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浮気を咎めたら「お前の愛が重すぎる」と一方的に婚約破棄を告げられた殿下から「記憶喪失になったから助けてほしい」という手紙が届きました

作者: 冬月光輝


 本日は快晴……空の色は一点の曇りもない青であり、私の心とは正反対で鬱々とした気持ちを顕にしてくれます。

 もちろん、空には罪は無いのですが晴れ渡る青と燦々と光る太陽を見て私はため息をつきました。


 理由は一通の手紙です。


 その手紙の内容について触れる前に半年前の婚約破棄について少しだけ説明を。

 私ことリノア・フェルメールはフェルメール侯爵家の長女であり……半年前までこの国の第二王子であるロレンス殿下の婚約者でした。


 しかし、あの日……殿下は私に婚約を解消してほしいと頼み込んできます。

 

「リノア、お前の愛は重すぎる。僕はまだ若いし……遊びも覚えたい。悪いが愛人ならあと6人ほど居るし、それを咎められても僕はどうすることも出来ない」


 ロレンス殿下が他の女性と逢瀬を繰り返しているという噂を聞いて、それを確認すると彼は開き直りました。

 その上、噂の女性以外にも複数人と関係を持っていることを悪びれもせずに語ります。


「言っとくがなぁ。この国くらいだぞ、王族の浮気に煩いのは。君の元に最後には帰って来るのだから正妻としてどっしりと構えておれば良いのだ。甲斐性のある男の婚約者なのだと誇りに思ってな。この話はこれっきりにしてくれ」


 友好国へと勉学のために留学した経験のある殿下は他国の価値観を持ち出して浮気を正当化しようとされました。

 最後には私のところに戻ってくると言われて喜ぶ女性もいるのだと聞きます。正妻としての認められることが他の女性よりも優位に立った証だと誇りに思う方も。


 しかし、私にはどうしてもそんな風に思うことが出来ません。


 愛する人には自分の方向だけを向いて欲しいと思うのはそんなに可笑しいことでしょうか?


「だから君の愛は重いのだ。そういえばお前みたいな女が婚約者を刺したとかそんな話をよく聞くな。お前は嫉妬深そうだし、もういいよ。婚約を解消しよう」


 殿下はあっさりと私に婚約破棄を申し出ました。

 浮気は嫌だと訴えただけで、刺されそうとまで仰せになって……。

  

 それが半年前のこと。


 殿下には婚約破棄されましたが、お互いに性格が合わなかったと極めて平和的に話を終わらせました。


 フェルメール家は王家とも懇意にしていますし、争ったところで何も得することは無かったのです。

 

 両親も殿下が遊ばれているという話を聞いて、結婚前に分かって良かったと理解を示してくれましたので、私自身もショックではありましたが立ち直りかけておりました。



 そんな中、届いた殿下からの一通の手紙。


 殿下から届いた手紙は今月になって実に五度目です。

 これまでの四通は復縁要請でした。


 私のような女性はいなかったとか。

 君の愛の深さのありがたさを知ったとか。


 そんな内容で――私とやり直したいとのことでした。


 しかし、私としては「人を刺すような女」だと見られたことがどうしてもショックで、今でも泣きそうになるくらい心が傷ついていましたので、申し訳ないのですが、殿下には断りの返事をしました。


 四度目に返事を出したとき、さすがに私もうんざりしてきました。

 もういい加減にしてほしいと……迷惑だと感じていたのです。


 そういう経緯もあり、五度の手紙も復縁要請だと思っていたのですが――書き出しからいつもと様子が違いました。


『君が僕の元婚約者だと聞いて手紙を書いた。聞けば、僕は君に随分と酷いことをしたらしいね。実は僕は昨日までの記憶を失っている。何か記憶を戻すための手がかりを探っていたら君からの手紙を見つけた。失った記憶を取り戻すヒントになるかもしれないから、嫌だとは思うが一度だけ会ってほしい……』


 手紙には殿下が私にしたことへの謝罪と記憶を取り戻すために協力してほしいということが丁寧に書かれていました。

 

 殿下との婚約破棄からは立ち直りかけてはおりますが、彼と会うのは正直に申しますと怖いです。


 でも、これまでのことを全て忘れたというのはお辛いと思いますし……。


「はぁ……、どうしたら良いのでしょう」

 

 晴れ渡る空の下で私はもう一度ため息をつきました――。



 ◆ ◆ ◆




「殿下が記憶を失われたのか。そして、リノアと話せば記憶を蘇らせるきっかけになると。ふむ……」


 記憶喪失になった殿下と会うかどうか……私だけでは結論を出すことが出来ませんでしたので、父に相談をしました。

 父はコーヒーをひと口飲むと……考え込むような仕草をされます。


 父自身の立場としては王族の頼み事を無下にしたくないという部分もあるのでしょう。

 さすがに一度破棄した婚約を復縁したいという要求は拒否してくれましたが、こういったケースだと話は別です。


 しかしながら、娘を傷付けた男の元に向かわせることにも抵抗があると思ってくれたのか……かなり悩んでいるように見受けられました。



「……リノア、私としてはだな。可愛いお前が嫌がるのに無理に向かわせるくらいなら、断った方が良いと思う。殿下が記憶を失ったこと自体は同情するが、だからといってお前の心を犠牲にしたくはない」


 父はそう結論を出して……私は殿下に会う必要はないと仰せになってくれます。

 彼の立場としては王族の頼み事を断るのは断腸の思いのはず……。

 それでも私の気持ちを優先してくれた父の優しさに感謝しつつ……殿下に返事の手紙を書くことにしました。


 婚約破棄の一件で非常にナーバスになっているので、彼に会うと無礼な行動を取ってしまいかねないと丁寧に彼の体を労るような文面を添えて――。



 それから数日も経たないうちに殿下から六通目の手紙がきました。

 どうやら、記憶喪失は治っていないみたいです。


 そこには――。


『君の心情を考慮もせずに一方的に自分の気持ちだけをぶつけてしまった非礼を詫びる。何もかも忘れて不安で押し潰されそうなのだ。リノア……君の名前を聞くだけで温かい気持ちになる。きっと素敵な方なのだろう。僕はそんな君を傷付けた愚か者だ。もう、会いたいとまでは言わない。しばらく手紙のやり取りだけでもしてくれないか?』


 というような、文通をしてほしいという内容が記されていました。

 手紙のやり取りだけなら、大丈夫だと思い……父にもこれ以上の心労をかけたくなかったので私は彼の申し出を了承します。


 とはいえ、いきなり記憶喪失の殿下と文通なんて何を書けば良いのか見当もつきません。


 ですから、私はまずそのことについて記した手紙を送りました。

 彼がどのような話題を望んでいるのか、それが知りたかったのです。



『手紙のやり取りを了承してくれて嬉しいよ。わがままを言ってしまい、申し訳ない。手紙だけど、僕に関することを書いてほしい。婚約中、どんなことを考えていたのかとか……何故に心が離れてしまったのだとか。僕は不思議でならないのだ。こんなにも心を温かくさせる君という存在をどうして手放してしまったのか。思い出したくないことなのは分かるが教えて欲しい』


 ――どうして手放してしまったのかですって?


 それは「お前のような女が婚約者を刺す」と思ったからでしょう。

 勝手に人のことを精神的に異常だと決めつけるようなことを口にして……。


 全てを忘れられたという殿下のことが羨ましいです。

 私だって、全部忘れることが出来たのなら……もう一度愛することが出来るでしょうに……。


 殿下にそのままの出来事を伝えても良いものかと悩みましたが、事実と異なることを伝えても記憶の復活の妨げになると思い、私はそのときに感じた悲しさとか、殿下を慕っていたときのことを書き連ねて……彼に送ります。

 少しでも罪悪感を持ってほしいと意地悪な心を添えて……。


 この手紙を送って一週間ほど殿下からの返事は来ませんでした。


 私との文通を望んだ彼ですが、一通目で良心が傷んで……手紙を返すことも億劫になってしまったのかもしれません。


 しかし、十日ほど経って……彼から返事が届きました。


 その内容を読み……私は違和感を覚えます。

 

 手紙を書いておられるのは本当にロレンス殿下なのか……、と。

 記憶を失ったとしても人格までは変わらない。私はそう思っていましたから――。



 ◆ ◆ ◆


『リノア、まずはトラウマを与えるほど酷く傷付けたことをもう一度詫びさせて欲しい。覚えていないとはいえ、あまりの内容だったので謝罪せずにはいられなかった。会いたくないと僕を拒絶する気持ちはよく分かった。酷いことをしたと漠然とした話を少しだけ両親から聞かされただけで、具体的な話は聞いていなかったので……無神経な質問をしたと後悔している』


『僕の中にそのような傲慢で倫理観の欠けた部分があると考えると恐ろしい。そして、それ以上に君の心を自らの手で砕いたという事実は耐え難い。僕から手紙のやり取りを提案したにも関わらず、返事が遅れてしまってすまない。心の整理を付けたかったのだ』


『僕には君を愛する資格がないことがよく分かった。それだけに過去の自分が恨めしく、一度君の心を掴んでいたことに関しては羨ましい。君に関する記憶は無くなってしまったが、手紙からは君の優しさが伝わる。本来なら僕のような人間と手紙でもやり取りするのは苦痛なはずなのに……。もちろん、僕が王族だから気を遣ってくれていることは分かっているが――』


 ロレンス殿下からの手紙は九割が謝罪文でした。

 思えば、彼と婚約していたとき……そして婚約を解消するときも、さらには復縁を求める手紙でさえも、ロレンス殿下は一度も謝罪などしたことはありません。


 王族が臣下に頭を下げるという行為は恥ずべきものだと信じていたからです。


 もちろん、それは自然なことですし……私もそれだからといって謝罪を求めようとは思っていませんが、これだけ長い謝罪文を読むとある疑問が頭に浮かびました。


 ――この手紙は本当にロレンス殿下が書いているのでしょうか?


 私はそれなりに殿下の人となりを知っています。

 彼は非常にプライドが高く……間違っても女に頭を下げたりはしない方でした。

 

 思えば、記憶を失ったという手紙から彼は私に何度も謝っています。

 

 人は記憶喪失になるとここまで人が変わるものなのか? 記憶を失ったことがある方を他に見たことがありませんのでよく分かりません。


 殿下からの手紙を読み進めると、最後にこんなことが書かれていました。


『君が嫌になればいつでも止めてもらっても構わない。本当に他愛のない日常の話だけで良い……君の普段の生活のことを記して手紙で送ってほしい。僕もそれに返事をするから』


 ――殿下は私の普段の生活を知りたいと日記のようなものを書いて送ってほしいと望みます。


 何だか、記憶喪失を治すという主旨から離れているような気がしますが……それくらいで良いならと私は本当にどうでもいい日常生活のことを数日分記して殿下に手紙を出しました。


 どうも、妙なことになってしまい……感情の持って行き方が分からないです。

 

 殿下からの返事は今度はすぐに来ました。


『君の日常生活を知ることが出来て嬉しいよ。僕も君と同じく猫は好きだ。それに――』


 殿下が猫が好き……そもそも動物は好きではなかったはずです。

 それも、「犬なら使いどころがあるが、猫は利用しようにも使い道がないから好きではない」というような会話をした記憶もありますから猫はお嫌いだったはずなのです。


 殿下がお嫌いなら猫を飼うのは諦めようと思いましたのでそれは間違いありません。


 そのあと、婚約破棄をした悲しさを紛らわすために子猫を飼い始めたのですが……。

 

『――以前、君と訪れたという王立美術館に行ってみた。“海辺の木石”という絵画は僕の心を打ったなぁ。君はどの作品がお気に入りだったのか嫌で無ければ教えて欲しい。それだけで、君と美術館に行った思い出だと感じることが出来るから』


 殿下はお一人で私と以前ご一緒した場所へと足をお運びになられたみたいです。

 美術館では殿下は力強い騎士の彫刻が好みだと仰っていたと覚えていますが……。


 私はその時も話したように、百年前の宮廷画家――エルメルト画伯による作品……“神々の宴”に感銘を受けた話を記しました。

 殿下もこの絵画は嫌いでは無かったらしく、そのときは随分と話が弾みました――。記憶を呼び戻すきっかけになるかもしれません。



 それからというもの、日常生活についてと、殿下の質問に答えた手紙を送り……その返事を受け取るという生活が続きます。

 殿下の手紙は時折ユーモアを挟みつつ、私への気遣いを忘れない紳士らしさを感じさせてくれました。


 とはいえ、私に合わせている訳でもなく……“神々の宴”については「技巧に走り過ぎていて自分はそこまで好きではなかった」とご自分の意見もはっきり記しています。


 ここまで来ると本当に分かりません。


 今、手紙をやり取りしているのは誰なのですか? ロレンス殿下の筆跡だけ真似ている別人としか思えません。

 

 気付けば少しだけ殿下の手紙が来ること楽しみにしている自分がいました。

 彼はあれ程深く私を傷付けたのに――。


 私は感情の変化に戸惑いを感じています。


 ――別人なら良いのに……。


 願ってはならないことを願ってしまうほどに。



 ◆ ◆ ◆




「最近、機嫌が良さそうだな。リノア」


 父からそんな言葉を送られて……私は近頃浮ついた気持ちになっていることを見抜かれたようで気恥ずかしくなりました。

 

 そうです。私はロレンス殿下との手紙のやり取りを楽しんでいました。

 優しくて思いやりのある文面――それだけを見れば私はかつて恋をしたときの気持ちを思い出すようで、周囲の風景が色めいて見えるのです。


 しかしながら、ふと冷静になったりもしました。

 

 今、楽しく文通をしている相手は()()ロレンス殿下である、と。

 私を精神的に異常だと決めつけて、愛人を七人も作り……婚約を一方的に解消した男性だったことを思い出すと胸が痛くなるのです。


 もしも、彼の記憶が戻ったら――?

 きっと、彼自身の人格も元に戻ってしまう。

 

 こうして記憶喪失中のロレンス殿下とのやり取りを続けて彼に惹かれるということ自体……悲しい結末を迎えることが確定しているのではないかと思ってしまいます。


 ――これ以上、気持ちが高まる前にやり取りを終わらせなくては。

 そう思わずにはいられないのです。


「そういえば、殿下は随分と人が変わられたそうだ。常に腰が低くなり、臣下のことを思いやるようになったとのこと。やはり手紙でもそうなのか?」


 父は好物の特別苦いブラックコーヒーを飲みながら、私に質問をされました。

 

 ――殿下がお変わりになられた?


 いつもなら、甘い角砂糖を3つとミルクをたっぷり入れる私ですが……彼のことを考えることで頭がいっぱいだったので、口の中で苦味が広がります。

 お父様……これは人間の飲み物ではありませんわ。


「そ、そうですね。ロレンス殿下はとても紳士的で必ず私のことを気遣うような文面を添えられます」


 むせ返りそうになるのを必死で堪えながら、私は殿下の手紙について父に話します。

 そして、急いで角砂糖とミルクをコーヒーの中に入れました。これでようやく落ち着いて飲めます。


「そうか。いや、記憶を失われる前の殿下の人格を否定するつもりはないのだがな。むしろ、王族の威厳を保つためにはあれくらい誇りを持って行動するということは正しいと思っている」


「ええ、お父様の仰るとおりです」


「ふむ。お前もそう思っているか。うーむ」


 ――父は明らかに私の顔色を窺っていらっしゃる。 

 何か言いにくいことがあるから、苦いコーヒーをもう3杯もお替りしてるように見受けられます。

 これはどういうことでしょうか……。



「……あ、会ってくれんかのう?」


「お父様……?」


 父の声から、いつものような威信に満ち溢れた迫力がなくなっていました。

 気まずさと、申し訳なさが同居したような……か細い声で父は「会ってくれ」と言われます。


 それだけで誰と「会って欲しい」のかは大体察しがつきました。


「ロレンス殿下と会って欲しいということでしょうか?」


「端的に言えばそうなる。もちろん、無理に……ではないぞ。前向きに考えてもらえると非常に助かるが……」

 

 公明正大で、曲がったことが嫌いな父は一度口にしたことを覆すようなタイプではありません。

 そんな父があのような顔をして、動揺されているということは、つまりそういうことなのでしょう。


「断っておくが、殿下はお前と会いたいとは言っておらん。ただ、陛下がな。リノアには申し訳ないが、一度だけ……一度だけ……、ロレンス殿下と会って欲しい、と。それで、彼の気持ちに決着をつけさせて欲しいと頼みこまれてな……」


 確かに、父と陛下は三十年ほどの付き合いがある盟友。

 陛下には恩があると常々仰せになっている父は彼に強く頼まれて断れなくなってしまったのでしょう。


 そもそも、ロレンス殿下と私の婚約自体が彼らの友誼によるものでしたので……。


「――承知致しましたわ。一度だけでよろしいのであれば、私はお父様の顔を立てましょう」


「そ、そうか。本当にすまない。陛下もこれきりだと仰せになっていたから。その点は安心してくれ」


 今回のことで父に心労をかけていました。

 そもそも、会いたくないと答えること自体が不敬だと問われてもおかしくないことなのです。

 

 怖さはありますが、一度だけロレンス殿下に会うことを私は決心しました。


 婚約を解消してから半年ぶり以上になる彼との再会。


 しかし、気持ちの半分は初対面の方と会う緊張感でした――。



 ◆ ◆ ◆



「ほ、本当に来てくれた。父が無理を申したみたいですまない」


「いえ、お気になさらないでください」


 ロレンス殿下と久しぶりに私は再会します。

 彼は長い銀髪を後ろに縛っており、その表情はどこか自信が無さそうに見えました。

 彼との会食は国で最もきれいに手入れされていると有名な庭園が見える場所で行われます。

 私がこの場所を好いていることをご存知なのでしょう。


「この庭園も君と共によく行ったと聞いていたのだが、まったく思い出せなくてな。しかし、今日はいい思い出になる」


「そう、ですか。それは何よりです」


 表情の差こそあれ、やはり当人を目の前にするとあの頃の記憶が蘇ってきて胸がざわつきます。

 やはり、会うべきではなかったのかもしれません。


「リノア、大丈夫か? ……無理をしているのだな? すまない。今日はこれで僕は帰ろう。君をひと目見ることが出来たのだ。満足している」


 ロレンス殿下は立ち上がり、この場を去ろうとしました。

 彼と再会して、おそらく5分も経っていないと思われます。


 さすがにこれでは父の面目が潰れてしまうと思われますので、私は彼を引き止めることにしました。


「殿下、お待ちください。私のことでしたら、大丈夫ですので。どうか、このままお食事を続けて頂ければと存じます」


 歯を食いしばらなくては――。

 それに、この殿下は私の知っている彼とは別人のはずです。

 このように気を遣ってくださっているのですから……。


「やはり、優しいのだな。きっとお父上のことを気遣っているのだろう。僕の父と君の父上はかなり古い付き合いと聞いている。僕の配慮不足だった」


 ロレンス殿下はまた頭を下げて、席に戻ります。

 今日の会食の料理は鶏肉をメインにしたものですか。

 こちらは私も彼も好物でしたね。味覚は記憶を失っても同じということでしょうか……。


「この前の手紙に書いてあったが――」


 そこから、殿下とお話をしました。

 彼は手紙の時と同じような態度で私に接します。

 そして、私が彼の質問に答えると屈託のない笑みを見せて、楽しそうにされていました。

 

 笑ったときの表情はあの頃のままなのですね。あなたはよく笑う人でした。


 それだけに笑いながら愛人の話を肯定したときはゾッとしたのです。


 ああ、私はまだ殿下を許せない。


 人が変わっても、優しい言葉をかけられても、この傷は癒せない……。


 ――いいえ、違います。このざわつく感じは……あることに気付いたからなのでしょう。


 そう。彼から感じる違和感に私は気付いてしまったのです。


「殿下……、一つよろしいでしょうか?」


「どうした? リノア。何でも申してみるが良い」


 ロレンス殿下は柔らかな口調で私の発言を許しました。

 これを言ってしまったら、全てが崩れるかもしれません。

 でも、私は黙っておくことが出来ませんでした。


 私の勘が伝えています。

 殿下は、殿下は――。


「ロレンス殿下……、あなたは記憶喪失ではありませんね?」


「えっ……?」


 私はロレンス殿下の記憶喪失が嘘であると口にしました。

 声に出した瞬間、殿下はカランと音を立ててフォークを落とします。

 

 それだけで、私は自分の勘が正しかったことを確信しました。


 でも、出来ることなら否定して欲しい――そんなことを考えている自分もいます。

 あの手紙のやり取りすらも彼の演技だと考えるとやりきれない虚しさがあるからです。


「なぜ、それに気付いた……?」


 しかし、そんな私の小さな願いも崩れ去りました。

 自分から口にしたこととはいえ、ショックです。


 殿下はずっと記憶喪失のフリをされていた。


 その事実が私の心に突き刺さりました――。



 ◆ ◆ ◆



 ――ずっと違和感があったのです。

 最初は別人が成り代わられたと思いました。

 何もかも忘れてしまわれたロレンス殿下が別の人格になって手紙を書いているのだと。

 それだけ彼からの手紙の内容は以前の彼からかけ離れていた。


 まるで、全てをわざと外しているみたいに――。


 もちろん、私の好みに全てを合わせるというような分かりやすいことはしていませんでしたが、好きな色、音楽、美術、動物……今日出された料理の好みを除いて全部――以前と変わってしまわれています。

 

 これがずっと私には引っかかっていました。


「し、しかし、それだけで僕が記憶喪失を騙っているなど――」


「そうですね。私の考え過ぎだと思っていました。しかしながら殿下……、先程のご自分の言動を覚えておりますでしょうか?」


「僕の言動だって?」


 殿下が以前とは余りにも別人になられたこと自体は考え過ぎで済むお話です。

 私が彼が記憶喪失ではないと疑いを深めたのはロレンス殿下と約7ヶ月ぶりの再会をしたその瞬間でした。


「殿下は私を見るなり“本当に来た”と仰ったのですよ」


「それが何か? 君は僕のことを拒絶していた。だから目の前に現れたことに驚きを示した訳だが……」


 そうですね。私が来たことに驚いたこと自体は不自然ではありません。

 でも、思い出してみてください。殿下は記憶を失われて私のことを全て忘れていらっしゃるはずだということを。

 ()()()姿()も何もかも覚えていないと手紙に書かれていたということを。


 それならば、やはり変なのです。

 

 ロレンス殿下の態度は私と再会してからずっと――。


「私の姿を覚えていらっしゃらないのでしたら、“リノアなのか?”と確認されませんか? もちろん、事前に私の特徴を聞いておられたのかもしれませんが、それでも容姿を何一つ覚えていない元婚約者が……ひと月ほど手紙のやり取りをした相手が……現れたにも関わらず、容姿について一言も触れられないのは違和感があります」


 どのような見た目なのか、すべて忘れてしまったのであるなら普通は真っ先に容姿について反応するはずです。

 手紙のやり取りである程度は性格を把握することは可能ですが、姿は想像できませんから。


 それなのに、殿下は先程から今までの間に一度も私の容姿について語られていません。

 この姿、この声を……ありのままに受け入れて自然に会話していたのです。


 彼と話せば話すほど、私はそれが気になって仕方ありませんでした。


 ですから、私は彼が記憶喪失ではないと言葉にしてしまったのです。


「君の優しさは、そうやって人をよく見ているからこそだったな。……手紙を書くとき、常に君の麗しい姿を想像していたから、それと寸分違わぬ君が目の前に現れて……リノアをリノアだと疑うことを忘れてしまっていたよ」


 ロレンス殿下は自嘲しながら私を見据えて……自らが記憶を失っていたと嘘を吐いていたことを認めました。

 

 彼が何故にそんなことをされたのか、私には理解が出来ません。


 彼の嘘は私の心を再び抉りました。

 結局、この方は私をどうしたかったのでしょう。


「全部リセットしたかったんだ。僕が君に対して行ったすべてを。嘘も全部ひっくるめて、無かったことにしたかった。思い出せば、出すだけで頭がおかしくなる。マトモじゃなかったんだよ。僕はずっと君のことだけを愛していたのに」


 ロレンス殿下はすべてを無かったことにしたかったと告げます。

 私を傷付けたことが、忘れてしまったことにすれば無くなると本気で思っていたのか分かりませんがそうみたいです。

 

 それ以前に私のことだけを愛していたなど、よく言えたものだと思ってしまいますが。


「殿下は私の他にも多くの女性と親しくされていたのでしょう? 私などに拘らなくても良いではありませんか」


 そうです。殿下は婚約中に7人と関係を持ったと仰った。

 私に執着しなくても別の方と幸せになればよろしいではありませんか。


「あ、あれは嘘だ……」


「――っ!? 嘘……ですか?」


「愛人など一人もおらん。り、隣国でそういった男が格好良いと聞いて……、つい格好をつけて、そのような嘘を吐いてしまった。噂を自分で撒いて君に気付かれるように仕向けて……」


 ――目眩がしました。

 ロレンス殿下は私が思っていた以上に残念な方だったのかもしれません。


 まさか、婚約破棄の原因がこの方のくだらない見栄だったとは――。



 ◆ ◆ ◆


「あのときも……直ぐに嘘だと謝罪すればよかった。馬鹿な見栄を張ったとリノアに頭を下げれば、まだ風向きは変わったのかもしれない。だが、余計なプライドが邪魔をして――君を突き放した。もしかしたら、君の方から歩み寄ると思って」


 はっきりと申し上げますと私は心底呆れました。

 ここまで見事にダメな方向をピンポイントで選択するなんて……普通に考えてあり得ないでしょう。  

 

 仰るとおり……すぐに謝れば確かに私も考えたかもしれません。

 しかし、頭を下げるどころか婚約解消を突きつけた彼に私はどれだけ心を痛めたのか本当に分かっているのでしょうか。


「結局、殿下はご自分のことしか考えていないのですね。もしも、一度でも私の気持ちを優先して考えて下されば、そのような嘘を吐かなかったはずです。私にはそれが残念でなりません」


 そう。ロレンス殿下は一貫としてご自分のことしか考えていませんでした。

 記憶喪失を騙っているときの手紙は理想とも思えるくらいの紳士的な態度でしたので、逆にそれが出来るなら、何故最初からそれが出来ないのかと怒りすら湧いてきます。


 彼は目下の者に頭を下げることをプライドが良しとしないので、避けてきました。

 だからといって、そうするために記憶を失ったと周りを騙すなんて……。


 このような方を一時とはいえ愛していたと考えるだけで、何だか恥ずかしくなってきました。


「リノアよ、こうは考えられぬか? 僕が記憶喪失だと騙ったこと自体は勿論褒められることではない。……しかし、あの手紙に書いてあったことこそ真実。僕の真実の愛なのだ。それだけ愛されているという気持ちだけでも純粋に受け取ってくれぬか? 君のお父上から手紙は毎回楽しみにしていたと聞いておる。そう、考え直せないか?」


 ロレンス殿下は手紙に記したことこそ、真の自分の気持ちだと述べられます。

 彼の仰ることは嘘ではないのでしょう。

 気持ちのない相手にこんなことはしないでしょうから。しているのであれば、頭がどうかしてますし……。

 

 誰かに愛される。それは素敵なことなのかもしれません。

 一国の王子からここまで好かれているのなら……と喜ぶ女性もいるのかもしれません。


 ですが、私は――。


「愛しているなら、何をしてもよろしいという訳ではないでしょう。殿下がどう思っているかなど……私には関係がないのです。気持ちを弄ばれた私の心はどうするんですか? 私こそ全部忘れてしまいたいのに……」


「うっ……」


「確かに私は裏切られて傷付きました。ですが、だからといって殿下に不幸になって欲しいとは思っていませんでした。あなたが記憶喪失になったと聞いたとき、私は気の毒だと本気で心配したのですよ。それなのに、素直に謝罪が出来ないから、全部リセットしたいから、などという身勝手な理由で……、そんな理由で私だけじゃなく、周りの方々まで心配させるなんて……」


 もはやこれは私と彼だけの問題ではありません。

 彼の嘘のせいで国中が巻き込まれたのですから。

 ロレンス殿下が努力すべきことは私との復縁ではありません。自分のなさったことに対して責任を取ることです。



「――り、リノア。君の言うとおりだ。僕には君を幸せにする資格がない。君のことは諦めて……責任を取る方法を考えるよ……」


 ここまで、滾々(こんこん)と説明をすると殿下は俯いて私との復縁をようやく諦めると口にされました。

 願わくば、彼には前を向いて次の相手を探してほしいです。そして、次の相手には迷惑をかけてほしくないです。




 それから、国王陛下には土下座する勢いで謝られました。

 こんな息子で恥ずかしい。国の恥だとまで怒りの形相で述べていた国王陛下。

 どうやら、ロレンス殿下には特大の雷が落ちそうです。

  


  

 その日から数カ月くらいは何事もなく過ごしていたのですが――。



「ろ、ロレンス殿下……、なぜここに来られたのでしょうか?」


「ぼ、僕はロレンスではない。彼の生き別れた双子の弟、シリウスだ……」


「…………」


 反省と責任を取るという行為を変な方向に解釈した殿下に付きまとわれる日々がしばらく続いたのでした――。




 ◆ ◆ ◆




「それで、お母様はお父様のような方と結婚をされたのですか?」


「ええ。そうですよ。ですから、あなたも自分の父親を平凡で面白みが無いなどと馬鹿にするようなことを言ってはなりません。正直で誠実であることは美徳なのです」


「うーん……分かりました。しかし、ロレンス殿下という方はこの国には居られません。まさか、亡くなられたのですか?」  


「いいえ。彼の奇行は国中に知れ渡りましたから……。少しだけ離れた国の第十三王女と婚約して……半ば強引にそちらへと送られてしまいました。向こうの国の王も随分と驚いたようですが……。一人の王に対して何人もの王妃がいるとなると、一人ひとりの娘にもそう構ってはいられませんので、最後には受け入れたみたいです」


 私は昔話を娘に伝えます。

 あんな強烈な方でしたが、私が初めて愛した人……。


 どうか、お幸せになって下さい――。




 ~完~


ここまで読んで頂いてありがとうございます。

こんな奇妙な殿下に「リアリティ」が無いという読者様もいらっしゃるかもしれません。

しかし、実はこのロレンス王子にはモデルがいます。


友人の高校時代の元彼氏さんなのですが……多くの方と浮気していると嘘をついて、振られて……翌日には頭に包帯を巻いて記憶喪失になったと嘘を付いたのです(彼の取り巻きの友人は信じており神妙な顔をしていた)。

ふとこの話を思い出して、友人に許可を取り……拙作を書いてみた次第であります。


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