〈六〉 1000個の道のり
〈六〉
「1000個作るのは、無理だ」
口から声が出た。
リディは、手が止まったダイシジを見て、黙っていた。
ダイシジも、リディを見た。
結い上げている髪が、ちらほら垂れ下がり、疲れた顔をしている。ほとんど、ゆっくり食事したり休んだりする間もなく、作業していたのだ。
よく見ると、口の端に、しわができていた。いつも側にいたけれど、リディの顔をちゃんとみるのは初めてのような気がした。
口元にあるしわを見て、初めてリディを見た。
リディは、フッと笑うとまた手元の作業をはじめた。リディは、悲しさとあきらめと、怒りと、苦しさが入り混じった不思議な気持ちだった。
けれど、心は張り詰めていたものが、なくなったように静かだった。
ダイシジはやりきれなくなった。
「もうやめよう。」
ダイシジは、ふらふら立ち上がると、納戸を出て行った。
外には、星空が広がっていた。
ダイシジの悩みは、誰かの悩みだった。
「俺は生きている意味があるのだろうか。
俺には何の価値があるのだろう。」
いつも、そんなことを思いながら、生きてきた。
戸棚を作り始めた頃、たとえ実用的でなくても、人にお金をもらえるようなものじゃなくても、自分の心を満たしてくれればいいと思った。
けれど、作っていくうちに、俺の作るものにどんな価値があるのだろうと思うようになった。
それは、人に認められるかどうかということでもあった。
人の中にいるという苦手なことをやめる代償として、自分の中にこもって作り続けるものに、いったいどんな価値があるのだろう。人知れず、黙って息をしている自分が作るものに何かしらの価値があるはずだ、という気持ちでもあった。
俺は、口が達者じゃない分、きっとこういう小さな手先の力を与えられたんだ。苦手なことをしても自分は認められないのだから、こういうことでも認められなくては自分にどんな価値があるのかわからなくなってしまう。
ダイシジは、誰かに認められたかった。
自分の作るものたちが、誰かに認められれば自分が認められるのと同じことだと思った。
どうして、こういうもの細かいものを作る才が与えられているかはわからなかったし、本当はもっと実用的なものを作る力なら、すぐにでもお金も名声も手に入るように思えて、恨めしくも思ったりした。
そうやってダイシジの中でどんなに葛藤しようとも、創作を続けることは終われなかった。
世に出ることのない作品と思いつつも、ずっと作り続けてきた。
だから、女の人が現れたとき、自分の細工作りの力が必要とされたことが嬉しかった。
誰かに認められた、と思えた。
俺の力が必要なら、とすぐにとりかかった。妖精なんて、バカげているかもしれないが、俺には救いの手だったのだ。
自分で作っていたときも、そうだったが、これが何のためになるのだろうという気持ちがいつもしていた。
お金をもらえることでもない、誰かが買いにくるものでもない。ましてや、誰にも頼まれていないものを、せっせと作り続けている。いわば、自分が自分で眺めるためのものばかりだった。むなしくなるときも、たくさんあった。
そして、そんなときは自分を疑って、自分が持っていて人が知りえない力を否定してみたりした。
誰も、ダイシジが、小さな戸棚を作れるよな器用で、繊細な感性をしていることを知らないのだ。
だから、一人で納戸にいるときは、急に怖くなったりしたものだ。
けれど、自分がやりつづけていることや、やろうとしていることの正体をその時点ではっきりとわかる者は、どれほどいるのだろうか。
自分に与えられた人にはない力を、拒絶しつつも付き合っていく上で、その力を用いてやっていることの本当の意味は、本人にもわからないのではないだろうか。
ダイシジは、自分がなぜこういう戸棚を作っているかの意味を知りたかった。
自分は、なんのために生まれてこの街でこうして、生きづらさを抱えながら生きているのだろう。自分の持って生まれた繊細な感性の意味よりも、生きづらくても人の世に身を置いている自分自身の魂の、それの本当の意味を知りたかった。
きっとどこの街にいっても、俺の抱える問題は変わらないだろう。
人の中でうまくやることにいつも悩みながら、それが自分の持つ繊細な感性ゆえに起こる悩みだということも、ダイシジはだんだんにわかってきた。
けれど、そこまでわかっていても、人とは違う個性を出して堂々と生きられるほど強くもなく、勇気もなかった。そこには、いつも、自分の作るものに対する自信のなさと、みなと同じようにありたいという劣等感があった。社交的なふりも、付き合いや、誰かになろうとして、自分でないもののふりをして生きてきたけれど、それももう疲れてしまった。
俺は、俺でありたい。
そして、何になるかわからなくても、作り続けたい、と思った。
俺の本当の力を、自分が一番わかってやろう。
なぜなら、俺がいま何をしようとしているかは、俺にもわからないことなのだから。
そう思えてきた。
空には、満天の星空が広がっていた。どれも、輝いて光っている。
自分を疑うことは、きりがないけれど、この世にたった一人の自分として生きている意味があるはずだ。
誰かになるよりも、周りに合わせて自分を抑えた生き方をするより、たった一人の自分としてありたい。
真摯に向き合えばこそ、応えてくれるものがあるはずだ。それは、人でも、作品でも、自分の心でも。
ダイシジは、戸棚を1000個つくることが怖くなくなった。
何かのために作るのではなく、今は、自分が自分を生きるために必要な道の上に、この1000個の戸棚があるように思えてきた。
そして、これを作っても、作らなくても、俺は俺なんだ。
納戸に戻ると、リディが顔をあげて出迎えた。リディの笑顔に励まされるような気がした。
しかし、そのあとリディは顔が少し曇ったかと思うと、急に倒れこんでしまった。
驚いて、近寄るとリディは苦しそうにしながら、
「あなた、ごめんなさいね」
と言ったきり、意識を失ってしまった。
家のベッドへ連れて行ったが、リディの様子は変わらなかった。
そのまま、意識が戻らないまま、リディは眠り続けた。ずっと休んでいなかったし、そんなリディを気づかってやれなかった自分をダイシジは責めた。
作業をそのまま休み、リディの側についていた。
呼んだ医者は、黙って首をふり、
「あとは、奥さんの生きる力にかかっている。」
といった。
ダイシジは、はじめて、リディを失うかもしれないことに気づいた。
そして、それが、どんな恐ろしいことかも、はじめてわかった。自分の足元から、地面が崩れてゆくような恐ろしさだった。
俺を残していかないでくれ。