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詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない  作者: 安路 海途
④ まだ汚れていない怪獣たち
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6(全部、何てことのない話)

 バスの中には、ほとんど人はいなかった。

 元々、本数が少ないし、普通の人が利用するような路線でもない。おまけに平日の、それも雪の日となると、乗客がいないのも当然といえば当然だった。

 ほぼ無人の車内には黙々と働くまじめなミツバチみたいに、暖房とエンジンの音だけが飛びかっていた。からっぽの座席ばかりが並んでいるのを眺めていると、もうとっくに地球なんて滅びてるんじゃないか、という気もしてくる。

 車内の空気は毛むくじゃらの犬みたいにぬくぬくしていて、窓ガラスだけがその恩恵を受けられずにいた。あるいは、みんなのために犠牲になっている、のかもしれない。

「…………」

 あたしは先輩と同じように荷物は学校に置いて、バスに乗っていた。これから行く場所にそんなものは不要だったし、あっても邪魔なだけだ。

 窓の外には、灰色の空と雪景色がどこまでも続いていて、しばらくのあいだ消えることはなさそうだった。その景色は、この世界が空の底にあるんだということを思い出させてくれる。あたしたちはみんな、アリみたいにその場所を這いずりまわっているんだということを。

 そんな風景を眺めながら、あたしはふと昔のことを思い出していた。

 ――かつてあたしは、バスケットボール選手だったのだ。

 あたしはそのことに何の疑問も持っていなかったし、持つ必要もなかった。あたしはそこそこうまくて、中学ではきちんとレギュラーをとって、何よりもボールに触れているのが楽しかった。新しいおもちゃをもらったばかりの、子供みたいに。

 でも時間がたつにつれて、経験を積むにつれて、それは何故だか難しくなっていった。あたしはより多く考えるようになり、より多く努力するようになり――より多く、迷うようになった。

 それは要するに、成長したということなのだけど――うん、要するにそういうことなのだけど。

 あたしはいつしか、自分が()()()()()でしかないことに気づいていた。あたしは高く飛ぶことも、速く走ることも、難しいシュートをうまく決めることもできなかった。おたまじゃくしが自分はカエルなんだと気づくまでには、それほどの時間はかかったりしない。

 そうして、あたしはバスケに対する自分の気持ちが、いつのまにか()()していることに気づいた。それは前ほど純粋じゃなくなって、濁り、鈍くなった。

 いや、でもそれは少し違うな――

 正確に言うと、あたしはバスケを好きであることと、あたし自身とのあいだに、乖離を生じていたのだ。あたしは、あたしが望むだけの人間になれていなかった。

 どこかの作家が書いた言葉にならえば、こういうことになる。

〝あたしは、あたしが要求するだけのスペックを満たしていなかった。〟

 正直なところ、あたしはあたしなりにがんばったし、うまくやろうともしたのだ。いろんなことを考え、試し、また考え、また試した。

 もうこれ以上、どうすることもできない、というくらいに。

 でも――

 試合中、対戦相手の選手が羽でも持っているみたいに高く跳躍したり、針に糸を通すくらいの難しいシュートを楽々と決めたり、とても追いつけないような速さでドリブルしたりするのを見て、あたしは思ったのだ。

 ああ、あたしにはあそこまで行くことはできないんだな、と。

 どこかの意地悪で、お節介で、親切な天使が、そのことをわざわざ、あたしに教えてくれたような気がした。

 それでどうなったのかというと――そう、あたしはバスケをやめてしまったのだ。未練も、後悔も、躊躇もなく。きれいさっぱりと、跡形もなく諦めてしまった。

 まるで、戦争ですっかり破壊されて、廃墟になった町をあとにするみたいに。

「…………」

 何でこんなつまらないことを思い出しているのか、自分でも不思議だった。

 そのことについては、あたしは完全に()()をつけてしまったはずなのだ。人の絶対に来ないどこかの山奥に、念入りに深い穴を掘って、死体を埋めるみたいにしてきれいに土をかぶせてしまった。

 それで、何の問題もないはずだった。あたしはその場所をあとにして、どこか新しい別の場所へと向かったはずだった。埋めたはずの死体は微生物によって分解されて、ただの記憶でしかなくなってしまっている。それは幽霊と同じくらい、何の力も持っていない。

 持っていない、はずなのだけど――

 バスの外を平気な顔で流れていく風景を見ながら、あたしはふと考えていた。

 あたしたちは結局のところ、何にもなれず、どこにも行けず、ただ同じところをぐるぐる回っているだけなのかもしれない。地球がいつまでも、太陽のまわりを回り続けているのと同じで。

 そうして、何の役にも立たないような、ささやかな、些細な、意味や価値のない、個人的な記憶や想いは、あっというまに消し去られてしまう。使われない筋肉がすみやかに衰えていくみたいに、真っ暗な洞窟で白い魚の目が退化していくみたいに。

 だとしたら――

 一人の人間の苦しみや悲しみは、どうなってしまうのだろう。

 それはやっぱり必要のないものとして、消し去れられてしまうのだろうか。砂に書かれた文字と同じで、世界はあっさりとそれを削りとり、覆い隠し、最初からなかったことにしてしまう。

 あたしには、よくわからなかった。

 それはただそれだけの、当然な話なのかもしれない。世界はそれほど暇なわけでも、都合よく出来ているわけでもない。それは正しいとか間違っているとか、そんな話じゃないのかもしれない。

「…………」

 あたしにはやっぱり、よくわからなかった。

 こんなのは何もかも全部、何てことのない話、何てことのない話ではあるのだけど――

 何てことのある話でも、あるのだった。

「次は、市揖湖、市揖湖。市揖湖自然学習センターをご利用の方は、こちらでお降りください」

 やがて目的の停留所が告げられて、あたしは降車ボタンを押した。

 ――世界の運命を決めるために、少しだけ念入りに。


 バスから降りると、北風は慇懃無礼に今が冬だということを教えてくれた。息を吐くと、まるで文句でも言いたそうに白く濁る。この上なく、寒い。あたりに人影はなく、月面上と同じくらい閑散としていた。

 すぐそこにはやけに広々とした駐車場があって、視界はずいぶん開けていた。向こうのほうに学習センターがあって、ほかには木が何本か生えているだけである。枯れ木も山の賑わいというけれど、これじゃあイチゴがまばらに乗っただけのショートケーキなみの寂しさだった。

 ちょっと向こうのほうを見ると、湖がすぐそこにあった――市揖湖だ。

 バスがさよならも言わず無愛想に行ってしまうと、あたりは急に静かになった。聞こえてくるのは風の音ばかりで、実に人間味というものを欠いている。そのうち、お釈迦様が空の上から蜘蛛の糸をたらしてくれるかもしれない。

 もちろん、こんな場所で降りるのはあたし一人だけで、何だかクレーンゲームでひょいとつかみあげられてしまったみたいだった。それで落っこちたところが、世界の果てだった、というわけである。

「――ふむ」

 と、あたしは意味もなくうなずいて、それから歩きはじめた。もちろん、ここまで来て引き返すわけにはいかない。それに帰りのバスだって、一時間くらいはしないと迎えに来てはくれない。

 あたしは偏屈な画家が描いた風景画みたいな場所を、湖に向かって進んでいった。雪の上にはセンターの職員か、物好きな人のものか、いくつか足跡が残っている。

 ――本当のところ、ここに先輩がいるかどうかなんて、あたしにはわかっていない。

 いくつかの事実と、最近の先輩の様子、この一年での経験、それくらいが推理の根拠だった。どこかの名探偵なら、笑うだろうか。

 でもあたしには不思議と迷いがなくて、足は勝手に前へ進んでいく。

 確信があったわけじゃなくて、むしろここに先輩がいないほうがいい、とさえ思っていた。それが何を意味しているのか、あたしは知っていたから。

 第一、可能性ならほかにいくらでもあるのだ。荷物は部室に忘れただけで、もう家に帰ってしまった。そうでなくても、どこか別のところに行ってるだけ。かぐや姫みたいに急に月が恋しくなって、屋上で空を見上げている――

「…………」

 いや、あたしはやっぱり――

 ロッジというか、大きめの犬小屋というか、あまり予算のかけられてなさそうな学習センターの前を通りすぎると、そこは湖だった。

 たいした大きさがあるとは言えないけど、それでも風が吹いて、小さな波が立っている。渺々としているというか、寒々としているというか、かなりもの悲しい雰囲気だった。悲憤した詩人が身を投げるには適当そうだったけど、陽気なサーファーが波のりするのにふさわしいとは言えない。

 かすかに揺れる湖面には何種類かの水鳥がいて、あまり優雅とはいえない格好で泳いでいた。せっせと水面をくちばしですくって、餌をとっている。どちらかというとその様子は、一刻も早く北の故郷に帰りたがっているようにも見えた。

 湖のはしっこのほうには桟橋があって、工事中みたいに途中で途切れている。夏のあいだはボートなんかも並ぶのだけど、今はテトリスの棒くらいに味気ない状態でしかない。

 それから、対岸の向こうには奥城山が見えていた。

 湖の近くまで行くと遊歩道があって、左右に別れている。湖岸をぐるっと一周できるコースになっていて、先輩の言ったとおり、整備されたのは十年ほど前のことだった。

「…………」

 あたしは遊歩道を前にして、腰に手をあてて考える。

 さて、はたして先輩はどっちに行ったのだろう?

 別れ道には姿だけそっくりの二種類の天使が立っていたりしないので、何とかして自分で答えを見つけるしかなかった。もちろん、湖は天国にも地獄にもつながっていないから、どっちに行っても一周さえすればいいのだけど――

 その時、あたしはふと気づいた。

 よく見ると、雪の上に誰かの足跡が残っている。どこかのとんまな熊みたいに、それが自分のでないことだけは確かだ。あたしはしゃがんで、その足跡を詳しく調べてみた。

 それは間違いなく、先輩の足跡だった。

 何故ならあたしは以前に一度、先輩の足跡をじっくり観察したことがあるからだ。まだ春の頃の、例の壁の詩を調べていたときのことである。あたしはたまたまその足跡に気づいて、そのまま覚えてしまっていたのだった。

「シャーロック・ホームズも、意外と役に立つものだな」

 と、あたしは独りごちて立ちあがった。

 それから、足跡の続く先へと目をやってみる。

 ――誰かの忘れものみたいなその足跡の先に、先輩はいるはずだった。

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