツキは口を開いた。
「僕……が」
僕はせんべいに向けて伸ばした手を静かに引っ込めた。
「なんであんなことをしたのか……お話しします……」
ギルも持っていたせんべいを急いで頬張って、話を聞くような態度を作った。
「僕、今中学三年生なんです。それで高校に進学したいと思ってて、その行き先はお母さんが決め始めていたり……去年には友だちに裏切られました。いつからかずっと両親が僕を袖にして……」
ナツキ自身もあまり整理できてないのかもしれないな。話がごちゃごちゃになりかねない。
「まず一つずつ話していこうか。家庭についてだ。二つくらいあったな。進路と……」
「は、はい。すいません。僕自身も……わけがわからなくなってきていて……」
よくある。
「……中学二年の半ばくらいからお母さんが、僕の進路について口うるさく言ってくるんです。僕が行きたいと思っていないところを行かせようとしていて……。いつもは……会話すらまともにしないほど、僕のことを袖にしているのに……。勧めてくる場所が頭がいいところ、日本で上位百位以下に入るところで、塾とか通ってない僕の頭では無理に決まってるのに、今からでも勉強しろって……頑張っているつもりではあるんですけど……。
それで……僕の両親は馬鹿な僕なんかよりも兄が大切みたいで、僕のことを……見てくれなくて……それが少し……」
ナツキは息をしづらそうな表情をする。同時に、心臓あたりの服を強く握った。
「大丈夫……? ちょっと休憩しよ? ゆっくりでいいから」
「すいません……」
ギルが手を付けていない水の入ったコップを取ってナツキに渡した。ナツキはそれを飲んでいく。
つまりナツキの家庭では、両親はナツキのことを普段から見ていないのに進路のことになると口うるさく言ってくる。そして、普段の両親の目は兄弟である兄にいっているというわけだな。
普段から自分のことを見向きもしないというのには、少しばかり同情できるな……。勉強をしろというのも少し似ている。ほとんどの親はこういうものなのか?
「すいません……」
「家庭の事情はそんなところか」
「はい……」
「他には。人間関係やら言っていただろ」
「はい……。僕、去年の夏休みに……す、好きな子に告白したんです」
「わぁ! いいね」
今まで黙っていたギルが口を開けた。告白なんて、青春を味わっているな。中学二年の夏頃なんて、ちょうど親が死んだときでもあったから大変だった。
「……それで、フラれちゃったんです。僕自身はそんなこともあるだろうって、平気なつもりでいたんですけど……なんだか、自信なくしてしまったみたいで……。そんななか、夏休み中に僕が告白したっていうことが、クラスの人とか好きな人の友だちとかに広まったらしくて、夏休み明けに仲良くしていた友だちからからかわれて……」
「…………」
「それがどんどんエスカレートしていって……もういじめ……みたいになって……」
ナツキの目からは涙があふれていた。さすがのギルもその言葉には対応しきれないらしく、悲しそうな表情のまま俯いている。
僕も過去にギルに対するいじめを傍で見てきた。少しくらいの同情はできる。
「もう……いっぱいいっぱいなんです……。それでもう……いいかなって思ってしまって……」
それを言うとナツキは、涙を必死に拭い始める。ギルは傍で泣きそうになりながらも、ナツキの背中をさすっていた。
この空気に追い打ちをかけるようになるかもしれない。声を出す前に一瞬思った。
「散々な目に遭ったな。ここまでよく頑張った。……これは僕が思ったことだから聞き流してくれていいんだが……」
僕自身も言ってしまっていいのか迷いがあり、ヘンな間を作ってしまう。疑問に思ったのか、ギルが顔を上げた。
一息ついて、口を開ける。
「……一度だけの自分の人生なんだ。自分を見捨てるような親と縁を切りたければ切ればいい。住む場所がないなら僕の家を貸してやる。自分の恥をからかうような奴は、もう友人なんて言葉を使うな。
結局はその……自分の人生なんだから生きたいように生きたらいい。死にたければこのあと、あの川や家で首を吊って死んだらいい。……自分の人生なんだから、もっと自由に生きろ」
「れ……」
聞いたギルが唖然とする。
だが、なにを思ってか苦し紛れに微笑んだ。
僕が思ったことを言ったあと、ナツキはさらに泣き出してしまい、ギルから「一旦出ていって」と言われて部屋から追い出された。
ヘンなことを言ったつもりはないんだがな。食卓椅子に座って、淹れたコーヒーを飲みながら思う。
まあ、暗くなる前までならいくらでも泣けばいい。
僕は一つあくびをした。
ナツキが泣き止んで、ギルとナツキが部屋でなにか話をし終えた頃には、カーテンから漏れる光は薄黄色になっていた。気づかない間にこんなに経っていたらしい。本を読んでいて気づかなかった。
返すものを返して、逆に返してもらうものは返してもらい、ギルと一緒にナツキの家の途中まで送った。ギルが最後まで送ろうとしていたが、ナツキがここまでといいと言って聞かないので、そこまでにして引き返した。
そのあと、ギルが僕のあの言葉に対して「信じられない」などと僕の耳に聞こえるところで言われ、少し悲しくなっていた。ずっと自分の中で守ってきていた考えなんだが。
外が暗くなるのを見て見ぬフリをしていれば、ギルが「今日もう遅いから泊まる」などと言うのが耳に聞こえたので、ギルを家まで送った。ギルの鞄を持ってきておいてよかった。
別れ際に、ギルから「騙せると思ったのに」などと呟いていたのは聞こえた。
「…………」
それは聞いてぬフリをした。
翌日、また同じ道を通って学校から帰っていた。
始業式の翌日だからといって、遊びやなにかをするでなく、普通に授業をする科目がほとんどだった。それに対してギルの愚痴を聞いていたところだ。
「やっぱり普通、始業式の次の日は先生の自己紹介とかして丸一時間潰すやつでしょー? なんで普通に授業するの?」
そういう、普通に授業をした次の休憩時間と同じことを言っている。
僕も同じことを言うが、
「ほとんどの教科の先生は、一年のときと同じ先生でするみたいだからな。知っているのにわざわざ自己紹介なんてしないだろうからな。当たり前だ」
「だとしてもー!」
そのまた翌日も、変わらず下校していた。あの始業式にあった少年に再び会っていない。あの日以来会っていない。
ギルもあの日のことをもう忘れたのか、その事があった次の日に少し話題に出すなり、もうその事については聞いていない。
入学式から数日後。
僕はうるさく鳴るスマホのアラームに起こされた。眠たくて重たい頭を上げてアラームを止める。まだもう少し寝たい気持ちで、枕に顔を埋めた。
「…………」
起きよう。
一度背伸びをしてから部屋を出て階段を下りた。洗面所に向かって自分の顔と目を合わせる。
「…………」
大が付くほど自分の顔は嫌いだ。すぐに目を逸らした。僕自身が嫌いであれば、僕の顔も嫌いだ。見たくない。
手身近にあった未使用のタオルを一枚手に取って、髪を軽く掻き上げる。蛇口から出る水を掬って顔に掛ける。
スッキリしたらタオルで顔を拭いて一息吐く。水に触れるのは少しばかり怖い。顔に触れるのはもっと怖い。息の仕方を忘れてしまう。
台所まで行き、予約をしていて炊き終わっている白米を茶碗につぎ、箸を用意する。
「…………」
弁当に入れるためにも、冷蔵庫から卵を三つ取り出して専用のフライパンに解いたものを、三分の一ほど流し込む。少ししたら折り返して再び卵を流し込んでいく。今は卵焼きを作っている。
卵焼きは、弁当に詰めるたびにギルにつまみ食いをされる。時にトイレに立ったときに食われ、時に弁当を開けて間もなくして食われる。そして食うたびにおいしいと感想が返ってくる。そう言われたら嬉しくなるものだ。だから食われることに怒りなどは感じていない。
進級する直近、つまり三月はまだ寒く、夏と違って陽が昇るのが遅くなり、それに伴って起きるのも遅くなる(アラームで起きているが、眠たく感じて二度寝してしまう)。起きる時間が遅くなれば準備する時間がなくなり、卵焼きを作る時間もなくなる。だからずっと卵焼きを作っていなかった。
そして春休み明けのなまった体に、朝早くに起きて卵焼きを作る時間を作れと言えず、今日が二年生になって初めて作る。ギルは喜ぶだろうか。
食卓に並べたら、いただきます。
冬は体を暖めるためにコンポタージュなどを飲んだりするが、最近は暖くなってきて飲んでいない。眠気覚ましにコーヒーを淹れることはあるが。
食べ終われば、シンクに使った食器類を流水で少し流す。トイレに行ってから部屋に上った。少しの間しかいないがカーテンを開けて陽の光を浴びる。
「ふぅ……」
今日は気分もいい。清々しい朝だ。
部屋着から学校の制服に着替える。部屋着に暖を持っていかれて少し寒くなる。が、すぐに暖かくなってくれた。
鞄を持って一階に下りる。ああ、スマホを忘れた。鞄をソファーにほうって部屋に取りに行った。べつに学校に行くだけだから必要ないんだが、念のためだ。
食器棚からコップを取り出して、常温で置いていたペットボトルの水を入れて飲んでいく。
朝、なにか飲み物を飲まずに行けば、水筒などを持っていかないものだから日中に倒れかける。一度それをギルの前で見せてしまって、ものすごく心配させてしまったことがあった。
それ以来、毎朝水分補給をしてから学校に来るように、夏には必ず水筒を持ってくるようにとギルから言われた。が、言われた翌年以降、水筒は持って行っていない。なぜなら最悪、水分を欲することがあってもこの学校には購買がある。そのときは使わせてもらう。
もうそろそろ時間だ。今日は生ゴミの日だったな。臭いが、外に置いてあるゴミ箱から袋を取り出して口を縛る。うまく縛れないでいるとインターホンが鳴った。少し待ってくれ…………よし。
そのゴミと鞄を持ち、玄関でローファーを履いて外に出る。
「あ、おはよー」
「おはよう」
外に出ればギルが立っていた、手にしていた鍵をポケットに入れながら。きっと僕が外に出るのが遅く、寝坊しているとでも思って家に入ろうとしていたのだろう。
ギルには僕の家の合鍵を渡している。高校一年の初夏頃に、ギルからの要求でだ。これには僕もすぐに承諾した。他にこの家を出入りする者はいないし、ギルが入りたいときに入れば、僕もいちいちギルのインターホンに応答しなくてよくなるからな。
それに当時のギルが言っていたように、僕がなにか風邪など引いたときに、重い体で玄関の鍵を開けにいく必要がなくなる。インフルエンザなどにかかったときは歩くだけでも頭痛や高熱でフラフラして本当にしんどかった。鍵を渡して正解だったと思う。
扉に鍵をしてゴミを所定の場所に置く。
「行こうか」
「うん」
新しい一日の始まりだ。……嫌だ。
住宅街を少し歩いて大通りに出る。小さな製菓会社の横を通れば甘い、いいニオイがしてくる。
「今日のもすごいおいしそうだね」
「ああ」
ここを通るたびにいつも違うニオイがする。今日のように甘いニオイがするときもあれば、ほとんどニオイがしないときもある。いつも通って、どんな菓子を作っているのか気になりはするし、実際になにか売っているらしいが、一度も入ったことがない。会社と書かれてあれば少し入るのに躊躇ってしまう。
僕らはいつも早いうちに学校に着く。予鈴の二十分前には着いている。べつに意味はないのだが、早くに着いたこの時間が好きだ。静かで本が読みやすいからな。
だが読み始めたものの、容赦なく話しかけてくるのがギルだ。初めのうちは「ああ」と適当に相づちを打っているが、次第にギルの色白の手などの邪魔が入って、仕方なく今、本を閉じた。
「そうか」
「うん。ほんとに面白かったんだー」
「それはそうと、今日提出の数学の課題は終わったのか。難しいと苦労しているみたいだったが」
「……あ! ほんとだ! 結局難しくて寝落ちて……お父さんに起こしてもらってベッドに寝転び直して……えへへ、れーくん写させて?」
「……自分で鞄から抜き取れ」
「あはは。はーい」
こういうとき、学校に早く来ていてよかったと思える。
ギルが写し始めたことで静かに本が読めるようになった。が、読んでいれば器用に話しかけてくる。ギルは僕に読ませる気はないみたいだ。
「れーくんってさ、めんどくさがりなのに宿題ちゃんとしてくるよねー。授業もちゃーんと受けてさー」
「面倒だからやらないと、やるべきことをやらないは違う。課題や授業はやるべきことに入る。まあ、眠たかったり、理解しているところは聞き流して窓の外を眺めたりするがな」
「れーくんは俺より真面目なくせして、体調はよく崩すからね」
関係ないだろ。それに僕はべつに真面目なんかではない。
「逆に俺は真面目じゃなければ、勉強もできないからその分体調崩さないからね」
「そうは言うがこの前……ではないか。去年の十一月の初めに風邪引いてたじゃないか」
「あれは違うよ。俺寒くなってきた初めの頃は弱いの、知ってるでしょ?」
少しムッととした顔になる。そういえばそうだったような。ギルが風邪を引くのは珍しいとは思っていたが。
「一回さ、クリスマスの日に寝込んじゃって、れーくんと遊べなかった日あったじゃん。あの日ほんとに悔しかったんだからね」
「そんなにか」
「うん。だって……いつこの日常がなくなるかわかんないから、れーくんとの一日一日を大切にしたいの。……昔に大きな、何千人って人が亡くなった地震があったでしょ? ……あれの映像見てからそう思い始めて……」
「…………」
過去の僕に聞かせてやりたい。
次の時間は化学だ。そして実験をするそうなので、教室を移動しなければならない。
「ここですればいいのに……」
「あはは、できないから理科室でやるんでしょ? ほら、行くよー」
明らかに面倒臭そうな顔をして理科室に向かった。確か第三理科室だったな。第三理科室は特別棟の……何階だったか。去年は一ヶ月に一回行くか行かないかくらいの頻度だから憶えていない。ギルに付いていこう。
渡り廊下を通って特別棟に入る。階段を……一回、二回上る。
どうやら第三理科室は、特別教室棟三階の調理室の横にあるようだ。着けば数人廊下に立たされていた。教室はまだ開いていないらしい。
「……はぁ」
移動させるくせして待たせるのか……。実験内容が面倒なものなら僕やらないぞ。壁によって窓から空を眺める。今日も綺麗だ。
チャイムが鳴る数分前に先生が来て教室に入れた。机の上にはすでに今回使う実験道具らしきものがトレイの中に入っている。
座席は自由ではない。黒板に座席表が貼られていて、机一つに数人出席番号順に振られている。
「……みんな知らない人だ……」
ギルは心を開けばどこまでも付いてくるような奴だが、心を開くまでが長かったりする。高二になってからまだ二ヶ月程度。無論、心を開くことはまだできていないらしい。
「まあなんとかなるだろう。いつも通りにしていれば大丈夫だ。それに僕を見てみろ。名前や顔すら初見のようなものだ」
「それはれーくんが覚えようとしてないからでしょ?」
「……まあ」
事実ではある。覚える必要がない。
チャイムが鳴ったことでギルは自分の席に座りにいった。名前も顔も知らない奴との化学の実験の始まりだ。
僕が座る机に集まったのは四人。ブレザーに付いてある名札を見てみれば、斜め右に「清水」、隣に「下条」、向かいに「鈴木」だ。誰も顔や名前に憶えはない。……いや、「下条」って始業式の日に圧倒的な能天気さを見せつけていた奴じゃないか。僕が憶えているほどだ。こいつは相当印象に残っているらしい。
僕を除いた三人でなにか楽しそうに話をしている。どうやら、僕以外は友人かなにかみたいだ。すごく気軽に話しかけている。清水と、誰だったか。
「あ、蓮よろしくな」
「……あ、ああ」
いきなり呼ばれたもので困惑した。
あの一回の自己紹介でしか下の名前を言ったことがない。いつも話しをするギルも特殊な呼び方をして直接名前を呼んでもいない。つまりこいつ、下条があの一回の自己紹介で僕の顔と名前を覚えたということになる。相当な記憶力の持ち主なのかもしれない。能天気かと思っていたが、本当は見たものをすぐに覚えられる才能の持ち主なのかもしれない。
だが、もしそうだとしても仲を深めるつもりはない。人と関わるというのは時に面倒なことになるからな。なら、そもそも関わらなければいいというわけだ。それに僕の場合、ギル以外の聞き相手をするのが面倒臭い。ギルだけでもときどき疲れるというのに。
配られたプリントに実験結果を書いていくようだ。プリントにも実験方法が書かれているが、先生の詳しい説明のあと実験を始めるよう言われる。
それぞれ役割を決めてからやり始める。僕は立ちっぱなしは嫌なので、座り続けられる実験結果を記入していく役割に回った。立ちっぱなしでいるのが嫌なのは確かだが、他に実験をするのが面倒だからこれを選んだわけでもある。
頬杖をついて興味がなさそうに、下条らが作業していく様子を見ていく。ときどき、結果を言われるがままに書いて再び眺めていく。
が、今はうまく進行できておらず詰まっている。
「…………」
その光景を他人事のように見飽きた僕は、ギルがいたはずのところへ視線を向けた。男女二人ずつの四人班だ。ギルは一つひとつの行動に不安を抱いているのかビクビク怯えている。
「――――」
ギルになにか話しかけた、いかにも真面目そうな男子生徒が。どこかで見たことがあったような……。この前の委員会決めのときに立候補した奴だろうか。忘れた。
ギルがそいつに向いて口を開けている。ただ、相手の見えない机の下で手が強く握られていた。早くこの時間が終わることをねが――
「蓮って!」
「っ……」
びっくりした……。ギルに気を取られていた。
「なんだ」
「なんだじゃなくて、実験結果! 書いて」
「……ああ」
初対面と思えないほど馴れ馴れしいな。言われた結果を書いていく。その間、のんきに話し声が聞こえた。
「作者の気持ちを答えろとかマジ意味わかんね」
「ははは、だよなー」
「…………」
下条と誰だかの会話に一区切りついたのか、急に静かになる。
「……蓮って去年何組だった?」
静かになったことに気まずく感じたのかは知らないが、それを紛らわせようと僕に質問を振るな。
「……教える必要ない。憶えている奴に聞け」
「…………」
少し突き放すような言い方で言った。これでこりて話しかけてこな――
「蓮ってどこ中?」
「…………」
だいたいああ言えば引き下がるものだ。なんでここまで……。それに改めてこう聞かれるとヤンキーと思わされるな。とにかく、
「教える必要はない」
「…………」
「それにもう僕と関わろうとするな。その仲の良さそうな二人と駄弁っておけ」
「……俺クラスのみんなと仲良くなりたいからさ、蓮とも仲良くなりたいなーって」
「必要ない。実験が終わったなら、僕が書いた結果を写せ」
少し面倒臭そうな顔をしながら、書いた実験用紙を突き出す。けどそいつは、嬉しそうににっと笑って言った。
「ありがとな」
調子が狂う……。
こいつは僕にとって苦手な相手なんだろう。グイグイ来るし、妙なところで優しくしてくる。苦手な相手だ。優しいのは調子が狂う。できるだけ関わりたくない。
「やべーな」
「こいつ絶対面倒臭い奴じゃん」
「関わりたくねー」
清水と誰だかが小さな声でそんなことを言っている。きっとと言わず、僕のことを言っているのだろう。視線を感じる。だが、そちらから避けてくれるならありがたいことだ。そう思いながら、そっぽへ頬杖をついた。耳障りだ。
僕のことを言っている二人の会話は下条に聞こえているはずなのに、下条はそれに加担しない。本当に仲を深めたいと思っているのか、僕と同じく対応するのが面倒なのか。
どちらにせよ、
「よーし書けた。ありがとな、蓮」
「…………」
こいつは相当頭が狂っているらしい。
「れーくん、教室行こー」
科学の授業後、早々にギルが教室に戻るよう促してくる。まだ消しカスを集めていないというのに。
「あ、ギル」
ギルを呼んだのは下条だった。仲良かったのか?
「…………」
いや、そうではないらしい。ギルは相手に心当たりがないみたいだ。一歩身を引いた。
「あれ、名前違った? マジでごめん」
「いや……あってるけど……」
「そうか? ならよかった。俺下条真也。俺クラスのみんなと仲良くしたいと思ってるんだ。よろしくな」
下条はギルに握手を求める。ギルは僕のほうをちらりと見る。僕も簡単に握りたくはない。
「……強要は良くないと思うんだが」
「あっ……それはごめん。でも俺二人とも仲良くしたいから、またな」
なぜそこまで仲良くしたがるのか知りたい。
「……あの人、自己紹介面白かった人だ」
ギルも憶えていたらしい。
「あの人のおかげで、自己紹介できなくて泣きそうになってたの、ちょっと笑えたの。あの人のことは信じたいな……」
「……そうか」
教室に戻れば昼食だ。席に着いて教科書類を鞄にしまって、代わりに弁当を取り出す。ギルは僕の近くに来て弁当を机の上に置いてしゃがみ込んだ。呆れる。
「……いい加減誰かから椅子を借りたらどうだ」
「れーくんの上になら座るよ? でもそうしたられーくんが食べれなくなるから」
「それならギルも、そんな状態では食べにくいだろ。バランスを崩して弁当箱ごとひっくり返しかねない」
「だってー」
「あの、ちょっといいかな」
僕らの会話を遮ったかと思えば、ギルの後ろに誰かが立っていた。こいつは確か、化学の実験の時にギルに話しかけていた奴じゃないか。
「なんだ」
「これ。英川くん忘れて行ってたよ」
見せつける手のひらには少し小さな、紙のカバーが一部はげている消しゴムがあった。
「あ、ありがとう……」
「今からご飯?」
僕とギルの弁当箱をそれぞれ見て言う。
「僕もお腹空いてきたな。でも……なんで英川くんそんなところで食べようとするの? 椅子くらい借りてもいいと思うんだけど」
「あ、いや……その……」
「知らない人ばかりで、普通に話せるのが僕くらいなんだ。それで椅子を借りようにも怖くて話しかけられない、とな」
「……うん。でも俺はここで大丈夫だよ。昨日もこれで食べてたし」
「それなら僕の使う? 斜め前の席みたいだし」
返答も聞かずに一列左の、ここから斜め前の椅子を寄こしてきた。確か自分の椅子と言っていたな。だがそれだと、
「い、いいよ。それだと総務さんが食べれなくなっちゃう」
ソウム? ソウムってのが名前……なわけないか。思い出した。こいつは総務委員会に立候補して総務委員になった奴だ。となれば、ギルはこいつの本名を知らないのだろう。総務と呼ぶくらいだから。
「大丈夫だよ。僕ちょっと用事があってすぐには食べれないんだ。どうぞ使って」
ギルに優しい微笑みを向ける。
「じゃ、じゃあ……。でも、戻ってきたらすぐに言って? すぐ返すから」
「ふふっ、ありがとうね。でもゆっくり食べてね。喉詰まらせちゃったら危ないから。それに、用事もすぐには終わらないみたいだから。じゃあ」
総務は鞄からなにかの紙と弁当箱を持って教室を出ていった。弁当は隠すように持っていて、ギルには見えていなかったようだ。トイレで食すつもりだろうか。食べ終わったらギルを置いて行ってみるか。
ギルは遠慮しがちに椅子に座った。通路の邪魔にならないよう、できるだけ机に入るよう言う。ギルが左利きでよかった。
「あとでお礼言わないと……。じゃあ、いただきまーす」
手を合わせる。いただきます。
弁当を開けて卵焼きがあることに気づけば、間もなく卵を一つ取っていかれる。
「……なにか言えよ」
「言ったら取ったのバレるじゃん」
「言わなくてもバレる」
「えぇ? じゃあ、食べるね?」
二つに切って一つ食べた。そしておいしそうな顔を貼り付ける。嘘の反応じゃないのは嬉しいのだが、なぜそこまでおいしいと感じるのかわからない。ただの溶いた卵に調味料を加えて焼いただけなのに。
「やっぱりれーくんの作る卵焼きはおいしいよ。何個でも食べれる」
そのうち味に飽きるだろう。と言いつつも、去年一年間はずっと食われていた。飽きない……のか?
弁当を突き始めてから、さきほどのことを思い出す。
「あいつのこと総務と言っていたが、憶えていたのか」
「さすがに総務委員になった人は憶えるよ。クラスのリーダー的な存在だからね」
「名前は知っているのか」
「うーん。上の名前が垣谷さんなのは知ってるけど、下の名前はわかんない」
さすがのギルもお手上げか。よくギルからあの人は誰々さん、この人は誰々くんなどと聞くが、クラス替え直後はさすがにな。
「あの人優しそうだから下の名前で呼びたいんだけど、わかんないからなー。これから仲良くなるかもしれない人に、さん付けはなんかって感じじゃない?」
仲良くなる前提なのか。
「好きに呼べばいいだろう」
僕の中であいつは「総務」という名前が付いている。総務というほうが人名という感じがしなくて呼びやすい。それに憶えやすい。総務の本当の名前は……なんだったか。
体育は好きではない。なぜなら、体を動かすからだ。昼食後の体育はもっと好きではない。なぜなら……言わなくてもわかるだろう。ヘンに動くと気持ち悪くなる。
「今日は柔軟を高めていく運動をする。じゃあ一旦、準備体操のあとは四人班を作るところまで、体育委員の指示で動くこと。先生は職員室に忘れ物したから取りに行ってくる。じゃあ、体育委員よろしく」
ありがたい。
体育教師は一年の頃から同じ先生だ。厳しすぎず、優しすぎない先生だ。だが、準備体操だけはきちんとさせる。そんな先生だ。どうやら、先生の学生時代に準備体操を怠って、腱を切りそうになったらしい。それで同じことをさせまいと、準備体操時だけはいつも見張っている。
だが、今日は職員室に戻るらしく見張りはない。半数が準備体操に気を抜いている。僕も少し気だるげにする。
先生が戻ってきたのは準備体操が終わるちょっと前だ。先生が来てからはどの生徒も、今まできちんとしていました、とでも言うように指の先まで力が入っている。僕は面倒なのでしなかった。そうそうバレることはない。
「じゃあ四人班を作る。そのとき誰か余るなら五人や六人になってもいい。まずは近くの人と作ってくれ」
そう言われたのにも関わらず、ギルは数人の横を通り抜けて僕の傍まで来た。
「あと二人誰がいるかな」
僕と組むことが当然かのように言う。そうは言っても、知っている奴と組めるなら、まだありがたい。
先生の言ったことをきちんと守った奴が、僕らのところへちょうど二人来た。四人揃ったみたいだ。……揃ったみたいだが、なんでこいつが……。
「蓮、明らかに嫌そうな顔するなよ。顔に『げっ』って書いてるぞ」
「書いていない」
個人的にあんまり好印象ではない下条が傍まで来た。一歩身を引く。
「あ、ギルもいるじゃん。やっぱり二人とも仲いいな。俺も仲良くなりたいから、仲良くしようぜ」
僕はそう言う下条の前にギルを差し出す。
「な、なにれーくん」
「生け贄ならギルを差し出します」
「なんで俺が生け贄なの!」
「そもそもなんで生け贄なんだよ!」
そして二人分の「ぷっ」と吹き出す声のあと、笑い声が聞こえる。ハッと気づいたときには、ギルが照れくさそうに、下条は嬉しそうにしていた。
自然ともう一歩身を引いた。
そういえばさっき、下条以外にもこちらに来ていたと思うんだが気のせいだったか? あたりを見渡せば、どこの班にも属していないように見える奴がいた。こいつか? ずっとこちらを見ているし。
周りはどこも四、五人班で出来ている。気づいておいてほうっておくのは少し気が引ける。そいつに近づいた。
「入るか」
「あ……うん。ありがとう」
よく見たらこいつ、総務じゃないか。ギルの消しゴムを渡していた。
「新藤くん……だったよね。僕、垣谷豊。よろしくね。総務委員だから、なにか困ったことがあれば気軽に言ってね」
「無理」
「……え?」
なにが「総務委員だから」だ。ふざけている。
「なんで……無理なの? 僕気づかない間に新藤くんに酷いことしてたかな」
「していないが……これくらいわかるようになれ。人に優しくする前に」
「……ぼ、僕……」
「あはは、先生に遊んでないで柔軟しろーって言われちゃった」
いいタイミングにギルが来た。真面目な奴の相手に飽きていたところだ。総務があまりにも馬鹿で呆れもしていた。
ギルはなにやら紙を持っている。
「これ教科書をコピーしたやつで、これを参考に柔軟していけーだって。やろ」
「俺柔軟とか無理なんだよなー」
下条とギルは少し仲が深まったのか、物理的に距離が近い。相性がいいのだろう。ツボの浅いギルと、脳天気故のエンターテイナーの下条との組み合わせが。
「あ、総務さん! さっきはほんとにありがとね。この恩はまたいつか」
「ふふっ、いいよそんなの。お互い支え合って生きていくものなんだから」
生徒間ではなかなか聞かない言葉だな。先生らはよくこう言ったセリフじみたことを言ったりするが。
下条とは一定の距離を保ちながら、ギルに近づいて紙を見てみる。実技の教科書から二、三枚分コピーされた紙のようだ。正直見たくない。今すぐ破ってやりたいくらいだ。
「おう、豊。一緒にやろうぜ」
「……僕硬いから……あんまり得意じゃなくて……」
下条は本当に誰とでも仲がいいんだな。僕とは大違いだ。そんな簡単に仲を深めてしまえば、関係は複雑になったりする。できるだけ関わりたくない。
「大丈夫だって。ここにいるみんな硬いって。だって男子だもん」
男女別の体育で本当にありがたいと思っている。いちいち女に気を遣いながらなにかをするのは疲れるからな。
確かに下条の言う通り、男性の体は構造上硬くなる。硬くなるというより硬くなってしまう、だろうか。きちんと毎日ストレッチをしていれば、柔らかくはなるみたいだが、僕は体育の時間以外に運動はしない。体は硬い。
まずは手始めに座りなら開脚した状態で体を前に倒していく柔軟、開脚前屈からだ。
「じゃあ、みんなで輪になってやろ。俺の予想だとれーくんが一番硬い」
なんだそれ。
やってみたがこのコピー紙のように①(百度以上足を開いて座っている)から②(前に七十度ほど倒している)ができる……わけがない。ガチガチすぎて僕も驚いた。そもそも九十度以上すら開かないんだが。高校一年生になったばかりの体育のとき以来やっていなかったから、硬くなっているとは思っていたがこれほどとは。
パッと見た感じ、ギルが一番伸びている気がする。開脚の角度も前屈の角度も。一番できていないのは僕だろうか。下条とはいい勝負をしている気がするんだが。
「総務さんできてるよ、れーくんよりできてるよ! れーくんと……下条さんが同じくらいかな」
「やっぱ俺硬いから無理だー」
下条は誰よりも先に諦めてあぐらを掻く。僕も諦めようか。ちょうどこの体勢がつらくなって――
「れーくんちょっとそのまま」
つらくなってきた頃だったのに、なんだ。ギルは僕の後ろに向かって視界から消えた。そして、
「っ……!」
「背中押すよー」
「お、押す前に言え馬鹿……それに痛い。本当に……やめろ」
「あー! れーくんが俺のこと馬鹿って言ったー。あーあ、俺悲しくなっちゃったー」
「そういうのは一度離れてから……言ってくれ」
「あははは、わかったよー」
解放されたのちに、横に倒れ込んだ。痛すぎる……。本当に憶えておけよ……。
「え、え、え……れーくん大丈夫……?」
「本当に心配するくらいならもとからするな。本当に痛い」
「……よかった。死んじゃったのかと思った」
この程度で死ぬのか人間は。
「ははは、そんくらいで死なないだろ! ギルって面白いな」
下条が笑いを上げる。体を起こして様子を見てみる。ギル自身、下条のことは信じられそうなどと言っていたが、本当に受け入れられるのかどうか。
ギルはどこか照れくさそうに、だが楽しそうにしていた。こんなギルを見るのは久しぶりかもしれない。自然と口角が上がる。
「えへへ……。そんなことないよ……。下条さんこそ自己紹介の時面白かったよ。あんなの初めて聞いた。思わず笑っちゃった」
「……その、『下条さん』ってやめない? ……なんていうか、俺のこと呼んでる感じしない。下の名前で呼ぶか、せめて『さん』はやめて。俺はギルのことギルって呼んでるんだし」
「えと、下の名前……。下条……し、真也くんだっけ……?」
「そう! やっぱ下の名前で呼んでくれたほうが、俺の名前って感じする! これから仲良くしような!」
下条は握手を求める。友人になるためにはその握手が必要なのか? まあ、下条なりの考えがある……なさそうだな。
ギルはその手を少しためらいながらも握った。ギルの友人n人目が出来たみたいだ。……こんなところですることではないと思うんだがな。
下条は一度、にっとギルに笑顔を見せたあと僕に目を向ける。なんだ。少々の察しは付いているが。
「この流れで蓮も握手し」
「却下。誰がするか」
「あはは。れーくん俺以外に心開いてないからね」
「うわ、ぼっちじゃん」
「ギルだけで十分だ。それに僕は好んで独りでいるんだ」
「知ってるか? ぼっちの人はよくそう言うんだぞ」
……一人のほうが楽なんだ。確かにギルといるのは楽しい。が、面倒でもある。
「そこー。きちんと柔軟してるかー」
「やべっ。じゃあ次……これしようぜ」
落ちていた紙を拾い上げて、ぱっと指を差す。足の裏同士を引っ付けて、足をできるだけ体に近づける柔軟だ。柔軟というよりストレッチか? とにかく痛そうなのには変わりない。
座り込んで足の裏を引っ付ける。シューズが少し邪魔だな。だが脱ぐのも面倒だ。このままいこう。この時点でも少し痛いが、ここから近づけるのだろ? ……少し近づけてみたが、無理だ、痛い。もとの位置に戻す。
「なにこれ痛すぎだろ。ってギルやらか!」
「そこまでだよー。柔らかい人はちゃんとペタって床に付くし」
「でもこの中だとギルが一番柔らかい!」
「えへへへ」
ギルは確かに柔らかそうな気がしていたが、ここまでとは思っていなかった。なにか体操でも習っていたか? 記憶ではそんなことなかったとを思うんだが。
「ギルってなんか習い事してた?」
下条が代弁してくれる。……僕の脳内を読まれたようで少し気に食わない。
「うんん、してないよ。一年生のときに部活は入ってたけど、そういう柔軟とかじゃないから」
やはりしていなかったか。ならもともと体が柔らかいのだろう。
「へー。じゃあもともとなんだな。俺は今もバスケ部入ってるから体力はあるけど、柔軟はマジで無理。てかやる意味ないだろ」
それは僕も思いはした。だが、大人の事情というやつだろう。知らないが。
「なあなあ……これどこまでいけるかやってみようぜ」
下条が実演したのは長座体前屈だ。今度は足を開かずに伸ばして、前屈するものだ。柔軟と言えばこれ、と思うほどの定番だな。
脚を伸ばして体を前に倒す。感覚、三十度くらいしか前に倒れていない気がする。ここまで硬かったか? もう少し倒そうとするが、動かない。痛い。……やる意味ないだろ。
ギルはかなり倒している。四十五度くらいだろうか。……仕返すか。立ち上がってギルの後ろに膝立ちする。そして、
「わっ」
そっと背を押していく。
「いっ……たい痛いよ! 誰がしてるの!」
「仕返しだ」
「うっ……しなかったらよかった……っていうか早くやめてよ、すっごいいたっ……痛いって言ってるじゃん! さらに押さないでよ!」
そろそろ許すか。そっと背中を押すのをやめた。満足だ。軽く笑みがこぼれる。
「これでもう足まで届くな」
「届かないよ……」
ギルの声が泣いている。焦ってギルの顔を覗き込んだ。
「……わ、悪い。そこまで痛かったとは思って」
「うっそー」
「…………」
今日でギルと縁を切ろうか。一瞬そんな言葉が頭によぎった。
ギルは今日一番楽しそうに笑う。
「あはは、仕返しなら仕方ないよー。俺から始めたんだし」
「本当に焦って心配した僕の気持ちを返せ」
「それくらいれーくんは優しいってことだよ」
「……お互い様だ」
実際、ギルも僕が死んでしまったかもしれないと、心配してくれたのだからな。少し程度というものが違うが……。
少しの間、休憩が入った。ギルに水筒を置いているところまで連れて行かれる。べつに僕は水分補給なんて必要ないのに。
「ふぅー生き返るー。やっぱり運動のあとは冷たいもの飲みたいよねー」
大した運動もしていないと思うんだが。強いて言うなら体を曲げて唸っていただけ。
水筒の中身を数口さらに飲んだあと、満足げに言う。
「なんか今日で体いっぱい伸びた気がする」
「気のせいだろ」
「あはは、そうかも。はい、れーくんもちゃんと飲んで」
ギルが自身の水筒を差し出してくる。確かに僕は水筒を持っていっていないが、意図して持ってきていないんだ、要らないと思って。持ってきても飲まない。本当に。
「必要ない」
「だーめ。飲まないと真也くんに友だちになりたがってたって言うよ?」
どんな脅しだ。初めて聞いたぞ。べつに下条とは友人になりたいとは思っていない。仕方なく数口飲む。飲むといっても他人の家から出した茶だ(ギルの家から出る水筒の中身はいつもなにかの茶だが、なんの茶かわからない)。無論、多くは飲めない。
ちょうど今で授業の半分くらいの時間が経った。まだ柔軟をするのかと思うと少し面倒に感じてくる。果たして、体を柔らかくする意味はあるのだろうか。そう思いながら、残りの時間をやり過ごしていく。
「そういえば、来週の金曜日か土曜日からか泊まりたい! だってゴールデンウィークで三連休で月曜日は祝日でしょ? 最低三日も一緒に過ごせるんだよ? あと三日くらい学校行って、また四連休あるでしょ? その日も泊まっていい? いっぱいれーくんと一緒に過ごしたい!」
もう四月中旬なのに少し寒さを覚える学校帰り。今日もいつもの道を通って帰っていた。桜はもうほとんど見えず、緑に変わって夏が近づいてくる。夏は嫌いだから近づいてくれなくていいんだ。帰ってくれ。
「却下。自分の家で過ごせ。僕もそのゴールデンウィークはゆっくりして過ごしたいんだ」
「なにそれー。俺がいたらゆっくり過ごせないって言いたいのー?」
まさにそうだろ。
「もうこうなったら絶対着替え持って行って一緒に過ごすもん! 一緒に寝るもん! なにより俺れーくんの家の合鍵持ってるもんねー」
ズボンのポケットをポンと叩く。こういうとき、渡さなければよかった。そうよく思う。
いつも通る橋を今日も渡ろうとしていた。そのとき、
「……あれ。ねえ、あの人ナツキくんじゃない?」
ナツキ?
見れば、いつかに見た光景と同じだった。鞄を地面に置いて、手すりに手を掛ける人間が一人立っている。ただ、そのいつかと違ってどこか遠くを見ていた。
「……誰だ」
「あーもうほんとれーくんの馬鹿」
こんなさらっと言われるのは初めてかもしれない。
「ちょっと前にお話ししたじゃん。ほら、橋から落ちちゃった……」
「あぁ。……いたな、そんな奴」
「もーほんとなんでそんなに記憶力ないの? 勉強はできるのに」
いまさらそんなことを言われても……。
その例のナツキとやら人間の傍までギルが走って行く。僕は急ぎもせずに、のんびりと歩いてあとを追っていく。
「――――!」
ギルがなにか話したあと、僕を紹介するようにして手を広げる。ナツキは驚いたように目が見開かれた。そしてなにを思ってか駆けてくる。
「れーくんさん……!」
「なんだその呼び方。今すぐやめろ」
「あはは、いいじゃん。ナツキくん、れーくんの名前知らないんだし」
ギルがナツキの鞄を持って、ナツキが来たほうからやって来る。
「今すぐやめろ」
「なら、名前教えることー」
あの日以来あったこともない奴に個人情報など、教える気にならないんだが……。
「れーくんさんお久しぶりです」
深々と腰を曲げられた。いくら僕のほうが年上だとしても、頭を下げる義理はないので上げるよう言った。頭を上げたナツキはそっと優しく微笑む。
こう見れば、初めて会った時よりも顔が澄んでいて、どこか楽そうな表情をしていた。
初めて会った時は、前髪が長く見えるのは角度の問題かと思っていたが、違う。確かに長い。目に掛かっている。それに眼鏡なんてかけていたか? ……興味のない相手にはこれっぽっちも観察しない。僕の悪いところだ。
「あの時は……れーくんさんにもギルさんにも本当にお世話になりました」
ギルにも見えるよう一歩下がって再び深々と頭を下げる。
「わわっ! そんな……」
僕はもう一度同じことを言った。
「頭を上げろ。下げられる身にもなれ」
「ぷっ。だかられーくん、その言い方やめない?」
ギルは隣で腹を抱えて笑っている。そんなに面白いことか? 顔を上げたナツキも笑っているようだった。
「でも、本当にいろいろと迷惑をおかけしてしまい……本当に申し訳ございませんでした」
どれだけ頭を下げるのかと、もう言いたくなかったので、下げられる前にナツキの肩を持った。ナツキも気づいたようで、もう下げようとはしなかった。
前会った時より、ずいぶん顔が澄んでいるのはいいことなんだが、少しその作ったような笑顔に恐怖を感じる。
「……ナツキくん、なにかいいことあった?」
ギルが不意にそんなことを聞く。僕も少し気になっていたところだ。
「あ、全然そんなことなかったらいいんだけどね?」
そう付け足す。
「ああ、いえ。……実はなんですけど」
ナツキはギルの耳に口を近づける。ギルもそれに応えて耳を近づけた。どうやら僕には教えてくれないようだ。僕は気づかれないほどの嘲笑をし、下で流れる川の河口に目を向けた。ずっと遠い。
「……うん。……うんうん。……そうなんだ。それは良かったね!」
「はい」
なにかいいことがあったらしい。少し嬉しそうな笑顔を作りながらギルから離れる。
「ほんとに、ギルさんやれーくんさんのおかげです」
……まだその呼び方なのか。気に食わない……。
「そっか。ナツキくんの力になれたようで俺もよかったよ。ね、れーくんさん?」
ギルがニヤリと口元を引き上げて笑う。もう好きにしろ。
「ただ……完全な終結には至ってないので、もう少し頑張って、死ぬのはもう少しあとに考えてみます」
まだそんなことを言うのか。だがこの感じだと、もう五年ほどは生きそうだな。
「……ところで、れーくんさんの本当の名前ってなんですか? ギルさんもよければ……」
そう言うナツキの言葉に、僕はギルのほうを横目で見た。ナツキがギルのことをなにかのゲームのキャラクターだと思っているのかもしれない。思っていなくてただ姓名を知りたかっただけだとしても、ギルにはそう聞こえたのかもしれない。
ギルはただ遠くの空を眺めるような目でナツキを見て、口を軽く笑わせていた。
「うん、いいよ。俺もナツキくんのこと、知りたいな」
ギルは苦し紛れに出したであろう言葉で、気持ちを紛らわしている。長年付き合っていれば、こういうことも感じ取れてしまう。
「はい、もちろんです。……改めまして、僕はアイバナツキです。中学三年生の十四歳です。こんな僕ですが、どうぞよろしくお願いします」
ギルが軽くよろしくと言うと、今度はギルが自己紹介をしていった。本人は始業式のことを憶えているのだろうか。
「……英川ギルだよ。見た目の通りハーフ……なんだけど、よろしくね」
ギルは悲しげに笑う。ナツキはそんなギルをこれっぽっちもわかっていないように、軽くお辞儀をする。
「れーくんさんも……お願いしたいです」
結局僕もしなければならないのか。自己を紹介するなんて気に合わないことだから、あまりしたくはないんだが……。
「新藤」
「…………」
あまりにも雑だったのか、ナツキはポカンとし、ギルは「ぶっ」っと吹き出す。
「……れーくん、その自己紹介は酷すぎない? もっとあるじゃん」
「これが僕の自己紹介だ。言ってやったんだから、これ以上を求めるな」
「あはは。れーくんはこんな奴なんだ。よろしくしてあげてね。あ、下の名前はれ、蓮って言うんだよ。……いつも『れーくん』って呼んでるから『蓮』って呼ぶのなんだか恥ずかしいな……」
ギルが恥じるものなのか?
そもそも、僕だけこんな呼ばれ方はおかしい。僕もギルのことを「ぎーくん」と……。いや、やめよう。
「エイカワギルさんに、シンドウレンさん……。なるほど。ありがとうございます。お二人のお名前は心に刻み込んで一生忘れません。家宝にします」
「しなくていいよー」
「するな」
久々にギルと意見と声もあった。
「あ、あと、ギルさんが『れーくん』さんって呼んでるんで、僕もれ」
「却下」
誰が呼ばせるか。強く否定した。
「あははは、即答。れーくん俺以外に許さないからね」
「言っちゃなんですが、レンさんって表情が乏しくて基本無口なんで、少し怖いイメージがあったんですが、ギルさんが『れーくん』って呼ぶのですごくかわいく感じるんですよね」
「意味がわからない」
「でしょ! かわいく感じるよね! かっこいいを呼び方で緩和されてるんだよねー。一人称もこんな言葉遣いで『僕』だなんてさー。もーかわいいんだからー」
「俺」と言うのはなんだか気が引けるからそう呼んでいるんだ。それかなんだ、明日から「俺」とでも言ってやろうか。……いや、少し恥ずかしいからやめよう。
「他にそう呼んでる人はいるんですか?」
僕も初めは断ったが、ギルがどうしてもと言って聞かないので仕方なくだ。ギルは……特別だ。
「れーくんは俺以外の友だちいないからいないよー」
いたとしても断固として呼ばせまい。
「……レンさんってぼっちなんで」
「勝手に思えばいいが、僕は好んで独りでいるんだ。そんな者ではない」
どこかで似たようなこと言ったな。
「知ってますか? ぼっちの方はよくそう言うんですよ」
……どこかで聞いたことがある。ギルは憶えていたのかくくくと小さく笑う。
「……勝手に思っておけ」
人間は多くの関係を持つと、いろいろと面倒だからな。面倒なのは嫌いだ。「大」が付くほど。
「お二人はもうお帰りになるんですか?」
「うん。ちょうど帰ってたところー」
「あの……もしよければ、僕も途中までご一緒してもいいですか……?」
「それ今言おうとしてたんだ! 一緒に帰ろ! なんなら、家上がる? れーくんの」
そこ僕の家なのか。普通に無理なんだが。
「今日はれーくんの家でご飯食べていこうと思ってるから」
「勝手に事を進めるな。自分の家に帰れ」
「あははは」
ナツキ、ギルはこんな輩だ。離れるなら今だぞ。
「うっ……さむ……」
もう四月なのに肌寒い風が僕らの間を抜ける。
「じゃあ、とりあえず……歩こっか」
信号が赤になって足止めを喰らう。ここの信号長いんだよな。意味もなく空を見上げる。今日は雲が少し見える、晴れだ。
周りを見渡せば後ろに自販機があった。肌寒さを感じたら、温かいものを飲みたくなる。
「コーヒー買わせてくれ」
「あ、うん。早くしてよー」
ギルもここの信号が長いことを知っているのか、すんなり了承した。
財布から百十円を取り出して、自販機に食わしてボタンを押す。
ギルとナツキの会話を聞いていれば、どうやらナツキはいつもと違う道で帰っているらしい。僕らに合わせているそうだ。ギルが無理を言っているように思えるが、来た道を戻るようなことをしないのであればいいか。
取り出し口から温かいコーヒーを取り出し、暖を取るように両手で持った。
「あ、れーくん信号変わったよ」
振り向いて確認する。そう言うからには、ギルたちは待ってくれているのかと思ったが、そんなことはなく先を歩いていた。僕はのんびりとギルたちの足跡を追った。
冷たい風が通り過ぎていく。二人はなにかの話で盛り上がっているらしい。
僕は邪魔にならないよう、二人の後ろを歩いている。違う制服を着るもの同士が並んでいるところを見るのは少し新鮮だ。
カポッと気持ちのいい音を奏でてコーヒーを開ける。それをずずずと汚い音を出して飲んでいく。体が暖まる。
コーヒーは中学三年のときに初めて口にした。
当時親しくしてくれていた人、例の警部が言っていた。「受験勉強に眠気は天敵だ。眠気にはコーヒーを飲めばいい。コーヒーにはカフェインが入ってるからな」と。
初めこそ苦くてあまり飲む気にはなれなかった。だが、その人に砂糖を入れて飲むと苦さが軽減される、と言われて試せば、完全には苦さがなくなったわけではなかったが、飲めるほどにはなった。
そして徐々に舌が苦さを許してくれたのか、砂糖なしでも飲めるようになって、ときどきブラックを欲したくなるほどだ。
だが、コーヒーの飲みすぎはカフェイン中毒になるかもしれないと忠告され、飲みすぎないようにはしている。
「ねえれーくん。コーヒーっておいしいの? 苦くないの?」
ギルが後ろを向いて歩きながら聞いてきた。ナツキも釣られてか顔だけ後ろを向く。そして、ギルのすぐ後ろには電柱が立っていた。一歩踏み出してギルの胸元を掴んで引っ張った。
「わっ!」
「レンさんなにして……!」
わけをわかっていない二人に悪者扱いをされる。
「電柱だ。気をつけろ」
ギルは振り向いて確認する。
「……あぁ、気づかなかった。ありがと。でももっと丁寧にしてよ」
今度から電柱にぶつかりそうになってもほうっておくぞ、そんな言い方をするなら。心中そう思いながらも、軽く乱れたギルの胸元を直した。
ギルたちが歩き出すので、あとを歩く。
「で、おいしいの?」
一瞬ギルがこちらに顔を向けてきて聞いてくる。
「初めは砂糖なしでは飲める気がしなかったんだが、慣れてくれば砂糖なしでも飲めるようになる」
「おいしいの?」
「おいしい……んじゃないか」
あまり意識して飲んだことがなかった。ふとしたときにコーヒーを欲して、近くにあれば飲んでいた程度だ。味なんて気にしたこともなかった。
「おいしくないのにずっと飲んでたの?」
「苦いが……飲めないことはない。おいしいかどうか問われても飲めるものではあるとしか答えようがない」
「答えになってないじゃんー。……ちょっと飲んでみてもいい?」
後ろに向くギルにコーヒーを差し出した。ギルは立ち止まって缶に口を付ける。
「うえ……にが……」
どうやら口にあわなかったらしい。すぐに返ってきた。返ってきたコーヒーをなんとなくすする。
「よくこんなの飲めるね。俺絶対無理だよ」
「舌に合うかどうかは人それぞれだ。飲めないからと言って死ぬわけではない」
「そ、そうだよね! そうそう……」
振り返ったギルが歩いていく。
「……ん? なんて?」
突然ギルが喋り出す。独り言か? そう思ったが、突然疑問形が出てきた。ナツキがなんか喋っているのだろう。とても小さな声で。
「か、かん……せ……」
なにかに心をやられたのか、ギルがいきなり立ち止まった。前を見ておらずぶつかりそうになった。
「なんて言ったんだ」
ギルを立ち止まらせるほどの言葉なんだろ。少し気になる。
「えぇ。だから、コーヒーでギルさんとレンさん、間接キスですねって」
飲み回すくらいするだろ。それにギルだって口を付けた箸で食べさせてきているじゃないか。今まで気にしている様子はなかったと思うんだが、もしかしてずっと気にしていたのか?
ナツキがそう言ったなかでも、僕はコーヒー缶に口を付けて飲んでいく。
「れーくんの馬鹿」
「ぶっ」
言う相手が違うだろ。思わず吹いてしまったじゃないか。コーヒーが飛んだ口元を、手で拭う。
「今までそんなこと意識してなかったから、改めて言われると恥ずかしいな……」
ギルと今まで長い付き合いだが、一秒も意識をしたことがなかった。普通しないものじゃないのか?
「もー。急に言うかられーくんに馬鹿って言っちゃったじゃん、ナツキくーん」
反射でついみたいな言い方やめてくれないか。
「すいません。つい……。一応僕、一時期恋愛というものにハマって、そういうの意識してしまうときがあって……」
ギルが頭を軽く掻いてから歩き出す。コーヒーを一口飲んで後ろを歩いていく。
「でも、それだけギルさんとレンさんが仲いいということなんで、いいことだと思い……ます」
語尾に近づくにつれ、声が弱くなっていく。そうだったな。ナツキは友人関係でトラブルがあったんだったな。少し申し訳ないと、思っていたほうがいいのだろうか。
「な、ナツキくんもきっといいお友だち出来るよ! 俺らももう立派な友だちだし!」
「僕はいつ友人だと」
ギルに口を強く塞がれる。強すぎて後ろに倒れそうになった。
「ね? 友だちだもんね?」
塞がれる口のまま無理やり頷かされる。ナツキはそれで喜ぶのだろうか。
「ありがとうございます」
……笑っている。ならいいか。
僕の口を解放したギルはナツキの隣に付いてから歩き出した。
「あの、途中で別れる前に……もしよければなんですけど、その……お二人の連絡先を交換して……」
「連絡先? もちろんいいよ! 交換しよ!」
ギルがポケットからスマホを取り出す。ここでするのか。僕は近くにあったガードパイプに軽く体重を乗せた。止まってすると思ったからだ。
だが、ギルたちは進んでいく。歩きスマホは危険だぞ。そう言おうとしたところに、狙ったようにギルの前に電柱が立っていた。ここからだと止められない。面倒だが、
「前見ろ」
少し声を張って言った。気づいたギルはゴンと鈍い音を出してからしゃがみ込んだ。
「……はぁ」
腰を浮かしてギルに近づく。
「馬鹿」
「あははは……」
「僕もすいませんでした……」
ギルもだが、ナツキにも非はあったな。
「大丈夫か」
「うん。もう平気」
立ち上がって少し額をさする。幸いにもさっきみたいに後ろを向いておらず、頑丈な額に当たったから、このあと病院に行かなければならない、なんてことはないだろう。
もう歩きながらスマホを見るのはやめろ。
「よし、これでオッケー」
「ありがとうございます! ……あの、よければレンさんも……」
誰がするか。なにも知らない奴に個人情報を漏らすようなことを。
「ギルと交換したのなら、僕のは必要ない」
「……でも」
「いらない」
「あははは。れーくんのまた教えてあげるよ」
「……勝手にしたらいいが、一言言えよ」
「あはは、はーい」
ナツキに、僕の連絡先をどうしても教えたかったのか、こういう結果になってかギルは嬉しそうに笑う。
あともう一つ言っておこう。ないとは思うが、
「もし他人に僕やギルの個人情報を流すようなことをすれば、ギルのも含めて連絡先は削除してもらうからな」
「しませんよそんなこと」
「れーくんはお堅いねー。ほんとに考えもお堅ければ体も硬い。あはは」
……うるさいな。個人情報流失は危険だというイメージがあるからそう言ったのに。知らないからな。
「帰ってからするね」
「はい、ありがとうございます」
明日は弁当を作る必要がないので、夕食を作る気もない。
翌日に弁当がいるなら、弁当の具材も兼ねて夕食を作っている。他に弁当に必要な具材も作って、明日の朝には白米と一緒に詰めるようにしている。
だが、明日は休日で弁当を作る必要がない。それに、とても腹が空いているということでもない。今晩は食べなくていいか。
照明を付けていない部屋で、ベッドに寝ころがってなんにも考えずにぼーっとしていた。
今週の疲れがどっと襲ってきたようだ。
「…………」
やはり、五日間の平日に対して二日間の休日は割に合わない気がする。二日で疲れは癒えない。五日学校や仕事に行けば、翌週は五日の休日があってもいいと思うんだ。……こんなことを考えているのは僕だけだろうか。僕が面倒臭がりだからだろうか。
体を横向きにする。目の前には電気に照らされずに薄暗くなっている白い壁が見える。
このまま眠ってしまいたい。僕はべつに一日くらい風呂に入らなくてもいいと考えている。だから今日はこのまま寝て……。そうは言ってもただ疲れがあるだけで、眠気はない。
入ってくるか。
「ん…………はぁ……」
一度背伸びをする。掛け時計に目を向ければもう深夜の二時前だった。そろそろ脳が働かなくなる。復習はもういいか。
毎晩こうして復習をしているが、こんな遅くまでしたのは久しぶりだ。もう眠たい。気を抜いたら気絶するように寝てしまいそうだ。勉強机の上を放置してベッドに寝転びにいく。
明日は休みで弁当は要らないから、白米は炊かなくていいのか……。もし要ったとしても、眠たすぎて炊かなかっただろうな。そして白米がない弁当をギルが見て「え、なんで白ご飯ないの? いつもあるじゃん。俺のあげるよ」などと言って心配し、僕の腹が必要以上に膨れる。
「…………」
面倒でも平日はきちんと炊こう。
毎晩、昨日や一昨日の復習をしている。いわゆる勉強だ。出されている課題があれば復習の前にそれもする。それを時間も気にせずしていれば、今回のように夜遅くまでしてしまうことがある。そして翌日が学校のある日なら、寝不足で軽くフラつく僕を、鋭い観察眼を持つギルに見つかって保健室に連れて行こうとする。
そう簡単に保健室を使うわけにもいかないから、勉強はあまり遅くまでしないつもりではあるが、集中していたり難しいものだと、こういう時間までしてしまうことがある。
だが、明日は……時間的に今日は休みだ。寝不足も関係ない。眠たければ寝れる。
手を伸ばして勉強机の上に置いてあるスマホを取る。ほぼ毎日ギルからなんやらの連絡が来ている。だいたい返信もしなくていいものだが、だからといって返信しないのは悲しみそうだ。
ギルとのチャット画面を見る。
「…………」
あぁ、駄目だ。眠たくて読めない。頭に入ってこない。既読を付けてしまってギルには申し訳ないが、起きてから返そう。数時間くらい許してくれ。スマホの画面を消して、再び勉強机の上に置く。
照明のリモコンで部屋の電気を消して、目の前が真っ暗になる。足下にある掛け布団を足で引き寄せ、手に渡して肩まで掛けた。今日は冷え込んでいて寒い。
まあ、僕の場合は寒くなくとも肩まで掛けるが。もちろん夏場だと暑くなるが、肩まで掛けることでなんとなく落ち着く。
それで熱中症になったこともあったが。ギルにそれを伝えたら馬鹿と言われて数日掛け布団をどこかに隠されていた。ギルに伝えてからは冷房を付けたまま寝ろと言われて付けられたままだったので、逆に寒かった。
ゴソゴソと布団の中で体を横向きにし、目を瞑る。
「…………」
胸のあたりに掛け布団との空洞がある。この空洞があまり好きではない。天井側にある手で、近くにある掛け布団の四つ角の一つを掴んで、丸めるようにして胸に引き寄せる。片腕が布団から出て寒さを覚えるので、中に引っ込める。この包み込まれたような感じがすごく好きだ。落ち着く。
僕も一つや二つ、寂しさや孤独感を覚えることはある。そういう時は器用に掛け布団を操って体との隙間を埋める。そうした時は、本当に心地良く感じる。なにより、今はそんなこともないからしないが。
僕は確かに独りが好きだ。だが、たまには他者と声を交わすのもいいものだな。
翌日。
今日は学校がない、休日だ。
そして今は朝に読み始めてしまった文庫本のミステリー小説を、ベッドに寝転びながら読んでいる。もう昼過ぎで腹が鳴ってうるさいが、今すごくいいところなんだ。真相がもうすぐ明かされるんだ。二食くらい抜かしても死にはしない。人は食べ物なしで七日は生きられるんだ。
どんどん真相が明かされていき、僕の心が舞い上がり始めていた頃、机に置いていたスマホが音を出した。もう一度鳴る。もう鳴らなくなったかと思えば、連続で鳴ってうるさくなる。なんだなんだ、うるさいな。
思わず小説から目を離してスマホを手に取った。画面を付けて音の原因を探る。が、無論、チャットだった。僕のスマホから通知が来ると言えばこれくらいしかない。
二人からだ。『 Gil 』と『 A.N. 』からだ。後者は誰だ。その『 A.N. 』という奴からは二件。『 Gil 』という、まあギルからは二十件ほど来ていた。件数の少ないほうから見てみる。
「こんにちは、蓮さん。なつきです。ギルさんから連絡先を教えていただきました。僕の勝手ですみません。使うことがあるかわかりませんが、よろしくお願いします」
続けてお辞儀をする猫と「よろしくにゃ」という文字があるスタンプが送られてきている。
「またなにかあれば言うんだぞ。二度とあんな真似するな。本当に後悔しないと神に誓えるほどなら好きにしたらいい。この世の生き物はゲームのように何度も生き返ることができるわけじゃないんだ。死んだらそれでお前の主人公ゲームは終わりだということを心に刻んでおけ」
それだけを送ってナツキとのチャット画面を閉じた。もう二度と開かない気がする。
続いて二十件ほど来ていたギルのチャット画面だ。さっきの通知の連発はきっとギルからのものなんだろう。
『ねえー、ゴールデンウィークれーくんの家に泊まりたいー』
『お父さんからは許可貰ってる!』
数分後に、
『早く連絡ほしいなー』
続けてなにかを望むような目をした少女のスタンプ。これが昨日、既読だけ付けて返事を返せなかったものだな。……そういえば朝起きても返信していなかったな。忘れていた。
日付が今日になって数分前のだ。
『なつきくんに連絡先教えたよ! 昨日忘れちゃってた……えへへ』
続けてはにかむ少年のスタンプ。
『あと、昨日送ったの見た? いいか駄目かだけでもいいから教えてよー』
続けてふわふわした絵柄の、地団駄踏む少年のスタンプが送られてきている。……と思えば動いた。ずっと動いているわけではなく、数秒動いたら止まる。タップすれば再び動くみたいだ。少しかわいい。が、
「…………」
このスタンプが連続で何個も送られてきている。これはいわゆる「スタ連」というやつなんだろう。
『なつきから連絡が来ていたのを確認している。家は親に許可を取っているならいい。ただ、なにか出されている課題を持ってこい。ゲームだけをするのは許さないからな。あとスタ連するな、うるさい』
送ったあと、スマホ画面を閉じた。
早く小説の続きを読もう。続きが気になる。さっき読んでいたページを探す。手元にしおりがなくて仕方なく閉じたんだ。どこだったか……。
あった。ここからだ。その少し前から読み始めていく。
「…………」
面白くなってきた。もう物語のラストだ。このあとどうなるんだ……。
心中で盛り上がりを見せていると、突然スマホが鳴り出した。今度はチャットではなく電話のようだ。なんだ、いいところなのに……。
あまりにもいいところだったので、画面に出る「拒否」を押してやろうかと思った。が、相手はギルのようなので、本を読みながら受け流そう。どうせくだらない話しかしない。
「どうした」
読んでいた行に目を移しながら言う。なにを言われても答える気はさらさらにない。
「あ、れーくん。えへへ……あのね気づいてる?」
「ああ」
「え、気づいてるの! あのれーくんが」
「ああ」
「れーくん……?」
「…………」
僕の返答に違和感を持ったのか、なにも話されない時間が数秒過ぎる。
「……れーくん今本読んでるでしょー? もー電話のときくらい読まないでよー。俺悲しくなっちゃうよ?」
「…………」
あぁ……。そういうことだったのか……。犯人がこんな心の優しい人だとは思っていなかった……。動機があまりにも悲しすぎる……。
ギルがなにかを言っている間に読み切った。そして読後の余韻に浸っている。
「ちょっとれーくん?」
少し余韻に浸れば、この本のあとがきに目を通していく。
「蓮さん」
……ん? 聞き慣れない呼び方に、つい電話に意識を移した。
「こんにちは」
「……ギルの電話じゃなかったか」
「やっぱり気づいてないー」
ギルの声が聞こえる……。ナツキの声は幻聴だったのか? 僕はいつナツキに執着してしまったんだ。
「初めにも言っていたがなんの話だ」
「はぁー、人の話聞かずに本読んでるからー。これ、グループ通話なの」
グループ通話……? なんだそれ。
「チャットのほうでれーくんとナツキくんと俺のグループチャット作ったから、こうやって三人で通話もできるんだ」
……話が追いつかない。が、これだけはわかった。
「よくわからないが、とにかくギルが勝手にしたんだな」
「あははは。そゆことー」
「僕にはギルさんからお話聞いていたんですが、蓮さんには教えてなかったみたいですね」
「言われていても、全て呪文のように聞こえていただろう。それに、なにも言わずに事を進めるのがギルだ。どうにもならない」
「あはは、れーくんに先に言っちゃえば、ほとんど嫌がるんだもーん。そりゃ言わずにやっちゃうよ」
かなり迷惑だが、僕がこんな性格をしているからなんだろうな。僕が悪い。そんなギルでも大事なことなどはきちんと言うからいいだろう。
「で、今回通話した意味は」
「ないよ。あははは。つながるかっていうお試し。俺もこれ初めてだったから」
「なら切る」
「え、ちょっとまっ」
切った。が、これは僕だけが切れているのか? ギルとナツキはまだつながっているのか? 僕が切ったことで全員切れてしまうのか?
まあいいか。
――命ある生き物、特に人間は自分の思うがままに行動する生き物だ。だから、たとえ生を勧める者がいようとも、死を勧める者がいようとも、最終的には、自分の思うままに選んだ道を歩めばいい。
死を止める者はどう生きた責任を取る。生を止める者はどう死んだ責任を取る。言葉の重みを知らない奴の言葉なんて耳を傾けなくていい。地球くらいの重さがある言葉だけを傾けたらいい。
周りの言葉で自分が埋もれてしまうなら、耳を塞いでなにも聞こえなくしてしまえばいい。目を閉じてなにも見えなくしてしまえばいい。
自分の人生なんだから、もっと自由に生きろ――
そう、教えてくれた。
大切な本が言っていた。
「早咲きの蓮華は地面咲いた」の一作目、「大切な本」を投稿しました。
この初めのお話を読んでいただき、今作の雰囲気が伝わったのでと思います。次作を読みたいと思った方もいれば、べつにいいやと思った方もいると思います。
ぼくはこういったお話の内容で、彼らを描いていきたいとおもいます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。どんな評価でも、ご感想でもお待ちしています。お気軽に評価やご感想を書いていってください!続きが読みたいと思った方はブックマークもしていってください!
ありがとうございました。