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詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない  作者: 安路 海途
④ まだ汚れていない怪獣たち
37/87

5(dying poem)

 雪は夜のあいだに、音もなく降りつもっていた。

 朝、目が覚めてカーテンを開くと、白い世界がどこまでも続いている。砂漠や、海原や、平原みたいに。線路はなかったけれど。

 あたしはパジャマのまま窓を開けて、ちょっと身をのりだしてみた。獲物を見つけた狼みたいに、冷たい空気が襲ってくる。息を吐くと白く濁って、まるで誰かが言い残した言葉みたいに世界から消えていった。

 まだ少し雪を降らせたりないのか、空は薄い灰色の雲に覆われていた。使い古した絨毯みたいな、毛羽だった感じの雲である。そのくせ光だけは、奇妙な明るさで世界を満たしていた。

 あたしは深く息を吸って、まだ新品同様の冷たい空気を肺いっぱいに満たしてやった。そして自分の体が今日もつつがなく、律儀に、まじめに働いていることを確認する。

 ――世界はいつだって、死んでは生き返ることを繰り返しているのだった。


 学校まで行くと、あたしは自分の席から窓の外ばかり眺めていた。

 積もった雪は、二、三日くらいは残っていそうである。まだ十二月だし、それほど本格的に降ったわけでもない。積もったのは数センチで、ちょっとした試運転みたいなものだった。少しすれば、雪の名残りなんてすっかりなくなってしまうだろう。

 たぶん、人々の記憶の中からさえ。

 あたしはでも、別に自分の記憶に焼きつけたくて、雪を眺めているわけじゃない。そこまで雅な人間でも、酔狂な人間でもない。

 ただ、あたしは――

「さっきから何見てんの、千瀬?」

 と、不意に友達の一人が話しかけてきた。あたしはイスに座ったまま、鷹揚に答えておく。

「別に、何でも」

「しかしまあ、積もったよね」

 友達はあたしの机に腰かけて、窓の外に目をやる。机というのは座るためにあるものじゃない、ということを知らないらしい。きっと育ちが悪いせいだ。

「千瀬は雪って、好き?」

「どうかな――」

 あたしはいつかと違って、気のない返事をした。それから、つけ加えておく。

「あれが全部、砂糖菓子みたいに食べられりゃよかったんだけど」

「そりゃ、子供は大喜びだろうね」

 友達は笑う。それは、そうだ。何しろこれは他愛のない、ただの会話なんだから。

「……でも本当はね、あたしにはあれが違ったものに見えるんだ」

 あたしはちょっと身を起こして、()()()()()を続けた。

「違うものって?」

「すべてを地の下に埋めてしまう土――墓堀りが棺を降ろした穴に、土をかぶせるみたいに」

「何それ、詩人の感性ってやつ?」

 友達はやっぱり笑う。あたしも、笑う。何しろこれは、他愛のないただの会話なのだから。もっとも、あたしに詩人の感性なんてものがあるかどうかは不明だったけど。

 やがてチャイムが鳴って、先生がやって来た。友達は手を振って、自分の席へと帰っていく。当然だけど、雨が降ろうが雪が降ろうが授業は行われるのだ。槍が降ったらどうなるかは、知らないけれど。

 授業中、あたしはかなりの上の空で窓の外ばかり眺めていた。今だったら、どこかの大泥棒がやって来ても無駄足を踏むだけだろうな、というくらいに。いつもは心の入っているはずの箱がからっぽで、自分でもそれは何だか不思議な感じだった。

 あたしの心がヘリウムガス入りの風船みたいにふわふわ漂っていても、時間は関係なく過ぎていき、やがて放課後になっていた。ちょっとしたタイムリープというところだ。

 帰り仕度を終えて、友達にさよならの挨拶をすると、あたしは部室へと向かった。今日は活動日なのだ。もうすぐ冬休みだし、春には部誌も発行しなくちゃならない。一寸の虫にも五分の魂があるみたいに、二人しかいない文芸部にも相談することくらいはあるのだった。

 何かの工事現場みたいにがちゃがちゃした空気の中を、あたしは北棟三階にある部室まで歩いていった。

 地球の裏側に行くほどの苦労も冒険もなく到着すると、あたしはドアをノックした。返事のある気配はないし、返事のない気配はあるので、そのままドアを開ける。

 部屋の中はからっぽで、誰もいなかった。そうしていつもみたいにカバンを置こうとしたところで、あたしはふと気づく。そこにはもう先輩の荷物が置かれて、澄ました顔で鎮座していた。ということは、先輩はもう来ているということだ。

 あたしは長机のところに向かう途中、少しでも仕事をしてもらうためにヒーターをつけようとした。その時に、何か気になるものが目に入る。

 ――見ると、机の上に紙が一枚置いてあった。

 ごく普通のコピー用紙には、どこか見覚えのある文字がボールペンで書かれていた。丁寧で几帳面だけど融通の利かなそうな、職人気質っぽい文字である。

 それはどう考えても、先輩の字だった。

「…………」

 あたしは紙を手にとって、そこに書かれていたものを読んでみた。どうやらそれは、先輩の作った詩みたいである。


〝子供たちが無邪気に走りまわっているのを見ると

 昔々にどこかでなくしてしまった約束が

 ひょっこり目の前に現れたみたいで

 思わずまごついてしまう


 その約束の 幼さ 拙さ

 純粋さが

 今のわたし自身を

 写真のネガとポジみたいに

 対照する


 わたしはどこまで来たのだろう

 どこまで行くのだろう?


 なくしたもの 捨ててしまったもの

 壊れてしまったもの

 それらは今 どこに消えてしまったのだろう?


 子供たちはわたしのそんな疑懼など知らぬまま

 無邪気に遊び続けている

 その遥か彼方にいるはずの

 わたしのことなど気づきもせずに〟


 あたしは二度ほどその詩を読んでから、習慣的な動作でイスに座った。紙に書かれているのはその詩だけで、ほかには空白が広がっている。あるいは、文芸部らしく言えば、行間が。

 イスに座って、紙を見つめたままで、でもだからといってどうするわけでもない。

 その詩はたぶん、先輩によって今日書かれたもののはずだった。少なくとも、昨日たまたま部室によったときにはなかったものだ。

 机の上にこれがある以上は、やっぱり先輩は一度部室に来ているはずだった。荷物だって置きっぱなしだし、そう考える以外に答えはない。オッカムさんだって、きっと同意してくれるだろう。 

 でも、先輩はここにいないのだった。

 もちろん、考えられる理由なんていくらでもある。ちょっと席を立ってるだけとか、いったん部室によってどこかに行ってしまったとか、いじめられてた亀を助けたら海の底まで連れていかれたとか。

 あたしは何の変哲もないその紙を、もう一度眺めてみた。火をつければ燃えてしまうし、くしゃくしゃに丸めてごみ箱に放り投げることもできるし、細かく千切って紙ふぶきみたいにすることだってできる。

 でも、そこには――

 一つの詩が、一人の人間の心が、書かれていた。永遠が終わるその時までは、変わることも、消えることもなく。


 ――その時、不意にノックの音が聞こえた。


 あたしは反射的に立ちあがって、そっちのほうを向いてしまう。狼に怯えながらお母さんヤギの帰りを待つ、七匹の子ヤギたちみたいに。

 それからドアが開いて、中に入ってきたのは――春先生だった。

 あたしの心臓は勝手にがっかりして、勝手にほっとしたみたいだった。長いこと水に浮かんでいた葉っぱが、とうとう沈んでいくみたいに。あたしの体からは力が抜けて、自然と座ってしまっていた。

「――あら、志坂さんはいないのかしら?」

 と、春先生こと三春薺先生は、部屋の中をきょろきょろ見渡しながら言った。もちろんここには柱時計もないし、あったとしても先輩が隠れるのなんて不可能だ。

「それが、あたしにもよくわからなくて」

 とあたしは正直に言った。少しだけ、助けを求めるみたいに。

「部室には一度、来てるみたいなんですけど……」

「あら、そうなの」

 春先生は眼鏡をちょっと直して、それでもあたりの様子をうかがっている。もしかしたらそれは、見えないものが見える特殊な眼鏡なのかもしれない。

「……先生は、どうしてこっちに来たんですか?」

 と、あたしは訊いてみた。定年退職して非常勤の春先生は、文芸部にはよく顔を見せてくれるけど、顧問というわけじゃない。それにどうやら、先生には何か用事があったみたいだ。

「うーん、実はね、ちょっと気になることがあったものだから」

「気になること?」

「志坂さんが、さっきの私の授業に出てきてなかったのよね」

 春先生は、二年生の現代国語を担当している。つまり先輩は、その授業を()()()()ということだった。

「今日、先輩は学校に来てるんですか?」

 そのはずだと自分で思いながら、あたしは訊いてみた。

「ええ、そのはずですよ。クラスの生徒に訊いてみたら、前の時間まではいたそうですから」

「…………」

 あたしは少し、状況を整理してみた。

 先輩は休みとかじゃなくて、学校には来ている。でも、最後の授業には出ていない。先輩の荷物は部室に置いてあって、詩を書いた紙が残されていた。

 たぶん先輩は、最後の授業時間中、ここにやって来て詩を書いたんだろう。そして荷物と詩だけを残して、行方不明になってしまった。

 まるで、鳥の巣から卵だけがなくなってしまうみたいに。

 あたしは机の上の紙に手をやって、それを春先生に渡した。

「これ、先生はどう思いますか?」

 春先生は紙を手にとって、全体に目をやる。料理人が味見するみたいにいくつかの言葉を拾い読むと、あたしのほうを向いた。

「書いたのは、志坂さんですね?」

 もちろん、あたしが書くような詩じゃない。

「たぶん、そうだと思います。さっき来たら、机の上にそれがあって……」

 春先生はちょっと真剣な顔をしてから、いったん近くのイスを動かしてそこに座った。靴を右と左のどっちから履くかみたいに、何事にも決まった手順というものはある。

 少しの時間、春先生は先輩の詩(と思われるもの)を黙読していた。何だかそれは、静かに雨が降っているみたいでもある。読書中の雰囲気は、意外と人によって違っていた。

 やがて春先生は、紙をそっと机の上に戻した。鳥の羽が落ちてくるのと同じくらい、そっと。そうして小さなため息に似た吐息をついてから、言う。

「志坂さんらしい詩ですね、これは」

「……先生は、どう思いますか」

 と、あたしは訊ねてみた。

「どうして先輩は、こんな詩を書いて、残していったんでしょう?」

「さあ、どうしてかしらね」

 春先生はおおらかに朗らかに、でもちゃんとした声で答えた。大きな木にはいつも、大きな根っこがあるのといっしょで。

「人の心なんて、わからないものよ。それは当の本人にとってさえ。自分が悲しんでるのか怒ってるのか、泣きたいのか笑いたいのか、そんなことさえ決められないときだってある」

 でも、と春先生はつけ加えた。

「詩というのは、意外なほどその人の心が反映されるものよ。時には、本人が意図した以上に。あるいは、思ってもみなかったふうに。志坂さんがどうして、どういうつもりでこの詩を書いたかなんて、わからない。でもこの詩には間違いなく、志坂さんの心が現れてるでしょうね」

「…………」

 あたしはもう一度、紙に書かれた先輩の詩に目をやってみた。その詩はたぶん、先週に先輩とあたしが買い物に行ったときのことをきっかけに書かれたものだった。幼い二人の姉妹が、ピアノを弾いていたこと。

 そして、あたしが図書館で調べた先輩についての事実。

 だとしたら、先輩は――

「――あの」

 あたしは春先生に、そのことを相談してみようかと思った。それは一人で処理するには、重すぎるし、難しすぎることだったから。困難は分割せよ、とどこかの修道士も言ってなかったっけ。

「実は先輩は、昔――」

 でもあたしはその言葉を、不意に弦の切れたピアノの音みたいに、途中でやめてしまう。

 いろいろなことが、あたしの頭の中をぐるぐる回っていた。抽選のためにがらがら音を立てている、福引き器みたいに。

 まず第一に、それをあたしが人に話していいのか、ということがあった。それはあくまで先輩の個人的な過去の問題だったし、他人が勝手にどうこうしていい種類のものじゃない。

 それから、実際的にそれで少しでも問題が解決するのか、ということがあった。餅については専門家に相談するのが筋だけど、〝先輩のこと〟についての専門家なんていない。例えそれが、春先生だったとしても。

 けれど――

 何よりあたしが躊躇していたのは、たぶんそんなことじゃなかった。

 本当のところあたしは、()()()()()()()()()()()のだ。あたしが自分で、先輩のことと向きあいたかった。

 たぶんそれは、それは――()()()()()()()()()()()()()

 あたしは完全に言葉を飲み込んでしまうと、別のことを訊いた。

「……春先生は、今までに何かとりかえしのつかないことって、したことがありますか?」

 すると先生は、電線にとまってる鳥みたいに首を傾げた。それも、無理はなかったけれど。でも、気をとりなおすと、

「そりゃあね」

 と、苦笑するみたいに答えてくれる。

「思い出したら、きりがないくらいね。あの時、ああしていれば。どうして、あんなことをしてしまったんだろう。あの子に、もっと別の言いかたをしてあげてれば――」

「後悔してますか?」

「ある程度は、というところかしら」

 春先生はいたずらっぽい少女みたいに笑った。半世紀分くらいの時間を、軽々と越えて。

「この歳になると、さすがに角はずいぶん取れちゃってるわね。痛み、苦しみ、怒り、悲しみ、傷跡そのものは残っても、傷口はふさがってしまっている。歳をとるのも、悪いことばかりじゃないわね。もちろん、その当時にそこまでの余裕なんてありませんけど。傷口から血が流れているのに、平気でいられる人なんていないでしょうね」

「春先生は、どうやってそれを乗りこえたんですか?」

 あたしが訊くと、先生はちょっとおかしそうな顔をした。相手の幼さや生まじめさ、不器用さを笑うみたいに――あるいは、懐かしむみたいに。

「私はそれほどドラマチックな人生を送ってるわけじゃありませんからね。大抵の人間と同じ……悩み、迷い、考え、何とか解決するための手段や方法を模索する。少なくとも、その努力を、ね」

「――――」

 一瞬、あたしはその言葉を口にするのをためらった。もう決まってしまっているテストの点を見るのに、それでも抵抗を覚えるみたいに。

 でも、やっぱり訊くことにする。それは、訊かなくちゃいけないことだったから。

「――それでも、解決しなかったら。そもそも、解決なんてできなかったら、どうするんですか?」

 春先生はあたしの滅茶苦茶な質問に、しばらく黙っていた。でも先生は呆れているわけでも、面倒くさがってるわけでもない。もしかしたらそれは、むずがる子供をあやす母親に似ていたのかも。

「私の名前が〝薺〟というのは知ってますね?」

 訊かれて、あたしはうなずいた。何しろ初対面のときに、そう教えられたからだ。〝私の名前は薺、つまりぺんぺん草のことね――〟

「この名前をつけたのは、私の父なのだけど」

 と、春先生は続けた。

「それが何なのか知ったときは、まあまあショックだったものよ。ぺんぺん草なんて、雑草の名前をつけるなんて――。それで、父に向かって何でこんな名前にしたのかって、食ってかかったの。そしたらね、言うのよ。私が冬の真っ最中に生まれたからだ、って」

「冬なのに、春の名前をつけたんですか?」

 あたしは首を傾げる。

「そう、ちょっと変わった人だったの、父は。もう亡くなってしまいましたけどね。それで、ええ、父が言うには、冬の一番寒い時期に生まれてきたから、せめて名前は春らしいものにしたいって」

「それで、薺ですか」

 何しろ春の七草ではあるわけだし、先生の苗字は三春でもある。

 春先生はうなずいて、笑いながら言う。

「でも何も、そんな雑草の名前じゃなくったって、桜でも弥生でも何でもあるわけでしょ? それで抗議したら、薺は有用な植物だって、大まじめに言うのよ。それにぺんぺん草のことわざ通り、荒蕪地でも育つ丈夫な植物だ――って」

「確かに、変わった人みたいですね」

 あたしは春先生と同じみたいに笑った。自分の娘にぺんぺん草の名前をつけて、それを真剣に論じている父親の姿を想像しながら。

「そう、それでね、私はしょっちゅう思ったものよ。冬に咲いてる春の薺を、ね。そうすると、不思議といろんなことを乗りこえられたものよ。本当に、不思議と」

「…………」

「人は真冬のさなかでも、春のことを思えるものよ。不思議なほどの弱さと、不思議なほどの強さを持っているのが、人間だから」

 あたしはその言葉を、心の中の引きだしにしまっておいた。いつかどこかで、役に立つような気がして。

「――フランスの警句に、こんなのがあるそうよ」

 それから春先生は、最後に言った。

「〝川に入って濡れずにいるのは難しい〟――私はそれで、思うんですよ。〝傷ついて生きるのは難しい、けど傷つかずに生きるのはもっと難しい〟って。人間というのは、そういうものじゃないかしら?」



 春先生が行ってしまうと、あたしは一人になった。たぶん、広いひろい宇宙を漂う、人工衛星みたいに。

 部屋の空白が大きくなると、空気は今が冬なことを急に思い出したみたいに冷えびえとした。影はほんの少し濃くなって、テレビのボリュームを下げたみたいに音が小さくなる。

「…………」

 あたしはぼんやり、机のところに座ったままでいた。

 目の前には、先輩が書いた(であろう)詩が残されている。そこに書かれている文字たちは自分のぶんをわきまえているので、必要以上のことなんてしゃべろうとしない。物理法則が、あくまでいつも決まった通りに働くみたいに。

 紙を手にとったり、指でなぞったりしても、それは変わらない。ランプの精みたいにジンが現れて、先輩のことを教えてくれる、なんてことは。

 あたしは目をつむって、深く息をした。頭を、気持ちを、言葉を整理するために。

 それから、今日が何日なのかを思い出す。その日付が持つ、意味のことを。

 ――そうだ。

 あたしはもう、答えを知っている気がした。先輩がどこに行ったのか、何を考えていたのか。

 だから本当に問題なのは――()()()()()()()()()()だった。

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