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書籍化作品・『コドクな彼女』関連

≪書籍化!≫コドクな彼女

作者: 北田 龍一

 わたしの記憶は、あまり思い出したくないモノでいっぱいだ。

 いつから心を持ったのか、心なんてモノが無い方が良かったのか、それさえ分からない。

 最初はそうじゃなかった。記憶も意識も一つだけだった。わたしがそうなったのはきっと……わたしが生まれるまでの出来事が、原因だと思う。


「この壺の中で殺し合え」


 嫌悪感の強い声。誰かはもうわからない。わたしたちを捕まえて、暗くて広い壺の中へ押し込めた事だけは覚えている。色々と考える余裕は、すぐに消えてしまったけど。

 わたしの押し込められた場所は、暗い暗い壺の中。一斉に詰め込まれたわたしたちは、お互いを見つめてぎょっとした。

 大きな蜂がいた。小さくて赤い毒蜘蛛がいた。たくさんの足を持つムカデがいた。凶暴なアリがいた。毒を持った蛇もいた。毛むくじゃらの芋虫もいた。猛毒を持つカエルもいた。鋭い尻尾を持つエイもいた。毒針を隠し持つタコや、発射する貝、ただ打ち上げられたクラゲとか……もう滅茶苦茶に押し込んでいた。

 ありとあらゆる毒を持つ生き物が、狭苦しい壺の中に押し込まれる。最初は目が慣れなくて、嫌がりながらひしめいていたけど……すぐに殺し合いが始まった。


 おしくらまんじゅうでイライラするのは、人間だけじゃない。狭い空間に閉じ込められれば、言われるまでも無、殺し合いになった。

 中は一瞬、すごい事になった。

 だって全員が毒を持っているんだもの。お互いの武器を使えば、暗く閉じ込められた壺の中で充満しちゃう。息をするのだって苦しいけれど、生き残るには最後の一匹になるしかない。わたし含めてみんな、そう思っていたに違いない。


 最初は激しい戦いになった。けど、ずっと続ける事は出来なかった。中には壺の中で充満する毒にやられたりする蟲もいた。

 食料だってほとんどない。だから生き残っている毒虫たちは、死んだ誰かの肉を食って、生き延びた。時々嫌になるけれど、弱ったら殺されてしまう。安心して眠る為には、すぐそばに毒を持った誰かを……この壺の中にいる全員を殺すしかない。結局わたしは、わたしたちは、毒虫だらけの壺の中で殺し合う事しか出来なかった。


 どれだけそうしていたかは、分からない。すごく短い時間だったかもしれないけど、わたしにはすごく長かった。暗い所で、ずっと気を張って、殺し合いをしていたんだもの。太陽の光とか、夜の月も見えない世界だもの。時間が全然分からない。

 長い殺し合いが終わって、わたしは一人で死骸を食べた。他に食べられる物もない。毒だらけで、腐り始めていて、普通なら絶対食べないけど……生きるにはそうするしかない。

 長い間。暗い所で一人きり。殺した毒を貪りながら、わたしは生き延びていた。

 そんな時……やっと壺が開いた。久々の光が眩しかった。見つめようとして、眩し過ぎて見えなかった。


 わたしがまごまごしていると、誰かの声が聞こえてくる。壺を開けた誰かは、綺麗な水の入った皿をそっと置く。

 ――もしわたしが このとき人間だったなら……きっと泣いていたんだろう。

 毒ばかりを食べていたわたしにとって、ただの真水でも体に染みた。あっという間に飲み干した所で、相手はわたしに手を伸ばす。

 噛みつく事は考えなかった。ここから出られるなら何だって良かった。

 その手がわたしを撫でた。ただ一人生き残ったわたしを拾い上げて、何かの檻か透明なケースに入れられた。

 それでも……今までに比べたら、天国みたいな場所だった。

 清潔な布の寝床にちゃんとした生肉、水もへんなボトルみたいなところに、口をつければ飲み放題。

 毒とは無縁の場所。敵のいない場所。たまに顔を見せに来る男の人は、自分に食べ物を置いていったり、時々ぬるま湯を持ってきて体を洗ってくれる。


「ふーっ……いや、とんでもないのが生き残ったな……ほら、見てみ?」


 男は奇妙なものを見せた。瞬間、わたしは牙を剥いて威嚇する。

 しゅるるるるるるっ……と低い声を上げて、太くて長い身体をうねらせて。

 その奇妙な物越しに見える相手も、同じように動いた。

 相手はわたしと同じぐらいの大きさの蛇。けれど身体の色合いがすごい事になっている。

 真っ黒な皮の所々に、暗く濃い紫色の文様がある。古い傷跡も残っていて、見るからに毒々しい色合いだった。橙色の瞳も鋭く、強く、ギラギラとした命の輝きを感じる。


 勝てるかどうか分からない。いよいよ飛び掛かろうとした時に、男がすっと手を上げた。

 すると……あの毒々しい存在は姿を消した。急に消えていなくなって、わたしはびっくりしたけど……男がすぐに実演する。


「こいつはさ、鏡っていって……ほら、水面みたいに見えるんだよ」


 からかわれたと気が付き、わたしは男に軽く牙を剥いた。

 この時本当に怯えていたことに、どうして違和感を覚えなかったのだろう……?



「なぁホントに頼むよ! 今日の合コン人数足りなくてさぁ!!」


 大学生のひびき かなえは、友人が手を合わせる様子を眺める。時刻は五時を過ぎ、郷土研究サークル活動が普段より早く終わった後、大学の敷地内で必死に友人は拝んで拝んで拝み倒してきた。

 そう言われても叶は困る。理由はいくつもあるが、とりあえず響は「何故?」と尋ねた。


「何故ってそりゃあ……急に三人ドタキャンするから……」

「突然? 比率は?」

「男が一人、女が二人。何とか女は一人捕まえたけど、あと一人ずつ足りねぇんだ。頼む! 叶! 合コン出てくれ!!」

「俺で無くてもいいじゃん……そういう浮ついたの、向いてないと思うけど」


 響 叶の容姿は凡庸。いや、どう考えても平均より2ランクは下がる。スキンケア不足のかさついた顔、頭髪は基本的に雑。爪は切ればなんとかなるとして、基本的に衣服も『変に外さずに着れればいいや』と言わんばかり。黒や茶色、青のジーンズを回しているし、上着だって似たようなものだ。恥をかくのが見えていて、どうして興味の無い合コンに出ねばならぬのか。さらにツッコミを入れて叶は詰めた。


「つーかそれなら、俺が出なくてもいいだろ。女一人捕まえたなら、男女比は釣り合ってるじゃん」

「い、いや、予約人数がズレると、キャンセル料が……」

「それ言ったら、俺が出る分の出費がかさむ。それに今からもう一人、女を捕まえられるの?」

「ほ、ホラ! 人数多いと盛り上がりが違うし、最悪お前は参加しなくていいっつか、引き立て役に徹してくれてもいいっつーか……」

「面と向かって言う事じゃないだろ……」


 自覚はあるが、改めて指摘されると少々傷つく。不機嫌になる叶を気にしても、それ以上に自分の都合が惜しいのか……誘いをかけて来た彼は食い下がる。


「わ、わかった。お前の分は半分出す! それに叶だって、女の子と喋れるんだぞ? 嫌じゃないだろ? 浮ついた気配一つないし……」

「いや、それが……だな」


 一番の問題点に、叶は言葉を濁した。最初こそ不思議に思い、叶を見つめた男は……その意味を察して驚愕する。


「お前まさか……彼女いんの!?」

「彼女……彼女なのかなぁ……同居人?」

「それはどう見ても同棲です、本当にありがとうございました! 爆発しろ!!」

「ちょ、ちょっと事情が特殊なんだけど……」


 響 叶は一人暮らし。高校時代に溜めたバイト代で、大学から電車で20分の地点で暮らしている。知人の農家が保有する寮へ住み込み、手の空いた日や休みには農作業を手伝う。

 機械化が進んだとはいえ、人手の欲しい場面はまだまだある。何より『その土地の文化』に触れる事を愉しめる叶は、土いじりに対してあまり抵抗が無い。

 合コンを誘う彼とも親しい中で、叶の事情はよく知っている。だからこそ『異性の同居人がいる』事実は衝撃を受けたようだ。


「お前に先越されるとか、一生の恥なんだけど!?」

「いやいやいや……元々結構モテるよ? 俺」

「そりゃ畑仕事の婆さんの事だろうが! オレも一度畑仕事手伝った事あるだろ? あん時オレもモテモテだったし? お前に限った話じゃねぇから!!」

「それは……まぁ、うん」


 騒ぎ立てる男の声に、僅かだが嫉妬を感じる。けれどこれで、合コンの誘いは断れるだろう……そう思った瞬間、全力で期待は裏切られた。

 まるで名案を思い浮かんだように、ポンと手を叩いて暢気に言う。


「そうだ! それならお前と同棲中の彼女、合コンに連れて来いよ!!」

「何言ってんのお前!?」


 コイツは合コンの意味を理解しているのか? まだパートナーのいない男女同士が、出会いを求めて食事やらカラオケやらを共にする。それが合コンだ。なのに同棲中の二人がまとめて出席する? 冗談ではない。下手をすれば冷やかしと取られて顰蹙ひんしゅくを買うのは確実。けれどケロリと合コン主催者は言ってのけた。


「付き合ってないならいいじゃん。同居人なんだろ? なら出会いを求めて合コンに出てもいいんじゃねぇの?」

「かなり気まずいじゃん。色々と」

「人数合わせのガヤでいいから! ちびちび酒飲んで、適当に楽しく喋って終わりでいいから!!」


 色々と言い訳を考えたが、諦めてくれそうにない。叶はもう逃れられないとして、彼女の参加は……どうなるか分からないと伝えた。


「……彼女に予定を聞いてみないと分からないぞ? 空いていたとしても、断られるかもしれない。それでもいい?」

「全然オッケー! ただ、早めに連絡入れてくれると助かる」

「はぁーっ……分かったよ。で? 場所は?」


 調子のいい友人はニカッと笑い、時刻と場所を送信する。今時ネット端末を通じて、様々な予定を共有するのも常識となった。確認を済ませると、友人はもう一度拝んで声をかけた。


「そんじゃ! 今日の8時にその店な!! お前の彼女にもよろしく!」

「……はぁーっ」


 いつも彼はこうだ。嵐のように強引に巻き込んで、いつの間にか引き込まれてしまう。

 それでも、まだ切れない縁を奇妙に思いつつ、叶は『彼女』にどう説明したのものかと頭を悩ませた。



 足取りを重くしながら、かなえは自分が暮らす住宅へ戻って来た。

 築三十年を超えた家屋は、オンボロと言うには綺麗で、新品と呼ぶには古臭い。そんな半端な経過年数と、最寄駅から徒歩二十分の絶妙な立地は、住居としての価値は低い……と言わざるを得ない。

 知人の伝手つてな事、時々叶が畑仕事を手伝うお蔭で、賃料が安く済んでいる。だから叶も、このボロい寮と立地を受け入れていた。

 幸い、広さは十分。古いなりにトイレと風呂もついている。コンロ二台に流し台もあれば、洗濯機だって置けるのだ。一人暮らしなら十分すぎるし、二人でもなんとか生活できる広さだ。……今まで気にした事も無かったが、彼女と暮らし始めてからその点を意識した。


「ただいま」


 一人暮らしでも、戸を開けた時の挨拶は忘れない。今までの習慣は、大学二年生になっても消えなかった。それが良いのか悪いのか微妙だけど、同居人のいる今では良かったと

思える。


「お帰り、かなえ


 低く静かな女性の声が、部屋の奥から帰って来た。彼女と暮らして二週間、やっとむず痒さが抜けて慣れて来た所。すり足で迫る足音は小さく、ロングスカートで足元はほとんど見えなかった。

 瞳はちょっと特徴的な、暗い橙色の瞳。ふっくらとした頬に、広く平べったい唇。全体的に目線も細く、長い前髪で額を隠していた。


「どうしたの? 今日、ちょっと遅かった」

「あー……うん。厄介な事になってさ……奈紺なこんにも話さないといけなくて……はぁ」

「わたし? わたしと……大学? 関係ないよ?」


 彼女の名前は赤瀬あかせ 奈紺なこん――二人で決めた名前であり、同時に『適当な名前』でもある。あくまで一時的に、認識されるために仮の名が必要との事で、雑な命名なのに、彼女はそこそこ気に入っていた。


「実はさ……合コンに誘われてて」

「合コン……って何?」

「えぇと、男と女が同数でお喋りするって言うか……その、仲良くなるための回と言うか……」

「ん……お見合い?」

「それを集団でやる感じ……なのかなぁ? それに呼ばれててさ。人数合わせで俺も呼ばれちゃって。さらに悪い事に……奈紺、君も参加するように誘われて……」

「ん? わたしも?」

「そう。君も」

「なんで?」

「断るために、今は奈紺と暮らしているから……って言い訳したら、巻き込んじまえって感じになってさ……ちょっと強引な奴なんだよ。借りも貸しもあるから、なんか、関係も切りたくなくて……」

「わたしも、合コン……行くの?」

「……興味ある?」

「少し、ある」


 ゆっくりと彼女に合コンを説明した。

 ちゃんとは分かったか怪しいが、大まかに通じたらしい。彼女なりに現状を理解すると、改めてコクリと頷いた。


「いろんな人と、ご飯食べたりお酒飲んだりする? うん。楽しそう」

「楽しい……っちゃ楽しいのかな。俺、そういうの良く分かんなくて」

「わたしも、同じ。一緒だね、叶」

「ははは……」


 その微笑みは、叶に眩しいような悲しいような。それなら一緒に、経験してみるのも悪くは無い。改めて目を合わせて笑うと、奈紺は静かに頷いた。


「じゃあ……この前一緒に買った、綺麗めの服がいいのかな?」

「そうだな……うん。ゴメン」

「なんで謝るの?」

「俺、ファッションセンスないから……その、笑われたりしたら、ゴメン」

「? どうでも良くない?」


 何が可笑しいのか、分からないように。不思議な言葉を聞いた時のように。きょとんと奈紺は真っ直ぐに、叶を見つめていった。不思議と透き通るような瞳が、叶の奥底を覗くように言う。


「叶がわたしのために、選んでくれた服だよ? なんで笑うの? もし笑う人がいるなら……わたし許さないよ、その人」

「そ、それはナシで! 悪気は……そんなにないんだ。ちょっとからかっただけって感じだろうから……」


 叶の心に怖気が走る。強い強い恐怖が湧く。彼女の持つ背景と気配は、オカルトめいた文言を重くするのだ。

 何より――彼女ならやりかねない。大事になる前に、必死になだめて言い聞かせた。


「…………でも、ダメ。合コンで嫌だと思ったなら、関係はそれっきりで終わりだから。な?」

「ん……叶がいいなら、そうする」


 怖ろしい気配は消え、奈紺はコクリと頷く。彼女が着替える気配を察し、そそくさと脱衣所へ叶は撤退。彼女が衣服を選ぶまでの間、ついでに風呂掃除も済ませておく。叶が一仕事を終えた頃には、すっかり別の衣服を着ていた。

 新品の、ゆったり着れるベージュ色のロングスカートと、紺色の上着と黒のインナー。暗い橙色の眼も合わせ、見てくれはかなり整っているように見える。正体を知らなければ、声を掛ける人もいるかもしれない。

 これから合コン。厄介な事にならなければいいが……一抹の不安を抱えつつも、叶は彼女、赤瀬あかせ 奈紺なこんと共に合コン会場へ向かった。



 合コンはどうにか丸く収まった。男女が五人ずつ、計十人の会は順当に盛り上がりを見せ、主催者の中沢なかざわ 健太郎けんたろうは、ほっ、と胸を撫で下ろした。

 急遽三名のドタキャンにより三人と四人になる所……中尾のコネで女性が一人、同じ大学生、腐れ縁のひびき かなえで一人、そして響の同居人の女性、赤瀬あかせ 奈紺なこん のお蔭で埋め合わす事が出来た。


(あぶねぇあぶねぇ、店やら周りやらの信用に関わるからな……)


 主催者に必要なのは、人望と信用。その二つが損なわれれば最後、誰も自分の号令で集まらなくなる。多少の出費やトラブルは起きて当然、如何に対処するか、未然に防ぐか、失敗するにしても『目に見えない部分の損失』を、抑えるのがコツ。中沢はそうやって、様々な人脈を作り、後々に生きると信じていた。


「ふーっ……で、どう? みんなメアドとか連絡先とか、交換した?」


 合コンである以上、本命はそちらだ。知らない異性と話し合うのは愉しい。けれど一番の目的は出会い。これに尽きる。かくいう主催者の中沢も『男女かどうかは置いておいて、様々な人間との交流』を目的としている。

 中々デリケートなので、人によっては大っぴらに発言するのを避ける。逆に堂々と宣言する者もいる。反応や行動を見て、どこまで踏み込んだのか、誰と誰が繋がりそうか、そうした水面下での『言葉に出さない微妙な駆け引き』もまた、愉しみの一つだろう。

 ちらりと観察の目線を注ぐが、やはりと言えば良いのか、響は微妙な顔で笑っていた。隣に座る赤瀬は逆に、何を言われたのか分からないと、きょとんとした表情だ。


(なかなか変わったを連れて来たよなー……)


 正直、彼女は良く分からない……垢ぬけてない田舎娘と、電波系や不思議ちゃんを足して二で割らなかったような、そうでないような……ともかく奇妙な娘だ。中沢が『彼女も合コンに』と誘った際、響はかなり渋っていたが無理もない。浮ついたのが嫌いとか、そういう事ではなく……もっとこう根本的に違うのだ。波長と言うか、住んでいる世界が。

 だから彼女は、全く空気の読めない言葉で伝える。


「交換? は、しなかったけど……楽しかった。すごく。ご飯もおいしかった」

「お、おう。それなら良かった」


 なんという光属性。男と女が出会いを求めて、酒とメシでわいわいガヤガヤする舞台であまりに眩し過ぎる。事実彼女はとても美味しそうに、食事を愉しんでいるのが、誰にでもわかった。会話もたどたどしいと言うか、ふわふわしていると言うか、掴みどころはないのだが……棘を感じない。心から楽しんでくれたのなら、主催者として冥利に尽きる。

 予期せぬ方向にほっこりしていると、そんな中沢へのご褒美だろうか? 軽く肘でつつきながら、隣の女性が意味深にウインク。彼女は確か、最初の欠員を埋めてくれた女性だ。

 これは即ち脈がありか!? 我が世の春の予感に、主催者は内心小躍りする。既にお開きの空気なので、中沢は軽く手を叩いてこの場を閉めた。

 会計を済ませ、何人か解散する。小躍りしたい気分の中、穴を埋めてくれた二人を見かけて中沢は呼び止める。


「響! それと赤瀬あかせさん! おかげで上手く行きそうだぜぇーっ!! ありがとうよぅ!!」

「え、あぁ……まぁ、良かったな?」

「てかお前、中々いい子連れてんじゃん。どこで知り合ったの?」

「あー……なんて言えばいいかね……」


 明言を避けるかなえ。話してくれそうにないので、奈紺なこんさんに聞いてみる。きっと答えてくれる……と期待したのに、目を合わせて刹那、何故か妙な寒気に襲われた。

 暗い橙色の瞳が、すっと中沢の方を見つめている。いや、厳密にはその後ろに、もっと別の何かに焦点が合っている? 原因が分からずじまいなのに、根拠のない恐怖が止まらない。


「え、えぇと……赤瀬、さん?」

「――その人はやめた方がいいよ」

「え?」


 誰の事だろう。何の事だろう。まるで魔法か何かのように、彼女の言葉が脳に染みこむ。急な立ち眩みと目眩が、中沢の足元を揺らした。

 倒れそうになる。動けなくなる。飲み過ぎたのか? と考える力まで揺らぎ、倒れる直前に叶が彼女の肩を揺らした。


奈紺なこん……ダメだよ?」

「う……でも、その、そうじゃなくて」

「う、うん? どういう事?」


 彼女が叶に気を取られた途端、全身を包む倦怠感は急に消し飛んだ。奇妙な出来事に面食らい、今度はどっと汗が噴き出す。

 なんだ今のは? 赤瀬の眼を見た途端、急に考える力が鈍った。ただの不思議ちゃんだから? 違う。もっとこう根源的な何かが、彼女から放射されたような……

 途端、中沢は怖くなった。この目の前にいる女性は――本当にこことは別の世界で暮らしているのではないか。そう、例えば――『この世の物ではないのでは』と、妙な想像と直感が働く。

 この女から……赤瀬あかせ 奈紺なこんから離れなければ。今すぐ逃げ出さなければ。そんな衝動が湧き上がる。先ほどまでの不思議な気配が、一気に裏返ってしまったような……

 彼ら二人が話している隙に、どうにか逃げ出さなければ。中沢は言い訳を探すうちに、街中に消えていく『誘いをかけた女性の姿を発見する』――


「あ、悪い! ちょっと呼ばれているんだ! じゃあ!」

「え、お、おい中沢!?」


 赤瀬からまた、怖ろしい目線が向けられている気がする。

 そこから逃げ出すように、中沢は夜の闇に溶けていった……



「ホント怖かったわー……なんなんだあの子?」


 ここで口に出すべきじゃない。なんとなしに中沢は思うものの、感じた原始的恐怖を忘れられず、合流した女性につい愚痴っていた。

 彼女はその場面を目にしていない。印象は一緒に飲み食いした時で止まっている。だからおかしそうに笑って、自然に切り出した。


「怖いって、どうして? 合コンの時は、普通の不思議ちゃんだったでしょ?」

「『普通の不思議ちゃん』ってワードに矛盾を感じる!」


 優しく笑う女性に中沢もつられて笑う。やっとゲットした彼女候補に、変なネガティブ・キャンペーンはよろしくない。気を取り直して話題を変え、次はどうするかを考えた。


「なぁなぁ! 交換先教えてくれない?」

「いいけど……もうちょっと飲んでからにしましょ?」

「マ!?」


 夜の繁華街、合コンの終わり時刻は十時半。このお誘いが来るなら、相手の予定は空いているのだろう。勿論中沢だって空欄だ。念願の彼女ゲットのチャンスに、少なからず浮足立つ。

 今までのいくつものセッティングにより、何度も失敗してきたが……遂に報われる時が来たのだ。酔いもあるのか、気分が良いからか、適当に女性と話しながら街中を歩く、合コンの時より少し踏み込んで、ややニッチな趣味についてとか、色々な事を聞き出したり話したり。


「いやーホント! 楽しいっすねぇ!! 初対面なのが信じられない!」


 何気なく中沢が発現すると、途端に相手の顔色が「すっ」と冷えた。急激に変わった態度に違和感を覚え、彼も首を傾げる。


「あれ? オレなんか変な事言いましたっけ?」

「…………………………」

「あ、あの……? 黙らないで欲しいっすよ。色々愉しく喋りましょ?」

「…………………………」


 突然の沈黙。無言でこちらを見つめていた彼女は、強引に中沢の手を引いて何処かへと走る。心臓が高鳴るが、ときめきと期待以上に、何か不穏な空気を感じずにはいられない。


(え? え? オレなんか空気読めない事言った!?)


 改めて、目の前の女性について考える中沢。発言も見直すが、どこもおかしな所などない。合コンで初対面な事なんざ、よくある事じゃないか……?

 女性はどんどん進んでいく。一応はついていくものの、街から離れていくのは分かった。

 彼女について、中沢は考えた。まずはここに至るまでの経緯から。


 最初は十人で合コンの予定で、中沢はソレをセッティング。ところが急遽三名が参加を辞退。予定が入ってしまったと連絡が入り、友人の響と赤瀬を誘った。

 その前に一人、穴埋めをすると連絡をくれたのが……今、中沢の手を引いている女性である。初対面の彼女と仲良くなって、それで――と考えて、明らかにおかしな事に気が付いた。


(あ、あれ……? なんでオレ、コイツと初対面なのに連絡取れている訳!?)


 今時、顔を合わせないまま連絡を取る事は……そんなに珍しくはない。が、今回のセッティングはすべて「中沢の知った顔」である。主催者たる彼が舞台を用意したのだから、人員の選定も中沢一人だ。

「急遽やめる」と言った人間から、埋め合わせで紹介されたなら分かる。が、確か中沢の知人リストの中から、彼女が「今日は空いている」と、連絡を取ってきたはず。――全く知らない筈なのに。

 それは致命的な矛盾だった。引っ張る手に恐怖を覚えた。おかしい。今回のセッティングにおいては「中沢にとっての初対面は、響の同居人だけ」の筈なのだ。最低でも、ネット上で何度か話してから会に呼ぶ。空気の読め無さそうな人員は、ネットでの対話段階で弾いている。だから……完全な初対面なんて、あり得ない。


「な、なぁ、なんだよアンタ……」


 答えは、ない。夜の闇は深まって、女の後ろ姿はただただ不気味に見えた。少し怖くなって、手を振りほどこうとするが……華奢きゃしゃな身体に似合わず、凄まじい力で捕まれ、逃れられない。半分引きずられる様にして、どんどん町から遠ざかっていく……


「おい! おい! 何処に連れていく気だよ!?」


 女は答えない。聞こえてくるのは川のせせらぎ。駅から離れた大きな川が、暗闇の中でごうごうと音を立てていた。


「…………………………」


 女は何も言わない。ただただ手を引いて河川敷へ、その奥に流れる暗闇へ引きずり込もうとする。すっかり酔いも醒めてしまい、中沢は危険を察し強くもがいた。


「やめろ……やめろ! 早く放せって! 何する気だよ!? えぇ!?」


 女の手は離れない。中沢が踏ん張っても、それ以上の――一体どこにそんな力があるのか知らないが――ずりずりと引きずられてしまう。恐怖のあまりに両手を使うが、それでもまだ振り払えない。こんな事はしたくなかったが……激しい動転が過激な行動を生んだ。


「離せっつってんだろ!!」


 無事な片手で、中沢は女の首筋に手刀しゅとうをぶつける。いきなりグーで殴るような事は出来ず、せいぜいチョップが限界。力ずくの抗議を受けて、女は立ち止まり不気味に振り向く。

 動けない人形が、無理やり動こうとするように……『ギギギ』と固い関節を動かして振り向く女。その姿はもう、マトモな人のソレではない。


「ひっ……!?」


 口が顎の奥まで割け、鮫やピラニアを思わせる歯が並ぶ。両目は水膨れて飛び出し、髪の毛は不気味に伸びながら抜けていく……


「ケケケケッ……」


 笑った。確かにソイツは笑った。人の形をしたソイツは嗤った。ソイツは間違いなく、人間ではなかった――

 響の同居人の言葉が、今更になって思い起こされる。

「あの人はやめた方がいい」とは、こういう事だったのか。

 闇に、川に、このまま引きずり込まれてしまう。この世ならざるソイツと目を合わせ、恐怖のあまり腰が抜けてしまう。近づく川、大きくなる笑い声。いよいよこれまでと感じたその時――

 酷く不快な、虫の羽音が聞こえた。


 女の形をした化け物に、川へ引きずり込まれそうになる中沢。タダでさえ嫌な時に、その羽音はますます気味悪く感じる。それもハエや蚊じゃない。大型のはちが一匹、真っ直ぐこちらに向かって飛んでくるではないか。

 こんな時に勘弁してくれ! 文字通りの『泣きっ面に蜂』の場面に、中沢は変な声を上げて笑ってしまった。

 その蜂がブンブンと旋回を始めると、口が割けた不気味な女は足を止めた。明らかに警戒している。人知の及ばぬ何かが、たかだか一匹の蟲ごときに唸り声を上げた。


「グギギギギギイィイイイッ~~ッ!!」


 超音波めいた金切り声で、女は蜂を威嚇する。あんなに振り払えなかった手をあっさりと放し、隠していた異形の気配を前面に押し出す。蜂も蜂で、強い意志を持って牽制しているように思える。何が何だか分からないが、離れなければと中沢は駆けだした。


「ギイィイアアッァアアアッ!!!」

「ひいいいぃっ!!」


 すぐさま女は気が付いた。獲物を逃がすまいと吠え、全力で迫りくる。後ろを振り向かずに、必死に河川敷を走った。

 ともかく川だ。川から離れなければならない。あの人型は恐らく、河原で無理心中を狙っている。それだけは確信を持てた。

 しかし奴は早い。強引に腕を引いて、全く振りほどけない怪力持ちだ。追いつかれてしまう……と思った矢先に、背後から大きな悲鳴が聞こえた。


「ギビャアアァアアアアッ!!」


 走りつつ振り返ると、女は巨大な蜂に刺されていた。しつこく纏わりつきながら、蜂は何度も女を突き刺す。何か異常な事態が起きている。それだけを理解して、中沢はひたすら走り続けた。

 けれど女も諦めない。蜂を素手で捕らえると、地面に叩きつけて追跡を再開。恐ろしい人型から逃走を図る。

 どこへ、どうとは決められない。まずは人の気配のある場所に行かなければ。先ほどまでいた繁華街に行けば、化け物も堂々とは襲えまい。

 全力疾走を続けるが、暗闇に足を取られてしまう。コンクリートの地面で受け身に失敗し、全身を強打してしまった。

 幸い、頭部は打たなかったが……衝撃で神経が歪み、上手く立ち上がる事が出来ない。顔面を虫刺されで膨れ上がらせ、醜悪な顔面がますます酷くなる。怒りに身を任せた女が、また手を引こうとする刹那――複数の蟲の群れが、女の化け物へ襲い掛かった。


「う、うわああぁぁっ!?」

「ギギギイイイィイイイッ!!」


 その蟲に、統一性は一切なかった。

 最初にこの女を足止めした、巨大な蜂もいるが――それだけじゃない。一回り二回り小さい蜂も群れを作り、次々と毒針と顎で襲い掛かった。羽ばたく蛾もまとわりついて、毒のトゲと鱗粉をまき散らしている。現実離れした光景に固まる中沢。どうにか立ち上がり、毒虫の群れから遠ざかろうと、よろよろと後ずさった所で誰かの身体に触れた。

 接触した誰かは、怯え竦む彼に淡々と、けれどいたわりを含んだ声色で囁いた。


「だいじょう……ぶ?」

「うわぁあっ!?」


 声を掛けられただけで、なんと情けない事か。異常な光景、怪異の気配に精神は張り詰めており、害意の無い対応でも怯えてしまう。首を傾げる彼女を見て、やっと中沢は名前を呼んだ。


「え、あ……た、確か赤瀬さん?」

「うん。わたしは赤瀬。だいじょうぶ?」

「あ、あぁ……い、いやそうじゃない! は、早く離れよう! なんだかわかんねぇけど、アレから逃げないと……」

「逃げる? なんで? あんな弱いのに?」

「え?」


 ロングスカートを地面に引きずり、彼女は人ならざる女に寄っていく。無数の蟲にたかられたソイツは、今はさらに恐ろしい状態になっていた。

 羽虫系の毒虫はもちろん、今はムカデに蜘蛛、小型の蛇まで絡みついていた。声は上げているけれど、最初に比べて随分と弱弱しい。身の毛のよだつ光景を、赤瀬はじっと見つめている……

 呆然と眺めていると、赤瀬も異常な事に気が付いた。

 ――衣服の袖がダラリと下がって、風に揺れている……


「――え?」


 まるで小さな子供が遊ぶように、長袖がだらりと下がっている。強引に縮めたり、隠したり……そんなチャチなトリックじゃない。文字通り赤瀬の肩から下が――手の部分が、完全に消えてなくなっていた。

 一つの異常が目につくと、他の疑問も次々湧いて出る。例えば……この光景を見ているのに、どこか赤瀬は淡白なのだ。男の中沢でさえ、あの蟲の群れは強い嫌悪感がする。女性であればなおの事、毒虫の群れは悲鳴を上げるのでは? ましてや化け物とはいえ、人型に次々と絡みついて、襲い掛かる光景なのに……?


「なんで……なんで? どうして? 平気なのか!?」


 ――彼女は何も答えない。彼女は決して振り返らない。風に揺れる両手の袖と、この光景を直視して冷静な赤瀬に、脅威から逃げ切れた安堵は吹き飛んだ。

 気配がするのだ。別れる前の、あの眼光を思い出すのだ。

 今の彼女の気配は――『自分の手を引いて、川に引き込もうとした怪異の気配と変わらない』――!

 蟲たちは容赦なく怪異をまとわりつき、あの女はどんどん弱っていく。その姿を見据える赤瀬の存在に、中沢は立ち上がろうとする。抜けてしまった腰と、驚愕と恐怖で目が離せない。怯え続ける彼の下へ――やっと友人が合流した。



 かなえなりに全力疾走し、ずっと華奢に見える奈紺なこんを追いかける。切羽詰まった彼女の表情からして、非常に危険な場面に違いない。事情説明もなく、この光景を目にした中沢を気の毒に思いつつ、やっと友人の無事を確認した。


「中沢……! 良かった。無事か!?」

「あ、あぁ……響! 響か!? お、オレ……」


 今にも泣きそうな顔だ。大の男が……と言うのは酷だろう。いくら屈強な男だろうが、相手が怪異では歯が立たない。すっかり正気を削られ、憔悴した瞳で訴えた。


「何だよ……なんなんだよこれ!? あの女もそうだけど……お前の同居人も普通じゃない! 一体何がどうなって……!」

「落ち着け……って言っても、無理だよな。最初は」

「最初って……待て! 叶はまさか」

「あぁ。奈紺の正体は知っているよ。大丈夫。俺達に悪い事はしない」


 そう――彼女は普通の人間ではない。いや、そもそも彼女は人間じゃない。本当は断言出来るような、信用や信頼できる背景もない。

 けど彼女は――中沢を助けようと決めた時、確かにこう言ったのだ。

「今日の合コン楽しかった。あの人が悪い目に、あって欲しくない」と。


「じゃ、じゃあ……あの子は、赤瀬あかせ 奈紺なこんは何なんだ!? 今だって腕が無いし、蟲を見ても全然ビビってないし……何? 退魔師とか巫女とか、霊的な関係の人!?」

「違う。彼女は――むしろはらわれる側だと思う」

「待って!? じゃあ邪悪な何かってワケ!?」

「中沢はさ……『蟲毒こどく』って呪い、知ってるか?」


 そこそこ知名度のある呪術だからか、中沢はしばらく考えて、ぽつぽつと口にする。


「た、確か……壺の中に毒虫詰めて、殺し合わせて……最後の一匹を呪いにする、って奴だったか?」


 だいたいあっている。急に言われた事に、中沢は理解が遅れたが……口ごもり、何を意味するかをかみ砕き、分かってしまった。


「待って! 待ってくれ! じゃああの毒虫って……!」

「うん。あれが奈紺の呪いの力。あの子は――『何度も壺の中で殺し合いをして、生き残って作られた』らしい」

「……!!」


 赤瀬奈紺あかせなこんは人間ではない。彼女の正体は『蟲毒の術で作られた呪いそのもの』あの子は人の形をしているが、本性はむしろ――『今まさに怪異に群がり、相手に食らいつく毒虫の群れ』なのだ。何かの間違いで……意思を持ってしまった呪術。それが一人の女性の姿に擬態しているだけ――


「そろそろ、もう動けない」


 無数の毒虫で取り囲んだ、女型の異形を見下ろす彼女。呪術師ではない。人ではない彼女にとって、腕の有無など些細らしい。自分を構成する呪いを打ち込み、女の形の怪異は小さく痙攣するばかり。完全に潰したと判断した彼女は……腕の無い身体で振り返り、少し険を解き中沢に問うた。


「――大丈夫?」

「え、あ……あぁ……うん。なんとか」

「ん。良かった」


 中沢の恐怖は抜けそうにない。今も蠢く毒虫たちは、何の容赦もしない。それこそ虫けら扱いで、そんな事より中沢を案じている。

 まだ不安も恐怖も大きいが……彼なりに『助けられた』事実を飲み込み、中沢は蟲の群れの中心。彼を水底に招こうとした奴を指して、質問した。


「あ、アイツは何なの? オレに何する気だったんだ?」

「ん……亡霊かな。やろうとしたのは、心中。多分、あなたが初めてじゃ、ない」

「心中って……初対面だぞ。オレは! 一緒に死ぬなんて……」

「誰でもいいの。あの人、自分の事、曖昧にしか覚えてない。死んだ事も、忘れている。川に飛び込んで、死んで。一緒に死んでくれる誰かが欲しい。何度も同じこと、やってるけど……満足して死ねないから、繰り返している。それがおかしいって事にも、気が付いてない。意識が有るから、死んでないと勘違い」

「……」


 入水自殺を……いや、無理心中を繰り返す幽霊……か。共に死ぬ相手は誰でも良い。良いと思いつつも、決して満足は出来ない。だから何度も……無意味に誰かを引きずり込んで殺している? 危うく今宵の犠牲者になる所だった中沢は、青ざめてスマホを彼女に見せた。


「待ってくれ、じゃあこの……スマホで連絡してきたのは、そういうつもりで……?」

「――うん。多分そう。出会いが欲しいのは、生きた人間だけじゃないよ?」

「で、でも! 幽霊がスマホの使い方なんて、分かるわけが……」

「わたしは分からないけど……ソレを使っていた人が死ねば、使えるよ?」

「あ……」


 幽霊は、生前の情報をある程度引き継ぐ。奈紺の言葉で理解し、ぞっと青ざめてツールを取り落とした。

 とんでもない所と繋がってしまった事実に、顔色は土気色に近い。ショックで固まる彼に対して、奈紺は「ごめんね」としゃがみ、そっとスマホを雑に蹴った。


「本当は……合コンの時から、わたし側な事、分かってた。悪い事しないなら、見逃すつもりだった」

「…………そ、そっか」

「でも、あなたを襲った。だからこれから……あのお化け、食べるね」

「――……え?」


 安心させるように奈紺は笑う。全く逆効果と理解せずに。

 すっ……と蟲の群れに歩み寄る彼女。惨たらしい事実だが、あの子に出来るのはこれだけだ。まだ現状を飲み込み切れない友人に対し、沈痛な面持ちで目を背けるよう指示する。


 赤瀬奈紺あかせなこんは呪いである。

 オカルト界隈に触れた事のある人間なら、存じている人間もいるだろう。古くからあるポピュラーな呪術……『蟲毒』によって生み出された、呪いそのものだ。

 方法は比較的、単純と言えよう。用意する物は二つ。

「複数の種類の毒虫や、凶暴な生物」と

「それらを纏めて一つに囲えて、封じられる容器」だ。古い呪術なのもあってか、壺が用いられる事が多い。

 後は用意した壺の中に、素材となる生物を投げ込む。しばらくすれば……毒虫同士での殺し合いが始まり、内部は凄惨な形相となるだろう。互いの身を食い合いながら、生き残るのはただの一匹。その一匹こそが……完成した呪詛『蟲毒』となる。

 その後の使い方はいくつかある。使い魔のようにして、嫌いな相手にけしかけたり……最後の一匹から体液や毒液を抽出して、相手を呪うのに使ったり。元の術式の用途の広さもあるのか……『彼女』は人格らしきものを、確かに獲得していた。


かなえ……見なくても、いいよ?」


 今の奈紺は分かっていた。これから彼女が始める事は、きっと多くの人にとって「怖い事」なのだと。自分を拾ってくれた叶でも、身の毛のよだつ光景な事を。

 しばし目を閉じて、叶は気まずそうにしていた。奈紺の心を、思いやる様に。

 赤瀬奈紺は、人間に擬態している。

 元々は大量の毒虫や悍ましいモノで、強力な呪物そのもの。

 だから――彼女には分からないのだ。

「普通で一般的な、人の価値観や基準というモノ」が……

 けれど叶は、彼女の価値観を知っていた。彼女の心を知っていた。だから迷いつつ、本音を聞いてくれたのだ。


「でも……奈紺は見て欲しいんだろ」

「うん」


 何も迷わず、奈紺は答える。それは大本が『蟲毒』という呪い故の、悲しい性の一つだった。

 この呪いで生まれた最後の一匹は――創造主に対して従順な性質を持つ。特に彼女、赤瀬奈紺は……自らの成果を、出来るだけ見てもらいたいという願望が強かった。

 この状況を身近に例えるなら……猫が捕らえた獲物を、飼い主に見せようとする行動だろうか? ゴキブリやらコウロギやらネズミやら、殺して口に咥えて持ってくるのだ。

 その死体を見て、悲鳴を上げる現代人は多い。が、猫の感情としては「自分の成果を見て欲しい」気持ちから、捉えた獲物を見せに来ているのだ。

 ――彼女の「捕食する場面を見て欲しい」も、近い心情と言える。一緒に暮らす彼は、顔色を悪くしながらも、要求を拒む事は無かった。


「――見ているよ。大丈夫。ただ、中沢は……」

「ん。そうだね。目を閉じていていいよ」

「お、おい……何する気だよ?」

「食べる」


 赤瀬奈紺に出来るのは、呪う事と食らう事。彼女は救済を与えるような存在ではない。慈悲深い存在でもない。ただ今の奈紺が求めるまま、彼女の思う事を、出来る事をするだけだ。

 怪異の女を、ともすれば同類の相手に近づく。群がる毒虫たちが離れ、大量の噛み痕の残る身体を淡々と見つめていた。

 水ぶくれに、蟲の顎で噛まれた痕。見るからに痛々しい傷だらけの身体を見て、赤瀬奈紺は――ぺろりと舌を舐めた。隠し切れない本性が牙を疼かせ、貪る前に人間の礼儀を真似る。


「いただき……まぁ~す」


 そして彼女は首を天に向け、ぐりんと顎を外して口を開く奈紺。その喉の奥から彼女は――ぬるり、と黒く大きな大蛇を吐き出した。

 否、逆だ。あくまで「人の身体」は、彼女にとっての外装に過ぎない。この黒い巨大な蛇――「アナコンダ」を模した蛇の身体こそが、赤瀬奈紺の本体なのだ。

 しゅるるるるる……とちろりと舌を覗かせ、弱り果てた幽霊に這って寄る。息も絶え絶えな霊体に対し、蟲毒の蛇は大きな口を開けた。

 頭から食いつく。牙を立て、ぐっ、ぐっ、と人型を飲み込んでいく。大量の毒を打ち込まれ、弱り果てた幽霊は……その瞬間何をされるかを理解してしまった。今更ながら必死にもがく。


 巨大な蛇は鎌首をもたげ、獲物を咥えたまま天を仰ぐ。その後、まるで鞭を叩きつける様に、身体をドン! と地べたに叩きつけた。

 暴れる獲物の身体が、激しい衝撃に晒される。一瞬力が抜けた途端、ぐっ、と大蛇の身体に飲み込まれたと察し、本格的な恐怖に悶えた。

 呪いの蛇は容赦しない。

 肩を、胸を、腰を、臀部を、ぐいぐいと喉を鳴らして詰め込んでいく。バタバタと藻掻く足が虚しく宙を泳ぎ――悪霊の全身が、巨体の蛇に飲まれた。

 あらゆる抵抗は、無意味に終わった。ツチノコのように膨れていた身体は、ゆっくりと通常のサイズにしぼんでいく。あっという間に霊体を消化し、蟲毒は漂う悪霊を食い殺したのだ……


「……終わった? 奈紺」


 橙色の蛇の眼で、食後の一休み中の奈紺に、彼が問いかける。見なくていい、と言ったのに、隣の中沢も一部始終を見ていたらしい。

 けぷっ、と蛇の彼女が小さくゲップして、満足げに舌を出す。休み終えた所で、蛇はするすると赤瀬奈紺あかせなこんの身体へと戻っていった。

 尻尾の方からするすると、人の身体へ戻っていく。明らかに体積が合わないが、霊的な、あるいは呪術的な彼女にこの世の法則は通じない。

 複数の毒虫たちも役目を終え、彼女の袖の方へ集まっていく。

 すべての怪異が消え去ったと同時に、呪いはまた人の姿に戻っていた。


 ひびき かなえは一部始終を見届けた。

 最初の頃も驚いたし、何なら今でも少なからず恐怖を覚える。けれど、初めてこの光景から目を背けた時……奈紺は酷く寂しそうな、悲しそうな目で、彼に見せないように泣いていた記憶がある。たとえその正体が「冒涜的な呪詛」であろうと、赤瀬奈紺の抱いた感情は、偽物と思えなかった。

 それに今回は彼女のお蔭で、叶の友人を失わずに済んだ。まだ腰を抜かしている彼を他所に、人の身体に収まった彼女を労う。


「……お疲れ様。奈紺」

「ん……胃もたれしそう」


 彼女にとって、悪霊を喰う事は朝飯前。別に食わずとも生きていけるそうだが、たまに口にしたくなるそうだ。今回の場合、事前に合コンで飲み食いしていた分、人が食べ過ぎた時のような表情だ。

 悪霊を喰い終えた彼女は、ゆっくりと響達の方へ歩いてくる。中沢は顔色が悪いまま、震えも怯えもあるけれど…奈紺を見て、逃げ出さなかった。まだ腰が抜けているのかもしれない。


「…………やべぇモンを見たぜ」

「? そう?」

「ははは……そっか。この子にとっちゃ別に、なんて事無いのか……」


 幽霊やら呪いやらの「ランク」は分からないが……奈紺にとっては、さっきの幽霊は雑魚同然。中沢目線じゃ幽霊も恐怖の対象だけど、奈紺はそれを上回る怪異に違いなかった。

 そうとも知らず……いや、理解せずに、奈紺は中沢にもう一度聞いた。呪いらしからぬ、いたわるような声色で。


「中沢さん……だっけ?」

「あぁ、うん。そう。オレは中沢だ」

「だいじょうぶ? 怪我、してない? 呪いは無いみたいだけど……」

「え、えぇ……? ちょっと、腰が抜けたぐらいで……落ち着いてくれば、大丈夫。歩けると思う」

「そっか……良かった」


 暗い橙色の瞳が細められ、そっと微笑んだ。先ほどの脅威が嘘のように消え、穏やかな表情に思える。まだ動けない友人に叶が肩を貸すと、奈紺もつられて反対側を支えようとした。慌てて中沢は断りを入れる。


「い、いや! 赤瀬さん! そっち側は大丈夫だから!」

「そうなの? じゃあ……叶、変わろうか?」

「そうじゃなくて! あー……アレだ! こういうのは男同士だから良いっつーか、女の人がベタベタ触るのはよろしくないっつーか……」

「そうなんだ……へー……」


 中沢の本音としては、彼女に触られるのが怖いに違いない。幽霊を丸のみ捕食した後では、その反応も止む無しだ。ちらりと叶が見つめると、友人に苦みの強い笑みを返す。街中の光を見つめると、彼らはそちらに向かって歩み始めた。


「早い所、明るい場所に行こう。んで今日はさっさと帰って、ぐっすり寝るとするか……」

「ん……怖かった?」

「そりゃあもちろん……! あ、いや、赤瀬さんの事じゃナイデスヨ!?」

「無理しなくていいよ? でも……もし良いなら、またご飯、一緒に食べたい」

「ん? ん? どういう事?」


 叶は柔らかく苦笑した。奈紺が中沢を助けた一番の動機は、今日の合コンなのだから笑ってしまう。一見冗談めいた本音を、つらつらと話した。


「だって、色んな人の話を聞きながら、ご飯食べるの、初めて。楽しかった」

「へ、へぇー……」

「お店のご飯も、初めて。だからあなたに、ひどい目に遭って欲しくなかった。わたしが食べたお化けも……愉しんでくれただけなら、良かったのに」

「…………」


 彼女は言っていた。「悪い事をしなければ、見逃すつもりだった」と。彼女自身、人ならざる者だからこそ、相手の正体を知りつつも一度は目をつむった。

 けれどよりにもよって……あの幽霊が手を出したのは、合コンの主催者にして叶の友人だ。奈紺も離れるように警告して、出来れば穏便に済ませたかった……のだろう。

 その温情に気が付いたのか、そうでないのかは……今となっては分からない。幽霊は強引に中沢と無理心中をはかり、気配を察した奈紺は『体の一部を毒蟲に還元して索敵』し、大きな蜂の一匹が二人の姿を発見。後はその一匹で時間を稼いでいる内に合流し……最終的に彼女が、幽霊を捕食したのだ。


「その、言い忘れていたけど……ありがとう。助かった」

「ん。どういたしまして」


 冷静になって、やっと「助けられた事」に至り、中沢健太郎なかざわけんたろうはお礼を言った。感情の起伏の薄い奈紺でも、ちゃんと目を合わせて気持ちを受け取る。

 確かに、赤瀬あかせ奈紺なこんは、その正体こそ恐ろしい。人によっては強い生理的嫌悪も覚えるだろう。

 けれど……彼女は、こうして人として振る舞う事も出来る。誰かを心配して、駆けつける事だって出来る。だからひびきかなえは、彼女を信じて共に生きてみようと思ったのだ。

 中沢もこの時、近い心情に至ったのだろう。その正体を知りながら、彼女の希望に沿った提案をする。


「なら……今度空いた日に、焼き肉でも行く?」

「それは……楽しい?」

「あぁ! そりゃ勿論! 色んな肉をその場で……金網の上で、炭火でじっくり焼いて……」

「美味しそう……ジュルリ」

「ははは……なぁ叶、この子もしかして腹ペコキャラ?」

「どうだろ。割と何でもおいしい美味しいって、食べてくれる子だよ」

「そうかい。じゃあきっと……悪い奴じゃないよな」

「俺も……そう信じている」


 暗闇を振り払い、これからも続く日常へ歩いていく三人。

 こうして、波乱まみれの合コンは、やっと終わりを迎える事が出来た。



「今日は大変だったね、叶」

「本当だよ。巻き込またとはいえ……奈紺も大変だったでしょ?」


 思った以上に帰宅までが伸びた。終電ギリギリの電車に乗り、二人は夜道を歩いて借宿を目指す。心細い電灯が照らす道だけど、叶の心に恐れは無かった。

 隣にいる彼女……赤瀬奈紺あかせなこんのお蔭だろう。最後に幽霊を丸のみにするのだけは、少々ショッキングだけど……終わってみれば中沢も、彼女の事を受け入れてくれたと思う。

 何より喜ばしいのは、奈紺本人も楽しんでくれた事。出席まで不安は大きかったけれど、人数合わせで出た合コンは……意外と奈紺も楽しんでくれた。


「お酒、久々に飲んだ。おいしい。ご飯も大満足」

「そっか……良かった」


 たどたどしい喋り方は、人間でないからこそ。けれど合コンの席では、慣れてない感が逆にウケたようだ。本気になる相手はいないが、飲み食いしながら喋るに丁度良い相手だった……のだろう。奈紺も最初からその気が無いので、色んな意味でちょうど良い距離感で終われた。最後の怪異と遭遇しなければ、もう少し穏やかな気分で帰れたかもしれない。


「あの幽霊……やっぱり悪霊?」

「ん……多分。でも食べた時、そんなに濃くなかった。殺したの、十人も行ってない」

「でも……何人か殺したなら、悪い霊じゃない?」

「そうだね。それに、きっと同じことを繰り返し続ける。誰かに倒されるか、成仏するまで」


 幽霊や悪霊の類は、自分の死に気づいていないケースがある。今回、友人の中沢を水に引き込もうとした奴も、その手の輩か。

 あのまま放置すれば、中沢が犠牲者になったかもしれない。すぐに奈紺が動いてくれたから、大事にならずに済んだ。改めて感謝しようとした時、彼女は少し浮かない顔をする。


「でもね叶……わたしも、悪いモノだよ?」

「それは……そうかもだけど、こうして話し合えるじゃないか。アイツみたいに、話が通じないような奴じゃ……」

「……どうだろうね?」


 ちらりと叶は、彼女の横顔を伺う。外灯や通り過ぎる車の光が、時々照らすけれど、細かく見ることが出来ない。闇はいつだって、この世ならざる化生けしょうを彩る物。彼女の正体を知っていれば、胸に湧く恐怖は隠せない。

 それでも、と叶は思う。

 彼女は彼女だ。赤瀬奈紺として、人の世に紛れて生きる事は出来るんじゃないんだろうか。現に合コンを楽しみ、傷つけようとした霊を倒して……今日一日の行動を見るなら、彼女は何も悪い事をしていない。そう思う。

 共存は出来る。一緒に生きていくことも。何よりその横顔が、最初に出会った時のような寂しさと悲しみを抱いていて……その顔を見るのが辛かった。


「大丈夫だよ奈紺。君は……君が思うほど、悪い奴じゃない」

「そうかな」

「そうだよ」

「そうなら……いいな」


 彼女は……奈紺は、自分が怪物な事を知っている。自分が怖ろしいモノな事を知っている。異形な事を知っていて……そのさがは治療出来ない事も、知っていた。

 人の心だって、完全に未成熟。そもそも借りモノと奈紺は言っていた気がする。この名前でさえ、響と出会ってから決めたモノ。人としての経験は、これから積んでいくしかない。

 でも……叶は思う。決してそれは、不可能な道じゃない。酒を飲み、お喋りして、知人に不幸が訪れそうになれば、助けに入る。まだまだ荒削りな所もあるけど、彼女は……人間になれる。その可能性を感じていた。

 それに、今日の合コンで……奈紺は酒がイケるクチと分かった。今まで彼女に、人としての生活を教える事が多く、酒を買って帰る余裕は無かった。合コンが終わり、幽霊を喰った後でも、奈紺は全く酔っぱらっていない。ニコニコ笑顔もシラフのままだ。

 暗くしんみりした空気の中で、二人は借宿へ帰って来る。荷物を置き、就寝の準備にかかる中、叶は明るい声で言ってみた。


「毎回は無理だけどさ、たまにお酒買ってこようか?」

「いいの?」

「いいよ。今なら安い奴があるし」

「ホント!? じゃあわたし、しゅわしゅわの奴がいい!」

「そっか。なら今度、家で飲もうか」

「うん」


 ころころと綺麗な声で、楽しそうな声を上げる奈紺。やや大きかったので、指を立てて注意すれば、彼女も同じような動作で、意思を交わした。

 もう深夜だ。日にちを跨いでいるので、騒げば隣の迷惑になる。風呂は朝起きてから入るべきか。脱衣所を使って交互に着替えて、小さめの洗濯機に衣類をぶち込む。

 後は布団を敷いて、眠りにつくだけだが……いつもの習慣が、今日この日、この状況では躊躇してしまう。


「奈紺……今日、一緒に寝るのはちょっと……」

「えっ!? ダメなの!?」

「だ、だって……身体洗ってないし、酒臭いし……嫌じゃない?」

「暗闇で、一人の方がヤダ!」

「う、うーん……」


 赤瀬奈紺あかせなこんの意外な欠点。人型となった彼女は、一人で眠りたくないらしい。この生活になってから、彼女は同衾どうきんを求めてくるのだ。

 正直、ちょっと役得と言うか、色々と感じる事も多いのだけど……本当に彼女は苦手らしい。酒が入っていても、ちょっと汗臭い身体でも、むしろ嫌がるのは「一人で寝る事」の方らしい。


「や、やだよ。一緒に寝て?」

「しょうがないなぁ……」


 思ったより長くなった一日は、最後まで少し騒がしい。

 結局押し切られてしまい……奈紺と叶は、一つの布団で眠りについた。



 わたしがまだ弱かった頃……透明なケースの中で、わたしは飼育されていた。男は優しかったように思えたけど、本当に優しかったのなら、わたしは最初から生まれていなかった。

 壺の中で、毒虫同士で殺し合い、身を喰らいあいわたしは生き延びた。そこから拾い出してくれた男に、わたしはしばらく飼われていた。ただ救われたからと信じきって。

 男はあまり構ってはくれなかった。寂しい時間は多かったけど、ここは明るいし、命の危険が無いのがいい。眠る場所だって快適だし、食事も程よくお腹が空いたころにくれるから、わたしは満足していた。


 けど……そんな日も消えてなくなってしまった。


 ある日たくさん食べ過ぎてしまった日に……わたしは深く眠った。次に目を覚ました時は、暗くて広い場所に閉じ込められていた。

 わたしだけじゃなかった。またしても無数の毒虫の群れの中に、わたしは押し込まれていた。あの暖かい世界から、この暗く毒だらけの地獄に戻ってしまったのだ。

 ――すぐに、殺し合いが始まった。

 先手必勝。一度経験済みのわたしは、早く敵を殺すしかないと知っていた。最後の一匹になるまで、この暗闇からは逃げられない。安全を確保するために、またあの暖かい世界に戻る為に、わたしはすぐに隣にいた大きな蜘蛛へ噛みついた。


 一回目と違うのは、詰め込まれた毒虫たちは……ずっと攻撃的で、強かった。

 例えば隣の蜘蛛だって、どう見ても普通じゃない。初動で足を一本食いちぎってやったのに……残りの七本と獰猛な牙で、平気で襲い掛かって来る。

 わたしは噛まれる前に尻尾で蜘蛛を粉砕した。べちゃりと飛び散る体液も、毒々しい色合いの紫だ。濃い毒素のにおいだけど、毒に慣れたわたしは平気。他の奴らなら倒れるかも。そんな予想は、簡単に裏切られた。

 どの生き物も一回り大きく、毒が強く、毒に強かった。

 一回目を乗り越える前なら、わたしも倒れていたかも。けど、その時にたくさん毒を体に溜めたわたしは耐える事が出来た。

 変だな、と思った。

 どうしてみんな平気なの? わたしでも苦しい毒の濃さだけど、暗闇に投げ込まれた毒の生き物たちは簡単に倒れない。必死に戦って、何度も死を覚悟して殺しあわないと倒せない……


 みんな強すぎた。わたしの持つ毒や力は滅多にないモノと思っていたのに……ここに投げ込まれたみんなが、似たような力、同じぐらいの毒を持っているなんて何かがおかしい。まるで最初から誰かに仕組まれたような……

 でも、これは後から考えた事。感じてはいたけど、みんな必死で私も必死。強すぎる、おかしいと感じても、生きる為には最後の一人になるしかない。

 だからたくさん殺した。

 だからたくさん食べた。

 毒を使い、毒を食べ、毒と殺し合う。

 暗くて、生ぬるくて、気持ちの悪い世界。ここから生きて出て、またあの暖かい世界に帰る為に。わたしだけじゃなくて、みんな必死に戦った。


 ――生き残ったのは、わたしだけだった。

 血と毒と臓物の海の中で、わたしの身体は一回り大きくなっている。たくさん食べたから? それとも別の何かなのかな。はっきり言って、気分はすごく悪かったけど。

 閉じ込められて殺し合い。

 周りはみんな強くて、みんな必死。

 普通のよりも禍々しく、毒も強い強敵たちに囲まれて……

 わたしはその死骸を喰って生き延びている。

 身体の奥がごわごわして、すごく気持ち悪い。つけられた傷が疼いていて、何かの叫びが聞こえてくるみたい。殺した誰かの声? それとも喰った誰かの声?

 身体が痛くて、熱くて、それでいてドロリとした何かが身体で脈打っている。それだけでもう死んでしまいそうなぐらい、苦しくて苦しくて仕方が無かった。

 わたしは耐えた。いつか解放される事を信じていたから。ここから出て、明るい世界に行けると信じていたから。


「あぁ……良かった。コイツは生きていたか」


 そしてその通りになった。暗く広い檻は開いた。一斉に明かりがついて、はっきり周囲が見えるようになる。今度は壺じゃなくて、ちょっと広い部屋の中だったみたい。眩しい世界に目を細め、男を見た瞬間――わたしの中が一斉にざわついた。

 すごく……苦しかった。わたしが食べてきた何かが暴れている。そしてわたしも物凄く嫌な気分になった。

 なんでだろう? この闇から救ってくれるのは、ここから出してくれるのは、この男である筈なのに。なのにわたしは……この男へため込んだ毒を、流し込もうとする自分がいる。


 それは恩知らずな事だ。助けてくれたんだから、返さないと。そう言って必死に抑えて来たけど、また清潔な住処や食事を与えられる度に、わたしの食べた毒虫たちがざわつくのだ。

 ――自分だけが、救われたのではない。この男の慈愛は……ただ自分を扱う為の、作業に過ぎないと……



 ひびき かなえは激痛で目を覚ました。

 確か昨日は合コンから帰り、終電近い電車で帰宅。そのまますぐに眠りつき……休日の今日は、ゆっくり体を休めるつもりだった。

 原因ははっきりしている。同居人の彼女、赤瀬奈紺が叶の腕に抱きついていた。目を閉じて震える様は、酷い悪夢を見ているに違いない。同衾中の彼女は、目を閉じていても辛そうな表情だ。

 苦しみと、悲しみと……何より強い憎しみを、人の歯をキリキリと鳴らして表現している。無事な方の手で、自分の痛みを抑えて頭を撫でた。


奈紺なこん……大丈夫。大丈夫だから」


 みしみしと嫌な音を立てて、叶の腕を抱きしめる彼女。たまにある彼女の「症状」で、今回が初めてではない。

 ならば、一つの布団で眠らなければよい……と思う人もいるだろう。一度は叶も考えたが……それはそれで、彼女は悲惨な表情をする。まだすべての過去を、奈紺から聞いていないけど、ネット上で調べた呪術『蟲毒』は、生み出される側目線では、地獄のような状況だ。トラウマになるのも仕方ない。どんどん力が強くなり、恐怖を覚える叶。やせ我慢しながら、彼女が安心できるよう撫で続けた。


「いでででで……奈紺。大丈夫。大丈夫だよ」


 彼女の呼吸は荒い。汗も滝のように流している。拭き取ろうとした時、僅かに手がかぶれ始めた。

 ――彼女は古い呪術の一つ『蟲毒』によって生み出された存在だ。

 過去の体験からして、全身に毒を有していてもおかしくない。ヒリヒリと痛み始める手に危機感を覚えた時、奈紺はカッと目を開いた。


「っーー!!」

「奈紺っ!」

「あ……」


 起こしてしまっただろうか。それとも悪夢から覚めたかったのだろうか? 覚醒した彼女は暴れず、乱れた呼吸を整えようとして……泣き出してしまった。


「叶……わたし、また……! ごめんなさい。ごめんなさい……!」

「大丈夫……大丈夫だから……あ、でも手は放して欲しい。いでで……」

「う……うん」


 奈紺はその細腕に反して、かなりの怪力を有している。本気なら腕の一本や二本、簡単に折る事が出来るだろう。そうなる前に解放されて良かった良かった……とはならない。むしろ奈紺が気にしたのは、かぶれ始めたもう片方の手だ。


「た、大変……!」

「大丈夫。ちょっとかぶれただけ……」

「ダメだよ! わたしの毒は……その、ごめんなさい!」


 純粋な謝罪と思いきや、奈紺は大慌てで叶の手を取った。すっ、と彼女が手を引いて、自分の口元に寄せていく。口を開け、伸びた犬歯が叶の手を噛んだ。


「っ!?」


 突然の事で泡を喰う。急な行動で、普通なら慌てていただろう。襲われたのかと、誤解を生みかねないが……叶は彼女の扱い方を心得ていた。

 もし奈紺がその気なら、半端に噛むなんて事はしない。一瞬で叶は丸のみにされてしまう。それだけの力を彼女は有しており、叶も何度か目にしてきた。

 だから信じる。だから任せる。不器用で、伝えきれないなりに、彼女に悪意が無いと信じて。しばし見つめていると、叶の中から何かが抜き取られていくような……奇妙な感覚を覚えた。かぶれた手の痛みと腫れが引いて、元の色へと戻る。


「これは……」


 一方の奈紺は、喉を鳴らしていた。叶の血を吸っている? とぼんやり思いつつ、事のいきさつを見守る。奈紺がゆっくりと口を離したその時、傷口もほとんど残っていない。出血も無しだ。


「毒だけ、吸い取った。これで安心」

「そんな事も出来るんだ?」

「うん。わたし、ほとんどの毒や呪いを食べれる。今、叶が触れちゃったのは……わたしの毒だと思う。わたしの想像より、強い奴じゃなかったけど……」

「そっか……ちなみに聞くけど、奈紺の毒で一番強いのって何?」

「ん……」


 生きた呪いであり、意思を持つ毒物の彼女。すぐに「これだ!」とは言わず、いくつかの候補を教えてくれた。


「注入して十秒で死が決まる奴……かなぁ? 使えるの、色々ありすぎて……」

「そうなんだ?」

「うん。最初にちょっとクラっと来てから……一週間後に時間差で確実に殺すのとか……逆に三か月ぐらい苦しめ続けて殺さないのとか。全身水膨れになってはじけて死ぬのとか、色々あるよ? 叶はどれが強いと思う?」

「比べる事自体間違ってる。どれもヤバくない!?」

「そうかな……そうかも?」

「そうだよ!?」


 凶悪過ぎる毒性である。本人があまり自覚が無いと言うか、感情が未成熟な分、恐ろしさを引き立てていた。けれど……肝心の彼女の性格は、毒気が少ない点が悲しい。

 怪物の能力としては満点でも……赤瀬奈紺の心は、穢れていると思えない。今の段階では、だが。


(この子を見捨てたり放置したら……本当に『怪物』になってしまう……)


 過去の記憶にうなされる彼女。凶悪な毒素を孕んだ彼女。今も時々怯えて、悲しみと恐怖に震えている。時々蘇る記憶と悪夢にうなされながら、それでも彼女は……なんとか人間になろうとしている。

 現に今、謝りながら叶の手をさすり、何度も小さく謝罪の言葉を囁いている。

 彼女が、なんとか人であろうとし続ける限り……叶もまた、奈紺の傍で支えたい。布団の温もりを名残り惜しく思うけど、休日とはいえそろそろ起きなければ。


「……さ、朝ごはん作ろうか」

「ん……ごめんね?」

「大丈夫だよ。でも……そうだね。作るの手伝って」

「うん」


 彼女が必要以上に引きずらないように、努めて明るい声で叶は言う。

 泣きはらした奈紺の顔は、幼い少女のようにも見えた。



 先日合コンで遅くに帰ってきた割には……同棲する二人は早めに起床した。健康的で良い事と思う叶だけど、隣で眠っていた彼女は、未だに彼の事を案じていた。


「腕……大丈夫? 毒は吸い出したけど……」

「平気平気。最近は力仕事もするからさ。腕に筋肉がついるから、折れてないよ」

「そっか……良かったぁ」


 彼女が見つめるのは、強く締めた叶の腕。昨晩は悪い夢を見たようで、うなされて締め上げてしまった。やや赤く腫れているけど、心配するような状態ではない。

 平気平気と笑って見せて、叶は身体を起こして起床。軽く顔を洗って、調子を整えてから……早速二人は朝食の準備を始めた。


「ベーコンと目玉焼きでいい?」

「うん。サラダはどうする?」

「ちょっと面倒くさいかな……インスタントのスープにしない?」

「わかった。やかん? を使うね」

「ありがと、奈紺」

「えへへぇ……」


 とても自然な会話を交わす。こうして隣にいる奈紺は、ちょっと抜けているだけの女性に見える。今朝の出来事のような……怪物である事を意識する場面もあるが、彼女は決して邪悪な存在と思えない。ひっくり返っていたやかんを手に、せっせと手伝う奈紺は、誰が見ても普通の女性に見えた。


「俺もやらないと……っと」


 冷蔵庫から薄切りベーコンのパックを二つ、特売で買った卵パックを取り出す。コンロも準備し小さめのフライパンをセット。サラダ油を引いて、つまみを回して着火。ボッ、と出る強火を中火まで下げ、薄切りベーコンを敷くように並べた。

 油が弾けて、香ばしい湯気が立ち上る。肉の下で踊る油の音に、寝起きの空腹が刺激された。


「ん~♪」


 奈紺も上機嫌で、隣にやかんを置いて火をかける。黄土色の古びたやかんは、寮の管理人から貰ったもの。年季が入って錆やヘコミも多いが、まだまだ現役で使える。

 しばらく火の加減を見ていれば、すぐにベーコンの片面に火が通った。火を弱火にして、菜箸さいばしでひっくり返す。卵パックから二個手に持つと、隣の奈紺が手を差し出した。

 微笑ましく笑って、叶は一個を手渡す。台座の角で卵を割り、そのまま彼は片手で器用に割って見せる。一方奈紺は、慎重に細かくヒビを入れてから、カケラが入らないように両手で割り開いた。

 たったそれだけの事の後、しょんぼりと奈紺は言う。


「叶、器用だよね……」


 確かに、不器用な人間だと難しい。自慢したい訳じゃないので、恥ずかしながら叶は言った。


「実はこれ、練習したんだ」

「そうなの?」

「そうだよ。料理漫画で片手で卵割るの、なんかそれっぽくていいなぁ……って」

「へー」


 軽く話している間にも、フライパンの上で卵に火が通っていく。半透明の粘体が、あっという間に真っ白に。ぷつぷつと気泡を作り、固まっていくのを見た叶は、次の工程に使う道具を要求。


「蓋をとって」

「ん」


 透明の蓋と、コップに半分の水を渡す彼女。しゅわしゅわと油と水が跳ねた所に、蓋をして蒸し焼きに。スマホのタイマー機能をセットして待機。後は焦げた臭いがしないか注意しつつ、食器の準備をしよう。


「紙皿とお箸、だね」

「そそ。あ! フライパンひっくり返さないように!」

「うん」


 取っ手を引っかけて黄身をぶちまける……なんて事は避けたい。注意しつつ食器やコップを用意する。二人分並び終えて、奈紺が小さく漏らした。


「あ……叶! パンを焼き忘れてる!!」

「あっ……!」


 小型トースターは空のまま、焼き上げるパンを挟んでいない。八枚切りの食パンを冷蔵庫から引っ張り出して、すぐにセット。五分ほど待てば完成するが、目玉焼きの方が早いかもしれない。

 まだまだ慌ただしい時間は続く。セットを終わった所で、今度はヤカンが高音を上げて湯気を噴出。叶がすぐに火を止めて、噴きこぼれを防いだ。

 危ない危ない。水が溢れて火が止まれば、最悪の場合ガス爆発だ。古い家屋故、火災になったら笑えない。叶が一息つき、奈紺も一緒に微笑む。用意したインスタントスープの素と、小さめのカップに彼女がお湯を注いだ。

 とぽぽぽぽ……と湯気を立てながら、黄色いコーンスープが出来上がる。軽くスプーンで混ぜるだけで完成だ。本当に便利な物と、改めて感じつつ……残ったお湯のあるヤカンに、紅茶のパックを入れて蓋をする。


「このままでいいんだよね?」

「そうそう。最後にそそぐ前に、パックは取り除こう。良い感じに蒸らせると思う」

「はーい」


 奈紺の返事と、アラームが鳴るのは同時。目玉焼きの蓋を開け、ふんわり蒸し上がった半熟卵の香りが広がった。二つの眼玉を壊さないように、フライ返しでちょうど半分にして皿に盛る。ぷるっぷるの黄身が揺れて、良い具合の半熟に奈紺が唾をのんだ。

 小さな台に対面へ置いて、スープを右となりに配置。狙ったようにパンが焼き上がり、トースターの高音が室内を賑やかにする。叶がさっとマーガリンを塗り、その間にマグカップに、奈紺が紅茶を注いでくれた。


「ん~♪ おいしそう」

「そうだね。上手く出来た」


 質素な洋食の朝ごはんの出来上がり。何気ない日常の光景。タダの朝食作りさえ、彼女か来てから妙に楽しい。

 今日の献立を見つめてお腹が鳴る。彼女と目を合わせて――


「「いただきます」」


 暖かい内に、今日の朝ごはんを二人で頂いた。


 基本叶は、自炊する人間だ。

 一人暮らしを始める前でも、叶は家事への抵抗が薄い人種だ。今時両親共働きも珍しくない。空いている時間に洗濯や掃除、レトルト食品の作るぐらいなら、多くの人間は経験がある。叶もその例に漏れず、ちょっとした物なら作れる。おかげで目の前の女性、赤瀬奈紺と朝食を作れるのだから、悪くない。


「ごちそうさま~♪」

「相変わらず早いね!?」

「うん」


 しかも彼女、とても美味しそうに食べてくれる。実に作る甲斐があるのだが、奈紺は食事ペースがかなり早い。ほぼ同じ分量を用意しても、確実に叶より早く平らげてしまう。


「先に洗っておくね」

「ありがとう」


 フライパンなどの洗い物に、積極的に手を付けてくれる。まだ半分近く残った目玉焼きを食べていると、家事をしながら奈紺は尋ねた。


「今日はお休みの日?」

「土曜日だからね。大学はそう」

「ん……何か予定はあるの?」


 合コンは金曜日に行った。翌日が開いていなければ、遅くまで飲む気になれない。中沢も心得ており、この手の会は金曜日に集中しやすい。そして参加者のだいたいは、次の日の予定を空欄にするだろう。

 叶も近いスケジュールだけど、お昼ごろから要請を受けていた。


「実は……ここさ、農場が近いじゃん?」

「うん。すぐそこに畑がたくさん」

「そそ。で、畑もこの寮も叔母さんの……俺の親戚が持ち主でさ。今日、ちょっと手伝ってくれって」

「そっかー……」

「奈紺も来る?」

「うん。する事無いから」


 彼女には、叶のお古のスマホを渡してある。WiFiも登録済みだし、ネットサーフィンも問題ないのだが……あまり彼女は合わないらしい。それよりは、叶が買った古いマンガや本の方が好みのようだ。それでも暇なら散歩したり、軽く掃除等で時間を潰しているらしい。

 大学生活中で、叶はバイトも入れている。彼女を一人にするのは、心苦しい時も多い。一緒に入れる時は出来るだけ傍にいたい。奈紺が嫌でないなら、畑の手伝いに同行してもらおう。


「なら今日は、昨日の服はやめよう」

「どうして?」

「土や泥で汚れちゃうから、綺麗な服はやめよう」

「そっか。そうだね」


 どこまで畑に入るか分からないが、作業に向かない衣服はダメだ。それなりの古着に着替えてから、二人は寮から外に出た。

 天気は曇り。雲は白い。雨が降るような天気模様ではなさそうだ。しばらく見つめていた叶と奈紺。少し湿った風が吹いた所で、叶が彼女を先導する。

 場所はそこまで遠くない。歩いて十分とかからずに、目的の農場に辿りついた。


「あらまぁ叶、早いわねぇ」

「えぇまぁ……早く目が覚めて、やる事も無いので。何か手伝えますか? 津留見つるみさん」


 叔母さんの名前はひびき 津留見つるみさん。六十が見えて来た方だ。畑仕事もあってか、身体つきに力強さを感じる。最近の農作業着は、デザインも良くなっており、古くからのイメージはそのままに、襟や袖にハリもある。老いてますます現役の叔母は、叶の背後にいる人物に目を丸くした。


「あら……赤瀬さん、だっけ?」

「こ、こんにちは……わたしも、お手伝いに来ました」

「あらあらまぁまぁ! イマドキ珍しいわねぇ! オバサン助かっちゃうわ」

「え、えぇと……」


 ニコニコ笑顔の叔母さんに、奈紺は緊張しているようだ。苦手な人……なのだろうか? 叶は彼女をフォローする。


「あ、す、すいません叔母さん。彼女、ちょっと天然気味で……あまりぐいぐい来られるのが苦手といいますか」

「あらま、そうなの? ごめんなさいね」

「い、いえ……」

「で! 叔母さん。何を手伝えばいい?」

「そうねぇ……今日は倉庫に積んである、肥料の整理をお願いしようかしら」

「えぇ? なんか地味な仕事……」


 農家と言われれば、水をやったり土を耕したり、収穫を行ったりのイメージが強い。勿論そういう仕事も頼まれるが、今回は違うようだ。


「前も話したけど、今の農業機械ってすごいからねぇ……トラクターで畑を動き回れば、それだけでほとんど、耕すのは終わる。元肥だってあっという間に撒けるし、本当いい時代になったよ」

「あー……なるほど?」

「最新のだと確か……これはアメリカの話だけどね。ドローンが飛び回って、農薬をまいてくれるのとかあるって聞いたよ」

「文明の利器ってすげぇ……あ、いや、凄いですね」

「はっはっは」


 話を聞いても、奈紺はさっぱりの様子。かくいう叶も分かるような、分からないような。雑談もそこそこに叔母と歩いて、大きなトラックに詰め込まれた、大量の肥料を見て仰天する。


「う、うわぁ……これ合計どれぐらいです?」

「どうかねぇ……数トンはあるんじゃない?」

「ひぇぇ……こりゃ大変だぁ」


 それがどんなものか、細かくは知らない。すべて使うのだろうが、これだけ多いと確かに重労働だ。奈紺も後ろから続き、まずはトラックから荷下ろしを手伝う。

 袋に詰められた、パンパンの肥料をカートに積んでいく。若い男の叶でも、かなり足腰に来る作業だ。ひーひー言いながら載せていくと、後ろの奈紺が手を貸してくれた。


「ちょ、ちょっと、気を付けるんだよ。女の子には重い……」

「? そう?」


 女性の姿をしているが、やはり奈紺は奈紺なのだろう。ひょい、と言わんばかりに軽々と、肥料満載の大袋を抱えて下ろす。

 なんというパワー……意外な助っ人の存在に、響の性を持つ二人は、思わず顔を見合わせた。



 奈紺のお蔭で、びっくりするほど作業が捗った。朝起きた時、腕を強く締められたあの力が、肥料を運ぶのに役に立った。叔母の津留見つるみも上機嫌で、何度か奈紺の背を叩いたりして、終始笑顔のままだ。

 しかし奈紺の側は、表情がどこか硬い。ぐいぐい来る人が苦手なのかな? と一瞬考える叶だが、合コンの時はずっと楽しそうにしていた……と思う。不思議なものと感じつつも、あっという間に作業は終わった。


「いやぁ! 驚いたよ! ありがとうねぇ!!」

「い、いえ……」

「本当に助かったよ奈紺。ありがとう」

「……うん」


 叶への返事も硬いけど、丸く収まったのでヨシ! 軽く汗を拭った所で、叔母は軽く畑を親指で指した。「ついてこい」と背中で語る叔母に、叶と奈紺は後から続く。

 案内されたのは叔母の畑。何度か目にしているので、今さら驚く事も無い。植えられているのは小松菜。まだ収穫に早い時期だが、そこそこに生育が進んでいる。叔母が叶に振り返ると、笑顔で手のひらを畑に向けた。


「そろそろ最後の間引きでね。形の悪いの、持って行っていいよ」


 太っ腹な単語に、思わず叶はガッツポーズ。これを目的にした訳じゃないが、オイシイおこぼれの一つだ。

 農業の作業の一つに「間引き」がある。

 形の悪い株や、病気や虫食いのある株を、あらかじめ除いてしまう作業の事だ。基本的に種をまくとき、少し多めに撒く。後から芽が出て、成長した植物の様子を見て、どれを残すか決めるのだ。

 出荷される前なので、全体的に作物は小さい。けれど味や品質に問題は無いので、貧乏学生には非常に助かる。何度か手伝ったので、間引きのコツも学んでおり……改めて叶は礼を言い、小松菜畑へ向かおうとする。その前に、一緒にいる彼女へ声を掛けた。


「マジっすか!? あー……じゃあ奈紺も一緒に」

「いやいや、この子じゃ分からないだろう? 初めての子に、どの株を間引いていいかは分からない。それに、せっかくだし話してみたいんだよ。私も」


 言われて、反論できない事に気が付く。それに叔母は、ぐいぐい奈紺へ距離を詰めていた。よくよく考えれば、叔母から見ても自分たちの関係は気になるのだろう。ただ、奈紺は無言で、顔が固いように見える。このまま二人きりにして良いのか? と迷った叶は、それとなく会話を続けて塩梅を探った。


「あー……ちゃんと話すのは、初めてですもんね」

「そうそう。奈紺ちゃん? は、どう?」

「ん……えぇと……あー……」


 彼女の態度は煮え切らない。良いのか悪いのかはっきりしないが、やぶさかではない……のかな。と感じた。女同士でしか話せない事もあるだろうし、ここは任せてもいい。やや不安げな奈紺が心配だけど、必要な事とアイ・コンタクト。不安げに頷きを返した彼女を置いて、叶は小松菜畑に向かった。



「ふぅ……」


 叶の叔母さんが、緊張した吐息を漏らす。出来れば叶に助けて欲しかったけど、残念ながら伝わらない。それに……ここをやり過ごしても、いつかどこかで話さなきゃいけないと思う。今まで無意識に感じていた圧が、叔母さんの口から真っ直ぐに放たれた。


「奈紺ちゃん……だっけ? ごめんなさいね」

「え……」

「だって、色んな方々が脅してくるから……あなた思っていたより、ずっとずっと『普通』なのですもの」


 誰の事だろうか分からない。わたしは眼を叔母さんに向ける。最初からわたしは分かっていた。

 だって、ずっとずっと、わたしの事を見ていたのだもの。毒と呪いで出来たわたしは、人の目線、その質にも敏感みたい。

 隠せないってわかったから、わたしから叔母さんに聞いてみた。


「わたしの事……知っているんですか?」

「ううん。全然」

「えっ」

「だって今日が初対面でしょう? あくまで奈紺ちゃんについて、色々と私に警告する人がいただけ。あなたが……多分だけど、物の怪とか妖怪とか、人間じゃない? 気配だけは分かる……かしら」

「えぇと……はい。そう、ですけど……なんで?」


 叔母さんは複雑に笑って、畑に手を向けた。


「畑や自然と向き合っているとね……嫌でも不思議な事? 土地や自然の神様? の……気配とか目線とか、経験するの。イタズラ狐に化かされたりとか、土地の神様がすごく怒る所とか……本当にいるかどうか分からないけど、喋れないからって、人じゃ無いからって。『存在しない』事にはならないからねぇ」

「土地の……神様?」

「そう。畑の神様とも言えるかもね。その神様が何度も何度も夢に出て来て……大きな蛇が宿に泊まっている。だから早く追い出してって、私に訴えて来たんだよ」


 完全にバレている……わたしの正体は、神様に見つけられてしまったみたい。でもそれなら、わたしは変だなと思った事が二つある。


「あの……でもわたし、神様を見た事がないですよ? 追い出そうと攻めて来たりも、一度だって無くて……」

「あー……多分ね。あなたの事、相当恐れているみたい。この前なんて夢にお地蔵さんが出て来て、泣きついてきた事だって……」

「えぇ? で、でも……わたし、生まれて一年とか……ですよ?」


 わたしはわたしになってから、そんなに年を重ねていない。神様がいるなら、簡単に倒されてしまうのかも。そう思っていた。

 叔母さんは悲しそうに、寂しそうに、そして残念そうにため息をついて、わたしと目を合わせて、話を続けてくれた。


「あなた……新しい神様なのかい?」

「いえ……その……多分、悪いモノ、です。その……叶は『多分蟲毒だ』って、言っていました」

「私にゃ分からないけど……それって何か、儀式なのかい?」

「呪いで生まれた……そうです。呪いそのもの……かも」


 すらすらと言葉が出てくることに、わたし自身も驚いていた。あまり話してはいけないのだろうけど……でも、叶以外の誰かとも、真剣に相談したい気持ちもある。心って、難しいな。よく分かんないのに、確かにわたしの中に在るみたい。なんとか声に出来た言葉に、叔母さんはうんうんと頷いた。


「そうか……今は、神様より呪いが強い時代だからね……悲しいけど、そういうモノなのかもね」

「……?」


 わたしには良く分からない。叔母さんが考えながら、ブツブツと呟いている。静かに首を傾げるわたしに、津留見つるみ叔母さんは土地を見て言う。


「昔はね……森も大地にも、凄く活気があったんだ。人と自然と、神様と妖怪。ごちゃごちゃと混じりあいながら、お互いにぶつかり合いながら暮らしていた」

「そう……なんですか? でも、今でも……わたし、見えると言うか、感じます、よ?」

「今でも『いる』のは確かだけどね……綺麗なモノは昔よりずっと減った。恨みの神様とか、怖い神様は力を持っているけど……綺麗な神様の力は、かなり落ちてしまったんだ。みんな気楽に信じている分、気楽に信仰を捨ててしまえるのかねぇ……」


 そう言って畑を見つめる叔母さんは、目に見えない世界を信じているみたいだ。しみじみと見つめて、わたしの知らない昔を語る。


「森も山も、人のために存在はしていない。時にすごく機嫌を悪くして、癇癪を起こして酷い事もする。けど……人もまた、森や山に酷い事をするからね。どうしても、傷つけあってしまう時もある。まるで人と自然が、戦争を起こしてしまうように」

「戦争……殺しあい、ですか?」

「そう。お互いに憎み合い争う合う事は、どうしてもあるんだよ。分かりあえない事もある。

 でもね。それだけじゃない。言葉が通じなくても、生き物としての形が違っても……目に見えなかったとしても……その誰かと、何かと、話し合う事は出来ていたんだよ」


 人と山の境界線、自然と人との境界線。どこに引けばいいのか分からない、曖昧なライン。お互いにどこまで踏み込んで良いのか。形質の違う相手と、叔母さんは意思を交わしていると言う。


「イタズラ狸や狐に化かされた事もあるし、おっかない鬼? なのかね……妙なモノノケを見た事もある。時に退治したり、時に対話したり……どこまでを譲って、どこからを許さないのか。言葉は通じなくても、相手の反応を見ながら、じっと覗いて静かに耳をすませば、意外とお互い納得できたりする。丸く収まったりする。人によっては……やれ友達になったとか、嫁だ婿だなんてめでたい話もある。だから……案外なんとかなるもんさ。私はそう思うよ」

「わたしも?」

「そうさねぇ……何とかなるといいねぇ。畑を見守っているお地蔵様は、かなり嫌がって怯えているけど……でも奈紺ちゃんは、悪さをする気は無いんだろう? それに、今日だって手伝ってくれた。仮に本当に危ないモノ、おっかないモノだとしても……こうして話し合えるじゃないか。なら、話も聞かずにほっぽり出すのもねぇ……」


 不思議な人だ。わたしは自分を棚に上げてそう思った。

 わたしは……何となくだけど、わたしが怖ろしい何かな事を知っている。嫌われるだろうし、怖がられるだろうし、毒とか呪いだって、多分凄いのを使えちゃうんだと思う。畑の神様の事は知らないけど、わたしは存在や気配を、あまり感じない。――叔母さんの言う通り、わたしの方が強いのかな。だからわたしと、戦おうとしないのかな。


「わたしは……わたしは、ここにいていいのかな……」

「ん? 神様は嫌っているけど……奈紺ちゃんが悪さしなければ、いつか納得してくれると思うよ」

「そうじゃなくて……わたし、たまに怖くなる。今日も実は……朝、叶に迷惑かけた。わたしの本体を……本物のわたしを見て、みんな怖がります」

「ふぅん……そうなのかい?」

「一人になってからも、ずっとずっとそうでした。色んな所を彷徨さまよって、たまに襲ってくるモノを食べて。生きてきました。叶と出会ったのも……うろうろしていた時に、叶に取り付いていた『モノ』がおいしそうだったから、です」


 これは、叶に話した事が無い。叔母さんも目を丸くした。

 叶は……叶は、優しい人だと思う。

 でも、だからこそ、幽霊に取りつかれやすいみたい。そうした「モノ」を引き付けてしまうみたい。わたしだってきっと、叶の優しさに甘えている。


「わたし……身体の中がごわごわして、凄く苦しくて、痛くて、怖い何かが、わたしの中で暴れて……すごく、お腹が空きます」

「……」

「でも……叶と一緒にいる時だけ、飢えが少しだけ収まる」

「それは、なんで?」

「……わかんない。でも、壊れるのは、怖い、です」


 わたしは、怖い。

 わたしは、今のわたしの事なら……少しだけ好きになれる。わたしの過去、わたしの生まれた理由、わたしが何なのかは、わたし自身わからない。

 怖ろしいモノ、と呼ばれて……誰かに傷つけられるのも怖い。わたしは……きっとすごく脆くて、危ないんだと思う。

 けど……そんなわたしを、支えてくれる。そんなわたしを許してくれる。そんな叶と出会えたのは……すごく、運が良かった。


「わたしは、わたしの事も、良く分からないです。苦しいのと、怖いのと……わたしが『悪い何か』なのは、わかります。でも……わたし……」


 言葉が上手く出てこなくて、わたしが口をまごまごさせていると……叔母さんはわたしの頭を撫でてくれた。

 叶のソレとは違うけど、わたしの何かが、温まる感じがする。


「奈紺ちゃん……たとえあなたが『悪いモノ』だとしても、ここで悪さをしないなら、ここにていいからね」

「……ありがとう、ございます」


 叶とは違うけど……この人も優しい人だと思う。

 胸の中に広がる熱。わたしが目を閉じると、自然と涙がこぼれた。



 わたしは飼われていた。あの男の用意したケースの中で。

 一度目を潜り抜け、二回目の闇の中でも生き延びた、わたし。たくさんの毒を食べて、毒をため込み、身体も一回り大きくなった。

 わたしの身体は、間違いなく成長していて……そして毒々しいまだら模様が増えていた。橙色の蛇の眼だけがそのまま。わたし、どうなっているんだろう……と、ぼんやり考える。

 身体の中では、今まで食べて来た毒虫が蠢いている。男を見る度にざわついて、毒を、呪いを、注ぎ込もうとする。

 酷い事を考えている。だってそうでしょう? 二回も暗闇から、地獄みたいな壺の中から助けてくれたんだよ? その人を呪ったり、噛みついたりなんて、絶対にダメ。なのにわたしの中の誰かが……食べて来たみんなが、そうすべきだって叫んでいるんだ。


「――お前はちぃと大人し過ぎるが……まぁ、扱う分には丁度いいのかねぇ」


 言葉の意味は、わからない。けど、男はわたしの身体を拭いている。たまに頭も撫でてくれる。ほっこりするわたしの心と、わたしの身体で暴れる毒と呪いで、わたしは板挟みだった。

 この人は助けてくれて、そしてわたしを可愛がってくれる。綺麗で安心できる住処に、おいしい食べ物、寝床、敵のいない世界。これ以上は無いと思うし、ましてやこの人を襲うなんて……この時は、考えられなかった。

 ――襲う理由が出来たのは、身体の中の誰か……わたしが食べて来た誰かの言う通りだと気が付いた時は、わたしはまた暗闇の中にいた。


 どうして……どうしてわたしの平和は、こんな簡単に途切れてしまうのだろう。眠っている間に、また真っ暗闇の中に投げ込まれてしまった。目を開ける。絶望が心に湧く。そして毒が……わたしの中で渦巻く毒と呪いが、凄まじい憎悪で身体中を焼いた。

 熱い。

 熱い熱い熱い……!

 苦しくて、悲しくて、すごく……何かが憎かった。何がどう、と、すぐにはわからない。今まで通りなら、絶対に他の毒虫が来る。この怒りと憎しみをぶつけてやる……と意気込んでいたら、急に世界が明るくなった。

 今回は……丸々一つ、大きな部屋の中に、わたしを含む毒虫が集められている。この前よりもずっとずっと強そうだ。目を合わせた瞬間――それが「鏡」な事に、ようやくわたしは、わたし達は気が付いた。


――あの男が、わたしたちにこんな運命を作っているんだ……

 わたしたちを壺に閉じ込めて、殺し合わせている。殺し合って、弱り切って、そこに救世主のように現れるじゅつしゃは、わたし助けたんじゃない。あの男は、とんでもなく酷い事を繰り返していたと、やっと身体の中で暴れる、毒と呪いの理由がわかった。

 一回目は普通の毒虫同士で殺し合い

 二回目は「一回目」を超えた毒虫同士で殺し合いをさせた

 そしてこの場は――「二回目」を乗り越えたモノ同士で、一人になるまで殺しあえと、あの男は強要している……

 わたしが感じた事……二回目の時、周りが強すぎたのは「同じように生き延びていたから」だったんだ。そして食べた毒虫が、身体の中で蠢いて……何か叫んでいたのは、あの男への怒りと不審、恨みだったんだ。


 あの優しさは、嘘だったんだ。地獄のような場所から、助け出した事も……その後優しく扱って、飼育していたのも……全部全部、嘘だったんだ。それが分かった瞬間、わたしは身体の中に在る毒と呪いが、心の中にまで馴染んでいくのを感じる。

 ――周りの毒虫たち……わたしと同じ立場の子たちも、同じように憎しみと呪いに順応していこうとした。何匹かは耐えられなくて、その場で血を吐いて死んじゃった。

 三回目のわたしたちは……殺しあわなかった。

 今までの経験が、あの男の嘘の優しさが、あの男こそがすべての元凶と気が付いたわたしたちは、殺し合って生きても、あの男を喜ばせるだけと考えた。気持ちはみんな一緒だった。ここから出て――あの男を必ず殺してやる。今まで抱いていた感謝も気持ちも、今はすべて呪いと憎悪に変わっている。脱出してやる、と息巻いたわたしたちは、この部屋から脱出しようと協力した。

 でも……この部屋はすごいモノだった。

 毒はもちろん、呪いも利かない。わたしや……大きなトカゲさんが、交代で同じ場所に、何度も体当たりしてもびくともしない。みんな力が強いのか、ちょっとやそっとで死んだりしないけど……一番つらいのは、空腹だった。


 最初の数回だけ、部屋の上から何かの血が降って来た。人間の血みたいで、飲める人はそれを飲む。それでも耐えられない時は……呪いを吐いて死んでいった、仲間の死体を喰って生き延びた。

 その度に、毒が回る。

 その度に、呪いが回る。

 ますますわたしたちは、より禍々しく、怖ろしいナニカと化していくのを感じる。それでも、二回目の時より苦しくない。きっと……あの男への怨みは、みんな同じだったから……だろう。それでも耐えられなくなった呪いは、血を吐いて死んで……それがまた、生き残った毒虫たちの糧になった。


 一人、また一人と毒と飢えて倒れていく。派手に争っていない分、減り方は遅いけど……抜け出す方法は、見つからない。数日かけて死んでいくと……大きなトカゲと二人きりになった。

 トカゲは、もうかなり苦しそうだった。わたしも苦しいけど、まだ耐えられる。お互いの傷を舐め合って、何とか生きようとするけど……トカゲは、諦めて目を閉じた。

 ――最後の一匹になれば、多分この部屋から出られる。だから……トカゲは、死ぬ事を選んだ。

 口から毒液を吐いて、自分の身体に振りかける。苦しそうに悶えた後、蛇のわたしに目線で伝えてくれる。

 生き残れ、そして男を……

 わたしは、また一人になった。毒液まみれのトカゲを喰って、扉が開くまで生きて見せる。身体に回る毒と呪いは、もう苦しくない。みんな……思いは一つだったから。


「よしよし! やっと完成だ! これで『蟲毒の三倍体』がオレサマの物――」


 自分よりずっと弱くて、毒も持たないあの男が、無防備に近寄って来る。

 ――わたしは、すべての力を注いで、その男に牙と毒と、呪いを突き立てた。



『なぁ、今日は叶と赤瀬さん、予定空いている?』


 ひびき かなえ赤瀬あかせ 奈紺なこんの二人は、しばらく平穏に暮らしていた。畑の手伝いをしたり、いつも通り大学に通ったり、時々奈紺と散歩したり、買い物へ行ったり……大きなトラブルも無い、平穏な日々を過ごしていた。

 そんなある日、SNSから叶にメッセージが届いた。送信相手は中沢なかざわ 健太郎けんたろう……この前奈紺と叶を合コンに誘い、運悪く怪異をネットで引っかけてしまい、危うく無理心中に引きずり込まれる所だった叶の友人である。

 要件は何事かと尋ねると、叶が忘れかけていたある約束を持ちかけた。


『ホラ、この前別れ際に『焼き肉でも食いに行こうぜ』って言ったじゃん? そろそろどうかね? って話』


 いかにもチャラ男、軽い調子に見えて……中沢は約束事に律儀だ。軽い口約束であろうと、破ったり忘れるのは信条に反するらしい。大学から奈紺のスマホに連絡すると、彼女も退屈していたようで、返事は早かった。

 是非是非行きたい――拙いくも遅い返事で、精一杯に伝えてくる奈紺。微笑ましく思いつつ、中沢にもその旨を伝えた。今日は水曜日。この前のように遅くまでは飲めない。比較的早めに大学から出た中沢と叶は、借り住まいに足を運び、奈紺を迎えに行った。


「へい! 赤瀬さん! 迎えに来たゼェ!!」

「……? こんにちは。中沢さん? この前はありがとう」


 軽いノリの挨拶が通じず、固まってから中沢はしょんぼり。奈紺も奈紺で首を傾げて、中沢の様子を何か勘違いした。


「あの……あの後、大丈夫?」

「え、あ、あー……平気平気! 変なのに取り付かれたりとか、そういう話?」

「そうそう。気配は無いけど……」

「問題ナッシング! ただ、連絡相手は気を付ける様にしたよ……二重三重にチェックして、今度は二度と幽霊なんざ誘わねぇ」


 匿名のネットワーク故に、相手の正体が幽霊や怪異だとしても……文面が正常なら気づけない。モノによっては対面しても気が付かないだろう。現に合コン中、奈紺以外は幽霊が紛れ込んでいる事実に気づかなかった。

 ふと、そこで叶は突っ込みを入れてみる。


「でもさ中沢、どうやって見分けるのさ? 文面で判別できんの?」

「はっはっは! オレサマの交渉力、対話力をナメるな? そうだな……お前には特別に教えてやろう!」

「結構です」

「そう言わずに聞いてけ~?」


 示した地点は電車で三駅先。歩く距離もそれなり。全く話さないのも退屈だ。奈紺も興味があるのかないのか、続きを待っているような感じ。彼なりに見出した方法を、聞いてみる事にしよう。


「二人はさ……なんか後ろめたい事とかある?」

「急に何を聞き出すんだお前は!?」

「後ろめたい……うーん……?」

「まぁまぁ! 聞けって。要はさ、自分の中で引っかかっている事、隠している事があるとするじゃん? で何かの会話の拍子に、偶然だよ? 偶然近い話題が飛んで来たら……どうよ?」


 例えば、叶にとっての『奈紺の正体』が、それに当たるのだろうか? 奈紺本人は……難しくてよく分かんない、と表情からはっきりする。苦笑した中沢に向けて、叶が答えを言った。


「そりゃあ……ドキリとすると言うか、答えづらいと言うか……」

「だよな? それが普通だ。誰だってこう、隠したい事に近寄られると言葉に詰まる。で、これ多分幽霊にも有効っぽいのよ」

「一般的に幽霊話なんてしても、軽く流されて終わりだろ? 幽霊本人だって隠しに来るし……」

「そこでだな、この前の経験を話して反応を見てるのよ。オレ」


 すなわち、幽霊を合コンに誘ってしまった話。悪霊に引っ張られて、無理心中させられそうになった話を合コン候補の相手にしている……と言う。奈紺がおずおずと、中沢に聞いた。


「それ、わたしの事は……」


 あまり赤瀬あかせ 奈紺なこんと、その正体について広めて欲しくない。叶も同じ思いで軽く睨みつける。慌てて中沢は釈明に走った。


「大丈夫大丈夫! そこまでは話していないから。つーかフェイク入れてるから」

「フェイク?」

「そそ。こんな感じの話にしてる。

『合コンで悪霊引っかけて、アフターも行こうとしたら無理心中させられそうになった。引きずり込まれる前に、走って逃げた』って感じに。ホラ、これなら赤瀬さんは一切出てこないだろ?」

「ん……そっか。そうだね」


 実際と異なるが……こちらの方が誰にとっても都合が良い。二人から安心を引き出して、話を元の路線に戻す。


「んで、この話はちょっとした笑い話になるんだけどさ。でも……『自分が幽霊だ』って分かっている奴だと、ギクリとするだろ?」

「それは……そうかも?」

「あー……あれか。幽霊目線だと『この話振って来たって事は、もしかしてバレてるかも』と感じるって訳ね」

「そそ。だからその手の奴らなら、慌てて逃げ出す……って寸法よ!」

「効果あるのか? それ」

「一人慌てて辞退した奴、いたんだよなぁ。意外と紛れているのかもしれない」

「えぇ……」


 一か月と経っていないが、中沢曰く「反応アリ」な人物がいたようだ。近代においても、怪異は日常に紛れ込んでいるのかもしれない。

 かくいう奈紺も怪異そのもの。ぼんやりとした人にしか見えない。自分たちが気にしてないだけで、日本の中にはこの世ならざる者がいる……


「でもまぁ、そう連続して触れる事なんてねぇだろ!」

「それフラグじゃね?」

「大丈夫大丈夫! な! 赤瀬さん?」

「そうかな……そうかも?」

「あんまり適当言わないの、奈紺」


 これから楽しい焼肉パーティに、ふさわしくない会話が続く。

 しかし彼らは思い知る。放った言葉が、現実を引き寄せてしまう現象を。



 三駅先に辿りついた、奈紺と叶と中沢。『一緒に焼き肉店でパーッとやろう』と、中沢の誘いでやって来たが、彼は「どこの店にするか」をまだ決めていないようだ。


「予約しなくて大丈夫か?」

「オイオイ、そのためにこの日と時間を選んだんだぜ? 水曜の五時チョイ過ぎに、焼き肉屋が混むと思うか?」

「無いな」


 忘年会や新年会、何か区切りのシーズンでもない。一般的には職務の中間……しかも早い時間から、焼肉店を選ぶ人は少数だろう。

 だから予約をしなくても大丈夫……と言うのは、分かる。しかし現代のネットワーク社会は、有名店であればサイトを保持しており、スマホをちょちょいと操作すれば予約が可能だ。それをしない意味はどこに? と感じた叶は疑問をぶつけた。


「でも、別に予約を入れてもいいんじゃ?」

「それだと選ぶ楽しみが無いだろ? 今日の主役は……赤瀬さんだからな!」

「え、わたし?」


 突然話を振られて、赤瀬奈紺あかせなこんが自分を指す。中沢は「当然だろ」と言って、彼女へ周辺を見るよう促した。


「オレがこの前、赤瀬さんに助けてもらったじゃん? 今回はその借りを返すっつーか、お礼も兼ねてだし? だから別に焼き肉店で無くてもオッケーだぜ! あ、でも高すぎる寿司屋とかはナシでオナシャス!!」

「えぇと……つまり?」

「好きな店、気に入った店でドウゾっ!!」

「いいの!?」


 やっと中沢の意思を理解した彼女は、橙色の瞳を輝かせた。今回の衣服も合コンの時に近い感じで、ここだけ見れば彼氏彼女の関係に見えなくもない。

 奈紺は誘われた食事の機会に、この前と違う繁華街に目を奪われる。夕焼け色の空と、ビル街のコンクリートが混じりあう。電灯のついている店と、そうでない店。黄昏時の混沌の中で、彼女はとても嬉しそうにはしゃいでいた。

 ――中沢は最初こそ気前よく笑っていたが、折を見て叶の肘をつつく。


「なぁ叶……お前、ちゃんと赤瀬さんにメシ食わせてる?」

「失礼な。普通に一緒に食べてるよ!」

「本当か? 外食とかあんまりさせて無いだろ?」

「それは仕方ないじゃん! 我貧乏学生ぞ? 叔母の寮暮らしぞ?」

「せやな。悪い、ちと無神経だったわ……」


 中沢は合コンの幹事以外にも、かなり遊び慣れている部分がある。人によってはこの言葉もしゃくに障るだろう。叶とは大学時代からの付き合いだが、彼らは軽口を交わすのも慣れていた。

 軽くしょぼくれる中沢だが、奈紺や叶を案じて言ったこと。悪気が無いのは知っている。気まずくなる空気を払拭すべく、叶も彼女について思う事を話した。


「でもそうだな……あの手狭な寮で二人暮らしだけど、文句言わずに一緒にいてくれるの、本当にありがたいよ」

「一人でちょうどいい広さだもんな……てか大丈夫な訳? 奈紺は女だし、色々と……」

「それが……奈紺はそもそも、人の心が育ち切ってない感じ? 意識を持ってから一年経ってないって」

「今まさにはしゃいでいるけど、子供っぽいもんな」


 田舎娘のおのぼりさん……の気配より、何も知らない無邪気な子供のよう。様々な飲食店の中から、お気に入りの店を探している。事前情報なしの場合、直感で選ぶことになるだろう。


「どーこーにーしーよーうーかーなー?」


 とても楽しそうに、奈紺は食事処を巡る。後ろから男二人が付いていく。保護者の面持ちで彼女を見つめ、様子見しつつ話し合う。


「じゃあ、基本メシはどうしてんのさ? コンビニ飯?」

「あれも積み重なると高くつく。叔母さんの畑仕事を手伝ったりして、野菜を譲ってもらったのを料理しているよ」

「農業従事者の特権だよなー」

「特権……なのかな。出荷に向かない作物も結構あるからさ、貰っても叔母さん、全然嫌な顔をしない。つーかむしろ『捨てるの勿体ないから使ってくれ』みたいな?」

「マ? じゃあ例えば、オレも貰っちゃっていいワケ?」

たかられるのは嫌だけど、余りものを渡す分には」

「まーじか……で、その食材をお前が料理してるって事か」

「奈紺も興味あるみたいで、よく一緒に作っているよ」

「それはそれで羨ましいなオイ」


 肘でつつかれ、くすぐったい思いだ。未だ彼女のいない中沢の嫉妬を受け流しつつ、奈紺が狭い道に入っていくのを見逃さない。一見危なそうだが、下手に手を出して怪我をするのは相手側だろう。

 影や路地を気にしないさまは、彼女の心が子供だからか? それとも彼女の正体が巨大な怪異で、人の些細な悪意なぞどこ吹く風なのだろうか? 目的意識があるのかないのか、気ままに散歩するように動く奈紺。やがて一つの店を目に入れると、後ろの二人を見つめて、店を指さした。


「ここ! わたしここがいい!」

「ほーん……なかなかマニアックなチョイスじゃないの」


 中沢の意見に、叶も頷いた。表通りから離れた陰気臭い店……どうやら個人経営の飲食店らしい。近づいて表札を見ると、なんと最初に予定していた焼き肉店ではないか。中沢も札に目をやると、大いに驚いた。


「値段も安っす!? え、赤瀬さんここでいいの?」

「うん! ここがいい!!」

「そ、そっか……叶、お前は?」

「奈紺がいいなら、そこでいいよ」

「やったー!」


 無邪気に喜ぶ奈紺を、大学生二人が見つめる。

 彼女が喜んでいる理由を、二人はまだ知らない。



「いらっしゃい……何人?」

「三人です」

「あぁ、そう。好きな席に座りな」


 個人営業の焼き肉店は、非常に湿っぽい空気をしていた。出迎えた亭主らしき男も、非常に陰気臭い。不健康なクマを目元にやり、如何にもやる気が無さそうに見える。言われるがまま端っこの席に座るものの、男二人は落ち着かなかった。


「なんか、こう……どうなの? この店」

「う、うーん……」


 外で見た時……裏通りの空気もあって、極めて辛気臭いと感じた。店の中なら平気だろうと、甘い予想は見事に外れた。

 電球はある。煙を吸う排煙機も完備。油跳ねのある木の壁紙は、特に不自然な様子も無い。なのに空気が妙に重いのだ。

 原因はよくわからない。目に見える異常は見当たらない。けれど息が苦しくなり、気分が悪くなってくる。男二人が顔を見合わせる中、従業員の一人が、おしぼりと水を置いて去っていった。


「なんか変じゃないか? この店」

「わかる。なんでかは、わからないけど」

「う、うぅむ……でも、赤瀬さんはどうなん?」

「え? すごく雰囲気良くない?」

「「……」」


 この店を選んだのは奈紺の希望である。入って後悔するどころか、ますます機嫌を良くしているように見えた。

 ならば、男二人がシケている場合では無かろう。試しにメニューを開いて確認するが、別段目立っておかしな物はない。値段にお得感がある事を除いて、至って普通の内容だ。適当にセットメニューを注文し、ついでに飲み物も人数分。今回は飲みの会じゃないので、好みの炭酸飲料で済ませた。


「ねぇ叶。このドロドロの、なぁに?」

「焼き肉のタレの事? 焼いた肉に、ソレをつけて食べるんだよ。ここにあるのは……普通の焼き肉タレと、ゴマダレかな?」

「ん!? いやちょっと待て、横の調味料多くね?」


 いくつかの調味料の入った瓶が、五つ以上並んでいる。すべてのラベルを調べてみるが、どれも好きに試していいらしい。中沢は表情を一転させ、奈紺に改めて感謝した。


「赤瀬さん……アンタ良い店見つけてくれたよ!」

「え? そう?」

「いやぁ安さだけで入ったけど、こりゃアレだ。個人経営特有のこだわりポイントじゃねぇかな」


 奈紺は少し嬉しそうに、叶は困惑を交えながら説明を求める。我が意を得たりと中沢は解説を始めた。


「こういう尖った調味料って、大手のトコだとあまり置いて無いんだよ。基本的に外さねぇようなヤツしか用意しない。でもホラ、見てみ? これとか」

「なになに……柚子山椒? 肉に合うの? これ?」

「色々試して楽しんで下さいってスタンスなんだろう。こういう店はアタリな事多いんだ」

「中沢さん詳しいの?」

「焼き肉店は合コンでも使えるからな! アタリの個人店だと参加者のウケもいいんだ。今度はここも候補にするかね?」


 明るい中沢につられて、二人も笑みをこぼす。最初のどんよりとした空気は吹き飛び、ほどなくして飲み物と生肉が運ばれてきた。

 テーブルに埋め込まれた金網にも火が入る。熱気を帯びた鉄の網に、三人は思うがままに肉を載せていく。素晴らしい肉汁が溢れ、実に旨そうな香りと音を空き腹に届ければ……思わず無意識に生唾を飲んでしまうものだ。


「それじゃ、先に乾杯しとく? 焼き加減の好みもあるし」

「そうだね」

「ん……♪」


 炭酸の入った大きなグラスを手に、軽く合わせてぐいっと一杯。楽しい時間の始まりはこれに限る。自分の箸で肉をつまみひっくり返せば、油と肉汁が噴き出す焼き面が姿を見せた。


「おいしそー♪」

「奈紺、まだだよ!? ちゃんと両面焼いてからね!?」

「はーい!」

「いやいや、流石に片面ナマでいかんだろ」

「……えぇと、その」


 ちょっと言いずらそうな奈紺の代わりに、叶が彼女について喋った。


「その……中沢。奈紺の本体は見たよな?」


 奈紺の本体……膨大な呪いをため込んだ、一匹の巨大な蛇こそが、赤瀬奈紺あかせなこんの本体である。今の人型は、あくまで自分たちに合わせているだけの擬態に過ぎない。故に……彼女からすると『肉を焼く』行為は、昔は縁の無かった事だったりする。


「奈紺は、その……『生のまま丸呑みする』のが、普通だったわけで」

「お、おぅ……ワイルド……それで腹を壊さんの?」

「スーパーで買った安い肉でも平気だった。しかも豚肉」

「まーじか……胃袋が鋼じゃん」

「そーなのかな……えへへ」

「「いや褒めてねぇから」」

「えー!」


 身内だけで室内でやるパーティならともかく、外部の焼き肉店で生食はマズい。奇異の眼で見られるのは避けれず、場合によっては出禁を食らうかもしれない。今後も利用するかも、と発言した中沢にとって困る事だ。


「よ、よし! しっかり肉は焼いて食おうなー?」

「はーい。でもいい匂い~♪」

「おう! たーんと食いな!!」

「はは、楽しそうで良かった。本当に」

「うんうん!」


 じっくりと育てた肉を、奈紺は口に運ぶ。焼きたてアツアツの肉から脂身が弾け、口いっぱいに旨味が広がる。コロコロと橙色の瞳を転がし、頬を膨らませてニンマリと笑った。

 これだけでも、ここに来た甲斐はあった。幸福を存分に噛みしめる彼女に続いて、叶と中沢も、自分の肉に箸をつけ始めた。


 男二人、女一人の焼き肉パーティーは、とても楽しい時間が続く。気に入った肉を次々と金網に乗せて、好みのタレと共に口の中へ。

 割安の焼き肉店は、思った以上にサービスが充実している。思うが儘に飲み食いを進めていれば、自然と笑顔と笑い声が溢れた。


「いやぁ! 本当に赤瀬さんにはマジ感謝だぜ! 本当にいい店を見つけてくれた!」

「ん~♪ そうかな。そうだね。楽しい」

「なんでこんないい店が、端っこにあるんだろうな? もっといい立地なら、人もたくさん来るんじゃないか?」

「そりゃあれだ。土地の代金とか税金とか、諸々の年間コストが違うじゃん? こういう立地だからこそ、安く提供できるんじゃねぇの?」

「ありそうな話だ」


 男二人が雑に話し合いながら、軽く心地よい時間が過ぎる。ささやかな幸せであるが、この時間はプライスレス。存分に楽しんでいく中、奈紺はある種類の肉を重点的に焼いていた。


「ねぇねぇ、二人とも! これもっと焼いていい!?」

「いいけど……ソレ?」

「うん! ……ダメ?」


 あざとい上目遣いに、男二人はくらりと来る。しかし指さしたメニュー欄に、思わず二人は目を合わせた。

 値段的な意味ではない。いや、確かに値段も無関係ではないのだが……奈紺の指さした肉は意外な部位だった。


「それって確か……ミノだっけ? 内臓のどこかだった気がする。マジでその部位でいいのか? 遠慮してない? カルビとか頼んでいいよ?」

「えっ!? もっと頼んでいいの!? じゃあこれとこれもー!」

「いやだから、なんでそこでハツとハラミを選ぶ!?」


 赤瀬奈紺の肉のチョイスは……悉くホルモン系の肉に偏っている。遠慮でも何でもなく心から欲しているらしい。困惑しっぱなしの中沢を、同居人の叶がフォローした。


「今日の主役は奈紺だし……食べたいなら追加で頼もうか」

「やったー!」

「うぅむ……なんでや?」


 あまりにも意外なチョイス。好みは人それぞれとはいえ、この偏りに驚く二人。やがて小さく声を上げたのは、同居人の叶だった。


「あー……そっか。奈紺って……」

「なんか気が付いたワケ?」

「えぇとだな……奈紺の正体は見たよな?」

「あぁ」

「あの子……元々が、その、大きな蛇だからさ。内臓ごと獲物を食べるのが、当たり前なんじゃないかな、って」


 一般的に内臓系の肉――『ホルモン』と呼称される部位は、主食となる事が少ない。珍味や主役の肉とは別に、ちょっと箸休めでつまむ事が多いだろう。それが『人間の』感覚である。

 が、元々が呪いであり、本体が『巨大な蛇』である奈紺にとって、内臓もまたよく食す肉のようだ。反省気味に叶がぼやく。


「肉も何度か買って来たけど……ホルモン系は一回も無かったかも」

「普通に買わねぇよ……たまに買うとしてもレバーぐらいじゃね?」

「だよな……ゴメン奈紺。全然気が付かなかった」


 反省の言葉を聞いてか聞かずか、奈紺は首を傾げつつ焼いた肉を平らげる。満面の幸福を浮かべる彼女につられて、男たちも肉を焼いた。


「奈紺はこのお肉、気に入った?」

「うん。好き」

「じゃあさ……今度はこの系列の肉で、何か作る?」

「いいの!?」


 新しい約束もあり、奈紺は終始楽しそうだ。男たちも各々に肉を頼み、ジャンジャン金網に乗せていく。楽しい時間の中で――不意に、奈紺が空中に目線を泳がせた。


「んー♪ これもおいしそう……」

「どこ見て言ってるんだよ赤瀬さーん」


 空中を見てヨダレを垂らす奈紺。合コンの時の軽いノリで、中沢が奈紺に声を掛ける。叶も不思議に思った刹那、彼女が握る箸が、空中にいる何かを挟み込んだ……ような気がした。


「「えっ……」」

「つーかまーえたーっ♪」


 いったい何を捕まえたと言うのか。目にもとまらぬ箸さばきで、まるで空飛ぶハエでも捉えたかのよう。達人めいた一閃を見た二人だが……彼らの眼に映るのは『何も挟んでいないが、半端に開いたままの箸』だ。

 彼女は何をしている? 何をしようとしている? 突然の展開に、頭を真っ白にする二人。無邪気な奈紺はそのまま――箸を金網に押し付けた。


 ジュウウウウウウウッ!!


 生肉が焼ける音がした。何も挟んでいない筈の、奈紺の箸から。

 濛々と煙が上がる。香ばしい匂いがする。焼き肉店として、何ら不自然ではない光景と音なのに――男たちには、異常な光景にしか映らない。いったい今、奈紺は何を焼いている……!?


「赤瀬、さん?」

「なぁに? あ、これはダメだよ。わたしが捕まえたんだから」

「その、何を?」

「何って……そこら中に漂っている奴だけど……」


 楽しい空気が一瞬で吹き飛ばされた。最初にこの店に入った時のあの重苦しい空気、どこかじめじめした空気を思い出す。そう言えば彼女はこの店を積極的に選んだ。ただの直感で選んだ。そう思っていた。


「いただきまーす♪」


 捕まえた透明な何かを、タレにくぐらせる。空中にタレは浮かないが、接触させた瞬間、確かに液面が波打つのを見た。

 ――何かが、焼き肉のタレに触れている――

 周りの様子を全く気にせず、奈紺は見えない何かを口に運ぶ。

 幸せいっぱいの笑顔を浮かべて、透明な何かを食す時間を、ずっと奈紺は楽しんでいた。



 その後も肉を焼いて、適当に誤魔化しながら喋って、出来るだけ楽しく中沢は過ごそうとした。

 奈紺は気がつかないまま、たまに気の向くまま空中に箸を走らせ、何かを捕獲しては金網に押し付ける。何を食べているかは考えないようにして、あくまで楽しい焼肉の会を完遂する努力を続けた。

 叶も奈紺が何を見ているか、何をしているかは理解していない。けれど中沢と比べて、呪いの彼女への理解が深い。だから少し音量を下げて、さりげなく尋ねていた。


「奈紺……『それ』の味はどう?」

「おいしいよ? ちょっとコッテリ? だから塩とかさっぱり系? が合うよ」

「ソ、ソッカー……」

「俺達はちょっと……その、上手く捕まえられないから、やめておく」

「ん。わかった。焼き肉もコレもおいしいし、本当にいい店~♪」


 あぁ、今更ながら、二人は奈紺がこの店を選んだ理由を察した。

 どうやら……この個人経営の焼き肉店は『見えない何か』がたむろしているらしい。おつまみ感覚で捕食する彼女を尻目に、中沢が深々とため息を吐いた。


「こりゃ、合コン会場には向かないな……前みたいなのはノーサンキューだ」

「この店に寄って来るっぽい。ここで合コンなんかしたら、向こうから絡んで来るんじゃないか?」

「勘弁してくれ! あぁくそ、良い店見つけたと思ったんだけどなぁ……」


 入店前の陰気臭い空気は、風通しの悪い通りだから……だけではないのだろう。悪い何かが漂う店は、この世ならざる何かを引き付ける。奈紺がこの店を選んだのは、その湿った――いわば『この世ならざるモノが好きな空気』に引き寄せられたから?


「ふーっ♪ もうお腹いっぱい」

「俺も十分食ったよ。中沢は?」

「……うん。お腹イッパイデス。そろそろお会計行こうぜ」

「『ごちになります』で、あってる?」

「おぉ? 知ってんの!?」

「テレビで聞いた。叶にも教えてもらった」

「いい教育してんじゃん、叶先生?」

「茶化すなよ……」


 奈紺がちゃんとお礼や言葉を使えて、喜ばしいやら恥ずかしいやら。性根は良い人物なので、素直に学んでくれる。彼女の正体が何であろうと、ここに共にいる事を喜べるのだ。たとえ今、どこか虚空の群れを見つめていたとしても……


「そんじゃ、一緒にお支払いに行きますか、叶」

「さーて、結構食ったけど……ハウマッチ?」


 伝票片手に戦々恐々、焼き肉店の支払いは高くつく物。中沢も覚悟の上て、今日の会を設けたのだから。

 陰気臭い空気の中を進み、レジの呼び鈴を鳴らす。一層不健康で、湿っぽい空気の店主が現れる。伝票を受け取った店主は、すぐに機械に入力しお値段を表示した。


「はいよ。これがお勘定ね」

「わぁお安っすい」

「ホントだ……」


 平均より安い値段に目を丸くする。奈紺はホルモン系を多く頼んでいたが、そもそもの値段設定がお得なようだ。中沢と叶の割勘定でも余裕で払える。


「ごちそうさまです! また来ます!」

「……ありがとうございました」


 最後まで面倒くさそうに、陰気臭さを隠さずに店主が見送る。他の客もぽつぽつ現れ始め、混雑の前に店を出ようとした。

 しかし……奈紺が亭主を見つめて、店から出ようとしない。改めて声を掛けるが、二人の声に反応しないのだ。

 また何か見ているのだろうか? 心配になった叶が近寄り、奈紺の肩を叩く。呆けていた彼女は振り向き、神妙な表情で固まっていた。


「奈紺……どうした?」

「今の人――取り憑かれている、のかな」

「「えっ」」


 やる気の無さそうな焼き肉店亭主……時刻は六時を過ぎたが、まだ店内は空席が目立つ。これで商売が成り立つのか、素人目に見ても不安な状態だ。

 原因は明確だ。亭主や店の持つジメっとした空気。立地の悪さもあるのだろうが、それ以上に店内の空気が暗い。一度肉を焼き始めれば、さほど気にならないが……この世ならざる何かが漂っている店は、人気店になれない。


「まさかこの店の空気がアレなのって、あの亭主が何かに取り付かれているから、なのかね?」

「たぶんそう、きっとそう」

「奈紺……なんとかしたいの?」


 彼女なら……赤瀬奈紺であれば、悪霊を喰って取り込めば、事実上の除霊が出来る。この店を気に入ったらしい彼女は、しばらく考え頷いた。


「ちょっと待って。あの人に聞いてみるね」

「「わかった」」


 叶は奈紺の意思を尊重して。中沢は『通いやすくなるならいいや』と、打算を含んだ考えて奈紺を待つ。

 再び店内に戻った彼女は――じっと亭主の背中を見つめていた。



 何の理由も無く戻って来たわたしを、焼肉屋さんの店長はだるそうな目で見つめた。

 生気のない虚ろな瞳。元気が無いのは――このおじさんの背中にいる、小さな子供のせい。

 大きさは……三歳とか四歳とか、それぐらい。顔は見えないけど、隠しているのか、見せたくないのか分からない。店に戻ったわたしに、店長さんは声を荒げた。


「忘れ物でもしたか?」

「……うぅん」

「こっちは暇じゃねぇの。帰った帰った」


 強く否定する焼肉屋さんのおじさん。元々面倒くさそうだったけど、今はわたしに強めの言葉をぶつけてくる。きっとおじさんの言葉じゃなくて、後ろでおぶさっている奴が言わせているんだ。


「おじさん……後ろのソレ、わたしは食べれるよ」

「………………」


 おじさんはわたしを睨んだ。瞳の色で分かる。すごい怒りと憎しみを込めた眼差し。――おじさんの背中にいる霊は、多分かなり強い方。

 でも、わたしはそれより、もっと強い。

 あまり本気は出さない。すっ、とわたしも瞳を細くして、蛇睨み。

 わたしの眼差しは、呪いが籠っているみたい。強く睨むだけで、相手を石みたいに固まらせることが出来る。わたしの前ではほとんどの呪いも、人も、等しくカエルだもの。

『お前をこれから喰ってやる』――わたしの橙色の蛇の眼に睨まれて、後ろの霊が竦み上がった。

 そこで、わたしもびっくりする事が起きた。


「てめぇ、いま何しやがった!?」

「え……?」


 おじさんは動いた。わたしの眼を受け動いていた。動けるの、叶ぐらいだと思っていたのに――このおじさんは怯まなかった。

 驚いたわたしは目の力を抜いちゃった。背中の霊は調子を取り戻して、おじさんも一息つくけど……わたしを睨む眼の強さは変わらない……わたしは、おじさんに聞いていた。


「おじさん……『分かってる』の?」

「……悪いかよ。えぇ?」


 わたしは驚いた。

 おじさんは――背中におぶさる霊の事を、分かっているみたい。知った上で一緒にいるの? どんどん気力を吸い取られているのに?

「どうして?」と問いかけたわたしに、おじさんは……すごーく不機嫌そうに、背中の子の正体を教えてくれた。


「俺の、死んだ息子だよ。おんぶしていちゃ悪いか?」

「息子……自分の、こども……?」


 おじさんは何も言わない。

 わたしも何も言えない。

 わたしは……わたしは、生まれてから、心を持ってから、そんなに時間が経ってない。子供の事はわかるけど、子供への気持ちは全然わかんない。

 でも……すごい強い気持ちな事だけは、わかる。

 わたしの眼光を振り払える強さが、おじさんの眼差しにあったから。


「おめぇは……おめぇは、いい事してる気なのかもしれねぇけどな。何も知らねぇ癖に、でしゃばってんじゃねぇよ」

「……何が、あったの?」

「俺はな……女房に逃げられた、息子も引き取られた。んで女房は新しい旦那を見つけたが、そこで俺の息子は虐待されて死んだ。コイツは……ずっと俺に助けを呼んでいたそうだ」

「…………」


 難しいことは、よくわかんない。

 けど息子さんの霊が、強い呪いと無念を持っている事は、分かる。それだけじゃない。おじさんも……後ろの子供以上に後悔を持っているのが、わたしには見えていた。


「俺は助けられなかった。もう新しい家庭があるからって、元嫁の家に踏み込めなかった。その結果……自分の血の繋がった子供を、見殺しにしちまった。これはその罰だと思っている。

――なんでこの子が、未だに俺を向こうに連れて行かねぇのか分からんが、俺はもう、とっくにまともに生きていく気なんてない。取り殺すなら好きにすればいい。コイツにはその権利がある。情けない父親を呪い殺す権利が」


 覚悟なのか、どうでもいいのか、わからない。

 でもわたしには見えていた。後ろにいる子供が、少しだけ悲しそうな表情をした事に。おじさんが思っているほど、背中の子は怨んでいない事に。


「この店やってんのだって、本当に自堕落にやっている。なのに不思議なモンでな……陰気臭い奴が自然と集まって、収支はプラスだよ。この子がきっと――『生きて苦しめ』って、言っているんだろう」


 わたしは、勘違いしていたみたい。

 このおじさんは……この店を、このままでいいと思っているんだ。背中にいる呪いを、自分の子供を一生背負っていくつもりなんだ。だから――わたしがそれを食べようとした時、物凄く怒ったんだ。

 それにわたしは、おじさんを悪く言えない。だっておじさんの背中にいる子供は、わたしだから。

『悪いモノ』なわたしは……叶に支えて貰って生きているんだから。


「……ごめんなさい」

「…………随分素直だな」

「だって……わたし、この店好きです。お肉美味しいし、お化けもちょっと摘まんで、金網で焼けるし」

「陰気臭い霊が、たまに喧嘩して妙な騒ぎも起こすから……そこらの雑霊は好きにしていい。だが俺の息子に手を出すな」

「……はい。あ、あと、その……」


 ここから先の言葉を、わたしはすぐに口に出来ない。

 わたしの気持ち、わたしの本心、大きなお節介だと思うけど……それでも、言わずにはいられなかった


「……むすこさんと、幸せに」

「…………フン」


 とてもとても、つまらなそうに。

 でも悪い空気は、もう感じなかった。



 しばらく外で待っていた、中沢と叶。何度か大きな声が聞こえて、心配になって飛び出ようとする叶を友人が引き留めた。

 分かっている。恐らくこれは、奈紺にしか解決できない案件だ。心配だからと首を突っ込んで、どうにかなる事ではあるまい。待機時間がもどかしく、夜の路地で待っていると……やっと奈紺が店から帰って来た。


「奈紺、どうだった?」

「ん……話すね」


 ぽつぽつと話すその内容に、非常識だと思いつつも……その内容に概ねの納得をした。

 彼女は曰くこの店の亭主には……「死んだ息子の霊」が、取り付いてしまっているとの事。店の空気が暗く、陰鬱な空気に包まれていた原因もこれだそうだ。


「だったらその霊、赤瀬さんが食べちまえば解決じゃね?」

「わたしも同じことを言ったの。そしたら、焼き肉屋のおじさん、ものすごく怒った」

「なんでさ?」

「俺の息子に手を出すな、だって」

「……そっか」


 悪霊になってしまった息子……そうならざるを得ない前提と環境は確かにあった。飛び出した妻と、新しく迎えだ旦那からの虐待……実の父に取り付くのも無理は無かろう。そして父親は父親で、極めて強い後悔の念に駆られている。


「幽霊になっても、取り付かれてでも、息子さんと一緒に居たい……か」

「わたしには、よく分からないけど……でも、気持ちは本当だろうから、わたしは何もしなかったよ」


 これが良い事なのか悪い事なのか。煮え切らない沈黙の時間を嫌い、三人は路地裏から遠ざかる。曲がり角に入る前、一度だけ振り返って見た店は、やはり重苦しく陰湿な空気を放ち続けていた。

 霊にも霊の事情が存在する。人に人の事情がある様に。ましてやもともと人な以上、彼らが生きた人の情を求めるのは自然だろう。それがたとえ、悪だとしても……果たしてそれを咎める権利が、自分たちにあるのだろうか?

 誰もが同じことを思っていた。同じことを考えていた。はっきりと口にしたのは、赤瀬奈紺あかせなこんだった。


「これで……良かったと思う?」

「……難しいよね」

「……あぁ」


 背中に憑いた何かが、亭主に悪い影響を与えているのは確実。ならば即座に霊を取り除く……奈紺の場合は除霊と異なるが、ともかく対処すべきだ。

 だがそれは、亭主としては余計な事。彼にとって取りつかれていても、なんてことないのだ。むしろ体調が悪くなって、息子を背負い続ける事が……見捨ててしまった息子を背負い続ける事だけが、亭主にとっての十字架なのだろう。本人が救済を望んでいない以上、強引に踏み入った所で、エゴの押し付けにしかならない。

 けれど中沢は、それでも声を荒げた。


「でもよぉ……それで死んじまったら、元も子もないんじゃ? 死んで息子さんは許してくれるかわかんねぇじゃん。こんなお得な焼き肉屋、潰れて欲しくない」

「リーズナブルだよね」

「そうなの?」

「「そうだよ!!」」


 奈紺は経済感覚が未熟だ。値段云々と言われても、ピンとこないに違いない。だからこそ、あまり気にせず肉を喰らっていたのだろう。一瞬だけ空気は緩んだが、中沢は何が正しいのか、必死に考えつつ言葉を紡ぐ。


「それに少ないけど客もいた。きっと常連だっているはずだ。あの亭主に生きていてほしい人間は……まだこの世にいると思うけどな。なぁ赤瀬さん……あのままほっといたら、亭主は死ぬかな?」

「ん……分かんない。後ろの子供がどうするか、だと思う」

「奈紺から見て……二人はどう見えた?」


 一般論から身を案じる中沢。関係や感情を読もうとする叶。二つの言葉と意志を飲み込みつつ、奈紺は彼女なりの見解を述べた。


「息子さんは『怨みがない』って感じじゃない。でも怨みだけじゃなくて、普通の未練も持ってる感じ……かな。中沢さんが言うように……幽霊って、近くを漂うだけでも生気を吸われちゃうから……身体が弱って、死んじゃうこともある……と思う」

「健康に生きるなら、祓った方がいい……って事だろうが、肝心の亭主が望んじゃいないのが複雑よな」


 普通に暮らす分には、中沢の感覚が正しいのだろう。自分にあだ成すモノ、不健康を呼び込むモノは基本的に遠ざけたい。不幸が降りかかる前に逃げてしまいたい。紛れもなく真理だ。

 しかしたとえ不健全なであろうと、歪んでしまって元に戻らないとしても……禍々しい存在となった誰かと、共に過ごす事は不幸なのだろうか? 亭主の生き方を感じ取った叶が、奈紺と自分の関係を照らし合わせて言う。


「悪霊でも親しい誰かと一緒にいたい。死んでもいい、不幸になってもいいから傍にいて欲しい。それは心として、何もおかしくないんじゃないかな。良くないモノだからって、全部切り捨ててもいいのかな。一人は誰だって寂しい」

「それで、不幸が降りかかってもいいってのか? 幽霊が寂しがり屋ってのはよく聞くけど……」

「孤独に健全に生きるのと、不幸に群れて生きるの……どっちがいいのかは、人によって違うんじゃないか? 仮に子供を振り払って生きても、あの店長はもしかしたら、生きがいを失ってしまうかもしれない。

 あの人は後者を選んだ。まっとうな生き方じゃないかもしれないけど……二人の間でもう心を決めているなら、外野が強く言っても仕方ない。本人たちが納得してるならそれでいい。俺はそう思うよ」

「ん……そうだね」


 奈紺が僅かに頬を染めた。それで中沢も察したのだ。この関係性は、叶と奈紺にも当てはまるのだと。

『蠱毒の術で作られ、人格を持った呪い』の赤瀬奈紺と

 偶然に導かれ、彼女と共に暮らす叶。

 間違いなく奈紺は、存在してはいけないモノであり――立場としては『幽霊の息子』と同じなのだ。

 今は大丈夫でも、いつか彼女は暴走するかもしれない。今も時々悪夢にうなされ、叶の身体に傷をつける。

 それでも叶は……あの日、一人で寂しく泣きそうな目を見て……共に居ると決めたのだ。



 わたしは、わたしたちは、無防備に近付いてきた術者おとこに、猛毒の牙を突き立てた。

 反応は、鈍い。動きも何もかも、鈍くて鈍くて、よわっちい。その男へ――

 嘘のやさしさを、殺し合いへの憎しみを、今まで溜め込んできた毒と孤独と絶望と憎悪を濃縮して、男の身体の中へ流し込む。やっと「がはっ……!」と血を吐いて、男は呪いの言葉を紡ぎ出した。


「なんでた……なんでオレサマに逆らいやがる!! お前を生んだのはオレサマだ! 創造主だ!! なんでこんなことをしやがる!? お前を使って、オレサマの馬鹿にしたあのクソ生意気なシスターどもを全員、呪い殺してやれたのに……っ!!!」

“言いたいことはそれだけか”


 なんて、小さな呪い。

 なんて、どうでもいい理由。

 そんなことのためだけに、わたしたちに殺し合いをさせたの? そんなことのために、わたしたちに優しくしたの?

 ――許さない。

 毒の牙が、わたしたちの中に住む、死んでいった蠱毒の犠牲者たちは咆えた。

 みんなみんな、気持ちは同じだった。

 わたしを生み出した、この男を。

 わたしを呪いにした、この男を。

 ぜったいに、ゆるさない。

 おまえなんか、食べてやらない。

 おまえなんか、楽に殺してやらない。

 おまえが育てた、猛毒に――苦しみながら、悶え死ね。

 蜘蛛の毒が、蛇の毒が、トカゲの毒が、蜂の毒が、カエルの毒が――わたしが取り込んできた、あらゆる毒をまぜこぜにして、呪いも混ざり合いながら、術者おとこの体を巡っていく。


 術者おとこは確かに、強い呪いを作る事には成功した。

 その呪いの、第一犠牲者が自分になるとは、想像もしないまま。

 無数の壺の中に閉じ込められて、何度も殺し合いをさせられた、毒虫の怨念と毒に蝕まれながら――



ーこれは……酷いありさまね。何があったの?

ー使い魔を作ろうとした……ように見受けられる。西洋の落ちこぼれ呪術師メイガスが、わざわざ極東の島国に来てまで研究を続けていたようね。

ー成果……なのでしょうか。この惨状が?

ー正確ではない。この無数の死体は、恐らく使い魔を作る過程で出た、廃棄物だろう。ここに術式が書いてある。

ーなにこれ?『蠱毒の三倍体計画』? 聞いたことないけど。

ー海外ではそうでしょう。私はちらりと耳にしたこともある呪術です。西洋圏で暮らしていては、初耳も致し方ないでしょう。

ー馬鹿にしているのか?

ーいいえ。そうですね……時に島国では特異な進化や成長を遂げる話は、ご存じで?

ーガラパゴス諸島とか? あそこも変な動物だらけよねー

ーその通りです。この国も例外ではない。呪術や心霊、神話系列の発展も、この国独自の物が多い。おそらく彼――シギックはエッセンスを取り入れて、新たな呪術を生み出そうとした。この島国の術に、自らの解釈を加えて。

ーその結果生み出したはいいが、誕生直後に使い魔の暴走か。しかも、かなり強力な毒と呪と見える。私達でも抑えられるか?

ーわかりません。ですが止めねばなりません。このような存在が無差別に周辺を呪えば、致命的な厄災になりますよ……!



 わたしは孤独な自由を手に入れた。

 術者おとこの部屋は殺風景で、よくわからない紙と文章でいっぱい。中には禍々しい毒や、呪いの言葉もあったから、おなかが空いた時にいくつかつまんで食べた。

 わたしは、わたしのこの身体が、酷く不便な事に気が付いた。

 這って動くことしかできない、この身体。今まで動くのに慣れた、この身体。

 どうしよう、と考えていると……わたしから鱗の一枚が剥がれた。

 剥がれた鱗が、大きな蜂に変わって、動いてくれる。

 蜂の動きが、分かる。わたしの体みたいに動いてくれる。自由自在に飛び回って、空からわたしの姿も見る事が出来た。


 酷い身体、だった。

 まっ黒な身体に、毒々しい濃いまだらの紫色。試しに口を開けると、大きく伸びた二つの牙のほかに、自然と毒液が滴っている。ものすごく大きい身体は、誰が見ても『怪物』としか思えない。思わずため息を吐くと、床の一部が溶けてしまった。

 この身体は、猛毒そのもの。

 この身体は、呪いそのもの。

 ここから出て、どうすればいいのだろう。もう普通の蛇として、生きていけないのは分かる。でも、生き方なんてわからない。あの術者おとこに従っていれば、飼われて生きる事も出来たかもしれない。絶対に、それだけは御免だけど。


 身体が疼いた。この身体には、食べて来た沢山の毒虫の命が集まっている。

 まだわたしは生きている。喰われて死んだみんなの心も、小さな命の集まりでも、わたしはまだ生きている。だから……『生きたい』と、強く思った。

 みんななりに、平穏に生きていた。毒は持っていたけど、わたしたちは元々、生き物だった。だから生きたい、死にたくない。それだけがわたしを、はっきりと動かす衝動。

 わたしは、ぼんやりとした頭で考える。わたしは、たくさん命を食べたからなのか、ちょっとだけ、何かを考える力を持つことができた。


 わたしは、もっと知りたい、もっといろいろと見つけたい。そう思うと、身体の一部を、何かに変えられる事に気が付いた。わたしは……今まで食べた命に、姿かたちを変える事が出来る……そう気が付いた。

 鱗を剥がして、小型の蟲に変える。その気になれば、わたしは身体のすべてを『蟲』に変えることだって出来た。

 だから――わたしは、わたしの身体を大量の蟲にした。

 術者おとこの作った設備から抜け出すには……毒を持った蟻に化けて、抜け出すのが一番簡単だったから。



 わたしが見たのは、深い樹海の空だった。術者おとこの秘密の研究所は、森の奥深くに、ひっそりと建てられていたみたい。

 真っ暗な夜空に、星がチカチカと瞬いている。

 外の空気はひんやりと澄んでいて、心地いい。

 暗い世界だけど、ここは風がさわやかで、わたしの心は落ち着いた。

 ――けど、お腹が空いた。

 術者おとこには、全く口をつけていない。ずっと毒ばかり食べていて、ちゃんとしたエサが欲しい。蟲の群れになったわたしは、すぐに腐った肉の塊を見つけた。

 その肉は、木の上から縄で括りつけられていた。

 どうしてそんなことになっているのか、全然わかんない。自慢しているのかな、と思いながら、くさりかけの生肉に、虫の姿でかじり付いた。

 群がり切れない蟲で、別のお肉を探すと……結構な数の腐った肉が見つかった。つられていたり、縛られていたり、飢えていたり、埋められたり……ここの森には、死体がたくさんあるみたい。あの術者おとこと同じ種族の、別個体の死体が、ここにはたくさん転がっていた。


 他の虫たちも、分かっているみたい。生き物の腐った肉が、大好きな蟲は沢山いる。奪い合いになりそうになったら――わたしは、その蟲も全部、食い殺した。

 誰も、わたしに、わたしたちに勝てなかった。

 下手にわたしを傷つければ、身体に毒が回って返り討ちに合う。怯んだ所で、わたしが蟲の群れで襲えば、簡単に倒せた。生きている肉もいたから……わたしを襲ったり、肉を奪おうとするなら、容赦なく襲って全部食べ尽くした。

 相手を食べて、その力を取り込んでいく。死んで腐っていても、わたしの中に力は入ってくる。あぁ……これが、わたしの心と体を、大きく育てていった。


「さむ……い」


 取り込んだ死体……「人間の死体」から得た知恵が、わたしに世界を見せる。

 ここは富士山の近くの森……らしくて、人がたくさん死ぬところ、みたい。

 死体の中から、呪いの気配が残っていたのも……きっと苦しんだり、悩んだり、呪いを心に作って死んだから……だから、わたしも、おいしく食べる事が出来た。


「さび、しい」


 たくさんの人が死んでいた。けれど最後は一人だった。こんなところで死ぬ人は、みんな孤独に死んでいく人。ソレをたくさん食べても、結局わたしは一人きり……


「あたたかい、ほしい」


 わたしは、誰かが欲しくて仕方なかった。

 孤独な事が辛かった。

 一人きりでい続けるのは、お腹が減り続けているみたいで、苦しくて、くるしい。

 たくさんの蟲に化けても、それは全部わたしで……虚しかった。

 呪いになる前の、わたしたちも

 外に出て、転がっていた死体も

 みんなみんな一人きりで、寂しかった。


「ひとに、なろう」


 死んだお肉の記憶。人は沢山いた。沢山いて、群れを作って、温かい家で暮らす生き物。わたしは、それに憧れた。わたしは、それが欲しくなった。だから、わたしは……蛇から蟲へ、蟲から人へと、姿を変えた。

 食べた人の体を元に、身体を作っていく。女の体になったのは、やっぱりわたしがメスだからかな。不思議と迷わずに、わたしの体は出来た。

 黒い髪、ふっくらとした身体と唇、身体は細くてすらっとしている。わたしの望みなのか、失敗なのか分かんないけど、目の色だけは暗い橙色で……人の眼に上手く、近づける事が出来なかった。


「……はだか、ダメ。はずかしい、のかな」


 食べたお肉の事から、なんとなく、口にする。

 死んだお肉に残っていた服を、適当に集めてみる。綺麗なのがあれば使えるけど、腐った臭いで汚れていた。一応マシなのを見つけて、適当につけてみる。あとで洗った方がいいのかな……なんてことを、ぼんやり考えた。

 そんな事よりも、わたしはやらなきゃいけない事がある。

 早く……早く温かいどこかで、誰かと一緒に、眠りたい。

 一人で、暗くて、寂しくて、安心できないのは、もう嫌だから。



 奈紺は、叶の腕の中で、細かく震えていた。

 彼女の頭に手を添えて、何度も「大丈夫」と耳打ちする。また昔の悪い夢を見ているのだろうか。悲しい過去を背負った彼女に、出来るだけ叶は寄り添っている。

 焼き肉店での話から、数か月。あの後はまだ一度も訪れていない。安上がりとはいえ焼き肉は贅沢な話。なんの機会もなしに、何度も行くのはブルジョワであろう。


「大丈夫……大丈夫だからな……」


 奈紺は、一人で眠る事を非常に恐れる。

 理由は聞けていない。というより、彼女が上手く表現できない。けれど分かる事もある。

 奈紺は寒さを、孤独を、非常に強く恐怖している。何が彼女をそうさせるのか、恐らくは「蠱毒」の術が、当人目線であまりに悍ましい光景だから、と叶は読んでいた。

 真っ暗な壺の中に閉じ込められ……中にいる毒虫同士で、最後の一匹になるまで殺し合い――人間同士でも、創作物にあるデス・ゲーム系作品に通じる状況。奈紺はその生き残りであり……ならば心に深い傷を負っているのも、当然と言えた。

 最初の出会いは衝撃的だった。その勢いに押されて、軽い気持ちで引き受けた、彼女の欲求と願い。今も破らずに守り、奈紺との生活を続けているのは……最初は「約束を破ったら何が起こるか分からない」という、やや俗物的な恐怖だった。


「ん……叶……」

「奈紺? 起きちゃった?」

「ん……起きて、良かった。暗い森の夢、だったから」


 そっと彼女を抱き寄せる叶の腕に、もう彼女を恐れる気持ちはない。朱に交われば赤くなる。それがたとえ、恐ろしい怪物であろうとも……何か月と共に暮らしていれば、関わり方は分かってくる。そしてある種の同棲を続けていれば、少なからず情も湧く。くすぐったそうに頭を寄せて、奈紺は叶の胸に頭を預けた。


「あったかいの、好き。叶……ありがと」

「ちょ、ちょっと奈紺! 急に言わないで!?」

「? なんで? 好きだから、好きだよ?」

「だから、なんで突拍子もなく言うの!? 恥ずかしいって……」

「はずかしい? 裸じゃないよ? ちゃんと服、来てるよ? わたしたち」

「違う、そうじゃないって……あぁもぅ……」


 まだまだ、学習が足りない奈紺。だからこそ急に、無邪気で強烈な甘え方をする。こんな日が来るとは、思っていなかった。彼女との初対面を思い浮かべながら、叶はほどほどに、困った表情で、奈紺の頭を撫で続けた。



 わたしは、ずっと彷徨っていた。

 人の体に化けたけど、身体を変えられるのは変わらない。口から脱皮するように蛇になれるし、指や手を蟲に変えるのも簡単。不自由に感じる事は少ないけど、孤独の寒さだけは、どうにもならなかった。

 だから、わたしは人の明かりと温かさを求めた。

 でも――人の世界も、優しくはなかった。

 男も、女も、老人も、子供も、みんなどこか、いらいらしていて、落ち着きがない。

 わたしと同じような、苦しさと寂しさを持っているのに……わたしと同じで、上手く言葉にできない。苦しい苦しいって、泣いているのに、誰もその涙を止めてくれない。だからますます、哀しみと孤独が強くなって……それは、呪いに近い何かになっていた。


「ここも、さむい。違う」


 誰かの家や、町や、仲間になろうと、いろんなところに飛び込んだけど、わたしの渇きは、寒さは、ちっとも和らぐことがなかった。

 心がある事が、くるしくて仕方がなかった。

 こんな風に寂しいなら、こんな風に苦しいなら、わたしなんて生まれなければよかったのに。何度も何度も、わたしはそう思った。

 わたしが食べた……腐った肉たちも、この寂しさに耐えられなくて、死んでしまった。わたしたちはみんな、寂しくて悲しかった。誰かにとめてほしいのに、誰もとめてくれなかった。

 だからわたしは……人として、生きるのをやめようとした。

 町から少しだけ離れた、小さな畑。近くに森のある、町と山の境界線で……わたしは蛇になり、虫になり、ひっそりと孤独に生きようとした。

 ――一つになると、虫でも蛇でも何にでも、わたしは大きくなりすぎる。辛うじて人の形だけ、ちょうどいい大きさになれるけど……でも、わたしは、人の世界にも、憧れながら入れない。だから……沢山の蟲や獣、毒虫に化けながら、人の世界にあこがれながら、生きるしかない。そう、思っていたのに。誰かの温かい手が、わたしに伸びてしまった。

 近くにいる誰かの声が、強い緊張と共に走る。


「っ!? これ……『セアカゴケグモ』じゃないか! 手を引っ込めな叶! 噛まれたら大変だよ!!」

「え? え? いや、この蜘蛛、大人しいですし……蜘蛛は益虫だから殺すなって、このまえ津留見つるみ叔母さん言ってましたよね!?」


 うっかりみぞに嵌って、溺れてしまった分身の一匹……毒蜘蛛に化けた一匹を、男の人が掬いあげる。他に何も考えていなかったわたしは、その人たちの言葉や会話に、耳を傾けていた。


「そりゃ普通の蜘蛛ならいいけどね。ソレ、外来種の毒蜘蛛だよ。子供や老人だと、噛まれたら死ぬことだって……」

「じゃあ俺なら平気でしょ。……驚かせて悪かったな。大丈夫、大丈夫だからなー」

「見かけ次第駆除しろってお達しなんだけどねぇ……」

「だったら溺れて死ぬのを見殺しにしろと?」

「…………お優しいコト」


 男の人が、そっとわたしの一部を置く。後ろのおばさんは怖い感じだけど、もう殺気を感じない。ちら、とその人の事を見ると、背中にうようよと漂う何かを見た。

 ――わたしに、近い側の何かだ。

 わたしは、その人の顔を覚えた。

 わたしは、その人を四六時中、見つめるようになった。

 町にいて、人のフリをしても、その場限りで終わっちゃう。寂しいのも、くるしいのも、少しの間だけしか、埋められない。

 あぁ……この男の人の後ろにいる、ぺたぺたとくっついている人たちも、それが分かっているんだ。

 だから、本当に優しい人に、くっついていく。いつか自分の寂しさを、分かってくれると信じて、いつかこの苦しみから、この人が救ってくれると信じて。


 寂しがり屋は、優しい人が大好きなんだ。

 この苦しい時間を、無くしてくれると信じているんだ。

 わたしも、そう思った。この人なら助けてくれると思った。

 でも……もうたくさんのナニカが、この人の周りをうろうろしている。

 わたしは……心の中の苦しさが、すごく、濃くなったのを、感じた。


「あなたたち、じゃま」


 わたしは、くっついている奴らを、一つずつ、消していった。

 蜂で追い回して、毒針で串刺しにした。

 蜘蛛の巣でグルグル巻きにして、ゆっくり食べた。

 カエルの舌で捕まえた。

 蛇の身体で絞殺した。

 この人の、傍に行くなら、わたしは、なんだってやる。

 色々とくっついている奴らを、みんなみんな倒していった。わたしは、何をしてでも、この人の隣にいたかった。

 遠巻きに見つめる時も、この人の名前をちゃんと覚えた。

 かなえ――ひびき かなえって単語は、初めてわたしが、ちゃんと覚えた人の名前だ。この人の、傍にいたい。まだ少しだけ残っていたけど、わたしはいつのまにか、我慢が出来なくなって――

 気が付いた時は、叶の家のチャイムを鳴らしていた。



 ある休日の昼間、ひびきかなえの借宿に、誰かがやって来た。

 ここ最近、何故か蟲にタカられる気がする。不気味に思ってはいたが、今のところ害はない。時々ドキリとするものの、畑仕事を手伝い始めたからか? 蟲や植物、土汚れに対しての嫌悪感は、薄くなりつつあった。

 そんな牧師的な生活が、彼から警戒心を薄くさせたのかもしれない。チェーンもつけず、のぞき穴から確かめもせず、何気ない動作で扉を開く。

 ――現れたのは、初めて見る女の人だった。


「あ……こ、こ、こん、に、ちわ」

「え……? あぁ、はい。こんにちわ」

「……あぅ」


 誰が見ても明白だ。彼女は信じられない緊張テンパリ具合で、呂律もまるで回っちゃいない。下手を打てば不審者として通報され、一発でお縄になるレベルだ。

 ところが、叶は呑気なもので……彼女に対して、やんわりとした反応を寄越す。


「あの……なんの用でしょうか? もしかして間違えていませんか?」

「え? い、いや、えっと……いえ、あって、ます。叶、さん? です、よね?」

「はい。俺は叶ですけど……あなたは誰ですか? お名前は?」

「なま、え……? わたしの……なまえ……」


 急に彼女はしどろもどろ。いや、最初からその通りなのだが、叶の質問を受けて、動揺が激しくなる。流石の彼もいよいよ不信感が募る中、ぱちっ……と何か、不吉な音が響いた。


「ん? 何だ……? すいません、ちょっと台所を……」


 叶は知らない。今のは、有名な心霊現象の一つ『ラップ音』である事を。彼の周りにいる雑霊たちが、忌まわしき宿敵に向けた警告音である事を。

 背中を向けたその刹那、彼女の手が信じられない速さで伸びて、ぐっと叶の腕を掴んで、引き留めた。


「だめ、です。怒って、る。あぶ、ない」

「え……いえ、急になんです? その、ちょっと失礼じゃ――」


 言い終わる前に、彼女は凄まじい怪力で叶の手を引いた。倒された、と感じると同時に、禍々しい気配がキッチンから漂う。

 何が起きているのか、全く分からない。けど次に起きた出来事は、彼の口から絶叫を引き出した。

 ――包丁が、女性の頭部に目がけて飛翔してくる――

 初めての現象。いきなり自分は何を見せられているのか。遠い世界の住人になってしまった気分だ。彼女はこれから、叶を守ったと言うのか? 呆然と見つめる中で、グサリと頭蓋に包丁が突き刺さる――

 叫んだ。意味もわからず、叫ぶしかなかった。目に見えない世界の出来事でも、物理的に動く何かがあれば察してしまう。次はお前だ、と言わんばかりに抜かれる刃物。キラリと叶に閃いた瞬間、女性の体は動いていた。


「おまえ、じゃま」


 包丁をがっちりと捕まえたまま、頭部に刃物の形に空洞の出来た女が言う。真正面から向き合ってしまい、その暗黒を叶は正面から見つめてしまった。

 一滴の血も流されていない。その現実に直面して、またしても彼の呼吸が荒くなった。


「な、な、なん……で……?」

「下がって、て、お願い」

「――……」


 何の痛みも動揺もなく、女は叶を心配するような声で言う。絶命必死の状況下で、女の口が大きく開いた。

 ――蛇だ。

 ――巨大な蛇が、明らかに口の面積と釣り合っていないサイズの蛇が、するりと女の体から這い出して来る。この世ならざる光景に、意識がぐらりと揺らいだ。

 異形と異常。巻き込まれてしまった不意の世界。まるで映画やアニメみたいだ、と客観視するのは、ストレスの高まりが招く解離か。心と現実を切り離してしまうような症状。夢の中にいるように、ぼんやりとしか目の前を認知できない。


「にがさ、ない」


 蛇が、喋った。女の声で。

 この蛇が、女の本性。女の本体? 本当に映画やアニメじゃないか。絶句する中でその蛇は、目に見えない何かを口にくわえて――呑み込み始める。

 刃物が虚しく、地面に落ちた。その一方で、巨大な蛇が見えざる何かを捕食している。爬虫類特有の瞳孔は、何の感情も読み取れない……

 漏らしてしまいそうだった。実を言うと、少しちびった。それほどまでの衝撃と、冒涜的光景に心が震えていた。

 やがて女は、蛇は、見えざる何かを飲み込んだ。とてもつまらなそうな、淡々とした様子だった。

 次は自分なのだろうか。叶が固まって動けない中、その蛇はゆっくりと、女の体の中へ戻っていく……

 何事も、なかったかのように。女は叶を見つめて、おどおどしながら、こう言った。


「だいじょう、ぶ?」

「えぇと……えぇと……えぇ?」


 答えられない。答えられるわけがない。目の前で起きた事件を、何事もなかったようにスルーされたのもそうなら――どう見ても蛇が人の体に戻って、叶の事を心配している現実に、全く整理が追いつかない。

 最初は、怖くて逃げだしたかった。

 でも、不思議と出来なかった。

 足が震えていたのもある。

 相手が、得体の知れない何かだったのも、逃げても無駄だと感じさせたのかもしれない。

 しかし、一番の理由は――次の彼女の言葉だった。


「叶……わたし、さび、しい。さむい、怖いの、いや、です。わたしに……やさし、く、してくれ、ません、か? いっしょ、に、そばに、いたい、です。おねが、い、します」

「……――…………」


 なんてことを、言い出すのか。

 あまりにそれば『化け物』からかけ離れた要求だった。たどたどしく、拙く、覚えたての言葉を必死に紡いで、その橙色の瞳を潤ませて――泣きそうな目で、彼女は言った。

 ――吊り橋効果、という心理現象がある。

 人間は恐怖に駆られた、心臓の鼓動を……恋の高鳴りと誤解してしまう事がある。

 わからない。少なくてもこの時、叶の心理は正常ではなかった。

 気が付いた時は、叶は。

 彼女を抱きしめて、頭を撫でていた。

 人型の蛇の怪物は――涙を流して、泣き崩れた。



 そんな風に出会って、ほとんど勢い任せに二人の同棲は始まった。

 名前を決め、衣服を選び、生活を共にし、人としての常識に慣らす。

 突然の出会いに、人外と悟った上での、共同生活。緊張もあるにはあるが、それ以上に――『赤瀬奈紺あかせなこん』と名付けた彼女は、酷く弱り切っているように見えた。

 憐れみだったのか、同情だったのか。今となっては、よくわからない。もちろん恐怖を目の当たりにする場面も、少なくないが……話は通じて、寂しがり屋。腕は怪力で、呪いと毒を身体に含む、擬態した人型。

 不思議と叶にとっては、恐ろしくなかった。むしろ彼女を放置する方が、怖いと直感した。既に運命に痛めつけられている、そんな印象を覚える赤瀬奈紺を、捨て置くことが出来なかったのだ。

 そんな彼らに――波乱の運命は、静かに忍び寄っていた。



ー見つけた、やっとだ。ずいぶん時間がかかった。

ー出てすぐは、周囲の霊体を食い散らかしていましたが……

ー最悪、どこぞの神仏に倒されているとも思ったけどね。

ー焼き肉店に、飲みの繁華街で、やっとうっすら痕跡を辿れました……一体何を目指して、どこへ行こうとしているのでしょうね? 『三倍体の蠱毒』は

ー一般人が巻き込まれてないといいが……無理そうだ。

ーちょっと! ここアパートじゃない! きっと犠牲者が大勢……

ーいえ、それはないでしょう。大事になっていれば、すぐに突き止めていたはずです。

ーやれやれ、厄介ごとにならなければいいが。

ーまずは、煙でいぶり出すとしましょうか。



 焼き肉店での話から、しばらくの時間が経ったある日……ひびき かなえ赤瀬あかせ 奈紺なこんは、寮で二人で、適当にゲーム機で遊んでいた。

 最初こそ奈紺は戸惑っていたが、今では彼女の方が暇な時間も多く……特にアクション関連のゲームでは、完全に腕前を追い抜かれてしまった。


「見切っ……たぁっ!!」

「嘘ぉ……」


 当て身技――カウンター技を合わせて、奈紺の操作キャラクターが必殺を放つ。それがトドメの一撃となり、必殺を放ったハズの敵が崩れ落ちた。呆然と眺める叶のキャラクターは、その瞬間、確かに叶の分身として成立している……


「やったー! いぇーい! わたし、すごい!?」

「う、うん。スゴイ。凄すぎる。俺、完全にキャリーされてるよこれ……」

「よくわかんない!」

「えぇと、すごい奈紺に助けられた……って事」

「そうなの!? わたし、叶を助られたの!? うれしい!」

「そうだね……ありがとう」

「えへへぇ……」


 奈紺は最近、すっかり明るくなった。

 時々悪夢に震える事もあるが、頻度は明らかに減りつつある。うっかり叶に毒を注入してしまう事も減り、その後噛みついて毒を吸い出す事も減った。

 断言できる。彼女は徐々に、その心が人に近づいている。このまま一緒に暮らしていくことも……きっと不可能じゃない。少なくても傍で見る叶には、そう思えた。

 それを夢物語だ、と嗤うように――現実は、二人に降りかかる。

 笑っていた奈紺が、急に鋭く首をもたげた。彼女の本性、蛇を思わせる動作だ。

 顔色も緊張の色が濃い。ファンファーレを鳴らすゲーム音を置き去りにして、奈紺は叶に向かって触れて見せた。


「叶……大丈夫!?」

「え? え? 大丈夫……だけど、どうしたの奈紺」

「すごい……煙臭い。何か嫌なにおいがするの。これ、火事じゃない!?」

「えっ!?」


 急いで叶はキッチンに向かい、火の本を確かめる。最優先でガスの元栓を閉め、コンロのツマミもチェック。しっかり点検したが、どこにも異常は発見できなかった。

 しかしキッチンの換気扇から、微かだが煙の臭いは感じる。奈紺の言う事も嘘ではなさそうだが、その臭気は火事のソレとは異なる気がする。どちらかと言えば線香とか、お香などの臭いに近い。


「確かに煙たいけど……これは火事じゃない、と思う」

「で、でもこれ、わたしすごく嫌……!」

「うーん……そっか」


 確か線香には、防虫効果なども含まれていた気がする。奈紺の正体を考えれば、不愉快な成分なのかもしれない。毒蟲の集合体である以上、それらが忌避する性質を引き継いでいる? 非常に嫌がっている彼女を見て、叶はすぐに提案した。


「じゃあ、ちょっと散歩しよっか。ゲームデータだけ保存して」

「う……ごめん、全部叶に頼んでいい? わたし、すぐに外に出たい」

「ホントに嫌なんだ……オッケー。奈紺の分もセーブしとく」

「ありがと!」


 全く迷惑な話だ。誰がそんなことをしているのか……と考え、近年では防虫用の燻煙剤もあると思い出す。主に黒光りするアレ退治などに使われるし、ありえない事ではなさそうだ。

 同じゲームのデータを保存し、奈紺のゲーム機も同じように操作を進める。ぴろりろりん♪ となる保存音と、奈紺の悲鳴が聞こえたのは同時だった。


「!? 奈紺!?」


 初めてかもしれない、彼女の絶叫。急激に嫌な予感が心に広がり、叶は鍵を閉めるのも忘れ飛び出した。

 急に何が起きたのか……何にせよ異常な事態に違いない。駆け抜けた所で、奈紺の周りに、珍しい衣服を着た三人組がいることに気が付く。ちょうど正三角形を描く形で、女性の彼女を取り囲んでいた。

 修道衣、と言うやつだろうか? どこか魔術的な、あるいは神秘的な印象を受ける三人組。良く見れば地面に奇妙な紋様も描かれている。その光景を見て、何故だかわからないが……叶は身震いがした。


「これは……本当にコイツなのか?」

「何? ワタシの『魔払いの香』の調剤が間違ってるって言いたい訳?」

「そうではないが……しかし、どう見ても彼女は……」


 うち二人は女性。話し合う表情に困惑が見える。しかし最後の一人が、断罪者の口調で叱責した。


「惑わされてはなりません。異形が人のフリをして、騙して襲うなどよくある話。こんなもの、それらしい演技でしかありませんよ。さっさと討伐してしまいましょう」


 苛立ちを、怒りを、憎しみをはっきり叫ぶ男の声は良く通る。神父の言霊に迷いを断ち切り、何らかの文言を……呪文を唱え始めるのを、確かに見た。

 紋様の中心で屈みこむ、奈紺が震えている。叶が飛びつくには、それで十分すぎた。


「何を……あなた達、奈紺に何をしている!?」

「「「!?」」」


 三人が一斉に叶を見た。最初は驚いた表情で。次に一人の女性が困惑し、一人が何かを悟ったように口元を抑え、そして最後の男は――はっきりと悪気なく告げた。


「あなたには関係のない事です。見ない方が良い世界の話ですよ」

「彼女に何をしていると言っている!」

「関係が……」

「待って……その子、魅了されているんじゃない? そいつに」

「ふざけるなっ!!」


 叶は走った。女の一人に向けて走った。胸倉をつかもうとして――奇妙な、見えない何かの力に弾かれてしまった。

 尻もちをついて、へたりこむ叶。男は静かに、それが当然のことのように、淡々と話し始めた。


「なるほど。ならば無関係ではありませんね。お若い日本人の方、最近何か不調はありませんでしたか?」

「俺の事はどうでもいいだろう!!」

「どうでもよくありません。あなたは気が付いていないだけで、あなたには必ず不調があったはず。それはこの……コイツの、忌々しい呪いによるもので――」

「奈紺の正体なんて知ってます!!」

「…………なんだと?」


 男の、今までの丁寧な口調はそのままだが……露骨な悪意がにじみ出ている。うすら寒い気配は一瞬で通り過ぎ、真っすぐに言ってやった。


「彼女は……奈紺は人間じゃない。そんなこと最初から知ってますよ!」

「君は、自分が何を言っているのか、分かっているのですか?」

「彼女を放せと言っています!」

「出来ませんね。我々は悪しき怪異を滅するために来ているのです。アレはシギックの不手際が生んだ――」

「彼女が『コドク』な事は知っています!!」


 男は、不愉快そうに眉を上げた。実に面倒だと首を振る。一人はじっと奈紺を見つめたまま、もう一人の女だけが、人らしい反応を見せた。


「――……驚いた。ロウ、少し話を聞いてやってはどうだ。この青年に……あの者は少なからず、心を開いているのかもしれない」

「怪異に心などありません。すべて人間を貶めるための、欺瞞でしかないでしょう」

「なら彼に対して、事情を明かす意味は? 同情を買う理由は? 今まで彼が生きているのは何故だ?」

「それが手口であり、手法なだけです」

「かの存在に、学ぶ時間と機会があったか?」


 身内での押し問答がもどかしく、叶は二人がモメている内に奈紺へ寄ろうとする。再び反応する何かに弾け飛ばされ、見えない何かに閉じ込められた彼女が、叫んだ。


「かなえを、悲しませないで……!」

「あなたがそうしているの。大人しく消えてよ……『蠱毒の三倍体』さん?」

「わたしは、かなえと一緒に居たいだけだよ……!」

「何を言っているのよ。あなたは、この世にいてはいけないモノ。生まれて来た事が間違いのモノ。幸せになれると思っているの? 自分自身が呪いなのに?」


 それは、明らかな事実であった。

 壺の中で毒虫を投げ込み、一人になるまで殺し合わせることで完成する呪いの『蠱毒』は、人が呪いを求めるがために生み出された。

 この世の条理の外にあるモノ。この世に本来あってはならないモノ。幸福とは遠い位置にあるモノは……だからこそ、自分自身で叫んだ。


「――それを、生み出したのは、わたしじゃない。わたしだって……わたしだって、こんな風に生きたくなかった。こんな身体で、こんな呪いを抱いて、生きたくなんてなかった。作ったの、産んだの、にんげんじゃないの?」

「――……」

「ひつようとして、もとめられて、生まれて……苦しんで、悲しんで、でも全部、偽物って言うの? ねぇ、どうして生んだの? こんな風に、生まれたくない。こんな風に、生きたくない。それを……違うって言ってくれたの。かなえだよ? くるしくても、かなしくても、傍にいてくれたの、かなえだよ? かなえが、わたしの寂しいと悲しいを、止めてくれたんだよ? だから、一緒に、いさせて」


 それは下手な呪詛より、魂に刺さる言霊だった。

 呪いそのものが語る、言葉ではなかった。

 女がゆらぎを大きくする中……またしても男の叱責が飛ぶ。


「未熟者――! こんな人のフリに騙されてはなりません! ルーナ、あなたには一度本国に帰ってから再教育を……!」

「ロウ! その頭でっかちをもうやめろ! どう見てもあの者は無抵抗だろうが!」

「メリーシャ……! その油断が寝首を――うっ!?」


 三人が囲む中心。人がどさりと倒れ込んだ。

 それはただの、抜け殻だった。

 巨大な蛇が、禍々しい体表を持つ呪いの蛇が、橙色の眼光を灯していた。

 ――それだけで、下の紋様が跡形もなく砕け散った。


「う、わっ……!?」

「ひっ!?」

「そ、そんな……」


 蠱毒の蛇が、三人の修道士を見つめる。

 毒の瞳が、魂を凍らせる。

 これから死ぬのだと、誰もが予感した刹那。

 怪物の方へ、叶が走った。

 ――三人は、真っ先に彼が殺されると読んだ。

 正体を暴かれた膨大な呪詛が、目撃者の、ただの一般人を、逃がすはずがない。

 予想は、簡単に裏切られた。


「奈紺! 奈紺! 大丈夫!?」

「うん……叶は? 大丈夫?」

「大丈夫……大丈夫だって……」

「よかったぁ……」


 巨大な蛇が鎌首をもたげて、ただの一人が両手を広げて、互いに寄り添い、無事を確かめ合っている。

 あの恐ろしい気配はすっかり消えて、今この瞬間は、二人だけの世界に見えた。


「これでも……彼女に心はないと言えるか? ロウ」


 修道士は、もう手を出せなかった。

 色々な意味で、圧倒された。



「……と言うわけで、やっと折り合いがついた。元々こちらの落ちこぼれ魔術師メイガスが、見よう見まねでこの国の呪術に手を出したのが原因だからな。ロウはまだ『要注意』と騒いでいるが……全く、未熟なのはどっちだ」

「「あはは……」」


 叶と奈紺の二人は、喫茶店で一人の女性と話し合っていた。

 対面の女性は、かつて修道士の衣服を纏っていた人物。奈紺に手を出した三人組の一人だ。後日知ったが、あの時奈紺を……『蠱毒の三倍体』を、この世から滅却させる予定だったらしい。ところが失敗して、一般人が乱入して、呪いと熱烈なハグを交わす場面を見せられ、完全に戦闘意欲を喪失。危険な存在ではあるが、対応をどうすべきか、後日話し合うと言って、彼らと別れたのだ。あの場は。

 今日は戦う気がないと、薄いピンクの上着に、白のシャツ。ボーイッシュな青のジーンズを着用したラフな姿だ。本人によると「あの衣服は戦闘用」らしく、日頃から着用はしないそうだ。


「すまない。どうも西洋圏ヨーロッパでは、異物や怪異は排すべしの風潮が強くてな……もちろん、共に生きる選択もあるのだが、この国ほど寛容ではない」

「そう……なの?」

「まぁな。西洋ではロウ……この前の男のような奴の考えが主流だ。ましてや君は……赤瀬奈紺あかせなこんは『濃縮された蠱毒』だからな。危険度も高いから、事を起こす前に対処すべしと、上の方もうるさかった」

「前から少し気になっていましたけど……なんです? 三倍体の蠱毒って」


 通常の蠱毒と何が異なるのか。奈紺もわからないのか、首をかしげている。「これは推測も含むが」と前置きして、女性……メリーシャは語った。


「通常『蠱毒』は、壺の中に大量の毒虫を投げ込み、その中で殺し合わせる。そして生き残った一匹が、呪いと毒を溜め込んだ使い魔として生成される。

 だがシギックは……奈紺を生み出した術者は、さらに毒性を強めようとした。その方法として、呪いを濃縮させる手法を思いついた。方法は……『生まれた使い魔をまた壺に押し込んで、殺し合いをさせる』事。そうして生まれた個体を『二倍体』と奴は書き記していたよ」

「わたしは……もういっかい、殺し合いました」

「そうだ。だからもう一段階、君の呪いが濃くなった……『三倍体の蠱毒』が君だ。まさか人格を獲得するとは、あの落ちこぼれ魔術師も想像してなかったようだな」

「……わたし、その人」


 奈紺が言葉に詰まった。色々と話す中で、そのことは叶も聞いていた。呪いを作った主とはいえ……その人間をどうしたかも、知っていた。

 修道士は、二人の空気をバッサリと切り捨てた。


「奴に関しては殺人に入らん。むしろ仕留めてくれて感謝している。奴が生きている方が、死人は増えただろうさ」

「……そう、ですか」

「それに、今は安定している以上、変に刺激して奈紺に暴走される方が怖い。つまり叶、君に人柱になってもらった方が安心と上に納得させた」

「人柱って……そんな悪い物じゃないですよ。彼女は」

「えへへぇ……」

「おい、のろけるな」


 真剣な空気が、一瞬で霧散してしまった。軽く首を振りつつ、メリーシャはぼそりと呟いた。


「言霊……か。大丈夫だ、と言い続けたから、本当に大丈夫になったのかもな」

「はい?」

「いや、何でもない。こちら側の話さ」


 話は終わったようだ。伝票を手に、修道士の女性が去ろうとする。その前に、奈紺から彼女に声をかけた。


「あ、あの……! この後、時間ありますか?」

「ん? 少しだけなら……どうしてだ?」

「あの……えぇと、一緒に服、探してくれませんか?」

「…………えぇ?」


 メリーシャは困惑した。あまりに普通な発言に困惑した。どこにでもいる女性のように、赤瀬奈紺が拗ねて言う。


「だって、叶と一緒だと……女の子の服、上手く選べないし」

「う……そ、それは仕方がないだろ!?」

「うん。仕方がない。だから、女の人と一緒に選びたいです。メリーシャさん? は、すごくカッコいい! そう思ったから。ダメですか?」


 真正面から言われてしまい、一度は対峙し、退治を試みた女性は思わず天を仰いだ。


「全く……本当に君たちは」


 会計を済ませると、メリーシャは親指でいくつかのファッション店を指差して歩いていく。三人で街中を歩く姿は……どこにでもいる、普通の人々のように見えた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 今日書籍を買って読みました! 最後ハッピーエンドで終わってよかった…
[良い点] 「えへへぇ……」 [一言] 特設ページから飛んで読ませていただきました。 叶と奈紺、二人の日常?をもっと見てみたいです。
[良い点] よくある「他の怪異から人々を守るスーパーヒロイン」の話にせずに、 不幸になろうとも息子と一緒にいる店主を出すことによって、怪異と共存するというテーマを強調したところ。 [一言] 異形でも清…
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