2(百奈桃花の言うことには)
「――三年生にすっごいイケメンがいるらしんだけど、千瀬も見にいかない?」
という、わりとどうでもいいお誘いを受けて、あたし(他三名)は一年生の教室がある二階から、三年生の教室がある四階まで移動中だった。
昼休みのことで、もう食事は終わっている。暖房の効いた教室の外に出ようなんて物好きは少なくて、廊下も階段も閑散としていた。凩が吹いてないのが幸いなくらいだ。
人や動物と同じで、音や空気も冬ごもりをするのか、何だか校舎の雰囲気はいつもと違っていた。缶詰みたいに、固く密閉されている感じだ。
「……というか、今さらそんな三年生を見物に行ってどうするわけ?」
途中、あたしはごくまっとうな意見として訊いてみた。三年生なんて、もうすぐ卒業してしまうのに。
それに対する友人のご高説は、
「今だから、でしょ」
ということだった。卒業してからじゃ、イケメン度なんて確認のしようがない、ということらしい。それも一つの意見ではあった。
さらに言うには、
「何でも、タレントにスカウトされてて、芸能界デビューが決まってるらしいよ」
とのこと。その尾ひれがどのくらいのものかは、あたしにはよくわからなかった。逃した魚はいつだって大きいものだ。
そうやって輝かしい青春の一コマを増やそうとしていたときに、あたしはふと足をとめた。階段の途中、三階から四階に向かうところで。
「どうした、千瀬――?」
先に行っていた三人が、踊り場から振り返る。カードゲームで、相手の順番を待つみたいに。
「悪いけど――」
勝手に口が動くのを、あたしは黙認した。
「ちょっと用事が出来たから、先に行ってて」
抗議の声は却下して、あたしは三階の廊下に向かった。豚の鳴き声みたいのが追っかけてくるけど、やっぱり無視。
「…………」
あたしは確かに見たはずのその人を探して、きょろきょろした。学校の廊下はどこかの地下迷宮みたいには広くないので、親切な王女がくれた糸がなくても簡単に見つかる。
「モナカ先輩」
と、あたしは声をかけた。
呼びかけるときに、百奈先輩でも桃花先輩でもなく、モナカ先輩になるのは我ながら不思議だった。でもこれが一番しっくりくるのだし、何事にもフィット感は大切だ。
百奈先輩はすぐ気づいて、こっちを向いた。購買で買ってきたのか、紙パックの牛乳を飲んでいる。
「……それ、購買のですか?」
念のために、あたしは訊いてみた。
「――ああ」
と、百奈先輩はストローをちゅうちゅうやりながら言う。
「成長するのに、牛乳は大事だからな」
「……大事ですよね」
打ち出の小槌を発明したほうが早そうだけど、一応本人にも成長するつもりはあるみたいだった。
百奈先輩は当然といえば当然だけど、白衣を着ていなかった。普通に、冬用のセーラー服を着ている。学校は日常的に白衣を着る場所としては、ふさわしくないのだ。
でも白衣姿じゃない百奈先輩は、何だか百奈先輩らしく見えなかった。どちらかというと羽化する前の蝶とか蝉とか、そんな感じに近い。本人は特に、そんなこと気にする様子はなかったけれど。
「モナカ先輩は、教室に帰るところですか?」
あたしは周囲を見まわしながら、訊いてみた。人の姿を消す画期的な薬でも開発されていないかぎり、百奈先輩は一人のはずだった。
「ああ、そうだが」
「……ちょっと、話をしてもいいですか?」
声の調子をいくらか落として、あたしは確認した。とても大事で内密な話があったからだ。
百奈先輩は何となくうさんくさそうな顔で、あたしのことを見た。実験結果が明らかにおかしかったので、途中で誰かが何か間違ってたんじゃないかと疑ってるみたいな顔だ。まあ、それも無理はなかったけど。
でも結局、百奈先輩はあたしの言うことを聞いてくれたみたいだった。これでも、何百人もいるかわいい後輩の一人なのだ。
「まあいいだろう。別に用事があるわけでもないからな」
「じゃあ、向こうのほうに移ってもらっていいですか」
あたしの頼みに、百奈先輩は軽く肩をすくめるだけだった。数学的帰納法によって証明されているとおり、一度受けいれられたお願いは、次もまた受けいれられるのである。
「…………」
一応、あたしは廊下を確認してみた。ほとんど人影はないし、とりあえず問題はなさそうである。それでも、教室とは反対方向にむかう。どこに壁や障子があるかなんて、わかったものじゃない。
東側の渡り廊下まで来たところで、あたしは足をとめた。ここなら、ほとんど人が来ることはないし、誰かに見られる心配もない。
「厳重だな、たまたま拾った書類に国家機密でも保存されてたか?」
「似たようなものです」
あたしはまじめに冗談を受けとめてから、ふと思いついて訊いてみた。
「ところで、モナカ先輩は試験の結果はどうでした?」
百奈先輩はこれが、つきあいきれない冗談なのか、そうでないのか、ちょっと迷うような顔をした。
「それは、国家機密に関係があるのか?」
「多少はあります」
あたしが厳粛にうなずくと、百奈先輩は正確な科学測定を諦めたみたいな、そんな顔をした。そうして、答えてくれる。
「……化学はよかったぞ」
嘘ではないけど、含みのある言いかただった。
「ほかはどうだったんです?」
「小説に登場する架空の人物の架空の心情を考察することに、何の意味がある?」
どうやら、百奈先輩は現代国語がお気に召さないみたいだった。
「――志坂先輩はどうだったか、知ってますか?」
と、あたしは訊いてみた。
百奈先輩は確信はないけど含みのある目で、こっちを見てきた。蝶が羽ばたいたから、どこかで竜巻が起こってないか疑うみたいに。
「大体、想像はつくと思うが、リッコは成績のいいほうだ」
どう解釈したかは不明だけど、百奈先輩は教えてくれた。
「それも、全教科まんべんなく――な」
全教科まんべんなく悪いほうのあたしとは、好対照だった。
「あいつは昔から、それで一貫してたな」
「……ところでモナカ先輩は、先輩とはいつ頃から知りあいなんですか?」
あたしは念のために訊いてみた。
「小学校四年くらいだな。ただ――」
「ただ?」
あたしがうながすと、百奈先輩はちょっとだけためらうふうだった。ブランコにただ座って、少しだけ揺れているときみたいに。
でも結局は、話してくれた。
「――この時期は、リッコの成績は少しだけ落ちる傾向がある」
「それは今回も、ですか?」
「まあ、そうだな」
どうやら百奈先輩は実際に、先輩の試験結果を知っているらしい。
「それは、何でですか?」
当然だけど、あたしは質問した。それが、ここ最近の先輩の様子がおかしいことと、関係あるかどうかはわからなかったにしろ。
「――――」
百奈先輩は、長いこと黙っていた。実際は一分もたっていないのだろうけど、海の深いところまでフリーダイビングするみたいに。
「そのことに関しては、私からは何も言えないな」
――百奈先輩が口にしたのは、それだけだった。
とはいえ、その短い言葉の空白にはいくつかの情報が含まれていた。まず、百奈先輩はそのことを「言いたくない」わけじゃないこと。そして百奈先輩はおそらく、そのことを「本当は知っている」ということ。
たぶんそれは、百奈先輩があたしに与えることのできる、最大限のヒントだった。
あたしは親切な神様にお祈りするみたいに内心で感謝しつつ、言ってみた。
「……モナカ先輩でも、そんなふうに遠慮することがあるんですね」
考えようによってはまあまあ失礼な発言だったけど、百奈先輩は苦笑してみせるだけだった。
「人間は物理法則ほど頑丈じゃないからな」
と、百奈先輩は冗談のような本気のような、あるいはその両方でもあるみたいな口調で言った。
「取り扱いには、十分な注意と愛情が必要だ」




