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詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない  作者: 安路 海途
① シャーロック・ホームズによろしく
7/87

5(仮説の提出とその検証)

「――中国では黄河を中心とした華北に、まず大きな文明が栄えた」

 世界史の授業では、男の先生が教壇に立って、古代中国の歴史について話をしていた。黄河文明、竜山文化、稲作、甲骨文字、夏・商・殷・周、エトセトラ――

 教室は古代っぽい沈黙に覆われていて、照明の明かりまで何だか古代っぽかった。先生が黒板に字を書くと、それに続いてノートをとる音が聞こえる。もちろんそれは、亀の甲羅や獣の骨じゃなくて、白い紙が使われているのだった。時代は進歩したのである。

「…………」

 あたしは気の進まない顔のまま、同じように黒板の内容をノートに写していた。細かな違いや問題はあるとはいえ、要するにそれは、もう終わってしまった昔の出来事でしかない。

 ――そうして、あたしは例の壁に書かれた詩のことについて考えていた。

 結局、先輩の推理は正しかったことが証明されたのである。壁に書かれた詩は、特殊なインクを使ったものだった。そこに砂が吹きつけられ、文字の跡が白く浮かびあがった。そして一昨日、野球部の一年生がたまたまそれを見つけた、というわけである。

 というわけでは、あるのだけど――

 実はここで、新たな問題が発生したのだった。新たな問題というか、新たな謎が。

 それは、壁に書かれていたのが例の詩だけじゃなかった、ということだ。

 あのあと、先輩は壁のほかの部分もブラックライトで照らしていた。別に確信があったわけじゃなくて、ことのついで、という感じだった。石を投げたら鳥がとれたから、念のためにもう一羽とれていないか確認してみよう、くらいの。

 そしたら、本当にもう一羽とれていたのだ。

 というか一羽なんてものじゃなく、大量に。一網したら、打尽してしまったくらいの勢いで。

 そこにあったのは、光る文字の群れだった。壁には端から端まで使って、たくさんの文章が綴られていたのである。それだけの文章を書くのは、きっと長い時間と、多くの労力と、強い根気が必要だったに違いない。

 文章といっても、全部がつながっているわけじゃなかった。比較的短めのかたまりが、いくつも連なっているのだ。ほぼ横一直線に、まるで渡り鳥がまっすぐ北に向かうみたいに。

 書かれていた文章全部を読んだわけじゃないけれど、それは日々の出来事とか、近況報告といった、ちょっとした手紙みたいなものだった。

 例えばそのうちの一つは、こんな具合である。


〝――昨日は流星群でした。部活で帰りが遅くなったので、僕は途中の公園によって、ベンチに座っていました。時間的には少し早かったのだけど、変わり者の流れ星が一つくらい見えるかと思って。

 公園には誰もいなくて、街灯の明かりさえなくて、ただぼんやりした暗闇が広がっています。じっとしていると、体がクラゲみたいに透明になって、暗闇との境界が曖昧になっていく気がしました。

 空には街明かりが、ぼんやりした埃みたいに漂っていて、観測に最適な条件とはいえません。星の輪郭は滲んで、まるで色あせた古い絵でも眺めているみたいです。

 でも、やがて、星が流れました。

 それは思っていたよりずっと強く、光の痕跡を空に残しました。まるで夜空を、爪でひっかいたみたいに。光の残像はいつまでもそこにあって、手で触れられるような気さえしました。

 僕はその時ふと、人の一生もこんなものなのかもしれない、と思ったのです。長い長い、永遠に等しい時間の中で、一瞬だけ光の跡を残して消えていく。誰も気づかなくても、誰も知らなくても、その傷痕みたいなものだけは、夜の記憶としてそこにあり続けている、そんなふうに。〟


 たぶんそれらの文字を残したのは、あの詩を書いたのと同じ人物だった。そう考えるのが、妥当だろう。こんな手の込んだ、面倒なことをする人間が、偶然にしろ何人もいるとは思えなかった。

 だから問題は、誰が、何のためにこんなことをしたのか、ということなのだけど。

「――殷の紂王は悪政を行ったため、周の武王によって滅ぼされた。徳を失った王朝が別の王朝にとって替わられることを、中国では易姓革命と呼んでいて」

 教壇では先生が、午後の雨ふりみたいな声で授業を続けている。

「…………」

 あたしはやっぱり気の進まない顔で、もう終わってしまったそれらの出来事をノートに書き写していった。


 部室に行ってみると先輩はもうそこにいて、机のところに座っていた。壁の詩と謎の文章を見つけてから、休みを挟んで最初の日にあたっている。

「何か、わかりましたか?」

 入ってすぐ左手の荷物置き場にカバンを置いて、あたしは先輩の向かい側にあたる席に座った。

 今日はかなりの陽気なので、部屋の窓は開けてあった。風光明媚とはいえないにしろ、遠くのほうには緑の山なんかが見える。瓶詰めにされていたみたいな冬とは違って、新鮮で気持ちのいい風が吹いていた。このままだと、夏なんてあっというまにやって来てしまいそうである。

「――――」

 先輩はずっと、真剣な顔つきで手元にある携帯をのぞき込んでいた。それが中国の歴史を調べているわけじゃないのは、たぶん確実だろう。

 あのあと、壁に書かれた文章はすべて、写真に収めてあった。一つ一つをブラックライトで照らしながら、撮影したのだ。もちろんかなりの手間だったけど、何事にも地道な努力は大切だった。

 先輩が見ているのは、たぶん撮影したその写真だった。何だかんだ言っても、先輩も今回のことは気になっているみたいだ。

 本のページをそっとめくるくらいのため息をついてから、先輩は携帯から目を離した。そして、問題の一部がどうしても証明できないでいる、数学者みたいな表情をする。

「たいしたことはわからないわね」

 と、先輩はまず言った。

「文章はどれも断片的だし、欠けている情報が多すぎる。物理的に考えて、おそらく左から順番に書かれていったのだと思うけど、それだってあくまで推測にすぎない。日付でも書いておいてくれればよかったのだけど」

 確かに、あそこに書かれているのは文章だけで、それに付属する情報は一切なかった。日付とか、署名とか、誰に宛てて書かれたものだとか。

「わたしが気づいたことは、あなたのそれとたいした違いはないでしょうね。ちょっと気をつければ、わかるようなことばかりよ」

 ……それは、どうだろう。

「でもせっかくだから、一度整理してみませんか?」

 あたしは忍びよるピューマのごとく、狡猾に言った。「それで何か、新しい発見があるかもしれませんし」

 先輩はさっきと同じ真剣な顔つきで、何やら考え込んでいた。別にあたしのことを疑っているわけじゃない、とは思いたい。

「――そうね、今までにわかっていることを、とりあえず書きだしてみましょうか」

 いったん机の上を整理するみたいにして、先輩は言った。もちろん、あたしには異議なんてない。

 イスから立ちあがると、先輩はすぐ後ろの黒板に向かった。それから、チョークを手に取って、これまでにわかっていることを箇条書きにしていく。かつかつというチョークが黒板を叩く音は、先輩らしい几帳面な感じがした。

 先輩が黒板にざっと書きだしたのは、大体次の通りである。


1、使われている主語は、「僕」と「私」の二種類。

2、ひとかたまりの文章には高さに違いがあり、「僕」のほうが高く、「私」のほうが低い。一人称から考えても、この事実はそれが男女の身長差に由来しているためと思われる。

3、文章の開始位置がほぼ一定で、文字の癖も似ていることから、筆記者は二人である可能性が高い。ちなみに、詩を書いたのはおそらく「僕」のほうであろう。

4、文章はほぼ横一列で、互いに重なったりはしていない。つまり、前の文書の位置は確認されている(=読まれている)と思われる。

5、内容については日常的なものであり、それ以上の含意や、犯罪を示唆するところはない。また、二人は知りあいのようではあるが、実生活での接触は避けていたようである。


「……つまり、男女の〝交換日記〟ってことですか?」

 先輩がチョークを置いたあとで、あたしは端的に言ってみた。

「…………」

 先輩は、すぐに答えたりはしなかった。軒先から雨だれが一つ落ちるくらいの、そんな間があく。

 しばらくして、先輩は言った。

「そうね、そう推測するのが自然でしょうね」

「ですよね」

 あたしは我が意を強くする。どこかの探偵ほどじゃないにせよ、あたしだってまんざらじゃないのだ。

「――けど、どうかしら」

 先輩は腕を組んで、ほんの少しだけ顰めっ面っぽい顔で黒板を見つめる。まるで、遠くの雨の気配でも気にするみたいに。

「何だか、それだけとは思えないわね。あんな詩を書いたり、壁に字を書くなんて、ただの交換日記にしては手が込みすぎてる。メールか、そうでなくても普通に手紙を書けばいいだけのはず」

「でも、ちょっと詩的じゃないですか? 壁に見えない文字で手紙を書くなんて」

「否定はしないわね」

 先輩は謙虚に肯定した。

「ただ、現実問題としてはそれほど詩的とも言えないでしょうね。屋外のあんな場所で、それなりに長い文章を書くのだから、雨の日や風の日や、寒い日や暑い日だってある。人目にも気をつけなきゃいけない――かなりの動機がないと、あんなことはできないでしょうね」

 白鳥には白鳥なりの苦労がある、ということだろうか。

「…………」

 言われて、あたしも黒板をにらんでみる。黒板も、あたしをにらんできた。でもあたしは笑ったりしないし、黒板も笑ったりしない。

「……わからないことなら、もう一つありますよね」

 あたしは気になっていたことを、口に出して言ってみた。

「壁の一部が空白になってることです。途中の一区画にだけは、文章が一つも書かれてない」

「――ええ」

 もちろん先輩だって、そのことは考えていたはずだ。

 あたしは、「壁には端から端まで使って、たくさんの文章が綴られていた」と言ったけど、あれは正確じゃない。実際には何故だか、その途中に空白部分が一ヶ所だけあるからだ。

 壁には一メートルおきくらいに木の仕切りがあって、いくつかの区画に分かれていた。文章は当然、その区画ごとに書かれているわけだけど、左から六番目、真ん中よりちょっと向こう側くらいのところだけは、何も書かれていない。そしてそこだけを飛ばして、文章はまた何事もなかったみたいに続いているのだった。文章の内容や連続性からは、その理由や原因を判断することはできない。

 何だかそれは、わざわざピアノの鍵盤が一つだけ外されているみたいで、どう考えてもおかしなことだった。

「何か、そこにだけ書けない事情でもあったんでしょうか?」

「…………」

「それとも、何か意図があったとか?」

 あたしが水を向けてみても、先輩は答えたりしなかった。もしかしたら、もうちょっと高級な天然水じゃないとダメなのかもしれない。

 やがて先輩は、コップに十分水がたまったみたいにして言った。

「そうね、まずはそのことから調べてみましょうか」

 先輩のその言葉に、あたし首を傾げる。

「……ということは、先輩はもう何かわかってるんですか?」

「ちょっとした仮説なら、一つあるわね」

「どんな仮説ですか?」

 あたしが訊くと、先輩は少し考えてから答えた。木の葉が枝から離れる前の、ほんの短い一瞬みたいに。

「それは、確認してみればわかることよ」

 残念だけど、これ以上は何を質問しても無駄そうだった。先輩がそうだと言えば、絶対にそうなのだ。梃子を使えば地球くらいは動かせるかもしれないけど、先輩を動かすことはできない。

「けど、本当にそれでわかるんですか?」

 念のために、あたしは訊いてみた。

「正確には、〝わかるかもしれない〟というだけよ」

 先輩は謙虚に、肯定も否定もしなかった。

「仮説の提出とその検証――それが、物事を正しく理解するためのプロセスなのだから」

「……あんまり、詩的じゃありませんね」

 そう言ってあたしが難しい顔をすると、先輩は珍しく同意した。

「――かもしれないわね」

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