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紙コップの崖っぷち

 風が吹いている。

 不安定な足場の上でわたしはなんとかバランスを保った。

 スカートの裾がばさばさとはためいても、手で押さえる余裕はない。

「せんぱい! どうですか!」

「どう…す…って何が…」

 こんな危険に追い込んだ張本人を前にして、一言毒づいてやろうと思ったけど、わたしの声は風に飛ばされて、三メートル先の彼女にさえ聞こえないようだった。

 この強風では、叫ばないと言葉は届かないんだろう。

「どうですかって! 何が!?」

「きまってるじゃないですか!」

 安心院清花は前に一歩踏み出し、わたしはその分後ろに下がる。

 ここから先は空だ。

 校舎の屋上は増築に増築を重ねたせいで飛び込み台のように張り出していて、立ち入り禁止になるのも頷ける危ない空間だった。

 こんな所にほいほいついてきたわたしにも問題があったと、ちょっと反省してみる。

 再び強風にあおられ、体をぐらつかせたわたしは、近くにあった柵の残骸らしき合成樹脂のパイプをつかむ。風雨にさらされて脆くなっていたのか、手元でぽっきりと折れた。

 ほんとうに困る。

「どきどきですか!?」

 安心院清花はこの状況にもまったく動じていない。視線をわたしから決して外さないところをみてもそれはわかる。

「吊り橋効果ってあるじゃないですか!」

「はあ!?」

「吊り橋の上で出会った男女が、危険から来たどきどきを、恋愛感情のどきどきと混同してしまうってやつです!」

「あー、それどこかで聞いたな! それがなに!」

「だーかーらー!」

 本当はわかってたんだ。

 この期に及んで問題から目を背けていた自分。

 彼女の瞳に宿る熱は、これまでの人生で何度か見たことのあるものだった。

「これだけどきどきできれば恋の花も咲きまくり! ということです!」

「それ説明した時点でダメだろ! つかそれ以前に女同士だし! ああもうどこからつっこんでいいのか」

「大丈夫です! 性別なんて私、気にしませんから!」

 なるほど。彼女が何事も気にしないたちだってことはわかった。

 でも相手の気持ちくらいは気にしてほしいものだ。

 いや、こちらの心を知ってたからこんな強引な手段をとったのか。

「とにかく戻ろ! 話は後で聞くから!」

「だめです!」

 彼女はさらに一歩前進。

「今この場じゃないと、どきどきしないじゃないですか!」

 まいったな、これなんとかならないものか。

 視線を素早く動かして、自分の置かれた状況を再確認。

 屋上端の張り出した部分に立っているから、目の前の彼女をよけて前に逃げることはできない。

 そして背後は空。落ちればそのまま地面に真っ逆さまだ。

 いや。こちらは<中央側>だった。なら逃げ場はあるか。

 無意識のうちに手放さずにいたパイプを見る。

 どうだろう。これでいけるか。

「ビーチェ? 聞こえる?」

『聞こえているのであります。マコト殿!』

 安心院清花に聞かれないくらいの音量で話しかけると、頭の中にかわいらしい声が響いた。

「このパイプだと、どう?」

 なるべく言葉数少なく、口を動かさないように。

『本気なのでありますですか?』

 そりゃまあ驚くだろうが。

 わたしは口を閉ざしたまま、次の言葉を待った。

『検索終了。近似した組成が三例あります。しかし、ここではリンケージ不能なのであります』

「どこならできる?」

『二百メートルは降下する必要があるのであります。しかし、そこまで下がってもリンケージが成功する確率は八十パーセントに満たないのであります』

 それだけあれば充分だ。

「さあ、先輩! もっとどきどきしましょう!」

 安心院清花の目に不気味な光が宿った。もう時間はない。

「ビーチェ、リンケージ準備」

『二百メートルは降下しないと……』

 わかってるって。

「ごめん! わたし用事があるから!」

 最後の悪あがきに、笑顔で手を合わせてみる。

 答えは聞かなくてもわかった。

 ゾンビみたいにこちらに突き出された手をよけて、さらに一歩下がると、そこはもう空だった。

 落ちる瞬間、安心院清花の驚く顔が見えた。

 速度がつく前に、壁を思い切り蹴って校舎から距離をとる。

 後方宙返りの形で身体が一回転。

 校舎が足の先に消え、視界は空でいっぱいになり、そのまま頭が下がって向こう岸が見えてくる。

 新宿の正反対だから、上野あたりか。

 反射する光の線が右に流れていったのは山手線?

 いや、さすがにここからは見えないかも。

 今日は空気が澄んでいるのか、向こう岸の断崖は思った以上に鮮明だ。

 ゆるく滑らかな曲線を描き、絶壁は視界一面に広がっている。

 さらに回転して、下が見えてきた。

 赤黒い断崖はそのまま深く続き、底はきらきらと輝いている。

 山手線の内側に接するように開いた巨大な穴、<リンボヒラサカ>にわたしは落ちてゆく。

 この直径六千メートルの大穴を前にして感じるのは、驚き、畏怖、そして奇妙な懐かしさだ。

 なんだろう。

 わたしたちとは相容れない、間違いなく異質なものなのに、どこかとても懐かしい。

 そのまま回って足が下になると、制服のスカートが盛大にまくれあがった。

「わわっ」

 スカートを押さえて体勢を立て直し、左中指にはめたリングをパイプにこすりあわせる。

 厚い空気の層をナイフで切り裂くように、わたしはまっすぐに落ちていく。

 低く太い風切り音が身体を翻弄する。

『百五十。百。五十』

 頭の隅で進むビーチェのカウントを待つ。

 見上げれば校舎はすでに遠く、崖っぷちから落ちそうな小動物みたいに見えた。

『有効影響圏に入りました』

「リンケージ!」

『データリンク接続。リンケージ開始』

 宝石が赤く輝き、はじけるように指輪が手から飛び出すと、リングだった部分がタコの足みたいにパイプに巻き付いた。

 ここからが正念場だ。

 いくらこの穴が深いとはいっても、すぐに底へたどり着く。

 もちろんそれは本当の底じゃないけど、結局第一層の障壁にぶつかる。

 ぶつかったらだだではすまない。二階の窓から投げ捨てたトマトみたいに潰れてしまうだろう。

 そうなれば死ぬな、と思う。

 大丈夫。わたしは冷静だ。

『形態変化が始まったのであります!』

 パイプの方に意識を向けると、その形が変化し始めていた。

 五十センチくらいだった長さが、一メートル半くらいまで伸び、先端には棘のようなものが生え始める。

『この形、何なのでありますか? ゲバ棒?』

「箒だよ。つーか、ゲバ棒って何?」

『ゲバ棒とはゲバルト棒の略なのであります。ゲバルトとはドイツ語で暴力を意味し、角材の先端に釘などを打ち付けることにより……』

「そんな凶器作ってどうする!」

 まあ、たしかにちょっと箒には見えないか。

『あの、ホウキというと床を掃いたりするホウキでありますか?』

「そうだよ」

 わたしはパイプでできた箒の出来損ないにまたがる。

「でもこれは魔女の箒。空を飛ぶための道具!」

 形だけじゃだめなんだ。これが飛んでくれないと。

 パイプに巻き付いた宝石がさらに赤い光を強めた。

『落下速度低下』

「よっし!」

 パイプ箒の棘あたりで細かい光の粒がチリチリとはね回っている。

 減速し始めたパイプが、おしりにグッと食い込む。

 でも、落下はなかなか止まらない。

「ちょっと、なにこれ!」

『残念ながら、これが限界なのであります。焼け石に水なのであります。このままでは墜落死なのであります』

 背中を亡霊に撫でられたかのような戦慄。

「そんな! 何とかならないの!」

『前例が少なすぎたのであります。成功例の制御組成を試し尽くしたのであります。これ以上続けても、砂浜でたった一粒の砂を探すようなものなのであります。受容器も無いただの樹脂とリンケージするのは大変困難なのであります』

「簡単にあきらめすぎ!!」

 どうしよう。

 何とかしなくちゃ。

 落ち着け。試せることはまだ残ってる。

「わたしがやる」

『何をでありますか?』

「わたしが直接リンケージするから、宝石の<眼>を見せて」

『そんなの成功するわけ無いのであります。出来たらナビなんていらないのであります。自分は失業なのであります』

「前にもやったでしょ。ユニットの起動不良で……」

『あれは偶然なのであります。ほとんどオカルトの世界なのであります』

「他に試すことなんてないんだから、いいからやる!」

 わたしは太股の間で光を放つ宝石をのぞき込む。

 赤い光の向こうに、息づく何かが見えるような気がした。

『外殻展開。<眼>を露出するのであります』

 光がわずかに弱まると、変化が現れる。

 つぼみが花開くように宝石の殻が割れ、そこには<眼>があった。

 紅に輝く小さな銀河が見える。

 渦を巻く細やかな光。

 それはたぶんレンズだ。

 目をこらせば、その向こうが見える。

 それは宝石の<眼>であると同時に、わたしの<眼>でもあるのだ。

 見えるはずだ。

 あり得る可能性の世界が。

『制御組成構築開始』

 頭の中でビーチェの声が響く。

 わたしが<眼>の中に見たのは衝動だった。

 内なる何かに突き動かされ、のどの奥からあふれ出る言葉。

 その向こうにある、心の歯車の回転。

 それがピンホールカメラのように、<眼>を通してわたしの脳に焼き付けられる。

『制御組成確定』

 パイプが再びおしりに食い込む。

 速度が落ちてきてる?

 辺りを見渡してみる。

 まだかなりのスピードだ。

 気圧変化で耳が少し痛くなる。

『減速確認』

 唐突な、激しい振動。

「うわっ!」

 暴れ馬みたいに跳ねまわった箒が、わたしの身体を放り出した。

 必死に手を伸ばす。

 指先が一瞬箒に触れただけで、右手はむなしく宙を掴んだ。

 パイプ箒が上方へ流れる。

 空に向かって落ちていく。

 いや、落ちているのはわたしだ。

 空になった両手を握りしめ、歯を食いしばって見上げる。

 ほうきが減速しているせいで、その姿はどんどん小さく遠くなっていく。

 距離が開く。

 もうどうやっても届かない。

 わたしは、それを待っていた。

『コントロール範囲を逸脱。リンケージ解除』

「頼むから間に合ってよ!」

 仰向けの状態で、からだを大の字に広げた。

 出来るだけ空気抵抗が増えるような体勢を取って、落下速度を抑える。

 パイプ箒は形態変化を維持してたけど、力を失って加速。

 トゲトゲを下にして、縦一直線に落ちてくる。

 空気抵抗の分だけこっちの方が遅い。

 身体のバランスを変えて横に流れる。

 パイプほうきの真下、手でつかめる位置だ。

 タイミングを計った。

 あと少し。

 今、どこまで落ちてるんだろう。

 空を向いているからわからない。

 見えてない分だけ、冷静なのかも。

 胸の前まで引きつけて、パイプを掴んだ。

「リンケージ!」

 抱えるようにしてから身体を回転。

『データリンク接続。リンケージ開始』

 こんどはスムーズだった。

 トゲトゲの周りに光の粒が舞い散り、減速でパイプが身体に食い込む。

『減速確認』

 身体が大きく跳ねて放り出されそうになる。

 あわててもっと強くパイプにしがみつく。

 シェイカーの中に放り込まれたかのような、激しい振動に耐える。

 頭を強く打って一瞬意識が遠のきかけた。

 朦朧とした意識でそれでもなんとかしがみ続けて、気がつくと、既に落下は止まっていた。

 パイプからぶら下がった状態で目を開くと、空中で完全に静止している。

「よぅっし!」

 とりあえず心の中で強く拳を握った。

 心臓が激しく脈打っていることに気づく。

 動きたくはなかったけど、このままナマケモノみたいなポーズをとっているわけにもいかない。

 ちょっと情けない姿でパイプをよじ登ると、宝石の殻はもう閉じていた。

『すべて偶然なのであります。今後はこのような無茶は避けていただきたいのであります』

「いや、制御組成は固まったんだから、次からは大丈夫じゃない?」

 勢いを増すビーチェの文句を聞き流しているうちに、周囲を見渡す余裕が出てきた。

 この辺りはずいぶん暗い。

 底から届く僅かな光が、フットライトみたいに私を照らす。

 水の匂いがする。

 清流を思わせる心地よい空気。

 かなり底の方まで降りて来ている。つまり、結構危ういところだった。

 なかなかスリルあったな、と思う。

 ここまで下れば、<リンボヒラサカ>第一層の障壁もよく見えた。

 それは巨大な井戸の底だ。

 井戸水の代わりに、きらきらと輝く境界面が水面のようにたゆたっている。

 あたりには何もない。

 夜明け前を思わせる薄暗がりがどこまでも続き、湖面のような煌めきから水蒸気が幾筋も立ちのぼっていた。

 境界面の冷却作用で涼しくなった空気の中を、魔法の杖に乗って進む。

 わたしはこのちょっと湿った風が好きだった。

 なぜだかわからないけど、不思議と気分が落ち着く。

「このまま障壁越えられないかな?」

 なんとなく思いつきでつぶやいてみる。

『免許不携帯で減点罰金なのであります。受容器がなければリンケージも長くは続かないのであります。速やかに帰還することをお勧めするのであります』

「そうだね。帰ろうか」

 どうせすぐ向こうには行けるんだから。今は戻ろう。

 上には学校とか部活とか、楽しく退屈な日常が待っている。

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