番外編 エミリア嬢と殿下
22年前のお話です。
どうしてわたくしはここにいるのかしら。
さっきからこの疑問が頭の中を離れない。
赤と黄を基調とした精緻な刺繍が施されたソファー。運ぶのに五人は人手が要りそうな重厚なテーブル。その上に盛られた色とりどりのお菓子。
そしてその向こうにいらっしゃる、なぜか緊張した顔の王太子殿下。
一介の侯爵家の娘が個人的に王宮に呼び出されただけでもおかしなことなのに、この状況は今からお茶でも楽しみましょうとでも言いそうなもの。目の前にいる人が落ち着かなげに視線をさまよわせていなければだけど。
でもわたくしは殿下とそれほど親しくはない。
最近は暗殺未遂事件のせいでよく顔を合わせていたけれど、そのことがあったからこそ話をする機会ができただけで、それ以前は言葉を交わしたこともなかったのよ。
その事件も一応は収まって、ロザリー改めローラは昨日王都を出立した。
それなのにわたくしにまだ何の用があるというのかしら。
もしかしてローラの身に何かがあったのかしら。だからこんなに落ち着かなげにしていらっしゃるの。
「殿下、ローラに何かありましたの?」
「は?」
わたくしが真剣に聞いたというのに、殿下はまぬ・・・いえ、唖然としていらっしゃる。
「ローラですわ。彼女は無事ですの?」
「あ、ああ、しっかり護衛に見張らせているから問題ない」
「そうですの。ありがとうございます」
ほっと息を吐いた。
でもそれなら尚更わたくしがここにいる理由がわからない。わざわさお忙しい王太子殿下が、時間を割いてまで呼び出すなんて。
「話があるのだ、エミリア嬢」
「はい」
それさっきも聞きましたわという言葉を飲み込んで、素直に頷く。
「その・・・この間、言っていただろう。私の願いをなんでも一つ聞くと」
「はい。言いましたわ」
そういえばそんなことありましたわね。
ローラとローラの家族の安全を優先していただくための説得をしている時に、なんでも言うことを聞きますと言ったのだったわ。
なぜそんなことを口走ったかというと、王太子殿下が貴族の娘に無理難題などふっかけないだろうと思ったから。
わざわざわたくしなどに言うことを聞かせようとしなくとも、唯一の正当な跡取りであられる殿下の願いを聞き入れたい人間は山ほどいるし、殿下は紳士なので女性を困らせるようなことはしない。
でもなんでも言うことを聞きますからという説得に効果があるとは思わなかったわ。何をおっしゃるつもりなのかしら。
「だから・・・私の妃になれ」
「あら・・・」
思わずびっくりしてしまう。
そうよ。そうだったわ。すっかり忘れていたわよ。
わたくし王太子妃の有力候補でしたわ。コーデリア嬢が妃になれなかった場合は、わたくしが殿下と結婚するだろうって言われていたのよ。
コーデリア嬢が病弱なせいで、お父様はわたくしが王太子妃になる可能性も高いと踏んでいたのよ。おかげで夜会などにもあまり出席せずに済んでいたのだけど、お二人が正式に婚約したから、わたくしも夜会にたくさん出なくてはいけなくなったのよね。夜会って苦手だわ。
お父様がじゃじゃ馬な性格がバレないように、あまり口を開くなと言うのだもの。黙って笑い続けなければいけないなんて苦行よ。
だいだい結婚相手を見つけるために出席するのなら、あんなに何度も出る必要はなかったのじゃないかしら。相手なんてすぐに見つかったはずなのよね。だってわたくし美人ですし。
でも、それにしても既にほぼ決まっていることに、言うことを聞かせる権利を使うなんて、殿下って意外といい人なのね。
「・・・嫌なのか?」
わたくしが思案に耽っていたせいで、殿下は嫌がっていると思われてしまったようだわ。
なんだか顔色が白いけれど大袈裟ね。正式なお話ならわたくしが断れるはずもないし、そうではなくとも何でも言うことを聞くと言い出したのはわたくしなのだから、前言撤回などしないわ。
でも嫌かどうかと聞かれたら、なんて答えればいいのかわからなくなってしまう。
だって殿下の妃になるということは、その後すぐに王妃になるということよ。わたくしまだ十代ですのに、王妃だなんて荷が重いわよ。お父様から王太子妃教育は受けさせられたけど、誰も一足飛びに王妃になるなんて思っていなかったわよ。
「わたくしに王妃が務まるでしょうか」
「大丈夫だ! エミリア嬢ならできる。それに父は政から退くが、母はまだ現役だ。よくよく気にかけていただくようにお願いしておく」
身を乗り出して殿下が力説してくださった。
でもそれって大丈夫なのかしら。
嫁と姑の確執って凄まじいらしいのよ。姑にいびられまくって、惨めな思いをしている女性は、男性が思うよりもかなり多いってお母様が仰っていたわ。
王妃様はお優しそうだけど、どうなのかしら。
「不自由な思いはさせないぞ。何か希望があるなら言ってみるがいい」
殿下がふんぞり返って、気を取り直したように偉そうに言う。
紳士だしいい人だと思うけれど、殿下のこの威圧的な話し方は好きではないわ。お父様そっくりなんだもの。
「希望ですか? では夜会に出た時にたくさんおしゃべりしても構いませんか?」
お父様のことが頭に浮かんだから、なんとなく言ってみた。
「もちろんだ。好きなだけ話して構わない」
あっさりと許可してくださって驚いた。殿下はもう、大人しくないわたくしをご存知なのに、それでもいいと言ってくださるなんて。
「それだけか? 他には?」
「えっと・・・では乳母や他のメイドも何人か連れてきてもいいでしょうか」
「お安いご用だ」
これにもあっさり承諾してくださる。
「・・・定期的に訪問している孤児院が資金不足ですの」
「厚生大臣に掛け合ってみよう」
難易度を上げてみても同じだわ。打てば響くような快諾ぶり。
今なら国で一番高い宝石が欲しいと言っても、叶えてくれそうな気配すらするわ。
駄目でもともと。わたくしは思い切って言ってみた。
「跡取りの弟が外国留学したいと言っているんですの。でも父が反対していまして・・・」
「侯爵を説得してみよう」
わたくしは呆然と殿下を見る。
「本当ですの・・・?」
「ああ、さすがに強制はできないが、責任を持って説得しよう」
なんてこと。やったわ!
「ありがとうございます、殿下!」
満面の笑みで殿下にお礼を言う。こんなことまで叶えてくださるなんて、いい人どころではないわ。すっごくいい人よ。
最近はずっと塞ぎ込んでいた弟に、早く教えてあげたい。
お父様とそっくりだなんて思ってごめんなさい。全然違うわ。あんな石頭と殿下は似てないわよ。
「なら、私の妃になることに異論はないな?」
「まあ、異論だなんてあるわけございませんわ。お心遣い感謝致します、殿下」
わたくしは上機嫌で返事した。
「う、うむ」
殿下は嬉しそうな、そうでもないような、複雑な表情をなさっている。まあ、急に婚約者が変われば、それは複雑よね。
「なら、よい」
それでも納得したように頷いてくださる。
わたくし殿下となら上手くやっていけるかもしれないわ。初めの頃の印象とは随分違う方みたいだもの。
政略結婚でこんなに良い方と結婚できるなんて、わたくしはとても運がいいわ。お願いもたくさん聞いてくださるし。
でもそういえば、どうしてそういう話の流れになったのだったかしら。
「あなた、どうなさったの?」
晩餐の席で何度もこちらに視線を投げかける夫に尋ねる。
言いたいことでもあるのかと思っても、そうではないらしい。
「いや、なんでもない」
と言って目が合えば逸らされる。
このところこんなやり取りが多いわ。一体どうしたのかしら。
訳がわからないから、同席している下の息子を見てみる。何か知っているかもしれない。
だけど子供の頃から可愛げの欠片もない息子のレオンは、なぜかわたくしを責めるような目で見ていた。ますます訳がわからないわよ。
まるでわたくしが夫に酷いことをしたのだと言っているみたいだけど、心当たりはないわ。でも何の根拠もなく、人を非難するような子ではないのよね。
知らないうちに何かしてしまったのかしら。
夫と息子の態度に、なぜか罪悪感が募っていくわ。
「あなた、本当に何もありませんの?」
「う、うむ、ない」
夫とは反対方向から、ため息が聞こえた。
「でも最近元気がありませんわ。何かあるのなら仰ってくださいね。わたくしにできることなら何でもしますから」
「・・・何でも?」
「ええ、何でもしますわ。あなたが元気になってくださるなら」
「そ、そうか。・・・いや、しかし今はしてほしいことはない。近いうちに出てくるかもしれないが」
夫はちょっと機嫌がよくなった。
このなんでも言うことを聞くから、というのはとても効果があるのよね。たいていこれで夫は気分を持ち直してしまう。たいしたことなんて言わないのに、不思議な人だわ。
でもこれで文句はないわよね。そう思って息子の顔を見る。
小憎たらしい息子は、これ見よがしに盛大なため息を吐いた。