Stand alone.
これは救いのない話だ。
Stand alone.(ひとりで立て。)
――この言葉で泣いてしまう人以外には。
「香苗は幸せでいいよね」
さつきは口癖のようにその言葉を繰り返す。
私は、はは、と嘘みたいな笑顔を浮かべながら、その言葉をするりと受け流す。受けとめちゃいけない。心臓を抉られてしまうから。内側に入れずに、そっと、やんわりと、受け流す。いちいち傷ついているわけにはいかないから。
私には友達がさつきしかいない。
「うちの家なんか、親が離婚してから、もう大変で、」
さつきと話すたびに、私は悲しいくらいに孤独を感じる。唯一の友達と一緒にいるのに寂しいなんて、本当に、変なの。
「それに比べて、香苗の家は、両親仲良しだし」
さつきの、全く羨ましくなさそうな言葉が私をすりぬけていく。
親か。病弱な妹のことばかり四六時中考えて、私のことなんかどーでもいい親か。
「妹もいるじゃない?」
妹ね。病弱で、わがままで、周りからいっぱいいっぱい愛されてて、私のことが大嫌いな妹がね、確かにいるよね。
「幸せな家庭、って感じよね。それに比べてうちはさ……こないだもお母さんがストレスで腹痛になっちゃって……」
さつきは眉間にぎゅうと皺をよせ、はぁと深い溜息を吐く。
――ダメダメ。うちは昔からこうだけど、さつきの家は、最近大変なんだもんね。話、聞いてあげなくちゃね。
「大変だね。お母さん」
もう何千回と聞かされた気がする話に、なるべく情がこもった声で返事をする。聞き飽きて、どんな返事も陳腐になってしまう。それに。
「え、ちょっと、そういうのやめて?」
どうせ何を答えても怪訝そうにされるし。
「大変だね、って何もわかんないじゃん、香苗はさ。どうしてそういう同情するわけ?」
しないと泣き出すじゃん、さつきは。
でもそうは言わない。そう答えたら、さつきは「何でわかってくれないの? どうして私にひどいこと言うの?」と泣き出すから。
ごめん、と答えれば、さつきはますます怪訝そうな顔になる。
「何? 何で謝るわけ?」
「……ごめん、その、よくわかってないのに、同情とかして」
「ほんとよ。幸せなあんたにわかるわけないじゃん。舐めてるわけ? 馬鹿にしてんでしょ」
「してないよ」
「意味わかんない、ほんと無理」
さつきは溜息を吐いて立ち上がり、教室を飛び出していく。あー、今日はこのパターンか。
黒板の上にかかった時計を見る。時刻は午後五時。五時半から委員会の仕事が入ってるけど……三十分で機嫌治せるかな。けど、追いかけないわけにもいかない。追いかけなかったら、一週間近く、さつきは酷く傷付いた様子で過ごすし、「あんたのせいであんなに傷ついた」「友達としてどうなの」と散々責めてくるのだ。どうせ今追いかけてもおんなじこと言われるんだけど。長引くくらいなら、今いろいろ言われた方がまし。
私は重い身体を引きずって、さつきを追いかける。案の定、わかりやすい階段の踊り場にいて、声を掛ければ、半泣きになりながら責め立てられる。聞いているうちにお腹がキリキリと痛んできた。
私が何をしたって、言うんだろ。
ごめんね、と何度目かわからない言葉を、私は吐く。
「春田さん、泣いてたけど、どうしたの?」
委員会の仕事――大量のプリントをひたすらホッチキスで挟んでいくだけ――を教室でだらだらと行っていれば、もう一人の委員、進藤くんが心配そうな顔をして尋ねてきた。
今、教室にいるのは私と彼だけ。夕焼けが教室に差し込んで、なかなか良い雰囲気だったりする。青春っぽい朱色の中に、優しい表情をした進藤くんがいて、荒んでいた心が少しだけ癒された。
進藤くんは優しい。委員が一緒になって初めて話すようになったけど、彼の柔らかな雰囲気に少しずつ惹かれるようになった。さつきは唯一の友達だけど、厳密に言えば、私が気楽に話せるのは、さつきと進藤くんの二人だけだ。
「うーん……まぁ、さつき、結構参ってるみたい」
「また何かあったの?」
優しい声で進藤くんは尋ねる。そこに好奇心の色はなく、本気で心配してくれているのが両眼の震えに見てとれた。
「特別なことは何も。半年くらいあの状態だから」
「そうなんだ。大変なんだね」
「そうだね」
進藤君は深くは聞かず、何かを理解するように頷いている。穏やかな様子に思わず泣きそうになって、こんなんじゃ駄目だな私、と思う。
「水野さんは?」
「え?」
「君は何か大変なこととかないの? ずっと春田さんと一緒にいるけど」
……言葉に詰まる。
見つめてくる進藤くんの目は真摯だ。ぐらぐらと何かが揺れていく音がして、こんなこと、誰かに話すつもりもないのに、ぽろりと言葉が溢れていく。
「そ、だね、ちょっと大変、かも」
「そうなんだ」
「うん。……さつき、がさ、やっぱり八つ当たりとか激しいし」
「八つ当たり?」
「そ。もう、ほら、半年くらい? ずっと私に当たってるから。友達として支えてあげなくちゃいけないっていうのはわかってるんだけど、もうそろそろ……悪くもないのにあれこれ言われるのは辛いというか、限界というか……私も――」
嫌な記憶が蘇る。
幼いころから、病弱な妹の為に尽くしてきた私。家族内では妹が一番で、私はゴミみたいな扱いだ。ほったらかしならまだいい。妹の為の踏み台になれと平気で言われるんだもの。病弱で、妹は可哀想だなと思うけど、でも、その妹は、こんなに尽くしてあげてるのに、私のことが大嫌いだ。尽くしてあげてるとか考えてるから嫌いなのかな。私だってこんな自分嫌いだよ。
「――幸せじゃないから……」
幸せじゃない。さつきが幸せだとは言わない。十二分に不幸だろう。でも私だって幸せじゃない。私じゃない人に、どうして幸せだ、なんて言われて、不満のサンドバックにされなきゃいけないの?
「……ごめん、変な話した」
まずい。いきなりこんな話は、重くてびっくりさせてしまう。私は慌てて微笑んだ。きっと優しい進藤くんは、こんな重い話をされたらしんどいだろう。そういうことをしたいわけじゃない。いつも優しく話してくれるだけで嬉しいから。
笑って誤魔化そうとした、その時、顔を上げた私の視界に、怪訝そうに眉をひそめている進藤くんの表情が写り込んだ。さつきとそっくりな表情だった。
「水野さん、それは、違うんじゃない?」
「違うって……?」
進藤くんの声が固い。
まずいまずいまずい、ちょっと待って。今はやめて。開いているものを閉じる時間がない。待って。でも進藤くんは待ってくれない。
「確かに、水野さんだって悩みがあるかもしれないけど、それを春田さんと比べてどうこう言うのは違うんじゃない? 春田さんが辛いのは事実なのに、それを八つ当たりだとか言うのはおかしいよ。悪くもないのに、っていうけど、何か、春田さんが傷つくようなことを言ってるんじゃない? だから、春田さん、いつもああやって泣いてるんじゃない?」
息が出来ない。馬鹿みたいに私の顔は笑ったままだ。ぴく、と頬が僅かに引き攣るが、笑うのを止めたら、泣き出してしまいそうだった。
「前から思ってたんだよ」進藤くんは低い声で続ける。「水野さん、もっと春田さんのこと考えてあげなよ。八つ当たりだなんて、春田さんはそんなことする人じゃないよ?」
「…………何で、そう、思うの?」
問い返した言葉は枯れている。それなのに、喉にはたくさん粘りけがあって、どうにも上手く息が出来ない。
進藤くんは当然のような顔をして答える。
「だって、春田さん、俺にもみんなにも優しいよ? そんなことする人じゃないんだよ」
――だめ。
進藤くんの言葉はすりぬけてくれない。安心して、油断していた私の心に、その言葉が刺さる。
そうだよね。そんなことする人じゃないよね。わかってるよ。でも私にはそうするんだよ。私が「おはよう」って笑って挨拶するだけで、「楽しそうだね」って怒るんだよ? 私が「おはよう」って言うだけで泣き出したりするんだよ? 別の日には向こうから楽しそうに挨拶してくるのにね。私が少しでも相手を傷つけたら怒るんだよ? 泣くんだよ? 私がいくら傷ついても気付こうともしないのにね。私にだけそんなことするんだよ。私が連絡しても向こうは無視するなんて多々あるのに、それどころか「私は落ち込んでたのにそんな時に連絡してくるなんて」と一週間くらい口をきいてくれなかったりするんだよ。それなのに、向こうの電話やメールへの反応が遅れたら、「私なんかどうでもいいんだ!」って怒ったり泣いたりするんだよ。なじられるんだよ。私にだけ、私だけ、そんな扱いするんだよ。私にだけ。ただ、私にだけ。私はそんなことしてもいい存在なんだよ、さつきにとって。
進藤くんはさつきの話を続けている。でももう何も聞こえなかった。笑うのをやめたら泣けるかな、と思ったけど、両目は驚くほど乾燥していて、ただ、息をする度に、心臓が鋭い痛みに悲鳴を上げた。
そして、作業が終わって、進藤くんは、用事があるからと足早に教室を去っていった。私は教室で沈みそうな夕焼けを見つめながら、さつきがやってくるのを待つ。さつきはいつも私と一緒に帰りたがる。私のこと、嫌いなんじゃないの? もう何なの?
そういうところがあるから、私はさつきを憎めないでいる。私の唯一の友達はさつきだけど、さつきにとっても、私は唯一なのだ。わかってる。だからこそ、私には当たり散らすんだって。あれは信頼の裏返しだって。わかってる。だから、耐えてる。いつか、いつか、幸せになったさつきが、せめて、私に、泣きもしないで怒りもしないで笑って話をしてくれれば、いつかせめて、ありがとうとか、ごめんねとか言ってくれれば、それで。私たち、友達だもん。
――こう思うなら、いちいち、さつきのこと、悪く思ってちゃ駄目だよね。進藤くんの言う通りなのかもしれない。うん。
吐き出した溜息は想像以上に重くて、自分でも驚いてしまった。
しばらくして、何だか嬉しそうなさつきが教室にやってきた。興奮した口調で何かを話していたけど、その時、下校のアナウンスが鳴って、それに被って何も聞こえなかった。私は教室の窓を閉めながら、アナウンスが鳴り終わるのを待って、聞き返した。最後の窓を閉めた時、さつきが笑いながら言った。
「進藤くんと付き合うことになった!」
――――――、
「あのね、今ね、告白されたの、呼び出されて!」
――? ? ?
「進藤くん、私を支えたいって言ってくれた。私のこと、誤解せずに、支えてあげたいって!」
? ????
「嬉しい、支えてくれるんだって。私そういう人、初めて。本当に嬉しい」
唇がぱくぱく動いている。また何も聞こえなくなった。いや、言葉は聞こえているはずなのに、それが頭で意味を成さない。
進藤くんが。
あ、なるほど、ああ、さつきのこと好きだったんだ。
そっか。そうだよね。いつも、委員会のたびに、私と話すたびに、さつきのこと聞いてたもんね。
あの優しい声も、
柔らかい表情も、
真摯な瞳も、
全部、全部全部、さつきのためのものか。
それで、そっか。さつきを支えるんだ。
さつきを? 支える?
支えてくれる人が、はじめて?
私は? 私今まで何してたの? あれだけ色々されて、あんなに、え? あれは支えになってなかったの?
ていうか、そっか。
これから、さつきの一番は、進藤くんか。
「私、なんとか立ち直れそうー」
さつきは嬉しそうに話す。
「相談相手が出来るっていいよね! 凄く嬉しいし心強いの!」
頭がぐちゃぐちゃだ。そうだね、ははっ、だなんて意味のわからないことを私は答える。さつきはいつも通り怪訝そうに眉を顰める。
「何それ? そんなにどうでもいい?」
笑ってるだけでも褒めて欲しい。
とはいえ泣きそうでもなかった。泣くのって大変なんだなぁ。今泣いちゃえば、さすがのさつきも少しは心配してくれるかもなのにね。
駄目だ。この思考回路は駄目だ。
「あは、そっか、おめでとー」笑えてる、大丈夫。「いいな、私も、相談相手、ほしいなぁーなんて」
「もー。悩みが出来たら、私に言えばいいじゃん」
その言葉は私をすりぬけてくれなかった。心臓が止まりそう。悩みが出来たら。そうだね。うん。出来たら、ね。
*
帰宅して廊下に荷物を下ろし、溜息を吐いた途端、扉が開く音がした。振り返れば、妹の由梨花だ。この子も今帰ってきたらしい。中学三年生で、受験勉強まっさかりだ。鞄がひどく重そうに見える。華奢だからなおさらだな。
「おかえり」
そう言えば、由梨花はギッと目をつり上げる。
「ちょっと、お姉ちゃん、何してんの? 洗濯物放ったままじゃん。家帰ったらすぐ取り込んでよ。えーっ、ありえない、廊下に荷物も置きっぱ? 着替えてもないし! 不潔!」
「あー、今、帰ってきたところで」
「でもやるべきこといっぱいあるでしょ! ほんっと信じられない」
「だから、ほんとに今だから……」
「もういいから早く洗濯物入れてよ。今日雨だよ。お母さんたち帰ってくるの遅いのに」
だらしない、と由梨花は吐き捨てる。疲れている心にその言葉は刺さる。鞄を持ち、二階へ上がる。同じく自室が二階にある由梨花が、鞄を重そうに抱きかかえながら、すぐ後ろをついて上がってくる。
「ほんと、いつもいつもいい加減にして。あたし受験生なんだよ? 余計な事で頭いっぱいにしたくないの。少しは協力してよ。ただでさえ病院も行かなくちゃいけなくて、時間ないのに」
「だから、いつも、あんたの分も、家事の手伝いしてるじゃない、私」
「それが何」
「何って……」
じゃあ何で責めるのよ、八つ当たりじゃん。
いくら家族でも、毎日毎日毎日小言を言われていれば、それがどんどん溜まっていって、身体がどんどん重くなる。また溜息を吐けば、キーッと後ろで沸騰する音がする。
「何なの! お姉ちゃん! あたしは大変なのに! いい? 受験生なんだよ! 病院もあるの! お姉ちゃんみたいに楽じゃないの! どうしてわかってくれなの!」
どうしてわかってくれないの、か。
私もまったく同じ気持ちだ。
「……ごめんね」
「もういい。洗濯物よろしくね、あたし今から勉強するから」
由梨花はふんと顔を逸らし、自室へ飛び込む。ばたん! と勢いよく扉を閉める音がした。あぁ、これは、夕食まで機嫌悪いの長引きそう。ご飯いらない! とか言い出して、お母さんが心配して、私が「いい加減にしなさいよ」と責められるのだ。いい加減にするって何を……? 何をいい加減にすればいいの……?
自室に鞄を投げ、ベランダに出る。空気には雨の匂いが混じっていた。洗濯物を取り込みながら、ずるずると昔の記憶が引きずられて蘇ってくる。
香苗ちゃんがいてよかったわねぇ。
おばあちゃんが、うちのお母さんに言ってた。
あんたたち親が死んでも、由梨花ちゃんのこと、香苗ちゃんが面倒みれるでしょ? お姉ちゃんがいてよかったわ。
おばあちゃんはそう言って笑ってた。
――私って、由梨花の世話役なの?
そのために生まれてきたのかな?
思い返せば今まで何でもかんでも由梨花に踏みつぶされてきた。小さい頃は由梨花が本当に危険な状態だったから、自分はわがまま一つ聞いて貰えた試しがない。小学生、中学生の頃も、私は遊び盛りだったのに、由梨花が自宅療養を続けてて遊べず、可哀想だから、私も学校からそのまま帰宅させられていた。友達なんか出来なかった。それなのに、由梨花は中学に入る頃に無事健康になり、解放されたように遊びまわっている。今は高校受験に忙しいが、私は来年の受験で「絶対に国公立大学にして。就職しても良い」と言われてるのに、由梨花に親が持ってくるパンフレットは、全部私立高校のものだ。わかるよ、由梨花は身体が弱くて、まだ何があるかわからないって。可哀想だって。でも。でもさぁ。
洗濯物を入れ終わり、着替える気力もなく、私はそのままベッドに倒れ込む。汚いと怒られるんだろうなぁ、面倒臭いなぁ、と思いながら。
――誰かに八つ当たりできる人は良い。
――誰かに発散できる人は良い。
――八つ当たりは嫌だから、せめて、ただ話を聞いて欲しい。
さつきのこと。進藤くんのこと。由梨花のこと。親のこと。
誰も私を理解してくれないこと。
話したい。
でも誰に話すの?
さつきには言えない。幸せなのに文句を言うなと言われるから。進藤くんは、そんなに親密じゃないから家族の話は出来ないし、さつきのことは全部悪口だと思われてしまう。由梨花は、私が嫌いだし。親は、由梨花が一番で、「我慢しなさい」と言うし。
……話す相手がいない。
――いやいや、ちょっと待ってよ。
じゃあ、私、これを一人で抱え込んでいくの? いや、まぁ、今までも、ずっとそうしてきたけどさ。でも、さつきは、進藤くんに話せるし、由梨花はお母さんやお父さんに話すのに、私は? 私は誰にも言えなくて、悩みなんかない幸せ人間のままなの?
嘘でしょ。
私には、独りで抱えて、生きて行く勇気がない。とんでもなく寂しい。独りなんて。誰か理解して欲しい。孤独から救ってほしい。
でも誰が――
「香苗? どうして制服のまま寝てるの」
想像以上に時間が立っていたらしい。部屋の入口に、お母さんが立っていた。
「お母さん、」
「何、ひどい顔して」
「あのね、あの、……つらいことがあったんだけど、その、話聞いてくれない?」
とっさに出た言葉だった。
すると、お母さんは怪訝そうに眉を顰め、首を傾げた。
「やぁね、あんたらしくない。何なの?」
「あの、友達から八つ当たりされてて……」由梨花の話は、やめておこう。「ちょっとつらくてさ」
「そうなの、大変ね」お母さんは瞬きする。「あ、そういえば、洗濯物入れてくれた?」
「え? うん」
「そ。ありがとう」
ぱたん。扉が閉まった。え?
……確かに、話は聞いてくれたけど。
それだけ?
やや遅れて、頭が理解する。そっか、どうでもいいんだ。私のつらさは、お母さんにとって、由梨花が「今日、雨に濡れてやだった」と文句を言うくらいのもんなんだ。
しばらくして、お母さんが戻ってくる。そして由梨花の機嫌が悪いけど、何なの、といつも通りの説教が始まる。
ごめんなさいと謝れば、お母さんは満足げに部屋を去る。私の相談話なんてすっかり終わったような顔をして。
私はぼすんとベッドにもう一度倒れ込む。
いつまでそうしていただろう。晩ご飯の催促の声が聞こえたが、お腹が痛いからいらないと断った。動く気になれなかった。窓の外の空の色がすっかり暗くなっている。このまま眠って朝を迎えようかと思ったが、朝なんか来てほしくなかった。
ずるずると時間だけが過ぎていく。ポケットにスマホが入っていたのを思いだして、取り出した。時刻は午後十一時。充電していなかったから、スマホの電源は残り五パーセント。アイコンが真っ赤になっている。
このまま倒れてても無駄なだけだ。
私は動きの重いスマホを操作して、ネットを開け、検索画面をタッチする。
『助けてくれる人 いない』
ぐぐぐぐぐと読み込みメーターが動き、ゆっくりと検索結果が広がる。
ぱっ、と目に飛び込んできた記事は、
『誰も助けてくれないのは、あなたの性格に原因があった!?』
だった。
掌からスマホが滑り落ち、その角で額を打つ。なかなかに痛かったが、不意に抉られた心の傷の方がはるかに痛かった。
そうか。私のせいか。
そうなんだろうね。
何だかもう疲れた。
重い身体を引きずる。どこかへ逃げたい気持ちでいっぱいだった。どうせどこへ行っても独りなのには変わらないけれど。
階段を駆け下りる。居間からうっすらと光が漏れている。両親の笑い声が聞こえてくる。由梨花の偏差値がね、あの子はがんばってるわね、そんな話が聞こえてくる。私は逃げるように、玄関へ走った。適当に靴を履き、外へ飛び出す。雨の匂いが強烈だけど、まだ降ってはいなかった。あまりに暗くて、その見慣れない闇に一瞬怖気づいたけど、まぁ、どうでもいいや、と思う。背後で扉が閉まった。ずるずるずるずると重い身体を引きずって歩く。ひとりぼっちの散歩だ。どこにいても独りだから一緒。
暗闇の中を歩く。住宅街を抜け出して、少しだけ町の方へ。車がたまに通り抜けていく。町といっても、そこまで高くないビルが並んでいるだけで、どこも明かりが消え、静まり返っていた。
ふと、目の前の信号が青に変わった。
行く宛てもなく、横断歩道を渡る。そのまましばらく真っ直ぐ歩いていれば、近くの信号がまた青に変わった。吸い込まれるように、そちらへ渡る。また歩いていれば、すぐ近くの信号が青に変わる。まるでどこかに導かれているようだった。信号が青に変わる度にその道路を渡り、進んでいれば、不意に、明かりの点いた建物が見えた。二階建てで、その大きく入り口が開かれている。穏やかな光が漏れ出ていて、扉の上に、「Cinema」という文字がうっすら点滅している。かなり古い映画館みたいだった。そこへ続く横断歩道の信号がまた青に変わる。私はその目の前へと近づいた。映画館の扉の前に、立て看板が置いてあり、そこには
『閉館最終上映・Stand alone』
と書かれている。閉館するんだ。
ふと、その看板のすぐ下に、何か小さな紙が落ちているのを見つけた。何となく、拾い上げる。何だろう――と手元を見ようとした途端、その掌に冷たさを感じた。ぽっ、ぽっ、と雨音が響く。雨が降ってきた――と思うや否や、何かが勢いよく叩きつけられるような音がして、一気に雨水が降り注いできた。
「わっ……」
一瞬で降ってきた雨に濡れてしまう。慌てて映画館の中に飛び込めば、すぐそこにパンフレットの棚に囲まれたカウンターがあり、よれよれのシャツを着て、牛乳瓶の底のような眼鏡をつけたおじさんが、こちらを見ていた。
「チケット」
おじさんはしゃがれた声でそんなことを言う。
「え、あ、違うんです、その、雨が、えっと、財布、今……」
「チケット、もう持ってるけど」
おじさんは私の手元を指差す。えっ、と驚きながら手元を見れば、さっき拾った紙には、『最終上映:Stand alone』と書かれていた。どうやら映画のチケットらしく、開始時刻なども書かれていた。言われるままにおじさんに差し出せば、おじさんはうんと頷き、そのチケットを受け取る。
「もう開いてるから。あと一分くらいで始まるから、早く好きな席に座りな」
おじさんはそう言って、すぐ突き当りの壁を指差す。そこには真っ赤な扉があって、開かれた状態になっていた。その奥に薄暗いスクリーンと座席が見える。
「え、あの、」
「これ良かったら使って」
おじさんは問答無用といいたげに、真っ白なタオルを私に突き出してくる。一瞬とはいえ雨に濡れたせいで、私の髪からは雨粒がしたたっていた。
……まぁ、いいか。どうせ、どこにも行けないんだから。
「ありがとうございます」
私はごにょごにょと返事をして、タオルを受け取る。それきり、おじさんは興味がなさそうに私から視線を逸らした。私が未成年であるとか、深夜に出歩いてるとか、そういうことはどうでもいいらしい。かえってありがたかった。
身体をタオルで拭きながら、私はシアターの中へ入っていく。ショッピングモールの中にある映画館とは違い、座席数は少なく、床に高低はなかった。とりあえず一番後ろの席にしよう。席に座る前にきょろきょろと辺りを見渡したが、客の入りは三分の一くらい、二十人くらいしかいないようだった。最終上映なのに。あんまり人気のない映画館だったのかな。私もここに映画館あるの知らなかったし。
しばらく座席に身を沈めていれば、さっきのおじさんがふらふらとシアター内に入ってきた。そしてぼそぼそとした声で、これが当館の最終上映であることを告げ、普段はスクリーン上でだらだらと流れているような、干渉の注意事項を話し始める。前の方のお客さん、おじさんの声聞こえてるのかな。
話し終わったおじさんは、では、どうぞ楽しんで、ともう一番後ろに座る私くらいにしか聞こえないような声音で言い、そっとシアターを出ていく。重い扉が閉まる音がした。ややあって、ふっ、と視界が暗くなる。じじじ、と不思議な音がして、真っ黒だったスクリーンに文字が浮かび上がる。
Stand alone.
映画のタイトルだ。
――独りで立て。
あぁ、と私は思う。独りで立て。そう言われて、はい、わかった、独りで立ちます、独りで生きますと私は言えない。わかっている。私はどうしようもなく独りだ。その孤独を認めてしまった方がきっと楽だ。だれか助けてくれと喚くより、誰か支えてくれと泣くより、自分の孤独を理解した方がずっと楽なんだ。諦めた方が、ずっと。
画面の文字が消えて、一度暗くなり、またじわじわと文字が写りだす。筆記体が浮かび上がり、その下に真っ白な字幕が輝く。
『これは救いのない話だ。』
――何やらシリアスな映画を見てしまったらしい。戦争映画とか、ショッキングなものだったら嫌だな。あんまり耐性がないし、それを見てられる余裕が、今の私にはないや。
しばらくして文字が消え、少し色褪せてはいるものの、カラフルな映像へと移っていく。緑の森の中。両手で抱えるくらいの大きさの岩に、文字が乱暴に刻んである。Stand alone.しばらく岩が映っている。ややあって、遠くの方から、ざ、ざ、ざ、と木の葉を掻き分ける音がする。そして画面の中に、西洋人の青年が入ってくる。彼は泥だらけで、ぼろぼろの姿をしていて、そのまま森を通過しようとしたが、ふと、木の影にあるの岩に気付く。
そして、岩の文字を読み、青年はいきなり泣き始めた。ぽろぽろと涙して、愛おしそうにその文字を撫で、静かに、画面から消えていく。
意味がよくわからないまま、画面がまた暗くなった。今度映ったのは、ありきたりなビル街である。ニューヨークと字幕が光る。
――簡潔に言えば、それはゾンビ映画だった。
だらだらと日常を過ごす主人公――アメリカ人の男性だが、さっきの青年とはまるで違う――だったが、突然、世間にゾンビが溢れ出す。主人公は恋人や友達、行き連れの仲間と共にゾンビ・パニックを起こす街中を逃げてゆく。血、残酷なシーン、気持ち悪いシーン。正直、失敗した。こんな映画を見るくらいなら、家で寝ていればよかった。あるいは、行く宛てもなく夜の街を歩いていればよかった。
あんまりゾンビ映画というものをよく見ないからわからないけど、そんな私でもありきたりだな、と思えるようなシーンが続く。ショッピングモールに逃げ込んでみたり、もういいと単独行動を始めた人がゾンビになったり、金髪美女がやたらセクシーなシーンを見せたり。
――見ているうちに、少しずつ、イライラしてきた。ゾンビ映画ってこういうものなのだろうか? 主人公が必死で生き延びる方法を探っているのに、周りの人間は、彼の恋人でさえ、彼の思惑に背いたことをする。考えなし、配慮もなし、気遣いもない。主人公がたくさん考えた決断に対し、それを踏みにじる様なことを周りがする。そして少しずつ仲間はゾンビになり、最終的に――まだ体感では三十分も経ってないうちに、仲間は全員ゾンビになってしまった。主人公は必要な物資を持って一人でショッピングモールを抜け出し、近くの森へと逃げる。
それから、主人公は、森で一人で生き始めた。たまにやってくるゾンビを、あれこれ画策して駆逐し、ただひたすら生きる。最初はスリリングだが、どんどん退屈なものになっていく。
――どうして、この人、こんなにまでして生きるんだろ。
同じことを繰り返し、たまに死にかける主人公を眺めながら、私は思う。
――さっきから生者が全然出てこない。もう主人公しか生存してないかもしれない。生きてても辛いだけだし、安眠すらろくに出来ないし、お腹だって空くのに、どうしてこんなに頑張るんだろう?
――誰も助けてくれないのに。
主人公の境遇は生き地獄に見えた。だって、終わりが、救済が、見えない。救いのない話って、そういうこと?
現に、主人公はときどき酷く暗い顔をし、寂しそうに古ぼけた写真を見たり、恋人の遺品に触れたりしている。どうしようもなく独りぼっちなのだ。
誰もいないのに、独りぼっちなのに、どうしてこの人は頑張って生きてるの? 腐った屍ばっかりが周りを徘徊してるのに。誰も主人公を抱きしめたり、肩を叩いて励ましたり、愛したり、慰めたり、癒したり、してくれないのに。
私の考えを無視するみたいに、主人公は淡々と生活を続ける。いくら屍が現れても、彼には単調な生活へと変わっていく。特に波乱のない生活が続く。
そして、主人公はナイフを持って岩に向かう。そこに、乱暴な手つきで、
『Stand alone.』
と切り刻む。それきり溜息を吐き、主人公は画面から消える。
ぱっ、と画面が暗くなった。これからどうなるんだろう――と思いきや、真っ黒な画面に、スタッフロールがゆっくりと流れ始める。どうでもいいBGMがちゃらちゃら流れ出し、びっくりしてしまった。
これで終わり?
何の解決にもなってない。
――救いのない話ってそういうこと?
何それ。
驚愕している私の目の前で、スタッフロールの背景が映像に変わる。それは冒頭の映像だった。全く同じ。疲れ果てた様子の青年が――それは映画の後半の主人公の様子とよく似ていた――ふらふらと画面に現れる。そして岩に書かれた言葉を見る。そして泣くのだ。
Stand alone.
青年はその言葉を撫で、画面から消えていく。主人公の最終場面と同じように。
――この青年もひとりで生きてるんだ。
主人公とおんなじように。誰も救ってくれない人生を、必死で、ひとりで生きてるんだ。
じゃないと、泣いたりしないもの。
急にそんなことに気付いた。映画の中でそんな描写はないのに、間違いなくそうだと思った。ほぼ直感だった。でも間違いはない。
主人公もひとりで生き、青年もひとりで生きている。
――私もそうだ。
そんなことを思う。スタッフロールが流れ終わり、画面が真っ黒になる。そして、文字が浮かび上がる。ENDの文字かと思ったが、違った。
『Stand alone.』
岩に刻まれた文字のように、その言葉は私の目の前で、画面に刻まれている。
この映画を作った人も、そうなんだ。
がつん、と頭を殴られた心地がして、乾ききっていた瞳が急に痛みを訴えた。痛い、と思うが否やぼろぼろと涙が溢れ出して止まらなかった。慌てて借りていたタオルで涙を拭く。今までずっと泣けなかったのに、不思議なくらい涙が溢れて止まらない。
シアター全体が明るくなり、座席からばらばらと人が立ちあがり、通路を通っていく。見てみれば、誰もが一人でやってきた客らしかった。そして、誰もが、目尻を赤くしているのだった。中には、まだぽろぽろと泣いている人すらいた。みんな、いきなり殴られて驚いたような、そんな顔をしていた。
みんな、そうなんだ。私だけじゃなくて。
少なくとも、ここにいる人は、そうなんだ。
じゃないと、泣いたりしない。
Stand alone.そんな残酷な言葉に、泣いたり、しないでしょう。そうじゃなかったら。
シアターから人の気配が消えた気がした。私もごしごしとタオルで顔を拭き、座席から立ちあがる。よろよろとシアターから出れば、扉の前で、くたびれた様子のおじさんが頭を下げて客を見送っているところだった。
ありがとうございます、とお礼の一つでも言おうと思いながらタオルを差し出したが、奇妙なことに、言葉が出ない。何か言おうとすれば、また泣いてしまいそうだった。
おじさんはみんなとよく似た眼をしていて、私からタオルを受け取ると、しゃがれた声で、
「スタンド・アローン」
と囁くように言った。
「……スタンド・アローン」
私も震える声でそれに返して、映画館を後にした。雨はもう止んでいた。来た時と違って、横断歩道の信号は赤い。周りに人の気配はまるでない。さっきまでいたお客さんたちはどこへ行ってしまったのだろう。みんな、足早に去っていったのかもしれない。それぞれの、救いのない日常へ戻る為に。
信号が青に変わる。私は水たまりを飛び越えて道路を渡る。
Stand alone.
映画の主人公も、映画の青年も、映画を作った人も、映画館のおじさんも、他のお客さんも、私も、みんな、みんな、救いのない日常を生きていて、どうしようもなくひとりぼっちなのだ。
浅すぎて気付けなかった水たまりを踏む。水がびしゃんと跳ねる。目の前の信号が赤に変わる。
これから先も、少なくともしばらくは、私を救ってくれる人も、私を理解してくれる人も、私を支えてくれる人も、いないだろう。さつきは相変わらずわがままで、そして明日からは進藤くんを一番にして生きるのだろうし、進藤くんの一番は初めからさつきだった。由梨花は私が嫌いだし、家族の一番は由梨花。私は誰からも見向きされずに、ひとりだ。
でも、でも、でも、それでも、生きていく。
誰も救ってくれないけど、いつか救いがあると信じて、生きていくしかない。あの主人公のように。そして、他のみんなのように。
Stand alone.
私たちは、一人で立って、生きなくちゃいけない。
――でも、私たちは、独りではない。
Stand alone.
どこかにいる誰かの為に書きました。あなたかもしれないし、あなたじゃないのかもしれません。
孤独ではありますが、独りではないのです。