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太陽の照りつける道

作者: 笑珈ニコ


雨が降っていた。

外は灰色に包まれ、霧が周囲を覆っていた。


今日は珍しく、早くに目が覚めた。

時刻は午前六時を回ろうとしている。

頭上に置いてある目覚まし時計のアラームを切り、私はベットから体を起こした。


部屋の中は雨のせいか、どんよりとした空気が流れている。

何となく、やる気が失せる。


登校の時間まで、あと一時間半以上もあったので、もう一度寝ようかと思い、ベットに横になったものの、目が覚めきって眠気はやってこない。


私は再度体を起こした。

背伸びをして、すぐ側のカーテンを開ける。

外は雨が、音を立てながら降っていた。

溜め息を吐き、しばらく雨の音に耳を澄ませる。


『ザーー、ザーー。』


雨の音は心が沈む。

そのせいだ。

思い出したくもない事が、無理矢理、脳裏に映し出される。


昨日、友達が言っていた。


「明日、マラソン練習じゃんか。」


しかし、今日は雨だ。

マラソン練習は、きっと中止になるだろう。


『やったじゃん!今日、マラソンないよー。』


学校に着いた私は、そう言いながら友達の恵美に近づいて行くのだ。

恵美は嬉しそうに頷いて、

「ラッキー」と言うだろう。


私は考える。

この決められた会話をどの様に継続していくかを。


『ね、昨日のテレビ見た?』


無駄に陽気な声を出す自分が浮かんだ。

興味なんかないくせに、そんな話題を持ちかける。

相手が何を考えているかなんて分からない。

けれど、恵美も笑って『見た見た!あの子出てたよね。』と話すのが安易に想像できる。


話が尽きて沈黙が流れる事を恐れ、前にも話した事のある様な会話を何度でも繰り返す。


皆、そんなものだ。

友達付き合いなんて。

人間関係なんて。


何も面白くない。

何をしても満たされない。

一日一日が、変化もなくマンネリに過ぎていく。

時間だけが先を急いで、何もしない内に日が暮れる。


もう、うんざりだ。

だけど、そこから逃げ出せない、弱い自分がいる。

そんな自分にも、もう沢山だった。




そういえば、雨だった気がする。

あの時は、ずっと雨だった。

気を抜くと思い出したくもない、あれが、ぼんやりと虚像を作る。

歯痒くて、落ち着かない。

今日もまた、昨日の様な時間が流れようとしていた。


チクリと胸が痛む。

それは誰にも分からない。

本人である私ですら理解など出来ないのだから。


この、何でもないのに泣き出したい様な叫びたい様な斑な感情。

ほら、またあれだ。

いつだって、『あれ』が私を縛り付ける。


もう何年も、それから私は逃げられないでいる。


雨は流れる。

時と共に過ぎて行く。

現在は、どんどん過去へと変わっているのに


私は、ずっと、あそこで止まって、何も変わっていない。










「笑香ちゃん、起きて。もう時間よ。」


それから気が付くと、時刻は七時になろうとしていた。

理子が甲高い声で私に呼び掛けながら、部屋の戸をノックしている。


私は、それをしっかりと意識しつつ、ベットに横たわり勢いよく布団を被った。

尚も続ける理子。

けれど私は、沈黙を続ける。


「笑香ちゃん?」


ノックが止まった。

扉の外から心配そうな声がする。

私は、咳をする振りをして、理子を部屋へ呼び入れた。


「お母さん。なんか、頭痛い。」


寄り添ってきた理子に、そう訴える。

彼女が、眉をひそめた。


本当は、頭なんか痛くなかった。

私は健康だ。

しかし私は、さも苦しげに咳をする。


理子は、端麗で聡明な顔を少し歪めた。


「風邪かしら……。」


そう言い、私の額に手を当て、熱がないかを確かめていた。

元気なのだ。

熱などありはしない。

それでも私は、苦しく咳を続けた。


見兼ね理子が私の頭をそっと撫で、優しく囁く。


「熱はないみたいだけど、学校、休む?辛いよね。」


私は、考える仕草をして

「でめ…」などと言いながら、鼻をすする。


「一日ぐらい休んでも平気よ。今日は休んで寝てなさい。」


理子が、そう私に促す。

この言葉を私は待っていたのだ。

私は、辛そうに

「うん」とだけ返事をする。


「学校には電話しておくね。今日は、しっかり寝てるのよ。後で温かい飲み物、持ってくるから。」


理子は言って、再び私の頭を優しく撫でた。

彼女の手は温かく、とても柔らかだった。


「ご飯は?」


その問いに首を振る。


「そう?じゃぁ、お腹空いたら言うのよ。お粥でもしてあげるから。」


ニッコリ微笑み、彼女は部屋を出ていった。

誰もいなくなった部屋に雨音が響く。


ずる休み………。


心の中で呟いた。

何故、休んだのか自分でもよく分からない。

ただ今日は、あまり人と話したくなかった。

友達に気を遣う気力がない。


不意に、私は一日にどれだけ嘘を吐いているのだろう、と考えた。

理子に嘘を吐いたのは初めてではない。

もう数えきれない程の嘘を、私はついている。

その度に罪悪感が私を襲い、悲しくて遣り切れなくなるのだ。

でも私は、嘘を吐く。

言い様のない罪悪感が、私を覆い尽くすのだと知りながら。


友達も、理子も、先生も、自分も。

偽りの言葉で誤魔化していく。


変なの。

馬鹿だな、私という人間は。


きっと、雨が降っているから、変な事を考えてしまうのだ。


なんで休んだんだろ。

私。


今学校では、私について、どんな話がされているのか、私は恵美にとって、その他の人間にとって、どの様な存在にあるのか。

そんな考えても仕方のない疑問が、次々と浮かび上がってくる。


『笑香休み?マジで?』


『つか、思ったんだけどさ。』


『なになにー?』


「………………アイツ、うざくね」


胸が張り裂けそうだった。


変なの。

全部あれのせいなんだ。


雨が止む気配はなかった。




















遠くで、蝉の鳴き声が聞こえる。

誰も居ない道路。

太陽が照り、アスファルトが焼けていた。


暑さは感じない。

そこには、見覚えがあった。

ずっと昔だろうか。

いや、もしかしたら、そんなに昔でもないかもしれない。


目の前の道は、三本にわかれていた。

右側と左側と、それから正面。


住宅が建ち並び、電柱が所々に立っていた。

歳を取った背の低い木や、名もないような草花。

赤や茶色、緑、様々な色の屋根があった。

古い家。

真新しい家。

マンションや忘れ去られた小さな小屋。

遠くには、スーパーの看板、コンビニ、電線が見えた。


けれど人は一人も居ない。

私は独り、道の真中にポツリと立っている。

この世界が、直ぐにでも壊れてしまいそうで怖かった。


蝉の声が騒がしい。

とても好きだった場所の様気がする。

しかし、今は凄く胸騒ぎがした。


蝉の声に焦りを感じる。

徐々に自分の胸の鼓動が速くなっていく。


なんだ?

何なんだ、これは。


心なしか、木々が騒ついている気がした。

耳元に蝉の鳴き声が、こびり付いて離れない。


『ミーン……ミーン…』


誰かいる。

目の前に大きな人が立っていた。

大人の男の人………。

誰だ?

顔が見えない。

黒いスーツを綺麗に着込み、背筋を伸ばして姿勢よく立っている。


『誰なの………?』


男は黙っている。

段々、怖くなってきた。

無口な目前の男が、人間では無いような気がしてならない。


突然、男が腕を振り上げた。

『ピカリ』と効果音が付いてもおかしくない程の、光る物体が男の手に握られている。

薄くて、長い。

先がひどく鋭く尖り、赤い液体が少し付いていた。


顔が見えない………。

怖いっ。


男の手にした物が、私に向かって降りてきた。


『な………に………?』


「ごめんよ。」


『ザクッ』


『キャァァーーー!!!!!』













「あああ!!!!!!!」


飛び起きるように目が覚めた。

心臓が音を立てて鳴り響いている。

頬に汗が伝い、それを掌で乱暴に拭った。


なんなのだ?

何なんだよ。


「何なんだよ…………もう。」


ひどく目眩がする。

泣きたくて仕方がなかった。


とてつもなく後味の悪い夢を見た。

思い出したくもない、消し去りたい記憶の夢を。


気持ち悪い。


私は、ベットから起きて一階へ向う。

立つと、視界が揺らいで一瞬、目の前が白くなった。目眩がする。

私は壁に手を突き、それが治まるのを待つ。


ようやく視界が治った、その時、理子の叫び声が聞こえてきた。


「きゃーーー!!」


私は、いつもの事だと思い、それほど気に留めなかった。

理子は、きっとゴキブリに悲鳴を上げているのだ。

彼女は、あれが大の苦手である。

なんでも、あの機敏な動きがダメなのだそうだ。


『速くて、襲ってきそうじゃない。』


この前、そんな事を言っていた。

私は構わず、一階の洗面所に向かった 

顔を洗い、うがいをする。

吐き気を催し、少し吐く。

お腹には何も入れていなかったので、苦い胃液しか出て来なかった。


私は再度、口をゆすぎ顔を冷たい水で洗い流す。

まだ気持ちが悪かった。


タオルで顔を拭き、理子のいるリビングへ向かう。

リビングでは、理子が殺虫剤を片手に彷徨っていた。

どうやらゴキブリが何処か、隙間に逃げ込んでしまったらしい。


「どうしたの?」


私が尋ねると、理子は、すっかり青くなった顔をこちらに向けて


「黒くて、気持ちの悪い、これくらいの生物が出たのよ。」


と開いている方の手で、その大きさを示した。

『ゴキブリ』とは口が裂けても言いたくない様だ。


私は、理子に近づいて、殺虫剤を貸してもらう。


「無闇やたらと撒いたって、ダメなんだよ。お母さん……」


「でもね、だってさ、あれって突然出てくるじゃない?」


「効果的に使わなくちゃ、勿体ないじゃん。」


私の言葉に、理子は険しい顔して口をつぐんでしまった。

その顔は、幼い子供のするそれとよく似ていた。

理子は、まだ三十歳にもならない女性だ。

彼女を見ていると、時々思う事がある。

あんな家にも、ろくに帰ってこない男と結婚なんてして良かったのだろうか、自分と、あまり歳の違わない娘がいて彼女は、どうにも思わないのだろうか、と。


理子を見ていると不安になる。

このまま、この生活が続いていくという保証など、何処にもない。

いつ私が、一人ぼっちになってもおかしくないのだ。


理子は優しい。

しかし、その優しさが爆発する事だってあり得る。

私は、いつも聞けずにいた。


『こんな生活で、幸せ?』




「笑香ちゃん、そんな事より寝てなくて平気なの?」


理子が心配そうに尋ねてくる。


「うーん。少し気持ち悪いかな。」


私は、殺虫剤をソファーの隙間やテレビの後ろ側などに撒きながら、そう答えた。

殺虫剤の嫌な臭いが鼻を刺激する。


「薬あるけど、……病院行った方がいいわよね?」


「ううん、大丈夫。病院なんて行かなくても、寝てれば治るよ。………はい。これで平気。」


殺虫剤を一通り撒き終わり、私は理子に殺虫剤を返した。

しかし、彼女はそれを手放す気はないらしい。

尚も殺虫剤を握り締めている。


「ああ、そうだ。お腹は?空いていない?」


気が付くと空腹感があった。

けれど、今は何も口に入れる気にはなれない。


「お腹空いてるんだけどね。何も食べたくないっていうか…。」


「そう?でも少しでもお腹に入れなくちゃね。お粥作ってあげる。無理しなくていいけど、口に含む程度にね。ソファーで休んでて。」


「ああ……うん。お願い。」


理子の言う事には、昔から逆らえなかった。

きっと、どこかで彼女に嫌われたくないと思っている自分がいるからだ。

私は、放っておくとどこかへ行ってしまいそうな理子を引き止めておくために、彼女に従う。


理子はきっと、私がそんな事を考えているなんて、思っても見ないだろう。


アイツが悪いのだ。

時々にしか家へ帰ってこないアイツが。


理子は、好きだった。

しかし、嘘を吐く。

嫌われたくないから、失いたくないから。

もう二度と、同じ目には遭いたくない。


「味付ける?」


キッチンから理子の声が聞こえる。

うん、と返すと彼女は

「了解」と言って、鼻歌を歌い始めた。

料理を作る時の理子の癖だ。


歌は、私が生まれる前からある様な洋楽ばかりだった。

ビートルズや、ボブ・ディラン、マドンナ、ビリー・ジョエル。

そういう、私のあまり知らないアーティスト達の歌だ。


何回も何回も、そういった曲を歌うものだからメロディーを覚えてしまって、私もいつしか口ずさむ様になっていた。


前に一度、鼻歌の原曲を聴いた事があった。

ボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』という曲だっただろうか。

私は、その時初めてフルコースでその曲を聴いたのだが、彼のしゃがれた声に私は、言い様のない衝撃を覚えたものだ。


もう何十年も昔の曲なのに、劣らない新しさを感じ、気が付くと曲にのめり込んでいた。



理子は気分が良いらしく、英語の歌詞まで口ずさんでいる。


どんな気分だ?


歌は尋ねる。

どんな気がするのか?と。


私を取り巻く全てのものがちっぽけで、弱々しく見えた。

自分の立場や存在さえ脆く、それはとてつもなく情けなくて、黒い何か霧の様な物が私を取り囲む。

私はどうしようもなく弱く、小さい人間に違い無かった。


理子の透き通った歌声が、私の耳に反芻する。

見慣れたリビングに一人、私は何だか無性に泣きたくなった。












白い靄が、視界を包んでいた。

目の前に黒いスーツの男が立っている。

怪しく光る長い鋭利な物を大きな手に持ち、物音一つ出さずに佇んでいた。

顔が見えない。

蝉の鳴き声がやけに耳に付いた。


『……ごめんよ。』


何故謝るの?


ブツリ。

何かが切れる音がした。

電話を一方的に切られた時の様な、肉厚のある何かが切断された様な、そんな音。


なんだろう。

変なの。












「笑香ちゃん。お粥、出来たよ。」


理子の声で目が覚める。

ほんの数分だが、寝てしまったらしい。


理子が、湯気のたったお粥をリビングに運んできた。

お粥の良い匂いが、鼻をくすぐる。


「美味しそう。」


思わずそう呟くと、理子は嬉しそうに笑った。

彼女の料理は美味しい。

料理人と言っては大げさだが、一時は調理師の勉強もしていたと言う話だ。

美味しそうな匂いに皆無に等しかった食欲も、今ではすっかり駆り立てられていた。


「頂きます。」


そう断ってから、一匙すくって口の中に入れた。

程よい甘みが広がる。

お粥には味が付いており、米の歯応えが少しばかり残っていた。

温かく、お腹の底から体温が上がっていく気がする。


素朴な味だが、私は彼女の料理が好きだった。


「美味しい。」


「ありがとう。まだお代わりあるからね。」


「うん。」


随分時間をかけてお粥を食べおわると、いつの間にか気持ちの悪いのが治っていた。


先程まで降っていた雨も止み、空には太陽が顔を出した。

時刻は午後1時を過ぎている。

普段なら、まだ学校で活動している時間帯だ。

なんとなしに後ろめたさを感じる。

勉強も遅れてしまったに違いない。

明日は、行かなくては。



「ありがとう。まだお代わりあるからね。」


「うん。」


随分時間をかけてお粥を食べおわると、いつの間にか気持ちの悪いのが治っていた。


先程まで降っていた雨も止み、空には太陽が顔を出した。

時刻は午後1時を過ぎている。

普段なら、まだ学校で活動している時間帯だ。

なんとなしに後ろめたさを感じる。

勉強も遅れてしまったに違いない。

明日は、行かなくては。


私は満腹感に身を任せソファーに寝転んだ。

理子はキッチンで洗い物をしている。

テレビも付いていない静かなリビング。

キッチンの方から、水の流れる音と、お皿がぶつかる、カチャカチャとした音が時々聞こえるだけであった。

私は、それらに耳を澄ませるように目を瞑った。


何年になるのだろうか。

あれから四年が経ち、私は十四歳になった。

あの男は四十。

皺が増えたし、何だか少しやつれた。

アイツは、あんなに綺麗な妻をもらったのに、家に近寄ろうとしない。

父親は確実に老いていた。

最近、顔も会わさない。


理子は夜中になると必ず電話をしていた。

けれどすぐに終わってしまう。

その後、彼女は泣くのだ。

小さな子供が誰にも気付かれない様に泣くみたいに、彼女は泣く。

私は、そんな彼女の姿を何度も目の辺りにした。


その度に、あの男に対して言いようのない怒りを覚えて、やるせなくなる。

時々、父親であるアイツを殴りたくなるのも、そのせいだ。


やりきれなかった。


私を取り巻く世界は、こんなにも狭いのだ。

大きな男が両手を広げるだけで、もう一杯になってしまう程に、世界は狭い。

人間が一人いれば私の世界は、ギシギシと音を立てて壊れて行く。




思い出す。

あれは夏の日。

蝉の声と照りつける太陽。

黒いスーツの男に、光るナイフ。

そして鮮明な程、赤い液体。


「………ごめんよ…………。」


男は謝って、泣いていた。



私の世界は狭い。

男が両手を広げるだけで、ギシギシと音を立てて壊れて行く程に。







「あの子は?あの子はどうなるの!」


「……あっちに、連れていこうと思う。」


二人の男女の会話が微かに聞こえる。

ひそひそと声を殺していた。


「そんな、そんなの身勝手すぎるわ。」


「君には関係ないじゃないか。あの子は私の子であって、君の本当の子じゃない。」


「…ひどい。ひどいわ…。あなたがそんな事思ってたなんて。」


女が泣泣きはじめた。

私は、夢を見ているのだろうか。

しかし、男女の声に聞き覚えがある。

身近で私の大切な人達。

ああ、そうか。

理子と父さんだ。


「………すまない。」


「………………。」


「さっきのは、言い過ぎた。笑香は君の事を慕っている。私なんかといるより君といた方が、あの子は幸せなのかもしれない。」


「どうして?何故そうなるの?私はあなたと別れるつもりはないわ。勿論、笑香と離れる気もない。」


理子が啜り泣き、震えた声で話していた。


これは夢じゃない。

キッチンの奥で、二人が話しているのだ。

どうやら、また寝てしまっていたみたいだ。

暗くなっている所を見ると、今は八時過ぎくらいだろうか。


父親が今日は、帰ってきているのだ。 

二人共、何を深刻な声で話しているのかと思えば、また離婚の話だ。

どうせ、あの男が持ち出したのだろう。

いつもそうだ。



これで、壊れてしまうのだろうか。


目頭が熱くなるのを自覚する。

もう何も失いたくはなかった。




「君は、まだ若い。こんな年ばかり食った男といたって、何も面白くはないだろう?」


「そんな事、ありませんっ!」


刹那、椅子が倒れる音が響いた。

理子の甲高い声が、それに負けずに出る。


「…そんな事ないっ。何故そう言うの?私が嫌い?必要がなくなったの?ねぇ。どうして?お願いだから、そんな事言わないで。」


「……それは違う。」


「何が?」


「私は、あまり家に帰ってこれない。これじゃ、私がいるもいないも同然じゃないか。それで、君や笑香に迷惑をかけるのだったら、いっそ全て元に戻したほうが良い。」


アイツは身勝手だ。

理子が夜中、声を殺して泣いている事を知らない。

それに私に、もうただの見当違いな心配をする事しか出来ないのだ。


口先だけたら、沢山嘘を吐ける。

私が嘘を吐くそれと同じ様に。


人は皆、なにかしら嘘を吐いて生きている。

それになんのメリットが無くてもだ。

それでも人間は嘘をつく。

結局は逃避か自らが楽になりたいためにすぎない。


アイツは、自分が楽になりたいだけなのだ。


あれから必死に逃れ様としている。

私とは違い、あの男は、いや父さんは、前に進もうと藻掻いているのだ。

しかし、私は何かを犠牲にしてまで前に進みたいなど思わない。


もっと他に方法はあるじゃにないか。

あの出来事から逃げても、何も変わらない事ぐらい父さんだって分かっているはだ。

なのに、やらなくても良い事を父さんは先走ってやってしまう。

結局、あの頃とは一つも変わっていなくて、時間ばかりが過ぎて行く。

理子の様に私達を優しく見守ってくれる人が、他にいるだろうか。

仕事でしか自分を偽れない男を泣きながら好いてくれる人間は、恐らく彼女くらいだ


私は、彼女を失いたくない。

父さんもきっと同じに決まっている。

それなのに、馬鹿だと思う。

私が重荷ならば、追い出せばいい、見捨てればいい。

どうしようもない男なのに、そんな事は決してしない。

腹が立つくらいに嫌悪する男は、しかし私のたった一人の父親だった。



「父さん。」


私は静かにソファーから立ち上がり、二人の方へ声を発した。

理子と父さんが驚きの顔を見せる。

それから、静寂に似た沈黙が流れた。

私は、ゆっくりとキッチンまで歩み寄る。

理子の赤くなった目が、しっかりと私を捉えていた。



「父さんさ。もう良いと思うよ。多分。」


私の声が、静まり返った空間を引き裂く。


「理子さん悲しませちゃダメだって。どうせまた転勤が決まったんでしょ?決まる度に毎回、そんな話されちゃ、私だって嫌だ。」


二人は黙って、私を見ている。

父さんは心なしか困惑しているようだった。


「私、理子さん大好きだし。だから泣いてるの見たくない。もう別れるとか、そういうのいいじゃん。理子さんみたいな人、そうはいないよ。父さんも歳なんだから、変な事言わないでよ。」


理子の泣き声と、父親の険しい目が交差して、私に迫ってくる気がした。


私は、また嘘を吐いた。


こんな事を言うのは、私ではない。

私が本当に言いたいのは、こんな下らない事じゃない。


変なの。



母さんは、どう思っているのだろう?




その場は、私の愚痴のお陰でどうにかおさまったのだと思う。

理子は泣きながら、私に抱きついて、そのまま何分もそうしていた。

アイツは、厳しい表情のまま自分の部屋へ戻って行き、それから出てくることはなかった。


前にも数回、同じ事があった。

その時も、父親の転勤が切っ掛けだった。



私は、何となく疲れていた。




どんな気分だ?

誰にも知られないと言うことは

一人ぼっちで

帰り道が無いという事は

どんな気分がする?



ボブ・ディランは、ハーモニカを吹き鳴らし、歌いだす。



どんな気がするの?














昔、海に行った事がある。

私がまだ小学校の低学年であったから、もう随分と昔の事だ。

それが、私にとって最初で最後の家族旅行だった。

どこの海だっただろう。


そこは、綺麗とはお世辞にも言えない海で、水は灰色であったし、気を付けていないと硝子の破片を踏んでしまう様な所だった。


それでも夏になると、そこは沢山の人で溢れかえり、人々の笑い声が絶えなかった。


勿論、私がいった日も人が溢れんばかりにいた。

暑い日だった。

外へ出れば、途端に肌が焼けてしまいそうになり、ビーチはサンダル抜きでは歩けないくらいの、猛暑だ。


今でも鮮明に思い出せる。あの入道雲や絵の具で塗ったように青い空。

沢山の人の笑い声。

小さな子供の上げる嘆声。

全てが、未だに私の中で存在し続けている。


そこに、小さな五歳程の女の子がいた。

その子は、海で溺れている。

いや、溺れていた。


私が、ビーチの砂で遊んでいた時の事だ。

ふと顔を上げると、そんな光景が目に飛び込んできた。

周囲の人々は、女の子が溺れている事に気が付き、慌ててその子を助けようとした。


女の子の母親らしき女性は、涙を浮かべながら必死に名前を呼んでいたと思う。

母親の血が出んばかりの叫び声に私は思わず、鳥肌が立ったのを覚えている。

それは恐怖だった。


溺れていた子は、その内、藻掻くことを止めて、ついには力果て、水面に浮かび上がった。

女の子は、静かにまるで、遊んでいるかの様に波に揺られていた。


周囲から悲鳴が上がる。


女の子の母親がその場に崩れ落ち、大声で泣き始めると、私は言いようの無い不安を覚え、母さんの元へ走って戻った。


母さんは、私の精一杯の話を聞くと悲しい顔して、それから私を抱きしめてくれた。

母さんの体は、とても暖かかった。



それが私にとって、初めて死を知る瞬間であった。



それから数年後、私は冷たい母さんの体を抱き締める事になった。


私の脇腹には、大きな傷痕がある。



私は、沢山の死を見てきた。

あんなに簡単に人間と言うものは、無くなってしまうのだ。

弱くて、小さい。

ちっぽけで、だけど尊くて愛しい。



失うのは、もううんざりだ。傷つくのも、泣くのも。

そんなものはいらない。


これが私の全てで、幸せではなうけれど、決して不幸ではない。

きっと、私は彼らの前で幸せだと言うだろう。


それが例え偽りであっても。


母さんの暖かい温もりは、私の手の中にあって、そしてそれだけは嘘ではない。




どんな気がする?

ディランは尋ねる。


何も変わってはいない現実は、目の前のものから目を逸らし、あの日を思い出して立ち止まっていた。


どうしたらいいの?


ディランは、周りに惑わされなかった。

自分を偽った事もあったに違いない。

だけど、決して目を逸らさなかった。


私は嘘を吐く。

自分が楽になるために。



ボブ・ディランを聴きながら、私は静かに眠りに就いた。



また、朝がやってきた。

私は、学校へ行く準備をする。


何も変わってはいないけど、何故か今の私は何でも出来るような気がした。


黒いスーツの男は去年、有罪判決が下され、冷たい檻の中へ入れられた。

連続通り魔。

私の傷痕と母さんを最後に、それは幕を下ろしたのだった。


あの日に別れを告げるなんて思わない。

でも前は見るのだ。

偽りの幸せに身を委ねて。



外へ出ると、昨日の雨など微塵も感じさせないほどの快晴だった。


うん。行ける。


耳の奥で、昨日聴いたボブ・ディランの歌が聞こえるような気がした。


どんな気がする?


無意味に問い掛けられた歌。

答えなど見つからないけれど、それでもいい。


私は、玄関で家中に響き渡るような声で

「行ってきます」

と言った。

優しい理子の

「いってらっしゃい」と、心なしか父さんの低い笑い声が聞こえた気がした。


私は、太陽の照りつける道を、ゆっくりと踏みしめた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 少し感動しました。所々、読みづらい印象を受けましたが、なんだか深い作品ですね。
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