第32話 殷賑のエル・デルタ
ヨハネは馬車小屋から一番小さくて古い箱馬車に馬を一頭付けた。これは以前カピタンの私用馬車だったが、今では誰にも使われず、馬車小屋の奥で埃をかぶっていた。
通常、奉公人の分際では馬車には乗れない。馬車は富貴と支配の象徴であり、エル・デルタの街では、市参事会に出資するような市民しか乗れなかった。
しかし、貿易量が増えるにつれ、沖仲士おきなかせの頭目や売春宿の楼主ですら小さな馬車に乗り始めた。また、料金を取って人を乗せる馬車業者も現れ始め、エル・デルタ大通りは様々な形態の馬車がしきりに行き来する馬車と轍の街へと変わりつつあった。
これは街が急激に豊かになっている証拠だった。ヨハネは箱馬車の使用についてトマスの許可を求めた。当然、拒絶され叱責されると思っていたが、それなら黙ってでも使ってしまえ、と思っていた。
それくらいペテロの帰還を祝福したかった。
だが、意外にも今回限りという条件でトマスは許しをくれた。「なぜ、馬車を使いたい」とのトマスの問いに「親友を喜ばせたい」とヨハネが答えると、トマスは歯を見せずに両方の口角を上げて笑って答えた。
「使え。ただし今回一度限りだ」
ヨハネは一番年を取った馬に馬具を付けて馬車に繋ぐと、御者席に乗った。そして馬に鞭を入れて馬車小屋を飛び出した。馬車は春の柔らかい空気を押し退けながら進んだ。その箱馬車は古いだけあってギシギシと音を立てた。ヨハネは馬車を操りながら裏通りを通って大通りに出た。
視界が一気に開けた。御者台からは広い大通りの先が見渡せた。道行く人々や小さな商店は下に小さく見えた。大通りの大きな建物は、徒歩で歩く時よりずっと低く見えた。しばらく進むと、馬車は緩やかな坂道に差し掛かった。ヨハネは馬と箱馬車が適切な距離を取れるように注意深く馬を走らせた。年老いた馬は一気に汗を流し始めた。その汗はすぐに白い跡となって馬の皮膚に張り付いた。
馬車は坂を上り切った。そこからは下り坂だったが、その坂の上からは、エル・デルタの美しい街並みが一望できた。
その風景は市民たちの誇りだった。
石垣の防波堤に囲まれた中州の集合体が、エル・デルタの街だった。
堤の石垣は規則正しく積み上げられ、中州同士を繋ぐ赤い橋たちはアーチ型に造られていた。河の増水時には石垣が街を濁流から守り、アーチ型の橋の下を増水した河が通り抜けた。
橋は人馬だけを渡しているわけではなかった。
この街では、北の山々から引かれた清潔な水を、特別な水路で街中に行き渡らせていた。人馬用の橋に並行して、水路が川を渡るための特別な橋が造られていた。人々はその水路から生活水を得ていた。
みな市参事会の仕事だった。市参事会が雇い入れた技術者の指導の下、奴隷や奉公人たちが作業を行った。その石積みや川さらいにヨハネも商会から派遣され参加した。その作業は過酷かこくを極め、河の深みにはまって溺死する者、石積み作業の最中に巨石の下敷きになって潰れ死ぬ者など、たくさんの犠牲者が出た。
死ぬのは市民ではなくワクワクの奴隷か、ヨハネのような混血の奉公人だった。奉公人は死ぬと桶に詰められ、奉公先へと送り返されたが、奴隷はその場で現場の責任者が簡単な報告書を作ると、その場に埋められて墓碑も立てられなかった。
そのような血なまぐさい煉瓦と石積みの町並みでさえ、ヨハネには美しく感じられた。何かを作り上げる仕事に自分が参加できた経験と、自分が汗を流し、痣を全身に作りながら働いた結果がこの美しい街の姿である事実に、彼は満足感を憶えた。
大通りは幾つかの中州と橋を通り、突き当りの港まで続いた。ヨハネは馬車を停め、御者台の上から沖を眺望した。穏やかなエル・マール・インテリオールは今日も太陽に照らされて青く輝き、沖には十数隻のガレオン船が高々《たかだか》と停泊していた。
ガレオン船は日焼けと再塗装を繰り返した末、赤銅色に赤黒く輝いていた。そこから様々な人と物を乗せたハシケが数えきれないほど陸地に向かって押し寄せてきた。
その中にペテロがいるはずだった。




