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残り香

その翌日から仕事が終わり自宅に帰ると、部屋からコーヒーの香ばしい残り香を感じる日が増えた。

僕も朝はコーヒーを飲んでから仕事に向かっているが、何杯も入れた日以外は夜に帰ってきてもコーヒーの香りは基本的に残っていない。

だからこの香りを感じる日は、おそらく彼女がコーヒーを飲みに来ているのだろうと考えている。

僕は毎朝、お客様用のカップと複数の種類の豆を見える位置に準備して外出していた。

好きなものを好きな時間に味わってほしいので、豆の種類を書いたメモをケースに貼り付けておくことも忘れない。

コーヒーに詳しい彼女なら、ブレンドされた豆の種類や割合がわかればある程度味の見当がつくだろうと思って、お店のような細かい説明を書くようなことはしなかった。

実は鍵を渡してから、彼女と直接会う機会はなかったが、僕が家を出た時よりもきれいになっているトレーや、使用後に洗って戻してくれているコーヒーカップをみる度に、彼女が部屋に来て、コーヒーを飲みながらゆっくりしてくれていると想像でき、そのことに安心感を覚えるようになっていた。

彼女はコーヒーを飲みに来るという目的以外に僕の部屋に入ってきていないし、すれ違うことすらないのだから、おそらくコーヒーを飲んだらすぐに帰っていて、滞在時間も短いのだろう。

いつか、コーヒーを飲んでいる彼女に、"ただいま"と声をかけ、"おかえりなさい"と迎えてもらいたい、という願望をひそかに持つまでになっていたが、なかなか叶わぬ夢のようだ。



コーヒー以外にも彼女と接点を持ちたい、そう考えた僕は、コーヒーメーカーの横にノートとペンと一緒に置いておくことにした。

彼女の連絡先を知らないため、言いたいことを伝える術を他に思いつかなかったのだ。

"いつもきれいに使ってくれてありがとうございます。何かありましたらこのノートに書いておきます。あなたからもメッセージがあればこのノートに書いてください"

僕は新しいノートを開くと、一行目に要件を簡潔に書いておくことにした。

彼女に抱いている感情を書き連ねてしまっては、彼女が引いてしまうと考えたからだ。

その日はノートの文面が見えるようにわざとノートを開いて見えるように置いてから家を出た。

仕事を終え、終電で帰宅すると、朝、開いていったはずのノートは閉じられていた。

閉じられたノートを開いてみると、そこには女性らしい柔らかい文字が増えていた。

"ありがとうございます。利用させていただきます"

彼女は気がついてくれたようで、僕の書いたメッセージの下に文字が増えていた。彼女との接点を増やすことに成功した喜びで疲れが吹っ飛ぶのではないかと思ったが、体はそううまくできていないようで、その日は返信をもらった喜びを胸に、夕飯を食べることなく就寝した。



とある休日。

僕は比較的朝の早い時間から、未知の喫茶店を求めて、ふらふらと街の中を歩いていた。コーヒー専門の喫茶店は、朝の早い時間から夕方の早い時間で閉店してしまうところが多いと経験則から感じているためだ。

家でもコーヒーを入れているが、お店で飲むコーヒーとは違う。同じ豆を使っていても、やはりプロの味、という気がするのだ。

コーヒーを専門に扱っている喫茶店は、店の扉を開けただけでよい豆の香りがすることが多い。そして、長年営業を続けているお店は、腕が良いだけではなく、壁やテーブル、椅子などもコーヒーの香りがしみこんでいるのか、注文したコーヒーを飲む際に匂いによる違和感が少ないため、僕は好んで古い店を選んでいる。

僕は、長年付き合った彼女と別れてからというもの、このようなお店を探しては入店する日々を繰り返すようになっていた。

コーヒーの香りだけが僕の心を癒してくれる。

だからこそ、家でもコーヒーを嗜み、新しい香りと味を求めて休日は店を探す。

同じ店に通うより、より相性の良い店を探すのが楽しみの一つとなっていた。

今では時間を気にせずコーヒーのために遠出をすることもできるので、充実した日々を過ごせるようになった気がする。

そう割り切れるようになったのは、コーヒーの彼女のおかげではないかと思った。

お付き合いをしていた彼女と違い、コーヒーを求めてくる彼女は僕を束縛しない。

しかし、彼女は、僕の部屋にコーヒーの香りと癒しとぬくもりを残してくれる。

一度は色あせた僕の生活を華やかにするわけではなく、落ち着いたセピア色に変えてくれた。

今日も無事に午前中からおいしいコーヒーをいただき、お店で提供していたモーニングを食しながら窓の外を見ると、これから開店準備を始めるお店が続々とシャッターを開けはじめた。

店内は落ち着いたピアノのクラシック音楽が流れており、外の音は聞こえないが、そろそろ街に人が溢れてくる頃だろう。

人ごみを避けるため、手早く残りの食事を終え、お店を出ることにした。



まだ人の少ないうちに駅まで向かおうと考えていたが、お店を出て正面にあるウインドウに飾られた食器に目を奪われた。

上品な装飾の食器の中に、清楚な彼女のイメージにぴったりのコーヒーカップを見つけたのだ。僕は吸い寄せられるようにお店に入っていった。

今、彼女がうちで使っているのは、お客様用のコーヒーカップで、僕が彼女を最初に家に招待した時に出したものだった。これから、少しでも快適に過ごしてもらえるようにと考えた僕は、迷わずそのカップを購入することに決めたのだ。

いらっしゃいませと僕に声をかけた店員を呼び止めると、僕はカップを指差した。


「こちらをください」


そうすると店員はすぐに商品をカウンターに運び尋ねてきた。


「プレゼント用でしょうか?」


そう聞かれて一瞬迷ったが、結局は自宅用として購入することにした。

あくまで自宅でコーヒーを楽しんでもらうためのものなので、一度洗って、使える状態にしておこうと考えたのだ。

僕は自宅用であるにもかかわらず、丁寧に梱包され、上品な紙袋に入れられたコーヒーカップを受け取ると、店を後にした。



翌朝のノートの内容はもちろんカップのことを書いた。

"よく来てくださるようなので、あなた専用のコーヒーカップをご用意してみました。是非ご利用ください"

そうして、梱包を解いて洗ったカップをマシンの横に置き、上から新しい布巾をかけてすぐに使ってもらえるように準備をしてから家を出た。

その日の夜、いつも通りに家に戻ると、

"ありがとうございます。コーヒーカップ、使わせていただきました"

と、ノートに書かれていた。

コーヒーメーカーの横に用意していたカップは、洗って食器乾燥機の中に入っていた。彼女が使った後に洗って乾燥機に入れておいてくれたのだろう。僕は彼女との距離を縮められた気がして嬉しかった。



彼女専用のカップを用意した翌日。

"コーヒーカップのお礼です。私の好みですがコーヒーによく合うお菓子なので、ぜひ召し上がってください"

コーヒーメーカーの置かれている棚に、見慣れない小さな紙袋が置かれていた。

中を開けると、どうやらお菓子のようだ。

そしてすぐに、これがノートに書かれているお菓子だと理解した。

このお菓子はコーヒーと一緒に食べるべきものと判断、さすがに深夜、帰ってからコーヒーを入れてお菓子を食べる気分にはなれなかったこともあり、翌朝の朝食としていただくことにした。



お菓子をもらった翌朝、お菓子の箱を開けると、中にはマフィンがふたつ入っていた。

常温で置いておけるように焼き菓子をチョイスするところに、彼女の心遣いが感じられた。

僕はいつもの朝と同じようにコーヒーを入れて、普段食べているトーストの代わりにマフィンをいただくことにした。

"お菓子ありがとうございます。コーヒーと一緒にいただきました。香りがよくしっとりとしていて、とてもおいしかったです"

食べながらノートにお礼を書き、僕は仕事へと向かった。

"お口に合ってよかったです。好みが一緒で嬉しいです"

帰ってからノートを開くと、すでに彼女の返事が届いていた。

僕はいつも帰りが遅いので、彼女に会うことはない。

けれど食器は洗ってあるにもかかわらず乾いているのだから、彼女はきっと僕に会わないよう、できるだけ早い時間にここに来ているのだろうと察した。

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