第62話 駆け落ち
ヨハネは困惑した。
また、パウロがいなくなったのだ。
行先は分かっていた。女奉公人が寝泊まりしている工房裏の小さな林だ。あの生意気な新入りは、いつの間にか女奉公人の一人と仲良くなって、週に何度も逢引をしていた。
ヨハネは自分の部屋を出ると、階段を降りて商会裏の路地に出た。
初夏の夜は、何か人を落ち着かせない不思議な空気で満ちていた。遠くからラーナたちの呼び合う声が聞こえた。月明かりは青白く裏通りを照らしていた。
彼は鼻孔の奥に湿り気と生暖かさを感じながら、大股で織物工房へ進んだ。工房の一階は明りが消されてすっかり暗くなっていた。二階では女奉公人たちが寝ているはずだったが、鎧戸の隙間からは薄明かりが漏れていた。
まだ誰か起きている証拠だった。
その下を通ってヨハネは織物工房裏の林に足を踏み入れた。
林の中はピーノの落ち葉が絨毯のように敷き詰められ、彼の足音を消した。この林に住む栗鼠たちが短い鳴き声を上げながら樹間を飛び回っていた。彼は目を細めて暗い林の中で人の姿を探した。一番大きなピーノの木の下で人影が二つ重なっていた。
ヨハネは大きなため息をついた。自分が今からやろうとしている事は、他人の恋路の邪魔だった。それでも女奉公人頭から注文があった以上、自分の下に付いている 男奉公人に注意せざるを得なかった。
彼は昼間、メグに強い口調で言われた時の事を思い出した。
「ちょっと!」
商館二階の廊下を歩いていたヨハネはメグに呼び止められ、服を引っ張られて物影に連れ込まれた。
「なに?」
ヨハネは驚いてメグの蒼い目を見た。それはいつものように活力に満ちて輝いていた。
「ねえ、何とかしなさいよ」
「何の話をしているんだ」
「あなたの所のパウロよ。あのすばしっこい男の子」
「パウロがどうしたのか」
メグは辺りを見回して人影がいないか確かめると、ヨハネの襟首を右手で軽く掴んで彼の顔を自分の顔に引きつけた。メグは頭半分ほどヨハネより背が低かった。頭の後ろで結んだ金色の髪が揺れて、ほのかな髪の香りがヨハネの鼻さきを捉えた。メグは抑え気味の早口でしゃべり始めた。
「あの男の子はね、うちのセシリアと仲良くしてるの。最近は毎晩仕事が終わると、裏庭でセシリアと逢ってるのよ。何とかしてよ」
「それは知らなかったけど、それがどうかしたの」
ヨハネは小首をかしげて言った。
「『それがどうかしたの?』じゃないわよ。あの二人そのうち駆け落ちしちゃうわよ。わからないの。あなた女の子を使って仕事したことないでしょ。女の子を集めて仕事をしようとすると、必ず男の子が寄ってきて連れて行っちゃうのよ。それで人手がどんどん抜けてくの。セシリアはうちの工房じゃ、いっちばん腕がいいのよ。仕事が早くて丁寧なの。仕事が速い娘はたくさんいる、丁寧な娘もたくさんいる、でも速くて丁寧な仕事ができる職人はそうそういないのよ。セシリアを連れて行かれたらわたし困るわ。今は織物の仕事が黒字になるかどうか大事な時なのよ。そんなときにセシリアみたいな優秀な娘が抜けられると困るのよ。わかるでしょ」
「ああ、そうか」
「『ああ、そうか』じゃないわよ」
メグは柳眉を逆立てて言った。
「パウロはあなたの部下でしょ。だったらあなたから言いなさいよ。工房の仕事の邪魔をしないようにって。あなたは頭なんだからそういうのも仕事の内なのよ。なんで個室を使わせてもらえると思ってるのよ。仕事が多くて責任が重いからでしょ」
「ちょっと待ってくれよ」
ヨハネはメグの右の手首を掴んで離させた。普段男たちに交じって力仕事をしている彼の手首と比べると、か細く柔らかかった。メグは頬を少し膨らませて、胸を押し潰すように腕組みをした。切れ長の目がヨハネの目を睨み付けた。その姿は、好感と滑稽さが入り混じった不思議な感情を彼の心に芽生えさせた。
「毎晩合ってるくらいでなぜ駆け落ちまで話が飛ぶんだ。大げさだよ。それにパウロはまだ十五歳だ。そのセシリアっていう娘は……」
「セシリアも十五歳」
「十五歳で何ができるんだ。考えすぎだよ。放っておけば熱も冷めるだろう」
「十五歳だからこそ、駆け落ちしちゃうのよ。いちばん見境のない歳なんだから。あなた何にも知らないのね。十五歳なんて人生でいちばん情熱的でいちばん頭に血が上りやすいのよ。あとさき考えずに行動しちゃうんだから。それに奉公人が抜けると、経費を踏み倒して逃げたことになっちゃうのよ。奴隷扱いになっちゃうの。セシリアもパウロも街に居場所がなくなるのよ。あなた、二人をそんな目に遇わせたいの?」
「そりゃ遇わせたくないけど……」
「前に私の生まれた村で織物の仕事を請け負ったことがあるの。女の子たちを集めて仕事を始めたんだけど、一人の女の子が駆け落ちしちゃったのよ。その娘は奴隷の身分に落とされて売られちゃったのよ。セシリアにそんな目に遇って欲しくないの」
メグはヨハネを睨んでいた目を自分の足元に落とすと、胸の前で組んでいた腕をほどいて、両手を黒いスカートの前で握り合わせた。
ヨハネの目には、メグが少しだけ小さくなったように見えた。握り合わせた両手は細かく震え、結んだ髪は微かに揺れた。
「分かったよ。パウロに言っておくよ」
ヨハネは静かにゆっくりと言った。
「ほんと! お願いね」
そう言って、メグはヨハネの左手の袖口を掴むと彼の顔を下から覗きあげた。そして振り返ると黒いスカートをひらめかせて商館の奥へ行ってしまった。




