バーとコーヒー
そんな店員とのやり取りを聞いていた女性が、僕に声をかけてきた。
声をかけてきたのは、この会に参加している大人しい印象の女性だった。
「あの、コーヒー、お好きなんですか?」
「そうですね」
僕が答えると、自分のコーヒーを持って僕の近くまで移動してきた。
「コーヒーの種類やメーカーまでわかるなんで、よっぽどお好きなんですね」
立ったままそういった彼女に、僕は隣の席を促した。
「失礼します」
彼女はそう言って躊躇うことなく僕の隣に腰を下ろした。
それから僕はコーヒーを飲みながら、コーヒーの種類がわかった理由などを説明した。
確かにコーヒーはよく飲んでいるし、こよなく愛しているが、決して利きコーヒーができるわけではないということも合わせて伝えた。
「私は自分では淹れるのが上手くないので、喫茶店で飲むことが多いんです。雰囲気も含めて楽しむというのもありますが……」
一通り僕の話を聞いた彼女は、僕に向かって微笑みながらそう言った。
自宅でこだわってコーヒーを楽しんでいると、外では飲まないという印象になるのだろうか?
僕はそんな素朴な疑問を抱いて彼女に尋ねた。
「喫茶店はゆっくりできる時にはよくいきますよ。やはりプロに淹れてもらったコーヒーはおいしいです。あと、僕が淹れるのが上手なわけではないです。マシンがあれば機械が勝手にやってくれますから」
「ご自宅のコーヒーにもそこまでこだわっていらっしゃるなんて、本当に好きじゃないとできないですよ。しかもお店と同じマシンまで」
少しひねくれた言い方になってしまったと言ってから反省した僕だったが、彼女からは思った以上に嬉しい答えが返ってきた。
そこからはずっとコーヒーのおいしい喫茶店の話や、味の好み、自宅で使っているマシンの話が続いた。
いつの間にか、僕たち二人でずっとコーヒー談義をしていたらしく、同僚に声をかけられるまで、長い時間を過ごしていることに気がつかなかった。
一応席をキープしていた時間が過ぎ、延長も可能ということだったが、翌日は平日なこともあり、僕たちはお店を出ることにした。
こうして、僕の傷心を慰める会と称して行われた合コンは終わり、複数の駅を利用できるバーを出ると、メンバーはバラバラに帰っていくことになった。
全員で二次会という空気はなく、本当に軽い飲み会でその日はお開きとなったのだ。
気晴らしになったという点と、コーヒーの話のできる女性に出会わせてくれた同僚に感謝しながら、各々駅に向かっていく彼らを見送った。
幸い僕はバーから歩いて帰れる距離に住んでいたので、電車には乗らないのだが、さっきコーヒーが好きだといった彼女が利用する駅まで同伴する人がいなかったので、見送ろうと声をかけた。
「一人で大丈夫ですよ、まだそんなに遅い時間でもないですし」
「もう少し話をしたいと思ったので」
遠慮しながら駅に向かう彼女に、僕は珍しく積極的に話しかけると、彼女の後を追って一緒に歩きはじめた。
ほんの数分だったが、彼女と話していると本当に癒された。
僕が一方的にしゃべっていたので、彼女が聞き上手なのかもしれない。
「先ほどのコーヒー、飲んでいきませんか?」
駅の前まできたところで、とんでもない言葉が僕の口をついて出た。
今でもどうして声をかけることができたのかわからない。
普段の僕ならば、こんなことは言わなかっただろう。
「え……」
今思えば、合コンであった男に部屋に誘われたら不安になるのは当たり前なのだが、僕は続けた。
「僕の家、ここから近いんです。正直狭いですし、コーヒー以外何もありませんけど……」
しばらく彼女は黙り込んでいたが、僕に下心がないとわかってくれたのだろう。
「少しだけ、お邪魔してもいいですか?」
という良い返事をもらうことができた。
「はい、ぜひ」
そうして返事をもらった僕は、彼女の少し前を歩きながら自宅に誘導した。
彼女は僕と一定の距離を保ちながら、黙って後をついてきていた。
「どうぞ」
玄関のドアを開けて彼女を先に中に案内して、僕はドアを閉めた。
彼女は玄関先でどこに進んでいいのかわからないといった様子で、僕のほうを振り返った。僕が靴を脱いで先に上がると、彼女も靴を脱いで中に入ってきた。
「適当に座っててください。今、コーヒー入れますから」
僕は彼女にソファーへ座るように促すと、上着を脱いで早速コーヒーを入れる準備を始めた。
好みの豆をセットしてから、スイッチを入れて待つだけ。
これでおいしいコーヒーが飲めるのだから、最近の機械は本当にすばらしい。
僕は慣れない手つきでお客様用のコーヒーセットを準備し、そこにコーヒーを落とした。
機械で入れているにもかかわらず、挽きたてのような良い香りが部屋に広がる。
自分の分のコーヒーも用意してから、慣れない手つきで彼女の前にコーヒーを出した。
自分の分は彼女の斜め前くらい、やや距離が離れたところにおくことにした。
僕はコーヒーに砂糖やミルクを使わないが、彼女がどうするかわからないので、お客さまように用意しているスティックの砂糖とポーションミルクをとりにキッチンへ戻ろうとすると、彼女に引き止められた。
「あ、私もお砂糖やミルクを使わないので……」
僕がブラックしか飲まない話をしただろうか?
そんなことが頭をよぎったが、そんな話をした覚えはなかった。
もしかしたら、バーでコーヒーを受け取ってからすぐに店員を呼び止め、コーヒー談義をしていたので彼女の様子は見ていなかったが、彼女はその様子を初めから見ていたのかもしれない。
私もという言葉は、僕と彼女の好みが一緒だと言われたようで、舞い上がりそうな気分だ。
僕はコーヒーを置いたすぐそばの椅子に腰を下ろした。
「とてもいい香りがしますね。豆のいい香りがお部屋に広がって、それだけでも幸せな気分になりました」
コーヒーに口をつけて、彼女は感嘆の声を上げた。
「マシンの使い方ですが、機械にこのように専用の豆をセットしてボタンを押すだけです。豆の種類は結構豊富ですが、今お出ししたのは、このコーヒー豆の標準になるものです。これが一番安心して飲めますが、重いものや軽いもの、カフェインレスなどもあるんですよ」
僕はいつになく饒舌になっていた。
彼女はコーヒーに口をつけながら黙って僕の話を聞いていた。一方的に話をしていたことに気がついて、一度話をまとめて彼女の様子をうかがった。
「そうなんですね」
僕が言葉を着ると、彼女は笑顔でそう返した。
そして続けて
「でも、この機械、お値段が高いですよね?」
と続けた。
「確かに、他の機械に比べたら高額かもしれないですが……」
高額……といえばそうかもしれないが、年に一度のメンテナンスがついているのでそれほど感じていなかったので、そのことも合わせて伝える。
「長く使うことを考えたら、いいかもしれませんね」
僕の説明を聞いて彼女は納得したようだった。
僕は販売員ではないので、良さをアピールしたものの、ぜひ購入をということは言わなかった。
その代わりに出てきた言葉が、これまた僕らしくない軽い言葉で、後に振り返っても、もう二度と発しないだろうと思うものだった。
「あの、もし良かったら、これからもコーヒーを飲みにきませんか?」
「でも……」
困惑した彼女は、言葉を詰まらせ、持っていたカップをソーサーの上に戻す。
女性からすれば初対面の男の部屋に、コーヒーを飲むためにあがりこむというのは、かなり勇気のいることだっただろう。
そこで、また来てくださいというお誘いを受けても、すぐに色よい返事をもらえるわけはないのだが、そんな彼女に、気が付けば僕はさらにアプローチをかけていた。
「お口に合いませんでしたか?まだ他にも種類がありますので試していただいてもいいですよ?」
「いいえ、とてもおいしいです」
別のコーヒーを入れてこようと席を立とうとすると、彼女は僕を止めるかのようにそう言った。
「季節の変わり目に限定のフレーバーも出ますし、ぜひコーヒーが好きなあなたに飲んでいただきたいと思ったのですが……」
この言葉は本心からだった。コーヒーをじっくり味わって、その香りや味の違いを話せる仲間がほしいというくらいの気持ちから出たものだ。
僕のアプローチをどう捉えたのかわからないが、彼女はすっかり黙り込んでしまった。
「僕の周りにはコーヒーの話をできる人がなかなかいないので、つい、舞い上がってしまいました」
後から考えると合コンで飲んでいた酒が回っていたのかもしれない。
黙りこんでしまった彼女に、僕が正直な気持ちを伝えると、彼女は借りてきた猫のように縮こまった。
「そうだったんですね。私もここまでお話できる方は周りにいないので、びっくりしています」
彼女の気遣いなのか、驚いているだけだと彼女は言った。
けれど僕は話を理解してくれる相手が目の前にいることが嬉しくて、現在自宅に用意しているコーヒーの種類や、豆の保管されているケースなどを持ち出して、さらに説明を続けた。
この時、表面には出ていなかったかもしれないが、僕は完全に舞い上がってしまっていた。だから上着のポケットに入ったままのものを思い出し、テーブルに置いて言った。
「あなたさえ嫌じゃなければ、これを受け取ってください」
「これは?」
目の前に差し出された鍵を見ながら、彼女は聞き返した。
これは前の彼女から別れ際に渡されたこの家の鍵。
返された合鍵を僕はとっさにテーブルに置いたのだ。
「この家の鍵です」
「それは……」
さすがに驚いた表情のまま、彼女が固まっている。
「僕がいない時に、あなたがコーヒーを飲んで幸せな気分になってくれたらと思いまして」
すかさず僕が言うと、ますます意味がわからないといった様子で聞き返してきた。
「いない時ですか?」
「正直どちらでもかまいませんが、喫茶店の代わりに一人でコーヒーを飲みたいと思ったら利用してください。この家を訪ねてくる人はいませんので」
このままでは埒が明かないと思ったのだろう。
彼女はおそらく僕の酔いが醒めたら返してくれと連絡が来るだろうし、自分が引けばこの話は終わると考えたようで、彼女は目の前に置かれた鍵をバッグの中にしまった。
「……わかりました。できるだけ、いない時にうかがいますね。えっと、私、そろそろ」
そう言われてカップを見ると、すでに彼女はコーヒーを飲み終えていた。
時計を確認すると、家についてからそんなに長い時間は過ぎていなかったが、飲み会の後に始まったコーヒータイムなので、それなりに遅い時間になっていた。
「そうですね。遅いので駅まで送ります」
僕は上着を持って立ち上がる彼女と一緒に立ち上がり、僕自身も自分の上着を手に、彼女と一緒に家を出た。
「今日はありがとうございました」
駅の前に到着すると、彼女は深く頭を下げてから、改札を抜けていった。
彼女の後姿が見えなくなるまで見送ってから僕も家路についた。
名前しか知らない、一度会っただけの女性に家の鍵を渡すなんて、後から考えると、僕の心は自分の予想を大きく上回るくらい深く失恋の傷を受けていたのかもしれない。