1(そして、十二月)
冬休みももう間近に迫った、十二月のこと。
空気は冷凍庫に入れたみたいに冷たくて、水道の水は手に触れると痛くなるくらいだった。形にならなかった言葉みたいに吐く息が白くて、夜空の星は凍てついた氷と同じくらい固くなっている。
誰もが、もう世界が暖かかったときのことなんて思い出せなくなり、服を厚くしてそれを遠ざけようとしていた。体を小さくし、窓を閉め、手を震わせて、できるだけ冬をやりすごそうと。
でもそんな寒さもまだ下準備の段階で、これからもっと、ずっと、世界は冷たくなっていくのだった。水も空気も言葉も、何もかも氷りつかせてしまうくらいに。
虫も獣も植物も、もう眠りにつこうとしていた。土に潜り、塒に籠り、葉をすっかり落として。空の上の太陽さえも、それは同じだった。
世界はそうして、いつもみたいにゆっくり、着実に、死へと向かっていた。
まるで――
遊び疲れた神様が、すべてのおもちゃを片づけてしまうみたいに。
※
十二月はじめにあった期末試験も無事(?)終わって、学校の空気はどことなく緩んでいた。
廊下を歩くみんなの表情も明るくて、すっきりしている。声は大きく、足音は軽い。何だか空を背負っていたどこかの巨人が、肩の重荷を降ろしたみたいに。
それはあたしも同じで、まったくのところ解放感にひたりきっていた。テストの結果はどうあれ、すべては終わってしまったのである。幸いなことに、覆水は盆に返ったりしない。
誰もがみんな、もう何もかも終わってしまったみたいな、そんな雰囲気だった。食事をして、歯磨きをして、お風呂に入って、宿題も片づけて、目覚ましをセットして、布団も整えて、さああとはもう寝るだけだ――そんな。
いったん、すべてのことをリセットして、やり直すみたいに。
――でもそんな中で、先輩の様子はどこかおかしかった。
「…………」
先輩とあたしは、部室で本を読んでいるところだった。
前にも言ったとおり、文芸部の部室には高級マンションなんかと違って、冷暖房は完備されていない。夏のあいだお世話になった扇風機くんは、お役ごめんになってとっくに片づけられ、今は電気式のヒーターが置かれている。
とはいえ、このヒーターもやる気のほどは似たりよったりで、あまり熱心に仕事をしてくれているとは言えない。部屋の空気はいつまでたっても冷たいままで、こっちから近づかないかぎり効果を実感するのは難しかった。何だか、ネズミを見ても知らんふりをしてるネコに似ている。
文明の利器には頼れそうになかったので、先輩もあたしもオーバーを着たままでいたり、膝かけを使ったりすることが多かった。とりあえず、それで当面はしのげている。何しろ、南極の海に一年以上も閉じ込められているわけじゃないのだ。
それに暑くても寒くても、本たちはそんなこと気にしたりはしなかった。勝手に文字を大きくしたり小さくしたり、文章の前後を入れ替えたりもしない。誰かも言ったとおり、万物は流転するけど、「万物は流転する」という言葉は流転しない。
あたしは部室に置いてあった、古い航海記を読んでいるところだった。南極大陸の初横断を目指した探検隊の話だ。先輩はテーブルの向かいで、何か別の本を読んでいた。
「……今年の冬は寒くなるそうですね」
と、あたしは言ってみた。特にしゃべる必要はなかったけれど。
「そうね――」
先輩は本から顔を上げることさえしなかった。鯛を釣ろうと思ったら、もうちょっと上等なエビが必要なのだ。
「クリスマスまでに雪が降るって話ですけど、どうでしょう?」
あたしはめげずに、下手な鉄砲を撃った。エベレスト登頂といっしょで、先輩と話をしようと思ったら、これくらいのことで諦めてはいられない。
「さあ、どうかしらね――」
先輩は顔を上げて、窓の外を見た。少なくとも、一歩は前進したわけである。月に行くほどじゃないにしろ。
「……先輩は、雪は好きですか? あたしはわりと好きなんですけど」
「わたしは――」
その時、先輩は何か言おうとしたみたいだった。神様がうっかり、自分の名前を教えようとするみたいに。
でも結局、先輩は少しだけ首を振る動作をしてから、本のほうに視線を戻してしまう。
「――いえ、何でもないわ」
それっきり、先輩は口を開こうとしなかった。どこかの女神さまが、洞窟の奥に隠れてしまうみたいに。
「…………」
やっぱり先輩は、何だかおかしかった。まさか、誰かみたいに試験の出来を気にしているわけでもあるまいし。
もっとも、先輩のどこがおかしいのかと具体的に訊かれると、あたしも困ってしまうのだった。それはほんの少しの、天文学者くらいしか気にしない惑星の軌道のずれみたいなものだったかもしれない。
そのことについて、あたしは先輩に直接問いただしたりはしていなかった。長いつきあいとは言えないにしろ、先輩がそんな質問に素直に――あるいは、迂闊に答えるはずはなかったからだ。無理にそんなことをしたって、ネジ山の頭を潰してしまうのがオチである。
でも、このまま手をこまねいている、なんてこともできなかった。それはあたしの性分じゃないし、望むところでもない。
「…………」
あたしは本を読むふりをしながら、こっそりと先輩のほうをうかがってみた。
――本のページに目を落とす先輩は、どこか現実感に乏しかった。
それは何だか、空と海が溶けあって、境界がはっきりしなくなるのに似ていたかもしれない。




