4(探偵の心得)
先輩とあたしは玄関で靴を履きかえると、再び壁のところに向かった。何だか、あっちこっちではね返ってるピンボールみたいでもある。
途中、あたしは一つだけ質問してみた。
「先輩、先輩は百奈先輩に〝リッコ〟って呼ばれてるんですか?」
「まあそうね」
「――あたしも先輩のこと、〝リッコ先輩〟って呼んでもいいですか?」
新大陸を目指す船乗りのごとく、あたしは果敢に言ってみた。
「……却下しておくわ」
でも先輩は、喜望峰の嵐みたいに、ごくあっさりその挑戦を退けている。
かくして、あたしの大航海時代は終わった。
弓道場の裏まで戻ってくると、相変わらず人影はなくて薄暗かった。午後の空気も陽ざしもひっそりしていて、お祭り気分というわけじゃないらしい。どうやらこの場所は、女子高生の人気スポットとはいえないみたいだった。
人類の進歩にもトレンドにも興味のなさそうな先輩は、さっそく壁の前に立っている。壁面にも変化はなくて、黄色い砂と白い文字が同じように残っていた。雨でも降れば全部すっかり洗い流されてしまうのかもしれないけど、今のところは貴重な古代遺跡みたいにそのままの形を保っている。
先輩はあらためて、壁面を観察しているみたいだった。でもあたしの目には、それは以前とまったく同じで、特に気づくことはないし、気づきそうなこともない。
――なので、あたしは訊いてみることにした。
「どうかしたんですか、先輩?」
先輩は熱心な考古学者みたいに壁を見つめながら、返事をした。
「気づかなかった?」
「何にですか」
気づくもなにも、あたしには石ころと打製石器の区別もつきそうにない。
「この汚れ、きれいすぎると思わなかった」
「……汚れがきれい、ですか?」
ある意味、深遠な言葉だった。どこかの荒れ地に住んでる魔女が聞いたら、喜ぶかもしれない。
「人は目の前のものを見ているようで、見ていないものよ」
先輩は喜ぶわけでも、得意気にでもなく、静かに言った。
「例えば、毎日使うような階段でもそうね。人はそこを何度も行き来しているのに、それが何段あるのか、なんてことは知りもしない――どこかの探偵には、そう言って助手をたしなめてる場面があるわ」
あたしは首を傾げた。
「つまり、その人は階段を数えるのが得意だった、ってことですか?」
自動ドアがちょっと遅れて反応するくらいの間があってから、先輩は答える。
「……まあ、そういうことね」
「ところで、先輩は学校の階段が何段あるか知ってますか?」
「そこまで暇じゃないわ」
件の探偵はやっぱり変人で、暇人でもあるみたいだった。
「ちなみに、あたしも先輩の足跡なら覚えましたよ」
あたしは念のために、報告しておく。
「そんなの覚えなくていいわ」
階段がよくて足跡がよくない理由はなんだろう?
それはともかくとして、あたしは話を本題に戻すことにした。
「ところで、汚れがきれいすぎるって、どういうことなんですか?」
哲学的な意味あいじゃないことだけは確かそうだったけど。
「――この文字、わりと小さめだし、きちんと書かれてもいるわね」
先輩は、書類のはしをそろえるくらいに気を取りなおしてから言った。
「あなただったら、これくらいの文字を壁に書くとしたら、どうするかしら?」
「……手をつけます、かね」
想像の中で字を書いてみてから、あたしは言った。
「そう、もしも汚れがついたあとで、その上をなぞって文字を書いたとしたら、汚れがここまできれいに残っているのは不自然よ。注意して書いたとしても、少しくらいは痕跡があってしかるべきね」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。けど、だからどうだというんだろう。
「つまりね――」
と、先輩は怠け者のあたしの脳みそに代わって答えてくれた。
「文字が書かれたのは、その前である可能性が高い、ということ。逆なのよ、順序が。誰かが壁に文字を書いて、それから汚れがついた」
「なるほど」
と合点してから、あたしは首を傾げる。ちょっと忙しかった。
「でもそれじゃ、逆に文字が残るなんておかしくないですか? 汚れが隠しちゃうのに」
「昔、こんな遊びをしなかった?」
そのことにも答えは出ているらしく、先輩は落ち着いて言った。
「メモ帳に文字を書いて一枚破って、その下の紙を鉛筆で軽くこすってみる。そうすると、へこんだ筆跡部分だけが残って、白く浮かびあがってくる」
「……てことは」
「たぶん、これも同じよ。誰かがボールペンみたいな硬いもので、漆喰の壁に文字を書く。すると、その跡がくぼみになって残る。そこに細かな砂が吹きつけて、文字を白く浮かびあがらせた」
話としては、問題なさそうだった。というか、それ以外の可能性は考えにくい。
「よくそんなことわかりましたね、先輩」
あたしが感心して言うと、先輩は首を振った。
「実のところ、わたしがそう思ったのには理由があるのよ」
「理由、ですか?」
あたしには理由があっても思いつきそうにないけれど。
「この詩は、これで全部じゃない」
そう言って、先輩は壁の詩を見つめた。何だかその視線は、今でもここでもない、別のどこかに向けられているみたいでもある。
「ここには、詩の最後の一文が欠けているの。もし誰かがこれを書いたとしたら、そんなことをするはずがない。きちんと全部、書いていたはずよ」
「つまり、犯人が詩を書いたのは、汚れがつく前だった……」
あたしが言うと、先輩はうなずいてみせた。
「まず、誰かがここに詩を書いて、それが消されてしまった――落書きに対しては、まっとうな手段ね。その後、残った筆跡の上に砂粒が吹きつけて、文字を浮かびあがらせた」
「そういうことになりますね」
あたしは同意した。ところが、
「いえ、必ずしもそうとはかぎらないのよ」
と、先輩はそれをあっさりと否定してしまっている。
「ここに詩を書いた誰かは、はじめから消されることがわかっていて、そんなことをしたのかしら? わざわざこんな場所を選んで、ずいぶんな手間をかけているのに」
「でも実際問題として、残ってるのは文字の跡だけなんですよ?」
あたしには先輩が何を言いたいのか、よくわからなかった。
犯人がこの場所に詩を書いたのは、汚れがつく前だった――それは、確かだろう。でも文字そのものは残っていないんだから、それは消されてしまったと考えるのが妥当というものだった。
「いいえ、ほかにも可能性はあるわ」
あたしは出来の悪いメトロノームみたいに、首を左右に傾けてみた。でもそんなことしたって、先輩の言う可能性なんて思いつきそうもない。
「何なんですか、〝ほかの可能性〟って?」
と、あたしは早々に降参することにした。時間を無駄にするのはよくないことなのだ。
先輩はあたしの怠慢を咎めるでもなく、呆れるでもなく、こう言った。
「それは、その誰かが見えない文字を書いたかもしれない――ということよ」
「見えない文字……?」
あたしにはまだ、何だかよくわからなかった。見えない文字って、何のことだろう。
「昔、流行らなかったかしら」
と、先輩は手に持っていた懐中電灯――じゃなくて、ブラックライトを持ちあげながら言った。
「特殊なインクを使った、目に見えない文字や絵を書けるペンが。わたしたちが小学生くらいの頃、テレビで取りあげられて話題になったはずよ。ちょっとした遊びとか、手品には便利だったわね」
言われて、あたしの記憶はようやく働きはじめている。おじいさんの古時計が、もう一度息を吹き返したみたいに。
そう、先輩の言うように、確かにそんなペンは流行っていた。あたし自身は使ったことがないけれど、それは――
「紫外線を当てると光って見えるようになるペン、でしたよね」
「ええ、そうよ。そこで、このライトの出番というわけね」
先輩はそう言うと、ライトのスイッチを入れて、壁のほうに向けた。何だか青っぽい光が、壁面を照らしている。
「紫外線自体は人間の目には見えないけど、有害だから直接は目視しないよう気をつけて――」
簡単な注意喚起をしてから、先輩はそのライトを壁の下のほう、汚れのついていない部分に当てた。
そこには光る文字で、こう記されている。
〝その美しい、嬰児の亡骸たちは。〟