7 ー翔弥ー
島田はちょっと上目遣いに翔弥を見ながら、コーヒーを一口飲んだ。
「何人かの力のある魔道師たちは、あなたが最初に過去を変えた時から気が付いていたようよ。もちろん、敵もね。」
敵? 敵だって?・・・・
「これはね、魔法陣なの。ヨーロッパの由緒ある魔導師の家に代々伝わる古文書の中にあったもの。それのコピー。この世界を救う『銀のドラゴン』を呼び出す——と言われている魔法陣なの。」
「魔法陣・・・?」
ひょっとしてまだ夢の中なのだろうか?
翔弥は手の平でテーブルの裏面をこすってみた。ザラザラとした質感がリアルに手の平に伝わってきた。
「そう。遥か古代から伝わっている魔法陣。」
島田は目を据えて翔弥の目を覗き込んだ。
「あなたが今考えているビオトープがこれなら、あなたがそうなんだわ。だから老師は昨夜、緊急の指令を送ってきたのよ。覚醒していないあなたを守るために。だってあなたは今、ビオトープという億万の生命の連鎖でこの魔法陣を作ろうとしている。これって凄いことだわ! 敵が焦って、あんな杜撰で幼稚な攻撃を仕掛けてくるはずだわ。」
島田は少し頬を紅潮させている。その瞳の奥には憧憬に似た色が見えた。
「ちょ・・・ちょっと待ってください。オレはただ・・・」
「ええ、そうかもね。——あなたはただ生態系工学に基づいて、市内の遊休地を選定しながらこの形を作った。覚醒していない表層意識はそうでも、あなたの潜在意識はすでに覚醒しているの。——あなたの行動は、すでにその潜在意識によって導かれているはずよ!」
新手の新興宗教だろうか? と、翔弥の中に一抹の疑惑が持ち上がった。
さっきのだって、自分で押しておいて止められるような仕掛けを施した手品だったとも考えられるんじゃないか?
だが、そんな翔弥の目の中に現れたであろう不信感には一切頓着せず、島田は頬を紅潮させたまま続けた。
「あなたは、わたしたち白の魔導士の間に伝わる『伝説の魔導師』——銀のドラゴンを呼び出す魔導師なのよ。きっとそう!」
島田はもう一度、手の平を翔弥に向けた。
「この竜の紋章は、白の魔導士にしか見えない。あなたはこれを見た! あなたにもあるでしょう? これと同じものが。」
翔弥は手の平に汗がにじんできた。この島田という女性の目は、どう見ても嘘を言っているようには見えない。
それに、荒唐無稽と言うなら、そもそも、夢で変わった今現在の翔弥の状況こそがそうではないか。
島田は、一つ大きく息をついた。
「そうでなければ、老師が私たちに、あなたとあなたの家族の警護を命じるはずがないもの。」
「警護・・・?」
「ええ。2回目のジャンプ——つまり、あなたが2回目に過去を変えた直後に、老師から私たちに指令が下った。守護人になれ、と。あなたの能力が覚醒するまで、どんな犠牲を払ってもあなたを護れ——と。」
翔弥は口の中が乾いてしまっていることに気づいた。コーヒーを飲んでみたが、それはあまり役には立たなかった。
それは、翔弥がこれまで「現実」と考えてきた世界の基準が音を立てるようにして回り出したからなのかもしれない。
何かを「現実」と呼ぶ基準そのものが、崩れるようにして入れ替わっていく。それでいて、不思議と恐怖心は湧いてこない。
現実感がないから、というわけではなさそうだ。それよりも翔弥の内部に、それまでとは何か違うものが少しづつ頭をもたげ始めているような感覚だった。
「あなたの紋章は、どこにあるの?」
翔弥は答えようとしたが、声がすぐには出ず、黙って二の腕を押さえて見せた。
「そう・・・。」
と、島田は少し失望の色を見せた。
「伝説では・・・、銀のドラゴンを呼び出す魔導師は、背中に紋章があるはずなんだけど・・・。」
翔弥は唇を舐めた。ようやくその喉にかすれながらも声が戻ってきた。
「買いかぶりですよ。・・・・僕が、そんな凄いものであるはずがない・・・。」
翔弥はこれまでの自分の半生を振り返ってみた。
栴檀は双葉から芳し——と言うではないか。翔弥のこれまでの、どこにそんな芳香があると言うのか。
「でも、あなたが重要な役割を果たす魔導士であることに変わりはないわ。・・・でなければ、老師が私たちに、あれほど急にあなたの警護を命ずるはずがない。第一、あなたはこの市に、誰も考えもしなかったような方法で魔法陣を作っている。実際、さっき敵にも襲われたしね。」
そうだった。さっき殺されかけたんだ。あれが『手品』でないなら・・・。
「さっきから言ってる『敵』って、何なんです? それに『老師』って・・・」
「老師というのは、私たちを導いてくださっているコーウェル老師——イングランドで代々続く位階の高い白の魔導師よ。敵は『黒の魔女』って呼ばれててね。300年くらい前に顕現したらしいんだけど・・・実体はよく分かっていない。人の姿をしているんだか、そうじゃないんだか・・・。
今はニューヨークの何処かに巣食っていて、政界や財界の大物を操りながら、世界を破滅に導こうとしている。産業革命を起こして、温暖化という毒を人類文明に仕込んだのは、そいつだって言われているわ。」
「え?・・・ちょっと・・・。産業革命が魔女の仕業?」
翔弥にとって「産業革命」などという言葉は、教科書で習っただけの遠い歴史の言葉でしかない。
「私たち白の魔導士は、2千年以上にわたって『黒の魔女』を崇拝する黒の魔導士たちと戦い続けている組織なの。」
翔弥の周りから『日常』というものが急速に蒸発し始めていた。
たしかに翔弥は今、重なった記憶を3つ持っている。そのこと自体、すでに異常なのだが、それでもその記憶の中にはこんな途方もない話の片鱗などどこにもなかった。
ありふれた『日常』だけが、春の道端の雑草のように根を張っているだけだったのだ。——ほんの昨日までは・・・。
時間的にも空間的にも、翔弥のスケールを超えていた。島田の話が、自分と関係のある話に聞こえなかった。
どこか他人事で、物語でも聞いているような気分になりかかっていたとき、それを現実に引き戻したのは、ついさっき自分の身に起こった『事件』に島田が触れたからだった。
「さっき、あなたを突き飛ばしたのは、たぶん黒の魔導士に操られただけの通りすがりのサラリーマンか何かよ。追いかけて捕まえてみたところで、自分がなぜそんなことをしたのかさえよく覚えていないと思うわ。」
翔弥の足元から、ようやく現実的な恐怖感が、じわりと絡みつくように這い上がり始めた。
何かの間違いじゃないのか? オレはそんな大それた者じゃ・・・。