1 ー翔弥ー
竜崎翔弥は、まもなく三十路になろうとする冴えない独身男だ。今日もまた残業で最後になった。
月の残業上限はとっくに過ぎてしまったので、先にタイムカードを押してから今日中にやらねばならない仕事を片付けた。
つまりはサービス残業だ。上層部にバレると問題になるのだろうが、そのあたり、この会社は杜撰なものだからバレることもあるまい。
課長は知っているが、人手も足りないので見て見ぬふりをしている。
事務所の照明を消して廊下に出ると、入り口のドアのカギをかけた。エレベーターを降りて、守衛室の前まで足を引きずるようにして歩く。
初老の守衛が眠そうな目で、翔弥をちらと見てカギを受け取り、
「お疲れさま。」と抑揚のない声で言った。
たいした仕事をしているわけじゃあない。くだらない書類をまとめるだけのことだ。それをやったからといって世の中がどうなる訳でもない。会社の業績が伸びる訳でもない。
ただ、明日の朝、上司に提出しなければならないというだけのことだ。
(オレは他人より能力が無いのかな・・・)
いや、それ以上にやっている仕事のくだらなさにモチベーションが下がる影響の方が大きいのかもしれない。
政府系の外郭法人の仕事の孫請けだから、仕事がなくなるという心配はない。そのかわり、やっている仕事にたいして意味があるとも思えない。
とりあえず体裁を整えて、上の人間の機嫌さえ損ねなければ何事もなく回ってゆく、というだけの仕事だ。
(オレは何をやっているんだろう?)
転職も考えたが、時期が悪い。それに、翔弥のような無名大学卒がもらえる給料としては悪くないのだ。今のような時期、転職すれば確実に収入は減る。利口な選択とは言えない。
オフィス街である街は、すでに閑散としていた。街路灯の白い光が、ひどく冷たく翔弥の影をアスファルトに映し出している。
一杯ひっかけてから帰りたい、と思った。
ふと脇を見ると路地がある。
(こんなとこに路地があったかな?)
路地の奥に灯りが見えた。
暖かそうな灯りに誘われるように、翔弥はふらふらと路地に入った。
『刻の舎』という小さな看板がかかっている。小ぢんまりしたバーのようだった。窓のステンドグラスからやわらかな光がこぼれている。入口のドアには時代がかったドラゴンの飾りが付いていた。
(落ち着けそうな店だな)
翔弥は重いドアを押した。からん、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃい。」
カウンターの向こうで、マスターらしい爺さんがグラスを拭きながら言った。白髪混じりの豊かな頰髯を生やしている。目の優しい、静かな雰囲気の老人だ。
他に客は誰もいなかった。
店は狭く、明かりは暗めだが、どこか懐かしい感じのする心地よい空間だった。
いい場所を見つけたな、と思った。会社帰りに気持ちを休めるにはちょうどいい店だ。
(だけど、こんなに客がいなくてやっていけるんだろうか?)
翔弥は余計な心配をしながらカウンターに座った。
「何をお望みで?」
頰髯の爺さんが、やわらかな声で聞く。
「あ、・・・適当に1杯作ってください。」
別にこれといって飲みたい酒があるわけでもなかったので、翔弥は何気なくそう言った。
出てきたカクテルは淡いブルーのきれいな色をしたものだった。翔弥はカクテルの名前などはほとんど知らないが、別に尋ねることもせず、それを一口飲んだ。
いきなり、くらっときた。
口に含んだときはそんな強い酒の感じがしなかったのに、喉を通したとたん、あたりの景色がぐるりと回って翔弥は意識を失った。
ふと気がつくと、翔弥は会社の自分のデスクに座っていた。
目の前には、これから上司のところに持ってゆく企画書がある。見覚えのある状況だ。
(ああ、夢か・・・)
と翔弥は思った。
新入社員の頃の夢だ。翔弥はこれからこの企画書を持って上司のところに行く。そして、一蹴されるのである。
(なんでこんな夢を見るのかな・・・)
翔弥は書類をそろえながら思った。あの時、上司の一言に尻込みせず、もっと強く押していればよかったな。あれは良い企画だったんだ。そんな後悔がこんな夢を見させるのかもしれない・・・。
それにしても、ひどくリアルな夢だ。細部まであの時のままだ。
翔弥は書類の束を持ち上げようとして、ふと手を止めた。左手首に小さなドラゴンのタトゥーがある。
やっぱ、夢だ。こんなタトゥーを入れた覚えはない。
(はは・・・店のドアのドラゴンが、夢の中でこんな形で出てきやがった。)
翔弥は書類を持って上司のところに行った。
あの時と同じで、上司は企画書をろくに見もせず、一蹴した。
だが、今度は翔弥は喰い下がった。
(どうせ夢だ。納得のゆくまでやってやろう。そうすれば目が覚めたとき、少しはストレス解消になってるかも・・・)
30分くらいの押し問答の末、ついに上司はしょうがないヤツだな——という顔で折れた。
「まあ、その、なんだ・・・・。いい企画だとは思うよ、オレも。」
上司は翔弥の作った企画書に目を落としながら言った。
「だけど通らなくてもオレを恨むなよ。上の連中は頭が硬いんだよ・・・。わかるだろ?」
翔弥は目が覚めた。
カウンターに突っ伏していた。
「いい夢をごらんになりましたか?」
マスターの爺さんがグラスを拭きながら、やわらかな声で言った。
「オレは・・・、そんなにしまりのない顔をして寝てましたか?」
翔弥はちょっと恥ずかしくなった。カクテル1杯で昏倒した上に、だらしない寝顔を見られたんじゃ・・・。
「いえいえ、これはね、夢を作り出すカクテルなんですよ。」
マスターは翔弥のバツの悪そうな顔を見て、ファンタジーの話にすり替えてくれているのだろう。
「へえ・・・」と、翔弥も話を合わせた。どのみち、ここには2人だけしかいない。
マスターは穏やかに、しかし、かすかに意味ありげに微笑んだ。
「過去に行けましたでしょう?」
この小説は10年ほど前に拙く書かれたものをリメイクして、2年半ほど前からアメーバブログで連載したものです。
https://ameblo.jp/mm21s-b/theme3-10111864311.html
この本編の他に、外伝2編と古代編が用意されています。
本編終了後、引き続き連載していこうと思っていますので、よろしくご贔屓を。