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1.時を巻き戻った王太子

「スティーナ嬢と婚約なさらないのですか?」

 執務室の窓から切なそうに外を眺めている王太子に、側に控えていた護衛騎士のアーペリが尋ねた。アーペリの位置からも庭を歩いているオラスマー伯爵の娘スティーナの姿が確認できる。彼女は王女カトリーナの友人としてお茶会に参加するために王城にやってきたのだ。

 王太子がスティーナのことを好ましく思っていることは、常に側にいるアーペリだけではなく王城に仕える者たちのほとんどが知っている。

 そして、王太子に出会うと頬を染めて嬉しそうに微笑むスティーナもまた、王太子のことを憎からず思っていることは明らかであった。


 十二歳の時に二歳年下の王女の友人として選ばれたスティーナは、父親の爵位こそ高くはないが、将来の王妃となるに相応しい資質を備えていると皆は思っている。それなのに、王太子との婚約は進んでいない。

 四年前、十八歳で結婚したアーペリの妻は現在第二子を妊娠中である。現在十九歳のスティーナは既に結婚していてもおかしくない年齢なのだ。しかし、彼女には婚約者さえいない。それは王太子のことを待っているのではないかとアーペリは考えている。


「私がスティーナと結ばれることはない」

 唸るように王太子がそんなことを口にした。執務机の上で強く握りしめた右手が細かく震えている。彼の言葉が本意ではないことは容易に伺い知れた。

「私には何も問題がないように思われますが。そうお考えになる理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 二人の恋を阻むものなどないとアーペリは思っていた。王太子が望めばすぐに婚約が調うだろうと。


「私には先読みの力があると皆は思っている」

 しばらくの時間躊躇った後、王太子は訥々(とつとつ)と話し始めた。

「はい。殿下のお力により、あらかじめ災害や疫病、隣国からの襲撃に備えることができ、多くの命が救われました。私と弟がこうして生きているのも殿下のおかげです。感謝してもしきれません」

 アーペリの弟オリヴェルは父親である騎士団長も認める剣の才を持つ騎士である。しかし、王太子の予言がなければ、彼は三年前に夜盗討伐に赴いた先で川の氾濫に巻き込まれて命を落とすはずだった。どれほど強くても天災には抗えない。

 そして、優秀な弟を失ったアーペリもまた、隣国の兵士が侵攻してきた際に戦死する運命だったのだ。しかし、オリヴェルが無事だったことで、隣国を易々と退けることができ、二人とも無事にこうして生きている。


「本当は、私に先読みの力などない。ただ、二度目の生を授かっただけだ。かつて私は愚かな行いによってこの国を滅亡に導いた。神はそんな私にやり直す機会を与えてくださったのだ」

 まるで懺悔のような王太子の告白が続く。それはアーペリには受け入れがたいことであった。誰よりも思慮深く聡明な王太子が愚かな行いをして国を亡ぼすなどあり得ない。しかし、王太子の真剣な表情から、冗談である可能性はないと判断したアーペリは、黙って王太子を見つめ続けた。


「アルヴォネン公爵は優秀な宰相であるが、子育てだけは無能だったらしい」

「宰相閣下の嫡男ヴァルト殿は優秀な方だと伺っておりますが。彼が次代の宰相になるのならば、殿下の御代も安泰だと父も申しておりました」

 アーペリは王太子の意図が掴めず、戸惑いながら口を挟んだ。

「確かにヴァルトは優秀な男だ。それは私も知っている。問題は娘のエリーサだ。母親が早くに亡くなり領地で使用人に育てられていたのだが、かなり甘やかされていたらしく信じがたいほどにわがままな性格だった。そんな彼女が十七歳になった時、社交界へデビューするために王都にやってくる。そして、高位貴族のデビュタントを集めた舞踏会で私とダンスを踊り、私を気に入ってしまった」

 王太子はより固く手を握りしめた。あの時、エリーサに見初められなければ、この国を亡ぼすこともなかっただろう。しかし、直接の原因は自分自身なのだと、王太子は己を責め続けた。


「その後、アルヴォネン公爵から私とエリーサとの婚約の打診があり、子爵家出身で後ろ盾が薄い母は公爵家との縁を得るためにその話を受けてしまった。実家の爵位が低いことで母が苦労していたことを知っていたので、私は反対できなかった」

 そしてまた王太子は後悔する。あの時、想う人がいるからとエリーサとの婚約を拒否していれば良かったのだ。確かに公爵家の後ろ盾は得られなかっただろうが、誠実に対応していれば、アルヴォネン公爵やヴァルトが国を見限ることはなかっただろう。


「エリーサとの婚約はすぐに調った。しかし、彼女は公務を疎かにしても自分に構ってくれと要求するような女性だった。婚約者なのだから自分のことだけを考えてほしいと願われ、私は彼女との関係に疲れ果てていた。だから、スティーナに癒しを求めてしまったのだ。もちろん、不適切な関係などない。ただ、王城の庭にある小さな四阿(あずまや)で二人だけのささやかなお茶会を楽しんでいただけだ。だが、エリーサはそれも許さず、突然庭に現れてスティーナを殴りかかろうとした。私はそれを止めようとエリーサを突き飛ばしてしまった。故意ではない。ただ、か弱い女性を止めるにしては力を入れすぎたとは思う。エリーサは吹き飛ぶようにして四阿の柱に頭を強く打ち付けてしまった。それから三日後、一度も目を覚まさないままエリーサは息を引き取った」

 王太子は直立不動の姿勢を崩さないアーペリを見上げた。婚約者の命を奪ってしまい、たった二十五歳で終焉を迎えた一度目の人生。王太子はその辛い記憶を誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

 アーペリは表情を変えることもなく、静かに王太子の話を聞いている。


「当然『他に恋人を作って、邪魔になった婚約者を手にかけたのか!』とアルヴォネン公爵は烈火のごとく私を責めた。そして、宰相を辞し、ヴァルトと共に領地へと引きこもってしまったのだ。そのため政務は混乱を極め、その隙をつき隣国が攻めてきた。優秀な二人の息子を失っていた騎士団長は既に引退しており、副団長が兵を率いて応戦したのが、あっさりと我が国は破れてしまい、私たち王族は断頭台で処刑された」

 あの時の記憶は王太子の瞼に焼き付けられたようだ。今でも目を閉じると、恐怖に泣き叫ぶ妹のカトリーナの姿が鮮明に浮かんでくる。王太子は静かに目を(つむ)り、たった十八年しか生きられなかった王女の姿を偲ぶしかできなかった。


「そして、気がつくと私は十歳の少年に戻っていた。だから、私は知っていたのだ。疫病に効く薬の製法も、災害が起こる時期も、隣国の侵攻も。すべて経験したことだから。しかし、それもあと一年限りだな。今度こそ同じ過ちを犯すことはできない。今生ではエリーサを愛する努力をする。他の女に目を向けるようなことは金輪際しない。それが、彼女を殺し、この国を滅ぼした私の贖罪だ」

「いけません!」

 アーペリは思わず叫んでいた。怪訝そうに王太子が顔を上げる。


「王太子殿下の執務を(ないがし)ろにするような女を王太子妃に据えるなど、とても賛成できません。殿下が苦しむことになるのが目に見えています」

「私だって、エリーサと結婚などしたくない! しかし、国を亡ぼすことは絶対にできない」

 珍しく王太子が声を荒立てた。王族として国のために身を捧げなければならないと、スティーナへの想いを断ち切ろうと決めたのに、アーペリの言葉が心をかき乱す。


「エリーサ嬢を王太子妃に迎えることで滅亡の危機を脱したとしても、殿下の職務を軽んじるような女性が王妃となれば、将来的に国にとって禍難になるに違いありません。せめて殿下のお心を慰めることができる妃をお迎えください。心が消耗した状態では王としての正しき判断が下せるとは思えません」

 いつになく雄弁なアーペリ。幸せな家庭を築いている彼は、年の近い王太子にもそのような結婚をしてほしいと思っていた。

「しかし……」

 国を滅ぼしてしまった記憶はあまりに鮮明で、前世の記憶を思い出して以来ずっと王太子は自らを責め続けていた。エリーサを妃とする以外を選択できると思えない。

「エリーサ嬢にはオリヴェルを当てがいましょう。幸い、弟には婚約者はいません。母は陛下の従姉に当たり、血筋も悪くない。父の持つ侯爵位を弟が継げば、アルヴォネン公爵だって納得するはずです」

「侯爵位は嫡男であるアーペリが継ぐのではないのか?」

 通常ならば爵位は男性長子が継ぐことになる。もちろん、当主が不適切だと判断した場合は次男以下が継ぐ場合もあるが、アーペリが侯爵に相応しくないと王太子はとても思えない。

「我がフルクセル家は歴代の当主が騎士団長を務めてきた武の家門です。そのような家を継ぐのは、英雄と呼ばれた父の剣の才を受け継ぐオリヴェルこそが相応しいでしょう。私は平凡な男ですから」

 アーペリはそう言うが、彼は決して弱くはない。身分だけで王太子の筆頭護衛騎士に選ばれたわけではないのだ。ただ、オリヴェルは武神に愛されてこの世に生を受けたと噂されるほど天分に恵まれている。


「だから、男爵家の娘と結婚したのか?」

 弟に家を継がせるために、あえて後ろ盾のない妻を迎えたのかと王太子は訊いた。

「いいえ。私が一目ぼれし、少々強引にカロラを妻といたしました。私のわがまま故です。それは殿下もご存じでしょう?」

「まあな」

 真意を読ませない微笑みを浮かべているアーペリに、王太子は曖昧な返事を返した。確かに何度も惚気を聞いている。それは愛娘のマリアンネが産まれてから、少々うっとうしいくらいになっていた。


「とにかく、エリーサ嬢のデビューとなる舞踏会、殿下には体調不良で欠席していただきましょう。代わりにオリヴェルを出席させます。命の恩人である殿下のため、全力でエリーサ嬢を篭絡してみせることでしょう」

 剣の訓練に明け暮れる無骨な弟だが、任務ならば必ずやり遂げるだろうとアーペリは期待している。そして、将来侯爵位を継ぐであろう弟にとって、公爵令嬢との結婚は決して悪い話ではないと考えていた。

 この国を救った若き英雄を犠牲にしてもいいものかと、王太子は悩んだ。

「アーペリの家庭を知っているオリヴェルは、わがまま令嬢との政略結婚など嫌なのではないか? 騎士団長も夫人と良好な仲だと聞いているし」

 アーペリの言う通り、エリーサを王妃にすると国が荒れるかもしれないと王太子は不安なるが、それでも、オリヴェルの意向を無視できない。

「とりあえず二人を会わせてみましょう。見目は悪くないが無骨な弟ですので、エリーサ嬢が気に入ってくれるかわかりませんし」

「そうだな」

エリーサとオリヴェルが上手くいくようなら喜ばしい。しかし、その可能性は低いだろうと王太子は感じていた。

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