2 ー翔弥ー
次の日、翔弥はいつもどおり会社に出社した。
事務所のドアを開けると、あのいけ好かない上司が媚びるような笑顔とともに翔弥のところに飛んできた。抱きつかんばかりの勢いである。
「いや、机の上の企画書は見せてもらったよ。相変わらず素晴らしい! よく昨日中にまとめてくれたね。これで上の連中も喜ぶよ。私も鼻が高い。——今日はもう、ゆっくり休んでくれて構わないからね。・・・そー、それともなにかい? またいつものように情報収拾に外へ出るのかい?」
「はあ・・・?」
「竜崎課長、いつものコーヒーでいいですか?」
事務の女性職員がきらきらした目を翔弥に向けて聞いてきた。
(何がどうなってるんだ?)
いつものコーヒーだって? いつもは「お茶くらい自分で入れれば?」とか言ってるくせに・・・。それにオレが「課長」?
んでもって、この上司の媚びた態度はなに?
翔弥は自分の両手の平を見た。
そして。
手首にタトゥーを発見した。
(え? どういうこと? ・・・・あ、そうか。まだ夢の続きか・・・)
この夢の中ではどうやら翔弥は次々に新しい企画を提案しているようで、社内でもかなり重要な立場にいるらしい。役職も「課長」になっている。
願望が夢になっているってことか・・・。
そう思うと、我ながらちょっと情けない気もするが、(でもまあ、せっかくの気分いい夢なんだから、楽しむか)とポジティブに思うことにした。
どうせ夢なんだ。何をしたっていいだろう。
「じゃあ、ちょっと出かけてきます。」
翔弥は会社の外へ出た。事務所の中は息が詰まる。
それにしてもリアルな夢だな、と翔弥は思った。日差しは頬に暖かいし、行き交う車の排気ガスの臭いまでする。
いや、待てよ。
と、翔弥は立ち止まった。
リアルに記憶がある。『この世界』での昨日までの記憶が、鮮明にあるのだ。どんな企画を出し、何が採用されて何が実現したか。
今朝の企画書の内容も、それを考えた過程もすべて鮮明に思い出せた。ふつう夢の場合、こういう前後関係はぼけていたり、不条理だったりするものだ。
学生時代の記憶もしっかりしている。会社に入った時のことも・・・。
ただ、昨日バーで夢に見た(今も夢かもしれないのだが)あの一件以来の記憶が食い違っている。——というより、ダブっているのだ。
昨日までの、冴えない平社員としての翔弥の記憶と、次々に企画を成功させ、課長にまで出世した今日の翔弥の記憶・・・。どちらも同じくらいのリアリティを持って翔弥の頭の中にあった。
翔弥はもう一度、手を見た。手首にドラゴンのタトゥーがある。
その脇の皮膚をつねってみた。・・・・痛い。
(もっともこういう確かめ方はアテにならない、って何かの本で読んだっけ・・・)
だが、もしこれが夢でないのだとしたら・・・・。
昨日、あの爺さんは何て言った?
過去を修正できる夢——って言わなかったか?
すると、これは修正された過去によってもたらされた「修正された」現在?
翔弥はきびすを返して歩き出した。
(たしか、この辺だった・・・。)
昨日の店を探そうと思ったのだが、どこをどう歩いてもあの路地が見つからない。
おかしい・・・。会社を出てちょっとだったはずだ。駅と反対方向に歩いたとは思えないが、一応そっちへも行ってみた。
だが、考えられる半径の中には、そんな路地は全く見つからなかった。
翔弥は別の場所に行ってみることにした。
そこには、翔弥の提案でこの街に作られた都市内ビオトープがあるはずだった。今の『記憶』が現実だとするならば・・・だ。
早足で歩いてビルの角を曲がると・・・、緑のオアシスが現れた。
あった!
ビオトープだ。
翔弥が企画、設計した。その時の仕事の細部、一緒に働いた本庁の職員の顔まで、ありありと思い出せる。
翔弥は片手で口のあたりを押さえた。
間違いなく、今が現実だ——。と思う他ない。
その日、翔弥は一日中、街をほっつき歩いた。翔弥が企画したビオトープは、3つとも、ちゃんと企画した場所に実際にあった。
夕方、頭を混乱させたまま会社に戻ると、「お疲れ様でーす!」という同僚たちの声に迎えられた。
会社のホープ——という雰囲気だ。
皆の期待がひしひしと伝わってくる。昨日までは、いてもいなくてもどっちでもいいような社員だった彼に——だ。
もっとも、この扱いを受けるに相応しいだけの仕事をやり遂げてきた記憶も、今は確かに彼の頭の中にあった。そして、その実績も今日一日その目で見てきた。
・・・・・・・。
その日会社を引けたあと、翔弥はもう一度あの路地を探してみたが、やはり見つからなかった。
手首を見れば、そこには変わらずドラゴンのタトゥーがある。
このタトゥーを入れた記憶だけがない。
これは、あの店のドアにあった飾りのドラゴンだ。このドラゴンだけが、翔弥の重複した2つの『記憶』の中で、昨日の夜から初めて登場している。
翔弥は自宅マンションまで帰り着くと、共用の入り口でセキュリティセンサーにカードをかざした。なにげなくホールに入ってから、翔弥はまた、はたと立ち止まった。
(オレはこんな高級マンションに住んでいたか?)
昨日までは中古の安マンションだったはずだ。もちろん、セキュリティなんか付いてもいない。
だが、彼の頭の中には並列して、2年前このマンションに引っ越してきた『記憶』が鮮明にあった。
どちらが現実なのか?
翔弥は混乱したまま、部屋に入った。
玄関のキーナンバーもちゃんと知っていた。
部屋には、高級なデザイナーズファニチャーと作家モノの照明器具が、おしゃれに置いてあった。