3 ー翔弥ー
翌日も、その翌日も、翔弥はこの新しい環境での生活をおくった。『夢』が覚める、ということはなかった。路地も見つからなかった。
翔弥は次第に、あの不思議なバーのマスターが言ったことは本当だったのかもしれない、と思うようになっていった。
あの小さなバー『刻の舎』で見た夢の中で、翔弥は過去を変え、現在を変えることに成功したのだろうか。
1週間後には、翔弥の作った企画書が、政府の外郭法人の企画会議で最終候補に残った——という情報が伝えられた。近々、会議に呼び出されて、翔弥自身が実質的なプレゼンをすることになるらしい。
「よろしく頼むよ。」
上司は、言葉だけは上から目線でプライドを保とうとしながら、表情は媚びていた。元請け会社に対するこの会社の「発言力」は、つまりは翔弥の肩にかかっていると言っていい状況だからだ。
「あれ、できたらスゴイですよね!」
いつもコーヒーを入れてくれる女性事務員——平井美希子が目を輝かせて話しかけた。明らかに「人の関係」が変わってしまっている。
翔弥の中で、あの平社員だった頃の記憶が次第に影を薄くしていった。ひょっとしたら、あちらの方が夢だったのではないだろうか・・・。
翔弥がふと、そんなふうに感じ始めた頃、企画がボツになった——という情報が入った。
なぜボツになったか、ということに関しては、これといった理由が全く聞こえてこない。
それまで各方面からさざめくように聞こえてきた称賛の言葉が不意に消え、ただ「ボツになったらしい」という情報を境に、何の情報も入ってこなくなった。
まるで無音室にでも入れられたように、この件に関する情報が聞こえなくなってしまったのだ。
あの嫌な上司が、何か国家の重大事でも話すような勿体つけた表情で、彼の耳の近くに顔を寄せ、声をひそめて言った。
「オレが探ってみたところだとな、どうも本庁の方から横槍が入ったらしい。おまえ、何か本庁の人間の恨みでも買うようなことしたのか?」
上司の声に、どこか嬉しそうな響きがあったことが、翔弥の心をさらにヘコませた。
本庁の人間とはたしかに何度か会ったことはある。
企画のプレゼンの時とか、ビオトープの建設現場とかだが、プレゼンの時には個人的な話をするほど濃厚な接触はないし、現場で打ち合わせた人は「決定」に影響を及ぼすような上の人ではない。
それに、現場で会った人とはとても良好な関係だった。今回の企画案が候補に残った時も「また一緒にやれるのが楽しみです」というメールを送ってくれたほどだったのだから。
それらが、一斉にぱたっと止まってしまったのだ。
いったい何が起こったのだろう?
今回の企画は、この都市に作るビオトープを一気に増やし、さらにそれを緑のライン(細長いビオトープと言っていい)でつなげて、都市内に里山機能を持たせて生物多様性を確保する——という画期的なものだった。
しかも、都市の中の遊休地や公有地を徹底的に調べ上げて綿密に計画を作成してある。そのため、予算さえ付けば即実行可能、という企画案だった。
翔弥も自信があったし、期待もしていた。
それがあっさり、理由も不明確なままボツにされてしまったのだ。
訳がわからないまま、翔弥はただ失望するしかなかった。所詮、孫請け会社の社員である彼に、これ以上何かができるわけではない。
その日、翔弥は定時で引けた。
虚脱感が翔弥を掴まえて放さず、帰路につく足取りも重い。
どこかで一杯やってから帰るかな・・・。早く帰ったところで、独身の彼には迎えてくれる家族がいるわけでも、慰めてくれる人がいるわけでもないのだ。
アスファルトに映る自分の影からふと目を上げて脇を見ると、あの路地があった。
奥に暖かそうな灯り——。
翔弥はふらふらと吸い寄せられるように、そのドアの前に立った。ドラゴンの飾りの付いたドア。温もりのあるステンドグラス・・・。
からん、と音を立てて中に入った。
「いらっしゃい。」
髭の老マスターがグラスを拭いていた。他に客はいない。
「何をお望みで?」
「前にもそう聞きましたよね、マスター?」
翔弥はカウンターに座りながら言った。老人は慈愛に満ちた目で翔弥を見ている。
「注文・・・って、言いませんでしたよね?」
翔弥もまた、顔を上げてマスターを見つめた。
「いくつも、聞きたいことがあるんだけど・・・・聞いてもいいかな?」
老人は返事の代わりに微かに微笑んだ。
だが、実際に何かを聞こうと思うと、翔弥は頭の中が混乱した。疑問はいっぱいある。しかし、何からどう聞いていいのかが分からない。
ここに入ってくる路地は、あれほど探しても見つけられなかった。それなのに今、これほどすんなり入ってきたこの路地は、いったいどこにあったのだろう?
翔弥は、頭の中の記憶に目をこらすようにして、その膨大な宇宙にも似た空間をサーチしてみたが、どうしても入り口の風景を探し出すことができない。
たった今、入ってきたばかりだというのに。
「これは、まだ夢なんですか?」
最初の質問を発してから、翔弥は我ながら間の抜けたことを言ったと思った。確かめるなら、一度外へ出て路地の入り口まで行ってみればいいだけのことではないか。
しかし、なぜか一度出たらもうこの店には戻って来られないような気がして、翔弥は行動をためらった。
その結果の質問だった。
「これは現実でございますよ。」
老マスターはグラスを拭く手を止めた。老人は翔弥の質問の意味を、十分に理解しているようだった。
「先回のご説明が少し足りませんでしたかな。私が作ってさしあげたのは、過去を夢見るカクテルでございます。その夢の中で、過去を変えることができるのでございます。その過去は、新しい現在へとつながるのでございます。
誰にでも変えてみたい過去があるものでございましょう? あの時こうすればよかった、もっとこうしておけばよかった・・・・。」
老人は穏やかな表情で翔弥を見たまま、グラスを置き、続けた。
「そして、あなたは夢の中で過去を変えられました。・・・現在はいかがです?」
「変わった・・・」
翔弥はカウンターに肘を置いたまま、呆けたような顔でつぶやいた。
「あのあと、何度も探したんです。この店を・・・。でも、見つからなかった。」
「この店には特別なお客さまだけしか来られません。・・・過去を変えたいと望まれる、そしてその必要のある・・・・。
そういうお客さまだけに、この路地は見えるのでございます。今日、あなたはそれを必要とされたということでございます。」
「ちょっと待ってください。僕は別に、過去を変えたいなんて望んだわけじゃない。ただ、疲れて一杯やりたかっただけですよ?」
老人はそれには答えず、黙ってカクテルを作り始めていた。
では、翔弥の中に変えたい過去はないのか、と問われれば、それは数え切れないほどあるだろう。
あれも、これも、後悔だらけだと言ってもいい。
老人はやがて、炭酸の泡がグラスの中できらきらと輝く淡いピンク色のカクテルを翔弥の前に置いた。
「どうぞ。お試しください。」
少し躊躇したあと、翔弥はそのグラスに手を伸ばした。それから、つとマスターを見上げて聞いた。
「これは、どの過去を変えられるカクテルなんです?」
「それは、あなたさま次第でございます。」