〈八〉 あなたであるために
〈八〉
リディは、ふっと笑ったかとおもうと、やがて大きな青い月にとけこむようと身体がふわっと浮いていった。
ダイシジは、大きな月とその青白い景色の山々に映る月の光をみながら、リディの姿をしたものを黙って見上げていた。そのまま、景色に溶け込むように、リディの体が薄くなっていくのをみながら、ダイシジもしだいに目が覚めていった。
目を覚ますと、大きな月はなく、リディのベッドにもたれながら眠っていたことに気づいた。ダイシジは、黙って起き上がると、何か大きなものに憑かれたかのように、窓の外を見た。
夜の青白い光の中に、月が浮かび上がっている。さっきまで、とりみだしていた気持ちは、うそのようになくなっていた。リディなるものと話したせいかもしれない。
自分が、他の何者でもないということ、自分にしかできない何かをやるために今があること、それらを考えや思考でなんとなくわかってはいても、大きな何かが欠けていた。
それを今、大きな手で後押しされたかのようだった。
「自分にやること、自分が喜ぶことをすること」
ダイシジは、作品作りをしてから、はじめてふっと息をついて、夜風を眺めていたかもしれない。いままで、リディと二人で何かに追い立てられるように戸棚を作っていたため、こうしてリディの眠っている側で、一人で夜の空気を味わう時間などなかった。
リディは、黙って眠っている。
顔は、倒れたころに比べたら、少し血色がいいように思えた。ダイシジは、そんなリディを見ながら、夢であったリディとの話や、自分のことをぼんやりと振り返っていた。
久しぶりに、キセルに火をつけた。どのくらいぶりだろう。自分の時間をもったこと。それが、一人になるということなら、いままで何度もあったけれど、こうして何も心にひっかかることのない曇りない今晩の夜空のような気持ちで、時間を味わうということ。
おおよその大体の時間を自分は、人のために使ってきた。一人でいるのに、いつも人のことを気になって、落ち着かなかった。自分はなんてちっぽけで、役立たずで、何にもできない臆病な者なのだろうと。そしてその気持ちが、人へのねたみや、嫉妬になっていた。
誰からも認められないと思えばこそ、自分を嫌い、せきたてて過ごしていたかもしれない。
空虚な時間をすごしていた。
周りと自分との調和が保てずに、自分が一番やりたくないことに目をむけて、それ以外のことには目をつむっていたのかもしれない。
リディは、いつもそんな自分と共にいてくれた。夢であったリディが、何者であったかはわからないけれど、リディの姿をして自分に言い聞かせてくれたことは、信じることができる。
ダイシジは、キセルの煙が、のびやかに少し冷たい夜の空気にとけていくのを、黙ってみているうちに、だんだんに何か自分にまとわりついていた黒い煙のようなものも解き放たれてゆく気持ちがしてきた。
ダイシジは、煙をみつめながら、その向こうで光る星たちに目をむけた。自分の中の静かな波のようなさざめきを聞くことにも似ていた。
やがて、そのあとに何かはっきりその静けさから浮かびあがろうとしているものを感じながら、煙をながめていた。
心に温かいものが、わいていた。それは、はじめ、小さなまるいものだったけれど、ダイシジの心をだんだんと包んでいく何かに変わってゆくようだった。
静かな夜に、ダイシジの中に灯るたしかな温かさだった。
「おれの喜びをつくりあげよう」
何かにせきたてられるように作っていた気持ちとはちがっていた。
そして、それが、人や何かに認められるために作るものとも違っていた。プライドや、何か心をかけて作ることとも違う。ただ純粋に、ダイシジが作りたいという、自分から沸いてくる喜びだけで発動している確かな衝動だった。
あの女神のような人が、戸棚をとりに現れなくても、ダイシジの心が曲がるようなことはない確かさだった。
ダイシジは、自分の喜びを選ぶことを知ったのだった。
納戸で続けられる作業を街の人たちも、夜な夜な光っているダイシジの家の明かりで気づいていた。ダイシジの姿を街で見かけるものもそのころには、あまりいなくなっていた。
彼が、ほとんど夜通し作業をし、その傍ら倒れたリディの側に付き添っているのだと誰もが、彼を気にかけていたのだった。
けれども、街にも姿をみせないダイシジに誰もが、彼の家をおとづれることははばかれた。テディもその一人だった。
以前は、ダイシジのことが気に食わないやつだとおもっていた。いつも神妙な顔つきで、自分が世界の何か大きなことでも背負っているかのように、暗い顔でいつも何かに忙しく、その哲学すら聞くまでもなく、自分とは肌の色が違う世界の人間だと思っていた。
難しい顔つきで、職場の誰もが、ダイシジのことを違う世界の人間だと思っていた。そして、テディは、そんなダイシジのことが気に入らなかったのだった。
けれども、戸棚を作っていることを知ったとき、ダイシジの足元をすくってやりたいような気持ちになった。あいつのやってることを一つ笑ってやろう。そんな気持ちだったが、あの日、納戸を開けたとき、奴の妻リディと一緒に天井にまでかかるくらいの小さな戸棚の群れの中に二人で、一心不乱に作り続けている姿をみたとき、この世のなにものでもないような形容しがたい感情がうかんだ。
それは、奴がやっていることが、自分が思うよりも大きくて、誰もがやることの域を超える、日常でみかけることのない世界で作業しているように感じられたのだった。
それを見てから、奴のやっていることの意味はまったくわからないものの、奴が何かのためにやっていることだけは、感じ取れた。
そんなことを感じてから、奴への気持ちが変わってきたのだった。言葉や頭でわかることではなかった。何かが直接、俺の中に息をふきかけてきたような気持ちだった。見方が変わったとかいうよりも、奴のやっていることが俺なんぞが何か言えることを超えた、言わば神に遣わされた仕事のように感じたのだ。
人間の俺が、何か言えることはないのだとハッキリ判らされたというべきかもしれない。
テディは、ダイシジのことが気になっていた。
リディが倒れたと聞いてから、鍛冶屋を辞めたいということを、ダイシジに頼まれたという伝言者によって聞かされていた。奥方が倒れたともなれば、さぞ気落ちしているのではないだろうかと、テディらしからぬことも思ったが、それを行動に移すことはできなかった。
ダイシジのことを思っているのは、テディだけではなかった。
職場の皆が、なぜかダイシジを気にかけていたし、材木屋もそうだった。リディのことだけではなく、ダイシジがやろうとしていることの何かを、見守らずにはいられないものたちが、すでに多くいたのだった。
小さな戸棚を作っている、それだけが興味の対象ではなく、ダイシジのやろうとしていることがなぜか彼らを惹きつけていた。興味本位で、彼を噂するものは、もう街にはいなくなっていた。