〈十〉 消えてゆく言葉たち
〈十〉
しばらく、ダイシジは動こうとせず、黙っていた。
すべてが調和に満たされ、足らぬものがないことを、穏やかに感じられた。充実した満足感の中に浸っていると、ダイシジの胸から光が沸いてきた。明るく真っ白でまばゆい光が、胸から沸いてきて、一筋となって、空へ上っていった。
光はやがて、大きな光となって、窓の外を照らした。そこに、あのときの女神がたっていたのだった。
ダイシジは、女神をみて、微笑んだ。
ダイシジの中に一陣の風が通ったとき、街のものたちの心にもおだやかな風が通っていった。
何の理由もないけれど、何か安心するような、ほっとした気持ちになっていったのだった。
ダイシジは、キセルをおくと、女神にむきなおった。彼女は、微笑みながらダイシジをみた。
彼女は、いった。
「ダイシジ、あなたの戸棚ができましたね。あなたが1000個作り終えるのをみていましたよ」
ダイシジは、申し分ないような気持ちになった。
「おれには、わからないことが一つある。この戸棚は何だったんだろうかということだ。」
女神は、くすっと笑うと、窓をむいた。ダイシジもまた、窓辺によっていった。
大きな月が、窓から見える。蒼い、紺碧の空が大きく広がり、丘から見下ろす街全体を包み込んでいた。
ダイシジは、ふうと息をついた。女神は、黙ったまま、ダイシジを振り返りこういった。
「あなたがやろうとしていることのすべては、いまのあなたに見えていないだけ。
あなたが作った戸棚は、あなた自身を作っていくパーツでしかありません。」
ダイシジは、わからなかった。
「では、この戸棚は、本当に妖精の国へ進呈されるのですか?」
女神は、微笑みながら、ダイシジの肩に手をおいた。
「これからあなたに起こる奇跡をみていなさい」
そういうと、跡形もなく消えてしまった。納戸に残されていたのは、1000個の小さな戸棚と、ダイシジの吸っていたキセルの煙だけだった。
ダイシジは、後にのこったものをみて、やりきれないような、不思議な気持ちになった。結局、女神は、この戸棚を持っていきはしなかったからだ。
その日、リディの側で、自分のベッドに入りながらも、眠れない夜をすごした。リディは、いつもと変わらない姿のまま、眠っている。ダイシジは、やり終えた後の充足とは、違う、何か不思議な気持ちがしていた。ベッドに横になりながら、真っ暗な中で、天井を見上げていた。満たされて、もうすべきことはないのに、自分にとって大切な何かを待っているかのような夜だった。
考えられることも何もなかった。そして明日がどんな日になるかということも、何もかもがダイシジにはわからなかった。
とにかく、ダイシジにとって、その晩は、長い夜となった。
朝の光が、寝室の窓からやってきた。ダイシジの中にも、新しい夜明けのように感じた。眠ったのか、眠らなかったのか、自分にもわからなかったが、朝の光はまぶしかった。
「リディ」
ダイシジは、いつもと同じように、妻に声をかけた。
なんということもないけれど、彼女が倒れてからの毎朝の日課になっていた。
「おれは、今日どんな一日になるかわからないけれど、なぜか少しワクワクしているんだ」
リディが少し笑ったように見えた。ダイシジもそれを見て、微笑んだ。
庭に出ると、やわらかい日差しがやってきて、辺りをつつんでいた。鳥も、風も、鳴き声も、ダイシジはすべてをひとつひとつきいていた。
花が歌うのも、小鳥がこだまするのも。
ダイシジにとって、ゆったりした気持ちで迎えるはじめての朝だった。
そのとき、郵便屋がやってきた。ダイシジは、手紙を受け取ると、その差出人をみてびっくりした。
鍛冶屋のテディだった。ダイシジは、ためらったが封書をあけてみることにした。
中には、丁寧にタイプされた字でこう標してあった。
「ダイシジへ、あなたへこんなお願いするのは、どうだろうと思ったんだが、いまは、そんなこともいっていられないので、手紙を送ります。
おれの親父が、先日から具合がよくない。医者にもみせたが、手のほどこしようがないそうだ。あとは、本人の力か、奇跡が起こらないと、と先生様はおっしゃった。おれには、納得できなかったが、そのとき、なぜかお前のことが頭にうかんだ。
いま、お前の奥方様も大変なときだということは、重々承知している。
だが、どうか親父に一目あってやってもらえないだろうか。
こんな気違いじみた頼みごとをするなんて、どうかしてると思うだろうが、おれの勘というのも、たまには信じてみようとおもう。」
短い文の中に、テディの焦りや、粗忽な性格や、不器用さが表れていて、ダイシジを困らせた。テディに会いたくない気持ちが消えたわけではなかったが、行ってみようかという気持ちになった。
ダイシジは、リディへ、短く言葉をかけると、洗面所へ行き無精ひげをそった。何ができるとか、テディを励ましに行くとか、そんな気持ちでもなかったが、とにかく行ってみようと思ったのだった。
ダイシジは、納戸の鍵をかけようと、ドアに手をかけたとき、戸棚のことを思った。1000個つくった、この戸棚は、女神も持っていきはしなかったものなのだ。言わば、この戸棚は、ダイシジが好きにしてもいいということだと思い、その中の一つを籠に入れて、家を出た。
テディの家に着くと、彼はダイシジを見て、少し驚いてから黙って、感謝を述べた。ダイシジは、通されるままに、父親の寝室に入っていった。
彼の父親は、静かに眠っていた。
「揺り動かしても、何をしても、いまは目を覚まさない。医者は、たまに点滴を変えにやってくるが、見放している」
ダイシジは、隣にある椅子にこしかけて、黙って父親の手をとった。温かさがつたわり、まだしっかり生きていることを告げている。
ダイシジは、何を話していいか、言葉がみつからないまま、テディと父親と黙ったまま、時間は過ぎていった。
ふと、あることに気づいた。
『時計がない。』
この部屋には時計がないのか、そう思ったとき、枕元にある古びた腕時計を見つけた。テディは、それは、親父のよくつけていたもので、親父が倒れてからその時計も止まってしまったのだと言った。
ダイシジは、その時計を手に取り、黙っていたが、やがて一つ思い出したように、籠から戸棚を取りだした。
テディは、その戸棚を見て、例のずっと作っていたものだということがすぐにわかり、ダイシジを見た。
ダイシジは、その戸棚を丁寧に開くと、ちょうど妖精が入りそうな小さな空間があらわれた。
その中に、父親の腕時計をいれ、ベッドの枕元に置いた。
小さな戸棚は、何もない彼の父親のベッドを彩った。そこにあるだけで、戸棚の木も呼吸しているように感じられた。
おいてからしばらくすると、二人とも、はっとした。
「チッチッチッ」
音が聞こえる。
戸棚の中に入れた、時計が動き出している音が聞こえてきた。
テディとダイシジは、二人とも顔を見合わせて、驚いた。
そして、さらに驚くことが起こった。
その時計が鳴り出してから、しばらくして、ベッドが大きくゆれた。眠っていた父親が、一息イビキをかいたかと思うと、大きな足をゆらした。驚くテディの前で、父親は、目をあけてダイシジを見て、こういった。
「おお!ダイシジ、久しぶりだなあ。お前のもってきたもんが、気持ちよくて。何もかも順調だわい」
そういうと、大きな身体をゆらしながら、起き上がった。ダイシジの手を握ると、戸棚をゆびさしながら「ありがとう」といった。
ダイシジは、ただただ驚くばかりで、何も応えられなかった。見ると、側では、テディが、嗚咽をこらえながら、さめざめと泣いている。
ダイシジは、この不思議な出来事の前で、ただ呆然としていたのだった。