4(永遠が終わるその時までは)
たまの日曜日だというのに、あたしは図書館に一人で来ているところだった。
県立の図書館で、もちろん規模は学校の図書室なんかとは比べものにならない。メダカとクジラくらい、とまでは言わないけど、イワシとイルカくらいには。
ここと比べたら、文芸部の部室にある本なんて、全部ちょこんと指先にのってしまう程度のものだろう。先輩やあたしの存在にしたって、世界と比べれば実際はそんなものなのかもしれない。
あたしは案内板を確認し、目あての場所に向かった。事前にある程度の調べは出来ているので、そんなに時間はかかったりしない。
――必要なものを持ちだし、机に座って、さっそくページをめくっていく。
図書館の中は、空気が平らに均されているみたいに静かだった。物音や人の声がちょっとしただけでも、すぐ元に戻ってしまう。目に見えないたくさんの小人が、掃除でもしているみたいに。
あたしの調べものは、すぐに終わってしまった。ある意味でそれは、もうわかっていたことの確認でしかなかったからだ。黄金虫が、秘密の財宝の隠し場所まで導いてくれるみたいに。ヒントさえあれば、あとはちょっとした齟齬に気をつけてさえいればいい。
いくつかのメモをとって、あたしはページを閉じた。そこにあった情報量はたいしたものとはいえなかったし、最初から期待もしていない。何しろそこに書かれていたのは、世界の片隅で起きた、とるに足りない出来事にすぎなかったのだから。
でもそれは当事者にとってみれば、世界のすべてでもあるのだった。
「…………」
それから、あたしは文化祭のことを思い出していた。
次の問題を探すために、みんなで手分けをしていたときのことだ。あたしは一人で校舎を離れ、弓道場のほうに向かったのだった。人気のない、林の奥に。
そしてそこには、怪しい人影がいた。
人影はライトのようなものを使って、壁を調べていた。月までの交信に時間差があるみたいに、あたしは少し遅れてから、ようやくその人が誰なのかに気づく。
「あの、もしかして――」
と、あたしは慎重に声をかけた。
「学校のいろいろなところに、見えない文字を書いていたのは、あなたですか?」
すると、その人はこっちのほうを見た。内心でどれくらい驚いているのかは不明だったけど、まるでずっと前から、こうやってあたしに話しかけられるのがわかっていたみたいに。
それは、ちょっと陰はあるけど穏やかな、好青年風の男の人だった。嫌味のない目鼻立ちをしていて、礼儀正しく、思慮深そうな表情をしている。透明で明るい、月の光みたいな雰囲気があった。年齢はたぶん二十代後半というところで、それは先輩の推測とも一致している。
「――――」
その人はしばらくのあいだ、黙っていた。それは、そうだろう。いきなり目の前に現れた女の子に、自分たちの秘密のやりとりのことを訊かれたのだから。それに第一、その人が当の本人かどうかさえ、まだわかっていない。
種類のよくわからない空白の時間が続いて、あたしが不安になってきた頃、その人は言った。
「……どうして、そのことを?」
ひとまず、あたしは安心した。ということは、人違いでも勘違いでもなかったわけである。
あたしは事の経緯を、可能なかぎりかいつまんで説明した。それは虫喰いだらけのダイジェスト版もいいところだったけど、その人には通じたみたいである。それにこの場合に重要なのは、過程じゃなくて結果のほうだった。
「なるほど、ね」
と、その人はうなずいた。あたしの説明の、十倍くらいは理解している感じだった。
それから、とりあえずお互いの自己紹介をしておく。その人は、清塚真悟という名前だった。ちなみに、やりとりをしていたもう一人の相手は、咲島まどかという人らしい。
「それで、えっと……」
あらためて質問しようとして、あたしは迷った。ある意味では、あたしたちは個人的な手紙のやりとりを盗み見ただけの、部外者だった。詳しい話を聞く権利や資格なんてないかもしれない。
でも躊躇したのは一瞬で、あたしはすぐに訊いていた。迷ったり考えたりするのは、あたしの性分じゃない。
「――清塚さんと咲島さんは、どうしてこんなことをしてたんですか?」
その質問に、清塚さんはまたしばらく黙っていた。心情的に答えたくないのかもしれないし、事情的に答えられないのかもしれない。どっちにしろ、あたしに文句を言うような筋合はなかった。
でも清塚さんは、やがて言った。夜の空が、音もなく回っているみたいに。
「たいした話があるわけじゃないんだ」
それは、森で静かに鳴く鳥に似た感じの声だった。
「よくある話……よくある話だよ。ちょっとした誤解とか間違いが、どうしようもないくらいの結果を招いてしまう。そうやって壊れてしまったものは、もう二度と元に戻ることなんてない」
それから聞かされた事情は、大体次の通りだった。
清塚さんと咲島さんの家は近所にあって、仲がよかったそうだ。親同士が大学時代からの親友で、家族ぐるみのつきあいだったという。
清塚さんと咲島さんはそんな家に生まれた同い年の子供で、当然のように兄妹みたいにして育った。いわゆる、幼なじみというやつだ。別にギュスターブ家とモロー家みたいに、長いいざこざをやっていたわけじゃない。
中学時代まで、二人はぴったり身をよせあうようにして育った。光と影の境界線が、いつもくっついているみたいに。二人はパズルのピースみたいにお互いの形を補いながら、もう一つ別の形を作っていた。誰にも、それをばらばらにすることなんてできない。
すべてのことは、何の問題もなさそうに思えた。この幸福の完全は、誰かを犠牲にしたり、何かを代償にして得られたものじゃない。恥じることも遠慮することもない。
でも結局、そんな完全が続いたりすることはなかった。
金の切れ目が縁の切れ目、というのは本当のことみたいだ。清塚さんの言う「よくある話」というのは、要するにそれだった――つまり、金銭トラブルだ。
咲島さんの家が、詐欺の被害にあったのだった。絶対に儲かるから、という謳い文句の投資詐欺だった。きれいなパンフレットに、丁寧な説明、最初にだけ返ってくる配当、そんな感じの。
その話をすっかり信じてしまった咲島家が、清塚家に持ちかけたのだった。最初は半信半疑だった清塚家も、最後には全面的に信じてしまうことになる。目隠しをされた馬は、どんな崖だって怖がらなくなる。
それでどうなったかというと、どうにもなりはしないのだった。
何かおかしいと気づいたときには、会社への連絡がつかなくなり、責任者は高飛びし、投資したはずのお金はどこかへ消えてしまっていた。残ったのは、パンフレットの表紙で自信満々の笑顔を浮かべる社長の写真くらい。
――いや、ほかにも残ったものはある。
それは、憎悪だった。被害にあったのは両家とも同じだし、お互いに納得づくの行為ではあったけど、実際の中身は少し違う。清塚家の場合、犠牲になったのは、いつかお店を開く目的で積みたてておいた開業資金だった。その夢が、すべて水の泡になって消えてしまったのである。
お互いに仕事をなくしたわけじゃないし、生活そのものがどうにかなってしまうわけでもない。被害額ということでいうなら、咲島家のほうが少し多いくらいだった。
でも、それで話をなかったことにできるほど、人間は単純じゃない。水は泡になって消えてしまったけど、すべてを流したりはしてくれないのだった。
まずは、清塚家が咲島家にくってかかる。あんたたちが余計な話さえ持ち込まなければ、こんなことにはならなかったんだ――と。
それに対して、咲島家も黙っていない。被害にあったのはうちも同じなんだ。それに途中からは、あんたたちのほうが乗り気だったじゃないか――
見事なまでに、それは泥沼の争いだった。お釈迦様は濁った水の中で咲く蓮華の花を尊ばれたそうだけど、ここではどんな花だって咲きっこない。
下手に元の仲がよかったせいなのか、事態はこじれるところまでこじれてしまった。こんなのを見たら、アレクサンドロス大王だって困ってしまうだろう。結び目の一つや二つを切ったって、何も変わりはしないのだから。
そんな親たちの争いに、当然だけど清塚さんと咲島さんの二人は巻き込まれてしまうことになる。ひどい嵐が来てるときに、壁にくっついてるだけの一枚の葉っぱが無事でいられるわけなんてないのだ。
親同士が絶交状態になると、二人の交際も禁止状態になった。ちょっとでも口をきいたり、いっしょにいるところを見られただけで、二人は親たちから口を極めて罵られた。たぶん人を殺したって、こうまで言われることはないだろう、というくらいに。
そんな状態で二人にできたのは、物事がこれ以上悪くならないよう、気をつけることだけだった。汚れてしまった絵が、それ以上傷んでしまわないように。破れてしまった本のページが、それ以上千切れてしまわないように。
――二人の形が、これ以上壊れてしまわないように。
中学校時代も、それからも、清塚家と咲島家の関係が修復されることはなかった。ハンプティ・ダンプティでさえ、塀から落っこちたら元に戻らないのに、こんがらがった人間関係が元に戻るわけなんてない。
そんな中で二人が同じ高校に進んだのは、ただの偶然だったそうだ。強情な魔法瓶みたいに情報を遮断していたせいで、逆に気づかなかったのだという。
何だか、神様がちょっとウインクして気を利かせたみたいだけど、現実はそれほどロマンチックじゃない。何故なら、二人は一切会うことも、口をきくことさえなかったからだ。友人やクラスメートで、二人が幼なじみだと気づいた人間はいないはずだった。
二人はもう、自分たちがどこにも行けないのだということを理解していたのだ。地球が、結局はただ太陽のまわりをぐるぐる回っているだけみたいに。その軌道は厳密に、残酷に決定されている。
壁に見えない文字を書きはじめたのは(先輩が想像したみたいに)、ただの思いつきだった。ダメ元でパスワードを入力したら、ファイルが開けてしまった、というような。
でも二人は、そのたまたまを受けいれることにした。危険がなかったわけじゃないし、苦労だって多かった。そもそも、こんなことをしたって何も変わりはしないのはわかっていたのに――
二人はそれでも、秘密の手紙を書き続けた。春に花が咲いて、夏に蝉が歌って、秋に木々が葉を落として、冬にすべてが雪の下で眠りにつくみたいに。あたしたちの心臓が、頼みもしないのに鼓動を続けるみたいに。
それは二人が卒業するまで、終わることはなかった。憐れな女の子が、小さなマッチの光で暖をとるのと、それは同じようなことだったのかもしれないけれど。
「……それで、二人はどうしたんですか?」
あたしはその話の先を何となく想像できてはいたけど、訊いてみた。どれだけ確率が決まっていても、サイコロの目がいくつかなんてことは、実際に振ってみるまでわかりはしない。
「卒業以来、僕たちは一度も顔をあわせたことはないんだ」
清塚さんは、とても淡々とした声で言った。とても淡々とした、そうでないと何かが壊れてしまうみたいな声で。
「風の噂によれば、彼女は結婚して、子供もいるそうだよ。僕も今つきあってる人がいるし、その人のことはとても大切に思ってる」
「これはかなり余計なお世話かもしれませんけど――その、〝駆け落ち〟とかはしなかったんですか? だって、あの桑畑の記号は」
「ああ、そこまでわかってるんだね」
清塚さんは感じのいい先生が生徒を誉めるときみたいに言った。
「あれは中学時代に、彼女が冗談で言いだしたことなんだ。私たち、何だかロミオとジュリエットみたいだね、って。家同士の仲が悪くなりはじめた頃で、でもまだ完全にはダメになっていなかった頃のことだよ。もっともそれは、壊死がはじまって切断するしかない足が、まだくっついてるってだけの話ではあったんだけどね」
「…………」
あたしは何とも言えなかった。それは冗談ですませるには、あまりに救いのない話だったから。
それから清塚さんは、あたしの質問に対してあらためて言った。
「実のところ、そのことについては僕たちは一度も考えたことはないんだ」
「一度も、ですか?」
あたしはちょっと意外だった。変な話だけど、どう考えてもそうするほうが正しくて、まともな気がしたからだ。憲法だって、恋愛の自由を謳っている。
でも、清塚さんは首を振った。手についた砂を払うみたいに、簡単に。
「僕たちは、世界を損なうわけにはいかなかったんだ。自分たちのために、誰かを犠牲にすることなんてできなかった。そんなふうに幸せになったとしても、いつか必ず、それは壊れてしまったと思う。雨風に野ざらしにされた絵が、あっというまに色あせてしまうのと同じで」
もちろんそれは、あたしには何も言えないことだった。たぶん、二人は自分たちの両親を愛していたんだと思う。かつてそこにあった、きれいな思い出といっしょに。
だから、それを壊すことができなかった。それは自分たち自身を――世界を、壊すことだったから。
「――――」
その時、携帯の着信音が鳴った。あたしのが、だ。たぶん、目あての人物を見つけたという知らせだろう。もう、ここにはいられないみたいだった。目覚まし時計が鳴ったら、夢から覚めなくちゃならない。
「最後に、訊いてもいいですか?」
と、あたしは言ってみた。
「どうぞ」
「――清塚さんは今でも、咲島さんのことが好きなんですか?」
あたしのその質問に、清塚さんは長いこと口を開かなかった。一滴の雨粒が、地面に落ちて、川を流れ、長い旅を終えて空に戻り、また地上に降ってくるみたいに。
「バカバカしいと思うかもしれないけど、そうなんだ」
と、清塚さんは言った。自嘲するような、それを誇りに思うような、そんな声で。
「僕は彼女のことを、今でも愛している――たぶん、永遠が終わるその時までは、ずっと」
先輩とあたしが見つけた秘密の物語の、それが結末だった。
――学校の廊下は冷たくて、空気は自分で自分の寒さに震えているみたいだった。光も音も、冬のあいだは人間と同じように、身を縮こませてやりすごすことに決めてしまったらしい。
窓の外に見える空は灰色で、ちょっとした色見本に使えそうな単調さでどこまでも続いている。そこからは、いつ雪が降ってきたっておかしくなさそうだった。祈祷師が雨乞いをしていたのと比べると、天気予報はずいぶん進歩したみたいだ。
放課後の時間、あたしは文芸部の部室に向かっているところだった。ちょっとした用事があって、時間はわりと遅くなっている。もっとも、お茶会に遅刻しそうなどこかのウサギほどじゃなかったけど。
「…………」
人気のない廊下を歩きながら、実のところあたしは考えていた。珍しく、真剣に。
それは、昨日図書館で調べたことについて、先輩に聞くべきなのかどうか、ということだった。
あたしはいくつかの情報と推測を整理して、一つの結論を得たのだ。先輩が抱えている、ある秘密についての。図書館で調べものをしていたのは、その裏づけをとるためだった。あたしにだって、石橋を叩くくらいの知恵はあるのだ。
それでわかったことは、ほぼあたしの推理通りで、ほかに新しくわかったこともあった。いくつかの数字とか、事実、その結果なんかについて。
でも本当に大切な、肝心なことはわからないままなのだった。
もしもそれを確かめたかったら、先輩に直接訊いてみるしか方法はなかった。秘密の鍵と扉を見つけたら、あとは塀の向こうまで行ってみるしかない。例えそこがどんなところなのか、何があるのか、わからなかったとしても。
けれど――
それを知るどんな権利や資格があるのか、あたしにはわからなかった。あたしは先輩の幼なじみでも、特別な関係でも、血がつながっているわけでもない。
――ただの、赤の他人だった。
そんな人間が、その人が心の奥に秘めていることに、勝手に手を触れていいものなんだろうか。大切な場所を、土足で踏みにじるみたいに、大事にしまわれていた箱を、許可なく開けてしまうみたいに。
あたしにはやっぱり、わからなかった。
そうこうするうち、部室の前まで来てしまっている。いつも通りの扉に、いつも通りのドアノブ。あたしの悩みごとなんて知らん顔で、何のアドバイスも、ヒントもくれることはない。
陸上競技のスタートラインに着くときみたいに、あたしは一度だけ深呼吸をした。
それから、軽くノックをしてドアを開く。
部室の中は外と同じくらいの温度で、冷えびえとしていた。格好ばかりのヒーターはつけられていたけど、絵に描いた餅くらいの役にしか立っていない。電気はつけられていなくて、窓に貼りついた光が部屋全体をうっすらと灰色に照らしていた。
そんな中で、先輩は机にうつぶせて眠っていた。
あたしが入ってきたことに気づいた様子もなく、顔を上げたり、眠りから覚めたりする気配もなかった。すっかり眠りこんでいるみたいで、毒りんごを食べた白雪姫みたいに身じろぎもしない。
先輩のその姿は無防備というか、意外なほど子供っぽいというか、何だか――弱々しかった。まるで、根っこから乱暴に抜かれてしまった、きれいな花みたいに。
「…………」
あたしはそんな先輩を見ていると、何も訊けなくなってしまっていた。結局のところ、あたしはそれほどの勇気も、残酷も、持ちあわせてはいないのだった。
気をとりなおして、あたしはいつもみたいに脳天気な、悩みのない声で言った。
「――先輩、起きてください。そんなところで寝てると、風邪ひきますよ」




