番外編 エレンの葛藤3
あの夜会でエレンはあの後、すぐに帰ってしまった。
理由はなんとなくわかる。顔が真っ赤になっている彼女を見て、お兄様が熱でもあるのだと勘違いしたんだろな。恥ずかしがっているからなんて、考えつくはずがない。
あれはちょっと失敗だったかもしれない。
反省したわたしは次の作戦に出ることにした。
そもそもエレンとお兄様は、基本的に夜会でしか会うことはない。お年頃の貴族の子女というのはそういうもので、それ以外の場所で会う場合は、結婚を視野に入れたお付き合いをしていると見なされるからだ。
でも例外はある。知り合いの家に用事があって訪れる場合だ。その家の家族が、客人をもてなすのは自然なことだし、外で会っているわけでもないので、変な噂も立たない。
そいういわけでわたしはエレンをハーレイ伯爵邸に呼び出した。もちろんお兄様の仕事が休みの日に。
ちゃんとお兄様には、一緒にお茶をしましょうと伝えている。エレンには教えてないけど。
それにしても最近はお兄様に頼みごとを何度もしているせいか、変なスキンシップをとろうとしたり、外で会えばすぐに追いかけて来たりといったことをしてこない。
なんだかちょっとだけ兄妹仲がよくなった気がする。エレンのおかげだろうか。
そのエレンを応接間に案内すると、彼女は入口で足を止めた。見事に固まっている。
「やあ、こんにちは、ティリル嬢」
お兄様がにこやかに挨拶すると、エレンはすごくゆっくりとした動作で腰を落とした。
「ごきげんよう、ハーレイ様」
ソファーに座りながら、エレンはどういうことだと目線で訴えてくる。そりゃあ、見たまんまの状況でしょう。
とにかく会う機会を増やさなくてはね。
実はわたしはこの二人が、普段どんな会話をしているのかが、すごく気になっていた。
夜会ではお兄様もエレンも猫を被っているので、本来の姿じゃない。行き帰りの馬車のなかでどう過ごしているんだろうと思っていたのだ。
婚約者ではなくただのパートナーなので、エレンのメイドも同乗してはいるけれど、会話には加わっていないはずだ。
何の話をしているのか、とても興味深い。
「今日はちゃんと家の人と一緒に来たのか?」
のっけからお兄様の子供扱いが飛び出した。
そりゃあそうでしょう。ウチに来るだけなんだから、他人に送ってもらう必要なんてないし、一人で来るわけもない。
わたしはお兄様に注意をしようとしたけれど、エレンの方が早かった。
「わたくしは子供ではありませんと言いましたでしょう! 外に出る度に心配されるなんて心外ですわ!」
いつもとは違う理由で顔を赤くしている。
「そんなことを言っているからさらわれるんだろう。ちゃんと用心しろよ」
やっぱり誘拐されかけたと思っているんだろうか、この人。
「ほっといてくださいな! もうあの時のようなことには絶対になりません!」
あなたもほっといてとか言ってどうするの。
なにこれ。もしかしていつもこんな感じなの。
「お兄様、そこまで心配することはないです。エレンだってわたしと同い年なんですから。わたしにそんな心配はしないでしょう」
でもなあ、とか言っているお兄様に一言添えておく。
「えっ、同い年なのか?」
なぜ驚くの。社交界デビューしているのだから、少なくとも十六歳ではあるでしょう。
「そうですわ。十六なのですから、結婚だってできる年なんです!」
エレン・・・何も考えずに言っているのでしょうけど、相手がお兄様じゃなかったら、遠まわしな催促に聞こえるわよ。
「そうか、そうだよなぁ・・・。でもそれならもう、あまり夜会に一緒に行かない方がいいんじゃないか」
「えっ、そ、そんなことはありませんわ」
エレンはさっきまで怒っていたというのに、あたふたと否定する。
「でも俺と噂になるかもしれないだろう。俺はティリル嬢と違って、結婚したがる令嬢がいないから、噂になったら面倒だぞ」
別にいないわけではない。地位目当てだけど。
どちらかというと、エレンが結婚相手に困っているわけだけど、そこは訂正しないでおく。
「そんな、お相手がいないなんてこと、ないでしょう。きっとたくさんいらっしゃいます・・・」
何を思ってそれを言ったの。惚れた欲目なのだとしたら、ちょっと盲目になってないかしら。
確かにいるけど、お兄様の上っ面しか見ていない人だけだわ。
「はは、全然いないぞ」
そしてそんな人たちだけであろうと、存在していることも気づかないお兄様。
「エレン、本当にそんな人、全っ然いないわよ。十年経っても現れないんじゃないかって、家族全員で心配しているもの」
わたしはエレンを安心させるために、お兄様の勘違いに乗っかった。
「十年経って現れるならいいけどな。結局どっかのお嬢さんに無理言って、結婚してもらわないといけないかもなぁ」
「そんな結婚してはいけませんわ!」
エレンは驚いて止める。まあ、好きな人がこんなこと言ったら、納得できないわよね。なんで嫌々結婚するような女に渡さないといけないのかと思うわよ。
「いや、そうなんだが、それだと結婚できなくなるし」
「でしたらわたくしがします!」
身を乗り出してエレンが言った。
・・・・・・・・・あれ?
気のせいか、今ものすごく大胆なことを彼女が言ったような。
エレンを見ると、石になってしまったかのように動きが止まっていた。そして顔だけがじわじわと赤くなっていっている。
お兄様に目を向けると、そんな彼女をきょとんと見ていた。
沈黙が落ちる。
わたしが何を言うべきかと考えていると、お兄様が口を開いた。
しかし言葉を発する前に、普段の様子からは想像もできないくらいの素速さで、エレンが行動した。
「失礼いたしますわ!」
言うなり部屋を飛び出し、疾風のように去っていった。
「「・・・え?」」
思わずぽかんと見送ってしまう。
何が起こったのか冷静に考えようとした。
いえ、違うわ。そんなことしている場合じゃない。エレンを追いかけないと。
エントランスへ行くと、帰ると言い張るエレンをウチの執事が必死に押し止めていた。
彼女の様子から、わたしかお兄様が粗相でもしたと思ったのだろう。いい判断だわ。
「エレン、待って」
声をかけると、彼女の全身がびっくぅと揺れた。振り返った顔はもう、泣き出す寸前だ。
「落ち着いて、とりあえずわたしの部屋へ行きましょう」
「いやよ! 帰らして」
そうね。今はお兄様がいるこの家にはいたくないわよね。
「だったら送るわ。馬車を出してちょうだい」
執事に命じた。
とにかく今は一人にしてはいけない。ただでさえ不安要素を抱えているのだから、何をするかわからない。
ちゃんと話をしないと。