8(昔々、ここで一人の女の子が)
「あなたの言ったことは、ほぼ全部正解ね」
と、先輩は言った。
湖面は交響曲のはじまりくらいに騒がしくて、それ以外には白と灰色だけの世界が広がっている。時々、強めの風が吹いてくるけど、それを冷たいなんて感じるだけの余裕はなかった。
「――一体、何があったんですか?」
あたしはバランスの悪い積み木から、棒を抜くみたいにして言った。
「たいした話じゃないわ」
と、先輩はどこかで聞いたようなセリフを口にする。
「あの日、わたしたちはオオハクチョウを見に来たの。本当はこのあたりで見かけることはないのだけど、たまたまやって来たらしいわ。迷ったか、気まぐれか、白鳥なりの複雑な事情があったのか、それは知らない。でも結局――オオハクチョウはどこにもいなかった」
先輩の話によればその日、先輩たちは家族みんなでこの湖を訪れたのだという。両親と先輩、それから妹さんの四人だ。
妹さんの名前は、志坂小鳥――
名前の通りの小柄な女の子で、りんご飴みたいな丸っこいおかっぱの頭をしていたそうだ。光をこねて作ったみたいな笑顔をしていて、きれいな雨の雫に似た瞳をしている。床にちょこんと置かれた、ぬいぐるみ的なかわいらしさだった。
「わたしのことが好きらしくて、どこにでもくっついて歩いてきたわね」
と先輩は言う。手のひらから、光の塊をぽろぽろ零すみたいに。
「ちょっと頑固なところはあったけど、人の言うことはよく聞く子だった。いつも機嫌よくにこにこしていて、でも腹を立てることだってできたわ。みんなから愛されて、みんなを愛するような、そんな子だった――」
先輩たちはオオハクチョウを見にきたわけだけど、湖には鴨なんかの水鳥がいるだけで、白鳥の姿はなかった。またどこかに迷っていったのか、本来いる場所に帰っていったのか、あるいは王子にうまいこと呪いを解いてもらったのか、それはわからない。
でもせっかくだからということで、しばらくあたりを散策してみることにした。新聞の小さな記事に載っただけだし、雪の積もった寒い日だった。ほかに人影はなくて、景色は広々としている。
両親が湖を前にあれこれ話しているあいだ、二人は近くにある林のほうへと向かった。そこで駆けまわったり、雪玉をぶつけあったり、白くなった木を眺めたりしていたけど、ふと〝かくれんぼ〟をすることになった。
「――向こうに見える、あの辺よ」
と、先輩は指さした。
見ると、枯れ木や常緑樹が混じった、小さな林がある。雪の中で身をよせあって、何とか暖をとろうとしているみたいにも見えた。それが当時と同じ光景ということはないだろうけど、似たようなものだったかもしれない。
「かくれんぼを言いだしたのがどっちだったかは忘れてしまったけど、最初に鬼になったのはわたしね」
現場検証中の警察官みたいな口調で、先輩は言った。
先輩が目をつむって数をかぞえるあいだに、小鳥ちゃんは隠れる場所を探した。でも冬の林は意外と見通しがよくて、あまり隠れられそうなところはない。それで湖岸のほうへ向かうと、一本の木があって緑が茂っている。
まだ小さかった小鳥ちゃんは、不器用な手つきで木をよじ登りはじめた。そこならきっと、見つけられないだろう。お姉さんはびっくりするに違いない。
「――音が聞こえたのは、その時のことよ」
先輩によれば、それはとても静かな音だったという。小さな石を一つ井戸に放り込んだくらいの、そんな。それはただ、鳥が立てただけの音かもしれないし、枯れ木が水面に落ちただけかもしれない。
最初は、何とも思わなかった。数をかぞえ終わった先輩は、妹さんを探しに出かけた。林の中はしんとして、物音一つしない。雪の上はさっき自分たちがつけた足跡でぐちゃぐちゃになっている。
何度も呼びかけながら、先輩は小鳥ちゃんを探した。何故だか、彼女はなかなか見つからなかった。遊園地の迷路にいるわけじゃないし、絵本の中で縞模様のシャツを着た人間を探しているわけでもない。すぐに見つかったって、おかしくないはずなのに――
時間がどんどん空白に食べられていくと、先輩はさっき聞こえた音のことが気になりはじめた。あれは本当は、何の音だったんだろう。小鳥は一体、返事もせずにどこに隠れたんだろう。
「……わたしはとうとう、両親のところに戻ることにした」
その時の先輩は、大丈夫、別になんてことないんだ、と自分に言いきかせたそうだ。
小鳥はうまく隠れたせいで、ただちょっと見つからないだけ。さっき聞こえた水音は、ただの気のせい。だって、音はとても小さかったし、それっきり何も聞こえてなんてこない。何か問題があったら、もっと騒がしくなっているはず。
お父さんとお母さんのところに戻るのは、念のためだ。念のために、小鳥のことを報告しておくだけ。別にたいしたことじゃない。本当は小鳥はどこかに隠れていて、見つからないだけなんだから。
でも、二人のところまで戻ったとき――
先輩は、泣いてしまっていた。壊れて鳴りやまなくなった目覚まし時計みたいに、誰かが手を離して坂道を転げおちるボールみたいに。
「わたしは、泣くタイミングを間違えたんでしょうね――」
と、先輩は言った。まるで自嘲でもするかのように。
両親はすぐ消防に連絡して、学習センターの人にも助けを呼びに行った。父親が先輩の案内で湖面を探していると、少し離れたところに小鳥ちゃんが沈んでいるのを発見した。
いろいろと苦労したすえ、小鳥ちゃんは岸にあげられた。その時点で呼吸は止まっていたし、心臓も動いていなかった。水温は低かったし、こういう時に子供はびっくりして身動きができなくなってしまうものだ。溺れてから、もう十分以上が過ぎていた。
たぶん、彼女は自分が今どうなっているのかもわからないまま、眠るみたいに死んでしまったのだろう。
懸命な救命措置がとられるあいだ、先輩は妙に冷静だった。大人たちが慌てふためいて右往左往する中で、死んだ小鳥ちゃんをじっと見つめている。
それはたぶん、想像の中の小鳥ちゃんが先に死んでしまったせいだった。もう読める人間がいなくなってしまった文字といっしょで、それ自体には何の意味もなくなっている。いくらそこに現実的な小鳥ちゃんの死が転がっていたところで、そのことは何の意味も持ってなんかいない。
アキレスが、永遠に亀に追いつけないのと同じで。
結局、小鳥ちゃんは救急隊員の人が到着する頃には亡くなっていた。搬送先の病院で死亡が確認されて、みんなが涙を流した。雨が降ったときには、傘をさすみたいに。
――ただ、先輩だけをのぞいて。
「はっきり言えば、わたしのせいで小鳥は死んだのよ」
先輩はポケットに手を入れたまま、吹いてくる風に目を細めた。風は遠慮でもしたみたいに、すぐやんでしまう。
「あの時、かくれんぼなんてしなければ、わたしが鬼になんてならなければ、音がしたときにもっと早く助けを呼んでいれば――」
先輩の口調はメトロノームと同じくらいに淡々として、機械的だった。夜空の星を、ただの番号で確認していくみたいに。
「……後悔してるんですか?」
と、あたしは訊いてみた。それは言わずもがなのことではあったのだけど。
「タイムマシンが欲しくなるくらいにはね」
先輩はまじめな顔で答える。新しい発明というのは、こうやって作られていくのかもしれない。
七年前、ここで一人の女の子が死んだのだった。何の意味もなく、何の理由もなく。何の必要もなく、何の責任もなく。
そして先輩は、今でもその場所に囚われていた。
「――先輩は、悪くなんかないです」
あたしは自分の言葉が全然何の強さも、説得力も持っていないことを承知しながら言った。例えモールス信号みたいな弱々しくてわかりにくい言葉だったとしても、伝えなくちゃならないことはあるのだ。
「先輩はまだ小さかったんですよ。それに大人だったとしても、結果は少しも変わらなかったかもしれない」
でも、先輩は首を振った。
「それは無理ね」
先輩のその言葉は、雪が空から降るのより、雪が地面に積もるのより、もっと静かだった。
「わたしを慰めようとしたって、意味なんてないわ。前にも言ったと思うけど、わたしの心はまあまあ死んでいるのよ」
「…………」
「それに、わたしは悲しんでるわけでも、苦しんでるわけでもないわ」
あたしは何故だか、強く首を振った。強く、大きく、子供が駄々をこねるみたいに。
「そんなはずない、先輩が平気なんて、そんなはずないですよ」
あたしの言葉は白い息といっしょになって宙に浮かんだ。
「いくら平気なふりをしたって、そんなのは嘘です。傷口がふさがっていないのに、今でも血が流れてるのに、ちゃちな絆創膏だけ貼ってそれでおしまいなんて、正しいはずないですよ」
「なら、どうしたらいいのかしら?」
先輩はいつも通りの表情で言った。
「千瀬さんの望み通り、泣いて喚いて、服をひきちぎって胸をかきむしって、わたしがどれくらい傷ついているのか示せば満足かしら? それで少しでも世界がよくなったり、救われたりするとでも?」
「そうじゃない、そうじゃないんです」
あたしはもう一度、首を振った。やっぱり、子供みたいに。
「妹さんが亡くなったことは、先輩には何の責任もないことなんです。先輩は悪くなんかない。誰にも、どうすることもできなかったことなんです。例え、神様がいたとしたって――」
「いいえ、違うわね」
先輩は言った。さっきよりも少しだけ強く、はっきりと。
「あれは、わたしの責任だった。わたしは何とかすべきだった。わたしには何かできることがあるはずだった。わたしはきちんと、慎重に、賢く行動すべきだった。わたしはもっと、うまくできたはずだった」
「……先輩」
それから先輩は、静電気を帯びた猫くらいの、かすかな苛立ちと憤りの混じった声で言った。
「あの時、わたしは確かに何かすべきだった。さもなければ、何もすべきじゃなかった。わたしは世界を損なったのよ。わたし自身が、世界をダメにしてしまった――!」
先輩の声がその響きといっしょに消えてしまうと、世界は急に静かになった。まるで、空気が全部真空と入れ替わってしまったみたいに。
ある意味、先輩の言っていることは事実だった。あの時、先輩には妹さんを助けられる可能性があった。彼女を死なせずにすむような選択肢があった。
でも、それは――
実際には、存在なんてしなかったのだ。
「……先輩は、あの壁に書かれた詩のことを覚えてますか?」
あたしはできるだけ静かな、けど真空に負けないくらいの声で言った。
「見えない文字で書かれてて、先輩が暗号を解読した、例の手紙のやりとりです」
先輩は簡単にうなずいた。もちろん、忘れるわけなんてないだろう。
「実はあたし、あの手紙を書いた本人に会ったんです」
「――本人に?」
さすがに、先輩もそこまでは予想できなかったみたいだ。自慢することじゃないとはいえ、あたしはちょっと得意だった。
「清塚さんという人で、文化祭の日にたまたま学校に来てたんです」
あたしはその時のことを、かいつまんで説明した。弓道場の裏で出会ったこと、もう一人の相手は咲島さんということ。
「それで、二人はどうなったのかしら?」
先輩が質問する。やっぱり、そこのところは気になるみたいだった。
「残念ながら、別々の人生を歩んでるみたいです」
と、あたしは正直に答えておく。こんなところで嘘をついたって、三文の得にもならない。
「決闘も、駆け落ちも、悲劇的な二人の死もありません……大団円も、なかったわけですけど」
「――でしょうね」
先輩は特に満足そうでも、特に不満そうでもなく言った。
「世界はそんなに都合よく出来てたりしないわ。どこまでも、散文的でしかない」
その言葉に、あたしはしばらく黙っていた。先輩の言うとおり、たぶん世界は愛想がなくて、サービス精神にも欠けている。それはどこまでも現実的で、一方的で、詩的になんて出来ていない。
ただ――
「清塚さんは、先輩に感謝してましたよ」
「感謝?」
先輩は怪訝な顔をする。服の小さなほつれに気づいたときくらいの。
「そうです」
言って、あたしは強くうなずいた。
学校で会ったあの時、清塚さんは別れ際に言ったのだ。僕からも最後に一言いいかな、と。
「清塚さんは先輩に感謝してました。先輩みたいな人があの手紙を見つけてくれて、よかったって。それだけでも、ずいぶん救われた気がするって」
「…………」
「妹さんだって、感謝してるはずです」
あたしは自分でも半分くらい何を言っているのかわからないまま、続けた。
「今までずっと、忘れずにいてくれて。今までずっと、大切に思っていてくれて――」
しゃべりながら、でもあたしは自分が間違っていないことがわかっていた。潮の満ち干が決まった時間に起こるみたいに、教えられもせずに蜘蛛が巣をはるみたいに、渡り鳥たちが迷わずに長い旅を終えるみたいに。
「妹さんだって、わかってるはずです。先輩は悪くなんてない。誰も、悪くなんてないんです。だから、妹さんはきっと先輩が苦しむことなんて望んでません。誰かが苦しんだり悲しんだりすることなんて、望んでるはずないですよ」
「――論理的じゃないわね」
「論理なんてくそくらえです!」
あたしは叫んでいた。今までに、こんな大きな声を出したことはないというくらいに。今までに、こんな心の底から声を出したことはないというくらいに。
「あたしだって、感謝してるんです。先輩と会えたことに。これまでの一年近く、先輩と過ごしてきたことに。先輩みたいな人が、いつまでも苦しんでいちゃいけないんです。いつまでも、傷ついたままじゃいけないんです。だって、もう十分ですよ……」
何故だか自分が泣いてしまいそうになりながら、あたしは言った。
「だから、先輩は自分を救ってあげてください。自分を許してあげてください。でなきゃ、でなきゃ――
世界は、あんまりです」
あたしが意味不明にして支離滅裂、唯我独尊にして五里霧中な言葉を吐きだすと、先輩は黙っていた。
「わたしは……わたしは――」
それからしばらくすると、先輩の目からは流れ星みたいに涙が零れていた。
最初の一雫が流れてしまうと、あとは壊れた水道管みたいにとめどがなかった。大粒の涙がぽろぽろと、途切れることなく落ちていく。
先輩は空を見上げ、目を閉じ、顔をくしゃくしゃにして――大声をあげて泣いていた。
同時に、世界のどこかで何かが壊れていた。そこには音も、形も、色も、重さも、匂いも、手触りも、何もなかったけれど――確かに。
「ああああ、あああああ――」
先輩は、小さな子供みたいに泣いていた。
そう――
それは、そうだ。
何しろ先輩は何年も前に、まだ子供のときに流すはずだった涙を流しているのだ。
子供のときにはたすべきだった約束を、はたしているのだ。
「ああああ、あああああ――」
まるで雪が溶けるみたいに、先輩はいつまでも泣き続けていた。灰色の空と、白い雪のあいだで。子供みたいに大声をあげながら。




