〈一〉 ダイシジの憂鬱
あなたがやろうとしていることは、どれをとっても、宇宙からの慈しみもたらされるすべてのことになっているの。
ダイシジは、おのれにある悩みの中のいっとう大切で核心的な部分に気づこうとして、いつも同じことを思い巡らしていた。
それが、次の日にどんな結果になろうとしても、それが、彼の中にあるどんな部分とつながろうとも、まったく彼が理解することはなかった。
なぜなら、彼が悩んでいることは、一朝一夕ではわかるはずもないことと、悩むべくものでもなく答えの出ないそれをいま抱えたとしても、浪費と体力のうばわれていくようなものだったからだ。
どうして、「そうならねばならないのか」、など、いってしまえば、神でも天でもない、彼が出そうとできるような答えはそこにはなく、それを願ったり、考えたり、悩んだとしても、彼の人生や生活が一変するようなことではなかった。
では、なぜ悩むのか。
それは、彼が人でありながら、何かしらの天界や宇宙の原理のようなものの一員であるはずだと想うことを、身をもって明かしたいというようなところからきているのかもしれない。
彼のそういった人生での、人としてまっすぐに歩めないところや、どうしても人でないものに対して興味が沸いてしまうようなところは、集団の中にいて、居心地の悪いものであり、彼に対しての周りの気遣いや、優しさをなかなか受け入れられなかった。
それほど、彼が抱えてきた幾何学的な悩みは、周りには理解しがたく、それならばいっそ哲学者や研究者にでもなればいいということもあったが、彼はその境遇になかったし、またその勇気すらなかった。
彼が今頭をかかえているのは、自分のいかなる思いや悩みが人にはわからず伝わらないことで、そんな自分を責めてしまうよりいっそ、変人にでもなろうかということだった。
そういった人でないものになることで、幾分か彼の心は軽さを帯びるのだ。けれど、人と会うことがだんだんに苦手になっていく自分や、人に自分のすべてを出せないことは、今の彼を最大に苦しめていた。自分らしくあろうとすることに、どれだけの労力がかかるのかを、他の人は知らない。それを難なくやってみせようと演じる自分にも疲れてしまうのだった。彼は、いま人を一切しりぞけ、自分だけの世界を築こうとしていた。けれど、それは、彼の孤独を大きくすることでもあり、また同じ苦しみを生み出すという予感を抱かせていた。
人が、人の世界で生きるときに、この悩みが尽きることがあるのだろうか。
今やっている自分のいかなるものが、重苦しく、耐え難く思われたときでも、これをまた明日に繰り返すことを想像しうるだに、むなしいことはなかった。彼によりそいし魂の本質も、彼のこういった悩みには、触れるそぶりもなく、どんどんもの悲しく侘しくなっていく自分のことも、苦手になっていくのだった。彼は、それほどになるまでに、自分の人生を深く考えていた。
けれど、これを人が理解できるようなことはなかったのだ。悩みはどこからくるのだろう。何もない、その平らな地においても、悩めしものはあとをたたないのではないだろうか。
それが、彼のいう無常の原理であったとして、夕べにいずるものは、それ相応の魂をもってして、いかなる暁となるだろうか。
彼が心の葛藤を繰り返し行きつく先の大きな智慧とやらは、彼を救うのだろうか。
彼の心が、人をうらやむことを忘れれば、行きつけるのだろうか。
彼はいつも、そうやってたくさんのことを考え悩みぬき、どうにもならなくなったところで、すっぱりと切り替える。
その跳ねっかえりのしなやかさは、年々弾みをますばかりだったが、彼の悩みや心の状態は、傍から見えればよくわからないことだった。
周りの人が彼が苦しそうだと感じたとしても、彼自身がどれほど宇宙につながろうと努力も悩みもしているかということを、他のものが察することはできなかった。
そして、そんな周りの者の目を彼は、凡人だと思って責めていた。
何故この苦しさがわからないんだろうと。
彼は周りの人が当たり前にやっているあらゆることをできない代わりに、自分は何かひとつを秀でてやるべきだということをわかっていなかった。
他と同じになろうとして、できない自分を責めることを続け、そんな自分を宇宙に祈るのだった。
彼が気付くとすれば、ただひとつ、彼自身が他とは違うことを認め、あらたに自分を癒し見出せる場所を見つけるしかないのだった。
彼の想う仕事や生き方も、他の何かになろうとするのではなく、自分をそこまで追い込まなければならないほどの、彼の気性や個性やかかわりや生きづらさをすべてカバーするくらいの、彼だけの門を開かねば成らないということだった。彼が他であろうとすることをやめなければ、あらゆる対人の悩みは尽きることがないだろう。けれど、その意識が自分ではなく人に目が向いているうちは、なかなか自分の本来の姿には気付けないものだ。
それがわかるとすれば、何か大きなきっかけが起こるしかないのではないのだろうか。
彼に生かせるものがあるとすれば、そのあらゆることを考える頭と、本質を見ようとする目、そして、そこから生み出される巧みで繊細な表現方法ではないだろうか。
それをどこで、どう使うかは、本人にもまだわからない。いや、本人に何かをすることは勇気がないのかもしれないが、それに気づいているものがいるとすれば、彼の妻のリディだろう。
彼女は、誰かであろうとする彼を、自分自身であり続けてほしいと、願わずにはいられなかった。苦しむ姿をみるたびに、彼が誰かであることをやめて、ありのままの自分を出せる場所をみつけてほしいと願わずにはいられないのだ。
人との関係も、仕事も彼には難しく、手に余るというより、彼にそれを円滑にしてゆく術と居場所がなかった。彼がいつも自分らしくいられる所じゃない場所にいられたのは、いままでありとあらゆることを本人が耐えてきたおかげだったといえよう。自分から遠ざかり自分以外の誰かになろうとし行き詰まり、彼は、いや彼の本質は大きく道の変換を余儀なくしたのだ。
彼を支えたあらゆる悩みや、対人で得る苦しみすら、そのすべてが代価となって、いま彼に報いろうとしている。彼はこのことに気付いていない。
誰か他人であろうとする、いままでの自分の意識で居続けるほど、代価となる道は険しく遠ざかるのかもしれない。
彼の精神はすでに、この世のすべてに限界をかんじていた。
彼を破綻させるものが、目にうつるあらゆるものであったとすれば、そこで彼の魂は生きていないことになる。
と、すれば、彼の生きづらさや悩みとは、答えそのものをだすことが大切なのではなく、彼の生きる道の変換を指し示すためのツールとして存在していたということになる。
彼が悩んでいる間も、他人には託せないものが、天から与えられている。
このことの意味を彼には、いまは理解できない。