第二章 婚約騒動 弐
午後のSクラスの霊育の時間に入り、誓たちはいつもの耐燃・耐透け・耐刃・耐弾加工をしてある運動服に着替えてグラウンドに出る。
「今日は五分間走を三回行う。使っていいのは肉体強化のみだ。自己身体能力の把握は重要だからな。最初の一本は調子を確かめながら自分なりのペース配分で。次の一本は自身の全力で。最後の一本はリンクして固有スキルによる違いを感じながらだ。リンクしたくない者は無理にする必要はないが、その場合三本目も全力で走って貰う」
担任の蘭華のはきはきとした声で、説明を耳に入れる生徒たち。
「さて改めて説明するが、このグラウンドは一周八百メートルと非術士の一般的なものと比べて随分大きい。が、超一流の術士であればこのくらいの広さは端から端まで短く感じながらも窮屈には感じない、くらいの境地には達しているだろう。君たちも卒業する頃にはグラウンドの反対側で友に呼ばれても、遠いなどとは思わずサラリと近くに移動して気楽に挨拶を出来るように」
「あははは、気楽に、ね」
慧の顔に乾いた笑いが張り付いた。
いや、顔に出していない者も多いが、生徒たちの心境はみな似たり寄ったりだった。
「ジャジャン! 突然だけど椿さんの主婦でもわかる出張解説コーナーよ」
時間を止め、時空を超え、赤縁眼鏡と指揮棒にホワイトボードまで携えての登場、五大魔神第二位は伊達ではない。
「今日のお題は一周800メートルのグラウンドの端から端までのおおよその距離は? というもの。さて、単純に長方形で考えればいいのだけど、何故そうなるか途中が気になる人もいるでしょう。
実際には縦200メートル、横およそ127メートルの長方形と直径およそ127メートル程の円(半円2つ)で考えるの。円周率、3.14ね。これで考えると、円周は127×3.14=398.78≒400。これと2つの縦200メートルを足して一周800メートル。
つまり、縦327、横127の長方形、その端から端で考えるという訳。
後は簡単な三平方の定理。
縦×縦+横×横=斜め×斜め
327×327+127×127=斜め×斜め
106929+16129=斜め×斜め
√123058=斜め
斜め=350.7962……
斜め≒351メートル 答えはおおよそ351メートル。
グラウンドだから、外枠に広がる余剰部分もあるでしょうけど、とりあえずはこれで考えてくれればいいわ。若い生徒たちではこの反応も納得かしら。
その辺の運動会に行く度に頭に浮かびそうな算数の問題だったわね。これでお子さんの尊敬の眼差しを得られること間違いなし。でも注意して、算数は人を選ぶわ。──それじゃまたね」
最後に世界を惑わす程の蠱惑的な声音を響かせ、五大魔神第二位が何事もなかったかのように微笑みと共に空へ溶けて消え去る。
突然な椿さんの主婦でもわかる出張解説コーナーから場面が戻り、時間と世界が動き出す。
「それと特異能力などで強化出来る者は可能なら準備しておくように。二本目は全力でやることに意味があるからな」
「全力か」
「流石に全員で走っては窮屈だから大体半分に分けていくぞ。という訳でリンク相手と固まっておけ。一分やる。後はこちらで適当に振り分けるからな」
パンッと蘭華が一拍鳴らし、ぼっちには怖いグループ分けの時間が始まる。
(リンク相手か。俺は……)
「よろしく誓くん」
環が当然のように誓の傍にやって来る。
「ああ」
(まあそうなるよな)
誓が状況に流されている中、慧や希たちが先に走り出す。
そこへ影が差した。
「少々よろしくて誓さん」
「赤口さん? 何かな」
「最後の三本目。私たちと勝負しませんこと」
(勝負ね)
「勝負って言っても。こっちは二人でそっちは四人だろ? どうやって勝敗に決着を?」
明らかに目的は別にあると当たりを付けつつ、誓は先を促す。
「別に難しいことではありませんわ。単純にメンバーの周回数を足した数の多い方が勝ちです」
「あらあら。天下の赤口家のお嬢様が、そんなあからさまに自分有利な条件を提示しちゃう」
様子を見守っていた環が、誓の傍から蒼衣を軽くつつく。
「傍から見ればそうですわね。ですが、そうでないことはあなたも分かっているでしょう」
「ふ~ん、それでも挑戦するんだ」
「ええ。炎導相手にいつまでも赤口が負けたままではいられませんもの」
軽く揶揄うような環に、強い口調で蒼衣が返す。
「分かった。ただし、勝敗に関してはこちらに譲歩してくれることが条件だ」
「火の第三位がまだ足りないと?」
「ああ。そっちは周回数の合計の倍で俺たちの合計と比べてくれ」
「な……」
まさかの実質4倍ハンデ。蒼衣の中で様々な感情が爆発し、思考が軽くフリーズした。
基本的に上位側にいた蒼衣にとって、それ程衝撃的な提案だった。
舐めた態度の相手や強がっている相手ならともかく、目の前の誓はあまりに落ち着いている。
そこから投下された言葉の爆弾を防ぐには、蒼衣にとって先日目に焼き付いた光景は鮮烈に過ぎた。
「ただの合計じゃ普通に考えてこっちの圧勝だ。俺独りですらそうなのにマキちゃんだっているからね。それじゃ最初から勝負にならないだろ? それとも三倍にするかい?」
「っ……倍で結構です!」
再起動を果たした蒼衣が、憤懣やる形無しといった風体でその場を去る。
「さて、真意はどっちかな。両方ってこともあるかもだけど」
「そうね。あの時は非常時で冷静に見れなかった可能性もあるし、改めて誓くんの力を測りたいのと、炎導に勝ちたいという気持ち。蒼ちゃんだし両方かも」
「蒼……ちゃん?」
聞きなれない言葉に驚き、蒼衣の後ろ姿を見送っていた誓は思わずその発信源である環に視線を移す。
精霊術士の学園で、火の精霊術で日本一にある家系のお嬢様相手にそんな呼び方が跋扈する筈もないので自然な反応と言えよう。
「だってもう様付けする必要ないし。赤口家に遠慮するような家柄でもないでしょ」
「なるほどね」
「私は別に誓くんが本気出さなくてもいいと思うけど。先生だって可能ならって言ってたじゃない」
「いや、マキちゃんの気持ちは有り難いけど俺も時間に余裕がある訳じゃないからね。折角訓練するなら有効に使いたい。とりあえず勝負とか関係なく連携を深めておこう」
「……分かったわ。それにしても、これじゃどっちが挑戦者なんだか」
一本目は半分の力──適正値30%──で走り、二本目は通常の全力である60%で目一杯走る誓。
それでも、全ての適正の練度を高い位置で纏めた誓が六周で一位に輝く。
二位に五周で環が入り、その環と周回数は同じだがやや遅れていた蒼衣が三位。
続いて赤口家所属の面々が後少しで五周という高い成績を残した。
「な、んだって。最大霊力値じゃ少しだけど赤口さんが一番なのに」
誓たちの結果に、やや小柄で華奢な体格の男子が驚きの声を零す。
「何言ってるのよ。この訓練は特異型や希少型以外大して総適正値に差は出ないんだから、最大霊力値の差が少しなら身体能力的に考えて男子が優位に決まってるじゃない。三万超えの私や今はいないフィリエーナさん相手ならともかく、鈴木に負けるなんて恥ずかしいぞ、上位層の男子たち」
そこに人差し指を立てたように見えるポーズで、ビシッと忠言を入れる希。
因みに、一組目は希が六周で一番、二位に五周で慧、その慧と周回数は同じだが少し遅れていた鈴木が三位となっていた。
「あまり調子に乗るなよ鈴風。次はリンクありだ。二人リンクのお前たちじゃ──」
「いや~、別に次は全力で走る必要ないし私たちはゆったり行くけど。ね、鈴木」
「はい」
(相変わらず自由だな。焚きつけるだけ焚きつけといて)
誓はそんな相変わらずな幼馴染みを横目に、息を整えながらスポーツドリンクを飲む。
一組目が守護精霊を呼び出し、リンクして走り出す。
先程希に弄ばれた男子の加賀里が、せめて二本目の希の記録は抜いてやると躍起になって走っていた。
(加賀里か)
土の精霊術、トップ横三役の一つだった家系である。
先月魔王に滅ぼされるまでは──。
尤も、滅ぼされたと言っても重要人物は少なからず生き残っている。
ただ、傘下の家々にいた熟練の術士や拠点などの多くが壊滅的被害を被ったため、トップ横三役として近く建て直すのは絶望視されていた。
事実上、トップ横三役としての加賀里は滅亡である。
(しかし土の精霊術士はトップ下三役とかトップ横三役とか、三役好きだな)
土の精霊術でトップの花道。
その横綱が頭一つ抜けているせいで、他の横綱が地団駄を踏んでいる状況だ。
トップ横と言うあたりが、それをいい意味でも悪い意味でも物語っている。
改めて加賀里を見遣る誓。
「んー、いいとも言えるし悪いとも言えるな」
精霊術は精神力に多分に影響される。
だから力は見た感じかなり入っているが、各種適正の制御がやや雑に扱われているせいで上手くその力を活かし切れていない。
「お~い加賀里。気合はいいけど補助にもっと気を遣えよ。せっかく陰陽型の須佐野さんとリンクしてるんだから」
「うるさいぞ遠藤。そんなこと分かってるッ。でも加賀里は攻撃型だから、補助に気を遣えって言われても遣えないんだあああ!」
((ダメだコイツ使えねー))
恥も外聞もなく弱点を叫ぶ加賀里に、多くの生徒たちが共通の認識を抱いた。
「悪い遠の字」
「アイツ、頭は悪くないけど、攻撃一辺倒だからさ」
困って悩む誓に、加賀里のリンクメンバーで如何にも質実剛健といった風体の石動と、ややチャラい印象を与える天城が通り際に声を掛けてくれる。
小柄で華奢な加賀里に、横幅含めて大柄な石動、その二人の間くらいでつまりは平均的な天城。
そこに文学系美少女で運動部のマネージャー、といった感じの須佐野が加わった図はバランスもよく、高尚ではないが親しみ易い絵画のように自然と視線が止まる。
トップ横三役だった家柄もあって、割と知られた四人だった。
加賀里たちは先の一件で親類を多く亡くしているというのに、御三家暗躍のデマが流れてからも誓への対応は変わらなかった。
いや、もしかすると親しくすらなっているように誓には感じられた。
(攻撃一辺倒か……それなら)
「強化だ加賀里。もっともっと強化しろ」
「はあ? もう十分限界まで強化してるって! 加賀里は攻撃型だぞ。万能型に言われるまでもない!」
「いやいやもっと出来るって。後二分もないし限界少し超えるくらいしないと、このままじゃ希の記録を超せないぞ」
望む結果を引き出すために、加賀里を煽る誓。
「クッ。鈴風も遠藤も言いたい放題……。調子に、乗るなぁあああ!」
とにかく持てる力の全てを出そうと、加賀里は集められるだけ集めて肉体強化に当てる。
徐々にガス欠へと近づくが、後二分持てばいいと思考を割り切った。
(……あれ?)
しかし、予想以上に減る霊力が大きく、疑問を抱く。
(ミスったか? 急がないと時間前にガス欠してしまう。せめて鈴風の記録は超さないと!)
再調整という手もあったが、ここからなら調整するより全力を出し切ってガス欠のまま+αを加えた方がいいかと再度思考を割り切る。
「ほぅ」
そんな加賀里の走りを見て、蘭華が目を細めた。
(よっし。残霊力無くなったけどこれで鈴風と同レコード。後は──)
召還を続けながら徐々に弱まる強化の身体で後一周を目指す加賀里。
(後、少し。これで──)
ピー。
だが、後数メートルという所でタイムアップとなった。
「ああーーーーーーー!」
叫んで地面に倒れこんだ加賀里が荒く呼吸を繰り返す。
「ちっくしょ……。同レコード、か」
「周回数で言えば、な。ただまあ、後半は補助を上手く使えていたぞ。後で遠藤に一言礼でも言っておくんだな」
蘭華が大の字になった加賀里へ言葉を残して、次の生徒へと足を向ける。
担任の離れた所へ加賀里の仲間が集まる。
「猛君。惜しかったね」
「猛の字、頑張った」
「タケが補助値を有効利用するとはな~。明日は岩でも降るかな」
倒れた加賀里を囲んで騒ぐ者たちを気持ち眩しそうに眺めながら、誓は準備を整える。
「さてと、行こうか」
既に二度復活している不知火を、特異能力の女王降臨で攻撃型となった環に砕いて貰う。
最大霊力値においては、誓より環がやや上。
しかし、防御値60%状態での守護精霊である不知火を楽に破壊するには、環本来の特性である特異型の攻撃値40%は勿論、60%の防御型や召還型でも厳しい。
そこで、基本型の中で唯一攻撃値100%を取る攻撃型の出番という訳である。
誓の守護精霊の三度目の破壊。
学園では初の出来事なだけに、少なくない者たちが注視せずとも視界には収めていたが──。
「蘇れ。不知火」
シンッ──。
その瞬間、学園にいる術士たちの身体を駆けたのは鼓動が止まるのではと勘違いする程の冷気。
次いで、一気に心臓が早鐘を打ちまくる。
その危険信号に、誰もが誓を注視せざるを得なかった。
そして体感を伴って実感する。
これが、目の前にいる少年が、紛れも無い国内ランカー……
火の第三位であると──。
環とリンクして固有スキルを発動させ、特異型に戻った環の女帝蹂躙で補助値と召還値を更に上げる。
今の誓は攻撃・防御値485%、補助・召還値585%で最大霊力値は20万超。
(カーブで下手に速度を下げるよりは多少距離を長くしてもマッハ数0.7くらいの速度で直線的に曲がった方が速いか? いや、一時の最高速度だけに拘るな。マキちゃんの特異能力で増した部分をフルに活かせる動きを確認していこう)
誓は環による能力増強の感触を確かめながら、互いの邪魔にならないよう、みんなの走る二回り外を駆ける。
「誓、速過ぎ」
「風使ってもこの速さの長期維持は厳しいってのに」
「一流の術士なら基礎となる動きが基本亜音速という話はよく耳にしますが、あくまで亜音速到達ライン……つまりはマッハ数0.3の話ですからね。その倍以上の速さを維持するとは、流石は誓さんです。ここから更に速く、強く、そして複雑に繰り出される攻撃など、武装型の私でも受けたくはありませんね」
誓が九十周、環が七周走り、蒼衣との勝負は97対48という倍以上の差で誓たちの勝ちとなった。
「火を使わずに、たった五分で七十二キロ以上ですって。く、覚えてらっしゃい」
「順当過ぎてつまんなーい」
蒼衣の捨て台詞に拍子抜けと、環が言いながら上半身をほぐすように伸びをする。
「ん、一応特異能力を警戒してたけど、それもなかったからね」
視界で形を変える魅惑のGの旋律から意識を逸らすように、努めて真面目に返す誓。
「はぁ~あ、汗掻いちゃった。誓くん一緒にシャワー行かない? 背中流してあ・げ・る」
瞬間、集うのは多くの野郎共の殺気と女子たちの好奇の視線。
「今後の学園生活のために謹んで遠慮します」
「オホン。そうだぞ愛埜。学園内ということを忘れるなよ」
学園内でお色気作戦を敢行しようとする環に、蘭華の注意がすかさず入った。
「もぅ~、冗談に決まってるじゃないですか。いくら私でも学園内じゃそんなことしませんよ。学園内じゃ……ね。ムフ」
集った視線に気づきたくない謎の圧力が加わる。
(何だこの外堀を埋められてる感)
野太い怨嗟の叫び声と黄色い賑やかしが、一際大きなグランドを駆け巡った。




