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詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない  作者: 安路 海途
④ まだ汚れていない怪獣たち
39/87

7(初歩的な謎解き)

 雪の上にはくっきり足跡が残っていて、うっかり見失ったり迷ったりする心配はなかった。森の中で鳥たちが食べそこねたパン屑をたどるみたいにして、あたしはそのあとを歩いていく。

 それがどこまで続いているのかはわからなかったけど、別に母を訪ねてブエノスアイレスまで行くわけじゃない。いつかは、先輩のところにたどりつけるはずだった。

「…………」

 あたしは世界の縁を歩くみたいにして、雪に覆われた湖の岸辺を進んでいった。ちょうど子供の頃、歩道の縁石の上で落っこちないようバランスをとって歩いたのと同じで。

 湖の水は、凍りつかないのが不思議なくらい冷たそうだった。

 そうやって歩いていくうち、あたしの心臓は何故だか急にどきどきしはじめていた。ぜんまいを巻いたおもちゃが、ぎこちなく振動するみたいに。

 あたしの目の前には、夜の星座みたいに先輩の足跡があって、あたしはただそのあとを追っていけばいいだけのはずだった。その先には必ず、先輩がいるのだから。

 でも、そんなあたしの考えや気持ちを無視して、心臓は勝手に鼓動を強くしているのだった。まるで、意地の悪い悪魔にでも唆されたみたいに。

 先輩は、大丈夫なはずだった。無事なはずだった。今までだって、ずっとそうだったのと同じで。ずっとそうしてきたのと、同じで。ここに来たのだって、ただの感傷とか、哀惜とか、そんなことのはずなのだ。

 その傷が、どんなに深いものだったとしても――

 その傷が、どんなに耐えがたいものだったとしても――

 あたしは聞きわけのない子供みたいな自分の心臓を叱りつけながら、不機嫌そうな顰めっ面をして歩いていった。そうしないと、もしかしたら泣いていたかもしれない。

 ――先輩のことを、あたしは考えてみた。

 初めて出会ったときの、先輩の印象。開いたドアの向こう側、白いレースを編んだみたいな光の中で本を読む、先輩の姿。

 今にも壊れてしまいそうな、今にも消えてしまいそうな、そんな。

 先輩は不思議なほどの強さと、不思議なほどの弱さを持っていた。その瞳は謎を見とおすのと同じくらい、謎に包まれてもいる。頭がよくて、優しくて、でも人はよせつけない。

 まるで雪の結晶が、人の温度に耐えられないみたいに。

「…………」

 あたしはふと、顔を上げた。

 遊歩道の左側に草地らしい地面が広がって、海岸線みたいに向こうまで続いている。灰色の空と、色のない湖。波打ち際には砂利が転がっていて、水面は()()()()()を起こした子供くらいに揺れていた。

 雪に埋もれたその白い岸辺の真ん中あたりに、先輩は立っていた。

「――先輩!」

 あたしは思わず叫んで、駆けだしてしまっていた。


 先輩は灰色のマフラーに、いつもの紅葉っぽい色のコートを着ていた。もちろん制服姿のままで、コートのポケットに手をつっこんで立っている。

 あたしに気づいてこっちのほうを見た先輩は、口元で息が白く濁っていた。息をしているということは、生きているという証拠だった。それとも、幽霊でもやっぱり息をして、それは白く濁るんだろうか。

 雪の真ん中まで来たあたしに、先輩は言った。

「――よく、ここがわかったわね」

 それは癪に障るくらい、いつも通りの先輩の声で、あたしの心配なんてどこ吹く風だった。とはいえ幸いなことに、先輩はピノキオみたいに鼻が長くなったりはしていない。悪い大人に唆されて学校をさぼった、というわけじゃないみたいだった。

 あたしは呼吸と、それから心臓の動きを整えた。大きく息をすって、()()()みたいにゆっくり吐きだす。それで何とか、自分を落ち着かせることができた。

「先に確かめておきたいんですけど」

 と、あたしはまず訊いておくことにする。

「部室にあった詩を書いたのって、先輩なんですよね?」

 その質問に、先輩は少し考えるふうだった。別にとぼけているわけじゃなくて、どうやら忘れてしまっていたらしい。

「――ええ、そうね。たしかそんな気がするわ。あまりよく覚えてないけど」

 とすると、あれは置き手紙でも、ダイイングメッセージでもなかったわけだ。それは何となくわかっていたし、先輩は死んだりしていなかったけど。

「何で、あんな詩を書いていったんですか?」

 もう少しだけ、あたしは訊いてみた。

「そうね、何でかしら?」

 先輩はまるで他人事みたいに言う。

「あの場所にいると、詩や文章が不思議と書きやすくなるせいかもしれないわね。特に書こうとしたわけじゃなくて、電話の内容をメモするみたいな感じだったと思うけれど」

「…………」

 あたしは指でつまめそうなサイズのため息を一つ、ついておく。まったく、こっちはそのせいで回数制限つきの、貴重な心臓の鼓動を無駄にしたっていうのに。

「今度は、こっちがあらためて聞く番ね」

 と先輩はそんなあたしにはかまわずに言った。少し、笑っていたかもしれない。

「それで、どうしてわたしがここにいるってわかったのかしら?」

 訊かれて、あたしは一度咳払いをした。何しろこれは、犯人を波濤の立つ断崖絶壁まで追い込んだのに等しいのだ。いわゆる、見せ場というやつだった。

「初歩的なことです――と言いたいところだけど、けっこう大変でした」

 と、あたしはまず言った。

「ここに先輩がいることを推理するのには、いくつかのヒントがありました。情報と、それを分析する方法についての。あたしはそれを利用して、ここまで来たんです」

「…………」

 先輩はポケットに手をつっこんだまま、黙っていた。どうやら、一時間いくらなんてせこいことは言わずに、好きなだけしゃべらせてくれるらしい。

「――まず、今まで先輩といっしょにいた中で、わかったことがあります。それは、幽霊が出るトンネルに興味を持ったこと、姉妹について強いこだわりがあったこと――これで、何となく見当のつくことはありますけど、でも実際には何もわかっていないのと同じでした。それで、あたしは考えたんです。()()が事実だとして、一体いつ頃に起こったことなんだろうか、って。

 これには、壁の詩を調べてたときのことがヒントになりました。つまり、時間の上限と下限を推定するんです……先輩がやったように。そのために利用できる人物は、二人いました。モナカ先輩と、久慈村先輩です。二人とも先輩の友人ですが、知りあった時期は違います。モナカ先輩は、小学校時代。久慈村先輩は、中学校時代です。正確に言うと、小学四年生から中学に入るまでですね。そして先輩の過去にあったことについて、モナカ先輩は知っていて、久慈村先輩は知らなかった……」

「つまり、わたしに何かあったとしたら、それは大体その範囲のことだと考えていいわけね」

 と先輩は親切に補足してくれる。あたしはうなずいて、続けた。

「これで一応、時間については条件を絞れました。次は、場所です。5W1Hの、whenとwhereですね。この二つから、whatが知りたいわけです。

 さて、それについては先輩がいくつかのヒントをくれていました。まず、壁の詩を調べていたときのことです。あの時、先輩は市揖湖の記述について注目しました。湖を周回できるようになったのは、遊歩道が整備された十年前からだ、というやつです。その事実を、先輩はたまたま知っていた、と言いました。時間も含めて、です。その時は特に何も思いませんでしたけど、これは考えてみると奇妙なことでした。いくら善良な市民だからって、一般的な知識の水準を越えています。

 それから、もう一つ。幽霊トンネルについてのことです。あの時、先輩は霧が発生してそこに影が映ったんだ、と推測しました。けど、あの奥城山の向こうに湖があるなんてことを、どうして先輩は知っていたんでしょう? しかも、あたしはあとで気づいたんですが、その湖というのは市揖湖のことだったんです――」

 先輩は何も言わなかった。龍の目に点が入ってないとか、屋根の上に屋根がついてるとか。つまり、あたしの説明は大体あっている、ということだった。

「――先輩に何かがあったとして、これで時間と場所がわかりました。あとは、その範囲を条件にして何があったか調べるだけです。

 今は便利ですよね。古い新聞の記事について、簡単なことなら検索して調べられるんです。それで、やってみました。先輩が小学四年生から六年生のあいだで、場所は市揖湖。それらしい記事が見つかったので、実際に図書館まで行って古い縮刷版にあたってみました。それで、日付と、何があったかについてわかりました。さすがに名前は伏せられてましたけど、条件は完全に一致しています」

 あたしは少しだけ、目をそらした。それを告げるだけの勇気も、残酷も、持ちあわせていない気がして。

 でも――

 それをしないでいる勇気も、残酷も、あたしはやっぱり持ってはいないのだった。


「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 だから、あたしは訊いた。まるであたし自身が、死神にでもなったような気になりながら。

「…………」

 先輩はそれに、何も答えなかった。黙ったまま、じっとこっちを見ている。とはいえ先輩は、不愉快そうだとか、苦痛に苛まれているとか、怒りに我を忘れてる、なんてことはなかった。

 ただ、夜の静かな月みたいに立っているだけで。

「……それを知っていたから、あたしはここに来たんです。きっと、ここにいるはずだと思って」

 あたしは、先輩にまっすぐ向きなおって言った。もうこうなったら、悩んだり迷ったりなんてしていられない。一度サイコロを投げたら、どんな目が出るかなんて気にしたって無駄なのだ。

「雪の上に足跡が残っていたから、先輩を見つけるのに苦労はなかったです。シャーロック・ホームズなら、きっと誉めてくれるんじゃないですかね?」

 あたしがそう言うと、先輩は少しだけ笑った。昔なくしてしまった、お気に入りのおもちゃでも見つけたときみたいに。

 それから、先輩は言った。

「ちなみにシャーロック・ホームズは、小説では〝初歩的なことだよ〟という言葉は使ってないらしいわよ」

「そんなこと知りません」

 ホームズもシャーロキアンも目指していないあたしは、失恋した乙女が髪を切るみたいに、ばっさりと言った。

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