貌
海岸に沿った丘道を半キロほど上がって行くと、『奈落の縁』と呼ばれる、高さ三十メートルほどの断崖がある。
そこは、地元の人間は誰一人近づくことのない場所だった。
古の昔から、奈落の縁から身投げする人が後を絶たず、
「身投げしたら最後、その身は海底にある穴に呑みこまれ上がる事はない。」
と、地元の漁師は言う。
この地に越してきて間もなく、美加はこの奈落の縁に向かった事がある。
その時は興味本位だった。
だが、雑木林を抜ける前に引き返してしまった。
突然、妙な胸騒ぎがしたからである。
美加はその時の胸騒ぎが気になり、奈落の縁の事を調べはじめた。
地元郷土史研究家が、三十年以上前に著した郷土史・文化誌をみると、
奈落の縁は、八百万年から七百万年前に掛けて、連続的に発生した海底地震による地殻変動で、五十メートルほどの深さの海底に広がる、何層にも重なった火山岩層の最上層の扇状に突起した部分が、海上に隆起し形成されたものという。
その土台となっている海底の巨大な火山岩と火山岩が重なった部分に、直径四メートルほどの、丁度、人が口を丸く開けているような穴がある。
この穴は、奈落の縁が形成される過程と同時期に発生した、海底地震による地殻変動の影響で、重なり合った二つの巨大な火山岩層が、離合を繰り返して形成された洞窟で、数百メートル以上の深さがあるという。
郷土史研究家は、奈落の縁周辺の海域には、海面付近から海底にかけて四季を通じて海流があることから、これが身投げした人を海底まで引き込む可能性に言及していた。
洞窟内についても、人を呑みこむ海流が存在する可能性に言及していたが、何の根拠もない私見であり、憶測に過ぎなかった。
或る日、美加は、図書館の雑誌棚の片隅に、薄茶色に変色した小冊子を見つける。
それは、某水産大学教授の海洋学者が行った、奈落の縁周辺海域の調査の記録だった。
ニ十五年ほど前、身投げした人の亡骸が上がらないという、奈落の縁周辺の海域に興味を持った海洋学者が、この海域の海流と洞窟を、地元のプロダイバー三人の協力を得て調査したのである。
調査隊は海洋学者以下学生スタッフが五~六人で構成され、大学が所有する、各種の調査機器、機材を装備した海洋調査船を使用するという、かなり大掛かりなものだった。
調査は、周辺海域の海流、潮流の事前調査から行われた。
それによると、
海面より数メートル付近の深さから海底に向けて、帯状に這うような穏やかな海流が認められたが、これが身投げした人間の身体を、五十メートル下の海底まで引き込む可能性は低く、
また、洞窟の中へ向かう海流は認められず、洞窟の中に引き込まれる可能性は殊更に低く、潮の満ち干きが関係している可能性はさらに低い、ということだった。
つまり、奈落の縁から身投げした場合、この海域の海流、潮の流れからすると、亡骸は海岸に流れ着くのが自然、ということなのである。
これは、海洋学者が、事実から推定した仮説と、かけ離れた調査結果だった。
しかも、実際にダイバー隊の調査が進むにつれ、海洋学者が首を捻るような、常識から逸脱した不可解な現象が、次々に起こるのである。
ダイバー隊が調査を開始して早々、
洞窟の入口付近で、超音波深度計を使って深さを計測したところ、深度計の表示が二百メートルから千メートル超の間を行ったり来たりし固定されないという、不可解な現象が起こる。
何度試しても、深度表示が大きくブレて、固定されないのである。
それは、通常では考えられない現象であった。
海中で、何らかの予期せぬ自然現象が発生している可能性を考えた海洋学者は、ダイバー隊に、
「無理をせず、何か異変を感じたらすぐに引き返すように。と連絡をした。」
と、振り返っている。
長年の経験から、潜水角度と時間経過から、およその深さが計れる技術を習得していたダイバー隊は、洞窟内入口で一旦立ち止まり、周辺の安全を確認すると、果敢に洞窟の中へ入って行ったのだが・・・・。
ダイバー隊が、洞窟の中に入って間もなくのことである。
急に海水温が低下し、氷水に浸かっているよう感覚に陥ったのである。
さらに、三十メートル程度潜ったあたりから、底に向かって渦を巻くような奇妙な海流があること、
さらに潜っていくと、真っ暗な洞窟の遥か奥底に、ろうそくが灯るような奇妙な薄明りが見えることなど、不可解な現象が続いたのである。
それでもダイバー隊は調査を続行したのだが、最終的に調査を断念させたのは、どの地点で計っても、固定されない洞窟の深さだった。
およそ六十メートル地点から百メートル地点まで、十メートル潜る度に計測を試みたのだが、深度計の表示は、二百メートルから千メートル超の間を行ったり来たりし、固定されないという現象が続いたのである。
これ以上の調査は危険と判断した海洋学者は、ダイバー隊に調査を中止する連絡をし、ダイバー隊は、やむなく、洞窟内深度およそ百メートル地点を過ぎた所で引き返したのだった。
超音波深度計の故障は、なかったという。
海洋学者は、一連の不可解な現象の発生について、何らかの自然現象の影響を疑ったが、調査時に自然現象が発生したという科学的データは得られず、原因は不明のまま調査を終えている。
海洋学者は、この洞窟を、奈落の縁ならぬ『奈落の洞窟』などと揶揄した上で、
「海中に没した身が、海底に向かう海流及び潮流に乗り洞窟の中に入り込めれば、洞窟内の底に向かう海流によって、呑み込まれる可能性は否定できない。」
という、何とも曖昧模糊とした見解を残すにとどまり、奈落の縁から身投げした人の亡骸が上がらないという事実を、科学的に証明することは出来なかった。
当時、この海洋学者が行った調査は地元以外でも話題になり、この洞窟が注目される契機となったようだが、この調査以後、この洞窟の調査は行われることはなかった。
美加は、地元紙を三十年ほど遡って見てみたが、ニ十五年前、海洋学者が行った調査を、
『奈落の縁―亡骸の行方』などと題して記事は掲載されていたが、
亡骸が海上や海岸に上がったという記事は見当たらなかった。
ただ、奈落の縁から身投げした人を見たという幾つかの目撃情報が、毎年のように、コラム記事で取り上げられているだけだった。
ところが、四カ月前の事である。
この海岸に、生前の姿をとどめたままの、若い女性の亡骸が打ち上げられた。
地元の漁師は、沖を往来する船から転落したか、この海岸で自ら入水したに違いないと皆口を揃えたのだが、この若い女性がほとんど海水を飲んでいないことから、地元警察は奈落の縁から身投げし入水した際の衝撃で息絶え、亡骸は、そのまま海流に乗ってこの海岸に流れ着いた、と結論づけた。
地元の漁師は、
「縁から身投げして、海岸に流れ着くはずがない。」
と反論したが、数日後、この若い女性が奈落の縁から身を投げた瞬間を目撃したという人物が現われれば、
「見間違いじゃないか。仮に奈落の縁から身投げしたとして、一週間も漂い続けて、無傷でいられるはずがないじゃないか。」
と口々に言って、引き下がろうとしない。
詳しい事情は不明のまま、亡骸は遺族に引き取られたのだが、
「縁から身投げして、海岸に上がるはずがない。」
「一週間も漂って、無傷で上がるとは奇跡だ。」
などと、地元漁師の間で囁かれ続けている。
美加は、若い女性の亡骸が、一週間もの間、海中で揉まれ、海上を漂ったとして何故無傷だったのか疑問は残るが、事前調査で海洋学者が述べていたように、この海岸に打ち上げられたことの方が自然の流れのように思えた。
奈落の縁から投じた身が、この海岸に流れ着かなかった事こそが、不吉な気がしてならず、そこに人知を超えた邪悪な意思を感じるのだが・・・・。
美加は、若い女性の亡骸が海岸に打ち上げられてから、惹きつけられるように此処に立つようになった。
この穏やかなることを魅せつける海面を見つめていると、冷たい海に身を投じた人びとの悲哀、苦悩、絶望に満ちた形相が目に浮かぶようだった。
一体、亡骸は何処に消えたのだろうか。
何故、若い女性の亡骸だけが、海岸に流れ着いたのだろうか。
フェンスの五メートル先は、奈落の縁である。
縁の端から端まで立てられたフェンスには、二行にわたって、
『これより先は立ち入り禁止。連絡先―0×××―4×―2×××』
と、書かれた真新しい看板が掛けられている。
網目が大きく歪んだ箇所がいくつもあるフェンスを見れば、嫌でも、少なからずの人がこのフェンスをよじ登った事が分かる。
『どんな思いで、このフェンスをよじ登っていったのだろう。』
と、美加はフェンスを見上げながら想い、そっと眼を瞑った。
すると、自然に、奈落の縁から底なしの洞窟の入口へと意識が誘われていく。
意識が洞窟の入口に達すると、突然、黒い影が現われ、穴の中へ引き摺りこまれそうになり、美加は、はっとして目を見開いた。
それは、いつも見る夢と同じだった。
顔に、その人の本性が見えてしまうという、忌まわしい能力をもって生まれたが故に、
人の顔から目を背け、恐ろしい事象が出来する予感に脅えながら生きなければならないという運命が、美加の心に重くのしかかる。
そして、この宿命からは決して逃れられないことを、悟るのである。
だが、それは、宿命のはじまりに過ぎないことを、美加はまだ知らない。
美加はふたたび、穏やかなる海面を見つめた。
唐突に、美加の心の奥底まで突き刺すような冷たい風が、沖の方から吹きつけてくる。
背後の雑木林がざわつきはじめ、幾つもの雲の塊が西から東へと、行く川に落ちた大小の木の葉のように流れていく。
美加は、乱れる長い髪を首根で抑えつけた。
「あっ!」
突如、美加は、凄まじい強風に襲われた。
強風は、縦横無尽に吹き荒びながら、美加の全身を舐めるように行き交い、包み込んでいく。
美加は堪らず、その場にしゃがみ込んだ。
その時、だった。
吹き荒ぶ風の中に大きな黒い影が現われ、美加の身体をすっくと抱え込むや、軽々とフェンスを飛び越え、崖下の海へ堕ちていったのである。
ストンッ・・・・。
「うっ、うぅぅぅ・・・・。」
起き上がろうとしても、胸の周辺から全身にかけて鋭い痛みが走り、起き上がれない。
美加は痛みに苦悶しながら、そのまま目を瞑った。
頬に落ちる滴りが、美加を目覚めさせた。
全身ずぶ濡れだが、何故か冷たさを感じる事はない。全身をかけていた鋭い痛みも、嘘のように消えている。
美加はおもむろに上半身を起こし、辺りを見回した。
自分の周りを、くすんだ薄赤の光が覆っている。
その向こうは、暗闇だった。
『此処は、何処・・・・。』
美加は、朦朧とする意識の中で思った。
怖ず怖ずと頭上を見上げれば、丁度真上遠く、穴のように見える一帯が薄明りを得て陽炎のようにゆらゆらと揺れている。
『あそこは・・・・』
しばらく考え込むように穴を見つめていた美加が、はっと気づいたような表情を見せた。
穴のように見える一帯は、海底の岩間にある洞窟の入口だった。
美加は、何ものかによって奈落の縁から海中に堕とされ、あの穴から洞窟を抜けこの空間まで堕ちてきたのである。
美加は、ゆっくりと身体を起こし地べたに坐り込んだ。
震える両の掌を広げ、じっと見る。
『・・・・これは、夢ではないわ。』
美加はそう意識すると、息を呑みこんだ。そうして、再び頭上を見上げた。
『そうだわ。みんな、あそこから、引き摺り込まれたのね。』
美加は確信すると、急に恐ろしい不安に襲われた。
『でも、どうして、私までが・・・・
いったい、此処は何処? みんな何処に行ったの。何があったの・・・・。』
美加は心の中で神妙に呟きながら、みたび、遠くの穴を見つめた。
・・・・と、このくすんだ薄赤の光に覆われた空間と暗闇の境目で、妙な気配がする。
美加はのろのろと立ち上がると、ずってニ、三歩進んだ。
数メートル先に目を凝らすと、大きな掌くらいの黒い渦があちこちで起きている。
「きゃぁっ!」
美加は、驚いた拍子に尻もちをついた。
渦の一つから、何ものかが張り付くように、ぬっと浮かび上がったのである。
それは、浅黒く、灰色の目は捕食者に睨まれた小獣のように怯え、鼻は崩れ唇が下卑に捲れあがった顔だった。
その顔は、美加を一瞬見て闇の中に消えた。
「あれは、人間の成れの果てでな。」
何ものかの声が、すぐ背後から反響するように聞こえてくる。
その声の主は、美加を奈落の縁から堕とした怪人だった。
「きゃあぁ―!」
美加は振り返り様に叫び、身をよじりながらずるずると後退る。
「人間の、成れの果て・・・・あなたは、いったい・・・・」
仁王立ちした怪人は、全身を覆う蒸気のような炎を通して、その姿がはっきりと浮かび上がっている。
人間の姿はしているが、目は夜叉のように吊り上がり、頬に深い斬傷のような皺が何本も刻まれている。
「・・・・私を、此処に、堕としたのは、あなたなのね。」
美加はたどたどしく言った。
このくすんだ薄赤の光の空間の周囲で、黒い渦があちこちで連続的に起きはじめている。
何体もの成れの果てが、この空間の周りに集まり、動止を繰り返しながら動き回っているのである。
「ふむっ、この地獄で、残飯を漁って何十年も逃げ回っておれば、みな、ああなる。
だが、よくも今まで、逃げ果せて来れたものだ。」
怪人は言った。
「地獄? 此処が? まさか、嘘よ、そんなこと・・・・」
美加は落ち着きなく、辺りをきょろきょろと見回しながら言った。
「嘘? じゃ、お前は、此処を何処だと思うのだ?」
「此処は・・・・」
と、美加は茫然として何かを言い掛け、口を噤んだ。
「まぁ、良い。自分の目で見るがいい。」
怪人はそう言うと、くすんだ薄赤の光の空間とともに、暗闇に吸い込まれるように消えた。
突如、辺りは一点の光もない暗闇となった。
「あっ! うっ、ぅぅ・・・・」
美加は、恐ろしさのあまり、身体を屈め抱え込んだ。その身体は、ぶるぶると震えている。
身をよじるのも恐ろしいほどの静寂の中、何処からともなく、ヒタ、ヒタ、ヒタ・・・・と、水が滴り落ちるような音が聞こえてくる。
美加は、必死に暗闇の恐怖に耐えていた。
ポットン・・・・。
突然、深い水たまりに、石ころが投げ込まれたような音が聞こえた。
それが合図のように、暗闇から、途方もなく広がるパノラマのような暗澹とした世界が、ぼーっと浮かび上がる。
「これは、なに・・・・」
美加は戦慄き、傷病人のようによろよろと立ち上がる。
見渡す限り、そこら中にあるごつごつとした漆黒の堆い山、その山のふもとからは赤黒い猛火がもうもうと立ち昇り、猛火の上をめらめらと上昇する煤けた灰色の烟が、上空を巡りながら地表に還り、世界全体を烟らせている。
果てしなく広がる天上は、血に墨を滴り落としたようなまだら色に染まり、その中を、無数の歪な杓子のような黒い塊が、生き物のように波を起こし、のそのそと泳ぎ回っている。
地上と天上が交わる事のないこの世界の先には、想像もできないほど恐ろしい地獄の七界が待ち受けているのである。
「こ、これが・・・・地獄・・・・」
美加は、急に眩暈がし息苦しくなった。
此処は、おぞましい瘴気に満ちている。
突如、黒光りする大きな塊が何処からともなく現われると、暗紫色の尾烟を残しながら縦横無尽に飛び交いはじめ、同時に、凄まじい異臭が鼻を突く。
血肉が腐ったような異臭が、漂いはじめたのである。
「うっ!」
美加は堪らず、内肘で鼻を抑えつけた。
黒光りする塊が、山を目掛けて、ボッ、ボッ、と鈍い音を発して次々衝突する光景が見える。
その塊が衝突するたびに、山と麓の周辺がぱっと白色の光に照らされた。
山は何かが堆積してできたように見え、山の麓からもうもうと立ち昇る猛火の周辺には、岩塊や木片のような残骸破片が大量に散乱しているように見える。
黒光りする物体が衝突する最中、何処からともなく、吼声が聞こえてくる。
その吼声は、はじめのうちは、人間の遠声のように響きながら、だんだん近づいてくる。
近づくにつれて、下種でいかがわしく、良心のかけらも感じられない狂獣と思しき唸り声へと変わっていく。
ガサッ、ガサッ、ズルッ、ズルッと、そこら中に散乱する破片を踏み潰す音と、何かを引き摺るような音が重なって聞こえてくる。
姿は見えないが、何ものかが、すぐそこまで近づいてきている。
美加の全身から、血の気が引いていく。
突如、黒光りする塊が次々と空間でぶつかり合い、白色の光に晒されたのは、おぞましい魔物の姿であった。
魔物は、全身泥褐色の身の丈三メートルはあり、四足の獣が立ち上がったような体躯をし、
身体中にある、醜くく崩れた大小の疣、
不揃いのザクロの実のような頭、
耳は無く、そこは歪に大きく抉れ、
吊り上がった真っ赤な一つ目、
歪な穴二つだけの鼻、
口は左右に吊り上がるように大きく裂け、
獰猛な鮫のような歯が密集している。
卑しく涎をだらだらと垂らしたその姿は、邪悪を極めた地獄の獣の象徴であった。
魔物は三本指の右手で、成れの果ての足首を掴み引き摺っていた。
成れの果てはギェー、ギェーという金切声を上げながら昆虫のように蠢き、その左上半身は未完成のパズルのように欠けている。
魔物が、喰らったのである。
すると、成れの果てを引き摺る魔物の真っ赤な一つ目が、美加に向けられた。
同時に、黒光りする塊が次々と空間でぶつかり合い、白色の光が次々と魔物の姿を曝け出していく。
逃げる成れの果てを、追う魔物、
成れの果ての身体を、引き千切る魔物、
その場に坐り込んで、成れの果ての肉にしゃぶり付く魔物、
倒れ込んだ成れの果てを、踏みつぶす魔物、
成れの果ての頭部を鷲掴みし、徘徊する魔物、
喰い終わった成れの果ての骨を、地面に吐き出す魔物・・・・
七体のおぞましい魔物の姿が否応なく、美加の視野に入ってくる。
七体の魔物の足下で、何かがトカゲの尻尾のように、もそもそと蠢いている。
それは、魔物に引き千切られた成れの果ての肉片、臓肉片だった。
この地獄では、たとえ肉一片が腐っても生き続けるのである。
辺り一面を埋め尽くしている破片は、喰い尽くされたあと、魔物が吐き出した成れの果ての骨。
時を置かず、他の魔物も美加の存在に気付き、真っ赤な一つ目を次々と美加に向けてくる。
美加は、金縛りにあったかのように動けなくなっていた。
何処からともなく、十数人の人間が現れたのはその時だった。
彼らは、一様に、腑抜けた人形のような表情をしてあたりをふらふらしている。
「あの人たち・・どこから・・・・。」
美加は悚然として独り言ちた。
「地獄に通じる入口からだ。無論、あの奈落の縁からもな。」
怪人は、いつの間にか美加の背後に立っている。
「地獄に通じる、入口・・・・」
「そこは、死を望む者が訪れる地所にあり、それは、十三を数えよう。」
「十三も・・・・」
美加は恐ろしい予感がした。
黒光りする塊が次から次へとぶつかり合い、辺り一帯を白色の光が照らし続けている。
七体の魔物の真っ赤な一つ目が、一斉に、次の獲物に向けられた次の瞬間―
魔物らは、成れの果てを追うのを止め、鷲掴み、引き千切り、踏みつぶし、喰らっていた成れの果ての残骸をそこいらに放り投げ、次々と生身の人間に襲い掛かかる。
それは、身の毛が弥立つほど、恐ろしい光景だった。
人間の二倍もの巨躯が、想像も付かないほど素早い動きで人間に襲いかかり、
一瞬のうちに、頭、腕、足、胴体を喰いちぎり臓肉ごと腹に入れていくのである。
そこいら中に肉片、臓肉片が飛び散り、血が赤い吹き矢のように飛び散り、そして、点状に迸る。
獲物は、悲鳴を上げる暇すらない。
それほどに凄まじい魔物の膂力、邪悪な本性だった。
獲物が無くなると、彼奴らは互いの掌中にある獲物の肉を奪い合う。
その有様は、共喰いしかねないほど獰猛で野蛮極まりないものだった。
魔物の前では、人間はただの肉塊、餌だった。
腹を満たした魔物らは、満足げに長い緑色の舌でなめずりながら、上空に向かって骨を吐き出している。
吐き出した骨は、上空を舞いながら、黒だかりの山に降り注いでいった。
「あっ、あぁ・・・・酷い、酷すぎる・・・・」
美加は跪き、両手で顔を覆い咽び泣いていた。
「酷すぎるか? ふふっ、ふふふ・・・・。」
怪人は不気味に嗤いながら、美加を探るように見ている。
すると、美加は、突然、わなわなと震えだし、低い悲鳴を上げながら、その場に平伏した。
此処に堕ちてからというもの、千数百年という遥か遠い過去から今に至るまで起きた事象の断片が、美加の深層の記憶回路に次から次へと刷り込まれていくのである。
それは、何の筋道もモラルもなく、ただ冷酷、残忍で人間の邪悪な精神と欲望が交叉し出来した、おぞましい事象の断片の数々であった。
「そんな、嘘よ・・・・」
美加は声を震わせながら言った。
「ふふっ、人間の欲望は尽きぬものよ。そうであろう?」
怪人はそう言って、にやりとした。
「いやよ、もう何も知りたくない、たくさんだわ!
私を此処から帰して! 私をあの化け物の餌にしようというなら、早くそうしたらいいわ!」
美加は叫んでいた。
そうしている間、七体の魔物が、美加に、じっと、視線を向けている。
「ふふっ、お前の望み通り、戻してやろう。だがな、その前に・・・・」
怪人は言いながら、魔物一体一体に目配せしている。
「見ろ。」
怪人はそう言いながら、顎をしゃくりあげた。
七体の魔物が、次第に美加に近づいてきている。
「いったい、何なの、私を、どうしようっていうの・・・・。」
「さぁ、決めるのだ、お前自身がどうするのかをな。」
美加を見据えながら、怪人は言った。
「決めるって、何を、決めればいいのよ。」
美加は立ち上がってじりじりと後退るが、もう後がない。
「聞こえたら、ただ思えばいいのだ。自分が、どうするのかをな。」
怪人はそう言い終えると、空間に吸い込まれるように姿を消した。
怪人が姿を消すと、魔物は縄を解かれた獣のように、ひたひたと美加に迫ってくる。
「や、やめて・・・・こ、来ないでよ! きゃあぁ!・・・・」
美加は、空間を張り裂くような叫び声を上げた。
さらに、魔物が迫る。四メートル、三メートル・・・・。
「た、助けて・・・・」
そのまま、美加は意識を失った。
脇腹の冷たさが、美加の意識を引き戻した。
あたりはまだ薄暗く、海岸道路端にある光度の低いオレンジ色の光が、辺りを気弱に照らしている。
美加は震える両腕で上半身を起こし、あたりを見渡した。
此処は、海岸だった。
美加は奈落の縁から地獄に堕とされ、この海岸に戻されたのである。
止まっていた腕時計が、動いている。
時間は五時を回ったところだった。
恐ろしい事に、あのおぞましい世界に、十二時間以上居たことになる。
美加はようやくと立ち上がり、駅に向かって歩き出した。
足取りは、鉛の靴を履いているかのように重い。
駅前を通り過ぎ、商店街を抜けて緩やかな坂道を上がって行くと、象牙色をしたこじんまりとしたマンションがある。そこが美加の住処だった。
閉じ鍵も不確かに部屋に入った美加は、リビングのソファーにくの字に倒れ込んだ。
次々と脳裏に浮かぶ、地獄のおぞましい情景。
いかがわしい瘴気と、凄まじい異臭が漂う暗黒の世界、
衝突し白色の光を発する、黒光りする物体、
恐ろしい姿をした、地獄の魔物、
魔物に喰われて上半身が欠けた、人間の成れの果て、
魔物に襲われ喰われていく人たち・・・・
全て、夢ではない、自分の目前で起きた事象だった。
美加は思い出すほどに震え上がり、身を竦ませた。
『そこは、死を望む者が訪れる地所にあり・・・・。』
怪人の無機質な声が頭の中で響く。
『地獄に通じる入口が十三も・・・・。そこから入って来た人が、魔物の餌に・・・・。
どうしてなの、どうして人間が魔物の餌にならなければならないの・・・・。
あの怪人は何者なの。私をあの地獄に堕として、私に何をしたの。いったい、私はどうなるの・・・・。』
美加は不安に苛まれ身をよじる。
怪人の夜叉のような目と、頬に深い斬傷のような皺のある顔が、美加の目に焼き付いている。
何よりも、美加には疑念があった。
何故、あの地獄から、生きて戻されたのだろうか。
地獄に迷い込んできたあの人たちのように、足を踏み入れたら最後、魔物の餌となり肉一片になろうとも永遠に生き永らえる、あの恐ろしい世界から。
そして、美加は慄然とする。
迫り来る魔物を目の前にして、私は意識を失い、何処かに連れて行かれ・・・・。
朦朧とする意識の中で見えた暗紫色の瘴気、そして、聞こえてきた背筋も凍るような恐ろしい声。
その声は、私に、
『二つのうち一つを選べ。』
『地獄の主の下僕となるか、それとも、魔物の餌になるかを。』
と、言った。
美加は、下僕となることを選んでいたのである。
「あぁ・・・・お母さん、助けて・・・・。」
美加は恐ろしかった。
だが、すでに、美加の意識下に在る闇の力が目覚めようとしていた。
刷り込まれた断片的記憶が一本の線で繋がり、次第にその素性が明かされていく。
「うっ、ぅぅ・・・・」
身体中に感じる火照りと、疼くように鼓動する心臓。
美加は洗面所に立ち、水道の栓を捻った。
水が勢いよく、流れ落ちる。
流れ落ちる水を両手で抄って顔にあてがい、鏡に向かった。
水が滴り落ちる自分の顔が、鏡に写る。
鏡面が、陽炎のようにゆらゆらと歪んだその時、
「きゃあぁ!・・・・」
美加は絶叫した。
夜叉のような目、頬に深い斬傷のような皺が刻まれたおぞましい顔が、鏡に映し出されたのである。
了