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別れと新天地

しかしある日、別れの時は突然訪れた。

"今までありがとうございました。鍵はお返しします。新聞受けを見てください"

帰宅してからいつも通りノートを開くと、一番新しいページにそう書かれていたのだ。

ノートに書かれた一文を見て、僕は何が起こったのか分からなかった。

前回までに来られなくなるといったことや、忙しくなりそうだということは一切記されていなかった。

もともと、プライベートなことは書いていないノートなので、突然何かがあったのかもしれないし、ギリギリまで伝える必要はないと考えていたのかもしれない。

しばらく呆然としていたが、とりあえずノートにある通り新聞受けをのぞいてみる。

彼女がこの家から出るときに外から鍵をかけて、新聞受けに投げ込んだのだろう。

確かに家の鍵が新聞受けの内側に入っていた。

玄関の明かりを頼りに位置を確認して、僕は新聞受けに手を突っ込むと、鍵をつまみ出した。

引き上げてから念のため一度鍵穴に差し込んで回してみると、鍵はきちんと開閉した。

今手にしているもものは間違いなくこの家の鍵ということだ。

僕は再び自分の手に戻ってきた鍵を見つめながら、玄関にしばらくたたずんでいた。



ふと、僕はノートを通じて何か失礼なことを言ったのではないかと不安になった。

もしかしたら何か気に障ることをしてしまったのかもしれない。

玄関から急いでノートのあるリビングに戻りノートを手に取った。

この日はちょうどノートは最後のページだったので、後ろから過去に遡って確認をしていくが、特に引き金になるようなやり取りは見当たらなかった。

ノートを眺めて今までの出来事を振り返りながら、僕はたくさんのことを思い出していた。

彼女を喜ばせようとコーヒーカップを買ったり、豆をそろえたりしたことや、喫茶店を紹介しあったこと、そして共通の話題を増やすために喫茶店に足を運んだこと。

たくさんのやり取りを改めて確認していると、真剣に彼女を振り向かせようとしていた自分の姿がそこに見えた。

自分の行動力に驚きつつ、もし、別れた彼女にも同じように気を使うことができたら、時間を割くことを考えていたら、寂しい思いをさせなくてすんだのかもしれない、という考えが頭をよぎった。



僕がどんなに確認しても、ノートには彼女がここに来なくなる理由が一切書かれていなかった。

見落としているだけかもしれないが、少なくとも僕には、そこから何が起こったのかを知ることはできなかった。

しかし何度もノートを読み返しながら、もう、彼女に会うことはできないのだな、と、ぼんやりと考えている自分がいた。

一応同僚にセッティングされた合コンで出会ったのだから、彼を通じて連絡を取ることはできるのかもしれない。

けれど、彼に尋ねることは、自分から冷やかしのネタを提供することになるようで、できなかった。

合コンの後で自宅に連れて行った、ましてや家の鍵まで渡した、しばらく自宅に彼女が足を運んでいた、などということを話せば、格好の餌食になってしまう。

それは僕も彼女も望まない結果に違いない。

合コン以降、彼には何度も会っているが、向こうから何かを聞かれることもなく、僕も彼女のことを話すことはなかったので、この関係は本当に二人だけの間で成立していたものなのだ。

本当のことを言うと一度会っただけの、寂しい僕の部屋にぬくもりだけを残してくれた彼女に、もう一度会ってお礼を言いたかったが、人を通じて連絡を取る勇気はない。

それに連絡を絶つ事を希望した相手に会ってお礼を言ったとして、それから何を話すというのだろうか。

一言伝えるためだけに呼び出すというのも、何だか申し訳ない。

そうして僕は自分の中で言い訳を続けて、結局何もしないまま仕事に明け暮れる日々を送った。

そして僕が二度と彼女に会うことはなかった。




少しして、僕は転勤が決まった。

結婚前提にお付き合いをしていた彼女に振られるまで頑張った、仕事の功績が認められての栄転だ。

それと同時に、彼女に合鍵まで渡した思い出のある部屋ともお別れすることが決まった。

転勤先では長い期間プロジェクトに関わることになるため、この部屋をキープしていても戻る時間はないと判断したからだ。

そんな僕の引越し荷物の中に、あの時から使い続けているコーヒーマシンは入っている。

なぜなら僕は、これからもこの機械を使うつもりだからだ。

コーヒーマシンに罪はない。

壊れたわけでもないのに、思い出に縛られて捨てるなんて邪道だ。

それに昔も今も、僕の好みに合う、最上のコーヒーを提供してくれるのがこれだ。

だからこの愛用のマシンは新しい自宅でも、毎朝おいしくコーヒーを飲むために利用しているが、たまに強い香りを感じると、彼女のことを思い出して、苦々しくも切ない感情を引き出している。



センチメンタルな気分の時や、セピア色の思い出に浸りたい夜にも、僕は自宅でコーヒーを飲むようになった。

あの日々は忘れたくない大切なものとして、僕の心の中にしまっている。

そして、残されたコーヒーカップは飾り棚に移動し、誰にも使わせていない。

コーヒーカップと一緒に彼女との情報交換に使ったノート。

これも飾棚の中にある。

けれどこのノートはたぶん二度と開くことはないだろう。



僕は新しい場所でも、今までと変わらずコーヒーの情報を集めることにした。

最初は彼女のためとか、彼女に知ってほしいからとはじめた情報収集だったが、それそのものが楽しいものに変わっていた。

何より新天地で憩いの場がないのは辛い。

この場所にまだ友人と呼べる親しい人はいないのだから、せめて落ち着いておいしいコーヒーを味わえる場所がほしい。

そのうち、もし運が良ければまた、コーヒーをともに楽しめる人と巡り合えるかもしれない。

コーヒーを一緒に楽しむ相手は別に女性でなくてもいい。

おいしいコーヒーを提供してくれるお店のマスターで充分だ。

今のところその内容を伝える相手はいないけれど、僕は今まで通りノートにそれを記録することにした。

今度は彼女宛てではなく、自分のためだ。



きっとこのノートは僕の再出発の記録として、やっぱり大事に保管されるだろう。

そして飾棚のノートと違って、きっと僕はこのノートを何度も読み返して、最初ページを見ては、新しい門出を迎えた日のことを思い出すのだ。

このノートを書き始めたその日。

僕は二人の女性を振り返るのを止めた。

新天地で決意を新たにした僕は、今日もノートを傍らに置いて、新しい住まいでも、やはりコーヒーに舌鼓を打つのだった。


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