7(生き字引)
(筆者註:本文中に表記できない文字があるため、ルビを振って代用しています。「濁点」は濁点をつけて、「小」は小文字として、「下線」は下部に線があるものとして読んでください)
春先生は、本名を三春薺という。
でも大抵の人は(先生たちも含めて)、三春先生とはいわずに、春先生と呼んでいる。そのほうがしっくりくるからだ。それはたぶん、木偏に花と書いて、「椛」と読ませるようなものだった。
犬のしっぽみたいに癖がかった髪は、雪と同じくらいの白色をしている。ちょっと大きめの、金属フレームの眼鏡をかけていて、その奥にある瞳は昔の駄菓子によく似た感じの優しさだった。福々しいというほどではないけれど、やや小太りの、丸い顔をしている。顔のしわは、大福的な柔らかさだった。
春先生は、実に春先生なのだった。
そして春先生のもう一つの異名(?)は、〝鵬馬高校の生き字引〟という。
二十代の頃からずっとこの高校に勤めていて、定年退職したあとも、非常勤講師として授業を教えていた。担当は、現代国語。それこそ春の大地みたいに温和だし、注意したりたしなめたりするときでも、感情的になったり居丈高になったりしない。授業もわかりやすくて、生徒たちからは人気だった。
非常勤だから学校の行事や部活動に参加することはできないのだけど、文芸部にはよく顔を見せていた。壊れかけのオーブンみたいにあまり熱心とはいえない顧問の先生と比べると、あたしたちと春先生のほうが、よっぽど関係性は深い。
「三春先生に、お聞きしたいことがあります」
と、先輩はまず言った。先輩は春先生のことを本名で呼ぶ、少数派だった。
先輩とあたしは、放課後の職員室にやって来ていた。大半の生徒は帰宅したり、遊びに出かけたり、部活に行ったりしているので(あたしたちもそうなのだけど)、室内にはほとんど先生の姿しかない。先生たちはみんな、明日の授業の準備や、今日の残務処理なんかで忙しそうだった。当然だけど、先生たちだって毎日の予習・復習をしなくちゃならないのだ。
喫茶店とまではいかないにしろ、わりと静かな職員室の中で、春先生は自分の机に座って作業をしているところだった。どうやら、小テストの採点をしていたらしい。
「……あら、どんなことですか?」
ペンをとめて、春先生は先輩のほうを向いた。仕事の邪魔をされても、昼寝中のゾウアザラシくらい気にした様子はない。
「学校であった、少し昔のことについて知りたいんですが」
「昔って、どれくらいのことかしら?」
自分の部屋の本棚と立派な図書館が違うみたいに、ただの昔も半世紀くらいあると簡単にはいかないらしかった。
「大体、五年前から十年前のあいだのことです」
半世紀が十分の一まで縮まったわけだけど、それでも五年の長さがあった。考えてみるとそれは、あたしの人生の三分の一くらいなわけである。
「ずいぶん漠然としているけど、一体その時期のどんなことを知りたいのかしら?」
もっともな質問に、先輩とあたしは目をあわせた。でもそれは儀礼上のアイコンタクトであって、深い意味があるわけじゃない。
「実は――」
と先輩はちょっとためらってから、これまでのことについてかいつまんで説明をはじめた。
壁の事件については春先生も知っていたので、話は意外と早かった。あたしたち(主に先輩)が調べたことを、順序よく伝えていく。砂粒で浮かんできた詩、ブラックライトで光る文字、文章の空白と壁の補修、湖についての記述――
「何だか、面白そうなことになってるわね」
と、春先生は楽しそうに言った。文芸部の活動とは月とすっぽんくらい無関係だったけど、そんなことでいちいち叱ったりしない。生徒から人気があるはずだった
「壁のことは、そういえばそんなこともあったかしら。たいした地震じゃなかったけど、それなりに揺れはしましたからね」
「その頃のことで、何か思いあたることはありませんか?」
先輩は料理人が鍋の火加減でも見る感じで訊いた。
「どうかしらね――」
無理もないけれど、春先生は煮えきらない態度だ。
「いろんなことがあったといえばあったけど、その話に関係するようなこととなると、ちょっと思いつかないわね。大きなトカゲが迷い込んできたり、校舎に雷が直撃したり、化学実験室で火事があったり」
なかなか聞き捨てにならない話ばかりだけど(特に最後のは)、今は関係がなさそうなのでそのままごみ箱に移動させてしまう。
「とりあえず、日記を読み返してみましょうか」
春先生は飛んでいる風船をいくつかつかもうとするみたいに言った。
「何か変わったことがあれば、書いているはずよ。もっとも、あまり期待されても困りますけど。せいぜい、犬が棒にあたるくらいに考えておいてね」
「すみません、お願いします」
と言って、先輩は礼儀正しく頭を下げた。あたしも慌てて、その半分くらいの礼儀正しさで頭を下げる。
「あら、いいんですよ」
春先生はあくまで、春先生っぽく朗らかだ。
「ちょっとそそられる話ですからね。見えない文字で日記のやりとりだなんて、ロマンチックだわ。一体、どんな二人だったのかしら?」
確かに、それはあたしも気になっているところだった。
とりあえずの用事はすんだので、先輩とあたしはその場から立ち去ることにする。職員室では先生たちが相変わらず、大人しい鳥みたいに仕事を続けていた。
その帰り際に、春先生はちょっと思い出したみたいに言った。
「ところで二人とも、文化祭の準備は進んでますか?」
「……かなり先のことですよね」
あたしは一応、控えめに確認しておくことにする。文化祭までは、まだ半年くらいあるのだ。三年も先のことじゃないとはいえ、鬼がどんな顔をするかはわからない。
「あら、半年なんてあっというまよ」
春先生は笑って言った。
「〝月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也〟――光陰矢のごとし、ね」
あたしたちの四倍以上も生きている先達が口にすると、それは実に説得力のある言葉ではあった。
――春先生が先輩とあたしを訪ねにやって来たのは、次の部活動の日だった。
「調べてみたら、ちょっと気になることがありましたね。あの壁と関係があるかどうかはわからないけど」
そう言って、春先生は一枚のコピー用紙を机の上に置いた。特にどうということのない普通紙には、何だかよくわからない文字列が印刷されている。
〝ををさはをそ はち そちに
とをはねはをきは いぞれ はゆ
おくちをそ ねおゆ
ほせべちをそ はをゑ〟
それから、各文字列の最後にはすべて〝Y〟という記号がつけられていた。
「何ですか、これ?」
あたしはフランス料理のメニューを見せられたときと同じくらいの、よくわからない顔をした。
それに対して、春先生はこともなげにこう答えている。
「〝暗号〟、じゃないかしら?」
……暗号。
今までの人生で、クイズや小説以外の、生の暗号なんて初めてだった。どこかの少年にならって、父さんは嘘つきじゃなかった、と喜ぶべきだろうか。
「……これは、すべてこのYに似た記号がつけられていたんですね?」
そんなあたしを差し置いて、先輩は列車の運行時間を守る機関士のごとく、いつもの冷静さで言っている。
「ええ、そうよ――何のことかはわからないのだけど」
「この暗号は、学校にあったんですね?」
「私が見かけたものは、全部そうね。ほら、生徒玄関のところに自由掲示板があるでしょ。入部の勧誘だとか、イベントのポスターが貼ってあるところ。あそこのところに、いつもいつのまにか貼ってあったの」
「期間は、いつ頃のことですか?」
「たまたま見かけたものをメモしただけだから、気づかなかったもの、メモまではしなかったものもありますね。それでも最初に見つけてから、最後に見かけてそれっきりになったものまでは、九年から六年前のあいだということになるわね」
つまりは、先輩の言う十年前から五年前までのあいだに、ぴったり収まっているということだった。
そして、それは三年間続けられたことになる――
「掲示板に貼られていたのは、いつも印刷されたものだったから、そこから誰なのかを特定するのは難しいでしょうね。私が知るかぎりでは、目撃者もいませんし。いつも、誰も気づかないうちに貼られていて、誰も気づかないうちに剥がされていたわね」
「…………」
先輩は黙って、その文字列を見つめていた。あたしにはどう考えても意味不明だけど、見る人が見ればわかるものなのかもしれない。どこかの大佐も、手帳を繰りながらそんなことを言ってたっけ。
「はっきり言って、私にはこれが壁の文章と関係があるものかどうかはわかりませんね」
と、春先生は犬のおまわりさんくらいに困った顔をして言った。
「でも、志坂さんの言う条件で、何か変わったことというと、これくらいしか思いつかなかったのよ。役に立てなくて申し訳ないのだけど」
そう言われて、先輩は小さく首を振った。
「こちらこそ、無理を言ってすみません。今のところはっきりはしませんけど、もしかしたら何か重要なことがわかるかもしれません」
「そう? まあ何はともあれ、がんばってちょうだいね。あと、謎解きもよいけれど、勉強もしっかりしておくこと」
先輩とあたしはお礼を言って、春先生は帰っていった。あとには机の上の紙と、ある意味では勉強より難しそうな、謎の暗号が残されている。
「どうですか?」
あたしはハムスターが回し車をまわすみたいに、自分でもよくわからないまま言った。
「……さっき先生にも言ったけど、今のところはよくわからないわね」
まあ、それはそうだ。神様だって、世界を創るまでには六日間かかったのだから。
「この暗号、あの交換日記と関係あるんですかね?」
あたしはもう一度、謎の怪文書を眺めてみた。何度眺めたって、もちろん答えが浮かびあがってきたりはしない。
「条件的には、可能性はあるわね」
先輩は足場に気をつけるみたいにして、慎重に言う。
「時期は一致してるし、ここの生徒だったっていう仮定ともあう。行動の種類として、秘密めいたところなんかは、同じ系統といってもいい――」
「類は友を呼ぶ、って感じですね」
「……当たらずとも遠からず、というところよ」
「ふうむ」
と、あたしは腕組みして、古いゲームのパスワードなみに意味不明なその文字列に目をやった。
――何にしろ、謎が謎を呼んだことだけは確かみたいである。