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詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない  作者: 安路 海途
① シャーロック・ホームズによろしく
11/87

9(ピュラモスとティスベ)

「……でも先輩、何だって今回のことにそこまでこだわるんですか?」

 あたしは先輩にくっついて音楽室に向かう途中で、そう訊いてみた。

 放課後の廊下に人通りはほとんどなくて、水族館を歩いているみたいに静かだった。窓から差す光は傾いていたけど、そこに冬ほどの弱さはない。あたり前だけど、地球は経過した時間の分だけ、太陽のまわりを移動しているのだ。

「…………」

 あたしのその質問に、先輩はすぐには答えなかった。正直、どの口でとは自分でも思うけど、でもそれはあたしの正直な感想でもある。先輩はらしくないくらい、今回のことに執着していた。

「……わたしは、わたしの心をごちゃごちゃさせたくないだけ」

 歩いたまま、先輩は答える。

「このまま亀に追いつけないアキレスみたいに、中途半端にはしておけない。それに、あの詩が――」

 先輩の言葉は、風船の空気が抜けるみたいに途切れてしまった。

「あの詩が、どうかしたんですか?」

「……いいえ、何でもないわ」

 もちろんそれは、「何でもない」はずはなかった。でもこうなった先輩は、牡蠣なんて目じゃないくらい何もしゃべったりしないのだ。だから、質問するだけ無駄というものだった。

 階段を降りて、廊下を歩いて、やがて先輩とあたしは音楽室の前まで来ていた。今日は合唱部も吹奏楽部も休みなので、教室はコードをひっこ抜いた掃除機みたいに静かである。

 扉を開けて中に入ると、室内には誰もいない。あたしたちにとっては、実に好都合だった。

「〝うしろ〟って、どの辺ですかね?」

 机の向こう側に、あたしは視線を向ける。

「文字が書けて、できるだけ左端に近い場所でしょうね――今でも文字が残っていれば、だけど」

 先輩とあたしは机のあいだを抜けて、教室の後ろに向かった。誰もいない机だけが並んだその光景は、何故だかからっぽの棺が横たわっているみたいでもある。

 音楽室の壁は防音用の穴があいたタイプじゃないので、文字を書くには便利そうだった。白い壁面の上のほうには、おなじみの音楽家たちがずらっと並んでいる。でもその人たちは作曲のことばかり考えていて、音楽室の出来事になんて興味はなさそうだった。

「さて、どうかしら」

 先輩は(自前の)ブラックライトを取りだすと、左端の文字がありそうな場所に向けた。それから、鳩を飛ばしたりテープカットしたりといった演出もなく、あっさりとスイッチを入れる。

 そこには――

 一瞬の流れ星みたいに、文字が光っていた。

「あったんですね、やっぱり……」

 どちらかというとため息をつくみたいにして、あたしは言った。

 そのあいだに、先輩は壁全体をざっと確認している。文字は前回と同じように、端から端まで続いていた。相変わらず高さは二種類あって、それは何だか二人の人間が仲よく並んで歩いているみたいでもある。

「――――」

 文章の一つで、先輩は立ちどまった。あたしも横から、その部分をのぞき込んでみる。

 そこには、こんなことが書かれていた。


〝――時々、とても悲しくなります。

 私たちが月と地球で通信を送りあうみたいにして、こうやっていくら言葉を重ねても、心を通いあわせても、結局それはどこにも行きつかないものです。底のないコップに水を汲むことはできません。

 そう思うと、すごくやりきれない気持ちがします。私たちは、永遠に一つの場所を回り続ける星と同じなのです。私たちは自分にとって本当に必要なものを見つけているのに、それを手にすることはできません。〟


「これって――」

 とても壊れやすいガラス細工でも前にしたみたいにして、あたしは言った。

「桑畑は、おそらくピュラモスとティスベの神話を暗示しているのよ」

 先輩はいつも通りの、でも中身だけがちょっと違う感じの静かさで言った。

「ロミオとジュリエットの原型になったこの神話は、二人の男女の悲恋物語でもある。親同士の折りあいが悪くていっしょになれなかった二人は、それでもお互いに深く愛しあっていた。そしてある日の夜、二人はとうとう駆け落ちしてしまう。でもそこで些細な行き違いと不運があって、二人は死ぬことになる。その時に流れた血を浴びて、それまで白かった桑の実は赤黒く染まるようになった――」

「この二人も、同じだったってことですか?」

 あたしは眉をひそめる。

「……詳しい事情まではわからないけれど、何か似たようなことはあったんでしょうね。確かなのは、二人は恋愛感情を持っていた、ということよ――それも、丈夫なロープくらい強く、しっかりと」

 先輩がライトをどけると、文字はたちまち消えてしまった。そこにはただ白い壁があるだけで、どんな物語も語ってはいない。

 ――流れ星がどんなに強く、明るく輝いたとしても、その光の痕跡が夜空に残ることはないみたいに。

「二人は、どうしてこんなことをしたんでしょう?」

 あたしは自分でもよくわからないまま、何かを非難するような、胸が苦しくなるような、そんな気持ちがしていた。その気持ちは何だか、水の中でボールを抱えているときに似ていた。

「……そうね、もしかしたら最初は、ちょっとしたやりとりのつもりだったのかもしれない」

 先輩は少しだけ考えながら言った。

「子供が遊びでかくれんぼでもするみたいな、そんな。短くて一時的な、他愛のない約束。でもそんなことを繰り返すうちに、いつしかやめられなくなってしまった。お互いの心に書かれていた文字を、もう書き換えられなくなったから」

 先輩は大昔の哲学者みたいな、難しい顔で言った。世界には解決不能の物事があふれている。

「結局、二人はどうなったんでしょうか?」

 子供が飛んでいる風船の行方でも訊ねるみたいにして、あたしは言った。

「――さあ、どうかしら」

 当然だけど、先輩にだって答えなんてわかりはしなかった。現実は、名探偵が生きている世界みたいには出来ていない。

「少なくとも、普通に卒業はしたんでしょうね。何の噂にもなっていないみたいだから。そのあとどうしたかは、わからないわね。物語みたいに駆け落ちでもしたのか、それは悲劇に終わったのか」

「卒業したのが六年前だとすると、二人ともそれなりに大人になってますね」

 あたしはその時間経過を考えてみる。地球が太陽のまわりを、六周する時間を。

「いくら考えても、たぶんわたしたちにはこれ以上のことはわからないでしょうね」

 そう言って、先輩は軽く肩をすくめてみせた。

「流れ星はとっくに、夜空の暗闇に消えてしまっているのだから」

「…………」

 あたしはそれでも、目の前にある壁をしばらく眺めていた。白い壁は沈黙したままで、そこにいたはずの二人については何も語ったりはしない。

 答えは、どこにもないのだった。

 もちろんそれは、世界中の壁を一つ一つ探しまわったとしても。


 ――その後、壁に書かれた詩は、雨が降ったり風が吹いたりしているうちに、自然と消えてしまっていた。どうやらその詩は、誰かみたいな「デクノボー」にはなれなかったみたいである。

 詩が消えてしまうとほぼ同時に、文芸部への疑いも立ち消えになっていた。元々、火のないところから立った煙なのだから、当然ではあるのだけれど。

 そうして文芸部はいつもの週二日の活動に戻り、詩を書いたり、小説を書いたり、本の感想を交換しあったりした。もちろん、文芸部の本分は創作活動にあるのであって、探偵稼業を営んでいるわけじゃない。

 先輩の様子にも、特におかしなところは見られなかった。相変わらずクールで、頑なで、近よりがたい。研究の困難な野生動物くらいに、近よりがたい。

 時々、あたしが壁の詩について話題にしても、気のない返事をするだけだった。

「……これ以上、わたしたちにできることはないわね」

 ただ、そう言うだけで。

 日々はそうして、何事もなく消費されつつあった。誰かも詩に書いているとおり、「すべて世は事もなし」というわけである。

 それでも――

 あたしは時々、あの壁について考えることがあった。退屈な授業の合間や、帰り道のふとした瞬間、夜空の星を眺めているときなんかに。

 流れ星は消えてしまったけど、その傷痕だけは確かに残り続けているみたいでもある。

「…………」

 そしてあたしは、自分でもよくわからないどこかに向かって、そっと手をのばしたりするのだった。



 結局、あたしはその壁と二人の秘密について知ることになるのだけど、それはずっとあとの話だ。半世紀もあとじゃないにしろ、それなりにはあとの話。

 そして同時に、先輩のある秘密についても、あたしは知ることになるのだった。

 どうして先輩が、あの詩にあんなにこだわったのか――

 でも、それはやっぱりあとの話だ。今はもう、次の話をはじめることにしよう。

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